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コミュニティとは何か?(帆足亜紀×菊池宏子)

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2017.01.24

対談メンバー

帆足亜紀さん(アート・コーディネーター/横浜トリエンナーレ組織委員会事務局プロジェクト・マネージャー)
菊池宏子さん(コミュニティデザイナー/アーティスト/米国・日本クリエィティブ・エコロジー代表)

エンゲージメントの質感を考える

帆足:コミュニティについて考えるとき、私たち「横浜トリエンナーレ(以下、横トリ)」では、サポーター(ボランティア)さんとの関わりが真っ先に挙げられます。トリエンナーレが開催されない年でも大学生から70歳くらいの人まで、アートという共通の話題を通して、毎月集まってコミュニケーションをとっているんです。しかも、何か一つの目標に向かってというより、それぞれ関心を持っていることをそれぞれが深めるために。そうした姿を見ていると、都市におけるコミュニティ形成について考えさせられ、またその可能性を感じます。

最近、サポーターさんと付き合うための「規約」の内容を見直しました。実は、以前のものには「業務」というような記述があったり、登録手続きが明記されていなかったり、2008年頃に作成されたものがほぼ踏襲されている状態だったので、2015年現在の活動と一致させようと。仕様書ではなく規約なので、趣旨・目的に始まり、活動の内容など整理しました。サポーターさんと代々お付き合いしてきたにも関わらず、基本的なルールが後手に回ってしまっていたわけです。

ところで、サポーターさんとの関係性もその一つだと思うのですが、コミュニティとの付きあい方を「エンゲージメント」という言葉で表した場合、相手との距離、その範囲あるいは多様性など、どのようなかたちを目指すとうまく関係構築ができるのでしょうか?

菊池:「付き合い方」は感覚的なものと思われがちですが、状況やそこにまつわる人、社会的・経済的要因など様々な事柄が影響します。端的にお答えすると、そうしたコミュニティにおける「関係性の構築」は、小さな決断の連続。一人一人の状況を俯瞰してみながら、エンゲージメントの対応策を「決めるしかない」というのが正直なところです。もちろんそこには、決めるための技術などがあります。ただ問題は、組織のなかでエンゲージメントに関して決断をする人やそのチームがいないということです。表面的にエンゲージメントの概念や手法を取り入れていくと、本来得ようとしている信頼を損なう場合がある。そのためにも、現場の人の教育が急務です。具体的には、ボランティアコーディネートをするにも、心理面やファシリテーターの知識などが必要です。

帆足:コーディネーター不足が一番の問題ですよね。専門職の不足もさることながら、いろいろな人をまとめる必要があるため、ある程度人生経験がないと現場をマネージメントできないと思うのですが、いかがですか?

菊池:そうだと思います。アートのことを知っているよりも、社会のこと知っていることのほうがよっぽど重要な場面が多くある仕事です。そして経験がなくてもうまく周りを信頼して、頼ることができる人は、この仕事に向いているとも思います。なかでも「聞く力」が非常に大事だと感じます。相手が何を言おうとしているのかほんとうのところで理解したり、わからないことはわからないと伝えたり、人をもてなす時にどうゆうことをしたら相手が喜ぶか想像したり。普通の感覚をいかにプロフェッショナイズさせていくのかということが大切だなと思います。

一方で、「コミュニティ」は、ハッピーなものではなく、そもそもややこしいものであるという前提に立つことも大事です。だから育む必要があるし、多様だからこそおもしろい。例えば、ボランティアさんのなかには、自分のアートの知識を共有したい人がいたり、何かわからないけど楽しそうだからと参加したり様々な人がいます。その動機を見わけるコーディネーターがいないと関係を深めることも、広めることもできません。その際、家族や恋人など近しい人に接するように自分を曝け出すのではなく、公共的な付き合いでは、場に応じた「仮面」を被って付き合いますよね。つまり、そのなかで自分の役割を見出すのがコミュニティづくりの第一歩です。

エコロジーを意識した活動をする

帆足:日本においては、建築の分野でコミュニティ・デザインの議論が進んでいるように感じます。菊池さんが関わっているコミュニティ・デザインは、ハードというアウトプットと対になるソフトではなく、アーティストの表現活動と地続きで、「ソフトそのもののデザイン」を指しているのではないかという印象を受けます。また、アーティストがコミュニティに関わることを前提にしたデザインですよね。

横トリのサポーター活動もソフトづくりなのですが、個人が日常の属性を背負う必要のない、いわば中立的なコミュニティをつくっていると思います。そして、ある程度コミュニティが形成されると、いつでも集える拠点が必要になってくる。場所があることで活動を維持するだけではなく、発展させることができます。しかし拠点づくりはそう簡単ではなく、いろいろなルールの壁にぶつかります。また拠点が発展すると施設管理のようになってしまい、人ではなく場所を維持・発展することに目的がずれてしまう危険性もあります。

サポーター活動のフェーズ毎に必要な環境が整えられるといいなと思いますが、どんなスキルを持った人が必要なのでしょうか?

菊池:ハードかソフトか、そのバランスとタイミングを決めるのはとても難しいですよね。仰る通り私は、ソフトから関わることが多いなかで、人材育成というのは、単純に技術や知識だけを教えるだけで成立するものではなく、もともとの適正もあると考えています。ただ、やれることはあります。

例えば、『あいちトリエンナーレ2013』のガイドボランティア研修に関わったのですが、そこでは、自分の言葉を持ち、そして自分の意志で責任ある行動ができるガイドボランティアの育成を目指しました。そのため、責任ある行動ができる力(プロ意識と品格)、伝えたい気持ちを伝える力(コミュニケーションリテラシー)、まわりを見渡せる力(社会性・順応性)、人の思いを瞬時に読み取る力(洞察力と観察力)などの養成を目的とした研修内容を組み込みました。

また私の場合は、心理カウンセリングを取り入れた研修を受けて、相手の気持ちに立って物事を判断する方法を教わりました。ボランティアさんのクレーム対応は、カウンセリングと似ている部分があるんです。あくまで一例ですが、最初は「そうですね」とひたすら同調して、思いの丈をすべて言ってもらうと、だんだんと当人が「あれ? もしかしたら、私、言いすぎかもしれない」と気づく。そこで最終的に「みんな至らないところがあるけれど、一生懸命やっています。もし私たちの活動でできることがあると思ったら、手伝ってくださる気持ちはありますか?」という投げかけをします。そうしたプロセスを経ると、ネガティブなエネルギーが少し解消されることがあるんです。これは、一人一人の対応をするしかありません。

帆足:一人一人との対応というのは、とてもよく分かります。横トリは2011年の4回展まで、3年毎の開催なので、1回の会期が終わるたびに事務局が実質的に解散していたんですね。せっかく形成されたサポーターのコミュニティの行き場がなくなってしまうという問題がありました。

開催年にはいろいろとお手伝いしていただきたいことがあるので、「助けてください」と声をかけるのに、それに向けてのプログラムが未整備だった時期もある。今は横トリの事務局もサポーターの事務局もともに、細々とでもいいので中間年にも活動を継続できるようにしたんです。

菊池:継続的な活動をするのは大変ですよね。実は、私は「助けてください」という考え方には、少し違和感を持っているんです。これは一方のメリットの比重が高い印象を与えてしまいます。短期的にはこの原理は成立しますが、双方が継続的に関われる仕組みや関わりを体現することに主軸を置いた「エンゲージメント」にはなりません。また、オンとオフのメリハリも大事です。国際芸術祭のように2、3年毎の開催の場合、開催年ではない時も同じような力で走っていたら、全員倒れてしまいます。

なので、ピーク後のインパクトエコー(共感・共鳴段階)は、責任の移行期とも考えられます。つまり、一度参加してくれた人が再度関わるのか、または別のどこかに関われるような代謝や循環が起きる仕組みをつくる必要がある。例えば、絵を見るのが好きな人だったら、ほかの美術館の教育普及プログラムや、ナビゲーター養成講座を紹介するなど、次のステップをいくつか示すようにするということです。関わった人たち引き戻すことだけが、重要なのではなく、共有した知識や体験を別の場所で生かしてもらうことで、もっと大きなアートサポーターのエコロジーが生まれると思っています。

帆足:以前の横トリにはインパクトエコーのフェーズがなくて、会期とともに全てがリセットされていたのだなと思います。「移行」というフェーズが入ることで代謝と循環を促すということですね。サポーター自身もそのフェーズを経て育つ、あるいは、巣立つことができるわけですね。

コミュニティ・エンゲージメントの評価を問う

帆足:以前、あるプロジェクトで小学生とワークショップをして、その成果を駅前の広場に壁画にして残したいというような趣旨の相談を受けたことがあります。参加した子供とその親は喜ぶかもしれませんが、果たしてそれでいいのかと悩んだことがあるんです。関係者以外が関心を持てるような内容に仕上がるのか。仕上がらない場合公共性は担保されないし、駅前のように大勢の人が見る場で展示をすれば、アートの普及につながると考えるというのは安直です。しかし、昨今コミュニティづくりの文脈で、こうしたことがよしとされ易くなっている現状があります。

美術館に展示する作品のアカウンタビリティは批評が支え、経済的なアカウンタビリティは会計システムが支えるなど、アートに関わるいろいろな要素にアカウンタビリティが伴うとすると、コミュニティを巻き込む際に行われるワークショップなどに関するアカウンタビリティは十分に議論されていないと感じます。

菊池:同感です。市民参加によって制作される公共アート、そして子供などが関わるワークショップや教育普及プログラムなどの評価軸を編み出すことは、今後の課題ですよね。アンケートをとって終わりではなく、誰が事業のプロセスに対する決定をし、責任の所在をはっきりさせるかというアカウンタビリティの問題が挙げられます。また「公共=すべての人」ではなく、鑑賞者や対象となるオーディエンスをある程度想定しながら、そしてそこに特化した評価軸を長期的に考えるべきだと考えます。これからはセクターを超えて、数量的なものだけではなく、質やソーシャル・インパクトなどを多様な視点から示す必要がありますね。

子供や障害者など周縁化された人を対象とした企画をオーダーされた場合、どれだけそれを受け止められるかという「しなやかさ」と「抵抗力」が必要だなと思います。つまり、「社会的に正しいから」と受け入れて、加工調理せずにそのまま出してしまうのは非常に良くない。一度議論の土台に上げてから判断することで、同じ結論になったとしても、アウトプットの質は大きく異なります。なぜ、何のためにやるのか、判断基準を一つひとつつくっていくことが、手間はかかるものの一番の近道です。

「人材」を育てる環境をつくる

帆足:日本でコミュニティを巻き込む、いわゆる地域型プログラムの担い手の多くは若手作家です。若手作家がコミュニティと関わる際、社会経験が未熟な可能性もあるわけです。その時、コーディネーターは、どのようにその作家をコミュニティに届けるのか、よく考えないといけないなと思っています。若手作家にとっては社会経験を積む機会となることでも、コミュニティに大きな負担がかかることもあります。相手と関わる技術がないと作品さえつくれません。

一方で、プロセスに参加した人たちの満足度を評価するべきなのか、プロセスを経てでき上がった作品を評価するべきなのか、その辺りの手順と評価も、まだ整理されていないように感じています。

菊池:まずアーティスト主体でコミュニティを巻き込む場合は、アーティストという肩書きではない一人の人間として、その地域のコンテクストに自分を当てはめて考えることが必要。溶け込むということではなく、自分の立ち位置の確認です。その上で「関係性の構築」を視野に入れることが非常に重要だと思います。どうのように関わる人々を尊重しながら作品のアウトプットに向かうか、きちんと評価されるべきです。そのために、アーティストと参加者と話して、両者とコミュニケーションを円滑にするコーディネーターの存在がとても重要になります。

一般的にアーティストは、言語を使うコミュニケーションが不得意な傾向があるので、アートを通じて他者と対話をしている部分がありますが、そうであれば尚更、代弁者を味方につけるという意識が必要であり、双方のコミュニケーションを円滑にするコーディネーターの存在が重要になります。

帆足:昔のように評論家だけではなく、コーディネーターやエデュケーターが代弁者になる必要がありますね。

菊池:そう思います。近年アメリカでは、「エンゲージメント」という言葉を使った組織がアート業界で増加してきているんです。事業の大きさに関係なく、コミュニティ・エンゲージメントを統括する人材や役職、そして組織の理念として地域コミュニティとの連携・共同を掲げている団体が多数あります。

というのも、一例としてまたボストン美術館を出しますが、美術館の愛好者というのは、高齢化した白人女性が主流と言われており、平日の日中に時間があって、働かなくてもいい富裕層の人たちがメイン。その層が代替わりすることを考えると、美術館の経営が厳しくなることは目に見えている。そこで、近くを見ながら、遠くを見るというデザインが求められているわけです。つまり、新たなオーディエンスを増やすという短期的な発想ではなく、長期的に美術館に関わる人を育むという方針。オーディエンスの多様化によって、美術館に対するニーズが変わり、働き手も多様化し、そして同時にコレクションやプログラムなどの多様化が図られ、組織の変容へとも結びついた大きな構想です。

そこで手がけたプログラムの一つに、次世代の観客・働き手を育てるために、キュレーターの解説(キャプション)の脇に、地元から雇用した高校生が、解説を書くというシンプルなプログラムを実施しました。キュレーターの歴史的、美術的文脈とは違って、専門家ではない視点が同時にあることによって鑑賞の入り口が増え、「これは誰が書いたんですか?」「こんな風に観ていいんですね」など、作品を捉える発想が広がります。本当にいろいろな反応が出ました。さらに、高校生たちの解説をコレクションの一部にして、美術館所蔵作品のものであれば、他館に貸し出す場合は、解説も一緒に展示されるような仕組みにしました。つまり、一度やって終わりではなくて、彼らの言葉が長く残るようなシステムや、同時にトークセッションを開催することによって、普段は来ない人に対してもアプローチするプログラムづくりをしたんです。

この時大事にしたのは、「子供がやるからすごい」という感想に回収したくなかったので、高校生の解説であることをわざわざ表記しなかったことです。しかも、美術館側は高校生の文章を一切編集しなかったんです。

帆足:編集しないという編集方針が出たんですね。それがあるとないとでは、大きな違いですね。

菊池:そうなんです。この判断をしたのは、普段美術館内のすべての解説の編集をしている人なのですが、なぜこのプログラムをやるかを理解してくれたので、文法の間違いも含めて、高校生の感覚をそのまま活かしてくれました。ボストン美術館のような権威的な存在だったからこそ、より未編集の意味は大きかった。それによって、鑑賞者に彼らの生の声が届いたんだと思います。

こうしたコミュニティ・エンゲージメントを体現化したようなプログラムを美術館で実施して思ったのは、この人たちは何がしたいか、長期的なスパンに立ってわかりづらい成果を翻訳する、言語化する役目があるということです。それは数値的な方法ではできないことで、「プロセスの質」をどう表現するか多くを考えさせられました。

帆足:水戸芸術館で毎年開催している『高校生ウィーク』も同じようにアートを介して高校生の自主性を育くむ土壌をつくっていくような取り組みだったかと思います。日本でもこうした取り組みはないわけではありませんが、まだ模索中のような印象を受けます。

いま私たちは、例えるならば、「美しく見えるお花畑を手順に沿ってつくってください」という仕事を求められているように感じることが多くあります。お花は何色何本揃えて、背の高いものと低いものとうまくアレンジして、というようにアウトプットのイメージが固定化しているというか。でも本当は、畑は耕し方や肥料が大事で、その過程がエンゲージメントと呼ばれるものだと思うんです。つまり、そのプロセスによってアウトプットが変わってくるという経験のことですよね。

これから東京オリンピック・パラリンピックに向けて、公的資金が投入されることによって「こういう風景が見たい」という風にアウトプットの形を示されて実施するようなプロジェクトが増えてくるのではないかと危惧しています。そうした時に、「アートは、耕すプロセスに価値がある」という当たり前のことをきちんと明示していかないといけないと思っています。

菊池:仰る通りだと思います。

帆足:少し話がズレてしまうかもしれませんが、オーダーする側は、定型の手続きで進められるもののほうが楽なんです。極論を言うと、でき上がったアートが本質的につまらなくても手続がうまくいくと満足できるし、プロセスとアウトプットが一致するからです。一方、クリエイティブな活動に時間を割いている人たちは面倒な手続きや交渉はしたくない。そのため最悪のパターンとして、オリンピックを経て、結果的に安心安全のどこでもあるアートがコミュニティを占領してしまって、新しい価値を生み出す創造性を持つアーティストはそこからスピンアウトしてしまう。あるいは、アンダーグラウンド的にやるなど、公的資金に頼らない場所でやっていく状況さえも想像します。

どこで活動するかはアーティストの自由ですが、本来公的資金が注がれるべきところに注がれないという状況が発生したとするとそれは本末転倒ですし、公的資金だからこそ、広い意味で文化の形成に関わることができるという文脈が崩れてしまいます。そのあたりもバランスだとは思うのですが、大変悩ましい問題です。

菊池:「耕すプロセスの価値」というか、短距離走ではなくてマラソンのような持久力のあるアートが、公的な面からも後押しされ、増えるといいと思います。同時に、私はアンダーグラウンドやオルタナティブな場にいた人間なので、限られた人のなかでしか評価されない場も好きです。なので、アートの表現の場が重層化することが望ましいと思っています。

また、価値観は時間をかけて形成されるものなので、大学などの教育機関と一緒につくりあげていくことが、その手立ての一つになると思います。アーツマネジメントを専門とする学部や学科も増えてきましたよね。そこでの教育にも期待したいところです。

帆足:現代アートを扱っている美術館や組織は、非常に少ないです。つまり、美術館への就職を考える場合は、現代アートを扱うチャンスは少ない。一方、アートプロジェクトの数が増え、現代アートの現場はむしろまちなかにあります。建物や制度の外にあることはアートにとって決して悪いことではありません。ただ、一過性のイベントではなく、文化を育む活動としてのアートプロジェクトを考える時には長期的な展望が必要になり、その長期的な展望を示す機能を美術館は持っているのではないでしょうか。

例えば、プロジェクトが美術館とまちなかを往来し、そこに関わる人材も、美術館で働くこともあれば、コミュニティに携わることもある、というような状況がつくれるといいなと思うことがあります。アートは場所ではなく必然性を選ぶものだと思うので、必要とされる場所でアートが生きるよう、様々な現場に対応できればと思います。

菊池:「人手」ではなく「人材」を育てるためには、その環境づくりを行うために政策提言をしていく必要があります。そうしないと、表面的な理想論で終わってしまい、成果が見えず資金もつかないという負のサイクルに入ってしまいます。

世のなかには、経験を積まないとできないことが多くあります。しかし、経験がすべてではない。相談できる先輩がいて、経験や人脈、ノウハウを共有できるような環境をつくることが大事だなと常々思っています。経験がない人の経験をつくる、それをサポートする人材も必要です。

帆足:やはり人材育成は、肝ですね。「耕す」という態度が私たちの働き方につながっていますし、コミュニティというのは、その質感が一番表れる場所だと思います。

対談日:2015年10月21日

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