定時制高校で「現場」をつくるところから。「社会包摂」と「アートプロジェクト」の関係を考える。—海老原周子「Betweens Passport Initiative」インタビュー〈後篇〉

日本に暮らす『移民』の若者たちの人材育成を目指すプロジェクト「Betweens Passport Initiative」。様々な可能性を秘めつつも、光が当てられる機会の少ない彼らの力。その価値を広げようと、このプロジェクトでは定時制高校での放課後プログラムや、学校の外にいる『移民』の若者たちに関するリサーチを通じて、若者たちを社会とつなぐコミュニティづくりが進められています。

なかでも、取り組みを行ううえで重視しているのが、若者の多様性を育てる仕組みづくり。持続的にこの場所に関わるためのインターンシップなど、プロジェクトを運営する一般社団法人kuriyaの海老原周子さんが、その重要性を感じた経験とは? 現在進行形の試みについて、伴走する東京アートポイント計画プログラムオフィサーの佐藤李青とともに訊きます。

〈前篇〉「『移民』の若者のエンパワメントのために、アートプロジェクトができること—海老原周子「Betweens Passport Initiative」インタビュー」

定時制高校に「現場」をつくる

——2年間の活動のなかでBPIが継続して行っているのが、千代田区にある都立定時制一橋高等学校に週2回通い展開している放課後プログラムです。

海老原:もともと、この学校には外国籍などの高校生たちの支援に長らく取り組んできた角田仁先生という方がおり、多様な高校生たちが集まる多言語交流部「One World」を始められていました。ちょうど私もドロップアウト率の高い定時制高校の現場を知りたいと思っていて、2015年9月に、学校に通わせてもらうことから始めました。そこで、BPIのパートナーでもある徳永智子さんと知り合いました。彼女は慶應義塾大学国際センターで教鞭を執られていたので、その授業を履修する留学生たちにサービスラーニングという形で部活動に参加してもらい、共に部活動をつくってきました。参加しているのはフィリピンを中心にした東南アジアの子たちで、インドや日本の子も来ています。

——現場ではどのようなことをされているのでしょうか?

海老原:演劇のワークショップなどの始めに自己紹介を兼ねてよく使われるアイスブレイキングから始まり、例えば、言葉を使わない伝言ゲームやお互いの文化を紹介することなど、様々なアクティビティを通じてまずは関係性をつくることを大事にしています。そうすると、例えば、高校生にとってはその学校に通うことが楽しくなる状況をつくることが必要だなとか、大事なことが見えてきます。

——まずはユースとの関係性をつくることに時間をかけたんですね。

佐藤:実際、海老原さんはBPIを始めたとき、3年ほどこうした活動を続けないと関係性もできないし、プロジェクトを始めることもできないとおっしゃっていましたね。

海老原:こちらがやりたいアートプロジェクトを押し付けるのではなく、まずはその場に身を置くことが礼儀だと思っています。ブリッジの話ともつながりますが、最近、アートプロジェクトでも社会包摂が語られるようになってきました。その対象には『移民』以外にも、LGBTや障害者など様々な人がいますよね。ただ、すでに福祉や制度が整い包摂する先があるならばまだしも、『移民』は、福祉や支援の政策も制度もまだ整備されていない分野です。私たちが東京アートポイント計画の事業としてアートプロジェクトをやる意義は、これからの社会に必要なソフト面でのインフラをつくるようなもっと長い視野を持ったことなのではと感じています。そのためにも、いきなりアートを持ち込んで何かをしようとするよりも、相手にどんなニーズがあるかを現実に知らないとプロジェクトとして動けないと思ったんです。

佐藤:例えば社会福祉など制度に支えられた施設に行けば人が集まっていて、現場が見えることにより支援もしやすい。だけど、『移民』の場合は、そもそも社会的にも集まった状態で見えるかたちになっていないから、何が必要かという言語化も進んでいないと。

海老原:他のマイノリティと比べて、包摂する先がまだなく、『移民』の若者が集まる場すらない段階では、まずは、その「現場」をつくることから始めないといけないし、それには3年くらいはかかるだろうと考えていました。なので定時制高校では放課後の部活動という形で、多様な高校生たちが集まることのできる「場」をつくりました。次に、学校でもない家でもない、若者たちが集える第3の「場」としてインターンシップをつくっていくことをこの2年間ではやってきたのだと思います。

Betweens Passport Initiative インターン活動の様子。

リサーチを通して、ユースが変わった

——定時制高校での活動と並行して、BPIではこれまで、アーティストのOkui Lalaさんや武田力さんと協働してユースとの新たな出会いを模索するリサーチプログラムも行ってきました。

海老原:定時制高校は学校内のコミュニティですが、BPIにおける「ユース」は、16才から26才を対象年齢としています。そのなかには、すでに高校を卒業した18才以上の子やドロップアウトした子、あるいは20代で来日した子もいます。こうした子は本当に見えづらい状況にいます。彼らはどこにいて、どのように出会うことができるのかという課題があったんです。

佐藤:そのような状況のリサーチと、出会いの仕組みをつくる必要があるんだろうと。武田さんはフィリピンなどアジアでも活動を展開していますが、地域に入り、人との出会いから作品のフォーマットそのものをつくるアーティストです。話を伺うと日本の移民への関心もあった。それで最初は、フィリピンコミュニティの人が多い定時制高校の活動に参加してもらおうと思いました。でも実際に動き始めてみると、むしろコミュニティの枠から外に出る動きをしてもらう方がいいんじゃないかと、課題だったリサーチをお願いすることになりました。

——いわば、野に放ったわけですね。リサーチとは、具体的には?

海老原:東京のなかの多文化を巡るリサーチとして、インターンをしているユースに自文化の案内者になってもらいました。武田さんが独自に行っているリサーチに加えて、例えば大久保の路地裏やフィリピンの食材店などの情報を持っているユースと知り合い、助けてもらう。そこからこれまでは掘り起こされていない、新しいユースとの出会いができるのではないかと期待しました。何かをつくるときというのは、結果的に誰かが巻き込まれやすい状況ができるものだと思うんです。

Betweens Passport Initiativeでは、アーティスト・武田力さんとユースが協働し、東京都内の多文化の現場をリサーチした。

海老原:アーティストと関わることで、案内役のユースにも変化がありました。ちょうど今日、武田さんも含めて錦糸町や高田馬場をみんなで回ったんですけど、関係性が変わるんです。今日もユースたちは、案内のために入念な準備をして、私たちには辿り着けないようなフィリピンのレストランに連れて行ってくれました。

——そこではむしろ海老原さんたちが教わる側になるわけですね。

海老原:例えば、支援という枠組みでは、どうしても支援者と被支援者という固定された上下関係にあります。でも、リサーチでは、「弱者」になってしまいがちな彼らの持つ価値が転換される。水平でフラットな関係性や、上下関係自体が反転したりする状態をアートプロジェクトではつくりやすい。関係性すらも多様なコミュニティでの経験は、ユースにとって「自分にも何かができるんだ」と実感する場でもあり、エンパワメントの機会になると思っています。

ユースの関わり方は様々。企画や制作を手がけることもあれば、通訳として間に立つこともある。プロジェクトを通じて、それぞれが自分の持つ「多文化」や個性の活かし方に気づくことを目指す。(「Moving Stories / Youth Creative Workshop アジア間国際プラットフォーム形成ー多文化な若者達へのアートを通じた人材育成プロジェクト」)

何かを変えるための包摂とは?

――海老原さんは通訳者としても活動していて、BPIの外でも、『移民』の問題を扱った日本のアートの現場に多く立ち会っているかと思います。その中で、移民の取り上げられ方について疑問に思うことや、理解が進んでいないと感じることはありますか?

海老原:最近はもう、いろいろな怒りも通り過ぎてしまって……。

佐藤:(笑)よく怒っていましたよね。『移民』に関する仕事が増えたのは最近ですか?

海老原:ここ2年ほどで増えたと感じます。「アートと移民」というと、アーティストが自主的に作品で取り上げる場合と、高まる「社会包摂」の流れのひとつとして主催者側が事業や企画に盛り込もうとする場合がありますよね。前者については、私が言えることは何もないです。作品化することで結果的に搾取になるケースもありますが、それはアーティストの自由であると同時に、自由の対価として責任も引き受けるのかは、その人次第だと思っています。一方、後者の社会包摂の取り組みには、何のためにやるのかよくわからないと感じるものもあります。なぜそれをやるの?やったことでどうしたいの?と。

――ある種、「マイノリティに優しい」という大義名分が先行してしまっている?

海老原:実績づくりを目的に実施する、ということですね。私たちがいただくお問い合わせの中には、こんなプログラムをやりたいからユースに参加してもらえないかと、キャスト会社のような扱いを受けるものもあります。でも、多様な人が参加する強みは、様々な視点を通して従来の仕組みの機能していない部分が見えたり、新しい枠の必要性がわかること。ただ既存の枠組みにはめ込んで、「包摂」と言うだけでは何も変わらないのではと思います。

佐藤:本当に何かを変えるための包摂というより、言い方は悪いけれど、ただの「トピック」として扱ってしまうものもある。その前提の違いは、大きな問題ですよね。

——一方でその話題は、BPIがなぜ「アートプロジェクト」かという問いにもつながると思います。海老原さんはアートとしての良さ以前に、実際の人の状況が変わることをとても大事にされている。アートか人か、その天秤についてはどう考えていますか?

海老原:アートをツールとして使うか、ということですよね。そこはすごく悩んできた部分ですが、おそらくそのどちらでもありません。よく誤解されるのですが、私たちは福祉団体でも支援団体でもありません。kuriyaは人材育成の団体としてアートプロジェクトに価値を見出しています。というのも、アートプロジェクトは言語化しづらい部分もありますし、短期的に何か問題を解決するわけでもないと思っています。ただ長期的な視点では、社会を豊かにする何かをつくるものだと信じています。ともすれば必要ないとみえるものかもしれないけど、人の人生にその体験があるかないかの差はすごく大事だと。

——海老原さんが、その大切さを感じた経験というと何ですか?

海老原:子供の時からアートに救われて来ました。日本で通ったアトリエもそうですし、イギリスでも演劇やアートが身近にあった。それらが別に何かをしてくれるわけではないけど、『外国人』として育つなかで、人との違いやいろんな観点を持っても良いんだよという蓄積があったからこそ今の自分があります。そうした場所を、いまの日本にもつくりたいんです。

ワークショップで制作した自分たちの映像を観るユースたち。(「Moving Stories / Youth Creative Workshop アジア間国際プラットフォーム形成ー多文化な若者達へのアートを通じた人材育成プロジェクト」)

埋もれていた価値を見つけ、物語を伝えていく

——現在、BPIにはインターン生が5人、また過去のメンバーなども含めて20人ほどのユースが関わっているそうですね。彼らとは普段、どのような時間を過ごしているのですか?

海老原:お茶を飲んだり、ゆで卵の茹で方を教えたり、進学の相談に乗ったり……。ただ一緒の時間を過ごしているように見えて、フラットに話せる関係性の大人と知り合えることが、アートプロジェクトだからこそ築けるセーフティネットのように思うのです。私たちは結局、支援団体ではないので、具体的な何かをしてあげることはできません。支援や福祉と近い領域のアートプロジェクトには、その一線を越えないように堪えるものも多いですが、私たちはあえてそのラインを越境して、従来とは異なるかたちの網を張ることをしたいと思っています。

——支援や福祉の領域にはない、新しい関係性の紡ぎ方をしていきたいと。

海老原:はい、それと同時に、そこで語られる小さな物語を、社会に伝えていくことで、大きな仕組みをつくれたらと思っています。第一回目の東京オリンピックが道路や建物といったハード面での社会インフラ整備のきっかけになったのに対して、第二回目となる2年後の東京オリンピックに向けて、教育や福祉といったソフト面での社会のインフラ整備が必要なのではないかと個人的に感じています。とくに断絶されてしまった関係性をつなぐ時にアートプロジェクトが有効なのではないかと。BPIを始めたときに「現場」と「ツール」と「物語」が必要だと思っていました。1年目は定時制高校という現場を、2年目はインターンというツールを、3年目は、彼らがここでどんな成長をして、どう巣立って行くのか、その物語を、未来の仕組みづくりのために伝えていきたい。

「Moving Stories / Youth Creative Workshop アジア間国際プラットフォーム形成ー多文化な若者達へのアートを通じた人材育成プロジェクト」

——移民というと、これまで支援や研究の「対象」になりがちでしたが、今後、彼らが自ら文化の発信者として、日本で大きな存在感を持つことも十分に考えられますよね。

海老原:実はそういう動きは、すでに起きつつあります。メンバーとして関わってくれているAvinash Ghaleは高校を卒業してからネパールより来日しました。彼がインターンプログラムの一環として、ビデオのワークショップをやったことをきっかけに、映像作品を撮りたいと思っていた若者たちが集まり、仲間を集めてYouTubeチャンネルを始めています。週一回継続的に集まり続けていて、規模も大きくしながら、自身で発信を行っています。ユースと私たちも、ずっと一緒にいられるわけではないなかで、私たちが彼らの物語を語るのではなく、どんどん自分たちで語れる力をつけられるようになるといいなと思います。

佐藤:今日語ってきたプロジェクトの「準備」が整う中で、BPIは、本当にこれから何をしていくのかがとても大切になると思うんです。海老原さんとユースの付き合いの切実さと共に、これからの実践によって、その真価が問われるのだと思います。ユースが関わる土壌ができたうえで、彼らがどう変わったのか、どんな新しいユースと出会えたのかが、重要だろうと思います。

海老原:人口減少を迎える日本において、BPIの取り組みは、多文化社会を迎える東京の未来をつくることでもあると思っています。以前、あるインターン生が「日本に来て初めて、自分にも何かできるんだと感じた。この活動がなかったら、自分が日本で何か役に立てるとは思っていなかった。でも、このプロジェクトがあったから、人とは違う自分だからできることがあると、自分の強みがわかった」と言われたんです。BPIには『移民』の若者のみならず日本人の若者も参加しています。そして例えば子育てが一段落したお母さんなども即戦力として関わってくれています。これまで社会に埋もれていた人的資源を見つけて、活躍の機会を提供することで新しい人材を育てるアートプロジェクト。そんな指標を大切にしながら、今後も活動を展開していきたいです。

「Moving Stories / Youth Creative Workshop アジア間国際プラットフォーム形成ー多文化な若者達へのアートを通じた人材育成プロジェクト」

Profile

海老原周子(えびはら・しゅうこ)

一般社団法人kuriya代表、通訳
ペルー、イギリス、日本で多様な文化に囲まれて育つ。慶應義塾大学卒業後、独立行政法人国際交流基金や国連機関で勤務。2009年に移民の子供を対象としたアートプロジェクトを立ち上げ、多文化なコミュニティづくりや人材育成を行う。2014年からは移民の若者に焦点をあて、アート活動を通じたエンパワメントプログラムを実施。2016年にEUが主催するGlobal Cultural Leadership Programmeに日本代表として選抜される。また、国と国、文化と文化、言葉と言葉の間をつなぐことをテーマに通訳としても活動する。2016年、一般社団法人kuriyaを立ち上げ、アートプロジェクト「Betweens Passport Initiative」を始動。

一般社団法人kuriya

kuriyaは、『移民』の若者たち=未来の可能性と捉え、自らの手で未来を切り開く人材を発掘・育成しています。東京をベースに『移民』の若者たちをはじめとする多様な人たちが集うインターカルチャーな場をつくり、それぞれの持つ知識やスキルを共有し学び合いながらアートプロジェクトを行うことで、彼らに生きる糧やライフスキルを身につける機会を創出します。

Betweens Passport Initiative

『移民』の若者たちを異なる文化をつなぐ社会的資源と捉え、アートプロジェクトを通じた若者たちのエンパワメントを目的とするプロジェクトです。人材育成事業として『移民』の若者たちがプロジェクトの運営を共に行います。
https://medium.com/betweens-passport-initiative

『移民』の若者のエンパワメントのために、アートプロジェクトができること—海老原周子「Betweens Passport Initiative」インタビュー〈前篇〉

「東京アートポイント計画」に参加する多くのアートプロジェクトは、いったいどのような問題意識のもと、どんな活動を行ってきたのでしょうか。この「プロジェクトインタビュー」シリーズでは、それぞれの取り組みを率いてきた表現者やNPOへの取材を通して、当事者の思いやこれからのアートプロジェクトのためのヒントに迫ります。

今回お話を聞いたのは、日本に暮らす『移民』の若者たちの人材育成を目指すプロジェクト「Betweens Passport Initiative」です。様々な可能性を秘めつつも、光が当てられる機会の少ない彼らの力。その価値を広げようと、このプロジェクトでは定時制高校での放課後プログラムや、学校の外にいる『移民』の若者たちに関するリサーチを通じて、若者たちを社会とつなぐコミュニティづくりが進められています。

なかでも、取り組みを行ううえで重視しているのが、若者の多様性を育てる仕組みづくり。持続的にこの場所に関わるためのインターンシップなど、プロジェクトを運営する一般社団法人kuriyaの海老原周子さんが、その重要性を感じた経験とは? 現在進行形の試みについて、伴走する東京アートポイント計画プログラムオフィサーの佐藤李青とともに訊きます。

Betweens Passport Initiative事務局長/一般社団法人kuriya代表・海老原周子さん

『ユース』に対するサポートが足りていない

——今年で2年目となる「Betweens Passport Initiative」(以下BPI)では、近年日本でも耳にする機会の多い『移民』の若者たちと共につくるアートプロジェクトのかたちが模索されています。最初に、『移民』という言葉について教えていただけますか?

海老原:国際的に合意された定義はないと言われていますが、例えば「通常の居住地以外の国に移動し、少なくとも12カ月間その国に居住する人」と説明されることがあります。BPIでは「多様な国籍・文化を内包し生活する外国人」と定義しています。2018年の1月に「東京23区の新成人の8人に1人が外国人」という報道があったように、日本の外国籍人口は増加傾向にあります。そのなかでBPIに参加している、私たちが「ユース」と呼んでいる若者たちとは、東京で育つ16才から26才の若者たちです。『移民』のみならず日本人の若者も参加しています。

——海老原さんが彼らの状況に対して、アートを通じて人材育成をしたいと考えた動機とは何だったのでしょうか?

海老原:外国人や『移民』というと、一般的にはそこで生じる「問題」の方に焦点が当てられがちです。例えば日本語ができないとか、文化に馴染めないとか……。だけど実際に接してみると、彼らはとても豊かな資質をもっている。彼らの持つ言語や文化などの多様性はこれからの東京のまちをより豊かにする可能性だと感じています。でも、そんな彼らの可能性や多様性を育てる場は少ない。アートプロジェクトがその場になるのではないかと思いました。私は、アートには多様性を育てる力があると感じていて、そして、プロジェクトを「ユース」たちと共に運営することで「自分も社会とつながれる」「社会の一員として役に立てるんだ」と彼らに感じてもらえる機会がつくれると考えています。人と異なることを価値にできるという点で、アートプロジェクトは人材育成に有効だと思っています。

マレーシアのアーティスト・Okui Lalaとのワークショップ

――海老原さんは小さいころ、ペルーやイギリスで暮らしていたそうですね。

海老原:イギリスにいたとき、言葉ができるようになっても、友達をつくるのがとても大変だったんです。でも、音楽や美術の話題から一人、友達ができて、孤独な自分の世界が彩られた。その個人的な経験も原体験としてありますが、日本で5才から通っていた絵画教室の影響が大きいです。そのアトリエには、幼稚園児から高校生まで、障害を持つ子や学校に馴染めない子などいろんな子がいました。学校でもない家でもない第3の居場所があって、いろんな人が集まる面白さを体験しました。それもあり、前職の独立行政法人国際交流基金時代から、『移民』の子供や若者たちと文化や芸術を通じて何か取り組めないだろうかと考えていました。

佐藤:BPIが対象にするユースへの取り組みの必要性も、そこで気が付いた?

海老原:そうです。仕事をするなかで、高校生や大学生といったユースの層へのサポートが日本には少ないことを実感しました。小学生や中学生までは学習支援があり、大人にも日本語教室などの取り組みはあるのですが、そのあいだの層の「若者」には支援も人材育成も十分でないのではと。そんなことを感じていたとき、当時勤めていた国際交流基金の本部のある新宿で、芸術文化交流のノウハウを活かし、足元にいる多文化な若者たちを国際交流の担い手として育成もできないかと提案しました。これが「先駆的創造事業」という社内公募事業として採用され、2009年に中高生対象の映像ワークショップをしました。これをきっかけに、「新宿アートプロジェクト」が始まりました。

——新宿アートプロジェクトは、kuriyaの前身となるプロジェクトですね。そこではどのような活動をされていたのでしょうか?

海老原:映像や音楽、ダンス、演劇などのワークショップを定期的にやっていました。例えば映像のワークショップでは、まちと接触するようなテーマを決めて、自分たちが切り取ってきたイメージからお互いの視点の違いを感じたり。そんな取り組みを、国際交流基金のプロジェクトとして3年間、新宿区との協働事業として2年間やったのですが、同時に自分たちの活動に疑問や限界も感じていました。

「新宿アートプロジェクト」より(c)T.K
「新宿アートプロジェクト」より

「その先」に関わるためのインターンの仕組み

——新宿アートプロジェクトに感じていた疑問や限界とは何だったのでしょうか?

海老原:新宿アートプロジェクトでは、ワークショップを中心に年間30回以上の活動をしていたのですが、5年もやっていると、当時は10代後半だった子が20歳を過ぎてふたたび参加してくれることもありました。もちろんワークショップ中は楽しく参加しているのだけど、じゃあ、そのあとの彼らの人生がどうなっているかというと、例えば大学に行きたいのに進学できていなかったり、高校をドロップアウトしている子もいるんです。

——関わったあとのユースの現実が見えてきた。

海老原:新宿アートプロジェクトでは、彼らの個性が光る場所をワークショップという単発の場でつくっていたと思います。でも肝心のユースにとって、ワークショップに参加することがどんな力になっているのか。作品制作を目的としていたわけではないなか、自分たちの試みはアートをより追求するのか、アートをツールに課題解決を目的としたプロジェクトをやっていくのか。アートとプロジェクトのあいだのブリッジをどうつくるか、という葛藤もありました。

佐藤:その問題は解決したんですか?

海老原:やっとそのブリッジのあり方が見えてきたと思います。とにかく新宿アートプロジェクトでの限界を乗り越えるため、BPIを始めるときに「kuriya」という一般社団法人を立ち上げ、器をつくったことが大きかった。

——いま見えてきた「ブリッジ」とは、具体的にはどういうことですか?

海老原:アートプロジェクトをユースと共に運営することで、働きながら学べる場をつくり、それをインターンシップという仕組みにしました。ユースたちを取り巻く環境を見ると、必ずしも社会的経済的に恵まれているとは言い辛い状況にあります。例えば、アルバイトは単なるお小遣い稼ぎではなく、学費のため、親に生活費を入れている子も多くいます。そういう子たちが例えば美術館のイベントに参加したい、映像ワークショップに参加したい、いろんな機会に挑戦したいと思っても、毎日学校とアルバイトと往復するなかで、そんな余裕すらありません。進学にも仕事にも困っているユースたちの状況を拾うことができない。それが新宿アートプロジェクトで感じた限界でした。

Betweens Passport Initiative インターン活動の様子。

——しかしBPIでは、そこにインターンという担保をつくれた。

海老原:ユースたちの生活も考えながら、アートプロジェクトにアクセスできる機会としてインターンという関わり方があること。つまり、きちんと彼らの環境を踏まえた上で、アートプロジェクトに参加するためのアクセシビリティを担保するために、インターンの仕組みがある。様々な機会を無責任ではないかたちで提供できるのは大きいです。
ユースたちはよく「機会(Opportunity)がほしい」と言うんです。BPIではアーティストとの関わりを通して、ユースが自らの役割や可能性を見出しています。もともとプロジェクト名に「パスポート」の言葉を入れたのは、アルバイトと学校の往復という生活を送りながらも、機会が欲しいと願うユースたちに、新しい場所や異なる価値観へアクセスするための「ツール」を手に入れて欲しかったからです。アートを介して、様々な価値観や新しい世界との出会いを提供すること。かつ、働きながら学べる場としてインターンシップをプロジェクトのなかに織り込むことで、課題に対する解決策も織り込む。それが2年間で見えたアートとプロジェクトのブリッジだと考えています。

ワークショップやアーティストとの協働を通じ、ユース一人ひとりの「やりたいこと」「伝えたいこと」を触発していく。(写真:「Moving Stories / Youth Creative Workshop アジア間国際プラットフォーム形成ー多文化な若者達へのアートを通じた人材育成プロジェクト」)

〈後篇〉「定時制高校で「現場」をつくるところから。「社会包摂」と「アートプロジェクト」の関係を考える。—海老原周子「Betweens Passport Initiative」インタビュー」

Profile

海老原周子(えびはら・しゅうこ)

一般社団法人kuriya代表、通訳
ペルー、イギリス、日本で多様な文化に囲まれて育つ。慶應義塾大学卒業後、独立行政法人国際交流基金や国連機関で勤務。2009年に移民の子供を対象としたアートプロジェクトを立ち上げ、多文化なコミュニティづくりや人材育成を行う。2014年からは移民の若者に焦点をあて、アート活動を通じたエンパワメントプログラムを実施。2016年にEUが主催するGlobal Cultural Leadership Programmeに日本代表として選抜される。また、国と国、文化と文化、言葉と言葉の間をつなぐことをテーマに通訳としても活動する。2016年、一般社団法人kuriyaを立ち上げ、アートプロジェクト「Betweens Passport Initiative」を始動。

一般社団法人kuriya

kuriyaは、『移民』の若者たち=未来の可能性と捉え、自らの手で未来を切り開く人材を発掘・育成しています。東京をベースに『移民』の若者たちをはじめとする多様な人たちが集うインターカルチャーな場をつくり、それぞれの持つ知識やスキルを共有し学び合いながらアートプロジェクトを行うことで、彼らに生きる糧やライフスキルを身につける機会を創出します。

Betweens Passport Initiative

『移民』の若者たちを異なる文化をつなぐ社会的資源と捉え、アートプロジェクトを通じた若者たちのエンパワメントを目的とするプロジェクトです。人材育成事業として『移民』の若者たちがプロジェクトの運営を共に行います。
https://medium.com/betweens-passport-initiative

生きる力としての物語の力。わたしたちはどう取り戻すのか。 —石神夏希「東京ステイ」インタビュー〈後篇〉

「東京ステイ」は、劇作家の石神夏希さんを中心としたNPO法人「場所と物語」が2016年から取り組んでいるプロジェクト。何気ない普段のまちの光景に対して、私たちはどのように異なる視点、「物語」を見出しうるのか。そんな問いを掲げたこのプロジェクトでは、現在、「巡礼」を意味する“ピルグリム”と呼ばれる実験を通して、そのアプローチを模索しています。

「場所との関係を、自分なりに紡ぎ直していける物語の力に興味がある」と語る石神さん。形成過程のプロジェクトのなかで、彼女はどんなことを感じ、何を考えてきたのか。伴走者である東京アートポイント計画ディレクター・森司との対話から探ります。

〈前篇〉「巡礼から生まれる、「場所」との新しい物語 —石神夏希「東京ステイ」インタビュー」

ピルグリム=偶然をキャッチする身構えの鍛錬

——「東京の物語にチェックインする」で、メンバー間の違和感が浮き彫りになった「東京ステイ」。そこからはどんな活動をされたのでしょうか?

石神:ひとつは、ゲストを呼んだレクチャー&ディスカッションです。自分たちのフィールドワークの「なんか違うニュアンス」を、先駆者の話から考えようとしました。
たとえば「カレーキャラバン」の加藤文俊さんからは、フィールドワークには自分が移動しないという方法もある、ということを学びました。もうひとつ大きかったのは、NPOで夏に自主的に行った千葉での合宿です。ここで、そのあと実験することになる「ピルグリム」のヒントを掴んだ気がしました。

——というと?

石神:合宿中にいろんなトラブルがあったんです。車が壊れてしまったり、真夜中に来たメンバーに買い出しを頼んだらコンビニがものすごく遠かったり。でも、それが楽しかった。こういう、偶然を受け止めながらあえて遠回りをして集まり、ひとときを共有したあと、日常に還っていくことがしたいと。2017年10月には東京の檜原村で、ピルグリムの実験のための合宿をしたのですが、そこでも現地で何をするかよりも、どう集まり、解散するかの設計を試そうとしました。

東京ステイ「レクチャー&ディスカッション」

——秋に行った檜原村の合宿では、参加した全員に「朝8時には出発して、6時間かけて辿り着くこと」がミッションとして与えられたそうですね。

石神:メンバーは、それぞれが選んだルート上で「一緒に檜原村へ連れてきたかった人」への手紙を書き上げ、その過程をSNS上にテキストや写真で共有しました。遠回りしたり寄り道したりしながら、偶然が起きる状態をどう仕込むか。こう言うと、完成されたピルグリムの手法があるようですが、むしろ自分たちがいま、ピルグリムを通して偶然をキャッチする身構えを稽古しているんです。

:演劇っぽいね(笑)。

石神:そうですね(笑)。偶然を受け入れて思いもよらない展開につなげる身体性は、都市やコミュニティと関わりながら演劇のプロジェクトを立ち上げるなかで、自分も学んできた実感があるんです。アクシデントから何かが生まれる。実際、檜原村でも雨のために予定していたバンガローに泊まれなかったのですが、たまたま寄った喫茶店に泊めてもらえることになって……。

東京ステイ「ピルグリム(巡礼)」。それぞれが目的地までさまざまなルートで向かい、手紙を書き、読み合う。

——千葉の合宿といい、いろいろ起きますね(笑)。

:その日、店番をしていたおばあちゃんの娘さんがバレエをされている方で。私たちが文化の話をしているのが聞こえるわけですよね。それで信頼されたみたいで、「使っていいわよ」と。あの日、雨が降らなければあの場はなかった。偶然が必然を呼び、とても良い場になったんです。合宿ではなくてサバイバル、本当の意味での「東京ステイ」をしたんですよね。

嘉原妙(東京アートポイント計画・プログラムオフィサー):もうひとつ、あの日みんなで書いてきた手紙を読みあったのも大きかったですよね。プロジェクトで集まったメンバーなのですが、あそこでそれぞれ個人の物語を共有した感覚がありました。

石神:そうですね。その場に連れてきたかった人への手紙ということで、私は父に向けて書いたのですが、みんな家族など、それまでお互いに話したことがなかったようなプライベートな関係性について書いていました。

:それぞれの人との距離感の話なんです。生々しくもあるけど、他者にはそれが物語になる。また現地へのプロセスも含んでいるので、妙に上演台本っぽいものでしたね。

石神:今日、どうやってここに来たかという内面的な旅の記録でもあった。SNSに上がる文章や写真も、必ずしも直接その人を語っていなくて、聞こえた音や見た風景についてでした。でもそこには、思っているその人の気配がどこか含まれていた気がします。

《hato_pepin “でも私はだれを幸せにするために生まれてきたわけでもないのだと、自分の好きなように幸せにも不幸せにもなっていいのだとわかったから、私はいま檜原村にいます。” #場所と物語 #東京ステイ #ピルグリム》東京ステイ檜原村合宿での石神さんのInstagram投稿。道中の思考と言葉を記録していった。

当事者と観察者が同居する「あわい」

——「上演台本っぽさ」とも関わりますが、石神さんは劇作家としてもまちに溶け込むような作品を作られている。演劇作品とプロジェクトの関係をどう考えていますか?

石神:もちろん両者の質は違いますが、自分にできることはそんなに多くないから、結果的に似てくる部分もあります。とくに、2017年秋に上演した『青に会う2017.10-11』 は、東京ステイの合宿と時期が重なっていたので、双方に影響があったと思います。これは京都の舞鶴市で2週間のアーティスト・イン・レジデンスを通じたリサーチから生まれた作品で、パフォーマーが演じる架空の人物が、実際に舞鶴のまちで2週間、滞在して生活する様子を演劇としてノンストップで上演し続けるものです。毎日、特設サイトに翌日の戯曲がアップされ、そこに書かれた日時と場所に行くことで観ることができるのですが、上演される内容はスーパーで買い物をするとか、地域の方と待ち合わせして会うとか、ごく普通の出来事で。

『青に会う 2017.10-11』(舞鶴、2017年)(映像:和久井幸一)

——戯曲の存在を知らない人々には、ただの日常の一コマに過ぎないと。

石神:演劇における日常と非日常の反転は、よく考えますね。東京ステイのメンバーの間でも、以前から「住む」ことと、旅など「滞在する」ことの間を考えたいと話していて。東京にはいろんな場所から人が集まりますが、たとえば3年間、東京で暮らすのは、「住む」なのか「滞在する」なのか。根を張るのでも旅するのでもなく、その間がいろいろあっていいんじゃないかと。その間で宙ぶらりんな日常のあり方を探ってみたい。

——当事者(住む)と、観察者(滞在する)の間を行き来するということですか?

:いや、当事者と観察者という二項対立ではないんですよ。そのどちらかの視点になるのは簡単なことで。むしろ、ピルグリムをしているときに起こるのは、立場が入れ替わるのではなく、同じ立場のまま変わっていくこと。当事者のまま観察者に、観察者のまま当事者になる。それらが同居しちゃう状態をいかにつくるかを考えているんです。

——重なり合う「あわい」の部分が大切ということですね。

石神:そうですね。まちで誰かとすれ違ったときに、その人の内側から自分を見る。自分のまなざしがその人を通じて自分に跳ね返ってくる。自分が他者であることに気づくというか、そうしたところに生まれる想像力に関心がある。

:アートポイントでは、石神さん以外にもさまざまな演劇人と仕事をしているのですが、彼女の演劇は、僕の言葉で言うと「1分の1の演劇」。つまり、この実社会における演劇なんです。ただのフィクションではなく、生活のなかに生に出てくる「演じること」と「演じないこと」の区別もつかない小さなあわいを重要にしている。その目線や感性があることが、いまも試行錯誤するこのプロジェクトのエンジンなんです。

場所と自分の関係を変える物語の力

——最後に、プロジェクトの今後について考えていることを聞かせてください。

石神:いま取り組んでいるのは、イラストレーターの寺本愛さん、編集者の安東嵩史さん、場所と物語メンバーでもあるアートディレクターの小田雄太くんと一緒に、これまで主に言葉で表現してきたピルグリムを、「十牛図」で視覚的に表現するブック制作です。「十牛図」というのは禅の思想を土台にした10コマ漫画のような絵で、悟りを開くプロセスを人(自我)と牛(真の自己)との関係に重ねて描いたもの。牛を追いかけ、苦労してつかまえて、牛を我が物にして家に帰ると、牛のことも自分のことも忘れてありのままの自然が見えてくるという展開なのですが、面白いのは、10コマ目、つまりラストが酒瓶をぶら下げて市井に戻る図なんです。つまり、悟りを開いたら、俗世に戻ってくる。

——日常と違うレイヤーに行って、日常に戻ってくる。

石神:私たちもピルグリムを通じて、そこにいない誰かに向かって手紙を書く、いわば「生霊を道連れに都市をさまよう」ような非日常的な時間を過ごして、だけど最後には全員が集合してご飯を食べながら手紙や体験を共有し、日常に還る。でもその日常は、すでにピルグリムをする前の日常とは変わってしまっている。もう元には戻れないんです。以前、メンバーの馬場さんから、「この活動に対して、(いい意味で)一貫したアウェイ感を感じている」と言われました。それはとても大事なことだと思っていて。普段はビジネスをバリバリしている人たちが、時間を贅沢に無駄遣いしてモヤモヤしたまま帰る。そうやって持ち帰ったモヤモヤが、それぞれの現場に少しずつ影響を及ぼしていく。このプロジェクトが、そんな場所になればと思うんです。

『東京ステイ 日常の巡礼 まちと出会いなおす10のステップ』ブックの詳細についてはこちらの記事に詳しい。

:さっき言った石神さんの持つ日常への感性、このプロジェクトを通して見つけようとしている能力は、これからとても必要なものだと思っています。大きな変化のなかでサバイバルして、そこをすり抜ける術。とくに2020年の東京オリンピック後の東京において。

石神:「場所と物語」というテーマになぜ自分は取り組みたいのか。それは、選べない場所や状況のなかで生きている人たちも、生まれてきたことを肯定できる世界であってほしいということなんです。そのとき大切なのが、自分がどうしてそこにいるのか、つまり、場所との関係を自分なりに紡ぐことができる物語の力だと思う。それは、受け入れがたい事態を変えていったり、次の場所へ進んでいく力にもなると思うんです。

——現実はひとつだけど、どう解釈するかで向き合い方は変えていける。

石神:自分と場所との関係性、つまり物語を編み直す力は、誰もが無意識に使っている「生きる力」だと思いますが、普段は見えづらいし、その必要性を切実に感じることは少ないかもしれません。だけど今後、だんだんと人口が減り、活気がなくなったり、貧しくなっていく社会ではなおのこと、その力が必要になるし、なければ本当の危機になってしまうと思う。このプロジェクトで考えたいことは、そんな物語の力を一人ひとりがどう取り戻すかなんじゃないかと思っています。

Profile

石神夏希(いしがみ・なつき)

劇作家/ペピン結構設計/NPO場所と物語 理事長/The CAVE 取締役
高校卒業と同時に劇団・ペピン結構設計を結成。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。近年は横浜を拠点に国内外に滞在し、都市やコミュニティを素材にサイトスペシフィックな演劇やアートプロジェクトを手がける。またNPO場所と物語 理事長、遊休不動産を活用したクリエイティブ拠点「The CAVE」の立ち上げおよびプログラムディレクション、住宅・都市系シンクタンクでの研究執筆、株式会社ロフトワークへの参加など、さまざまな領域を行き来して劇作家として活動している。
主な作品に『花嫁』(横浜・黄金町、2013年)、『Fantastic Arcade Project』(北九州、2013~2015年)、『パラダイス仏生山』(高松、2014~2016年)、『ギブ・ミー・チョコレート!』(横浜・本牧、メルボルン、マニラ、2015~2017年)、『青に会う 2017.10-11』(舞鶴、2017年)、共著に『Sensuous City―官能都市』(Home’s総研、2015年)など。
http://pepin.jp/

NPO法人場所と物語

2016年6月設立。不動産、建築、アート、デザイン、メディア、まちづくりなど領域横断的に活動するメンバーで構成される。「物語」という手段を通じて「場所」に潜在する価値や個性を発見し、表現し、発信することを目指している。
「物語」は人が世界と関係性を結び、今ここで生きる意義を見出す手段であり、人間に備わる根源的な力である。またあらゆる場所の価値はひとつの大きな声ではなく、さまざまな人の声によって物語られることでより豊かになると考えている。
http://bashomono.com/

東京ステイ

東京都、アーツカウンシル東京、NPO法人場所と物語によるアートプロジェクト(2016年7月〜)。
「東京ステイ」の「ステイ」とは、宿泊だけでなく「住むこと」と「旅すること」の間を揺らぎ続ける暮らし方や、立ち止まること・佇むことも含む。さらに2017年からは「共居性(きょうきょせい)」という言葉を手がかりに、自己と他者とが共に居ること・居場所を立ち上げることに向き合っている。
『ピルグリム(巡礼)』は、2017年から本プロジェクトで実験中の都市の歩き方。目的地に向かって合理的に/効率的に/最短距離で歩きがちな東京で、旅人のようにまちと出会い直すこと。そして、まちに対する消費的な態度を避け自ら何かをつくり出す感受性・身体性を取り戻すことを目指している。
http://bashomono.com/tokyo-stay

巡礼から生まれる、「場所」との新しい物語 —石神夏希「東京ステイ」インタビュー〈前篇〉

「東京アートポイント計画」に参加する多くのアートプロジェクトは、いったいどのような問題意識のもと、どんな活動を行ってきたのでしょうか。この「プロジェクトインタビュー」シリーズでは、それぞれの取り組みを率いてきた表現者やNPOへの取材を通して、当事者の思いやこれからのアートプロジェクトのためのヒントに迫ります。

今回取り上げる「東京ステイ」は、劇作家の石神夏希さんを中心としたNPO法人「場所と物語」が2016年から取り組んでいるプロジェクト。何気ない普段のまちの光景に対して、私たちはどのように異なる視点、「物語」を見出しうるのか。そんな問いを掲げたこのプロジェクトでは、現在、「巡礼」を意味する“ピルグリム”と呼ばれる実験を通して、そのアプローチを模索しています。

「場所との関係を、自分なりに紡ぎ直していける物語の力に興味がある」と語る石神さん。形成過程のプロジェクトのなかで、彼女はどんなことを感じ、何を考えてきたのか。伴走者である東京アートポイント計画ディレクター・森司との対話から探ります。

「まちとなり」の感覚を呼び起こす、演劇の力

——「東京ステイ」は、いままさに形成されつつある新しいプロジェクトですが、石神さんは運営団体のNPOの名前でもある「場所と物語」を、以前から肩書きとして使っていたそうですね。このテーマに関心を持ち始めたきっかけからお聞きできますか?

石神:私は現在も「ペピン結構設計」という劇団で活動しているのですが、劇場に限らず、テナントビルの空室や人が住んでいる家など日常生活に近い空間で、その場所から演劇を立ち上げる作品が多かったんです。そのなかで建築や不動産、都市やコミュニティに取り組む方と関わる機会が増えていきました。そのうち集合住宅や複合施設のコンセプトを一緒に考えたり、エリアの活性化プロジェクトに呼んでいただいたりするようになって。「劇作家」という職能がプロジェクトに入ることを、皆さん面白がってくれたんですね。

——演劇的な視点が、まちの現場でも求められるようになったと。

石神:関わりながら段階的に、という感じですね。ただそうして活動範囲が広がったとき、それぞれの業界で自分の職能を説明しようとすると、「劇作・演出・企画・執筆」と肩書がやたら長くなってしまって。でも、自分としては劇場でやってきたのと同じことを、さまざまな現場でやっているだけという感覚でした。その違和感を解消するために考えた言葉が、「場所と物語」だったんです。

ペピン結構設計《パラダイス仏生山 – 仏生山の記憶をたどるまちあるき》 (2016) (写真:菅原康太)

——そもそも、なぜ劇場の外で演劇を?

石神:それまで何もなかった場所で演劇が立ち上がる瞬間を見るのが好きなんです。

——一方、現代の都市にはどんな関心を持っているのでしょう?

石神:2015年にHOME’S総研というシンクタンクから発行された『Sensuous City[官能都市]』というレポートに企画チームの一人として携わりました。ここでの「官能」とは食品の製品開発で行われる「官能試験」といった、人間の五感を意味する言葉です。よくある、都市の「住みよさランキング」みたいなものでは、緑の多さや病院の数などが指標になることが多いですよね。このレポートでは「歩いていて美味しそうな匂いが漂ってきた」とか「活気ある街の喧騒を心地よく感じた」といった、五感を通じた体験から新しい指標をつくり、全国の都市を調査しました。その結果、そうした体験がその街で暮らす幸福度・満足度と相関することがわかったんです。一方で問題なのは、まち以前に人の感受性の方じゃないかとも思ったんです。それが鈍いままなら、まちの官能性を感応できない。

——たしかに場所と人の関係は、記憶や想像力でも変わりますよね。どこかにある、ありふれたショッピングモールが、誰かにとっては「特別な場所」になることもある。

石神:そうした「人となり」ならぬ「まちとなり」のようなもの。「物言いはぶっきらぼうだけど優しい」みたいなことが「人となり」と呼ばれるように、まちにも属性では測れない個性がある。私、昨年まで横浜の鶴見川のそばの、どの駅からもバスに乗らないと行けない場所に住んでいたんです。静かな住宅街と低家賃の古いアパートが混在しているエリアで、夜中におじさんが道端に座り込んでお酒を飲んでいたり、土手にブルーシートが被せてあって警察がウロウロしていたり……ちょっと寂しい場所だったんですが、当時の自分はそのザラザラした感じに安心したんです。「快適」「心地よい」とは異なる場所への感覚を呼び覚ますことも、演劇やアートが持っている力だと思います。

「ステイ」とは何か?

——その石神さんも参加して、2016年度に始まったのが「東京ステイ」です。このプロジェクトはどのようなかたちで動き出したのですか?

石神:最初は、東京のステイ体験を考えることから始まったんです。いまの東京の宿泊体験は豊かと言えるのかと。「東京R不動産」の馬場正尊さんや「ロフトワーク」の林千晶さんなど、領域横断的に建築やまちづくりに関わる方々が集まり、私は演劇というフィールドから参加しました。ただ、活動開始から約一年が経つなかで自分たちの活動に対するイメージは大きく変わってきています。

:当初は、本当に「ホテルをつくろう」という話も出ていたんですよね。皆さん、事業のプロばかりだから、新しい宿泊のアイデアはすぐ出るし、実際つくれると。しかし、そこにはアートポイント的なアートプロジェクトのイメージとの乖離があったんです。そこで、事業を引っ張ってくれるピースとして呼ばれたのが石神さんだった。

——なぜ石神さんを?

:命をかけて遠回りする人がほしかったから。一足飛びに結論に行けるのなら、それはビジネスの答えになってしまう。でも、アートポイントでやりたいのは、よくわからない新しいもの、もっと微細なアートなんです。いわば、さっき石神さんが話した鶴見のザラザラした風景への感覚。勉強や訓練では得られない、そういうセンサーやこだわりを地で持っている人がほしかった。じつは、僕は以前、茨城県の取手アートプロジェクトでの「あしたの郊外」というプロジェクトの公募で、石神さんのプレゼンを聞いているんですよ。

石神:あ!(笑) 郊外の空き家や団地についてのアイデアを募集する公募で、ペピン結構設計として応募したんです。鉄道によって生まれた「都市と郊外」という関係性を解体するために、取手と徳島に同じ名前の村をつくって、住民同士が黒潮に乗って船で交流するというアイデアでした。2014年ですね。

:「素っ頓狂なことを言う人がいるな」と思って、ヘンテコなことをしている人たちという認識はあったんです(笑)。文化事業は普通、エッジが立っていないといけないんだけど、東京ステイはより崩れていくべきだと思った。その部分を期待しました。

石神:プロジェクト開始後、一年目はとても苦しかったですね。そもそもアートとは何か、アートプロジェクトをするとはどういうことか、メンバー間で言葉が噛み合わなかった。一方、アートポイントのプログラムオフィサーや森さんからは、「すぐに答えを出してはいけない」というプレッシャーも感じていました。

:それが、アートポイント事業のユニークさだと思うんです。すごく高度で複雑なことでも、納品時には綺麗に整理されるのがビジネスのプロトコル。だけどアートポイントでは、すでにあるオペレーション・システム(OS)の上に合理的に乗るアプリケーションではなく、「東京ステイ」というOS自体をつくりましょうと問いかけていて。

——ビジネスのコードから逸脱することが大切だと。

石神:そんなやりとりを続けるなかで、だんだんプロジェクトのかたちが変わっていきました。たとえば、「ステイ」は「泊まる」ことだけではないよねと。じゃあ「佇む」なのか、「滞在する」なのか……。私たちがいま考えているのは、これは居場所に関わるプロジェクトではないかということです。居場所は、「私がここにいていい」と感じられる場所。それを、いろんな他者と立ち上げること。私たちは中国語の「共居性(きょうきょせい)」という言葉を使っていますが、「東京ステイ」はそうしたことに関わるプロジェクトだと思っています。

「東京ステイ」のウェブサイト。プロジェクトを通して得た視点や言葉が綴られている。

「なんか違うね」が揃っていった

——その変化の過程で、2017年3月に行われた最初のイベントが、大森・平和島エリアを舞台にした「東京の物語にチェックインする」です。これは、参加者がQRコードの載ったカードと鍵を受け取り、まちを自由に歩きながら特定の場所でコードを読む。すると、風景に目を向けさせる質問やエピソードが現れ、それらを通して場所と向き合うものでした。

石神:このころ、メンバーでよくフィールドワークをしていたんですが、ようやく少し共通言語が生まれつつある時期だったんです。私たちがしているのは、目的地に向かって歩くのではなく、ゴールなく歩き続ける「ピルグリム」(巡礼)のようなものではないかと。その私たちの実験を、参加者と一緒にしてみたかった。そこで選んだのが、以前もフィールドワークで訪れていた大森・平和島エリアだったんです。

東京ステイ「東京の物語にチェックインする」(2017年3月11日開催)より。第一部ではQRコードガイドブックを片手に思いおもいのルートで散策した。

——なぜこのエリアにしたのですか?

石神:大森・平和島は、観光で訪れて滞在する場所というイメージを持っている人は多くないエリアだと思います。でも海外の友人から頼まれて宿を探しているとき、平和島に24時間営業の温泉があって、外国人観光客が仮眠をとる休憩所として人気だと知ったんです。ちょうど、海外からの観光客数は延びているのに、宿泊数が増えていないとニュースで報じられた頃で、大田区は特区民泊に取り組んでいました。しかも調べてみると、大森・平和島はその歴史も含めて面白い場所だったんです。たとえば、大森エリアは海苔の漁場を埋め立ててできていたり、大田市場に隣接する野鳥公園は自然と生まれた野鳥の生態系を守るためにできていたり。また平和島競艇場も、第二次世界大戦中には捕虜収容所があった場所で、それが「平和島」という名前の由来になっています。そうした歴史のレイヤーが面白かったことが、まずありましたね。

:一方、メンバーの間でズレがあったんです。プロジェクトが行き詰まっていた。でも、場所と物語だから、とにかくどこかに出かけてみてくれと。フィールドワークはそのくらいの動機で始まったのですが、そうして議論が身体化するなかで、「実際に歩くとなんか違うよね」という感覚がメンバーから出てきたんです。変な言い方ですが、ズレとズレをアジャスト(調整)していった。

石神:うんうん、そうだった。

:「なんか違うね」が揃っていき、ズレを共有できるようになった。 なかでも一番大きなズレが平和島だったと僕は受け取りました。

東京ステイ「東京の物語にチェックインする」(2017年3月11日開催)より。第二部のトークセッション&ワークショップの様子。

——そのズレの共有の経験とは、具体的には?

石神:一度、みんなで高円寺を歩いたんです。メンバーはビジネスであれ出来事であれ都市で何かを生み出していくスペシャリストたちだから、まちの文脈や、何があれば人が喜ぶか、パッと掴む力が身についているんです。ただ、そうやって素早く答えを出した瞬間、モヤモヤしたものがスキップされてしまう危機感があって。「いまの文化や経済の流れはこうだ」と語った途端、「なぜこのおじさんは路上に座っているの?」とか、「なぜこんな不思議な店があるの?」とか、そうした疑問を彼ら本人に聞く必要がなくなっちゃう。モヤモヤに向き合わなくなってしまう。

——さっきの表現だと、ピルグリムではなくゴールを目指すものになっていた?

石神:そうですね。最初からゴールを目指すのではなく事後的ではありましたが、チームとして議論をすると、「こっちの方が気持ちいいし、共感してもらえるよね」という出口に向かって編集されていく力が強かった。

:雑誌ならそれですぐつくれると思うんです。「いまのトレンドはこれ」と。ただそこにはノイズがなかった。そのノイズのなさは、僕には問いのなさに思えたんです。

石神:そのなかで平和島には、これはメンバーの中にはひょっとして「来たくない」と言う人もいるかもしないという感覚があって。それが良かったんだと思います。

:実際、イベント当日の最後のメンバーの振り返りトークは、前提が共有されていないことがわかってしまうような話をしていたんです。そのズレは面白かったですね。

石神:大森・平和島で集まってみて、ズレがあることをハッキリみんなで確認することができたと思います。違和感を共有できた。その意味で、大森・平和島の経験はすごく有意義でした。

〈後篇〉「生きる力としての物語の力。わたしたちはどう取り戻すのか。 —石神夏希「東京ステイ」インタビュー」へ続く。

Profile

石神夏希(いしがみ・なつき)

劇作家/ペピン結構設計/NPO場所と物語 理事長/The CAVE 取締役
高校卒業と同時に劇団・ペピン結構設計を結成。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。近年は横浜を拠点に国内外に滞在し、都市やコミュニティを素材にサイトスペシフィックな演劇やアートプロジェクトを手がける。またNPO場所と物語 理事長、遊休不動産を活用したクリエイティブ拠点「The CAVE」の立ち上げおよびプログラムディレクション、住宅・都市系シンクタンクでの研究執筆、株式会社ロフトワークへの参加など、さまざまな領域を行き来して劇作家として活動している。
主な作品に『花嫁』(横浜・黄金町、2013年)、『Fantastic Arcade Project』(北九州、2013~2015年)、『パラダイス仏生山』(高松、2014~2016年)、『ギブ・ミー・チョコレート!』(横浜・本牧、メルボルン、マニラ、2015~2017年)、『青に会う 2017.10-11』(舞鶴、2017年)、共著に『Sensuous City―官能都市』(Home’s総研、2015年)など。
http://pepin.jp/

NPO法人場所と物語

2016年6月設立。不動産、建築、アート、デザイン、メディア、まちづくりなど領域横断的に活動するメンバーで構成される。「物語」という手段を通じて「場所」に潜在する価値や個性を発見し、表現し、発信することを目指している。
「物語」は人が世界と関係性を結び、今ここで生きる意義を見出す手段であり、人間に備わる根源的な力である。またあらゆる場所の価値はひとつの大きな声ではなく、さまざまな人の声によって物語られることでより豊かになると考えている。
http://bashomono.com/

東京ステイ

東京都、アーツカウンシル東京、NPO法人場所と物語によるアートプロジェクト(2016年7月〜)。
「東京ステイ」の「ステイ」とは、宿泊だけでなく「住むこと」と「旅すること」の間を揺らぎ続ける暮らし方や、立ち止まること・佇むことも含む。さらに2017年からは「共居性(きょうきょせい)」という言葉を手がかりに、自己と他者とが共に居ること・居場所を立ち上げることに向き合っている。
『ピルグリム(巡礼)』は、2017年から本プロジェクトで実験中の都市の歩き方。目的地に向かって合理的に/効率的に/最短距離で歩きがちな東京で、旅人のようにまちと出会い直すこと。そして、まちに対する消費的な態度を避け自ら何かをつくり出す感受性・身体性を取り戻すことを目指している。
http://bashomono.com/tokyo-stay

問いを通じて見えない状況を可視化する。これからのアートNPOとして ―インビジブル林曉甫・菊池宏子「リライトプロジェクト」インタビュー〈後篇〉

「東京アートポイント計画」に参加する多くのアートプロジェクトは、いったいどのような問題意識のもと、どんな活動を行ってきたのでしょうか。この「プロジェクトインタビュー」シリーズでは、それぞれの取り組みを率いてきた表現者やNPOへの取材を通して、当事者の思いやこれからのアートプロジェクトのためのヒントに迫ります。

第2回で取り上げるのは、2015年にスタートした「リライトプロジェクト」です。東日本大震災を機に消灯された宮島達男さんのパブリックアート《Counter Void》を毎年3日間限定で再点灯する「Relight Days」と、アート的アプローチを生かした行動によって自らの生活や社会を変える「社会彫刻家」の育成を行う「Relight Committee」。この二つを軸としたプロジェクトでは、震災後の社会でアートが果たしうる「装置」としての可能性に焦点が当てられてきました。

一方、プロジェクトと並行して設立されたNPO法人インビジブルでは、地域再生から教育まで、多様な現場でアートを取り入れた実践を展開しています。「大きな時代の流れの中に、小さな支流を作る」かのような彼らの活動、そして、より社会に接続していくこれからのアートの“使い方”とは? インビジブルの林曉甫さんと菊池宏子さん、東京アートポイント計画ディレクターの森司に語ってもらいました。

〈前篇〉「逆境から生まれたプロジェクト、考える装置としてのアート ―インビジブル林曉甫・菊池宏子「リライトプロジェクト」インタビュー」

(取材・執筆:杉原環樹)

社会を生きる人たちによるアクション

——Relight Committeeの具体的な内容は、大きく二つの要素から成っています。ひとつは、さまざまな分野で活動する社会彫刻家を招いてのトーク&ディスカッション。そしてもうひとつが、参加者がそれぞれの問題意識から主体となって、まちなかなどで具体的なアクションを起こす実践プログラムです。

菊池:活動しながら思うのは、意外とアート業界以外のボイスのことをまったく知らない人の方が、この概念を自分なりに理解してくれる。たとえば、以前、ワークショップで社会彫刻の考え方と育児をテーマにした時、お母さんたちにとても伝わったんです。

:その人たちには、目の前に具体的な社会がありますからね。

菊池:本当にそうなんですよ。自分が生きている社会があるから。具体的に変えたいことがあるんですよね。

Relight Committee受講生一人ひとりが「社会彫刻家」像を問いながら活動している。(撮影:丸尾隆一)

——参加者のアクションには、どんなものがあるのでしょうか?

菊池:たとえば、 2016年に参加してくれた江口恭代さんは、《Counter Void》の前で震災と関係する「花は咲く」という歌を歌ってまちなかを歩くアクションをしました(>「心の声 祈り ここから新たに」)。彼女は、東京で会社員として暮らす被災地出身者として、自分と震災の距離感をうまく消化できず、軋みを感じていた。でも、もともと好きな声楽を生かしたアクションをすることで、震災に対して当事者の意識を持つことができたんです。また山田悠さんは、《Counter Void》からタクシーに乗って決まったルートを回りながら、「ここに作品があったのを覚えていますか?」など、運転手との会話を記録するアクションを行いました(>「Passengers」)。彼女はアーティストなのですが、自分自身を媒体にするのは新しい挑戦でしたね。

Relight Committee メンバー・江口さんによる、社会彫刻家としてのアクションは、3月11日にで震災と関係する「花は咲く」という歌を歌ってまちなかを歩くこと。

——それぞれ、その人らしい挑戦的な行動を起こすが大事だと。

菊池:とはいえ、動機は必ずしも前向きなものとは限らないんです。たとえば関恵理子さんは、生きることが面倒くさいという思いを持っていた。その隠すべきだと思っていた気持ちを表に出そうと、最初に声明文を書いたうえで、「生きるってめんどくさい」という日記を365日書き続けています(「生きるってめんどくさい」)。

——声明文があることによって、日記を書くという行為に特別な意味が出てくる。アート的な仕掛けですが、こうした枠組みは菊池さんたちが提案するんですか?

菊池:参加者に自分のことを考えてもらうため、彼らが普段は触れないアートの蓄積を見せることはしていますね。たとえば関さんの場合、ステートメントに基づいて、一見無駄とも思える行動をし続けている海外アーティストの活動を見せました。そうした実例に触れることで、これもアートになり得るんだ、自分ならこうしたい、と考えることができる。まねをせず、影響の根源を広げることを意識しています。

——私も一度、Relight Committeeの現場を見学させていただきましたが、菊池さんたちが「なぜそのアクションなの?」と、何度も問いかけていたのが印象的でした。

菊池:この場所では、いかに真剣に自分と向き合い、かつ、自分にしかできないアクションを作り上げるかを求めていると思います。なので、アクションづくりのプロセスに比重を起きつつも、参加者全員がアクションをすることができたわけではないんですね。視点をなかなか深めることができなかった人には、アクションではなく、できないこと自体を記事にしてもらいました。

:参加者の職業や経歴は様々ですが、一人ひとりが妥協しないでやりぬく強度を保ちたいんです。Relight Committeeはあくまでも、自分で動かないと何にも得られない場ですね。

学び方は人それぞれ。あくまで主体的な姿勢を重視している。(撮影:丸尾隆一)

——必ず技術を習得できる、学びの「サービス」ではないということですね。

:普段は作り手ではない人が、他人の作った作品ではなく、アートそのものの働きを日常のなかで感じることができる。実社会とは異なるもう一人の自分を、社会彫刻家として演じることができるわけですよね。服によって人が変わるように、息苦しい閉塞感のなかで自分をズラすことができるのは、新しいアートの位置付けとして可能性がある。こうしたNPOが誕生したこと自体が、このプロジェクトの一番の成果ですね。

問いを通じて見えない状況を可視化する

——リライトプロジェクトは2018年春にひとつの区切りを迎えますが、一方、インビジブルはNPOとして、その活動を広げていますね。たとえば「文化起業家」は、事業によって新しい価値を創出するとともに、新たな文化を生み出する起業家を紹介するトークセッションシリーズです。

:僕たちは、見えないことを可視化し、異なるあり方を提示するのがアートの価値だと思っていて。文化起業家でも、事業を通じて新しい文化を作ろうとしている起業家をお呼びして、どんな状況を作り出したいと考えているのか、月に一回、お話を伺っています。また最近始まった「問ひ屋プロジェクト」は、群馬県高崎市にある高崎問屋街を舞台にしたアートプロジェクトです。「問ひ屋」は「問屋」のかつての呼び名ですが、そこでは多様な人々が問いを投げかけ合いながら商売をしていた。そんな歴史を参照しつつ、問屋街の未来を考えるうえでアートがどんな触媒になり得るのかを提案し、様々なプログラムを実施しています。

創業支援施設で展開しているトークシリーズ「文化起業家」。インビジブルが企画・コーディネートを担当。(写真提供:NPO法人インビジブル)

——そうしたプロジェクトは、どのようにして始まるのですか?

:高崎の場合は、問屋街の経営者の一人が声をかけてくれました。また福島でも、以前から多くの小学校が集まるイベントのアドバイザーを宏子さんが担当した経緯から、今後開校される小学校のアクションプランを考える実行委員会に宏子さんが参加し、震災後の教育を考える仕事もさせていただいています。活動の軸にしているのは、アートを見せるというより、アートを通じて状況を可視化し、その先に伸びる視座を見せたいという点です。

菊池:一見バラバラに見えるけれど、私たちの中では、与えられた環境で何ができるかという点が重要なんです。その「何」が重要で、コンテクストは問わない。アートがどこかの社会の縮図の中に介入したとき、いかに力を発揮できるのか。そうしたプロジェクトが多いですね。言い換えると、余計なお世話が多い(笑)。真っ向から注文に応えるのではなく、ギリギリのところで「こういうこともできますよ?」と、より深い問いを投げかける。効率の悪さもあるけれど、そこに存在意義があると思っています。

群馬県高崎市にある日本で最初の卸商業団地「高崎問屋街」の50周年記念事業としてスタートしたアートプロジェクト「問ひ屋プロジェクト」。2017年からインビジブルが企画・運営・コーディネートを担当。(写真提供:NPO法人インビジブル)

——あらためて、逆境の中で誕生したNPOから、こうした多様な実践が生まれたのはとても面白いですね。

:さきほど、宮島さんと光の蘇生を始めたとき、予想もできない方向に進むようなチームが作りたかったと言いましたが、その発酵の時間がないと、日本にはこの先がないという思いがあったんです。いまあらゆる時計が早回しされる中で、悠長な時間の使い方はなかなかできなくなっている。でも、それはとても危険なことだと思うんです。

:リライトプロジェクトは終わりますが、これからはRelight Committeeで育んできたことに一層、力を入れたいと思っていて。というのも、合理化が進む中でも、こうした一見無駄は多いけれど、ともに学べる場と人を作っていく活動が、一番レバレッジが効くと思うんですよね。だから今後のRelight Committeeでは、年度ごとの卒業という仕組みも無くそうと考えているんです。スポーツジムじゃないけれど、日々の生活の中でふとストレッチをしに来る人もいれば、がっつり身体を作りに来る人もいる。そんなコミュニティを作りたい。それこそ、森さんの言うような大きな川の流れに個人では抗えないけど、その中にせっせと小さな支流を作っていく。そういうことをしていけたらいいなと思っています。

菊池:一方で私たちの仕事は、いつなくなってもおかしくなくて。ものすごく利益を生むわけではないし、見方によっては自分たちの理想の押し付けにも見えてしまう。だからこそ柔軟に、信じたことをまっすぐやり続けないといけないなと思いますね。

:今後人が減る社会では、昔の作り方でいいという発想も生まれてくる。我々はもう一度、時間を取り戻す可能性もあると思うんです。そこで大事なのは、小さな規模で発酵させるような、手間暇をかけたやり方。だからインビジブルの仕事には、僕はとても広がりがあると感じるんです。

菊池:自分たちの活動は、マラソンみたいだと思います。教育や学びは、絶対的にすぐ成果が現れないものだから、いかに長くやり続けるかが問われている。その人が学んだことを納得して形にするのは、10年後かもしれないし、生涯かかるかもしれない。でも、もしかしたら、「社会彫刻家」という言葉が当たり前のように使われる時代が来るかもしれないんですよね。その未来の姿を思い描きながら、これからも目の前のことに取り組んでいきたいですね。

(撮影:高岡弘)

Profile

林曉甫(はやし・あきお)

NPO法人インビジブル 理事長/マネージング・ディレクター
1984年東京生まれ。立命館アジア太平洋大学アジア太平洋マネジメント学部卒業。卒業後、NPO法人BEPPU PROJECTに勤務し公共空間や商業施設などでアートプロジェクトの企画運営を担当。文化芸術を起点にした地域活性化や観光振興に携わる。2015年7月にアーティストの菊池宏子と共にNPO法人インビジブルを設立。International Exchange Placement Programme(ロンドン/2009 )、別府現代芸術フェスティバル2012「混浴温泉世界」事務局長(別府/2012)、鳥取藝住祭総合ディレクター(鳥取/2014,2015)六本木アートナイトプログラムディレクター(東京/2014~2016)、 Salzburg Global Forum for Young Cultural Innovators(ザルツブルク/2015)、女子美術大学非常勤講師(東京/2017)

菊池宏子(きくち・ひろこ)

NPO法人インビジブル クリエイティブ・ディレクター/アーティスト
東京生まれ。ボストン大学芸術学部彫刻科卒、米国タフツ大学大学院博士前期課程修了。米国在住20年を経て、2011年、東日本大震災を機に東京に戻り現在に至る。在学中よりフルクサスやハプニングなどの前衛芸術・パフォーマンスアート、社会彫刻的観念、またアートとフェミニズム、多文化共生マイノリティアートとアクティビズムなど、アートの社会における役割やアートと日常・社会との関係について研究・実践を続けている。MITリストビジュアルアーツセンター、ボストン美術館、あいちトリエンナーレ2013、森美術館など含む、美術館・文化施設、まちづくりNPO、アートプロジェクトにて、エデュケーション活動、ワークショップ開発・リーダーシップ/ボランティア育成など含むコミュニティ・エンゲージメント戦略・開発に従事。また、アート・文化の役割・機能を生かした地域再生事業、ソーシャリーエンゲージドアートに多岐にわたり多数携さわってきている。その他武蔵野美術大学、立教大学兼任講師、一般財団法人World In Asia理事なども務めている。

NPO法人インビジブル

アートを軸にした「クリエイティブプレイス(Creative Place)」を標榜するNPO法人。「invisible to visible(見えないものを可視化する)」をコンセプトに、アート、文化、クリエイティブの力を用いて、地域再生、都市開発、教育などさまざま領域におけるプロジェクトの企画運営や、アーティストの活動支援、アートプロジェクトの支援や運営人材の育成、それに伴うプロトタイプの研究に取り組んでいる。
http://invisible.tokyo/

リライトプロジェクト

六本木けやき坂のパブリックアート『Counter Void(カウンター・ヴォイド)』を再点灯させると同時に、未来の生き方や人間のあり方を考えるプラットフォーム形成を目指すプロジェクト。東日本大震災をきっかけに、作者であるアーティスト・宮島達男の手によって消灯されたこの作品を、3.11の記憶をとどめ、社会に問いかけ続けるための装置と位置づけ、様々なプログラムを展開します。
http://relight-project.org/
*東京アートポイント計画事業として2015年度から実施

逆境から生まれたプロジェクト、考える装置としてのアート ―インビジブル林曉甫・菊池宏子「リライトプロジェクト」インタビュー〈前篇〉

「東京アートポイント計画」に参加する多くのアートプロジェクトは、いったいどのような問題意識のもと、どんな活動を行ってきたのでしょうか。この「プロジェクトインタビュー」シリーズでは、それぞれの取り組みを率いてきた表現者やNPOへの取材を通して、当事者の思いやこれからのアートプロジェクトのためのヒントに迫ります。

第2回で取り上げるのは、2015年にスタートした「リライトプロジェクト」です。東日本大震災を機に消灯された宮島達男さんのパブリックアート《Counter Void》を毎年3日間限定で再点灯する「Relight Days」と、アート的アプローチを生かした行動によって自らの生活や社会を変える「社会彫刻家」の育成を行う「Relight Committee」。この二つを軸としたプロジェクトでは、震災後の社会でアートが果たしうる「装置」としての可能性に焦点が当てられてきました。

一方、プロジェクトと並行して設立されたNPO法人インビジブルでは、地域再生から教育まで、多様な現場でアートを取り入れた実践を展開しています。「大きな時代の流れの中に、小さな支流を作る」かのような彼らの活動、そして、より社会に接続していくこれからのアートの“使い方”とは? インビジブルの林曉甫さんと菊池宏子さん、東京アートポイント計画ディレクターの森司に語ってもらいました。

パブリックアート《Counter Void》を毎年3月11日~13日の3日間限定で再点灯する「Relight Days」。リライトプロジェクトでは、東日本大震災以降消灯していた作品の再点灯を実現した。(撮影:丸尾隆一)

逆境から生まれたアートプロジェクト

——リライトプロジェクトは、2013年より始まった、六本木ヒルズにある宮島達男さんのパブリックアート《Counter Void》の再点灯を考察する「光の蘇生」プロジェクトを土台としているそうですね。まずは光の蘇生の経緯について聞かせてください。

:きっかけは、宮島さんとの何気ない会話の中で、彼が《Counter Void》の電気を消していると知ったことでした。当時僕は、美術家の川俣正さんと行っていた「川俣正・インプログレス―隅田川からの眺め」(2010〜2013年)の終了もあり、次に東京で世界的なプロジェクトを協働できるアーティストを探していたんです。そこで宮島さんに会いに行くと、彼が震災から2日後の2011年3月13日、計画停電に先立って、自主的に作品を消灯する決定をしていたと知って。再点灯の議論自体をプロジェクトにしようと考えたんです。

——そこで、多分野のゲストを招いた勉強会を中心とする、光の蘇生の活動が始まったわけですね。当初、林さんはその事務局のスタッフとして、菊池さんは勉強会のゲストとして参加しています。

:林くんは彼の前職のBEPPU PROJECTでの実力を知っていたし、震災を機にアメリカから帰国した菊池さんは、あいちトリエンナーレでの評判を聞いて、良い人がいるなと思っていました。光の蘇生では、そんな豪華メンバーでチームビルディングすることで、予測できない動きが生まれる生態系を作りたかったんですね。その一方、光の蘇生はまだ20世紀的な価値観で進んでいたプロジェクトでした。というのも、ここで議論していたのは、要は「作品の再生(※)」ですから。物理的な作品を中心にした、従来の芸術観の延長にあるプロジェクトだったんです。しかし途中で、作品の所有者からの要請などもあり、完全な再生が難しくなってしまった。そして、この逆境への応答の中から、インビジブルがプロジェクトを現在のかたちに更新していったんです。

※編注:当時「光の蘇生」では経年劣化した《Counter Void》を修繕し、作品として完璧に再生した上で、再び点灯させることを目指していた。

リライトプロジェクトの前身となった「Tokyo Art Research Lab プロジェクト構想プログラム―「光の蘇生」プロジェクトを構想する」。様々なゲストを招いて作品の再生を考える勉強を開催していた。(2013年11月26日)

:光の蘇生では、作品の修繕資金を集めるファンディングの仕組みなどを作っていたのですが、他方で、ただ作品を綺麗にして再点灯を実現しても、その社会的な位置付けが変わらなければいけません。そこで、宏子さんを招き、コミュニティ開発の領域にもプロジェクトを展開していくことを考えました。しかし、プロジェクトが本格稼働する直前、作品の蛍光灯を全てLEDに入れ変えて再生することは難しいという話になり、一転してプロジェクトをゼロベースで考えなおさなくてはいけなくなりました。ここでプロジェクトを離れることもできたけど、宮島さんは僕が最初に仕事をしたアーティストですし、六本木の喧騒の中に「生と死」をテーマとする《Counter Void》があることは意味があるのでやりたかった。それで、宏子さんとインビジブルを設立することにして、森さんに「この企画を引き取りたい」と提案したんです。

菊池:こうした状況は、コミュニティ開発の世界ではよくあることなんですよ。地権者や所有者の事情で紆余曲折するというのは。でも、そこに対していかに柔軟に、クリエイティブな発想を埋め込んでいくのかが、プロセスの重要な部分になるんです。

別府現代芸術フェスティバル2012「混浴温泉世界」事務局長(2012年)や、鳥取藝住祭総合ディレクター(2014,2015)を務めてきた林さん。2015年、リライトプロジェクトをきっかけに、菊池さんと共にNPO法人インビジブルを設立した。

——毎年3日間だけ再点灯するRelight Daysの発想は、そこで生まれたのですか?

:そうですね。どうしたら状況を裏返せるかを考えたとき、3月11日から作品の電気が消された3月13日までの3日間をシンボルに使えないかと。伝統的にも、灯籠流しやお盆のような、失った人へと哀悼を捧げる年中行事がありますよね。作品すべてを再生できなくても、その三日間の再点灯によって失われたものを見せたいと考えたんです。

:宮島さんが一番こだわっていたのは、点ける理由なんです。でも、作品再生ができなくなったとき、ある意味で点ける理由ができたんですね。その理由を正当化してくれたのがインビジブル。ロジカルに考えると「点けられないなら諦めよう」か、正面突破で抗議をしにいくのが普通でしょう。でも、彼らが提案したのは「三日間だけ点けるのはどうですか?」ということ。これは宮島さんと僕にとっては、すごくシャープな回答だった。このとき、我々が光の蘇生でやってきたことは、リライトプロジェクトとしてインビジブルへと移行されたんです。

2016年3月11日、5年ぶりの再点灯直前の様子。「Relight Days 2016」点灯式にて、作者の宮島達男さんが想いを語った。(撮影:丸尾隆一)
《Counter Void》点灯中は様々な人が足を止めていく。(撮影:丸尾隆一)

考える装置としてのアート

——菊池さんは最初ゲストとして参加した中で、なぜ、このプロジェクトにここまで深く関わろうと思ったのでしょうか?

菊池:タイミングというのは、率直な答えとしてあって。ゲストで関わり、結果NPO法人まで立ち上げるのは、自分の意思以外の部分に促された不思議な感覚もあります。そもそも、今日は整理をして話していますが、当時は考える要素も多く、わからないことや戸惑いもあったんです。でも、森さんのアート作品を装置としてプロジェクト化したいという気持ちは、私がアメリカでやってきたこととも重なっていました。特別な存在としてのアーティストが作る、自我を表現する作品という以外にも、アートには社会的な装置や触媒としての機能がある。どうアートを生かしていくかという意識の重なりがあったから、やりたいと思いました。あと、宮島さんを含めて、こういう人たちと仕事をしてみたいという思いも大きかったですね。

:スティーブ・ジョブズの「コネクティング・ザ・ドッツ(点と点を結ぶ)」という言葉があるけど、うまい表現だなと。振り返ると整理されちゃうけど、当時は1日1日なんとか前に進んでいるような状態だった。もともとこのプロジェクトの名前を「Relight Project」にするか「Rewrite Project」にするかを考えていたことを思い出し、先日も宏子さんと「『Relight』という表記にしているけど、実際は書き換えるという意味の『Rewrite』の方だね」と笑って話していたんです。このプロジェクトは直線的ではなくて、状況に応じて変化しながら進んできたんですよね。

:計画的ではなく、現在進行形。チームができるまでには多くの時間を過ごしたけど、そこに良いプロセスがたくさんあったんです。現在のかたちは、当初は誰も想定していなかった。宮島さんはよくこの結果を引き取ってくれたなと思います。

アーティストとして活動する傍ら、コミュニティ開発やエデュケーション事業にも関わってきた菊池さん。米国在住20年を経て、2011年、東日本大震災を機に帰国した。

——装置や触媒としてのアートというお話がありましたが、リライトプロジェクトがアートプロジェクトとして異質なのは、いわゆるアーティストを中心とした作品制作が行われていない点ですね。

:Relight Daysにしても、作品を3日間点灯するだけで、アーティストに新しい作品制作を依頼するわけではないですからね。でも、僕らが問おうとしていたのは、この社会の中で、我々はいかにアートを必要とするのか、ということ。たとえばこのプロジェクトでは、六本木にある港区立笄(こうがい)小学校図工科の江原貴美子先生とその生徒と、ワークショップをしたり《Counter Void》の現場に足を運んだり、様々な形で関わりをもったのですが、結果として彼らは再点灯を自分事として考えてくれるようになった。宮島さんの本来の意図を引き継ぎつつも、それを自分の言葉で紡げる人が生まれたことは、意味があることだと思います。

菊池:一方、Relight Daysが年に3日間のシンボルだとすれば、その土台としてある365日間で、点灯の意味や、震災後の社会とアートを考える場として始めたのが、市民大学のRelight Committeeです。この二つがないと、リライトプロジェクトは成り立たないんですね。作品は、物理的にはすぐ点けられる。でも、なぜわざわざ点けるのか。その社会的な意味とは何か。それを作品の作者や所有者ではなく、本来作品を鑑賞する側が議論するところにこのプロジェクトの本質があります。わかりにくい部分もありますが、やりがいでもあるんです。

「社会彫刻家」の輩出を目指す「Relight Committee」。2016年より市民大学形式でスタート。(撮影:丸尾隆一)

社会彫刻家を育てる学びの場

——Relight Committeeがミッションとして掲げているのが、社会彫刻家と呼ばれる存在の育成や輩出です。「社会彫刻」は、もともとドイツ人アーティストのヨーゼフ・ボイスが提唱した概念ですが、このプロジェクトではそれを現代的に捉え、社会彫刻家を「アートが持つ創造性や想像力を用いて、自らの生活や仕事に新たな価値をつくり続け、行動する人」と定義していますね。なぜこの言葉を使うことになったのですか?

菊池:そこにはプロジェクト1年目の、私の認識不足によるつまずきがあったんです。そもそも初年度のコミッティは、「アートと社会について従来の定義や枠組みを超えた対話を重ね、具体的な行動につなげる人を育てる学びの場」という目的を持って立ち上げました。初めての再点灯とそこに向けたプログラムづくりなど、彼らの時間や労働の多くがそこに注がれてしまい、実践からの学びはあるものの、根本のアートや社会の関係などの学びの部分が抜け落ちてしまったというか。いろんな意味での認識の違いやズレから、人が離れることなども起きてしまって。

そこで、どうしても必要な学びの要素を取り入れ、本当に何かを変えたいという思いのある人を育てたいなと。アートファンの育成でも、造形やコンセプトの美しさの学びでもなく、「アートが装置である」という認識を育てるうえでは、歴史上、やはり社会彫刻の考え方に戻らないといけない。そうしないと、いつまでも宮島さんの作品をどうするかという話にしかならないという危機感があったんです。

:Relight Daysが当初の再生計画の延長上のプログラムだとしたら、Relight Committeeはそこにあるアートをいかに使うかを考えるプログラム。つまり、アートに対するタッチの仕方が違うんですね。ただ、いま菊池さんが話したことは、NPO側の思惑だから、じつは僕も初めて聞いたんです。思いつきじゃないから、我々も引き取ることができたんだなと。

Relight Committee活動日の様子。様々な職業、年齢、背景を持つ人々が議論し、思考する学びの場。(撮影:丸尾隆一)

:社会彫刻は重要な概念なので、使うことには戸惑いもありました。もちろん僕たちもボイスの考え方をつねに振り返っていますが、重要なのは、僕たちが生きている社会はいまこの社会だということ。だから、「ボイスが何をしたか」を学ぶのではなく、ボイスの考えを引き継ぎつつ、現代を生きる僕ら一人ひとりが「社会をいかに彫刻し生きていくか」を考えたい。概念を知るだけでなく、それを踏まえて実装する人を増やしていきたいんです。

:その意味では、インビジブルは「アートNPO」と呼べる組織になりましたね。アーティストの活動を支えるNPOは山ほどあるけど、インビジブルはひとつの思考体として、NPOそのものからメッセージを発信できる。物言えるNPOになったと。この考え方は、宮島さんのキーワードである「Art in You」(アートはそれを受け取るあなたの中にある)にもつながるものです。

菊池:ただ、日本の美術大学では、意外と社会彫刻についてあまり教えられないんですよね。それは私が通っていたアメリカの美大では、ありえないことだったので。すべての学生が、アートの概念、表現方法のひとつに「行動」があると教えられる。でも、社会彫刻家という考え方が日本でも本当に必要だと納得するために、一年目のつまずきは重要なプロセスでしたね。

現在のRelight Committeeプログラムは、レクチャー+実験+議論を組み合わせて構成している。(撮影:丸尾隆一)

〈後篇〉「問いを通じて見えない状況を可視化する。これからのアートNPOとして ―インビジブル林曉甫・菊池宏子「リライトプロジェクト」インタビュー」

Profile

林曉甫(はやし・あきお)

NPO法人インビジブル 理事長/マネージング・ディレクター
1984年東京生まれ。立命館アジア太平洋大学アジア太平洋マネジメント学部卒業。卒業後、NPO法人BEPPU PROJECTに勤務し公共空間や商業施設などでアートプロジェクトの企画運営を担当。文化芸術を起点にした地域活性化や観光振興に携わる。2015年7月にアーティストの菊池宏子と共にNPO法人インビジブルを設立。International Exchange Placement Programme(ロンドン/2009 )、別府現代芸術フェスティバル2012「混浴温泉世界」事務局長(別府/2012)、鳥取藝住祭総合ディレクター(鳥取/2014,2015)六本木アートナイトプログラムディレクター(東京/2014~2016)、 Salzburg Global Forum for Young Cultural Innovators(ザルツブルク/2015)、女子美術大学非常勤講師(東京/2017)

菊池宏子(きくち・ひろこ)

NPO法人インビジブル クリエイティブ・ディレクター/アーティスト
東京生まれ。ボストン大学芸術学部彫刻科卒、米国タフツ大学大学院博士前期課程修了。米国在住20年を経て、2011年、東日本大震災を機に東京に戻り現在に至る。在学中よりフルクサスやハプニングなどの前衛芸術・パフォーマンスアート、社会彫刻的観念、またアートとフェミニズム、多文化共生マイノリティアートとアクティビズムなど、アートの社会における役割やアートと日常・社会との関係について研究・実践を続けている。MITリストビジュアルアーツセンター、ボストン美術館、あいちトリエンナーレ2013、森美術館など含む、美術館・文化施設、まちづくりNPO、アートプロジェクトにて、エデュケーション活動、ワークショップ開発・リーダーシップ/ボランティア育成など含むコミュニティ・エンゲージメント戦略・開発に従事。また、アート・文化の役割・機能を生かした地域再生事業、ソーシャリーエンゲージドアートに多岐にわたり多数携さわってきている。その他武蔵野美術大学、立教大学兼任講師、一般財団法人World In Asia理事なども務めている。

NPO法人インビジブル

アートを軸にした「クリエイティブプレイス(Creative Place)」を標榜するNPO法人。「invisible to visible(見えないものを可視化する)」をコンセプトに、アート、文化、クリエイティブの力を用いて、地域再生、都市開発、教育などさまざま領域におけるプロジェクトの企画運営や、アーティストの活動支援、アートプロジェクトの支援や運営人材の育成、それに伴うプロトタイプの研究に取り組んでいる。
http://invisible.tokyo/

リライトプロジェクト

六本木けやき坂のパブリックアート『Counter Void(カウンター・ヴォイド)』を再点灯させると同時に、未来の生き方や人間のあり方を考えるプラットフォーム形成を目指すプロジェクト。東日本大震災をきっかけに、作者であるアーティスト・宮島達男の手によって消灯されたこの作品を、3.11の記憶をとどめ、社会に問いかけ続けるための装置と位置づけ、様々なプログラムを展開します。
http://relight-project.org/
*東京アートポイント計画事業として2015年度から実施

あとは命名を待つだけ。都市を減速させる試み —羊屋白玉「東京スープとブランケット紀行」インタビュー〈後篇〉

「東京アートポイント計画」に参加する多くのアートプロジェクトは、いったいどのような問題意識のもと、どんな活動を行ってきたのでしょうか。この「プロジェクトインタビュー」シリーズでは、それぞれの取り組みを率いてきた表現者やNPOへの取材を通して、当事者の思いやこれからのアートプロジェクトのためのヒントに迫ります。
 
第1回目に取り上げるのは、演出家・劇作家の羊屋白玉さんを中心に2014年より活動を始めた「東京スープとブランケット紀行」です。毎月一回、彼女が22年間一緒に暮らした猫(2012年5月17日他界)の月命日に、江古田の街で買い集めた食材でスープを作り、それを参加者みんなで食べることを軸にしたこのプロジェクトでは、そのささやかな行為の積み重ねを通して、成熟都市の抱える「看取り」の問題に取り組んできました。

2017年、参加型プログラム「R.I.P. TOKYO」の開催を機に、ひとつの節目を迎えた「東京スープとブランケット紀行」。4年間の活動のなかで探られてきた、本当に創造的なアートプロジェクトのあり方とは何なのか? 羊屋さんと、伴走者である東京アートポイント計画ディレクター・森司に話を訊きました。江古田周辺をめぐった写真とともにお届けします。

〈前篇〉「縮小社会に向き合う、“看取り”のアートプロジェクト —羊屋白玉「東京スープとブランケット紀行」インタビュー」

(取材・執筆:杉原環樹)

命名できない時間を持つ

——関係者が集まってスープを飲み続けた「江古田スープ」。そこで自然な疑問として湧くのは、「それはアートプロジェクトなのか?」ということだと思うのですが。

:従来の意味では、そうではないかもしれません。しかし、アートプロジェクトかもしれない。もちろん、そうした疑問が出ることは当然だと思います。

羊屋:「従来」という部分ですよね。私はそれは慣れっこで、人生の半分くらいは自分の作品を演劇ではないと言われてきた。劇場で行われるものが演劇であるという観念があるから。

:そうした経験をされてきたからこそ、羊屋さんに頼んだんですよ。

羊屋:でも、じゃあ、それを演劇だと呼ぶ人がいたら嬉しいかというと、わからない。アートプロジェクトだと言われたら安心するかというと、そうではないと思うんです。

:アートプロジェクトとしてはみ出し続けていたから、やっていたんですよ。そのあり方の曖昧さに堪えが効かなくなると、こうした取り組みはすぐにわかりやすい型に回収されるんです。しかし、そうならずに三年間、やり続けられた事実がとても重要で。それをアートプロジェクトと呼ぶか、月命日の集いと呼ぶかは、どちらでもいい。ラベリングによって回収されることが、一番怖かったんです。

ラベリングのないものを売るガラクタやネバーランドにて。店主の安藤仁美さんを「対談紀行 2016紫陽花篇」にお招きした。(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:中澤佑介)

——型にはまることによる安心は、危険でもあると。

羊屋:「江古田スープ」は猫の死の再現でもあると言いましたが、一度だけでは満足することできずに、やり続けることになった。でも、それは世の中にある儀式もそうだと思うんですね。長い積み重ねで儀式ができてくる。だから、物事の生まれ方としてはまるで新しくはないんだけど、アートプロジェクトの側から見るとはみ出しているんだなと思います。

:日比野克彦さんの「明後日朝顔プロジェクト」という取り組みがありますよね。

——地域住民と朝顔を育て、その種を別の場所に広げていくプロジェクトですね。

:あれも当初は、ただ芸術祭の観客をもてなすために始まったものです。僕が水戸芸術館の学芸員として開催したときも、「朝顔を育てることがアートなのか」という疑問の声があった。でも、いまやあの取り組みは押しも押されぬプロジェクトになっていますよね。認知には儀式が必要で、「明後日朝顔」は金沢21世紀美術館で一度、破天荒な規模で開催され、同館に収蔵された。その瞬間、何を持ってあれをアートじゃないと言えるのか?という世界に一瞬で変わります。制度があれば、ある行為をアートにすることはできる。むしろ難しいのは、その手前で命名できない時間を持つことなんです。

羊屋:簡単には命名させないぞと、引っ張ってきたんですけど、同時に、名前が付いたときには「そういうことか」と驚くものがあるといいと思っていて。大人が普段、自分では意識できていない現実を子供に指摘されてドキッとすることがありますよね。たとえば、子供が「大人になったら好きなことできるの?」と聞くと、お母さんが「そうよ」と答える。そしたら子供が、「じゃあお母さんは好きなことしてるの?」と聞いてお母さんは絶句した、という実話があって。言葉が与えられてドキっとする瞬間。そうしたところに降りてくるまで、このプロジェクトも待っていたんだと思います。

江古田の街に現れる、加藤材木店による、新年恒例、干支の動物を描いた、巨大パブリックアート(写真提供:東京スープとブランケット紀行)

みんなで看取る

——その待っていた瞬間の訪れが、2017年の「R.I.P. TOKYO」につながった?

羊屋:そうですね。じつは3年目の2016年にも一度、「何かを作ろう」と話になったのですが、まだ無理だと。それが2017年に、平行して続けてきたいくつもの活動がすっとひとつになったんです。「R.I.P. TOKYO」と公言する動機が揃ったというか。

:40回以上も集まった3年間の活動が、結果的にそのプロローグになったんです。実際、「R.I.P. TOKYO」は、これまで関係者でやってきたことを外在化し、見える化したプログラムです。これまで日常にあったものを、ようやくステージに上げた。

羊屋:5月17日の「はじまる」と題した回に始まり、「はなまる」「みとれる」「はぐれる」「きこえる」「くすぐる」「みつける」と、11月までに7回開催しました。基本的にはいままでの月命日と同じで、江古田駅前に集合し、みんなで買い物をして、スープを作って食べる。そして、集まった人たちにそれぞれ話を聞くというものです。

「R.I.P. TOKYO きこえる」(2017年8月11日開催)。出来上がったスープを参加者とともにいただき、言葉を交わす。(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:GO)

——僕は10月14日に行われた「くすぐる」に参加しました。この回は江古田斎場を舞台にしたもので、「弔問客」となった観客を前に、まずは羊屋さんが猫のまぷへの弔辞を読み上げました。その後、貝のスープやゆで卵、栗のような、何かの残骸が残る料理を食べ、地元に長く住むお年寄りなどの話を聞き、リヤカーを引く羊屋さんを先頭に江古田の商店街を歩いた。そして、とてもあっさり解散したのが印象的でした。

羊屋:リヤカーは、かつての江古田市場を忍ばせる風景の再現で、「R.I.P. TOKYO」では毎回引きました。でも、斎場は特別な場所で、みんな何かになりきっていましたね。その回の終了後、このプロジェクトにずっと伴走してくれた東京アートポイント計画の大内(伸輔)くんが、「みんなで看取れば怖くない」と言っていたのが面白くて。

大内:我々にしたら、あの回はついに羊屋さんが弔辞を読んだ瞬間だったんです。4年間ずっとまぷの死と向き合うことに戸惑いがあったなかで、やっと真正面から向き合ったと。

羊屋:やってみて、「みんなで看取れば怖くない」を実感したんです。まぷはたまたま大勢で看取ることになりましたが、友人には、一人で猫を看取らなくてはいけなかった人もいて。実際、人同士の世界で考えても、今後の社会は看取る人の数がどんどん減っていくわけですよね。

「R.I.P. TOKYO くすぐる」(2017年10月14日開催)。江古田斎場で愛猫「まぷ」への弔事を読んだ。(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:GO)

——かつてのように大勢の親戚や友人に見送られる、といったかたちは減っていくのかもしれないですね。

羊屋:そこでは、極度に「死」というものを怖がる状況が生まれると思うんです。かたやベトナムや沖縄では、埋葬後に何年か経ってから、骨を取り出して綺麗にして、また埋めるという葬儀の仕方もあるそうです。死を近くに感じるそうした機会は、もっと多くあっていいのではないかと思うんですね。このプロジェクトは、そんな死を恐れる人のもとにも持っていきたいな、と考えています。

減速と免疫

——プロジェクトは今後、どのように展開されていくのでしょうか?

羊屋:こうしたプロジェクトは5〜6年で止めるか、100年続けるかのどちらかで、本当は100年続けたいけど、死んでしまうからできない。なので今、こうした試みがあったことを多くの人に伝えて、未来にも残したいと、実践のためのアーカイブを作っているところです。今度、ニューヨークに行く機会があるので、そこにもプロジェクトを持っていきますし、「アジア女性舞台芸術会議実行委員会」という団体でマレーシアとベトナムを担当しているので、そこでの伝え方も考えたいと思っています。

:アジアの人たちも、このプロジェクトに興味を示しているんです。

羊屋:でも国のバッググランドは違っていて。日本では、ここ10年の間でも、東日本大震災や、東京オリンピックに向けて混迷の時代に突入する中、人口減少の問題があります。しかし例えば、マレーシアやベトナムは、平均年齢が30歳程度という国です。そこで「看取りの時代が来る」と言ってもピンとこないのはあたりまえです。そんな事情の違う国で、どんな風に訪れるはずの未来を伝え、ともに考えることができるのか。

:そこには、シンボリックなものが必要で。なので、いま作ろうとしているのは、簡単に触れてもらえるドキュメントブックや映像に加えて、唯一の造本が施されたユニークピースの戯曲のアーカイブなんです。その一冊を携えていれば、物の力で行為が誘発されるようなものを作ろうと。そうしたものができれば、世界の人たちが勝手に引き受けて、解釈して、実行してくれる。そこで誰かが、「これはアートだ」と言ってくれたら、その瞬間に命名式は終わるので。あとはその命名を待つだけなんです。造本は、ドイツでバリバリにコンセプチュアルな造本を学んだ、太田泰友さんにお願いしています。

「R.I.P. TOKYO」では殻や皮など残骸が残る食事を用意し、その残り方を記録し続けた。(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:GO)

羊屋:その戯曲には、3分ほどで終わる短いプロローグがあって。そこが、この4年間の活動に当たる部分。だから、3分のものを4年間に引き延ばしたんだなと(笑)。

:しかも、普通ならその戯曲がまずあり、そこから4年間を始めるところを、いろんなことが終わってから出発点に着くという。その意味でも、従来とはまったく真逆のプロジェクトの作り方をしたわけです。羊屋さんは一見演劇を解体しているように見えるけど、徹頭徹尾、演劇をしていたということがいまになってわかります。それは、演劇空間ではない実社会に重なるフィクションのようなもので、日常とのギリギリの境界でこのように演劇を考えることができると感じられたという意味でも、ここには大きな収穫がありました。

——その収穫は、簡単に成果を求めないタフさから来ているということを、今日は感じました。

:ゴールが設定されたアートプロジェクトをやって「はい、答えが出ました」と。それって一体何をしているんだろうと本当に思うんです。発酵期間を持てるアーティストが減っていることがとても問題だと思うし、それに耐え切れるタフさがないと、本当にペラっとしたものしか出てこない。

羊屋:武術には「7年殺し」という古来の技があります。ポンと叩かれただけなのに、あとからジワジワ効いてきて、7年後に死ぬという。そうした毒は、このプロジェクトのなかでずっと持てたのかな、と思います。浄化されたきれいな街もそうですけど、雑多なものへの免疫がないと、人も都市も本当の意味で死んでしまう。アートプロジェクトのなかには、都市の浄化の一助になってしまうものもありますが、その現実に対して自分なりの解決策を考えたいというのが、じつは最初の思いでもあります。振り返ると、このプロジェクトは都市を減速させ、未来に再生する為の免疫をつける試みだったんだと思いますね。

(撮影:高岡弘)

Profile

羊屋白玉(ひつじや・しろたま)

1967年北海道生まれ。「指輪ホテル」芸術監督。劇作家、演出家、俳優。主な作品は、2001年同時多発テロの最中ニューヨークと東京をブロードバンドで繋ぎ、同時上演した「Long Distance Love」。2006年、北米ヨーロッパをツアーした「Candies」。2011年、アメリカ人劇作家との国際協働製作「DOE」。2013年、瀬戸内国際芸術祭では海で、2014年の中房総国際芸術祭では鐵道で、2015年、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレでは雪崩よけのスノーシェッドで公演した「あんなに愛しあったのに」。舞台作品以外の活動は、2013年よりアジアの女性舞台芸術家たちとのコレクティブを目指す亜女会(アジア女性舞台芸術会議)を設立。2014年より東京を舞台に「東京スープとブランケット紀行」始動。2006年、ニューズウイーク日本誌において「世界が認めた日本人女性100人」の一人に選ばれる。

東京スープとブランケット紀行

演出家・劇作家の羊屋白玉を中心に、生活圏に起こるものごとの「終焉」と「起源」、そして、それらの間を追求するアートプログラムを展開。テーマに呼応するコラボレーターとともに、トークシリーズや、アートプログラムの実施へ向けたエリアリサーチを行う。
*東京アートポイント計画事業として2014年度から実施

縮小社会に向き合う、“看取り”のアートプロジェクト —羊屋白玉「東京スープとブランケット紀行」インタビュー〈前篇〉

「東京アートポイント計画」に参加する多くのアートプロジェクトは、いったいどのような問題意識のもと、どんな活動を行ってきたのでしょうか。この「プロジェクトインタビュー」シリーズでは、それぞれの取り組みを率いてきた表現者やNPOへの取材を通して、当事者の思いやこれからのアートプロジェクトのためのヒントに迫ります。
 
第1回目に取り上げるのは、演出家・劇作家の羊屋白玉さんを中心に2014年より活動を始めた「東京スープとブランケット紀行」です。毎月一回、彼女が22年間一緒に暮らした猫(2012年5月17日他界)の月命日に、江古田の街で買い集めた食材でスープを作り、それを参加者みんなで食べることを軸にしたこのプロジェクトでは、そのささやかな行為の積み重ねを通して、成熟都市の抱える「看取り」の問題に取り組んできました。

2017年、参加型プログラム「R.I.P. TOKYO」の開催を機に、ひとつの節目を迎えた「東京スープとブランケット紀行」。4年間の活動のなかで探られてきた、本当に創造的なアートプロジェクトのあり方とは何なのか? 羊屋さんと、伴走者である東京アートポイント計画ディレクター・森司に話を訊きました。江古田周辺をめぐった写真とともにお届けします。

(取材・執筆:杉原環樹/撮影:高岡弘 *提供名のある写真以外)

「演劇は作るな、クリエイションするな」

——「東京スープとブランケット紀行」は、東京アートポイント計画の関わるアートプロジェクトのなかでも、ひときわ変わった活動で知られているそうですね。まずはプロジェクトの始まりがどのようなものだったのか、お聞きできますか?

羊屋:2013年7月に、森さんから声をかけていただいたのが始まりですね。このときのオファーがとても難しいもので、ひとつは「若いアーティストの心に火をつけるようなことをしてください」ということ。もうひとつは、「演劇は作るな。クリエイションはするな」ということでした(笑)。演劇の世界では、公演の半年ほど前に告知を打って本番を行うという制作パターンがあります。私もそうした制作をしてきたのですが、従来の作り方をしないで、より時間をかけて作ってほしいと問いかけられました。

:東京アートポイント計画では、過去にも演劇人と組んだプロジェクトを行ってきたんです。劇作家の岸井大輔さんとは、新しい公共モデルを考える「東京の条件」(2009〜2011年)を、ドラマトゥルクの長島確さんとは、ギリシャ悲劇の物語を街にインストールする「アトレウス家」シリーズ(2010〜2012年)を行っています。その流れのなかで、三人目の演劇人としてお願いしたいと考えたのが羊屋さんでした。

——なぜ羊屋さんを?

:このとき、いくつかのテーマを考えていたんです。ひとつは、何かの終わりに立ち会う「看取り」の問題をアートプロジェクトでやりたいということ。いま、地域活性化のような事業にアートを活用する試みは多くありますが、東京は今後、人口減少や空き家問題に直面し、静かにシュリンクする時代に入っていく。そこでは別種のプロジェクトも用意しなければなりません。また、非常に口当たりがいいプロジェクトが多いことに対して、毒を皿に盛れる人はいないかとの思いもあった。そんなとき、それらをまとめてできる毒たっぷりの人がいるじゃないか、と思ったわけです(笑)。

——実際、羊屋さんといえば、過去の作品でも劇場ではない屋外での公演や、一般の人たちとの協働制作を行うなど、演劇のかたちを疑うような活動をされていますね。

羊屋:森さんからは、2005年から2006年にかけてやった《東京境界線紀行》の話をされました。これは障害者をはじめ、多様なマイノリティの方と交流して作ったツアー型の作品で、「厳しいことをやり続けていてタフだ」と。だけど、「クリエイションをするな」というのは私にとって行動を封じられていることに近い(笑)。そこからは、企画を考えては森さんに提示して……という、千本ノックのようなやりとりが長い期間続きました。

:「作るな」というのは、言い換えるとクリエイションの仕方を作ってほしいということでもあります。これまでにない看取りの文化事業のオペレーションシステム(OS)を作ってほしいと。じつはこれに連なる社会的テーマ型の取り組みには、「東京迂回路研究」(2014~2016年)のような研究型のプロジェクトもあったんです。羊屋さんはその表現サイドであり、一種の劇薬だと考えていたので、時間がかかるのはわかっていました。そんななか、羊屋さんがあるとき一種の宣言文をフェイスブックに上げたことから、具体的な活動が始まりました。

羊屋:そこに綴ったのは、加速記号に溢れた東京に休符を打ちたいという思いです。私は上京して以来、つねに加速する東京を感じてきました。東京は疲弊している、もう少しゆっくりの方がいいと感じていた。2017年に行ったプログラムのタイトル「R.I.P. TOKYO」(東京よ、安らかに眠れ)は、当時から考えていたものです。

プロジェクトの複層化

——そこからプロジェクトは、どのように具体化していったのでしょう?

:最初の打ち合わせから半年ほど試行錯誤が続いたのですが、そんなとき羊屋さんがふと出してきたキーワードが、プロジェクト名にもなった「東京スープとブランケット紀行」でした。この言葉によって、それをどう捉えるか考えられるようになりました。

——スープやブランケットという言葉は、なぜ出てきたのですか?

羊屋:由来は2012年の、飼い猫「まぷ」の死です。まぷは社交的な猫で、倒れたときには仲の良かった多くの友人が駆けつけてくれたんです。そのさい、みんながその身体を温めるために持ってきてくれたのが、スープやブランケットでした。そして亡くなるまでの五日間、猫をどう弔うか、焼くのは嫌とか木の下に埋めるのがいいとか、みんなでいろいろ話しました。そこには自分の死への思いも重なっていて、猫の死を機に夜な夜なそんな話ができたのはすごいことだなと。「江古田スープ」には、この弔いに向けた時間の経験を、まぷを知らない人とも再現したいという側面もあります。

江古田市場跡地に立つ東京スープとブランケット紀行のチーム(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:中澤佑介)

——「江古田スープ」は、「東京スープとブランケット紀行」という言葉が分解されて生まれた、四つの小さなプロジェクトのひとつですね。これは羊屋さんが暮らしてきた江古田で、月に一回、プロジェクトに関わる人が集まり、スープを作って食べるものですが、そこには食事を通した一種の看取りの場をつくるという思いもあったと。

羊屋:さらに「江古田スープ」では、活動を始めてまもない2014年の大晦日、90年間続いた地元の江古田市場が閉場することが決まったため、そのリサーチも行うようになりました。これも一種の看取りですね。とはいえ、月に一度の集まりで交わされる会話は本当に世間話のようなものでしたし(笑)、そもそも当初、私は自分の街を材料にすることをうまく消化できていなかった。そこで、どこかに行くべきだと思って訪れたのが、「青ヶ島ブランケット」というプロジェクトで行った青ヶ島です。この人口180人の島への訪問が、概念としての「東京」や自分の街を見直す機会になりました。

——というと?

羊屋:東京を成り立たせている背景を感じたというか。もちろん青ヶ島も東京の一地域ですが、遠方から自分のベースを考えることの有効性を感じたんです。速すぎる本州の東京が何も生み出していないこと。青ヶ島では1785年の火山活動の激化で、島民全員が八丈島に避難し、50年後に帰還した「還住」という歴史があることも知りました。「青ヶ島ブランケット」の二年目には、都市への水の供給のために奥多摩のダムに沈んだ村もリサーチしたのですが、こうした秘境の経験が活動を複層的にしていったんです。

リサーチプログラム「青ヶ島ブランケット」、2017年7月の青ヶ島訪問にて。かつて名主屋敷があった場所をリサーチ。(写真提供:東京スープとブランケット紀行)
島の歴史を引き継ぐ「還住太鼓」を叩いてみる。(写真提供:東京スープとブランケット紀行)

雑多な材料から澄んだスープが生まれる

——小さなプロジェクトとしては、「江古田スープ」「青ヶ島ブランケット」以外にも、「東京一箱」「対談紀行」というプロジェクトも行われています。「東京一箱」は、東京に住宅を購入しようとする人を追うドキュメントで、「対談紀行」はゲストを迎える対談企画です。ところでこうして見ると、じつにさまざまな要素が混在していますが、それらが最終的にどう絡み合っていくか、といった予想図は描かれていたのでしょうか?

:いや、「江古田スープ」の月一の集まりもそうですが、青ヶ島や奥多摩を訪れることにも最初から明確な目的はありませんでした。プロジェクトというと、事前に具体的なゴールがあるように思われますが、そうした必然はなくてもいい。むしろ、偶然が必然を呼び、必然が偶然を呼ぶ、「わらしべ長者」的な連鎖があればいいんですよ。

羊屋:そうですね。「対談紀行」も、アートプロジェクトにつきもののトークを自分もやってみたい、くらいの気持ちで始まっていて、人選も緩やかに決めましたが、いいタイミングで出会うべき人に出会えました。

2016年2月21日に開催したトークイベント「対談紀行 2016年春篇」。詩人・詩業家でココルーム代表の上田假奈代さんを迎えて。(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:中澤佑介)

:それこそスープを作るには、いろんな材料を突っ込みますよね。同じように、このプロジェクトにも最初は多様な要素が突っ込まれた。それらが溶け合って、結果的に透明感のあるスープになったけど、はじめから予期していたわけではないんです。

羊屋:そうして「江古田スープ」を月に一回、「対談紀行」を半年に一回……と続け、4年目にようやくそれらが「R.I.P. TOKYO」としてひとつになった。やっと公言できたなと。

——ただ、それはプロジェクトの作り方として、異質なようにも思います。普通、少なくとも建前では何かの「成果」に向かうものですが、そうした作り方はしなかったと。

:発酵するのを待ったんですよ。「月命日」と称したスープの集まりも、基本的には集まるだけ。そこには積極的なクリエイションなんかないし、むしろ、しないようにしていた。みんな、一生懸命やりすぎているわけです。まずは「元気?」から始まる、取るに足らない日常会話があり、誰かが「なぜ集まっているんだっけ?」と言うと、たまにシビアな会話にもなる。「あの店、閉まったらしいよ」とか。テーマの「看取り」だけにフォーカスするわけではなく、日常の集まりにそれが紛れている状態なんです。

羊屋:プロジェクトメンバーには演劇関係者やデザイナーなどもいるのですが、みんな、その場では自分の仕事を離れているんですね。デザイナーがスープのシェフになったり(笑)。でも、何回かに一度、ふと大事なことに気づくこともある。それは、劇的な気づきではなくて、みんなのなかに自然に染み込んだものから出てくる気づきです。だから、プロジェクトの一環としては「これをしている」と明確に言えないといけないんだけど、そうした言い方ができなくて。むしろ本当に大事なのは、月に一回、みんなで会うことだったんです。

〈後篇〉「あとは命名を待つだけ。都市を減速させる試み —羊屋白玉「東京スープとブランケット紀行」インタビュー」

(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:中澤佑介)

Profile

羊屋白玉(ひつじや・しろたま)

1967年北海道生まれ。「指輪ホテル」芸術監督。劇作家、演出家、俳優。主な作品は、2001年同時多発テロの最中ニューヨークと東京をブロードバンドで繋ぎ、同時上演した「Long Distance Love」。2006年、北米ヨーロッパをツアーした「Candies」。2011年、アメリカ人劇作家との国際協働製作「DOE」。2013年、瀬戸内国際芸術祭では海で、2014年の中房総国際芸術祭では鐵道で、2015年、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレでは雪崩よけのスノーシェッドで公演した「あんなに愛しあったのに」。舞台作品以外の活動は、2013年よりアジアの女性舞台芸術家たちとのコレクティブを目指す亜女会(アジア女性舞台芸術会議)を設立。2014年より東京を舞台に「東京スープとブランケット紀行」始動。2006年、ニューズウイーク日本誌において「世界が認めた日本人女性100人」の一人に選ばれる。

東京スープとブランケット紀行

演出家・劇作家の羊屋白玉を中心に、生活圏に起こるものごとの「終焉」と「起源」、そして、それらの間を追求するアートプログラムを展開。テーマに呼応するコラボレーターとともに、トークシリーズや、アートプログラムの実施へ向けたエリアリサーチを行う。
*東京アートポイント計画事業として2014年度から実施