「しゃべりながら観る」テキストデータ いち 表紙から二十七ページまで このテキストは読み上げ機能を使用して読まれるかたを対象に作成しています。 読み上げ機能で文意がなるべく正しく読まれるよう、カタカナやひらがなに変換するなど、書籍の表記より一部変更や加筆をおこなっています。 また、「ページ解説」として、本にえがかれているイラストやデザインを説明しています。 このテキストデータでは、表紙から二十七ページまでのテキスト情報を掲載しています。 (表紙) タイトル 「しゃべりながら観る」 著者 シラトリケンジ かける サトウマイコ 発行 アーツカウンシル東京 表紙の説明 七人ほどの人が集まって、何かを見ながら話している様子が、イラストでえがかれています。そのまわりを、丸いふわふわとしたものが、ただよっています。このふわふわした部分には、膨らみが出るように紙が加工されています。 表紙の色は白で、人物は青と赤でえがかれていて、まんなかに「しゃべりながら観る」というタイトルが大きくかかれています。 (表紙のうらのページ) もくじ 一ページより 全盲の美術鑑賞って、どういうこと? 四ページより、はじめて美術館に行ったのは、彼女とのデートでした。 八ページより、現代美術との出会いが、わたしを変えてくれた。 十二ページより、盲人らしくないことがしたかった。 十四ページより、白鳥さんに作品を説明しても、ほとんど無反応でした。 十六ページより、作品を観た人の印象や思い出を知りたい。 十八ページより、会話しながら観ると、驚きと発見の連続です。 二十ページより、饒舌ではないからこそ、自由に考える隙間がある。 二十二ページより、美術館では自分らしくいられる。 二十四ページより、「わからない」からこそ楽しい。 二十六ページより、しゃべりながら観るのが当たり前!? 二十八ページより、なんでしゃべるんだろう? シラトリケンジ かける サトウマイコ 三十八ページより、シラトリリュウ 会話型美術鑑賞のすすめ 四十ページより、シラトリリュウ 会話型美術鑑賞をやってみよう! 四十四ページより、美術館は温かい場でありたい オオサカエリコ(こくりつシン美術館長) 四十六ページより、あとがきに代えて モリツカサ(トーキョーアートリサーチラボ ディレクター) もくじおわり (本文) (1から2ページ) タイトル 全盲の美術鑑賞ってどういうこと? はじめまして、シラトリケンジです。全盲の美術鑑賞者として、鑑賞会などの活動をおこなっているのですが、「目が見えないのに、どうやって観るの?」とよく聞かれます。 「作品を触ったりするの?」「作品を具体的に説明してもらって、その作品をイメージするの?」といった質問もあります。 誰かと一緒に作品を鑑賞するわけですが、まずはその作品がどういうものかを説明してもらいます。 ただ、作者のことや作品が描かれた背景といった情報は、話さないようにお願いしています。 最初にそういう情報を聞いてしまうと、「へえ、そうなんだ」で終わってしまうからです。 その作品がどういう大きさなのか、どういうものが描かれているのか、どういう色なのか、どういう印象を受けたのか、どう思ったのか……。説明に正解、不正解はないので、主観で好きなようにしゃべってもらっています。 説明を聞いても、僕は具体的な像をイメージできるわけではありません。 例えば、赤いコップがあると言われても、視覚の記憶がないので、なんとなくのイメージを浮かべるだけ。 私は幼いときからほとんど見えていなかったので、どれほど正確に説明されても、具体的にイメージはできません。 でも、赤色とコップというものの概念は知っているので、僕なりに理解しています。 ならば、僕は何を観ているのか、何を楽しんでいるのか、不思議に思う人もいるかもしれない。 作品を楽しんでいるのもあるけれど、それよりも作品を観た人たちの会話だったり、独特の視点だったり、想定していなかったような方向に話が広がったりすることを楽しんでいます。 美術を鑑賞するという時間と場を誰かと一緒に過ごすことが嬉しいのです。 僕は「美術好き」ではなく、「美術館好き」です。美術館という空間、そこで過ごす時間、美術館で起こる出来事、併設されているレストラン、美術館までの道筋、そして鑑賞を終えた後のビール……。そういう美術館に関わるものが大好きなのです。 このような美術鑑賞の楽しみ方を「シラトリ流・会話型美術鑑賞」とでも名づけたいと思います。 作品が好きというよりも美術館が好きというのは、僕が目が見えないからだと思っていましたが、どうもそうでもないらしい。友人でこの本の共著者でもあるサトウマイコさんも同じ思いでしたし、鑑賞会をしてみると、同じような人がいっぱいいることに気づきました。だから、美術館という存在に距離感を抱いていて、あまり足が向かなかった人も、もっと気軽に美術館に行ってほしい。そして、もっと気軽に会話しながら作品を観てまわったら、もっと楽しいことが起きるよ、というのが僕たちの提案です。美術館がもっと身近な存在になってくれたらという思いで、この本をつくりました。 (三ページ) ページ解説 シラトリさんとサトウさんの顔写真が、向かい合うように掲載されています。 顔写真の上にそれぞれのコメント、顔写真の下にはそれぞれのプロフィールが掲載されています。 シラトリケンジ プロフィール 千九百六十九年 千葉県生まれ。全盲の美術鑑賞者。生まれつき強度の弱視で、十二歳のころには光がわかる程度になり、二十代半ばで全盲になる。そのころから人と会話しながら美術鑑賞をする独自の活動を始める。以来二十年以上、年に何十回も日本各地の美術館を訪れている。水戸芸術館現代美術センターをはじめ、いくつもの場所で講演やワークショップのナビゲーターを務めている。好きなものは音楽とお酒。 コメント たとえ目が見えなかったとしても、一緒に行った人とあれこれしゃべりながら観ると、おもしろい世界が広がるんだ。 サトウマイコ プロフィール 水戸芸術館現代美術センターで教育普及担当の学芸員(アートエデュケーター)を経て、二千二十一年よりフリーランスで活動。令和3年度文化庁新進芸術か海外研修制度研修員。オランダのアムステルダムを拠点に美術館教育の調査研究、執筆、レクチャー、プログラムコーディネートを行う。あだ名はマイティー。好きなものはホシノゲンとビール。 コメント 美術館って、ちょっと距離感がある? 美術に興味がなくても、アートの知識がなくても、しゃべりながら観てみて! (四から七ページ) タイトル はじめて美術館にいったのは、彼女とのデートでした。 シラトリケンジ はじめて美術館にいったのは、千九百九十五年、大学生のころだった。当時は愛知県の日本福祉大学に通っていて、付き合っていた彼女が美術館にいきたいと言い出したのだ。彼女とは知り合って4年ほど経っていたのだけど、付き合い始めたのは数カ月前という、少しウキウキする状況だった。 それまで美術館にいったことはなかった。でも、美術館デートという響きには惹かれるものがあった。一緒に映画を観にいったこともあったし、コンサートにもいったことがある。でも、美術館にいったことは、生まれて一度もなかった。美術館デートをしてみたい。実際は、デートがメインで、美術館はおまけみたいなものだった。その程度の気持ちで、名古屋市の愛知県美術館に出かけた。 開催されていたのは、「レオナルド・ダ・ヴィンチ人体解剖図展」。有名なウィトルウィウス的人体図をはじめ、ダ・ヴィンチが残した人間の身体をスケッチした素描を観てまわった。 今までまったく絵に興味がなかったのだけど、これがとても楽しかった。彼女と一緒だったから楽しかったのかもしれないけれど、「盲人のオレでも美術を楽しめるかもしれない」という思いが沸き起こってきた。 彼女がいなくても楽しめるのだろうか―。 それを確認するために一人で美術館にいってみることにした。デートで行く喫茶店と同じで、彼女と一緒に飲めればコーヒーの味はどうでもいい。何を飲んでも楽しい時間を過ごすことができる。でも、一人でコーヒーを飲むとなれば、やっぱりニガミやシブミといったものが気になるし、店内の雰囲気や音楽も大事になってくる。それと同じで、一人で美術館にいって、「全盲であるオレが美術館で何を楽しめるのか」を確認したいと思ったのだ。 美術館に一人でいくにあたり、いくつか設定をすることにした。まず彫刻などの作品に触るのはハードルが高いので、なしにする。また作品の印象や感想を聞くようにする。なぜなら、作者のことや作品のことよりも、感想のほうが話しやすいだろうと思ったからだ(でも実際はそうでもない、ということは後になってから知った)。そして、断られても一度は押してみる。盲人にとって、断られることはよくあることなので、いちいちめげていても仕方がない。断られるものだと想定しておくと、精神的に落ち込まなくてもいいのだ。 友人に情報誌に書かれた美術展情報を読み上げてもらって、気になるものを選んだ。短い情報を聞いてもよくわからないし、実際は交通のベンがいいところ、行きやすい美術館を選んでいただけ。そもそも美術に無知だったので、詳細を聞いたとしてもわからなかった。 めぼしい美術展に狙いを定めると、「私は全盲なのですが、作品を観たいです。短い時間でもいいので、どなたかにアテンドしてもらうことはできますか?」と電話をかけた。 最初に電話をかけたのは、名古屋市美術館だった。最初は「そういうサービスはしていません」と言われたのだけど、設定どおり「そこをなんとかお願いします」と押してみた。すると、「電話を折り返します」という話になり、きっと上の人に話がまわされて協議されたのだと思うのだけど、結局、観にいけることになった。 そのときに観たのはゴッホの展覧会で、一緒にまわった人が一点一点じっくりと説明してくれたので、すべてを観終わるまでに3時間以上もかかった。もうヘトヘトだった。説明を聞いて、どういう絵かはなんとなく想像できたのだけど、まだ楽しいというところまでは、いっていない。ただ疲れただけで終わってしまったのだった。 もう少し確かめないとわからないと思い、次にアプローチしたのは名古屋にあるマツザカヤ美術館だった。電話をすると、一回目ですんなりOKが出て、逆に肩透かしにあったような気持ちだった。しかも一緒に観てくれた男性が、ものすごくおもしろがってくれた。名前も忘れてしまったのだけど、彼と一緒に観てまわるのが楽しかった。その後に何度も松坂屋美術館にいったのだけど、それは彼に会いにいくようなものだった。彼は毎回、他の同僚を連れてきてくれて、みんな同じようにおもしろがってくれた。 こういった出会いは度々起こるもので、目黒区美術館の学芸員だった男性も、その一人だ。 大学を卒業した後、実家のある千葉に戻って美術鑑賞をする活動を続けていた。当時も、やはり、いきやすい美術館に行くことが多かった。池袋のセイブ百貨店やトウブ百貨店にある美術館は、駅から直結しているし、インフォメーションに行けば美術館のある階まで案内してくれる。 でも目黒区美術館は、決して交通のベンがいいとは言えない。目黒駅で東急バスに乗らないといけないので、少々面倒ではある。それでもわざわざいくのは、目黒区美術館にその男性がいるから。行けば、間違いなく楽しいということがわかっていたからだ。 彼の何が良かったのだろう。おそらく、教育モードでも、助けるモードでもなく、対等な立場で一緒に鑑賞してくれたからのように思う。 おもしろがってくれたポイントは、松坂屋美術館の男性と目黒区美術館の男性とは違ったのだけど、一緒の時間を共有してくれる、という点は同じだった。何かを教えようというのではなく、一緒に何かを発見しようという姿勢で接してくれたのが嬉しかった。 (八から十一ページ) タイトル 現代美術との出会いが、わたしを変えてくれた。 サトウマイコ 高校生のときのわたしは、友だちもいなくて、学校がつまらないと感じていました。思春期特有のことかもしれませんが、人とうまくやっていく方法がわからなくなり、中学生のころから「これは本当の自分なんだろうか?」といったことに悩んでいました。例えば、今話している言葉と今行動している自分は本当に一緒なのだろうか、といった悩みです。 当時は生きていること自体が苦痛でした。そんな夢も希望もなく、悩める日々を過ごしていたときに出会ったのが、現代美術でした。 きっかけは、学校の職員室に貼ってあった東京都現代美術館の展覧会ポスター。「モットアニュアル1999 ひそやかな ラディカリズム」展を告知するポスターは素敵なデザインで、とにかく私の目を釘付けにしました。見た瞬間にピンと来て、行ってみようと決めたのです。一人で美術館に行くというのも、ちょっとかっこいいなと思ったのもあります。 それは九人の作家さんによるグループ展だったのですが、作品を観ていると、「こういう視点でもいいんだ」、「そういう考え方をしていいんだ」といった気づきがあり、とにかくどの作品もどの作家さんも自由そのものでした。例えば、公園で掃除している人の足元だけを映した映像、雑巾を絞った状態のまま乾燥させたような作品、色がついた透明のコップが高く積み上げられた作品、ぼやけた視界をそのまま描いた絵画など、これまで学校の図工や美術の時間で習ったものとはまったく違う世界が広がっていたのです。 こんなに自由でいいのかと思ったとき、自分はものすごく狭い世界で悩んでいたんだと気づきました。本当に新しい世界がパーッと開かれていく感覚で、くよくよと悩んでいた自分が馬鹿らしく思えてきました。 特に印象的だったのは、オザワツヨシさんの通称「ふとんの山」という作品。何枚ものふとんが、山のように重ねられていて、一番上にはこたつのテンバンみたいなものが置かれています。上まで登ることができて、そこから壁にある写真を見られるという作品でした。 実際にふとんの山をよじ登って頂上であたりを見渡したとき、世界が違って見えたのです。今までは真っ暗な世界だったのが、いきなりクリアになったような感じです。抽象的ではあるのですが、モノに対する解像度が上がるというか、立体的に見えるようになったのです。それこそ、いつも使っているペンが別のものに見えるくらいに……。 言葉で伝えるのは難しいのですが、とにかく、ものすごく感動したわけです。それから美術館に何度も通うになりました。大げさではなく、わたしの人生が楽しくなったのは、現代美術のおかげです。 いきなりカイガンしてしまった高校生のわたしは、学芸員になりたいという夢を持ちました。学芸員になって、現代美術の素晴らしさをみんなに伝えたい、こんなに自由な美術の世界をいろいろな人に伝えたい。そして、わたしのように狭い世界で悩んでいる高校生や中学生を、一人でも多く救わないといけない。そんな使命感に駆られたのです。 学芸員になるために美大に行こうと思ったのですが、親に相談したら即座に反対されました。そもそもわたしは、小さいころから絵を描くのが苦手でした。美術の時間も嫌いでした。そんなわたしが、いきなり美大に行きたいと言い出したのですから、親が反対したのも当然かもしれません。 仕方なく一般大学の社会学コースに進学したのですが、「美術をやりたいのに、学芸員になりたいのに」という思いはより強いものになり、やりたいことがあるのに何もできない環境にうずうずしていました。 当時はまだ、ウェブで検索したら情報が何でも出てくるような時代ではなかったのですが、墨田区にあるオルタナティブスペース「現代美術製作所」だけが唯一、ウェブでボランティアを募集していました。そこにずっといりびたって展覧会の準備などを手伝っていました。大学にもほとんど行かず、さらに就職活動も挫折しました。そのため、大学4年生の3月になっても、就職先は決まっていませんでした。 その時期はクニタチにあるアーティストが運営するスペース「ファズ アートスペース」の手伝いをしていたのですが、アーティストたちに「就職どうしましょう?」みたいな相談を気軽にしていました。みな「いいよ、別に就職なんてしなくてもいいよ」と言うばかり。ところが一人だけ真面目なアーティストがいて、「一つだけツテがある」と、その場で美術大学に連絡を入れてくれたのです。そのアーティストのおかげで、わたしは就職することができました。 三年後、契約期間が満了し、次の勤務先を探さないといけませんでした。このころは美術館での職員募集がほとんどなく、あったとしても大学院を出ていないと採用してもらえないという厳しい現実に直面し、美術館で働くことを諦めてしまいました。結局、国家公務員の試験に合格して省庁で働き始めました。休日には、勤務地である茨城県水戸市にある、水戸芸術館現代美術センターに通う日々を過ごしていました。何度も通っているうちに、美術館のスタッフや近所のアーティストと親しくなり、ときどきボランティアとして手伝っていました。 美術好きの公務員として過ごしていたのですが、数年が経ったあるとき、教育プログラムの非常勤ポストが募集されていることを知りました。かなり悩んだのですが、美術の仕事をしたいという思いが強く、国家公務員をやめて、水戸芸術館で働く決意を固めました。三十二歳のときでした。 注釈 文中に出てきた「ふとんの山」という作品は、 オザワツヨシさんの「たそがれジゾウコンリュウ―千九百九十八年十二月十八日から千九百九十九年一月十四日」です。千九百九十九年に制作されました。 (十二から十三ページ) タイトル 盲人らしくないことがしたかった。 シラトリケンジ モノゴコロがついたときからあまり見えていなかった。二歳のときに病院で「弱視」という診断を受けたのだけど、それでも自転車を乗りまわせるくらい、幼少のころはかすかに視力が残っていた。最初は普通の公立小学校に入学し、三年生のときに盲学校に転校した。生まれ育った千葉県には、千葉県立千葉盲学校しかなく、毎日通うのも大変だったのでキシュクシャに入ることになった。 盲学校では、自分でできることは自分でするのが基本で、掃除や洗濯も自分でやるようになった。さらに点字の勉強やハクジョウによる歩行訓練など、一人で生活するために必要なことを教えてもらった。 中学生になったころには、ほとんど見えなくなっていたのだけど、いつかそうなるのだろうなと思っていたので、特にどうということはなかった。小さいころ、祖母から「目が見えないのだから、人よりも努力しないといけないよ」と何度も言われていて、「じゃあ、目が見える人は努力しなくていいの?」と疑問に感じていた。そういうこともあって、世の中に対しても、自分に対しても何も期待していなかった。 中学生のころ、先輩の影響もあって、鉄道が好きになった。夏休みには一緒にエスエルや静岡県のオオイガワ鉄道を乗りに行ったりした。今もそうだけど、電車に乗っていると、まわりの人の会話が聞けて楽しい。乗客がどんどん入れ替わっていくし、話も、イントネーションや会話のテンポも、どんどん変わっていく。自分の知らない世界に触れられるのが、嬉しかったのかもしれない。 高校生のときには、ナカジマミユキのコンサートに行くために、一人でリョウゴクコクギカンまで足を伸ばした。少しずつ行動が自由になるにつれ、小さいころから言われ続けてきた〝障害者はこうあるべき〟という概念に疑問を感じるようになっていった。 高校を卒業すると、盲学校の職業過程の理療科に進んで、あんまマッサージ指圧師の国家資格を取得した。盲人が進むべきレールの上をただまっすぐに進んできたのだけど、ふと立ち止まって「本当にこれでいいのか?」と疑ってしまった。だから、一般大学に行くことにした。日本福祉大学を選んだのは、点字での入学受験を実施していたのと、多くの視覚障害者を受け入れている実績があったからだ。 美術鑑賞に興味を惹かれた理由はいろいろと考えられるのだけど、その根本は「盲人らしくないことがしたかった」というヒトコトに尽きるように思う。「目が見えないのだから」ということを言われ続けたことに反発することで、「自分の価値観を変えられるんじゃないか」という期待があったのだろう。写真を撮るようにもなったのも、写真家として活動しているのも、盲人らしくないことが楽しいからである。 (十四から十五ページ) タイトル シラトリさんに作品を説明しても、ほとんど無反応でした。 サトウマイコ シラトリさんとはじめて会ったのは、水戸芸術館現代美術センターで働き始めた二千十四年のことでした。当時、上司にあたる森山純子さんは、新人スタッフと白鳥さんを一緒に鑑賞させるという、イッシュの新人研修みたいなことをしていたのです。 森山さんからある日、「明日、シラトリさんと鑑賞するようにセッティングしたから、十一時にエントランスホールで待ち合わせしてね」と言われました。「森山さんも来られるんですか?」と聞くと、「私は行かないから。じゃあよろしくね」という返事だけで、何の説明もありませんでした。 シラトリさんが全盲であること以外は何も知らなかったし、全盲の人と一緒に観るということもよくわからないまま、当日を迎えました。シラトリさんとは特に自己紹介をすることもなく、「じゃ、観ていきましょうか」という感じで展示室の中に入りました。そのときのわたしは障害者割引があることすら知らず、受付の人から「入場料はいらないですよ」と教えてもらったくらいです。 展示されていたのは、「見立て」のアーティストと言われているスズキヤスヒロさんの作品。「見立て」とは、例えば、けんだまの赤い玉をりんごにするなど、身近なものを似たものに置き換える技法です。見慣れたものを別のものに変えることで、独特の視点や発想が得られたり、豊かな想像力を生み出したりします。 見立ての作品なので、何が何に置き換わっているのかまで説明しないわけにはいきません。作品についてあれこれ説明するのですが、白鳥さんは反応が薄いんですよ。 一本の色鉛筆があって、線を引くと二色になって太陽が沈む地平線を一本の色鉛筆で表現できる、と説明しても、シラトリさんは「ふうん」と言うだけ。観終わっても、「じゃあ」という感じでお別れしました。 わたしは、わき汗をかいてばかりで、「これは何だったのだろう?」「これで良かったんだろうか?」「わたしは何をしにいったのだろう?」と悶々としたのでした。仲良くなってから白鳥さんに聞くと、「オレ、作品にピンと来なかったんだよね。だから、そんなに反応しなかったんだよね」とフォローしてくれたのですが、そのときは意味不明でした。 シラトリさんと仲良くなったのは、その後、一緒に水戸のマチナカの展覧会を観に行ったときでした。他の同僚と三人だったのですが、ものすごく盛り上がったのです。 すでに実施されていたシラトリさんのプログラムに私もチームの一員として参加していたので、少しずつシラトリさんがどういう人なのか理解しはじめていたのもあります。あとは、展覧会を観たあと、一緒に飲みに行ったのも良かったのかも。二千十五年夏の暑い日でしたから、ビールが格別でした。 注釈 文中に出てくる鉛筆の作品は、 スズキヤスヒロさんの「境界線を引く鉛筆」です。二千二年に制作されました。 (十六から十七ページ) タイトル 作品を観た人の印象や思い出を知りたい。 シラトリケンジ マイティー(サトウマイコさんの愛称)と最初に水戸芸術館で展覧会を一緒に観たときのことは、正直言ってよく覚えていない。森山さんが誰かつけてくれると言うから、「じゃ、ちょっと観にいってみるか」くらいの軽い気持ちだった。「おもしろかったら儲けもん」という感じ。だから、反応は薄かったと思う。 マイティーと仲良くなったのは、一緒に飲んだのも大きかったけれど、三人で観たことも、盛り上がった要因だと思う。二人だと、話し役と聞き役に分かれることが多いけれど、三人だとそのあたりの役割があいまいで、話題がなくなっても誰かが立ち上げてくれる。その場その場で役割が変わっていくので、盛り上がりやすいように思う。 先日、栃木県の那須にある「エヌズヤード」という現代アートスペースで、ナラヨシトモさんの絵画作品を観たとき、みんなが髪の毛だと思っていたものを、誰かが「あまりにも長すぎるから、もしかしたら、帽子なんじゃない?」と言い出した。おもしろそうだと思って、「それ、帽子なんだ?」って聞いたら、「そう言われたら、ニット帽の網目のようにも見えるね」と言い出す人も現れて、「そうすると、女の子だと思って観ていたけど、それも怪しくなってくるよね」と、どんどん話が展開していった。私を含めて五人いたのだけど、三人以上になると意見が言いやすくなるのはある。 正しい作品の解説を求めているわけではない。だから作品の情報は極力聞かないようにしている。音声ガイドを聞きながら観てまわったこともあるけど、あまりおもしろいと感じなかった。 作者や作品の知識が知りたいというよりも、作品を観た人の印象や思い出を知りたいのだ。作品を観てどう感じるか、どういう言葉で説明するか、その人が歩んできた生き方を垣間聞けるようで楽しい。同じ絵を観ているのに、人によって印象がまるで違うのもおもしろい。 一人で美術鑑賞を始めたころ、「おもしろいなぁ」と思ったことがあった。マツザカヤ美術館で、印象派の絵を観ていたとき、案内してくれた男性は「湖が描かれています」と説明したのだけど、しばらくしたあと、「すいません、黄色の点々が描かれているので、原っぱですね」と訂正したのだ。彼は「この作品を何度も観ているはずなのに、ずっと湖だと思い込んでいました」と言う。 びっくりした。湖と原っぱを見たことはないけれど、まったく違うものだと認識していたからだ。目が見える人であれば、ひと目で湖か原っぱかわかるものだと思っていたのだけど、実はそうでもないらしい。 実は、目が見える人でも、すべてのものが正確に見えているわけではないようなのである。それに気づくと、「目が見えない自分と何ら変わらないじゃないか!」と思えて、ものすごく気がラクになった。 (十八から十九ページ) タイトル 会話しながら観ると、驚きと発見の連続です。 サトウマイコ ひとりで観たり、たとえふたりで観たとしても、静かに作品を見てまわると、ほとんどの作品を素通りしてしまいます。よっぽど印象に残る作品でないと、同じ作品を、なんじゅっぷんも観ることはないし、細かいところまで目を凝らして観ることもありません。 でもシラトリさんと観ると、作品の説明をしないといけないのもあって、じっくりと観ることになります。たとえ以前に観たことがある作品でも、改めてじっくり観ると、新しい発見をしたり、疑問に思うことが出てきたり、まったく別の印象を受けたりします。 シラトリさんと一緒に鑑賞をするとき、何人も友人を連れていったのですが、スイッチが入ったかのように急に饒舌になる人もいました。よく知っている友人でも「この人、こういう説明の仕方をするんだ」という新しい面を知れて、その友人との距離が縮まったような感覚にもなりました。 奈良県の興福寺に九人ほどで仏像を観たときのこと。二体の鬼のモクゾウリツゾウを観ていたとき、誰かが「目が光っている」と言い出しました。パッと見ただけではわからなかったのですが、目の部分に水晶が埋め込まれていたのです。 それを観て、「目を輝かせて怖い」と言う人もいれば、「泣いているようにも見えませんか?」と言い出す人もいました。さらにヒタイのところに、もう一つ目があることにも気づいたのです。参加者の女性は「今まで何度も観ているのに、はじめて気がつきました」と驚いていました。 シラトリさんと一緒に美術鑑賞をすること、みんなで会話をしながら観てまわるということは、まさにこういう驚きと発見の連続なのです。 みんなで会話をしながら観ると、たまに作品の核心に近づくことがあります。モクゾウセンジュカンノンボサツリツゾウを観ているときでした。「掃除道具みたいなものを手に持っている」「お腹が出ている」と好き勝手に話していたのですが、誰かが「食堂のおばちゃんみたい」と言い出したのです。そのひと言があってから、かっぷくが良くて、優しそうな顔をした仏像は、昔ながらの食堂のおばちゃんにしか見えなくなりました。「おばちゃんのつくるチャーハンは美味しそう!」とまで言い出す人もいたのです。 少し不謹慎かなとも思っていたのですが、案内をしてくれた興福寺の方は「このセンジュカンノンさまは、この寺のご本尊で、以前はセンジュカンノンさまの前で、僧侶が集まって食事をしていたんですよ」とおっしゃるではありませんか。 一人だとたどり着くのが難しいのだけど、大勢で「あーでもない、こーでもない」と話していると、稀にではありますが、いつの間にか本質的なところに迫っていることもあります。 (二十から二十一ページ) タイトル 饒舌ではないからこそ、自由に考える隙間がある。 シラトリケンジ 誰かと一緒に美術館に行くと、その人と近くなる感覚はある。個人的な話が出るだけでなく、時間と場を共有することが大きいのではないだろうか。作品を鑑賞するという得体の知れない共通のテーマがあると、自然と仲良くなってしまうのかもしれない。 作品のことを話しているときはまだイントロのようなもので、その人が好きなようにしゃべり始めると、徐々に気分も上がってきて、作品に対してグッと集中してくる。そうなると、その人とつながるきっかけも増えてくる。 絵画にしても現代アートの作品にしても、それこそ仏像にしても、静止していて、あまり多くを語っていないのがいいのかもしれない。映画のように、音や映像、セリフにストーリーなど、情報量がおおすぎると、それらに引っ張られてしまって、自分の話を語り出すところまでいかないように思う。 美術鑑賞の場合は、饒舌ではない作品がそこにあり、鑑賞者が自由にあれこれと考える隙間がある。だからこそ、自分を引き出してくれるような気がする。与えられたものを観て感動するのではなく、自分の内側から出てきたものを楽しむという体験は、現代のような忙しい世の中ではあまりできないのではないだろうか。そういう体験を共有することで、一緒に観てまわった人との距離が縮まってくるのではないだろうか。 鑑賞会を始めたころは、今よりもよくしゃべっていたように思う。プログラムを主催する側として、「しゃべったほうがいいんだろうな」という意識が強かった。でも、ここ数年は、あまりしゃべらないようにしている。というのも、最初に述べたように「美術好き」ではなく「美術館好き」だから、作品が一番にくることはほとんどない。稀にあの人の作品を観たいと思うことはあるけれど、相手が観たいものについていくことのほうが圧倒的に多い。 そういう理由もあって、一緒にいる人の話を聞くことに身を任せたほうが、絶対にいいと考えるようになった。オレがしゃべらないほうが、その人のそのときの気分に乗りやすくなるし、その人が話しやすい流れをつくってあげて、どんどん話してもらったほうが、おもしろい展開になる。だから今は、鑑賞会でも以前ほどしゃべらずに、みんなの話にあいづちを打ったり、うなずいたりしていることが多い。 少し前に渋谷のギャラリーで鑑賞会をしたとき、三人の参加者はみな初対面だったのだけど、終わったあとに三人で連絡先を交換しているのを見て「やったあ!」と心の中でガッツポーズをした。 例えば、よく行く飲み屋で隣に座っている人と仲良くなって、相手の名前もよくわからないのに話が盛り上がって、なんとも言えない充実感が残る。「そういう出会いだとかコミュニケーションっていいな」と以前から思っていたので、自分の近くでそういうことが起きて、かなり嬉しかった。 (二十二から二十三ページ) タイトル 美術館では自分らしくいられる。 サトウマイコ 水戸芸術館で教育普及の学芸員をしていて、またいろいろなプログラムをする中で、いき詰まりを感じるようになってきました。 美術館教育にもヒヨウタイコウカが求められるようになり、誰のための美術なのかと悩んだり、美術が持っている力を疑ったりするようになってしまいました。美術館教育とは本来、時間がかかるもので、来館した百人の子どものうち、十年後に一人が美術館に戻って来てくれたらいいなという世界です。そのために種をまき続けるのが、美術館教育の仕事の一つです。求められる成果と自分の考える美術館教育のあり方が乖離し、無力さを感じるようになりました。 そのような状況を打破するためにも、日本から飛び出してみようと思い立ちました。文化庁新進芸術家海外研修員として、二千二十一年十一月にオランダのアムステルダムに渡り、美術と精神疾患の相互作用というテーマを掲げて、一年間の研修を開始しました。 お世話になったのは、精神科病院でアーティスト・イン・レジデンスを運営しているフィフスシーズンでした。ディレクターのエスターフォセン氏が日本でレクチャーをした際、アーティストと患者が関わることで起こる化学反応について、次のように話していたのを聞いたのがきっかけでした。 「病院では、患者は〝患者〟としての立場で過ごすようになり、本当の〝自分〟をいつのまにか忘れてしまいます。ですが、アーティストと関わることで、患者は〝個人〟に立ち返り、自分らしくいられるようになるのです」 美術に触れることで、自分らしくいられる―。 ハッと、初心に返ったような思いでした。それは、これまでに自分自身が経験したことでもあったし、シラトリさんとおこなってきたプログラムで実感していたことでもあったのです。 学校や職場、家庭、地域、社会での役割とは関係なく、美術館では自由にしゃべれて、気兼ねなく自分の意見が言える。そこにあるのは、みな対等という関係性であり、自分が自分でいられる場所。まさにわたしが美術にハマった理由でした。あのころはうまく言語化できませんでしたが、美術館は自分らしくいられる場所であると強く認識したのです。 そして、この前向きな作用を美術館としてどう伝えていけばいいか、教育普及の存在価値をどのよう理解してもらえればいいか、より多くの人に体感してもらうにはどうすればいいか……。美術の有用性を社会に伝える方法をもっと探りたいと思いました。 美術や美術館が社会に貢献できる役割がある。それを伝えていくのが私の役割なのかもしれないと思うようになったのです。 (二十四から二十五ページ) タイトル 「わからない」からこそ楽しい。 シラトリケンジ はじめて東京都現代美術館に行ったときは最高だった。ピアノが布にくるまれている作品があったのだけど、アテンドしてくれた学芸員の方が「これは意味があるんですけど、その意味がわかってもわからなくてもいいんですよ」と言ったのだ。 はじめての現代美術ではなかったのだけど、「ふうん、現代美術ってそういうことでいいんだ」という新しい発見だった。 どうしても作品のことを理解しようとしてしまうけれど、「わからなくてもいい」と言われると励まされる。そもそも「何をどこまで楽しめるのか」が自分のテーマだったので、「それでいいんだ」と背中を押してもらったような思いだった。 わからないことに注目するようになったのは、もっと最近になってから。マイティーと一緒に鑑賞会をするようになったこともあり、「参加者に何かをわかってほしくて鑑賞会をするのか」といったことを考えるようになった。 鑑賞会というプログラムにすると、どうしても目的だとか狙いとかを考えてしまう。参加者に何かを得て帰ってもらいたいと思ってしまう。わかってほしいテーマがないわけではないけれど、それを強調したいわけでもない。なので、理解しても理解しなくてもいいし、「わからない」というのもアリだなと考えるようになった。 何人かで写真を観に行ったときのことだ。寄りすぎているのかピントが合っていないのか、ぼんやりとした作品だった。あまりにもわけがわからないので、言葉で説明するのが難しい。一生懸命に伝えようとする人もいたけれど、徐々に言葉が出てこなくなってくる。誰もしゃべれない空気感の中、でも何人かは「わからない」状態を楽しんでいるようでもあった。 わからないからおもしろいのも、わからないから楽しいのも、またシンなのである。特に現代美術が好きなのも、よくわからないから。わかりにくいものがたまらないし、「何一つわかりません」という作品こそが最高である。 鑑賞会に成功と失敗があるのか、昔はよく考えていた。話が広がらなかったり、参加者の話をうまく引き出せなかったりしたことはよくあるのだけど、失敗といった感覚はない。性格的なものもあるけれど、考えても理由がわからないからである。作品のせいかもしれないし、自分の気分や参加者の体調のせいかもしれないし、一緒に観た人との相性が悪かったせいかもしれない。その辺を考えても結局わからないので、ほおっておくようにしている。 それに鑑賞は、その場で終わりではない。家に帰ってからもそうだし、一年後、それこそ十年後に、「あのときの作品って、ああだったのかなぁ」と思うこともある。だからこそ、今わかる必要もないのではないだろうか。ここ最近は、「わからない」ことをエンジョイしているようなものである。 (二十六から二十七ページ) タイトル しゃべりながら観るのが当たり前!? サトウマイコ オランダの美術館を調査する中で特におもしろかったのが、視覚障害者の体験ができるミュージアム。視覚障害者の案内により、完全に光を遮断した暗闇の中で、視覚以外の感覚やコミュニケーションを体験できます。最初は、ダイアログ・インザダークと同じようなものだと、あまり期待していませんでした。ところが、そんなわたしの予想はいい意味で裏切られました。 案内してくれた視覚障害者のスタッフが「今からパリに旅行に行きまーす!」と入口で声をかけます。「セーヌ川で舟に乗りましょう」と言って箱のようなものに乗り込むと、ガタガタと揺れます。実際はスタッフの方が一生懸命揺らしているようでしたが……。 また、「愛の南京錠の橋」で有名なポンデザールにも行き、橋にかけられているたくさんの錠を触りました。シャンゼリゼ通りで買い物をしたり、カフェでお茶を飲んだりして、確かにダイアログ・インザダークの経験と似ているのですが、日本で経験したものとはまるで違っていました。 お国柄もあるとは思いますが、スタッフの方といろいろ話せるのです。しかも、パートナーとの出会いや家事の分担など、かなりプライベートな話題で盛り上がりました。 視覚障害者の体験を通じて何か生真面目なことを押し付けようという様子はまったくなく、お互いに対等な立場で、まるで友だちのようにおしゃべりをして楽しんだ。そういう新鮮な感覚でした。 オランダの美術館でいつも驚かされるのは、来館者がよく話していること。ときどき来館者と監視員が談笑しているのも見かけます。 オランダだけでなく、他のヨーロッパの国々にも言えることかもしれませんが、美術館は日本のように静まり返ったところではなく、にぎやかでガヤガヤしたところなのです。絵を模写している人もいれば、座り込んでくつろいでいる人もいます。来館者が他の来館者に知り合いでもないのに話しかけていたりします。 作品を観て話をすることが、当たり前の文化なのでしょう。オランダの美術館での様子を見ると、「好きなスタイルで観ていいよ」と、推奨してもらっているように感じます。「しゃべりながら観てもいいよ」という雰囲気のある美術館が、日本にも今よりもっと増えたらいいなと思います。 美術館によって考え方は異なるので、まずは会話をしながら観てまわり、注意をされたら別の美術館で試してみる。そのくらい、来館者もめげずに挑戦してほしいと思います。 そしてわたしは、「しゃべりながら観る」ことの楽しさとおもしろさ、さらに奥深さを実感するような人が一人でも増えるような活動をしていきたいと考えています。 ページ解説 四ページから二十六ページまでは、シラトリケンジさんとサトウマイコさんが交互に語っています。それぞれが語るページには、それぞれの顔写真がレイアウトされていますが、ページをめくるごとに、二人の形が変わっていきます。 シラトリさんは人間のあと、首から上だけが赤い消化器になり、そのあとはシャツを着たキリンになり、魚になり、ポリバケツのような姿に変わっていきます。 佐藤さんは、人間の姿から、次に首から上だけ錆びたハサミになり、そのあとはセーターを着た毛むくじゃらのビーバーになり、猫や缶詰の組み合わせになり、最後はパイナップルになってしまいます。 ページが進につれて、二人の見え方自体が、変わっていくのです。 (前半おわり)