KINOミーティング

異なる「ルーツ」と出会い、協働の場をつくる

海外に(も)ルーツをもつ人々とともに、都内のさまざまなエリアで映像制作を中心としたワークショップを行うプロジェクト。背景の異なる人々との出会いや対話を軸とした映像制作を通して、新たなコミュニケーションや協働のあり方を発見する場をつくり出す。また、参加者が主体的にかかわれるプログラムの研究・開発も目指している。

実績

団体が過去に実施した映像制作のプロジェクト「Cross Way Tokyo―自己変容を通して、背景が異なる他者と関わる」と「Multicultural Film Making ―ルーツが異なる他者と映画をつくる」にかかわったメンバーが、ワークショップクルーとして参加者をサポートする体制を構築。経験者が継続してプログラムにかかわれるような仕組みづくりに取り組んでいる。

2022年度は、池袋・板橋・大山・要町を対象エリアとしてワークショップを開催。中国や台湾、タイ、ベトナム、アメリカなどにルーツをもち、映像制作の経験や言葉のレベルが異なる7名の参加者が集まった。参加者は3人1組のグループとなって、インスタントカメラや録音機、ビデオカメラを活用し、対象エリアにまつわる「思い出」をテーマに、まちなかでの撮影・編集、上映を行った。お互いがもつルーツや経験、まちへの記憶について何度も対話を重ね、それぞれの価値観を反映させた『変身』『ひみつ』『JST(日本標準時)』という3つの作品を完成させた。

2023年度には、まちを歩きながら、写真と映像、インタビュー音声を用いて映像を制作するワークショップとして「シネマポートレイト」を北区と新宿区で開催。新たに、過去の参加者を対象にした「ステップアップワークショップ」も始動した。参加者が互いの日常生活に密着し、対話を重ねる短編ドキュメンタリーや、「再会」をテーマにしたフィクションづくりにも挑戦し、演技やシナリオ制作、カメラオペレーターなど必要な技術と思考を培う場づくりを行った。ワークショップの最終日には上映会を行い、詩人・管啓次郎と漫画家・かつしかけいた、写真研究者の村上由鶴、行動学者・細馬宏通をゲストに迎え、言語も文化も異なる人々が協働し、作品づくりに取り組む場の可能性について言葉を交わした。

また、現場では拾いきれない気づきや疑問を共有する場として「(スペース・ルーム)スキマを言葉にしてみるラジオ」の配信を行うなど、対話と作品づくりを基盤としたコミュニティの形成に向けて試行錯誤を重ねている。

関連記事

「映像制作」がつむぐ多文化のコミュニティ——阿部航太「KINOミーティング」インタビュー

「映像制作」がつむぐ多文化のコミュニティ——阿部航太「KINOミーティング」インタビュー

2022年度からスタートした「KINO(キノ)ミーティング」は、日本に住む海外にもルーツをもつ人たちが映像制作を行う、ワークショップを中心としたアートプロジェクトです。

さまざまな背景をもつ参加者たちが「撮影チーム」となり、カメラを片手に路上へ。東京のまちを歩きながら、お互いの話をききあったり、自身のルーツや、生活しているエリアやコミュニティとの関係を探りながら、「映像作品」を完成させます。

さらにそこでは、映像制作という協働の場を通じたコミュニティ形成や、参加者が主体的に運営にかかわるワークショップ・プログラムの研究開発も目指されています。

名前の由来は、KINO(ドイツ語などで「映画」の意味)+ミーティング(出会い)。「場所を移動しながら、映画や映像という媒体を使って、そのプロジェクトの過程でさまざまな人々と出会い、対話する」という意味が込められています。

この「KINOミーティング」の運営に携わる、阿部航太(あべ・こうた)さんは、デザイナーで、ブラジル4都市の路上で躍動する人々の姿をとらえた映画『街は誰のもの?』の監督としても知られます。阿部さんに、プロジェクトのはじまりや、これまでの活動についてお話を伺いました。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:前田実津 *1、7、8枚目)

「つくる行為」を通して人とかかわることの可能性

——「KINOミーティング」の活動はどのようにはじまったのでしょうか?

阿部:「KINOミーティング」を共催するアーツカウンシル東京とは、「Tokyo Art Research Lab」で、2020年から、連続する2つのプログラムをご一緒してきました。

その1つは、2020年度の「Cross Way Tokyo—自己変容を通して、背景が異なる他者と関わる」。もう1つは、2021年度の「Multicultural Film Making —ルーツが異なる他者と映画をつくる」です。「KINOミーティング」は、この延長上に生まれた企画です。

一連の取り組みの出発点は、「海外にルーツをもつ人とかかわりたいけれど、どう接していいかわからない。つい尻込みしてしまう」という僕自身の悩みでした。そこで、同じ悩みを感じている人たちに呼びかけ、「何をハードルに感じているのか」などを話しあってみようとしたのが、最初の「Cross Way Tokyo」でした。

——阿部さんはブラジルの路上を取材した映画『街は誰のもの?』も撮っていますが、日本で海外ルーツの方とかかわる際、どんな難しさを感じたのでしょうか?

阿部:2018〜2019年、半年滞在したサンパウロでは、路上にいろんな背景の人たちがいて、その混じり合いがすごく豊かに感じました。もちろん、そこには貧富の差もあり、すべてがいいとは言えないのですが、それぞれの人の「個」が感じられる場所だったんです。

僕はブラジルでは「旅人」で、マイノリティとしてまちにいました。その感覚で日本に戻ると、今度は自分のマジョリティ性が意識され、背景の異なる人と接する際、マジョリティの自分が、マイノリティの相手の背景を知ろうとする行為自体に、強い抵抗を感じるようになりました。相手の背景を消費するようなかたちで、興味本位でただ楽しんでいるような。海外で、さまざまな歴史への自分の無知を感じたことも、躊躇につながっていました。「Cross Way Tokyo」では、その悩みをいろんな人と共有しようとしたんです。

具体的には、集まったメンバーで一緒にまちを歩きながら、異なる背景をもつ人と向き合う際に感じていることをお互いにインタビューしあい、文章、写真、映像など、それぞれ何らかのメディアで表現してみようということを試みました。このとき気がついたのは、人とのかかわり方において「何かをつくる行為」を通して人とかかわることが、自分にとっては一番自然で可能性を感じるということでした。そこで、今度は多様な背景の方と一緒に一本の映画をつくろうと考えました。これが、次の「Multicultural Film Making」につながりました。

「Cross Way Tokyo」第4回、初のフィールドワーク。ライター・エッセイストの金村詩恩さんとともに上野公園や東上野コリアンタウンなどを散策。

おもしろい映像作品を、主体的につくることを目標に

阿部:「Multicultural Film Making」のワークショップは2部に分かれていて、まずは公募で集まった背景がバラバラなメンバーで一緒にまちを歩き、みんなの背景やルーツ、日本のまちに感じることなどをお互いにインタビューしあったり、写真を撮ったりして、一人一本、ドキュメンタリー映像作品としてまとめました。このアクティビティを「シネマポートレイト」と呼んでいます。

「Multicultural Film Making」の「シネマポートレイト」の様子。

その後、台湾出身で、大学で映画を学んだ鄭禹晨(てい・うしん)さんがそれらを束ねて脚本化し、彼女が監督して、みんなで一本のフィクション映画を制作しました。

メンバーはほとんどが映像の素人でしたが、撮影プロセスのなかにはたくさんの気づきがありました。そして何より、完成した作品『ニュー・トーキョー・ツアー』がおもしろかった。参加者のコミュニティもできていたし、ワークショップの方法論としても深めていけそうだと感じたため、これを「KINOミーティング」として続けることになったんです。

——映画という集団制作の現場に、具体的にどんな可能性を感じたのですか?

阿部:一つ大きかったのは、完成した映画を東京都写真美術館で上映してトークをした際、登壇したメンバーが楽しそうだったことです。みんな、主体的にこの制作に臨んでいたことがわかる内容だったんですね。この手の多文化交流プログラムでは、こちらのお題に沿って参加者がただ動いているという構図になりがちですが、ここではそれがクリアできたように感じたんです。

東京都写真美術館で行われた『ニュー・トーキョー・ツアー』1 DAY上映会告知。

また、制作中はそれぞれ撮影や演出などの役割を担うのですが、みんな自分の「作品」だから必死になるんです。映画の現場は監督もいるわけで、決して素朴に「みんな平等」の世界ではない。でも、そこで自分の役割を探り、お互いに補い合うなかでコミュニケーションが誘発され、他人だった人たちがチームになっていく感覚があったんですね。

僕たちはただ「対等なコミュニティ」をつくりたいのではなく、おもしろい作品をつくることを目標にしていました。チームとしてそれができたのが、一番可能性を感じたことでした。

過去の参加者に、プロジェクトを委ねていく

——そうして今年はじまった「KINOミーティング」では、2022年7月、池袋周辺を舞台に最初のワークショップを開催しています。これはどのような内容だったのでしょうか?

阿部:「KINOミーティング」の内容が以前のプログラムと大きく違う点は、東京のいろんなまちで行う点です。初回の舞台は池袋で、その土地に思い入れのある参加者を公募しました。

今回もまず3人1組となって「シネマポートレイト」からはじめました。その後、新たな試みとして、それぞれが制作した映像をグループで見て、3人の共通点を話し合う「トライアングルインタビュー」を行いました。そして、その共通点をテーマにして、今回であれば池袋を舞台に、3人で1本の映像作品を制作するというワークを行いました。

共通するテーマについて議論を深めて、お互いにインタビューをし、どんなカットが必要なのかなどを話し合って、その内容を軸にロケを敢行。編集作業も3人で行います。撮影と編集で3日間、別の1日は上映会。そして、次回はまたほかのまちで開催するという内容です。

——ワークショップ中の参加者の様子は、いかがでしたか?

阿部:活発に議論するチームもあれば、大人しいチームもあり、いろいろです。制作期間も短いので心配しましたが、結果的には『変身』『ひみつ』『JST(日本標準時)』という3つのとてもおもしろい作品が完成して、上映会では終了後も参加者たちが話し込んでその場をなかなか離れないほどでした。いい時間だったんだ、と感じました。

まちで撮影場所を探す、ワークショップクルーと参加者。

実は今回、もう一つ導入したことがあって、以前の「Multicultural Film Making」の参加者のうちの希望者に、「ワークショップクルー」という役割をお願いしたんです。これは僕らと参加者の間に入り、ワークショップのワークをリードしていく役割です。僕らの考えを理解してくれた経験者が、参加者と一緒に創作を行うんです。

僕たちが仕切るという構図は、どうしても制作が他人事になってしまったり、ワークショップ自体も形式的になってしまうため、一番避けたいことでした。そのため、僕はあくまで司会に徹して創作には介入しません。そのように「KINOミーティング」には、経験者がワークショップクルーとしてその後も運営にかかわり、主体的にプログラムを動かしてほしいという狙いもあります。

——経験者が、いわば「先輩」として次回以降の回にかかわることで、そこに横断的なコミュニティもできてくる、と。

阿部:そうです。今回も各組に経験者が一人ずつサポートでつきましたが、完成する作品が自ずと変わるんですね。そんな風に経験者がワークショップを運営する割合をどんどん増やしたいし、そのことで僕らだけではできないプログラムに変化することも、おもしろいと感じています。

体験で終わらせず、「作品」というフレームをもたせる

「KINOミーティング」ワークショップ、編集作業の様子。3組が同じスペースで作業。

——阿部さんは、常に完成した映像を「作品」と呼んでいますよね。ただの記録映像ではなく、参加者が本気でつくるために工夫していることはありますか?

阿部:僕はこのプログラムを「体験」で終わらせてはいけないと考えていて。「本格的なカメラで遊べて楽しかった」だけでなく、おもしろく、周りに評価される映像作品をほんとうにつくってほしい。ただ、それを引き出すには何かの枠組みは必要で、常にゼロから仕組みを設計している。そこが僕らが一番必死に考えている点です。

具体的には、映像をつくるプロセスを結構細かくワークショップ化しています。お互いにインタビューする、本人が街に座っているカットを撮る……など、撮る順番、やらないといけないことがわりとシステマチックにある。実はそれほど自由な現場ではないんです。

そうした枠組み、「型」は、参加者が街を見るときのフレームにもなります。街に座るカットがあれば、座る場所を探さないといけない。そのことが、このプログラムの重要な要素である、「自分と街の関係を見つめ直す」ことのきっかけになるかもしれません。

参加者はその「型」のなかで各自のおもしろさを追求しますが、ルールをきちんと守るグループもあれば無視して突拍子もないことをやるグループもあり、それが興味深いところでもあります。

そうしたルールをどこまで設定するか、枠組みの逸脱をどこまで許容するかなどは僕たちもまだ手探りです。実は僕は、別の制作のために春から高知県に移住していて、現場の設計には深くかかわれていないのですが、ほかのスタッフがすごく頑張ってくれて、何度もテストを繰り返しています。その調整は、今後もしていくことになるのかなと思います。

おもしろい作品は「ノイズ」=「異なる視点」から生まれる 

——ワークショップや上映会後の会話のなかで、阿部さんが特に印象に残っている参加者の言葉やエピソードは何ですか?

阿部:これは参加者を代表する話ではないですが、日本の美術大学に留学で来ているAさんという方がいるんです。彼女が、大学の最初の懇親会に参加した際、日本人の学生はみんな高校時代の「あるある話」で盛り上がっていたけれど、自分はその輪に入れず、どこか別物として扱われた気持ちになったと話していて、僕はそれが妙に印象に残ったんですね。

言い方が難しいのですが、確かに飲み会のような場では、背景が似た人が集まった方が盛り上がりやすく、背景の異なる人が一種の「ノイズ」になってしまうことは起こりがちだと思います。これはワークショップの場も同じ。実際、自分と異なる背景や立場をもつ人、海外ルーツの人向けにプログラムを組むことはとても大変で、考えることが何倍にもなるし、進行も複雑になります。

しかし、そこが「何かをつくる場」になると、その「大変さ」の意味が変わるんですよね。創作の場では、その「ノイズ」は「異なる視点」になる。「作品がよくなる」という次元があることで、その大変さをおもしろさに感じることもできる。Aさんの話は、自分たちがやろうとしている創作という協働の可能性をあらためて感じさせてくれるものでした。さまざまな視点をもつ人たちが主体的にかかわれる場が社会に必要なこともありますが、もっと限定的に「そうした場がないとおもしろい作品は生まれない」という感覚を強くもっています。

——今回つくられた3作品を見て、ここには他者の排除につながりかねない日本における「仲間意識」の強さや、「ただ居る」ことのできない公共空間の問題も映されていると感じました。ブラジルでの経験から、日本のまちのあり方をどう感じられますか?

阿部:確かにブラジルの路上文化は衝撃的でした。それに比べて、日本のまちのあり方に残念さを感じることも事実です。ただ、ブラジルには搾取されて行き場を失った浮浪者の方も多く、また別の問題もある。その意味では、手放しにブラジルがいいとは思いません。

何より、ブラジルで感じたのは「個」がまちを変えているということでした。だから、日本には「個」の弱さを感じるけど、まだ絶望するタイミングではないだろう、と。その状況を変える一つの契機としても、海外ルーツの方の表現活動はあり得ると思っています。

また、これは今回の企画と直接関係はありませんが、僕が高知に移住したのは、以前から関心のあった海外の技能実習生とかかわるためです。高知県土佐市の地域おこし協力隊が、技能実習生と地域住民の交流促進をミッションに掲げていて、僕もその場にいたいと思いました。

映画の協働制作と同様、こうした交流から、たとえ小規模であったとしても、僕が憧れたあの路上文化のきっかけは生まれるかもしれない。そんな淡い期待はもっています。

地域を超えた「クルー(乗組員)」というコミュニティ

——最後に、「KINOミーティング」の今後についてきかせてください。

阿部:前回のワークショップであまり上手くいかなかったことがあって、それは「まち」というものの位置づけでした。僕らは「まち」をテーマにしたくて、池袋に思い入れのある方を集めましたが、その感情は各人でグラデーションがあり、むしろ「まち」を打ち出すことで参加者を混乱させてしまった感もありました。それに、あえて打ち出さずとも映像に自然とまちは映るのだという発見もあった。その扱いをどうするのかは、直近の課題です。

プロジェクトの全体としては、前回は会場などの事情で池袋となりましたが、今後はそのフィールドとプログラムがより密接に関連して、場所ごとに完成作品にも変化が生まれるようなかたちにしていきたいと考えています。

あとはやはり、クルーのコミュニティのあり方を考えていくことですね。幸い、池袋での参加者のなかに、今後もかかわりたいという方たちが生まれましたが、その方たちにどんな立ち位置でかかわってもらうのか、どう企画に踏み込んでもらうのか、いいかたちを考えていきいと思っています。

——いろんな参加者が、地域も超えて、キャラバンのようになったら楽しいですね。

阿部:そうなるといいですよね。最終的には、いろんな地域で開催できたらいいなとも思っています。

いろんな場所のコミュニティとかかわり、その結果、そのコミュニティ同士をまたぐような協働制作が可能になれば、そこから一本の映画をつくることもできるかもしれない。そんな風に、参加者が主体的に運営にかかわることのできるワークショップ・プログラムと、ルーツのバラバラな人たちがつくる新しくておもしろい作品の可能性を、今後も考えていけたらと思います。

Profile

阿部航太(あべ・こうた)

デザイナー/文化人類学専攻
1986年生まれ。廣村デザイン事務所を経て、2018年よりデザイン・文化人類学を指針にフリーランスで活動を開始。2018年から19年にかけてブラジル・サンパウロに滞在し、現地のストリートカルチャーに関する複数のプロジェクトを実施。2021年に映画『街は誰のもの?』を発表。近年はグラフィックデザインを軸に、リサーチ、アートプロジェクトなどを行う。2022年3月に高知県土佐市へ移住。

KINOミーティング

海外に(も)ルーツをもつ人々とともに、都内のさまざまなエリアで映像制作を中心としたワークショップを行うプロジェクト。背景の異なる人々との出会いや対話を中心とした映像制作を通して、東京の「まち」や自身や他者への「ルーツ」について新たな視点を獲得する機会をつくり出す。また、コミュニティの形成や参加者が主体的にかかわれるプログラムの研究・開発も目指している。
https://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/what-we-do/creation/hubs/kino-meeting/52795/

テレビノーク

東日本大震災以降、仙台を拠点として、災禍にまつわる記録を活用し、体験を語り継ぐための実践を行ってきた一般社団法人NOOK。2022年から活動拠点を東京に移し、これまで培ってきた知識や技術をいかし、災間期を生きるためのアートプロジェクト「カロクリサイクル」をスタートしました。

オンライン番組『テレビノーク』では、各地の災禍のリサーチや記録活動に携わる担い手などさまざまなゲストを迎え、知見や技術を共有し合う場をつくります。

詳細

放送日時

2022年7月より、月1回程度配信

視聴方法

番組はYouTubeチャンネルでのライブ配信とアーカイブ映像の視聴が可能です。

関連リンク

「テレビノーク」のレポートをカロクリサイクルの公式noteで公開しています。

日々のなかの「微弱なもの」を、自分の体で感じるために――宮下美穂「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」インタビュー〈後篇〉

いま、まちのなかでアートを営むときに大切な視点、姿勢とは何か。そんな問いを、アートプロジェクトの担い手と一緒に考えてきた東京アートポイント計画の「プロジェクトインタビュー」シリーズ。今回は、2021年度より東京都多摩地域(*)を舞台にアートプロジェクト「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」を実施する、NPO法人アートフル・アクション事務局長の宮下美穂さんを訪ねました。

*多摩地域:東京都の人口の3分の1にあたる400万人超を擁し、面積もその半分を占める、都道府県レベルの規模を持つ30市町村。

多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」は、小金井で2011年から10年間活動したプロジェクト「小金井アートフル・アクション!」を踏まえ、そこで得た経験や技術を、より広域のエリアで活かしていこうと始まった取り組みです。その大きな特徴は、多摩ですでに活動している誰かと一緒にプロジェクトを行うこと。

例えば、学校の図工の先生たちとネットワークづくりをしたり、社会的養護を必要とするこどもたちの施設の職員さんとワークショップを行ったり、さまざまな社会的・環境的な背景を持つ多摩という場所についてみんなでフィールドワークをしたり。こうした活動を通して、宮下さんは、「自分たちの足元の揺らぎを感じ、佇み、見えてくるものを捉えたい」と語ります。

今回、ともに話を聞いた東京アートポイント計画ディレクターの森司は、こうした宮下さんの活動内容、そしてプロジェクトの運営手法には、一見わかりやすくはないものの、現在の文化事業や社会とアートの関係を考えるうえでの大きなヒントがあるのではないか、と言います。キーワードは「微弱なもの」。そのヒントを、二人の対話から探っていきます。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:川村庸子/撮影:加藤甫)

日々のなかの「微弱なもの」を、自分の体で感じるために――宮下美穂「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」インタビュー〈前篇〉

足元の揺らぎと、不定形なナメクジ

――前篇ではプロジェクトに通底する宮下さんの考え方や、現代におけるその重要性を中心にお聞きしましたが、後篇は活動の中身についてもお聞きできればと思います。まず気になるのは、事業名の「地勢図」です。ここには宮下さんが造園家をされていることも関係するでしょうが、辞書を引くと「地勢」には、「土地のありさま」のほかに「人の地位・立場」「よって立つ所」の意味もある。なぜ、この言葉を付けたのですか?

宮下:おっしゃるように、人の足元にかかわることだと言えるかもしれません。そこには、揺らぎや変化がつねにある。固定されたものなんかなくて、揺らぎのなかに自分たちが生きているということ。そして揺らぎ自体も変化していく。それをそのまま引き受けようという思いを込めていますね。

それから、サブタイトルに「cleaving」という言葉を使いました。これは、荒川修作とマドリン・ギンズから教わりました。「cleave」という動詞には、「切り裂く」と「くっつく」という意味があります。切り離すことは接合することではありませんが、切り離すべき何かがなければ、こうした行為は存在しませんよね。切り離すことは、何が結ばれていたのかを炙り出します。

これは、ものの見方を変えることとは異なります。荒川さんは「切り結ぶ」と言っていましたが、外から「私」を見て相対化し、視点を変えることで、これからの私たちの暮らしについて、新しいまなざしを得ることができないか、という仮説でもあります。立脚点をずらしていくことで、その回転運動が血流を良くし、あるいは呼吸をしやすくするのではないかと考えています。

――僕は地元が小金井の隣の国分寺なのですが、今回、宮下さんたちが「ゆずりはをたずねてみる」(以下「たずねてみる」)でかかわるアフターケア施設「ゆずりは」が地元にあることに驚きました。恥ずかしながら、こうした施設があることをこれまで意識しなかったからです。宮下さんたちはこの活動で小平市の児童養護施設「二葉むさしが丘学園」(以下「二葉」)にも行かれていますが、こうした施設は多摩に多いのでしょうか?

宮下:多いと思います。そこには、土地が安くて広いという背景もありますね。ほかにも、国立精神・神経医療研究センターやハンセン病の施設があるのは、サナトリウム(結核等の療養所)の跡だったりする。都心から離れた場所に忌諱されるものを置こうという力はずっと働いてきた。

自分たちの暮らす地域についてリサーチする「たましらべ」では、多摩の過去の軍事施設の分布や、ハンセン病療養所や児童自立支援施設などの設置経緯、多摩センターの開発、水道や鉄道のインフラの歴史も調べました。『都市のイメージ』で知られる都市計画家のケヴィン・リンチではないけど、都市の「エッジ」にそういうものが集まってくる。だから「地勢図」は、「地政図」でもあります。ある種のパワーを人はどう扱ってきたか。そこから、同じく周縁化された福島から眺めてみると、我々東京はどのように見えるのか、という問題意識も生まれます。

――前篇に出てきた「ゆずりはのジャム」を認識することではないですが、たしかにそうした視点を得ると、自分のよく知ったエリアの見え方が揺さぶられる感覚があります。

宮下:そういう足元の揺らぎを感じていたいのです。それで言うと、このプロジェクトのあり方をうまく表しているのは、札幌市立大学の須之内元洋さんというデジタルアーカイブ設計者につくってもらった、プロジェクトのウェブサイトにあるビジュアルかもしれません。ページを開くとトップ画面にナメクジみたいなやつが4匹いるんですが、実はこれ、アーツカウンシル東京の紫色の三角形のロゴと真反対になっています(笑)。

――そうなんですか(笑)。

宮下:アーツカウンシル東京のロゴはとても強くて、ロゴとしては機能的で正解なんだけど、私たちはできるだけ強くないものでズラしたい、と。須之内さんは面白がってそういう意図を汲んでくれたと思います。

森:こういうことをこっそり仕込んでいるから、面白いですよね。ラッピングが絶妙すぎてめくじらを立てられないけど、感づく人は何か気づく。微弱なマネジメントですね。

宮下:カーソルで触ると不定形かつ微細に動く仕様で、捉えどころがありません。無数の線で構成されたロゴも、別のデザイナーには「ロゴとして機能していない!」と言われましたが、とても気に入っています。

多摩の未来の地勢図」のウェブサイトのトップ画面にある、ナメクジのようなビジュアル。

「勝手な盛り上がり」と、密かなズラし

――さきほど「事業の拡大が早い」というお話がありましたが、その背景にはこれまで小金井を拠点に活動してきた10年間もあるんでしょうか?

宮下:それはあると思います。私たちの活動では「わからなさ」を撒き散らかしてきたから、みんな耐性ができていたのかもしれませんね。小金井のときに学校連携プログラムを一緒にやっていた先生たちも協力してくれました。

拡大が早いのは、今日の「微弱さ」云々みたいな話を、例えば「ざいしらべ」を一緒にやっている学校の先生たちが共有しているからというより、やっぱり単純な楽しさもあると思います。今日、先生たちと竹林から材料をつくるワークショップの会議をしたのですが、勝手に盛り上がっているんですよ。夏には竹ひごをつくるワークショップをしました。ホームセンターなどで数十円で売っているものだけれど、これがとても奥が深い。大人が集まってただ竹ひごをいじらないでしょう? それにみんなハマっている。

――「ざいしらべ」では、図工の先生たちと素材の実験や研究、素材を集めてみんなが使えるようにした拠点づくりなどをしているんですよね。宮下さんが強く問題意識を共有するようなディレクションをしているわけではなく、むしろ自然に現場が温まっている。

宮下:道を定めないでよその船にしれっと乗らせてもらい、ときどき「うーん、何か違うんじゃないですか?」と言ってみたり、明るく「こんなことできます!」と言って、結局やらなかったり。そんな風に相手の文法に乗らせてもらいつつ、ときどきそれをズラすようなことをしていたら、今度は、先生たちが自分で竹を切りに行くということになったんです。

最近は大抵、教材は業者から買うじゃないですか。竹ひごづくりは案外危ないし、綺麗に仕上げるのは難しい。でも、シンプルな繰り返しに、たぶん竹の面白さを感じたんじゃないかな。竹林だけこちらで探したら、近くの小学校に集まって、自分たちで竹を切って加工する、と。事業でリアカーを買ったんです。素材は業者が車で運んでくるのが当たり前な人たちに、リアカーどうぞ、と。そうやって徐々に働きかけていって、「自分でできる感」を拡張してほしいんですね。

いま、自分の授業に自信がないと話す先生に、直径40cm、長さ4mの丸太を渡して大きなノコギリでただ切る、というワークショプを小学6年生と一緒にやってみないかと提案しています。これは、「無茶で無駄なことを教育の現場でやってもいいかもしれないね。それはそれぞれの限界を拡張するかもしれないね」というメッセージでもあります。もちろん、私たちも決して何かを教えるのではなく、必死に伴走しています。

――ワークショップや活動を一緒にやっていくなかで、いつのまにか、自分の見るもの、できることが広がっている、と。

宮下:素材は軽トラで運んでもらえるものだと思っているから、「自分でリアカーで運んで」と言われてみなさん最初は驚きますけどね。

森:それはひとつのコミュニティ形成でもあるんですよね。いままで「軽トラで運んでもらうコミュニティ」だったものが、知らぬ間に「竹を切ってリアカーで運ぶコミュニティ」になっている。コミュニティって、共通の体験がないと形成されないから、そうしたものができることで参加者のなかの「大切なもの」が微妙に変わっていくはずなんです。それを強制しないで促せるとしたら、これはアートの得意技だと思います。

図工の先生たちと素材や技術の共有をする「ざいしらべ」にて、東村山市の山に入って竹を刈ったときの様子。

宮下:一方、「たずねてみる」の方は、いまはまだアクセルをあえて全開にせず、ほどよい状態にしている部分があります。このプログラムでは、さきほど名前の挙がった「二葉むさしが丘学園」に、演劇ワークショップを専門とする花崎攝(せつ)さんに入ってもらっているのですが、彼女が100%の力を出すとすごく面白いと思うんです。ただ、まだアクセルとブレーキを交互に踏んで何かが湧き上がってくるのを待っています。というのも、そこにいる人たちの「船」に乗せてもらおうというとき、そんなに急ぐともったいないと思っているから。焦らなくてもできることがあるし、むしろその「あわい」のような時間のなかで、ゆっくりと、見えてくるものを大切に感じたい。

森:アートプロジェクトをマネジメントするとき、多くの人は既定のやりやすいレールや正義に乗ってしまう。でも、児童養護施設にいるこどもたちというのは、複雑な事情や背景や現状を抱えています。その子たちの持っている複雑さが、プロジェクトの進め方を「これでいいのだろうか」と問い直すきっかけになるかもしれませんね。

だから「たずねてみる」は、やりながらこちらが鍛えられていく活動だと思うんですよ。初めから目指す完成形があるんじゃなくて、更新していくものだろう、と。むしろ現場が発している微弱なものを、こちらが受信機として引き取れていれば、事業という航海における海図の読み違いもなく、行き着くところに行くんじゃないか。そう感じています。

宮下:それは唯一確信しています。その海図の深さと豊かさが生きる糧にもなると思いますね。

児童養護施設の職員を対象とした「ゆずりはをたずねてみる」。楽器の奏でるささやかな音に促されて、和紙に思い思いに絵を描いたときの様子。

役割を超えて、こどもの複雑性に出会う

――「たずねてみる」では、施設のこどもたちではなく、むしろそのケアをする職員さんを対象に演劇的なワークショップを行なっているそうですが、なぜでしょうか?

宮下:施設のこどもたちの複雑性という話があったけど、職員さんは社会正義に燃えた真面目な方が多いと思います。私は、かれらがこどもたちが持っている複雑さに感応することがとても大事だと思っています。

職員さんはこどもたちに社会で生きていくうえでの「正しさ」を示します。もちろん、それはとても大切な仕事なのですが、一方で、人間の本質はどちらかというとこどもたちの複雑性の方にあって、職員さんたちに、この複雑さのなかに没入してほしい。職員さんはすごく真面目で、「何かをしてあげたい」「助けたい」とつねに思っている。でも、その真面目さゆえに折れてしまう部分もあるのかなと。むしろ、この子たちが抱える辛さとか傷つきやすさに、職員さんが自分自身のなかにある同じようなやわらかさを持って出会うと変わっていくのではないでしょうか。

――「二葉」にはどのくらいのこどもがいるのですか?

宮下:定員は78人です。0歳から高校生までいますからね。いろんなプロセスを経て入所していると思います。来年から施設を出ないといけない子は一人暮らしの練習もしています。本当にいろんなことを教えてくれますね。私たちがいま主に関わっているのは、小学生から高校生までが何人かのグループになり、そこに職員さん4~5人が交代で入って一軒家に住む、グループホームです。こうしたグループホームが「二葉」の周りに点在していて、そこから学校に通うこどももいます。

そうしたなかで、ワークショップは職員さんが対象だけど、ときどきこどもが来てくれたんです。そうすると職員さんは自分の時間から、こどもが主役の時間にスイッチが変わる。それまではその辺でリラックスしてストレッチをしていた人が、こどもの前では「ザ・職員」になってしまう。そういう関係ではないところで、何かできたらいいなと。

――社会的な役割で接してしまう部分がどうしてもあるのですね。

宮下:そう、役割に生きてしまうんです。例えば、こどもをお風呂に入れることを「入浴介助」と言うんですよ。「お風呂に入れる」でいいじゃんね、と思うんだけど。

――そういう関係に疑問を持っている職員さんもいるんですか?

宮下:そう感じる人は自然に変わっていくんでしょうね。ときどき覗きにくる私と同年代の方は、お父さんでもお兄さんでもスタッフでもない、「その人」としてこどもと接しています。だけどあくまでも職員として、距離を変えない人もいると思います。それはそれで大切なスタンスであることは間違いありませんが。

こどもとの距離を相手の状況に合わせて柔軟に変えるのは、すごく難しいことだと思います。それは、こちらが成熟していないとできない。ここまでは大丈夫とか、ここから先はダメとか、そういう境目を自分で判断して状況と相手に合わせてコントロールできるのは人間として、職員として高度な技能です。いつも同じ顔をしている方がある意味では楽でしょう。でも、そこを超えないと本当の人と人との関係はつくれないと思います。

正直、壁はありますが、職員さんに「職員」の顔を外すことをしてほしい。いつかそれを攝さんにやってもらえたら。ただ、それはもう少し機が熟してからだと考えています。

東京アートポイント計画のディレクター・森司とともに話を伺った。

重なる日常と時間が支えるもの、変えるもの

森:冒頭で宮下さんは、「初めてアートが役に立つと感じた」とお話しされましたよね。そのように言うようになったことが、重要だと思うんです。おそらく、小金井の事業をやっていた頃から同じことは感じていたはずですよね。でも、いまは「アートが役立つ」とあえて口にしないといけない感じがあるということなんじゃないか。そしてそれは、美術館のなかにあるアートや戦争的なアートではなく、微弱なアートが役に立つという意味だと思います。

宮下:役に立たないものが、一番役に立っていることがありますよね。もっとも役に立たないものが、それでも居ていいと言われる、その承認が大事だと思います。

あと、アートって、曖昧さの幅がほかのジャンルに比べて広いですよね。そのあやふやな広さがあるからこそ通り抜けられる道がある気がしています。例えば、あるものとあるものが対立しているとき、その間の細い道をアカデミックな四角い箱では通れないけど、このウェブサイトにあるようなナメクジみたいな存在は通り抜けられるんじゃないかな、と。

森:アートは、役に立たない存在です。逆に何かが役に立たなかったら、それをアートだと認定してあげれば良い。大抵、多くのアーティストは、アートと言いながら妙に役に立つものをつくってしまう。役に立たないものをつくるのは意外と難しくって、これだけ意図に溢れた人工的な世界に生きていると、そのあり方がなかなかイメージできない。だから本当に名付けようのないものには、翻って貴重な価値が生まれることもあるんですよね。

今日の会話で、宮下さんが大切にするそうした「微弱さ」のニュアンスがどのくらい言葉にできたかというと、またうまく煙に巻かれた気もするけれど(笑)、ひとつだけ、ある人にとって一見わからないことをやっている人たちが、その人自身もわかってないわけではない、ということは言っておきたいですね。実はそこには確信があって、無闇にやっているわけではない。早急に説明する言葉を用意することもできなくはないけど、そうすることで失われるものがあるから、それならそっとしておいてほしい気持ちもある。言葉から逃れる密やかな時間が長ければ長いほど、ゆっくりと大切なことが育つんじゃないでしょうか。

宮下:今日は家族の話をしましたが、家具をつくったり、建物のリノベーションをしている弟は早くに連れ合いを亡くして、男手ひとつでこども3人を育てています。朝、こどもたちのお弁当をつくって、掃除や洗濯をして、学校に送り出して、仕事に行く。そういう日々を送っています。

私はそれを見ていて、大きな喪失のなかで弟が破綻せずになんとかやってこられたのは、まさにそうした日常の生活があったからではないか、と思うんです。生活には、依存とは違う寄りかかりがある。それに弟がいかに支えられたか。お弁当をつくることから始まる日常を通して、弟の方がよほどこどもたちに育てられた感覚があると思う。末の娘は出生後1年以上、病床の義妹を家族が看護するために児童養護施設で育てていただきました。こどもたちはこどもたちで深いところで、人として何かを感得した感じがします。

時間というものは面白いですよね。施設の職員さんたちも何かのきっかけでこどもたちと新しく出会うかもしれない。何かの時間や経験がその人を変えていくかもしれない。そのときに一発で変わるのではなくて、日々のなかでささやかな何かが重なりながらが変わっていくんだと思う。そういうものだと思っています。

Profile

宮下美穂(みやした・みほ)

NPO法人アートフル・アクション事務局長
2011年から小金井アートフル・アクション!の事業運営に携わる。事業の多くは、スタッフとして市民、インターン、行政担当者、近隣大学の学生や教員などの多様なかたちの参加によって成り立っている。多くの人の経験やノウハウが自在に活かし合われ、事業が運営されていることが強み。日々、気づくとさまざまなエンジンがいろいろな場所で回っているという状況に感動と感謝の気持ちを抱きつつ、毎日を過ごしている。編み物に例えると、ある種の粗い編み目同士が重なり合うことで目が詰んだしなやかで強い布になるように、多様な表現活動が折り重なり、洗練されて行く可能性を日々感じている。

多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting

文化や歴史などの「地勢」を探ることを通して、一人ひとりが自分の暮らす足元を見つめ直すプロジェクト。2011~2020年度に東京アートポイント計画と共催した小金井アートフル・アクション!が、これまでの経験を活かして中間支援的な働きをしながら、小学校や児童養護施設など多様な団体と協働して事業を行っている。
https://cleavingartmeeting.com
*東京アートポイント計画として2021年度から実施

日々のなかの「微弱なもの」を、自分の体で感じるために――宮下美穂「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」インタビュー〈前篇〉

いま、まちのなかでアートを営むときに大切な視点、姿勢とは何か。そんな問いを、アートプロジェクトの担い手と一緒に考えてきた東京アートポイント計画の「プロジェクトインタビュー」シリーズ。今回は、2021年度より東京都多摩地域(*)を舞台にアートプロジェクト「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」を実施する、NPO法人アートフル・アクション事務局長の宮下美穂さんを訪ねました。

*多摩地域:東京都の人口の3分の1にあたる400万人超を擁し、面積もその半分を占める、都道府県レベルの規模を持つ30市町村。

多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」は、小金井で2011年から10年間活動したプロジェクト「小金井アートフル・アクション!」を踏まえ、そこで得た経験や技術を、より広域のエリアで活かしていこうと始まった取り組みです。その大きな特徴は、多摩ですでに活動している誰かと一緒にプロジェクトを行うこと。

例えば、学校の図工の先生たちとネットワークづくりをしたり、社会的養護を必要とするこどもたちの施設の職員さんとワークショップを行ったり、さまざまな社会的・環境的な背景を持つ多摩という場所についてみんなでフィールドワークをしたり。こうした活動を通して、宮下さんは、「自分たちの足元の揺らぎを感じ、佇み、見えてくるものを捉えたい」と語ります。

今回、ともに話を聞いた東京アートポイント計画ディレクターの森司は、こうした宮下さんの活動内容、そしてプロジェクトの運営手法には、一見わかりやすくはないものの、現在の文化事業や社会とアートの関係を考えるうえでの大きなヒントがあるのではないか、と言います。キーワードは「微弱なもの」。そのヒントを、二人の対話から探っていきます。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:川村庸子/撮影:加藤甫)

日々のなかの「微弱なもの」を、自分の体で感じるために――宮下美穂「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」インタビュー〈後篇〉

「戦争的」ではない、日常のなかの「微弱さ」

森:今日、僕は宮下さんに「弱さ」についてお聞きしたいと思ってここに来ました。

――「弱さ」ですか。

森:はい、「弱いということ」について話したいんです。

今年度に始まった「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」(以下「地勢図」)では、宮下さんたちが小金井で蓄積してきたものを多摩に広げ、主に三つの活動をしています。一つ目は、小学校の図工の先生たちと素材や技術の共有をする「ざいしらべ」。二つ目は、児童養護施設の職員さんとかかわる「ゆずりはをたずねてみる」(以下「たずねてみる」)。三つ目は、作家や市民が多摩についてリサーチする「多摩の未来の地勢図をともに描く」(以下「ともに描く」) です。

その個別の話もしたいのですが、僕は、これらは宮下さんのいまという時代への応答という気がしているんです。そして、それらを根っこの部分でつないでいるのが「弱さ」を大切にする感覚ではないかと思うんです。

宮下:弱さ、というより「微弱さ」でしょうか? おっしゃる通りですが、大切にしているというより、そこにすがらざるを得ない。

――「微弱さ」が現代への応答であるとはどういうことでしょうか?

森:この数年感じているのは、文化事業は戦争の比喩で語られやすいということです。大規模イベントが代表的ですが、文化の営みの価値を計るうえでいまでも大抵の場合重視されるのは、「パワフルで、効果までの速度が速く、インパクトがある」ことなんですね。ある人はこれを「ミサイル」に例えていました。そして、我々がかかわるアートプロジェクトも、この戦争的な価値で計られがちなんです。

一方、僕は文化を戦争用語を使わずに語れないかとずっと考えてきました。でも、そうした価値のあり方は、「地味」「わからない」と言われてしまう。それは、文化を捉える認識のコードが古いステレオタイプのように見えるのです。そうしたなか、宮下さんの仕掛ける活動は旧来の型では拾えない価値を扱っている。そこに時代への応答性を感じるんです。

宮下:私がアートの持つ微弱さが大切だと思うのは、それが近代的な強い主体と客体の二項対立や、正解不正解ではない視座を提示することができるのではないか、と感じているからです。平たく言えば、「私」と「世界」の関係をズラすことができる。この10年ほどで、こんなにアートが役立つと感じるのは初めてかもしれないですね。明確な「私」や「世界」を定置したり、無条件に盲信したりすることで、実はものすごく苦しくなる。「世界」なんてありえるのかな? とさえ思います。

例えば、リサーチプログラム「ともに描く」では、参加者と「フィールドワーク試論」というものを始めています。従来のアカデミックなフィールドワークは、観察者の都合で、観察者としてのまなざしでフィールドに入るものでしたよね。観察者、そして観察はある意味で権力。それをズラしたいんです。明確な目的意識やディレクションがあると、観察者と世界の関係は恣意的で合目的的かつ固定的になるけれど、そこにアートを挟むと構え方が揺らぎ、微弱さに出会わざるを得なくなる。既存の手法では見えなかった細やかなものが見えるようになる。

どのくらいの微弱さかというと、私たちが「たずねてみる」でかかわっている、児童養護施設を巣立ったこどもの支援を行う相談所の「ゆずりは」では、そこに通う子たちがジャムをつくって販売しています。例えば、それをフィールドワークの参加者にお裾分けすると、その人の世界のなかに「ゆずりはのジャム」というものが存在しているという認識がぼんやりと立ち現れる。そして、この「ジャム経験」は、その人の日常のなかで次の回路につながっていく。そのくらいの微弱さでいいんじゃないかと思うんです。

――個人のなかの微かな変化だけど、それが日々の視線を少し広げていくと。

宮下:このプログラムのフィールドワークでは参加者に対して、大仰なものではなく、ただ、あなたの引っかかりを持ってきてくださいと伝えています。例えば電車の窓から見えた崩れている崖の話をしてくれる人がいる。でもその背景を探ると、実は平安時代まで遡れたりして、毛細血管のようなネットワークを形成している。それは揺らいでいて弱いんだけれど、この真空のような日常のなかの「何か」ではある。そんな認識のあり方を自明化したらどうかなと。

東京アートポイント計画のディレクター・森司とともに話を伺った。

生きる術とかかわりの隙間をつくる、「微弱な」マネジメント

森:編集者の松岡正剛さんが1995年に『フラジャイル 弱さからの出発』という本を出されています。95年は阪神淡路大震災等もあり、「弱さ」という思想が注目された時期でした。でも、現在も、世間では「弱さ」へのネガティブな印象がまだ上書きされきれていない。そうすると宮下さんのような人は、世間の価値の外側にあることを「好きだからやっている」ことになってしまう。そういうプロジェクトのマネジメントってしんどいでしょう?

宮下:しんどい!

森:それをどのようにうまくやられているのか、をお聞きしたいです。

宮下:難しいですが、ひとつは「放逐」かな。あらゆることを放っておく。いろんなものが立ち上がるまで、とことん待つ。そして、自分が一番弱くあること。いろんな人にすがりまくっている。例えば、あえてプロジェクトのマネジメント経験がない人に仕切ってもらい、それを周りが助けるかたちにしたり。私がプロジェクトを運営する場合も、最初から「どう?」と周りに聞いてしまい、何かが出てくるのをただ待って、こちらで決めない。できるだけ提案を生かす、あるいはそのアイデアに助けてもらう。その方がとても面白くなります。系統立てて目的に至る、という方法は取りません。

森:そもそも宮下さんは、「微弱なもの」にどこで出会ったんですか?

宮下:トップダウンのヒエラルキーのなかで自分が縛られるのは嫌だという感覚は、幼いときからありました。うちの父は1932(昭和7)年生まれで、価値が変動した時代の人。私には兄と弟がいますが、父から言われたのは「サラリーマンになるな。生きるうえで必要なことは自分で習得しろ、国を信じるな」ということだけでした。きょうだいは結局会社員にはなりませんでした。というか、なれなかった。

あと、田舎で育ったことは大きいかもしれない。故郷は山梨の富士吉田です。その自然のなかで、お兄ちゃんは小学校3年頃になると夜9時にも帰ってこないことがあって、母が心配していると意気揚々とマムシを獲ってくるような感じでした(笑)。でも、父は怒らなかった。そのマムシは焼酎漬けになって戸棚の下にありました。そういうことが普通だったんですね。

森:じゃあ、社会的な強さを求める家庭ではなかった?

宮下:むしろ逆でしたね。既存の価値体系のなかで成功しろ、みたいなことは一度も言われなかった。私は学校が嫌いでした。高校時代は学校に「行けない」のではなくて、家を出たあと、自分からあえて行ってなかった。必要な出席数を「正」の字で数えて学校の机の上に貼っていましたよ(笑)。それを当時から、「私が決めたんだからいいでしょ?」と思っていた。父はそれも一度も叱りませんでした。

森:そう聞くと、宮下さんはいわゆる「アンチ」の構えの人でもないんですよね。

宮下:反発はとくにないです。アンチは権力と相補的だから。

森:だからこそ、余計にわかりにくいですよね。とくに、行政やビジネスのコードがきちんと身体に染み込んでいると、宮下さんの扱う価値はなかなか伝わりにくい。だけどそうした微弱な価値を丁寧に扱うマネジメントは、ひとつのスキルだと思っています。

――宮下さん個人の性質ではなくて、みんなが使いうるはずの技術だと。

宮下:二項対立のような「強い」世界の捉え方はわかりやすいのですが、それだとこぼれ落ちてしまうものがあるし、やりたいことに届かないと考えてきました。むしろそこに余白をつくって、誰もが手を出せる状況にしておくことで、「誰もが何かをできる状態」にするというか。

でも、こうした私のやり方をプロジェクトのメンバーが理解しているかというと、そうではありません。私よりもっときちんとしたメンバーは、「話がわかりにくい」というよりもわからなくて当たり前で、フラストレーションすらも感じてないようです(笑)。

森:なるほど。身近なスタッフもわからないのだから、世間からわかりづらいのは無理もない。でも実は、世間はそれを必要としているはずなんですよね。

小学校の図工の先生と一緒に、大木の根などの手に入れにくい自然素材や、染色など伝統的な技術を学んでいる「ざいしらべ」の活動風景。

つらく、しんどくても、自分の体で感じる

森:近年、さまざまな現場で行政側が求めるものと、文化事業者として大切にしたいことのギャップに戸惑うことが増えました。僕たちにとっては既存の価値であり、あえて扱わなくても良いように思えることが、行政的には「安心ポイント」だったりする。事業にまつわる数字が良いことや、通りの良いキーワードがあるだけで安心してしまう場面もよくあります。

例えば、この「地勢図」は2021年度から始まりましたが、実感として広がり方が早い気がしています。参加者や関係者が思ったより集まっている。その「数字の良さ」は仕掛けた側としては嬉しいことなんですが、僕はこの拡大感は「社会のマズさ」のリトマス試験紙だと思っています。学校や児童養護施設など、社会課題が背景にあるこどもにかかわる現場からのニーズが多いことには、ハッピーではない側面もありますよね。

宮下:人の集まり方には驚きましたよね。

――それだけ現場が切迫していることの現れでもありますね。

児童養護施設の職員を対象とした「ゆずりはをたずねてみる」では、隣り合う人と肩の力を抜いて出会えるように、ダンスや楽器演奏、心と体をほぐすエクササイズなどを行っている。

森:最近は「SDGs」を冠する活動が注目を集めていますが、宮下さんはどう見ていますか?

宮下:みんな名前を付けることがすごく好きですよね。さっきの、行政の人が既存の価値で安心するという話を聞いて思うのは、人は微弱さに耐えられないのだな、ということ。みんなすごく不安で、大きなフレームから外れることを避けてるのかなと思います。

そういうなかで、人は問題の「解決」を謳う大きな言葉や枠組みに頼りたくなる。本来、人間の目や手や体というものは、もっと多くのもの、細やかなもの、微細な変化を察知できるでしょう? でも大きなものに乗ることで、私には察知することを放棄しているようにしか思えない。

だから、それに乗らないで、自分の手が感じること、目が見るもの、それを小さくてもやり続けることしかない。もちろん、そこには何の保証もないんですが、そうして自分の体で感知した何かは生活の「よすが」にもなりえます。そのよすがをつなぐ線を、たまにはドボンと裏切られたりしながらも見つけていくこと。それは大きなものに委ねるよりもしんどくて痛いことかもしれないけれど、自分の体で感じることは、生きる実感につながっていくように思います。

「多摩の未来の地勢図をともに描く」では、フィールドワークやレクチャーを通して、自分たちの暮らす地域への理解を深めている(全14回)。写真家の豊田有希をゲストに迎えた回の様子。

森:「SDGs」はどれだけ細やかそうでも、やはり強いロジックから出てきたものに思えますね。今日話してきたような価値観さえも、「SDGs的だね」と受け止められてしまうこともあると感じています。

宮下:誰かに習ったことをトレースしたら安心、ではなくて、自分で悪戦苦闘すると見方も変わるのにね。でも、これはとても根深い問題だと思います。

森:こういうことは広義の教育の問題ですよね。「地勢図」ではこどもにかかわる方たちと協働していますが、「こども」の領域をいじろうとしているのはなぜですか?

宮下:もっとも原初的な衝動みたいなものを、こどもの残酷さも含めて肯定したいと思うからでしょうか。いまの世の中、こどもたちは上にも下にもハミ出すことが許されず平均化されてしまう。大人は二項対立的なわかりやすい世界観を押し付けるけど、微弱さの尺度を持つとグレーの領域が広がっていきますよね。例えばジェンダーも、二項対立では二つの性しか見えないけど、微弱な集合体だとむしろ差がわからなくなっていくと思うんです。

そうした細やかな目線からは、ときに驚く視点が生まれます。前回のインタビューでも話しましたが、以前、東村山の多磨全生園にある国立ハンセン病資料館を訪れたとき、あるメンバーが「ここには私たちが失った自治がある」と言って、私はそんな風に思えたことにポジティブな意味で驚いたんです。

それをただ「かわいそう」ってまなざしだけで捉えていると、何も変わらない。一方、無闇に視点の目盛を180度回転させても、それは暴力になってしまう。その間でより細かく目盛を調整して、そこにできる隙間から向こうを見ることが重要だと思うんです。

日々のなかの「微弱なもの」を、自分の体で感じるために――宮下美穂「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」インタビュー〈後篇〉

Profile

宮下美穂(みやした・みほ)

NPO法人アートフル・アクション事務局長
2011年から小金井アートフル・アクション!の事業運営に携わる。事業の多くは、スタッフとして市民、インターン、行政担当者、近隣大学の学生や教員などの多様なかたちの参加によって成り立っている。多くの人の経験やノウハウが自在に活かし合われ、事業が運営されていることが強み。日々、気づくとさまざまなエンジンがいろいろな場所で回っているという状況に感動と感謝の気持ちを抱きつつ、毎日を過ごしている。編み物に例えると、ある種の粗い編み目同士が重なり合うことで目が詰んだしなやかで強い布になるように、多様な表現活動が折り重なり、洗練されて行く可能性を日々感じている。

多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting

文化や歴史などの「地勢」を探ることを通して、一人ひとりが自分の暮らす足元を見つめ直すプロジェクト。2011~2020年度に東京アートポイント計画と共催した小金井アートフル・アクション!が、これまでの経験を活かして中間支援的な働きをしながら、小学校や児童養護施設など多様な団体と協働して事業を行っている。
https://cleavingartmeeting.com
*東京アートポイント計画として2021年度から実施

ACKT(アクト/アートセンタークニタチ)

まちを舞台に編まれる芸術と文化

国立市文化芸術推進基本計画が掲げる「文化と芸術が香るまちくにたち」の実現に向け、行政と市民、市内外の人々が交流し、新たなまちの価値を生み出していくプロジェクト。アートやデザインの視点を取り入れた拠点づくりやプログラムを通じて、国立市や多摩地域にある潜在的な社会課題にアプローチする。

実績

多様な人々との出会いを通じて、まちとともに成長するプラットフォームをつくるために、国立近郊を拠点とするメンバーが中心となり活動を開始。2021年度は、名古屋や大阪など日本各地の先行事例をリサーチし、文化芸術活動の担い手や活動の生まれ方、その仕組みについてレポートを公開した。

また、市内での遊休地を活用するプロジェクト「遊◯地(ゆうえんち)」をスタートした。まちのなかで当たり前になった風景、使われていない場所などをまちの余白(◯)と見立て、その場所のもともとの機能とは異なるアプローチから場をひらくことにより、新しい光景や交流を生み出すことを目指す。2022年3月には、パイロット企画としてアーティストのmi-ri meter(ミリメーター)とともに『URBANING_U ONLINE』をJR中央線の高架下空間で開催。普段は閉じている工事用フェンスを取り払い、臨時スタジオとして巨大なテントを設置した。高架下からの参加者、オンラインでの遠隔参加者らがそれぞれの拠点やまちなかで「普段通らない場所を通りなさい」「あなたの定点を探しなさい」といった指示にしたがって行動し、日常生活とは異なる都市の見方を体験した。

2022年度にはそれらの経験を活かして、普段なら見逃してしまいそうなまちの隙間にランドマークとなるテントを設置する「・と -TENTO-」を実施。国立駅から続く大通りの緑地帯「大学通り」を会場とし、巨大な地図などを用いながら市内のおもしろい取り組みや、気になっている遊休地、国立の歴史についてヒアリングしたりと、道行く人々とやりとりを交わした。そのほか、まち歩きやメールニュース、フリーペーパー『〇ZINE(エンジン)』の刊行など定期的な情報発信もスタート。2023年度にはアトリエやギャラリー、店舗を巡ってまちを横断するプログラム「Kunitachi Art Center 2023」を16日間にわたって開催。公開制作やまち歩きツアーなども実施し、日常のなかで芸術文化に触れる機会をひらいた。また、アートプロジェクトについて考える場として映画『ラジオ下神白―あのとき あのまちの音楽から いまここへ』の上映会を行い、その後の意見交換会では、地域に向けた広報の工夫や、さまざまな立場を巻き込むプロジェクトの可能性について語り合った。

拠点「さえき洋品●(てん)」のオープンに向けては、DIT(Do it together:「みんなで一緒につくる」という意味)を進め、拠点のお披露目とご挨拶を兼ねて、餅つき大会を開催。ここから何かが動きはじめる予感を地域の人々と一緒に楽しんだ。

関連記事

自分の信じる「よい」を起点に。一人のデザイナーがまちに出る理由——丸山晶崇「ACKT(アクト/アートセンタークニタチ)」インタビュー〈前編〉

自分の信じる「よい」を起点に。一人のデザイナーがまちに出る理由——丸山晶崇「ACKT(アクト/アートセンタークニタチ)」インタビュー〈後編〉