すべてが動き出すまでの、仕込みの5年間――齋藤紘良「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」インタビュー〈後篇〉

地域に根差した活動を通して、これからのアートの可能性を広げるプレイヤーたちに話を聞いてきた「プロジェクトインタビュー」シリーズ。今回は、町田市で2017年から「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」という取り組みを行う、「社会福祉法人東香会」理事長の齋藤紘良(こうりょう)さんにお話を伺いました。

「YATO=谷戸」とは、丘陵地が浸食されることで生まれる谷状の地形のこと。そのプロジェクト名のとおり、齋藤さんが副住職を務めるお寺や、園長を務めた保育園、由緒ある池などが点在する勾配のある里山一帯を舞台にしたこの活動では、地域の小学生と土地の記憶を学びながら、「500年続く文化催事=お祭り」を築くことを目指しています。

しかし、ただのお祭りではありません。じつは齋藤さんには、音楽家の一面も。そんな多面性を反映するように、YATOの活動にはヨーロッパの民族楽器であるバグパイプや、バリ島由来の影絵、餅つきなど、さまざまな文化が混在します。

そして、コロナ禍になり、これまで手付かずだった拠点である里山の手入れを開始。人が歩ける道をつくり、豊かな土壌の生態系を生み出そうとしています。

すべての物事につながりを見出し、自身の働きかけによって、それらが生き生きと動き出す流れをつくろうとする齋藤さんが、5年間のYATOの活動を通してたどり着いた現在地とは? 東京アートポイント計画ディレクターの森司と一緒に探っていきます。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:川村庸子/撮影:加藤甫)

すべてが動き出すまでの、仕込みの5年間――齋藤紘良「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」インタビュー〈前篇〉

物理的距離を超えた、心理的なコミュニティ

森:前篇では紘良さん自身のことや保育園のお話を聞きましたが、後篇では東京アートポイント計画と共催した感想も伺えればと思います。まずは、共催して良かったことはありますか?

齋藤:それはやはり、YATOに集まる小学生たちに「やとっ子同盟」という呼び名ができたことですね。YATOの運営メンバーが、同じメンバーの一員としてこどもと接すると自分たち自身が楽しいと気づき、それに伴ってこの名称ができたのですが、これは大きかった。

細かい話ですが、僕らは保育園をやっているからこどもを対象にするのは当たり前だというふうに漠然と行うのと、この名前を伴いながらやったことには大きな差があると思うんです。

森:前篇で話していた「出会い方」のつくり方の話にもつながりますね。

齋藤:小学生とかかわる入口をつくろうとプログラムオフィサーの嘉原妙さんと相談する中で、この名称のアイデアが出てきました。さらに、小学生が中学に上がったとき、ただ卒業するんじゃなくていろんな年代のつながりができたらいいなと思い、より広い範囲の「同盟」という名前に。こうした仕組みが仲間意識につながりましたね。

僕の意識の変化では、そのことでこどもたちが「お客さん」じゃなくなったんです。あるとき「お客さんとして接するのをやめよう」と思って、そこからはこどもを「危ないぞ」とかって叱るようにもなった。これは結構ターニングポイントだったと思います。

森:「500年の祭り」なわけで、こどもが叱られない「祭り」ってないですもんね。

齋藤:やりすぎる子がいて、初めて祭りは成立するんですよ。

森:それを叱る大人がいて、学びがあって、関係性の濃度が上がる。客じゃなくなる距離感とは、要するにコミュニティになったってことですよね。そのコミュニティを語るうえでは、「やとっ子同盟」とバグパイプ、もうひとつ影絵という要素の面白さもあります。

毎年秋に開催している「YATOの縁日」では、こどもたちがつくった影絵芝居、ヨーロッパの伝統楽器であるバグパイプの演奏、餅つきなどが行われる。

齋藤:影絵は僕の音楽仲間でもある川村亘平斎(こうへいさい)くんがやってくれていますが、僕にはこの寺を日本的なもので固めたくないっていう反骨精神があって。もっと「アジア」の寺、祭りにしたいんです。そこで、影絵で有名なバリでの修行経験もある川村くんに声をかけました。

前篇で森さんはバグパイプと影絵はルーツが違うと話されたけど、基本的にこの土地には継承する文化があまりない。その中で、寄せ集めの「地のもの」で祭りをやって、果たして500年持つのかと。それだったら、縄文文化と弥生文化が混じり合ってその後の伝統文化ができたように、そもそも違う文化に接続してみようと思った。だからバグパイプに影絵、餅つき、初期はスチールパンも入れた。それが自然に淘汰されていけばいいという考えなんです。

森:川村さんと紘良さんの関係は持続的でとても良いものに思えるけれど、活動を一緒にするうえで共有している感覚はありますか?

齋藤:川村くんとは、「距離」の感覚を共有している気がします。「地域」というと物理的に近い人を想定するけど、僕らはもっと精神的な距離の近さを大事にしようと考えていて。どこに住んでいようと、YATOで行われていることにポッと想像が膨らむような人たちを僕らはYATOの地域のメンバーと呼んで、関係を温めていきたい。

だから、影絵ワークショップも遠くの地域から参加している方たちが結構多かったんですけど、その人たちを「やとっ子同盟」という名称でまとめたとき、全然違和感がなかったんです。僕らはコロナ禍でリモートが始まったときも、リモート万歳でした。

森:そういうところにも、このプロジェクトがコロナ禍になってから一層密度の濃い企画や関係性を育んだ、ある種「化けた」理由はあるかもしれないですね。こうしたさまざまな場所からの参加は、いわゆる「賑わいの創出」にも見えるだろうし、僕らはそれに寄与したとも言えるんだけれど、「やとっ子同盟」や「心理的な距離」の話を聞いていると、そこで育まれていたのは単なる賑わいの創出でもなかったんだろうなと思うんですよ。

齋藤:かつてのコミュニティには、鐘の音、鈴虫の声や夕暮れによって、みんながある時間や気持ちを緩やかに共有することがあったと思います。そこに杓子定規な「時計の時間」が入ってきて、みんなが自分の体感から離れて、1分1秒という数字で動くようになった。でも僕は、人を完全には画一的にチューニングできないと思っていて。YATOは、そうではない、体感に合わせて緩やかに伸び縮みする時間にまた会える場所であってほしいと思っています。

影絵師・音楽家の川村亘平斎さんとの影絵ワークショップの様子。地域の植生や神話を学びながらつくる。

「圧」と時間を味方につける

森:その一方で、紘良さんはディレクターの才能もネットワークもあるから、こういう集まりは僕らがいなくてもつくれた気もします。そこで後篇の問いのもうひとつの側面、我々と組んで「しまった」ことによるポジティブな変化があれば、お聞きしたいですね。

齋藤:「組んじゃった」というのは、正直ありますよ。

一同:(笑)。

東京アートポイント計画・ディレクターの森司とともに話を伺った。

齋藤:面白そうだと思って組んじゃいましたけど、東京都とアーツカウンシル東京と共催することによって運営上の規制が厳しくなりますよね。これはうちに優秀な事務局のスタッフがいないと対処できなかった。ただ、スタッフには怒られるかもしれませんが、その規制が組んだことの大きなメリットだったと思います。

――規制がメリットなんですか?

齋藤:もちろん、東京アートポイント計画的には、リスク管理などいろんな事情があって厳しくする面もあると思うんです。でも、まさにさっきのこどもの話と同じで、「何でもいいよ」だといろんなことができない。何かボコっとした障壁のようなものがあって、それに対してこっちが凸になるのか、凹で返すのかってことの中で物事は生まれてくるから。

その圧の中だから、こちらもああしようか、こうしようかと考えていける。それがなかったら妄想で終わってたかもしれない。体が動かなかったかもしれないです。そこに実体を与えてくれたのが大きかった。

森:規制というのは、具体的にはお祭りなのにお酒が飲めないとかね。

齋藤:そう、隠れてしか飲めない(笑)。この前も、YATOに参加してくれている檀家さんたちは、共催が終わったら真っ先に酒を飲むと宣言されていました。

森:そのお酒は、ただのアルコールじゃないんですよね。お清めの意味もある。もちろん規制にはさまざまな理由はあるのだけど、個人的には文化がそこまでクリーンにやらなくてはいけないものなのかとの思いもある。だから、やめてくださいとお願いする立場でおかしな話ではあるんですけど、そこは文化として守るべきものだというふうにも思っています。

齋藤:おっしゃるとおりで、この辺りは農業で成り立っている地域でもある。一年間の労働の成果としてお米ができ、お酒ができ、それを祭りで飲む。それはお互いにつながり合っているピースなんですよね。そういうことも共催を通して、あらためて実感できた。

森:「天井」があったからこそ、ある種の反発でかたちができてきた、と。それは僕らにとってはとてもありがたいお話だけど、ここまで化けるかというくらい化けましたよね。

齋藤:自分たちとしては、何ができたのかと思う部分もあるけれど……。

森:あの山道ができただけでも十分でしょう。次のフェーズをつくるために技術を持った仲間を呼んできて、環境を整えて……というこの一連の仕事は、いわば500年という時間のスパンに向けた仕込みですよね。でも、仕込みのサイズ感が大きい。大人が自分の資源を最大限動員して、すごく贅沢に秘密基地をつくって遊んでいるような感じがするんですよね。

あと、時間を味方にする方法が面白いと思います。さきほど歩いて保育園まで行った際、使われなくなった古い園舎があって、紘良さんはそれをすぐに壊すのではなく、10年かけて解体しようと思っていると話されていた。「500年の祭り」もそうだけど、大きな時間を相手にするのは、普段こどもに触れているからか、仏教からか、何が背景にあると思いますか?

齋藤:ひとつは自分がものをつくってきた体験ですかね。以前まで僕は、ものづくりはものができたときが頂点だと思っていて。だけどいまは、そこから先の方が長いということが何となくわかっている。とくに園舎は、使われ始めてからのものですよね。作品ができたあとの変化までをアウトラインとして、ものをつくることが多くなってきた。そして、ものはつねに変化し続け、アクティブだという考え方は仏教から来ているかもしれません。

森:じゃあ、すべてがプロセスで、つねにオンゴーイングなんですね。

齋藤:そうなんです。それもあって、里山をいじり始めたところがあります。全部を動かさないと気が済まなくなっちゃった。

森:それで生態系をつくっている、と。このエリアは完全にひとつの「環世界」ですよね。共催が始まるとき、500年の祭りのお手伝いは無理だけど、そのための準備のお手伝いならできますとお話をして。そうやって少しの間、この環世界に寄生させてもらって、我々が去るときには山道ができ、視界も開けた。そんな爽快感があります。

「しぜんの国保育園」の旧園舎。10年かけて部分的に解体していくことで、変化した空間に合わせてその都度使い方を考えるプロジェクトを行う予定。

本気で遊ぶ。すべてを動かす。

齋藤:森さんが初めてここに来たとき、この「こもれび堂」という建物も倉庫で、山も荒れていて、いろんな時間が止まっていました。それを動かそうというとき、一箇所だけを動かしてもダメだと思ったんです。糸に重りを垂らして、遠心力でグルグル回したら、すべての部分が動き続けるように、何かを動かすのなら全部動かさないといけないと思って。

森:身はひとつなのに、忙しくなる一方じゃないですか?

齋藤:そうですよ。どうしてくれるんですか。

一同:(笑)。

齋藤:つつかれちゃったから、動かざるを得ないんですよ。使命感ですね。

2021年、遊休施設だった「こもれび堂」をこどもたちが集まれる拠点として改修。インタビューはここで行った。

――紘良さんは「使命感」という言葉で、自分のあり方をどのように位置付けていますか?

齋藤:このプロジェクトにかかわる一人のプレイヤーであり、だからこそいつでも抜けられる感覚かもしれません。バグパイプにもつながりますが、プレイヤーになることは、ディレクターを一度降りることでもある。そのことで自分がつねに真ん中にいるところから外れているんですよね。僕が真ん中にいて、お寺を再生したというゴールにしたくない。「気づいたらいなかった」くらいで回せると、500年続くイメージが持てると思っていて。

森:いま、里山へのかかわりの一部を建築チームに委ねているのも、そうした感覚からなんですか?

齋藤:そうです。いま協働している人たち以外にも、この里山に興味があるプレイヤーがいろいろ入ってきて、動いていけばいいなと思っています。

じつは山を拓くときに、それを大きくふたつのエリアに分けました。お寺に向かって右側のエリアは貨幣価値につながるレイヤーで、左側のエリアは宗教的なレイヤーという考え方にしたんです。前者ではふたつの意味の「ざい」、つまり木材の「材」と財産の「財」を重ね合わせて、木材で人との関係をひらいたり、宿坊をやったりしていこうかなと。そして後者では、お墓を中心にそうした貨幣価値を離れた信仰の拠り所となるような山をつくろうとしています。

だから、この山への入り方はレイヤーによってだいぶ変わる。そして、さまざまな入口の人たちを混在させる場として、「YATOの縁日」というお祭りを位置付けているんです。

事業にかかわってくれる人たちや林業会社の「東京チェンソーズ」などと一緒に、里山の手入れを行っている。

森:共催を始めたとき、これだけいろんなことをできる法人と組むというのは、きっと何かを良い意味で「壊す」ことを期待されているんだと感じました。最初にプレゼンテーションを受けたとき、「YATO」というネーミングや、資料のデザインの出来の良さを見て、これは簡単には「壊せない」と思ったことを覚えています。だけどこれだけ化けたのは、僕らの仕事というより、やはりコロナによる影響が大きいと思います。

もしもコロナ禍が訪れず、従来通りの仕事が十全にできていたら、山道をつくる暇がない。でも、コロナ禍があり、紘良さん自身も園長を退く変化があった中で、急速に活動の濃度が上がっていった。沈黙思考をしているように見えて、明鏡止水(めいきょうしすい)の心持ちで500年のcommonの礎になる仕込みをされていた驚き。「こんなことをしていたのか!」という感じです。立派な卒業制作に立ち会えた喜びがあります。

齋藤:僕としては、とにかくいろんなことが動き出したことが大きかった。祭りは僕たちがやろうと言い出さなくても、参加者たちから自然にやろうという声が上がってくる感じになっています。東京アートポイント計画と共催していなければ、「YATOの縁日」というものが生まれていないし、山道もなかった。この場所をもっと良くしたいという欲はまだまだあるんですけど、そういうレベルではなく、もっと大きな枠で見たら、「500年の祭り」をつくる準備は成功したなという感じはしていますね。

森:僕の勝手な受け止めとしては、何か目に見える成果よりも、紘良さんの気持ちが整ったという意味で準備ができたことが重要だと思っています。だって、楽しそうですもん。

齋藤:じつはさっきから、カッコよくなりすぎると思って言わなかったんですけど……。

――ぜひ、最後にどうぞ。

齋藤:僕、この場所で遊んでいるんです。

森:やっぱり! ずっと「使命感」って、それこそカッコつけているなと(笑)。

一同:(笑)。

森:だから、秘密基地をつくる、遊ぶ感覚なんだろうなと思っていました。

齋藤:本気で遊んでいますね。やっぱり遊びは、本気じゃないと楽しくないですから。

YATOの拠点を囲む里山にて、紘良さんたちが手入れをしてできた道。

Profile

齋藤紘良(さいとう・こうりょう)

作曲家/しぜんの国保育園 理事長
1980年生まれ、天秤座。165cm。56kg。専門は、こどもが育ち、暮らし、老いて死んで次に向かうための環境や文化を考えること。保育施設の運営、500年間続く祭りの創造、寺院の再興、映像番組などへの楽曲提供、そして雑貨と電子楽器を駆使したパフォーマンスなどを行っている。発表音源に『narrative songs』(CD,spotify etc.)、著書に『すべて、こども中心。』(カドカワ)などがある。全国私立保育連盟研究企画委員、和光高校非常勤講師。「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」ディレクター。

500年のcommonを考えるプロジェクト「YATO」

「谷戸」と呼ばれる、丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形を持つ町田市忠生地域。「すべて、こども中心」を理念とする「しぜんの国保育園」や寺院を取り巻く里山一帯を舞台に、地域について学びながら、500年間続く人と場のあり方(=common)を考えるアートプロジェクト。アーティストや音楽家、自然環境や歴史などの専門家や地域の団体と連携し、次世代を担うこどもと大人が一緒に取り組む企画を行っている。
https://yato500.net
*東京アートポイント計画として2017年度から実施

すべてが動き出すまでの、仕込みの5年間――齋藤紘良「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」インタビュー〈前篇〉

地域に根差した活動を通して、これからのアートの可能性を広げるプレイヤーたちに話を聞いてきた「プロジェクトインタビュー」シリーズ。今回は、町田市で2017年から「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」という取り組みを行う、「社会福祉法人東香会」理事長の齋藤紘良(こうりょう)さんにお話を伺いました。

「YATO=谷戸」とは、丘陵地が浸食されることで生まれる谷状の地形のこと。そのプロジェクト名のとおり、齋藤さんが副住職を務めるお寺や、園長を務めた保育園、由緒ある池などが点在する勾配のある里山一帯を舞台にしたこの活動では、地域の小学生と土地の記憶を学びながら、「500年続く文化催事=お祭り」を築くことを目指しています。

しかし、ただのお祭りではありません。じつは齋藤さんには、音楽家の一面も。そんな多面性を反映するように、YATOの活動にはヨーロッパの民族楽器であるバグパイプや、バリ島由来の影絵、餅つきなど、さまざまな文化が混在します。

そして、コロナ禍になり、これまで手付かずだった拠点である里山の手入れを開始。人が歩ける道をつくり、豊かな土壌の生態系を生み出そうとしています。

すべての物事につながりを見出し、自身の働きかけによって、それらが生き生きと動き出す流れをつくろうとする齋藤さんが、5年間のYATOの活動を通してたどり着いた現在地とは? 東京アートポイント計画ディレクターの森司と一緒に探っていきます。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:川村庸子/撮影:加藤甫)

すべてが動き出すまでの、仕込みの5年間――齋藤紘良「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」インタビュー〈後篇〉

山を再起動する

――今日はインタビューの前に、『YATO』の舞台であり、紘良(齋藤)さんが副住職を務める簗田(りょうでん)寺を囲む里山をみんなで歩かせてもらいました。お寺の本堂の背には、龍の伝説が伝わる「龍王ヶ池」という池があり、さらに奥が斜面になっています。この斜面は以前までほとんど手入れがされておらず、人が歩くことさえ難しい状況だったそうですね。

齋藤:そうですね。人が足を踏み入れるような場所ではなく、荒れ放題で、僕でもどういう状態かわからない箇所もたくさんあったんです。その里山をどうにかしたいと思い、コロナ禍になってから、林業会社の「東京チェンソーズ」さんなどと協働して、自分たちで手入れをしてきました。木を切り、土壌を良くして、人が歩ける道をつくったんです。

YATOの拠点を囲む里山にて、紘良さんたちが手入れをしてできた道。

――斜面を登り切ったところには、紘良さんが以前園長を務め、いまは理事長としてかかわる「しぜんの国保育園」がありますが、今日はそこまで歩きました。驚いたのは、山道のあまりに自然な佇まいです。紘良さんたちが最近つくった道とは思えませんでした。

齋藤:山を拓くうえでは、ただ道をつくるだけではなくて、この場所全体の環境を意識し、土中環境を良くすることも大切にしました。木を切って地面に日光が当たるようにして、落ち葉を乾燥させる。水が通る路もつくる。さきほど「菌糸」をお見せしましたが、団粒(土の小さな塊)同士の間をつなぐ役割を果たす菌糸が豊かな土は、フカフカで水の循環も良くなる。そういう状態の良い土壌は、近年報道される機会も多い土砂崩れも起きにくいんです。

もうひとつ大切にしているのは、東京チェンソーズさんや、YATOの拠点である「こもれび堂」の家具も制作いただいた小林恭さん・マナさんの設計事務所「ima」など、このプロジェクトにかかわる人に実際に山に入ってもらい、身体を動かしながら協働してもらうこと。今日もちょうどみなさんが山で作業をしてくれていました。その体感が大事だと思っています。

森:道を歩かせてもらって感じたのは、紘良さんが身の回りの些細なことまで含めて一つひとつを丁寧にひらいて、それを自分のものにしてきたんだなということ。荒れ果てた「よくわからない場所」だった土地を、自ら手を動かしながら、「自分たちの場所」にする。そういう応答性をとても感じました。

木々は少しずつ伐採し、水の流れをつくり、土中環境を急に変えないようにしているそう。

――斜面の上から下を見ると、木と木の間から簗田寺がチラチラ見えました。風や光の新しい通り道ができて、さらに新しい視線の抜け道もできて、この里山一帯を生き還らせているようでしたね。しかも、伐採した木材は近所の木材屋に持ち込まれたとか。

森:周辺地域との関係も含めたいろんな部分が、紘良さんたちの働きかけによってあちこちで再起動しているような感覚がありますよね。こういう「全部」を生かすような世界観は、YATOや紘良さんの動き方によく感じることです。そうした志向性をお持ちなのは、どこにルーツがあると思いますか?

齋藤:これは最近感じることなのですが、やっぱり仏教かなと思います。僕はずっと仏教を宗教だと思っていたんですけど、最近は「哲学」だと考えていて。その核心は、一言で言えば無駄なものが一切ないということです。無駄だと思われることが、何につながっているのか、それを明らかにしていくことによって、あらゆるものがまた生かされていく。そういう相互関係をつねにつくることをいままでやってきたんじゃないかな、と最近思います。

森:前から実践はしていたけど、最近自信を持って言語化できるようになったということですか?

齋藤:そうですね。そうしたすべてを生かす発想があるから、仏教では、「分断」は極端に嫌われます。それは僕のいろんな活動につながる。循環や血液の巡りが悪いところにアプローチして、その流れを良くしていく。そういう仕事をしているのかなと思いますね。

紘良さんたちが切り開いた道から、お寺などの建物が目に入ってくる。

「ちゃんと自分のものにする」応答性

森:さまざまなことを、「ちゃんと自分のものにする」ということ。これは、紘良さんがスコットランドやアイルランドの民族楽器「バグパイプ」を演奏することにも感じます。

YATOでは地域のこどもたちも参加しながら、毎年年末に「YATOの年の瀬」という餅つき大会を、秋には「YATOの縁日」というお祭りを開催しています。そこに紘良さんはいつもバグパイプと登場して、演奏する。アートプロジェクトで、ディレクターがこうしたかたちでプレイヤーになることは珍しいんだけど、それが面白くて。紘良さんはとにかくマルチな人ですけど、この楽器にはどのように出会ったんですか?

齋藤:「ロバの音楽座」という、こどもの前でヨーロッパの古い音楽を奏でる1982年に結成された楽団があるんですけど、そのリーダーの松本雅隆(がりゅう)さんと、彼の娘さんの野々歩さんとの出会いが大きいですね。僕がまだ21歳の頃です。

あるとき町田駅にいたら、ルミネの前でピエロ姿の若者が恥ずかしそうにアイルランド音楽を奏でていたんです(笑)。路上パフォーマンスって普通、派手にやるでしょう。下を向いているから気になって話しかけたら、ライブに誘われて。行った先で会ったのが、その彼が一緒に楽団をやっていた野々歩さんでした。

当時の雅隆さんは、バグパイプを仕事中心に吹いていました。でも、僕がちょうどYATOを始める頃、突然「バグパイプの部活をやりたい」と言い始めて。雅隆さんたちとは僕の「COINN」というバンドも含めて、ずっとリスペクトして付き合ってきた先輩。だから、そう言われて、「やりません」というのは僕の中になかったんですね。

森:「YATOの縁日」では毎年、こどもたちがつくった人形で影絵芝居をしていますが、そこにバグパイプの生音が入ると世界が変わるんですよね。しかも、バグパイプと影絵はまったくルーツが違うものでしょう? 文脈の異なるものが、この町田でなぜか出会い、しかも「500年続くお祭り」のシンボルとして育まれようとしている。そんなキーとなるバグパイプを始めたのが、じつはYATOを始めたのと同じ頃だと聞いて、驚いています。

「YATOの縁日」にて、こどもたちのつくった影絵芝居を背景に演奏が行われる(左側の3人が演奏している楽器がバグパイプ)。

齋藤:やらなきゃいけない状況からやるっていうのが、僕のいつもの流れなんです(笑)。

森:でも、誠実に向き合わないと、こうした付き合い方はできないですよね。だから、里山の手入れをすることも、バグパイプを活動のキーにすることもですが、紘良さんを貫いているのは、一個一個の物事に対する誠実な応答性だという気がするんですよね。

その誠実さは、「しぜんの国保育園」の方針にも見られるように思います。以前、紘良さんの園長時代に保育園の内部を見学させてもらいましたが、こどもたちの遊んでいる部屋にジョン・ケージ(*1)の写真が貼ってありましたよね。

*1:1912年アメリカ生まれの作曲家。3章分「休み(tacet)」とだけ書かれた楽譜を開いたあと、ピアノの前で曲名の時間だけ何も演奏せず、観客の意識を環境音に向けさせる「4分33秒」などの作品で、従来の音楽の枠組みを大きく広げた。

齋藤:ケージの写真がこどもたちを見守っているという……。

「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」を行っている齋藤紘良さん。

――それはすごい空間ですね(笑)。

森:なぜ、あの状況をつくったんですか?

齋藤:こどもと触れていると、「音楽教育って何だろう?」という自問自答が始まっちゃうんです。僕もいろんな楽器をやりましたが、自分の意思で始めたというより、そうなるべき状況や使命感がまずあり、それを引き取って結果的に続いた感覚がある。その目線からすると、誰かに音楽を教えること、ロジックや手法で教えることにすごく違和感があって。

森:カリキュラム化されていてね。美術もそうですね。

齋藤:いわばそれって、目的が形骸化した、肉がないスケルトン状態ですよね。だから、教える・教えないの前に、こどもたちとはまず一緒に音楽を楽しんで、「肉」をつくりたいなと思った。そのとき、遊ぶ時間を奪わずにすぐできる実践として、ケージがひらいたようなサウンドスケープ的な世界、音の景色を一緒に楽しむことをやろうと思いました。「この音、いいね」とか、普通に言い合える仲になろうと。

――ケージとこどもって、そう聞くとたしかに親和性は高いのかもしれないですね。

齋藤:そうなんですよ。遠いと思ったら、あれ、近いじゃんみたいな。楽器をマッチョに鍛錬しなくても感覚的に音楽ができる。同じ考え方で、美術も歴史的な名画はとりあえず置いておいて、マルセル・デュシャン(*2)とか、現代美術家の写真を飾っています。

*2:1887年フランス生まれの芸術家。画家として出発したが印象派以降の視覚偏重の絵画を批判し、1915年の渡米後、既製品に手を加えて提示する「レディメイド」を開始。男性用小便器によるレディメイド作品《泉》は、現代美術のひとつの出発点となった。

東京アートポイント計画・ディレクターの森司とともに話を伺った。

出会い方をつくる、結びつきをつくる

森:すごい環境ですよね。それで、この環境で育ったこどもたちは、小学校に入ったときに困るそうなんです。つまり、一度とても自由を覚えたあと、型通りにされてしまうから。だけどそこで紘良さんは、それは自分ではなく、社会の方がおかしいんだと考える。

齋藤:重要なのは、「自由」とは言っても「何でもいいよ」とは言っていないことなんです。

森:そう。わがままはさせてないですよね。

齋藤:そうなんです。何を自由にしているかというと、「出会い方」なんですよね。出会い方の自由をつくっているんですよ。べつに、好きになるのはデュシャンでも、『鬼滅の刃』でもいいけれど、前者には出会う機会があまりないから、ここに特別に置いていて。学校は基本的に出会い方が限られている。そうではない入口を見せたいと思っているんです。

「しぜんの国保育園」の入口には、地域の人が訪れることができる「small village cafe」がある。

森:「しぜんの国保育園」では食にもこだわられていますよね。

齋藤:そうですね。「食」って、生活で結構な時間を占めますよね。保育園でも、こどもたちの遊びはお昼ご飯に向けて展開されるんです。だから、その軸となる大黒柱の食のあり方を丁寧に考えていくと、自ずと遊びやそのあとの睡眠が紐づいてくると思っていて。

――ご飯が睡眠につながって、遊びにもつながって……。時間割のようにパキパキ分かれているわけじゃなくて、あらゆることがシームレスにつながっていると。

齋藤:そう。一箇所をクーっと引っ張ると、生活が紐づいて来るんです。具体的には、先々代の頃から「物語メニュー」というのをやっていて。もともとは絵本の中から題材を決めて、それにちなんだ食を出していました。

ただ、じつは僕が園長になった頃、その取り組みが少し形骸化していたんです。先生たちがこどもに「絵本を読ませなきゃ」ということが目的になってしまい、逆転が起きていた。それで、「物語は絵本の中に限らないんじゃない?」と、生活の中にある個人の物語に目を向けることを提案しました。その日の保育の話を給食室の職員が先生たちから聞いて、いまこどもたちの興味はこういうところにあるから、この題材や食材を使おうと、保育と食の連動をより深めたんです。

ここにもさっきの仏教的な感覚があって、すべてが結びついているとするなら、食が保育の問題を、保育が食の問題を解決するかもしれないという考え方でやっています。

森:すごく手間がかかると思うのですが、現場の先生たちの反応は?

齋藤:つねに反対を受けながらやっています(笑)。

一同:(笑)。

森:そこまでして、こどもたちの環境を考えるのは、やはり使命感からですか?

齋藤:誰に言われたわけでもなくやっているので、それもあります。ただ、残り半分はこどもの姿からの行きがかり上。僕の想いも現場の思いも両方正しいです。

森:……話をしていて、なんかわたしたち東京アートポイント計画と一緒にYATOを立ち上げた5年前より、すごく率直に語られるようになられたと感じました。

齋藤:そうですか(笑)? たしかに、そうかもしれません。

森:5年前はもう少し「きちんとしなきゃ」みたいな社会的なポーズがあった気がするんですよ。いまは肩の力が抜けたというか、自由になった気がする。伸び伸びして、遠慮がなくなった。

齋藤:園長を辞めたからかもしれないですね。僕自身、もともと性格的にも真ん中にドシンと立つタイプでもないので、「いたと思ったらいない」くらいの存在になるのがいまの自分自身の構造改革なんです。里山の手入れについても、僕がいなくても回っていくのが理想です。

現場を離れるのは、直接の反応がなくなることで、その意味で少し孤独も感じますが、マインド的には楽というか。さきほどの、仏教についてあらためて言語化できるようになったという話もそうですが、いまは自分の足で漕いでいるという感じがしています。

「しぜんの国保育園」には羊や鹿、豚などが暮らしている。羊の毛を刈って、羊毛をつくることも。

すべてが動き出すまでの、仕込みの5年間――齋藤紘良「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」インタビュー〈後篇〉

Profile

齋藤紘良(さいとう・こうりょう)

作曲家/しぜんの国保育園 理事長
1980年生まれ、天秤座。165cm。56kg。専門は、こどもが育ち、暮らし、老いて死んで次に向かうための環境や文化を考えること。保育施設の運営、500年間続く祭りの創造、寺院の再興、映像番組などへの楽曲提供、そして雑貨と電子楽器を駆使したパフォーマンスなどを行っている。発表音源に『narrative songs』(CD,spotify etc.)、著書に『すべて、こども中心。』(カドカワ)などがある。全国私立保育連盟研究企画委員、和光高校非常勤講師。「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」ディレクター。

500年のcommonを考えるプロジェクト「YATO」

「谷戸」と呼ばれる、丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形を持つ町田市忠生地域。「すべて、こども中心」を理念とする「しぜんの国保育園」や寺院を取り巻く里山一帯を舞台に、地域について学びながら、500年間続く人と場のあり方(=common)を考えるアートプロジェクト。アーティストや音楽家、自然環境や歴史などの専門家や地域の団体と連携し、次世代を担うこどもと大人が一緒に取り組む企画を行っている。
https://yato500.net
*東京アートポイント計画として2017年度から実施

フィクションの部 DAY5〜6「撮影後半」

2021/11/27 7:30-21:00、12/4 7:00-21:00

ポーランドへ一時帰国していたコンスタンチャアが戻ってきた。日本に戻り隔離期間を経てようやくの現場参加になる。

ヒョンジン「実家に帰ってたんですか?」
コンスタンチャア「ほんと時間かかる。行くのに時間かかるし、隔離もあるし。」
キン「ポーランドってヨーロッパの端?」
コンスタンチャア「いや真んなか、ドイツとロシアの間」
ヒョンジン「あ、ポーランド出身?」

撮影の中盤になってようやく互いの出自を共有しているメンバーたち。撮影日3日目(DAY5)は、渋谷のギャラリーからはじまる。

演技 その2

ギャラリーで撮影するのは、ジウン演じる「リー」が中国出身のアーティストに出会う場面。アーティストを演じるのは、同様に中国出身で現在美術大学の大学院で絵画を学んでいるセイブン。ギャラリーに飾られた絵画も全てセイブンにより描かれたものである。設定から小道具となる絵画まで、映画のなかのアーティストとセイブンとはほぼ重なった存在である。だからなのか、この部分のセリフは台本では一切記されていない。その方針は理解しつつも、日本語の発話に対して不安を覚えるセイブンにテイは繰り返しこう話す。

テイ「ふたりはペラペラじゃないから」
セイブン(ジウンを指して)「ペラペラですよ」
テイ「日本語ネイティブじゃないから。自分の言葉でいいです。」

そうして“演技”は極力抑えられ、セイブン自身が考えていること、語る言葉、描いているものが、そのまま映画の一部となっていく。映画でメインに映る絵画には、男性か女性か不明瞭な上半身の胸部分に花が描かれている。絵の選定はセイブンに一任されていたが、どれにすべきか迷っていたところ、ジウンが「なんか迷ってたから、これは?!って決めちゃいました」という経緯で決まったらしい。

ジウン「これは自分を見て描いたんですか?」
セイブン「そう。」
ジウン「私も、彫刻つくるといつも私になっちゃうんですよ。」

ギャラリーの撮影は午前中に終了し、午後の撮影では美術部のキンが出演するシーンの撮影に移る。キンは主役の「リー」の友人役「キン イナ」を演じる。彼女は、演じるキンと同じく在日コリアンという設定。「重なる部分はあるけれど、全く同じとは言えないから、名前も変えたい」という希望もあり、本名を少しだけ変えた役名をキン自身が考案した(ほぼ同様の理由で、ジウンも本名を少し変換した「リー ウンジ」を役名としていた)。ロケ地となる焼肉店は、もともとテイがよく行く店であり、台湾出身の店主にテイ自身が打診して撮影で使わせてもらえることになった。そこで、「キン」がバイト終わりに大学の先輩主催の飲み会に合流する、というシーンを撮影する。

ヒョンジン「どんな感じかな?」
キン「キン イナです。」
ヒョンジン「え?!みたいな。なに人?とかって。日本語上手ですね、とかも。」
キン「日本生まれ日本育ちなんで、当たり前っていうか……」
ヒョンジン「……え?どういうこと?」

飲み会グループのひとりとして、韓国出身のヒョンジンも出演している。このシーンは、「キン」が出自に関する無自覚な言葉を投げかけられるシーン。その言葉を発す役(日本生まれ育ちの日本人という設定)を9歳のときに韓国から日本へ移住したヒョンジンが演じる。どういった会話があったらいいかと練習するふたりの間では、どんどんアイディアが生まれている。前回のレポートで記したように、このシーンについてもテイと演じるメンバーとの間で事前の打ち合わせはあった。それを聞いていたので大きな動揺はなかったが、その盛り上がるリハーサル風景を見ていて、どこかで自分がそのような攻撃者になったこともあったのではないか、という不安な感情が湧いてくる。

テイ「オンニイですよね?」
ジウン「そうです、オンニイです。」
キン「先輩とかつけた方がいいですか?」
ヒョンジン「いや先輩はつけない方がいいかも。」

「リー」と「キン」の会話シーンのセリフも、ジウン、キン、ヒョンジンが現場で知恵を出し合ってつくっていった。登場人物の関係性を表現するのに、韓国語でどの単語を使うのがベストか? どのタイミングで韓国語から日本語に切り替えるのか? それぞれにルーツが重なる部分はあっても、韓国語・日本語との関わりが全く異なる3人のやりとりは、その内容が全くわからない自分にとっても興味深いものに見えた。

進行その2

「テイさん、次に行きましょう。次の方が大事だから。」
「1回切りますか? はい……カット!」

撮影が中盤を過ぎて、ショウの判断が現場の進行とリンクしてきた。特段何かきっかけがあった訳ではない。声量も変わらない。それにも関わらず、ショウの声が現場で聞こえるようになってきていた。それぞれの部署のメンバーたちが自分のやることを理解してきたため、現場自体の混乱が少し落ち着いてきたこと、そしてショウ自身の判断の精度が上がってきたことが要因かもしれない。ただもうひとつ考えられるのが、ショウとテイの関係性の変化である。テイも撮影が進むにつれて、演出の判断をショウと頻繁に共有するようになっていった。

テイ「自転車この向きでいいかな?」
ショウ「いや、あっちから来たなら逆向きに停めると思います。」

ショウ「こっちはどうですか?」
テイ「柱と柱の間?……いいですね。」

もちろんギリギリまで悩んだ後にテイが最終の決断をする。しかしその過程で共有の頻度が上がることにより、若干ではあるが撮影チーム全体の連携が向上する。テイが大声を出す頻度も減っていく。そしてショウは、大きな声を張り上げないまま、現場全体の進行を担う存在になっていく。

役割とコミュニケーション その2

セイブン「そうアップロード」
エイスケ「アップロード?下载(ダウンロードの中国語)の反対?」
セイブン「あ、違うか」
エイスケ「アップデートじゃない?」
セイブン「そう、アップデート。変わるんじゃなくてアップデート。」

セイブンのセリフのチェックをエイスケが助けている。ドキュメンタリーの部からテーマとなっていた、扱える言語が異なるなかでのコミュニケーションは、現場ではほとんど課題となることはなかった。しかしそれは、このような場面でメンバー間での細やかな対応があったこと、そしてそれを実践できるメンバーたちのスキルによるものであった。日本語、英語、中国語を自在に操るエイスケの言語力はプロジェクトを通してチーム内のコミュニケーションを支えていたし、先述のヒョンジンの韓国語に対するサポートや、ほぼ完璧に日本語を扱うアントンの英語話者に対するサポートなども記す必要があるだろう。

また、各部署の自主性もどんどん加速していく。スタッフのサポートから離れ、メンバー自身の判断で撮影が進行する。

アントン「そこブーム(マイク)映ります。全然無理だ……そっち見えないから、そこから出せば?」
カイル「チョウさん、トシキさん、少し後ろ下がってくれますか? その方がカメラを扱いやすい」
トシキ「あ、それ私やります。」

頻繁に生まれる人手不足の状況も手が空いたメンバーが自主的にサポートをする。主演のジウンがレフ板を持ち、助演のトシキがフォーカスを操る。何度も繰り返しテイクを重ねた後、チョウとカイルが小さな画面でプレビューを確認しながら無言でうなづき合う。そこで「はい、OKです!」というテイの声が響く。

キン「めっちゃいい。」
チョウ「なんとも……」
ショウ「そう、なんとも言えない!」

濃厚な4日間の撮影が終わった。その後、いくつかの追加シーンを別日に撮影はしたものの、メンバーたちはこの短期間で1本の映画を撮影してしまった。運営チームがこの撮影計画を立てたときは、実際にその日数内に撮影できるのかは半信半疑ではあった。だからこそ“計画通りに進んでよかった”とホッとする気持ちより、“本当にできてしまった!”という驚きの方が圧倒的に大きかった。
フィクションの部での映画制作は、ワークショップの域を越えていた。ただ単に映像づくりを体験して楽しむという姿勢ではなく、“よい作品”をつくるという意志のもと全員が動いていたし、日を追うごとにそれぞれのスキルと、チームの連携は向上していった。このプロジェクトのことを知らずにこの撮影現場を見たならば、きっとプロフェッショナルなチームだと勘違いしたと思う。そして、この協働の体験を通して、メンバーたちの間の関係性も著しく変化したはずだ。この特別な期間でそれぞれが役割を担い、その役割を通して生まれた関係。そこにあるのは、横並びの平等でもヒエラルキーでもなく、凸凹なものを補いながらともに前へ進んでいく姿勢だ。

「毎週会っていて……来週からそれがなくなると寂しくなります。」

現場での最後のミーティングで、テイはメンバーたちに改めて感謝を伝えた。撮影した映像は、この後、テイによって編集され1本の映画となる。そこには何が映っているのか。ルーツが異なるメンバーたちが協働してつくったこの映画には、いったいどんな“まち”が存在しているのだろうか。

執筆:阿部航太(プロデューサー、記録)

フィクションの部 DAY3〜4「撮影前半」

2021/11/13 7:00-18:30、11/20 8:00-21:00

朝7時、初日の撮影は清澄白河のとあるカフェから。機材が搬入され、それぞれの部署で撮影の準備が始まる。プロジェクト全体を通して、時間通りにメンバー全員が集まることはほぼなかったのだが、撮影日でもそのゆるさは変わることはなく、それを見ているとこれからの進行が少々不安になる。集合時間の30分後にようやくオールスタッフミーティングが開かれる。その日の撮影スケジュールを全員で共有した後、テイがメンバーたちにこう伝えた。

「今日早くから本当にありがとうございます。私、8年前の大学の卒業制作のときも早く起きて……なんか懐かしいなと思って。これからの撮影も、何年か後に楽しい思い出になったらいいなと思います。」

演技

「ジウンさんは、何か聞かれたら、自分なりに返事をすればいい。」
「英語、入れても大丈夫。カイルさんが話しやすいやりかたでいいです。」

セリフの確認をする中で、テイが俳優たちに伝える。台本には重要なセリフのみがあり、その前後の会話に対しての指示は記されていない。テイは“役柄とバックグラウンドを共有できる”というポイントを重視してキャスティングした。だからこそ、俳優のそれぞれの素直な反応が、撮影時のアクションやセリフになればいいと考えた。それでも現場ではイメージ通りにことは進まない。短いセリフや単純なアクションをこなすように俳優が動き、どうしても“演じている感じ”が出てしまう。テイが「うーん……なんかスムーズすぎますね。」と頭を抱える。

アドリブを積極的に採用する姿勢ではあるが、テイは俳優たちに全てを委ねようとしているわけではない。本番前にも、テイは俳優たちと個別に話をする機会をつくり、その中で登場人物たちがそれぞれのシーンで何を思うか、対話しながらキャラクターをつくりあげていった。その作業は、それぞれの個人的な事情や、それに対する感情を共有することになるため(ネガティブな記憶や感情を再び掘り起こすことにもなりかねない)、テイは慎重にプロセスを踏んでいった。ただし、テイも俳優たちも、映画の中の登場人物たちの境遇や考えを確実に理解しているとも言い難い。“想像”することでしか導き出せないセリフもある。夜の橋を主人公の「リー」が歩くシーンを撮影するとき、彼女が夜景を見ながら何を思い浮かべているかを、マンションの窓の灯りが並ぶ風景を見ながら、テイと「リー」を演じるジウンが話していた。

テイ「何かな。例えば故郷の家とか。実家はマンションですか?」
ジウン「いや、一軒家です。」
テイ「そうですか……。じゃあ例えば友達のキンさんの家が、あたたかいマンションとか……。」
ジウン「でもこういう風景、なんか韓国にもありそう。」
テイ(上を見上げて)「飛行機。結構来ますね。20秒に1回くらい……。ジウンさん本当は先週……」
ジウン「そう、帰れなかったんですよ。韓国に……。」

進行

「あと10分でテスト始めます!」

演出部のショウが声をあげる。当日のスケジュールの進行を担う演出部は、部署それぞれがこだわりを持って続ける作業をなんとか収拾させ、設定した時間通りに撮影を進めていくのが仕事である。通常の映画の現場では、一番大きな声を発するのがこの役割を担う人で、そのリーダーシップが撮影を順調に進めていくための鍵になるという。しかし、この現場はそれとは少し異なる進み方をしている。もともとショウは一昨年から発声障害で声が出しづらい状態が続いている。ただショウ自身はそれを悲観視せず、その中で人とどう関わるかを考えたいと、プロジェクト初期の段階で話をしていた。そのショウの言葉は現場でどう響いているのか。
とにもかくにも、誰もが初めての撮影であるこの現場は、なかなか想定通りに進まない。予想外なところで時間がかかってしまったり、ロケ地が変更になって移動の途中で路頭に迷ったり。そこでショウは度々声をあげるが、どうしても後手にまわってしまい、なかなか現場をリードできない。テイも常に次のシーンの演出に悩みながら進めているところもあり、演出部にスムーズに意思を伝達することもできていない。このように、声の大きなリーダーが不在のまま現場は進んでいく。

役割とコミュニケーション

カイルが「今はドアがセンター。他のオプションは、建物がセンターでドアが右ぐらい。でもこのアングルは公園も見えるから……。」とカメラアングルをテイに提案する。カイルはプロとしての経験はないが、映像プロダクションのマネージャーとして働きながら、個人的に友人らと映像制作をしていることもあり、カメラを扱う知識はある。そういった専門的な知識や経験は、言うまでもなく撮影を進めていく上で重要な力となった。同様に、大学で録音を学び、機材の扱いに慣れているパイは録音部を支える存在であったし、舞台をつくる経験を持つエイスケが、細かな演技のコツを俳優らへ伝えたりする場面も目にした。
しかし、撮影未経験のメンバーたちが、経験者と同様に動き出すのにはそこまで時間はかからなかった。撮影1日目(DAY3)の午後にはそれぞれの役割を理解しつつあるようには見えたし、すでに撮影2日目(DAY4)にはそれぞれが自発的に動き始めていた。主役のジウンのヘアメイクをやりながら「疲れてない? なんかエネルギーになるもの買って来ようか?」と気遣う美術部のパイヴァ。その横から録音部のケイがピンマイクをジウンに取り付けながら「今日は何曜日ですか? 土曜日? 土曜日の韓国語は?」と、流れるようにマイクテストを行っている。また部署ごとの役割の中でも、個々のメンバーそれぞれの“得意なこと”が見えてくる。例えばカメラのフォーカスをコントロールする役目を担うことが多い撮影部のJPが、コントローラーを持って小さなモニターの前に腰を落ち着けると妙な安心感がある。そうしてそれぞれの仕事にのめり込むメンバーたちを見ると、俳優、スタッフ関わらず皆がどこかそのポジションを“演じ”ているように見えてくる。録音部のパイが「もうちょっとマイクを下向きにした方が」と同じ台湾で生まれ育ったケイにあえて日本語で指示を出す。特殊なこの現場において、それぞれの“役割”は、メンバーたちの振る舞いをつくる。どこかわざとらしい言動ではあるのだが、他人行儀なそれとも異なる。今ここにある現場を共有し、自分の役割を探し、それを纏い、コミュニケーションを交わす中で特有なグルーヴが生まれている。

オフ

現役美大生であるセイブンとヒョンジンが、橋の欄干に寄りかかって話をしている。それぞれが通う大学のこと、先生、先輩アーティストについての話が聞こえてくる。撮影の現場では、どうしても“待ち”の時間が発生する。1日の撮影の中でも頻繁に待機時間があり、荷物のあるベース(拠点)で、他のメンバーたちの作業終了の報告を待つことになる。ただ待つことはそれなりに苦痛なのだが、メンバーたちにとっては改めてそれぞれのことを共有する良い時間になっていたように見えた。

セイブン「韓国語読めない。」
キン「日本語の方が覚えやすいっすよね。」

アントン「JLPT(日本語能力検定)N1今度受ける。全然勉強してない。」
パイヴァ「N1?すごいね!でもあと2週間あるから大丈夫だよ!」

カイル「フィリピンってクリスマスが4ヶ月あるんでしょ?」
JP「そう、バーマンス(ber month)って呼んでるんだけど。」

オフの状態の会話からは、“役割”を一時的に脱いだメンバーたちの表情が垣間見える。撮影2日目(DAY4)の終盤、すでに終了予定の時刻をオーバーして撮影が続いていたとき、待機中の撮影部カイルと録音部パイの間でこんなやりとりがあった。

カイル「パイさんは、普段もサウンドの仕事をしているの?」
パイ「いや、やってるんだけど、こういったクリエイティブの感じじゃないかな。だからやりたいって思って。」
カイル「そうなんだ、専門技術があるように見えたから。」
パイ「大学ではこういうことやってたんだけど、今は全然できてなくて。」
カイル「それは自分も同じで。今はやれてないけど、いつかはこっちの道に行きたいと思っていて……。お互いがんばろう。なにか良い情報があったら交換して、連絡とっていこうよ。」

幸運なことに天気にも恵まれ大きなトラブルもなく、なんとか撮影の前半2日を乗り切った。メンバーたちは、非日常であった毎週末のロケに段々と慣れてきているように見える。ただ、映画に必要なシーンのまだ半分も撮影できておらず、全体のイメージは繋がっていない。“映画”となっていくのは、まだまだこれからだ。

執筆:阿部航太(プロデューサー、記録)

フィクションの部 DAY1〜2「撮影準備」

2021/10/30 10:00-17:00、11/7 10:00-18:00

ドキュメンタリーの部が終わり、フィクションの部が始まるまでの1ヶ月強のインターバル期間で、メンバーたちはグループごとに作品制作に取り組む。その一方で運営チームは、フィクションの部での映画撮影のための準備にとりかかる。本来であれば、その準備も重要な映画制作の一部であり、メンバーたちにも参加してもらいたい気持ちはあったが、期間、予算ともに限定的な条件のため、運営チームのみで進めていくことになった。

脚本

「ある外国から来た女性が、日本人の恋人と別れて、自分の国に帰ることを決めます。そんなとき、その人は日本にきたばかりの留学生と出会います。ふたりはこのまちについて、色々と話して特別な東京ツアーに出かけます。」
これは、監督のテイがプロジェクト開始時に書いた粗筋である。この主人公は、テイが日本で出会った、同じく台湾出身の知人がモデルとなっていると聞いたことがある。人がそこにいる“理由”を見失ったとき、何を寄りどころとして自分の居場所を確認していくのか。テイ自身も明快な答えを持っていないこともあり、この粗筋にはその一番大事な部分が抜け落ちていた。そこに入っていくるのは、ドキュメンタリーの部でのフィールドワークやインタビューを通して拾い上げられた風景、言葉、エピソードである。メンバーの様々な経験や想いを重ねあわせながら、テイが脚本を仕上げていく。

ロケハン

撮影する場所を探すロケハン(ロケーションハンティング)もこのインターバル期間で行った。テイの脚本の作業が進むごとに運営チームで打ち合わせをして、それぞれのシーンに必要なロケーションをピックアップしていく。テイから様々な要望が出されるが、今回は商業的な映画制作ではなく予算も限られているため、基本はスタッフの人脈を駆使しながら安価で使用させてもらえる場所を見つけていった。屋内のシーンはそのようにしてなんとか目処がついたが、一番苦労したのは屋外のシーンであった。「新しいまち」をテーマにした映画をつくろうとしているため、自ずと屋外のシーンが必要になる。そして屋外も同様に(そこが公共空間であっても)そこで撮影をする“許可”を取らなければならない。しかし許可を取ろうとすると“この区の公園は夜間使用禁止”や“三脚や照明を立てることは禁止”などといった厳しい条件を突きつけられる。そして管理する主体も、警察、行政の土木課、管理を請け負っている建設会社など様々で、それぞれに手続きが必要となる。映画制作の業界では当たり前のことであるのかもしれないが、初めて体験した者としては“公共の空間”とされている場で撮影することの異様なハードルの高さに面食らってしまった。

キャスティング

このプロジェクトではキャストはすべて参加メンバーが担うことになっているが、ここまでの活動でメンバーたちのバックグラウンドを聞く限りでは、演技経験のあるものはひとりか、ふたり程度。しかし今回のプロジェクトでは決して演技力があればうまくいくとは限らない。そこで、まずはテイが気になるメンバー数人に声をかけ、個別にオーディションを行った。そのオーディションは、簡単な模擬演技はあったものの、演技審査というよりリラックスした面談形式のもの。テイから現状の脚本の内容を伝え、それについてキャスト候補のメンバーから、どう思うか? 似たようなエピソードを持っているか? と聞き取りを行った。運営チーム内で多少の共有はあったものの、テイの最終判断でキャストが決定した。

フィクションの部 DAY1

10月30日、フィクションの部DAY1が始まった。ドキュメンタリーの部でA期、B期と二手に分かれていたメンバーたちが一同に集まる。改めて胸元に名前(どのように呼ばれたいか)を書いたテープを貼り付け、「初めまして」「久しぶり」と挨拶を交わしながら、少しぎこちない空気のなかで自己紹介が始まる。テイは、はじめの挨拶で「フィクションの部、不安です……。」とこぼした。笑いながら冗談で言ったことではあるが、“どのようにメンバーたちと共に作品をつくれるのか?”と“これからつくる映画は本当に面白いものになるのか?”というふたつのプレッシャーに挟まれているのだろう。

DAY1最初のプログラムは、ドキュメンタリーの部DAY3での取材を元にしてメンバーたちが制作した映像作品の上映会。ドキュメンタリーの部の最終日以降も、グループごとに連絡を取り合って制作してきた成果を皆で鑑賞する。映像編集自体がはじめての経験だったメンバーも多いなか、多くのクオリティの高い作品が映し出された。すべての作品は、取材を受けてくれた人たちを誠実に映していると感じたし、環境音をうまくインサートしたり、黒い背景を効果的に用いたり、字幕を入れて内容を補足したりと、内容を“伝える”ためのクリエイティブな工夫が各所に見られた。

A期、B期の上映が終わった後、フィクションの作品づくりがスタートした。まず、それぞれに台本が配られる。そこには脚本やロケ地の情報などがまとめられていて、撮影の現場で常に携帯するものである。また、それぞれが必要な情報を自身の判断で書き込むノートとしても機能する。台本がメンバー全員に渡ったところで、脚本を輪読してストーリーを全員で共有する。すべての漢字に振り仮名をふってはいるものの、初めて読む日本語の文章に苦労しているメンバーもいる。それでもなんとか読み終えたメンバーに、テイはこう伝えた。

「脚本を読んで、なんかあれ? 聞いたことがあるセリフ、と思ったと思います。ドキュメンタリーの部DAY2のみなさんのポートレイト、本当にいろんなセリフをちょっとずつ脚本に入れました。だからドキュメンタリーの部がなかったらこの作品はなかったと思います。このストーリーは、本当に私たちのストーリーだから、これからみなさんと一緒にがんばろうと思います。」

その後、テイからキャストが発表された。まわりのメンバーは拍手でそれを受け入れる。そして次は撮影クルーの振り分けに移る。このプロジェクトでは、参加するメンバーの人数に応じて5つの部署に分けて映画制作に取り組む。プロデューサーのひとりである森内が“役割”についてメンバーに伝える。

「チームが大きくなって、全員でひとつの作品をつくるので、仕事を分けないといけません。やる作業が全然違います。でも、自分はこの仕事しかないんだと思ってやっていくとだんだんと作品への関わり方が薄くなってしまうので、作品がどうやったら面白くなるかは常に意見を出して。役職が強くなっていくとヒエラルキーの関係になって、会社とかバイトとか、お仕事の関係性になってしまうんですけど、そうじゃなくて常に丸い状態なんだっていう意識を持って役割を担ってほしい。」

それぞれの部署についての説明を受けたメンバーたちは、自身の希望をアンケートに記入。それを運営チームで取りまとめて、各部署へ配置する。結果として以下のようなメンバー構成となった。

「俳優部」主役/助演:ジウン、トシキ
「演出部」助監督/制作:エイスケ、ショウ、コンスタンチャア
「美術部」小道具/衣装/メイク:キン、セイブン、パイヴァ、ヒョンジン
「撮影部」カメラオペレート/照明:カイル、チョウ、JP
「録音部」マイクオペレート:アントン、ケイ、パイ

部署に分かれたメンバーたちは、DAY1とDAY2にかけて、それぞれの役割を学びながら撮影の準備に入る。各部署には、運営チームからひとりずつスタッフが配置され、サポート役を担当。最初はスタッフがリードしながら進めることになるが、だんだんとメンバーたちが自身の判断で撮影を進めていくよう促す方針をとる。

フィクションの部 DAY2

DAY2は、拠点であるROOM302に戻り、撮影のリハーサルを行う。数カ所の重要なシーンをピックアップし、擬似的に環境をつくり、実際に撮影してみて課題を確認しながら本番の撮影に向けて準備することが目的だ。各部署の様子を観察すると、まだまだ仕事に対する姿勢にばらつきがある。打ち合わせでポンポンとアイディアが出る美術部、三脚を組み立てるのにも手こずる撮影部、マイクをかかげて「つかれた……。」とつぶやく録音部、現場を仕切ろうとする気合はあれどもスムーズに進まない演出部、そして自分が映るモニターを恥ずかしそうに眺める俳優部。「名前……JPさん?」と未だに名前を確認している声も聞こえてくる。

なるべくアドリブを取り入れたいというテイの意向もあり、脚本もまだまだ空白の部分が多い。そのため、ひとつの定まったイメージを全員で実現していくといったシンプルな流れができない。それで無駄な時間を食うこともあったが、一方でその余白がメンバーの主張を少しずつ引き出していく。チョウがテイに中国語でカメラアングルを提案すれば、常にテイの横に付いているショウが積極的に演出のプランを提案する。手が空いた美術部のセイブンがコードの巻き方を練習する横で、不安そうにモニター越しに演技をチェックしていたテイが、トシキの強烈なアドリブに吹き出す。「コーヒーのテイクアウトが、サラダのテイクアウトになっちゃった……。」

「本番の撮影は時間がけっこうギチギチなんだけど。でも、皆それぞれがこだわりたいところを捨てたくない。うまくバランスをとってやっていきたい。」

最後のオールスタッフミーティングで演出部のショウは本番への意気込みをこう語った。なんとなくそれぞれの役割が見えてきたメンバーたちの次のステップはいきなり本撮影。無理があるとは理解しつつも、その少し無理な状況をどのようにそれぞれが乗りこなしていくのか。引き続き追っていきたい。

執筆:阿部航太(プロデューサー、記録)

千住の1010人 from 2020年《2021年を作曲する アジアだじゃれ音Line音楽祭》

「千住の1010人」は、足立区を舞台に活動する『アートアクセスあだち 音まち千住の縁』によるプロジェクトであり、作曲家・野村誠によるプロジェクト「千住だじゃれ音楽祭」の一環として実施しています。1010(せんじゅう)人の参加者が千住(せんじゅ)に集い、さまざまな演奏や表現を繰り広げます。

本映像は、新型コロナウイルス感染症の影響を受け事業方針を転換し、2021年度に開催したオンライン参加型企画「アジアだじゃれ音Line音楽祭」の記録を中心にまとめています。1010人の演奏者たちが集うはずだった船、公園、大学、まちでセッションを行い、その風景や音源を組み合わせて作曲、編集した音楽映像作品です。

ドキュメンタリーの部 B期 DAY3「他者のルーツをまちのなかに見出す」

2021/9/19 10:00-17:00

DAY2で、それぞれの「シネマポートレイト」をつくることを通して、互いのルーツや現状の思いを知ったメンバーたち。その経験を応用しながら、DAY3のプログラムに臨む。

DAY3「他者のルーツをまちの中に見出す」

A期と同様ではあるが、ここで改めてプログラムの内容を記す。3つのグループに分かれたメンバーたちが、上野エリアの外へ出て、「まちのなかの他者」に会いに行き、そこでその人のルーツを見出すことを試みる。その日初めて会う人とともにフィールドワークを行いながら、その過程を音声と写真で記録し、最終的に10分以内のドキュメンタリー作品を制作する。

今回は「まちのなかの他者」が「探す人」である。その人の探す旅を記録するために、DAY2と同じように3つの役割を設けるが、DAY3ではローテーションはなく、それぞれの役割に専念する。括弧書きで映画制作の現場で使用される役割を与え、その日限りのワークショップではなく、あくまでも実践の一環として意識してもらう。

①インタビューする人 (インタビュアー)
・取材対象者の旅に伴走する

②録音する人(サウンドオペレーター)
・音声で記録する

③写真を撮る人(カメラオペレーター)
・写真で記録する

今回は「まちのなかの他者」として、プロジェクトに興味をもっていただいた方の中から2名、そして運営スタッフの知人2名に出演をお願いした。事前の運営スタッフによるヒアリングで伺った、それぞれの人の「馴染みのまち」が、今回のフィールドとなる。

グループB1

①インタビューする人 (インタビュアー)+②録音する人(サウンドオペレーター)録音:キン
③写真を撮る人(カメラオペレーター):ケイ
出演者:水野ジュメイさん
フィールド:千葉県船橋市中山

千葉県船橋市にある下総中山駅で水野さんと待ち合わせる。メンバーが今日のフィールドワークの意図や、録音のやりかたを説明すると「私も映像を撮ってるので。」と理解の早い水野さん。改札前で早々に録音を始めようとする2人に水野さんが「ここは改札の音とかがあるから。」と促し、3人はまちを歩き始める。

最初に向かったのは、彼女が通っていた小学校。中山は、水野さんが生まれてから小学校2年生の頃まで過ごした場所だという。その頃の記憶を頼りに道を進んでいたところ、以前は通り抜けできていた道が新しいマンションに塞がれていた。水野さんは少し唖然としながら「まちって変わりますね。記憶の中で歩いていたんですけど。やっぱり記憶だと今とずれがあるんだな。」と話す。

両親は中国出身であるが、水野さんはこのまちで生まれ育った。幼いころに両親の判断で帰化し、日本国籍を持っている。家庭では日本語が共通語であり、料理も彼女が食べたいものとして日本料理が出てくることが多かった。両親が中国の新年を祝うことはあっても、彼女がそこに参加することはなかったという。そのような環境や、帰化のタイミングもあり、幼いころは自分を素直に日本人と認識し、あえて中国のルーツを公にすることはなかったという。「隠してきたな、ていう人生です。」と彼女は語る。

一方で、キンが自身が小学4年生まで通っていた朝鮮学校のことを打ち明ける。「そこで、純粋な韓国語とはまた違う、コミュニティ内で通用している韓国語、朝鮮語を学んでいたんですけど。それが結構アイデンティティを獲得するには役割を果たしていて……。」学校の指導でも日本語を使用することを避ける方針があり「自我を獲得する前から言われていたので、無意識的に”日本人じゃない”ていう意識があって。」と話す。そして、「ちょっと質問項目がうまくまとまってないんですけど……。」と言いつつ、自身のアイデンティティに向き合うことへの恐怖、そしてそうせざる得ない状況に対する怒りなどとどう向き合っているのか?とキンが問いかける。

水野さんが自身の中国のルーツに初めて向き合ったのは、美術大学での卒業制作であった。そこで「血と育ち」というテーマを掲げてインタビューを重ね、どのように個々がアイデンティティを獲得していくのかを探求していった。そして今“ルーツは自分にとっては縁のようなもの”と考えているという。「自分の言葉とか、味の好みとか、そいういうもの、価値観とかは生まれて育った場所とかで、周りの人たちがどういうことを私に伝えてきてくれたかで決まっていくものだから。」と話す水野さんの言葉を聞いていると、ルーツというものが流動的なものに思えてくる。既成事実として存在するものではなく、生まれてからずっと変化し続け、そして今後も変化し得るもの。現在も同じテーマで創作を続けている水野さんのルーツも、今後また変化があるのかもしれない。

3人は、住宅街、商店街を抜け、まち中にある寺にたどり着いた。そこは、中学から高校まで演劇部で活動していた水野さんたちの稽古場だったという。そこで3人はお賽銭を投げ入れ、並んで手をあわせる。その帰り道、高架下にある証明写真のブースで3人の記念写真を撮った。この2時間で互いの距離がかなり近づいたのがわかる。「めっちゃなんか、シンパシーを感じる部分もかなりありつつ……でも、ちゃんと向き合ってる姿勢がすごい尊敬できて。」と話すキンの表情からはマスク越しにでも明るいものが見てとれる。

グループB2

①インタビューする人 (インタビュアー)+②録音する人(サウンドオペレーター)+③写真を撮る人(カメラオペレーター):エイスケ、ジウン
出演者:ハンさん
フィールド:十条、王子、赤羽

十条の駅近くの公園で待ち合わせる。ハンさんは「緊張して何話せるかわからないけど。」と言いながら、明るい表情で「何でも聞いてください。」とメンバーの2人を受け入れてくれる。線路の脇道を歩き出すと、電車が轟音を立てて通過する。録音するのにとまどうエイスケに「いいことは駅が近くて便利なとこだけど、ちょっとその辺がね。」とハンさんが笑う。

ハンさんは中国の内モンゴル自治区の出身で、現地でエステティシャンとして働いた後、来日する機会を得た。最初は「日本語が困って。シャンプーとリンスをよく間違えて……やっぱり勉強しきゃ。」と思い、アルバイトしながら日本の美容学校に通い、美容関係の職についた。その後に出産、離婚を経験し、現在は十条で息子とふたりで暮らしている。

3人はハンさんの息子が通っているという幼稚園を目指す。ハンさんは、もともと本プロジェクトのプロデューサーを担当する森内の妻の友人であり、その縁で今回は協力いただいている。「すごくありがたいんです。子供のこととか何かあったら、困るな、悩むなと思って連絡すると、何かアドバイスしてくれる。」そうして、息子の幼稚園も見つけることができたという。それを聞いたエイスケは「うちのお母さんもそういうふうに、いろんな人に聞いたんだろうなって。」と笑いながらつぶやく。エイスケも、台湾にルーツを持つ自分の母が経験した苦労を想像しているようだ。

幼稚編の隣の公園で何枚か写真を撮った3人は、そのまま歩いて王子駅に辿り着いた。活気あるこの商店街へは、普段はドラッグストアなどで日用品を買うために訪れるという。そこでエイスケが「調味料とかどうしていますか?」と聞いたところ、赤羽にある中華系の物産店で買い物をしているとハンさんは答える。その店のことに興味を持ったメンバーを見たハンさんは「ちょっと待ってね、今日やってるか聞いてみます。」とすぐさま電話をかける。その素早さに対して“やっぱり”というトーンで「僕の母も!」「わたしの中国人の友達も!」と反応するふたりに「この近辺の中国人、知り合いになったらもう友達で、電話番号交換して、WeChatを交換して、なにかあったら情報で流す、早いです。」とハンさんが明るく答える。そして3人は電車に乗って赤羽へ向かう。

道すがら、エイスケとジウンはハンさんに自分の子供時代のことを語った。言葉のこと、習い事のこと、そして親との関係のこと。ジウンが自身の母が35歳で自分を出産したことを話すと、ハンさんは驚いて「私も!」と返す。そしてジウンは、5歳の頃に両親が別居状態となり、彼女は母と祖母のもとで育ったと、話を続ける。それに対するハンさんの「自分も悩みながら、パパいない、兄弟もいない、寂しい思いさせてごめん、て……」という言葉を遮るように、ジウンは「でもそれは全然必要なくて。片親でも愛されたり尊重されたりしたら、寂しい思いは絶対しませんし。私はたくさん愛されたし、おばあちゃんが愛してくれたし。私は幸せでした。」と言い切った。ハンさんは、「そっか、ありがとう……。今日2人に会えて……、なんか……、ありがたいです。」とこぼした。

物産店に着くと、そこには中華系の商品が所狭しと並んでいた。それを見たエイスケは「普通に見えちゃって、どれを撮っていいやら。」と笑いながらカメラをジウンに渡す。一方ジウンは、お菓子などを物色しながら、いちいち驚いて「美味しそう。」とつぶやいている。

買い物を済ませ、十条に戻るとそこにはハンさんの息子と、息子の面倒を見てもらっていた同じアパートに住む女性が待っていた。恥ずかしそうにしている息子にエイスケがマイクを向ける。「内モンゴルに行ったら何したい?」と聞くと彼は「馬に乗ってみたい。」と答えた。

グループB3
①インタビューする人 (インタビュアー):カイル
②録音する人(サウンドオペレーター):セイブン
③写真を撮る人(カメラオペレーター):テイ
出演者:ジョイスさん
フィールド:井の頭

京王線の久我山駅でジョイスさんと待ち合わせ、改札前で今日の意図を説明する。まずは言語の確認。インタビューを担当するカイルは日本語でのやりとりに不安を感じていたため、とりあえず英語での会話を先行させ、エピソードを録音するときには日本語で改めて語り直す、という方法をとることに。「とりあえず歩きながら。」というジョイスさんの提案のもと、4人は歩き出す。駅を出るとすぐに川沿いの道に出る。それは神田川で、ドキュメンタリーA期のグループA1が訪れた高井戸で流れていた川に続いている。

ジョイスさんは現在大学院に通うために横浜に住んでいるが、この井の頭のエリアには去年まで住んでいたという。川沿いの豊かな桜並木の緑道を進むなかで、ジョイスさんはこのまちに引っ越してきたときの情景を思い出す。「2018年4月1日。その前に代々木上原に住んでいて、引っ越してきた日に、自転車で代々木上原からこっちにきた時に、もう満開で。それがめっちゃ覚えてる。」また、この緑道の先には井の頭公園があり、コロナ禍でのロックダウン中は、ひらすらこの道を通り家と公園を往復していたという。

ジョイスさんは、香港で生まれ、カナダ、ロンドンで育ち、交換留学の機会で初めて日本で暮らすようになる。その後、大学院に通うために改めて来日。卒業後はアート系書籍の編集の仕事をしながら、昨年から再び大学院に通い出した。そのように彼女の人生は常に移動とともにあり、引っ越しの回数も多い。日本で暮らして9年になるというが、ひとつの場所に留まることが苦手であるため、そろそろ外へ出ることも考えているという。「新しい場所で新しい経験のために、日本を離れてもいい」という可能性に対し、カイルは羨ましそうに「I miss that path.(その感じが恋しい)」とつぶやく。

ジョイスさんが井の頭で暮らしていた家はシェアハウスだった。そこに彼女が越してきた後、前からそこで暮らしていたカップルの間に子供が生まれた。知人からは他人の子供と暮らしていることに驚かれることもあったというが、その環境は彼女自身の興味や考え方ともマッチしていた。ジョイスさんは編集者であると当時に、メディアアートを実践するアーティストでもあり、彼女の現在のテーマは“家族の定義”であるという。「“友だち以上家族未満”の関係性が一番心地いいなと思って。」と話す彼女は、家族と暮らしていた頃は心配性の母に束縛されると感じていた。一方シェアハウスでは、それぞれの自由を尊重しながら支え合って生活する関係性が心地よかった。それを聞いたセイブンも「わたしもお母さんとあんまり連絡をとってなくて、少し共感できる。」と打ち明ける。「人間はコミュニティの中に住んでいるっていうか、親密な仲は必要。ひとりで生きていけるけど、家族のような親密な関係は人間の本能として誰でも欲しい。でもそれは一般的な家族っていう関係性だけではないはずで、別のかたちでそういう関係性を見つけたい。」と考えているジョイスさんはそのためにも作品制作やリサーチを今も続けているという。

私はこの話を聞いてグループB1で出演いただいた水野さんの言葉を思い出す。共に、roots/homeを場所に限定せずに、“関係性”の中に見出している。そして、それは不定形であり変化し続ける。4人は井の頭公園にたどり着く。川の流れは続いていて、公園ではその水面に近づくことができる。水の流れる音が心地よく聞こえる。

グループB4

①インタビューする人 (インタビュアー):パイヴァ
②録音する人(サウンドオペレーター):チハル
③写真を撮る人(カメラオペレーター):JP
出演者:ラクシーさん
フィールド:南麻布

地下鉄広尾駅の地上出口で待ち合わせる。横断歩道をはさんで反対側の出口にいたラクシーさんを見つけ、メンバーが大きく手を振る。そんな初対面を経て、4人は近くの有栖川公園へと歩き出す。そこは、ラクシーさんの家から徒歩圏内で、コロナ禍の前はよく子供と訪れていた場所だという。公園に着くと、そこは起伏があり、様々な木々や植物が生い茂る豊かな公園だった。強い日差しを避けるために東家に入る。「ここにはパキスタンにはない植物があるけど、なぜか故郷を思い起こさせるんです。」とラクシーさんが話す。

メンバー3人とも英語を得意としていることと、ラクシーさんも英語の方が意思疎通しやすいとのことから、英語でやりとりが交わされる。ラクシーさんは、“典型的なパキスタンの村”で生まれ育った。そこは大きな山々が背景にあり、土壁でできた家で大家族が暮らし、ガスは通っておらず薪で火を焚き料理をしていた。大学を卒業して現地で働き、そこで2人の子供を育てていたところ日本にくる機会を得た。日本で暮らして4年になり、今は専業主婦をしているという。

東屋を出て、少し公園内を歩く。誰かが管楽器の練習をしているようで、なごやかな音色がときたま聞こえる。この公園での具体的な思い出をパイヴァが訪ねる。「日本に来た時、自転車に乗れなかったんです。」とラクシーさんが話し出す。パイヴァが「私もです。」と返す。「先に日本に来ていた兄に、ここで習いました。兄、母、そして息子も加わり後ろから押しながら〈お母さん、こうやってやるんだよ。どうして子供の頃に覚えなかったの?〉って言われながら。」とラクシーさんは懐かしそうに話す。

4人は公園を出て、南麻布のまちを歩き出す。向かったのは、近くにある「アラブ・イスラーム学院」。そこにはモスクや、アラビア語の学校などの施設があり、ラクシーさんも以前は礼拝で通っていたという。しかしコロナ禍となってからは、人々の集まりが制限され、しばらく訪れることができていなかったから「今日もやっているかわからない。」と話す。到着すると、門は閉ざされており、管理人に確認すると改装工事中で中に入れないという。ラクシーさんは残念そうに「いつもはこの門は誰にだって開いているんです……。中に入ると水とデーツをくれて……あなたたちにもあげたかった。」と話す。学校が開校されていたころは、多くの日本人がアラビア語や、イスラム教について学びに来ていたという。ラクシーさんはそのように自身の文化や風習に興味を持つ人がいることを嬉しく思っているという。「ヒジャブは私のトレードマーク。私は他の人と違う、ユニークなのです。だから○○のお母さんだ!ってみんな気付いてくれる。」と楽しそうに話すラクシーさんに、「それはアインデンティティなんですね。」とパイヴァが返す。

旅の終わりにパイヴァが「日本に住む外国人として他の人の視点や、経験を聞くことができてとてもリフレッシュしました。」とお礼を伝えると、ラクシーさんは「そうね。この会話は、それぞれの故郷へ連れていくね。」と答えた。

編集準備/ディスカッション

それぞれの場所でフィールドワークを終えたメンバーたちがROOM302に再び集まり、フィールドワークで記録した写真と音声をもとにしたドキュメンタリー作品の制作にとりかかる。メンバーたちは、今日のプログラム終了後も、各グループごとに連携をとりながらフィクションの部の初日に行われる上映会を目指して制作を続ける。ひと段落したところで、DAY3、そしてこの3日間を振り返るディスカッションが行われた。

キン「人のことについて聞く時間の方が長かったかもしれないけど、逆に自分のことについて考えられる時間だった。」

ケイ「こんなに激しく自分のルーツを探すことはなかったのでちょっと疲れたんですけど……ルーツっていうのは答えじゃなくて“縁のようなもの”というインタビューで受けた言葉が、とても美しかった。」

カイル「静止画と音声で記録する方法がすごく面白かった。映像は普段仕事で扱ったりしているけど、今回の方法は自分にとってチャレンジでもあったし、すごくフレッシュな体験だった。」

ジウン「大学院を卒業して、会社に入ってどんどん自分を失っていって……でもこのプロジェクトが始まって、大学院に戻ったみたいで、自己表現するのってこんなに楽しいんだ!って思って。これから自分が制作しないといけない理由をひとつ見つけました。」

ドキュメンタリーと銘打って、あくまで“記録”という姿勢で取り組んだこの3日間だったが、そこには常に表現が介在していた。他者をどのように捉えるのか、自分をどのように伝えるのか、他者と自分の間にあるずれをどのように考えるのか……そこで生まれたコミュニケーションは新たな“自己表現”であったはずだ。この3日間を締めくくる最後の言葉を求められたテイは、メイキング用のマイクとカメラを向けられ「こうやってマイクとカメラを向けられると、すごく緊張しますね。私、今もちょっとたどたどしいけど。でも、これも自分ですよね。これもテイですね。だからこれで新しい自分を見つけて……それもいいと思います。」と話した。
フィールドワークやインタビュー、映像制作を通して見つけた新しい“自分”を抱えながら、ドキュメンタリーの部は幕を閉じる。プロジェクトは約1か月半のインターバルを挟み、次のチャプターである「フィクションの部」へ進む。

執筆:阿部航太(プロデューサー、記録)

事務局にとって、永遠の悩みかもしれない「記録」についてみんなで考える

1月19日(水)に、ジムジム会の第4回を開催しました。今年は、東京アートポイント計画の共催団体が順々にホスト役となって、ジムジム会運営チームと一緒につくっています。
今回のホスト役は、「移動する中心|GAYA(以下、GAYA)」チーム。今年度からGAYAの担当となり、運営や広報などをGAYAチームと一緒に取り組んできたプログラムオフィサーの岡野恵未子が、当日の様子をレポートします。

ジムジム会は、2019年度より東京アートポイント計画が開催している〝事務局による事務局のためのジムのような勉強会〟です。
東京都内各地でアートプロジェクトを実施する東京アートポイント計画参加団体(※芸術文化や地域をテーマに活動するNPO法人や社団法人など)とともに、プロジェクト運営事務局に必要なテーマを学び合うネットワーキング型の勉強会です。

記録を考えてきたチームだから、みんなと共有したいこと

GAYAは、世田谷区内で収集・デジタル化されてきた、昭和の世田谷を映したホームムービーを活用して、語りの場をつくるコミュニティ・アーカイブプロジェクトです。8ミリフィルムに写された記録を、公募メンバーである「サンデー・インタビュアーズ」と見て、話して、さらに他の誰かに話を聞いたりしながら、自分たちの生きる「いま」を考えてきました。

そんなGAYAが悩んできたのは、事業の面白さや価値が外部になかなか伝わらないこと。以前から、事業を伝えていく必要性を感じつつも、その難しさの壁にぶつかっていました。

「サンデー・インタビュアーズ」活動日の様子(画像は2019年度)。最近の活動は、noteの連載記事「SIは見た」や、「サンデー・インタビュアーズをめぐるドキュメント」(文=橋本倫史)で発信している。

立場を恐れずに言うと、私も正直、事業担当になるまで、GAYAでどんなワクワクするエピソードが生まれ、どんなムーブメントが起き、その先に何が見えているのか、実感できていませんでした(同じ「東京アートポイント計画」という近い場所にいたのに)。
しかし、担当となり、事業へ携わってみると、市民メンバーの皆さんはとても積極的で、自主的にホームムービーに関するニッチな資料を見つけてきたり、ご自身の職場でプロジェクトを実践されたりしているし、事務局を含めたチームの中でのリアクションのやりとりも活発でした。プロジェクトをとおした「知見」や「体験」がチームとして蓄積・共有されていて、強いグルーヴ感を感じたのです。4月当初、「たしかにこの状況が伝わっていないのはすごく勿体ない!」と思ったことを覚えています。

中に入らないと、その面白さ、リアル感、グルーヴ感が分からない、というのは、GAYAに限らないことだと思います。今回のジムジム会でどんなことをすると良いのか、GAYAチームと話し合うなかで、GAYAメンバーの松本篤さんは「根本的に、自分たちのことを自分たちで伝えるって難しいと思うんです」と語りました。

そもそも、コロナ禍でイベントや対面での活動ができなくなり、より体験や交流がしづらくなる中で、みんな事業の伝え方に困ったのではないか。というか、そもそも、日常と地続きで展開しているアートプロジェクトとしては、コロナ前から困っている課題だったのではないか。

GAYAチームの七転八倒と試行錯誤から、他の団体のヒントになることがあるかもしれない。GAYAチームとしても、他の団体の試行錯誤を聞いてみたい。
GAYAチームの悩みを共有し、みんなで記録について考えるジムジム会、スタートです!

身近な仲間にプログラムを体験してもらおう

ジムジム会ではまず、GAYAで普段行っているように、とあるホームムービーを他の事務局メンバーと見ることから始めました。「松陰神社、双葉園、雪の日」という昭和50年撮影の映像を見ながら、気づいたことをチャットや発言で述べていきます。「縄飛びを『縄』でしてる!」「神津島はいまも縄で遊んでますよ」「撮影者はお父さんですかねえ」などと、盛り上がりながら映像を観ました。

ジムジム会は、普段なかなか忙しくて参加できない他の事業のことを知る機会でもあります。「ホームムービーを見て話すんですよ」と言っても、やってみないとそれって何が面白いのか、どういうことが起きるのか、実感できないかもしれません。他の団体の人にGAYAの取り組みを体感してもらうコーナーを設けたことで、まずは身近にいる方から事業を知ってもらうきっかけとなったかなと思います。

伝わらない課題を分析し、次のアクションに

続いて、GAYAから実践共有の時間。事務局の水野雄太さんが、この3年間の「記録」にまつわる試行錯誤を紹介していきます。

まず1年目。1年目でやろうとしたことは、企画・運営メンバーが「自分で記録する」ことでした。しかし、記録以外にもたくさんやることがあるメンバーにとって、記録をまとめる時間をつくるのは難しいこと。うまくいきませんでした。
それを受けて2年目のやったことは、「できたものをそのまま記録する」です。たしかに事務局の負担は減った。けれども、編集のフィルターを通さなかったことで、外の人が見た時に分かりやすいものにはなりませんでした。

3度目の正直の2021年度。「できたものをそのまま記録する+だれかに記録してもらう」の2軸で挑戦してみました。活動のなかでのメンバーの発言を拾って、ライトに編集し、note記事とハンドアウト「SIは見た」を作成。さらに、ライターの橋本倫史さんに通年で伴走してもらい、橋本さん視点で活動を綴る連載「サンデー・インタビュアーズをめぐるドキュメント」を行っています。

GAYAのこの3年の試行錯誤。

事務局メンバー個人の得意不得意といった問題も考慮しながらの緻密な分析に、「事務局の個人個人の特性と、お金や時間の掛け方を調整するという話が、整理の仕方としてとても考えやすい」という声が他の団体からあがりました。

何かをやるには、「企画、人、お金、時間」が必要です。何を、どのバランスでやるかが大事。「東京アートポイント計画が、アートプロジェクトを運営する「事務局」と話すときのことば。の本 <増補版>」より。

どんな記録に取り組んでいる? 事例の共有

続いて各団体から相互に事例共有です。事業のなかで最近制作した冊子やパンフレット、ウェブサイトのURLなどを持ち寄り、発表していきます。どんな議論がされたか、いくつかご紹介します。

記録のしかたはルール化しやすいけど、使いかたはルール化しづらい。

「HAPPY TURN/神津島」では、拠点開室時に日報をつけています。日報をつけるハードルを下げるためにフォーマットを改善していき、現在は1日ごとに1シート、紙に記録するスタイル。ただ、記録したものを何に使うか、というところまで至っていないのがモヤモヤしているとのこと。

それを受けて、GAYAメンバー松本さんは、「月に1回くらい、『日誌を読む会』をやったらどうですか」と、内部での情報共有ツールとして活用するというアイディアを提案しました。

「HAPPY TURN/神津島」では、拠点運営メンバーが日報をつけている。

記録するだけじゃなくて、二度美味しくする。

実際に、つくった記録を「使って」いるもありました。例えば、「ファンタジア!ファンタジア!−生き方がかたちになったまち−」は、2020年度、事務局内の記録・コミュニケーションツールとして使っていた「Google keep」を記憶の頼りにしながら、ドキュメントを制作したり。「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」では、ワークショップの記録映像を、単なるアーカイブではなく、「映像音楽作品」というかたちに再編したものを公開しています。

伴走者がいてくれると助かる!

事務局メンバー以外の人が、記録や広報メンバーで事業に携わることでやりやすくなった!という声も上がりました。自分たちだけでやっているとどうしても、記録の優先順位を下げてしまったり、スケジュールを管理しきれなかったりすることも出てきますし、価値を言語化するのも難しいものです。しかし、「Artist Collective Fuchu[ACF]」冊子づくりに編集者の方が入ってもらったことで進めやすかったという事例や、「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」では映像作家の波田野州平さんが事業に伴走し、ワークショップ等を映像で記録、ショートムービー等を公開しているという事例の共有がありました。

挨拶する際に使っている、「Artist Collective Fuchu[ACF]」で制作した冊子。

参加したみなさんの声

  • HAPPY TURNはいつでも前を向いて走りすぎていて、振り返って話したり、考えたり、じっくり何かを作ったりすることがなかなかないので(振り返らない病)記録をもとに振り返る活動や、今まで起こったことを残すことについて考えていきたいと思いました。その前に記録を取ることに価値があるかどうかについても考えたいと思います。(誰のために何を残すのかなど。)
  • 「記録」の使い方というところはファンファンでももっと意識したいなと思いました。ジムジム会の記録もつくれそうですね!
  • 事務局の個人個人の特性と、お金や時間の掛け方を調整するという話が、整理の仕方としてとても考えやすいなと思いました。運営がうまくいっていないという問題はぼんやりと、でも確実に存在していて、それへの対処を冷静に分析することについて、改めて考えると日々全然できていないなと思いました。
  • アーカイブについての難しさは日々感じているので、年度末などに実際のアーカイブが揃ったらそれを前にしてフィジカルイベントでやっても良さそうだと思いました。

今回のジムジム会では、「記録」をどうつくるか、どう使うかの実践を共有しました。とても難しい問題ですが、上記で紹介したものの他にも、「オンラインだと、相手に面白さが伝わっているかどうか分からない」「紙媒体をつくるのは大変だけど、届いている実感がある」など、共通した悩みが色々と発見できました。また、実践共有を経て、事務局の得意技が透けて見えたように思います。なかなかそこまではできないけれど、記録の先の「使いかた」までを考えていけると、新たな可能性が出てくるのかもしれません。引き続き、みんなで考えていければと思います!

執筆:岡野恵未子(東京アートポイント計画 プログラムオフィサー)

※ジムジム会についての情報は東京アートポイント計画のnoteアカウントでもお読みいただけます。

アーティスト・プログラム in 神津島『くると盆栽流し』『景色から染まる色』 記録映像

神津島を舞台にしたアートプロジェクト『HAPPY TURN/神津島』が2021年度に実施した「アーティスト・プログラム」の記録映像です。

映像の前半は大西健太郎さん(アーティスト)による『くると盆栽流し』です。海辺で拾った漂流物や島の草木を土台にさしてオリジナルの「くると盆栽」をつくり、後日、盆栽に島を案内するようにして村中を歩きました。後半は山本愛子さん(美術家)による『景色から染まる色』です。島の景色を彩る草木や鉱物、水などを素材に、草木染めを参加者の方々と楽しみました。

ドキュメンタリーの部 B期 DAY2「シネマポートレイトをつくる」

2021/9/18 10:00-17:00

外は雨。降ったり止んだりが断続的に続くなか、メンバーが今日の拠点であるROOM302に集まった。雨の影響か、何人かが少し遅れてやってくる。揃ったところでメンバーたちは3つのグループに分かれ、プログラムの説明がはじまる。

DAY2「シネマポートレイトをつくる」

3人ひと組のグループでまちに出て、それぞれのシネマポートレイト(映像表現によるポートレイト)をつくる。A期と全く同じではあるが、ここで改めてルールを確認する。

【まちに出て自身のルーツを探す旅】
チーム内で3つの役割をローテーションしながら、メンバーそれぞれのルーツをまちで探して記録する。

①探す人
・自身のルーツに関係のある、または想起させる「場所・もの・瞬間」を探す

②インタビューと録音をする人
・「探す人」がまちで見つけたものにまつわるエピソードを聞いて録音する

③写真を撮る人
・探す人の旅と、その舞台となるまちを写真で記録する

フィールドをROOM302がある3331 Arts Chiyodaから徒歩圏内である、文京区、台東区、千代田区に分けて、各グループには紙の地図を手渡す。この旅ではGoogle Mapなどのオンラインの地図の使用は禁止。メンバーたちは雨合羽を着込みながら紙の地図、レコーダー、インスタントカメラを抱え、まちへ出ていく。

●グループB1
〈メンバー:キン、ケイ、JP/フィールド:台東区〉

グループB1の3人が歩き出すとすぐに雨脚が強くなってきた。3人は急いでマンションの軒下に避難して地図を広げる。キンの希望で秋葉原方面へ行こうとしているようだが、紙の地図では自分たちの位置すら把握できない。英語が苦手なキン、ケイと日本語が苦手なJPとの間でコミュニケーションもおぼつかない。なんとかあたりをつけて秋葉原へ向かう道すがらも雨は降り続け、3人は雑居ビルに一時的に避難したり、大きなオフィスビルのピロティで佇んでみたりで、なかなか思うように旅を進められない(そもそも、まちには雨を凌げる場所がない)。メイキング班として帯同していた自分もメンバーたちを見て、“雨さえなければ……”と悔しい気持ちになる。ただ、その雨はJPのルーツを引き出すものでもあった。

「雨が大好き。フィリピンにはふたつの季節しかない。夏と雨季。ここの夏は暑すぎるけど、雨の日はフィリピンの雨季を思い出す。」

雨の日に家の中でスープを飲んだこと、外で雨のシャワーを浴びながら友達と遊んだこと。フィリピンの気候や空気とともに、雨はそうした子供時代の日々を思い出させてくれるという。

「日本では雨の中で遊ぶ子供たちはいないよね。でも僕はここでも雨のシャワーを浴びたいと思うときがある。Inner kids(自分の中の子供)が出てくる。」

ようやく秋葉原へ着き、家電量販店の前に並んだガチャガチャの前でキンが話し始める。

「ガチャガチャがすごい好きで。お金の無駄遣いって人もいるんですけど、私はあの何がでてくるかわからない、小さいストラップとかキーホルダーに魅力を感じていて。この秋葉原のビッグカメラの前で、たしかドラゴンボールのガチャガチャをまわしたことがあります。小学生の時に近所に友達が少なかったんですよ。電車通学で民族学校に通ってたんで。なんで、ドラゴンボールを見ることが放課後の楽しみで。」

JPも子供時代にフィリピンで同じく「ドラゴンボール」を見ていたと話す。私は以前に海外へ出かけたときに、日本のアニメを知っているという現地の人に話題を持ちかけられたことを思い出していた。自分は熱心なファンではなく、大抵は相手の知識や熱量の方が断然勝って話が噛み合わないことがわかっているので、なんとなく煩わしい気持ちになるのだが。

「前に日本語学校に通っていた時は横浜だった。横浜で学校通いながらスシローのアルバイトもしていた。キッチンで働いた風景とか、そこにいて会った日本人、韓国人、ロシア人、ベトナム人の友達のことも思い出した。」

回転寿司「スシロー」の大きな看板の前でそう話すケイを、JPが撮影する。

私は、このフィールドワークを計画した際に、今回集まったメンバーだからこその風景が立ち現れるのだろうと予想していた。それはどこか抽象的で、今までに見たことのない風景というものを期待していたのだと思う。しかしグループB1が足を止める場所は、“記号性”がやたらと強い。アニメショップ、ガチャガチャ、台湾で流行したカフェ、回転寿司、コンビニ……。三人は、フィリピンでもマクドナルドを「マクド」と呼ぶこと、Baskin Robbinsがなぜ日本では「31 サーティワン」と呼ばれるのか?ということで盛り上がっている。

JP「Because it has 31 flavors?わかりません。」
キン「BとRの文字からじゃなかったでしたっけ?」
ケイ「3月1日に設立したからじゃない?」

●グループB2
〈メンバー:エイスケ、セイブン、テイ/フィールド:千代田区〉

自動販売機の横に清涼飲料水のポスターが貼ってある。笑顔が眩しい女性モデルが写っている。その顔に化粧道具のペンを持ち戯れるテイをエイスケが撮影する。

「日本に来る前にあまり化粧しなかったです。台湾が暑くて、化粧したらすぐ汗かいて。肌もベタベタなのがすごい嫌だ。でも日本に来て、女性みんなキラキラしてちゃんと化粧してて。それ見てなんか自分ちゃんとしないといけない。」

そう語るテイは、電車に乗るときにも人の視線が気になったという。

「なんで見られるのかな?自分が素っぴんだったからかな、と思って。迷惑かけた。申し訳ない気持ちがあって。その後はちゃんと化粧しました。」

“迷惑”という言葉に驚く。その心理を正確に把握することは難しいが、そう思わせるくらいに公共の場での装いに対するプレッシャーが存在しているのか。化粧することで自信を持ったり、気分が高揚すること自体はテイ自身も経験があるので、化粧自体を否定しているわけではない。ただ、コロナ禍で在宅勤務になり化粧をする機会が減った今、テイは改めて「素っぴんが好き。」と語る。

ショーウインドウの中で、女性のマネキンがドレスを着ている。その風景から、次はセイブンの装いについての記憶が引き出される。

「25年の間に2回しか着ていません。1回は、記念写真専門のとこに行って。そのとき私はピンクのドレスを着て、すごく嫌だけどなんか親の命令だから仕方ない。その写真は家にあって、毎回見ると、なんか、いやあ本当に恥ずかしいな。もう1回はお姉ちゃんの結婚式。意識して、脳の中で消しました。悪い記憶だと思って。」

自身の体格が“男っぽく”てドレスに縁がなかったこと。それでも家族の意向に沿ってそれを着なくてはならなかったこと。苦笑いしながら話す彼女のエピソードは、過去に起こったことではあるが、その根底にある意識は、現在もセイブンの創作テーマのひとつである。

道すがら、エイスケがセイブンに「なんで絵を描き始めたんですか?」と尋ねた。

「それはひとつエピソードがあります。でも今まで全然話したことない。みんなと話したくないというのもありますよ。今日話しますかなー?……でも大丈夫かな……。」

●グループB3
〈メンバー:カイル、ジウン、チハル/フィールド:文京区〉

グループB3のメンバーの共通言語は英語だった。日本語が苦手なカイルと、英語が得意なジウン、チハルとのチームだったため、特に確認もなく自然と英語で会話するようになる。

とあるパチンコ店の店内でどうしても撮影したいと思ったジウンは、店側に撮影許可をとろうとする。最初は店員に訝しげな対応をされたが、なんとか許可をもらうことに成功する。出発前に「店内での撮影は許可を取らない限りやらないでください。」と、暗に屋外で撮影しましょう、と伝えたつもりだったが、グループB3のメンバーたちは交渉をいとわずに積極的に“内”へ入っていく。

「私はパチンコが嫌いでした。なぜかというと前に一緒にいた人が〈もうパチンコに行かない〉って約束して契約して印鑑も押したのに、毎回約束を破ってパチンコに行ってしまいました。」

現在、ジウンのなかではそういった嫌な思いはなくなったが、いまだにパチンコにいる人たちを偏見の目で見てしまうという。それでもその偏見が、特定の誰かとの思い出に関連したイメージに過ぎないのでは、という疑いもある。

「でもパチンコっていう空間は、可愛くて、綺麗で、見ててワクワクしてしまいます。もしかしたら私はパチンコが好きなのかもしれません。」

チハルも自身のルーツを感じる場所として、ある人たちとの思い出を語る。

「親と喧嘩とかすると、20分くらいかけて坂道を降りて、その川の近くのベンチに座って川辺に浮かんだ桜の花びらを見に行くんですけど。……親とはあんまり仲が良くなくて、その桜の花びらも最近は〈タバコの吸い殻が落ちてるのと変わんねえな〉と思うこともあるんですけど。」

人はその風景を見るときに、そこにある物質的な要素のみを見ているわけではない。そこにとある日の記憶を重ねたり、誰かを重ねたり、そうすることで、それらと自分との関係性を改めて見つめ直している。最後にカイルの印象的な言葉を記しておく。これを正確に訳す自信がないため、英文のままとさせてもらう。

「I easily get lost in Tokyo, but friendly faces help me find my way.」

編集/上映会

メンバーたちが、ROOM302に戻ってくる。1時間後にせまる上映会に向け、すぐに準備にとりかかる。グループのなかで撮影してきた写真を見返し、収録した音声を聞き、それぞれのシネマポートレイトの構成を検討する。B期では、計9本のシネマポートレイトが生まれ、上映会は笑いがおこる賑やかなものとなった。
振り返りの中で、テイが今日感じたことをメンバーたちに聞き取る。その中で、レコーダー越しに聞こえる音について「すごい何でもパーソナルに感じる。音とか距離感とかが、結構近しい人と話してるみたいな音に聞こえる。」という声があった。前日にオンラインで出会い、その日に初めて対面した人たちと自身のルーツやアイデンティティについて語り合う。そんな特殊で、ある視点から見たら乱暴な試みは、間に「まち」を挟むことによって少しは成立したのかもしれない。「まち」を映し鏡にしながら、自分を見つめ、他のメンバーを見つめた時間は、これから映画を共につくるための土台になっていく。

土砂降りの中でのフィールドワークを終えたメンバーたち。明日はDAY3、「他者」に会いに外へ出る。天気予報によると、まだ不安定ながらも雨があがる気配がある。

執筆:阿部航太(プロデューサー、記録)