共通: 年度: 2018
アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(六本木エリア)
2019年2月、Tokyo Art Reserch Lab 10周年を目前に、10年という時間軸でほかの活動も参照するべく全3回のレクチャーシリーズが行われた。地域を軸に展開するアートプロジェクトの実践者をナビゲーターに迎え、まちの変遷や時代ごとのアートシーンに精通したアーティストや研究者をゲストに交えながら振り返る。
第3回 六本木エリア 2019年2月19日(火)
六本木アートナイトを生み出すまでの土地の記憶
「1960〜70年代の六本木は演劇のまちでした。戦前に千田是也ら10人の同人で立ち上げた俳優座が中心となり、養成所で育った演劇人から劇団青俳、青年座、自由劇場などがつくりだされました。1976年に寺山修司の天井桟敷が渋谷から麻布十番に移転し、1979年には串田和美がオンシアター自由劇場を旗揚げします。私は、大学卒業後の1974年、渋谷にあった安部公房スタジオに入団し、演出家の勉強をしながら六本木でもよく演劇を観ていました」。
2000年代から六本木に森美術館を開設した森ビルに勤め、六本木アートナイトの事務局長を務めた高橋信也さんのレクチャーは、若き日の六本木との接点から始まった。また、東京ミッドタウンの一帯はもとは軍用地で2000年まで防衛庁があったように軍隊のまちでもある。「乃木神社(明治天皇の崩御の際に殉死した乃木希典を祀る)があることでもわかるように、麻布連隊と呼ばれた旧日本陸軍第一師団歩兵第一・第三連隊の拠点でもあり、二.二六事件の主力にもなった第三歩兵連隊の建物の一部が国立新美術館別館として残されています。六本木トンネル上の赤坂プレスセンターは『麻布米軍ヘリ基地』と呼ばれる在日米軍基地ですね」。
六本木ヒルズは、造成前は日ヶ窪といういわば窪地だった。江戸時代には、豊かな湧水をいかして金魚店の「原安太郎商店」が創業し、開発の始まった1999年まで存続していた(五代目は前・六本木ヒルズ自治会長)。長府藩毛利家上屋敷の大きな池は、ニッカウイスキー工場を経て、現在は人工池になっている。道が狭くて防災上の問題があり、都市インフラの整備から始まって、再開発には17年かかった。
「その頃、私は表参道にあったアート系の書店『NADiff(ナディッフ)』で専務取締役を務めるとともに、アーティストとさまざまな展示企画を行っていました。森アーツセンターからショップやものづくり、オペレーションなどの相談を受けるうちに、故・森稔社長から森アーツセンターに転籍しないかと誘われました。3年ほど森美術館のショップの立ち上げのお手伝いに行くつもりが、2003年に森美術館の立ち上げメンバーとなり、「オープニングの『ハピネス:アートにみる幸福への鍵 モネ、若冲、そしてジェフ・クーンズへ』からジェネラルマネージャーとして、美術館経営もみることになったのです」。

ちなみに、ナディッフの前身は、1975年に池袋の西武百貨店内でセゾン美術館の開館とともにオープンした美術書店「ART VIVANT(アール・ヴィヴァン)」である。セゾングループの堤清二オーナーの文化戦略のもと、芦野公昭さんが西武百貨店の子会社として「ニューアート西武」を設立し、高橋さんは常務取締役として、この美術洋書や現代音楽のレコードなどを扱う画期的なショップを運営した。しかしながらバブル崩壊後の1991年、セゾングループの代表が代わり、文化事業から撤退。東京都現代美術館、水戸芸術館などに出店していたミュージアムショップは、芦野さんが「ニューアートディフュージョン」という新会社を設立して経営を独立させる。このとき高橋さんは、当時水戸芸術館のキュレーターだった森司にもショップの継続を相談している。
そんな高橋さんが森美術館に深く関わっていったのは、森稔社長も堤清二のように一般の企業家のイメージとは違っていたからだった。「小説家になりたかった人で、感受性豊かな柔軟な方でした。いきなり黒字にしろとは言わないからという言葉と人柄にほだされたのです」。
2003年10月の森美術館オープン時、村上隆が描いた六本木ヒルズ開業シンボルキャラクター「ロクロク星人」が街に溢れた。海外では高く評価されていたが、日本では新進気鋭ながら一般的な知名度はそれほどでもなかった村上を推したのは高橋さんだ。ナディッフ時代から交流のある、村上さん世代が森ビル等に受け入れられたら離れてもいいと思っていた高橋さんは、森社長なら理解してくれるだろうと考えた。そして2002年12月24日に森社長から突然携帯に電話があり、「村上さんに六本木ヒルズのシンボルキャラクターを依頼したい、この電話で決裁したってことでいいから」と依頼される。森社長は、年明け早々に挨拶に来たちょんまげ、ジーパン、スニーカー姿の村上さんを気に入った。高橋さんは当時カイカイキキのスタジオがあった埼玉県の丸沼芸術の森に何度も足を運ぶ。入稿直前、村上さんからの「すべてやり直したい」というギリギリの要望も飲み、森社長をモデルにしたキャラクターとロクロク星人との祝福感に満ちたストーリーのビジュアルやアニメが完成に至った。
さらに2015年には14年ぶりに日本での大規模個展、森美術館で開催された「村上隆の五百羅漢図展」の開催。「アーティストとのコミュニケーションの取り方の深さ、造形行為に対する読み取り、気づきももたらす最大の鑑賞者」と高橋さんを森司は評価する。

「アート・トライングル六本木」から「六本木アートナイト」へ

2003年10月の森美術館に続き、2007年1月に国立新美術館、同年3月に赤坂から東京ミッドタウン内に移転したサントリー美術館がオープンした。森美術館のゼネラルマネージャーに就任していた高橋さんは、この3館をつなぐ「アート・トライングル六本木」のマップ作成を推進する。「パブリシティがついて雑誌でも数多く取材され、車のメーカーから3館回るスポンサーがついたんですね。それで定期的に発行し、地図持参割引などもつけました」。これが好評で、東京都から六本木アートナイトの話が来る。ヨーロッパで行われているオールナイトイベントのようなものができないか。7団体に東京都と港区の共催で、オリンピック招致にも直結してくる話だった。
こうして2009年、都市生活の中でアートを楽しむという新しいライフスタイルの提案と、大都市東京における街づくりの先駆的なモデル創出を目的に開催する、一夜限りのアートの饗宴として「六本木アートナイト」がスタートする。六本木ヒルズ、国立新美術館、東京ミッドタウンの3か所を大きなコンテンツでつなぎ、その間に小さなコンテンツがたくさんある。現代アートやデザイン、音楽、映像、パフォーマンスなどの多様な作品が街なかに展開された。

2009年3月28日〜29日。第1回目のヤノベケンジから、毎回メインプログラム・アーティストが設定されていく。チェルノブイリの旅からつながるヤノベの《ジャイアント・トらやん》は、消防対策も万全に火吹きも実現した。第2回目のメインは、椿昇の《ビフォア・フラワー》。バルーン型の胞子が散らばり、奇妙な花をあちこちで咲かせているという立体作品だ。2011年には草間彌生の作品が完成していたが、東日本大震災で中止とし、翌年の2012年に10メートルを超える巨大バルーンの彫刻、やよいちゃんと愛犬のリンリンが披露された。実行委員長は森美術館館長南條史生。「埼玉や神奈川からもやってきて始発まで楽しんで帰ろうという構えの人が多くて気合が入りましたね」と高橋さん。

2013年は夜桜の効果もあり、83万人の延べ鑑賞者数を記録した。この年から主体的プレイヤーをアーティストに託し、日比野克彦がアーティスティックディレクターを務める。「開催の1ヶ月前に陸前高田市に行き、津波に遭った塩害杉を利用して木炭をつくり、当日は約8メートルの灯台の上で芸大の学生が24時間炭を炊いていました。灯台の下にはらはら落ちる火の粉を見つめながら一晩中過ごしましょうという、3.11後の東北とのつながりや追悼を込めたプロジェクト型作品でした」。
翌年も日比野さんがディレクターとなり、身体性をテーマとした作品やプロジェクトが展開された。六本木ヒルズアリーナの作品を手掛けたのは西尾美也で、膨大な布のパッチワークの家が風に揺れていた。音があまり出せない深夜帯、近藤良平さんはそれを逆手にとってサイレント盆踊りを行う。林曉甫さん(NPO法人インビジブル マネージング・ディレクター)が企画した、クラシックオーケストラの演奏で朝5時から行うラジオ体操はその後定番となり、毎年会場を埋めるほどの人々が集まっている。

「私の出身の京都にも祭りがたくさんあります。1995年以降グローバリゼーションが発達してアイデンティティーが置き去りにされ、都市が非常に似通っていくなかで、六本木の都市生活者の祭りを考えたときに、アートは非常にいい器でした。90年代からさまざまなジャンルのアーティスティックなエッセンスが『アート』と呼び習わされるようになり、音楽、演劇、映像など幅広くとらえることができるようになった。日比野さんの回にはモニュメンタルなものはないけれど、訪れる人にとってなじみがある。一昼夜集い過ごす日本の祭りと通底します」。
2015年は4月開催となり、アーティスティックディレクターは日比野さんのまま、メディアアートディレクターとして「ライゾマティクス」の齋藤精一さんが加わる。「メディアアートにとって、アプリケーションソフトの意図をアートの意図として受け止められるという位置づけができたと思います。しかし制作に非常にお金がかかり、さまざまな業界から受注するかたちで作品を作らざるを得ない矛盾も抱えている。一方アニメやコミックなどサブカルチャーは変わらず強いですね。そして日比野さんのプロジェクト型アートは、一般も参画しつつ、段階的に完成を目指しつつ、相互交流的なつくりかたで、あるゴールを目指す。震災以降、地に足を付けたかたちで定着していったように思います」。
2016年にはアーティスティックディレクター制を停止。文部科学省からの依頼でオリンピック関連催事に伴い10月開催となる。メインプログラム・アーティストは名和晃平。東京2020オリンピック・パラリンピックの公認文化オリンピアードのひとつである劇作家の野田秀樹さん総監修による「東京キャラバン」が、リオ五輪から帰ってきて、名和さんの《エーテル》をシンボリックに使いながら繰り広げられた。
2017年は9月に開催。メインプログラム・アーティストの蜷川実花はオープニングで「TOKYO道中」を繰り広げた。ASEAN10カ国の展覧会と連動するという初の試みもあった。2018年は5月開催に変わり、メインプログラム・アーティストは、金氏徹平、宇治野宗輝、鬼頭健吾の3名が手掛けた。金氏は六本木ヒルズアリーナに巨大な建物のような立体作品を設置。舞台装置にもなり、パフォーマンスやライブが繰り広げられた。宇治野は音と光の動く彫刻《ドラゴンヘッド・ハウス》、鬼頭は、国立新美術館でカラフルな布の滝《hanging colors》と鏡を敷き詰めた《broken flowers》のインスタレーションを展開した。
一夜限りで10年続いた六本木アートナイト

後半は、森の質問から、初年度から55万人を動員するビッグイベントになった裏側も覗いた。スケジュールは、土曜日朝10時スタート。日没からのコアタイムにはメインの作品が集積する。18時からキックオフセレモニーを行い、コアタイムが始まる。プレスプレビューは2日前の木曜日に実施。本番開催前の告知に間に合うよう配慮している。一夜明けた日曜の朝は地域の人々と10時から清掃する。観客の質が高く、屋内外とも酷く汚れていることはないそうだ。予算のなかでは監視警備に十分なコストをかけ、ここまでほとんどクレームなく、無事故で管理されている。また、印刷物を日本語と英語のバイリンガルで膨大に制作するなど広報費もかかる。「そのようなタフな現場を、一夜のイベントであっても毎年やってきて、10年継続してきた成果が出ている」と森。昨今の課題である多言語ツアー、障害者ツアーなど、インクルーシブ(包括的)な試みにも力を入れていくそうだ。

続いて、会場からの質問をいくつか紹介したい。主催者の動機をあらためて尋ねると「ミュンスター彫刻展など、屋外のイベントが増えていた時代でもあった。また、商店街を含む参加者は、六本木に、夜のまちだけじゃなく、薄くてもアートのまちというレイヤーをかけたいという希望があった」という。
一方、「六本木のまちが、ヒルズができてきれいになってしまい、電車から直結になってから限定されたエリアで終わってしまうという印象がある」という感想も。「テートモダンの元館長のニコラス・セロータが来日したときに、ロンドン・オリンピックはテートモダンにどう影響を与えたかと質問してみたら『まったく無関係だよ。第一アートは競技ではない』と即答でした。21世紀以降、アートは都市機能とともに語られることが多く、スラムクリアランスとも言われますが都市の暗い部分を一掃する役割がアートに要請され、実際に効果を発揮する面もあります。ブライアン・イーノは「アートはムダなものであることをみんな忘れているんじゃないか。アートは、二次的にいい感情と悪い感情を一瞬味わうことができる装置であって、それ自体には意味はないんだ」と言ったんですね。無意味だと認めたときに別の意味が生じることがあって、それを意図的に利用しようとするのはちょっと違うんじゃないの? という意味なんですが、それは腑に落ちるところもあります」という高橋さん。
美術界の未来に対する懸念も尋ねた。「芸術祭など、広がりすぎた地方のイベントの見直しがくるだろう、廃墟にならなければいいがという思いがある。と同時に、美術館に就職できない学生たちや若者がイベントを通じて学習する機会が多数あるが、どれだけ学習できていて、どこにいけるのか。また、70年代後半に西洋型美術館をモデルにした地方美術館が、東西崩壊前後に構造が入れ替わり、維持できていない。それは新しいアートの需要がワールドワイドに広がったということで、南半球の人々がインターネット社会を通じて北上し、アートに参入していくなかで日本は取り残されていて世界と連携できていない。地方の美術館は動員もできていなくてコンテンツも回ってない。そのうえ耐震問題が出てきたらどうなるのだろうと。ちなみに森美術館は、西洋からすると、極東の美術館で一番西側に近い、ハブのように見られている傾向があります。こうした海外の美術館での位置づけと、香港のM+やシンガポールの美術館と合わせた極東の美術館での位置づけとの両面から見る必要があります」。
最後に、「六本木アートナイトの最大の特徴は、あれだけ大きな規模のイベントを毎年やってきたことなのだと再確認しました。全3回のレクチャーの結びとして、持続性のある文化事業を10年間続けると、まちにどんな変化が生じるのかというひとつの事例を見ることができました」という森の言葉で、六本木エリアで展開されてきたアートプロジェクトの意義を振り返るとともに、今回のレクチャーシリーズが締めくくられた。
(執筆:白坂由里)

アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(谷中エリア)
2019年2月、Tokyo Art Research Lab 10周年を目前に、10年という時間軸でほかの活動も参照するべく全3回のレクチャーシリーズが行われた。地域を軸に展開するアートプロジェクトの実践者をナビゲーターに迎え、まちの変遷や時代ごとのアートシーンに精通したアーティストや研究者をゲストに交えながら振り返る。
第2回 谷中エリア 2019年2月13日(水)
リズムの違うさまざまな集いの場をつくる「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」
「谷中を散歩していると、写真を撮りたくなったり、踊りたくなったりする場所がいっぱいある。狭い路地に植木鉢が置いてあり、きれいに育てられた花々に語りかけられているような気がする。どうしたらこんなふうに、まちが人の創造性を刺激するような空気感をもつのだろうか」。
谷中のまちと出会ったときの思いを、アートディレクターでパフォーマーの富塚絵美さんはこう語った。東京藝術大学美術学部先端芸術表現科でパフォーマンス制作を通じて人間の表現行為について研究していた富塚さんは、2008年、表現の場を創造するアートマネジメントを学ぼうと音楽学部音楽環境創造科 熊倉純⼦研究室に⼊った。千駄木に転居し、「人はどんなときに歌い、踊りたくなるのか、なぜ人は作品というものをつくるのか」という入学前からのテーマを胸に、谷中のフィールドワークを始めたという。
その頃、毎年秋には上野と谷中の美術館・ギャラリー・市民団体などが同時多発的にさまざまな発表を行うアートプロジェクト「art Link 上野-谷中」が行われていた。10年を過ぎ「終えてもいいか」という雰囲気のところへ富塚さんはじめ藝大生がボランティアスタッフに加わり、再び活気を取り戻す。まず「谷中のおかって」を設立し、週末にはアートマネジメントに興味のある社会人などと「何をしたいか」作戦会議を始めた。名前には「玄関からじゃなく、お勝手口から顔を出せるような関係に」という思いが込められている。路地を歩くだけで楽しく、まち歩き自体を生かしたプロジェクトをしたいと思い始めた。
「芸大からはみ出て、谷中のまちをふらふらしていた人たちがいたんです。アーティストになりたいわけではないが、何か表現したい人。社会的な価値観とは違う何かがやりたくてエネルギーがあり余っているけれど、安易には答えを出したくない。そんなリアリティをもったまま集える拠点をつくろうと思いました」また、そんな“もやもや”を抱えた人のなかには、谷中に惹かれて散歩に来る社会人も混ざっていた。「お店の人や保母さんなど、週末に谷中で何かしたいという人たちと話していると、アートやアートマネジメントという言葉が、それぞれのやりたいこととそぐわない、とも思いました」
そこで富塚さんは、「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」という言葉をつくる。「ぐるぐる」は、衝動や妄想のエネルギーをもった、渦を巻き起こす人。「ヤ→ミ→は、自ら最初の出来事をつくるわけではないが、その人たちとのかかわりに充実感を得る人。やじうま、闇なものを探しているという語感を持つ。2010〜2013年、両者が絡まり合いながら何かをつくっていくプロジェクトを行う。「アートかどうかは気にせず、体が反応してやりだしてしまう方を優先しよう」と。

千代田線根津駅から徒歩2分、2階建ての狭くて細長い空家を「はっち」と名付け、拠点にした。ところが、何かしたい人は他者との企画会議や勉強会には参加せず、終わった後に、どうだった?と覗きに来る。それでも、約束に来ないような人も魅力的で、自由に出入りし続けられるようにした。「路地からのぞいてお茶していく人、ご飯を食べていく人。ゴーヤを植えたら街になじむよ、と言って取り付けていく人。仕上がっていない、余白が多いからこそ、ほぼ毎日いろいろな人が訪れるようになりました」。
1年目は公開イベントをほとんど行わず、プロジェクトを行うための関係性を紡いでいった。やったことを紙に書いて壁に貼ることで、その時間いなかった人ともできごとが共有できるなど、集うための仕掛けはいろいろ考えた。この場所に集まる人たちから生まれるものごとを大事に、いろいろな集いの場を、リズムを変えながらつくっていく。

「谷中妄想ツァー」は、はっちに集う人たちやまちの人たちが同時多発的にあちらこちらで発表する参加型パフォーマンスだ。表現者かどうかもまだわからない「芸術っこ」たちが街に繰り出す。「勇気を出して社会に踏み出してみるありさまがとても魅力的だなと。個人的な欲望が社会の枠組みのなかで行われ、みなと共有する機会があってもいいのではないか」。観客は定員50人でスタート地点に集合し、4人ずつグループに分かれ、スペシャルマップを読み解きながら歩く。寺や路地、店の一角、個人宅の2階などでパフォーマンスが始まっている。最終地点にはそれぞれ違うルートで違う体験をした人たちが集まり、話し合う。スタッフは100人配置した。

また、きむらとしろうじんじんを数か月レジデンスに招いて「野点」プロジェクトも行った。ほかにも、月2回の特別な時間としてアトリエ教室「ぐるぐるミックス」を幼稚園で実施。7〜9月の毎週末には、提灯を持って谷中の暗がりを案内する「谷中妄想カフェ」を行った。
「集まって、しばらくしてまた集まる。はっちはキープするリズムのような感じで、おじいさんやおばあさんがよく集まる企画とか、アーティストを呼んでみんなで集まれる企画とか、種類の違ういろいろな出来事が起きて、まちから人へ、人からまちへとエネルギーを還元していければと考えていました」。
みなが個人的な思いを持ち込んで、開かれた場所に

谷中に住んで30年になる地域プランナー、NPO法人たいとう歴史都市研究会理事長の椎原晶子さん。富塚さんの発表を聞いて「谷中に住み、まちを生み出す仕組みのなかに入っていきたいと思った動機が重なる」と語り始めた。「1986〜88年、藝大大学院でニュータウンなどの都市デザインを学んでいて、谷中を調査したときに、おじいちゃんとおばあちゃんが多く、デザイナーや建築家、プランナーなどはいないけれどもまちがきれいで、どうやってまちがつくられているのかを知りたいと思ったんですね。その一方で、不忍通りなどの開発が進み、放っておくと古いものはなくなってしまうと、谷中に住んで聞き取りを始めたのです」。
1993年から「谷中芸工展」を始めた。住民が工芸品を持ち寄り、翌年から店などまちじゅうを見て回り、話を聞き、買って、食べてと広がっていく。その頃、SCAI THE BATHHOUSE、アートフォーラム谷中など現代美術ギャラリーが自発的に生まれていた。美術館、ギャラリー、アーティストをつないで、新しい動きを生み出そうとしたのが「art Link 上野-谷中」だ。また、たいとう歴史都市研究会では、古い家を博物館のようにではなく、文化活動の拠点にしてさまざまな人が体験できる場所をつくり始めた。
「その時代時代の人がつながってきて今がある。岡倉天心もまた藝大を追い出されて日本美術院をつくり、みなで家を建てて住んでいたんです」と椎原さん。その日本美術院の彫刻部に所属していた彫刻家・平櫛田中の邸宅が空き家になったのは2001年。2004年以降、中村政人や保科豊巳研究室の学生が主体となった環境プロセスアート本部主催で「サスティナブル・アートプロジェクト」に活用された。そのうち、展覧会だけでなくなにかが生まれるかどうかわからないけれども、もう少し日常的な場所として使えないかと模索し始める。平櫛田中のお孫さんから「芸術文化の拠点にしてほしい、誰か一人のものにしてほしくない」とも言われていた。

そして2013年には「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」で「どーぞじんの家」を開催。「どーぞ、どーぞ」と2階からクッションが投げられ、ホームパーティーという設定で、誰がパフォーマーでスタッフかお客かわからないなか、お茶をしたりアルバムを開いたりしておしゃべりをする。チラシや手紙、思い出のコンテンツをおみやげのような形でもらい、集合写真も動きながら撮る。これまでバラバラに集っていた人やものをひとつの家に集めた一日だった。
北窓からいい光が入ってくるアトリエ兼住居。いろいろなグループが修復して入れるようになった歴史のある家だ。「谷中のおかって」では最近、みんながホーム感を感じられる空気をつくろうと、第4日曜日は「平櫛田中邸を味わう日」として、ただ過ごせる場所として公開している。「マネジメントをしている人もアーティスティックだと思うこともあるし、メインとなるパフォーマンスしているときだけじゃない、お茶をしたり、話したり普段の時間がすごく贅沢だなと思ったので、みなが個人的な思いを持ち込んで、開かれた場所になるようにとつくっていました」と富塚さん。
面白いことをやっている人を育てる土壌がある

次いで、まちづくりにかかわる社会学者、筑波大学大学院人文社会科学研究科准教授の五十嵐泰正さんは「これをアートと呼ぶ必要があるのか?」と問いかけた。「映画『ジェイン・ジェイコブズ:ニューヨーク都市計画革命』でも、路地や井戸端空間など、人や用途が混じる余白をつくる「ニューアーバニズム」が提唱されていましたが、はっちはまさにまちづくりやコミュニティデザインだと思います。あるいは子育て支援や福祉、気仙沼でやれば復興支援、総務省でお金が出れば地方創生と呼ばれそう。つまり、小松理虔『新復興論』にも書かれているように“結果として”どうなっているかが大事。あるいは、福祉や復興などアートと関係ない分野にアーティストが参加し、結果としてアートになっているという方向性も大事だと思います」。
椎原さんは2000年、アートがまちなかに出る「ドキュメント2000 初音の道プロジェクト」を運営したとき、「谷中の住民たちは、それはアートじゃない、もっと思い切りやれなどと手厳しかった」と笑う。
富塚さんも「こっちが本物のアートだ、とまちに投げ込む人がいて、まわりが黙っていない(笑)」と共感。「平櫛田中邸にドイツ人アーティストがやってきて、飾りやベンチをつくったら、おばちゃんたちがお新香をもってどんどん集まってきた(笑)面白いことがあれば見に来る、アンテナ感度が高い人たちが住んでいる」。
椎原さんは「江戸時代には、職人たちが象牙や鼈甲細工などでものをつくりお寺に納めていた。明治には彫刻家が集まり、近代にはインスタレーションがまちに出て行く。そうした歴史があるから、学生や卒業生がまちに出た時に、まちの人たちが受け止めてくれる。下宿・銭湯、食堂、額縁、筆、運送、アーティストの生活を支える地場産業もある」と語った。「95%の人がアーティストとして成功しないとわかっていても慈しみ、育てる、温情のあるまち。下宿代やご飯代代わりにお店に作品が残っていたりして。長い目で見て楽しみにしてくれる」。「まちに育てられている」という富塚さんも、椎原さんに「まずはご近所の挨拶回りや掃除から」など、たくさんのことを伝授してもらった。
また、「谷中妄想ツァーは、ホスピタリティーのイベントだ」と五十嵐さん。社会学者や教育学者の中には、『アーティストの職業的レリバンス(どんな役に立つのか)を言語化したほうがいい』と言う人もいると思う。実はすごいことをしているので、お金や雇用を生み出したり、ある種の職業に適した人材育成にもつながってそうなんですが、そちらが目的化すると芸術家のポテンシャルを縛っていく可能性もある諸刃の剣でもある」。スタンスはそれぞれでいいとしつつも、プロジェクトを行う者にとって共通の課題でもあった。

「エネルギーの大きさとマネジメントのしたたかな計算を感じた」という受講者から「方法論を書いたものがあればほしい」と要望されていた富塚さん。「オペラのような西洋的な空間より三味線の六畳間のような日本人スケールでやっていったほうが盛り上がるのでは? とか、エネルギーが消えすぎないうちに火をくべるタイミングとか。能書きだけでは人は来ないし、アートとしての力が抜きん出たものがやはり評価される、人間がアートの力への信頼を取り戻しやすいまちだともいえます」。
谷中では、まちのなかで作品を散りばめてマップで回るという手法がよくある。集まっている人たちや空気感が違う、歩いて回れる空間。一方で、都市開発で風景が変わってもいる。「対抗手段があることに気づいていないので、まちの人が自分から手に取ってほしいと思っています。若手を見出す「Denchu Labo」など、文化振興、福祉など社会的効果がある実例を集めていきたい」と椎原さん。
最後は「社会的価値をつくりながら、言語化しすぎないようにする。“公共化”と“結果として意義を見出していく”ことのあいだで、工夫しながら希望をつないでいけたらと思っています」という富塚さんの言葉で締めくくられた。

(執筆:白坂由里)
松本ひとみ
北澤潤八雲事務所
小田原のどか
アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(立川エリア)
Tokyo Art Research Lab 10周年を目前に、10年という時間軸でほかの活動も参照するべく全3回のレクチャーシリーズが行われた。地域を軸に展開するアートプロジェクトの実践者をナビゲーターに迎え、まちの変遷や時代ごとのアートシーンに精通したアーティストや研究者をゲストに交えながら振り返る。
第1回 立川エリア 2019年2月6日(水)
90年代、アーティストの創造拠点の走りだった「スタジオ食堂」
「立川には、“タチビ”と呼ばれる立川美術学院という美術予備校があり、武蔵野美術大学や多摩美術大学の学生やアーティストが数多く住んでいます。僕が浜松から上京してタチビに通った1987年、駅前はウィル(現ルミネ)や伊勢丹、髙島屋のある開発エリアで、駅から離れた周辺は村上龍の小説さながら米軍基地の名残が色濃く残っていました」とアーティストの笠原出さんは語る。笠原さんは90年代、若手作家が集まり自分たちの手で制作活動の道を拓いていた共同スタジオ「スタジオ食堂」(1994-2000)のメンバーの一人だ。笠原さんは当時から「笑い」をテーマに立体や絵画作品を発表している。
「レクチャー3」の初回は、デザイナーの丸山晶崇さんをナビゲーターとし、立川エリアを紹介した。丸山さんは立川美術学院で講師をしていた笠原さんに学んでおり、学生時代にスタジオ食堂を訪ねたことがある。インターネットが普及する以前で、スタジオ食堂に関する記録があまり残っておらず、笠原さんに記憶を聞く貴重な機会となった。丸山さんは、立川からほど近い谷保の民家を改装した「やぼろじ」の立ち上げに関わり、国立で地域文化と本の店「museum shop T」を運営するなど、グラフィックデザインの仕事をしながら、多摩を中心に地域の住民とアーティストやクリエイターなどの文化が交差するスペースを創造している。
東京都のほぼ中央に位置する立川市は、現在は人口18万人のベッドタウンだ。1922年に立川陸軍飛行場が開設され、戦後は米軍に接収されて「基地の街」として復興の道を辿ってきた。1977年に日本に返還されてからは、国営昭和記念公園と広域防災基地、立川駅に近い新たな商業・業務市街地の3つの区画に分けられた。1994年、この市街地整備にパブリックアートを導入した「ファーレ立川」が誕生している。北川フラムさんがディレクターを務め、車止め、ベンチや換気口など街の機能を持ち、ビルの合間を縫うようにして36カ国92人109点のアートが設置された。「基地の街」のイメージを変える「街なか美術館」の様相を呈し、現在も市民団体により普及活動が続けられている。
もとより立川および多摩地区とアートの縁は深く、1986年から現在まで続く「石田倉庫アトリエ」(中村政人を中心に、石田産業の旧小麦粉倉庫を利用して開設された共同アトリエ)のように、都心より安い賃料で広いスペースをシェアする共同アトリエが多数存在してきた。「僕と中村哲也と藤原隆洋は東京藝術大学の大学院を出て、須田悦弘は多摩美術大学卒業後勤めていたデザイン会社を辞めて、作家活動に入ろうとしていました。須田は当時立川に住んでいて、大きい物件を見つけたことを中村に伝え、僕と藤原、そして中山ダイスケに声をかけます。中山は1学年上の先輩で、すでに作家として知られていました。藤原以外の4人は立川美術学院デザイン科からのつながりがありました」。

倒産したリッカーミシンの工場跡を倉庫として貸しており、社員食堂があった3階を借りた。階段は錆び、雨漏りもするが天井高は6m、契約では全体(約300坪)の半分を借りていたが、スペースはまるまる空いていた。「5人で建物に入った初日は興奮して、とりあえずサッカーをしました(笑)。制作中に出る音や匂いも近隣を気にしなくていいし、門限もないので一晩中制作できる環境でした」。最初の設備投資のために、それぞれ貯金を貯めて一人頭20万ほど集めた。1人30坪くらいで区画を決めて壁を立て、真ん中に大きい廊下をつくって共有スペースに。食事をしたり、仮眠ができるソファを入れたり。入口にプレゼン用の展示スペースも設けた。
「当時は美術界のシステムを全然知らなかったので手探りでした。書類などマネジメントは須田くん。ロゴを中国系ドイツ人デザイナーにデザインしてもらい、全員名刺もつくりましたね。中山くんが施工計画や広報に長けていて、学芸員、ギャラリスト、新聞や雑誌記者、ライターなどが訪れ、いろいろな作家の現場が見られるとみな楽しんでくれました」。東京在住アーティストのピーター・ベラーズさんが撮影した当時の映像には、音楽を聴きながら爆音で作業していた様子も登場した。スタジオができる前の1993年、須田さんは植物の木彫をしつらえた茶室のような空間をつくり、コインパーキングで仮設展示するというゲリラ的デビューを果たしていた。中山さんをはじめ若手作家たちは、当時は貸画廊が主流だった美術制度から逃れて新たなチャンスをつくろうとしていたのだ。

そうした活動が美術界やメディアから注目されるにつれ、作家も坂東慶一など数名が参加。ほかのスペースにも入居者が増えていった。しかし人気に乗じて家賃が値上げされる。さらに1996年末にはNTTドコモ立川ビルの新築によって退去を言い渡された。「最後に、明和電機や八谷和彦さんなどを呼んで『STARTS』という展示やパフォーマンスのイベントを開催しました。東京造形大学で芸術学を学ぶ学生などがボランティアをやってくれて。一日(10時間)限りのイベントでしたが800人も来場があり、入場料は引っ越し資金に充てました」。
アートを通じて、人と人とがコミュニケーションする場に
閉鎖後から準備に半年かけ、1997年、立飛栄地区に移転した。立飛(たちひ)の前身は戦闘機を製造していた石川島飛行機で、戦後は立飛企業となって倉庫賃貸業を営んでおり、その一角を借りることにした。「スタジオ食堂」第2期にはプロデューサーとして菊地敦己さんと沼田美樹さんが参加し、共同スタジオというだけでなく、「社会とのコミュニケーション」という機能を持たせようと、オープンスタジオや展覧会を始める。天井が高く100坪くらいの精肉工場跡をスタジオとしてシェアするほか、事務所とギャラリー、倉庫を併設。電機など初期設備を整えた。「パラソルを立てて、来てくれた人と話ができる場所もつくり、カップベンダーも設置したんですよ」。武蔵美から自転車で移動できる距離になり、訪れる学生も増えていく。作家はほかに佐藤勲、眞島竜男、小金沢健人、池田光宏、田代悦之、フロリアン・クラールが加わるなど閉鎖する2000年まで変動があった。


「プロジェクトスペースとして、天井高4メートル、6畳ほどのギャラリーをつくり、主に菊地ディレクションで企画展を行っていきました。その第一弾は須田悦弘展で約600人が来場しました」。メセナが盛んな時代で、菊地さん・沼田さんがプレゼンテーションに行き、展覧会やレクチャーに助成を得ることができた。例えばフェリックス・バルザー展はドイツ大使館、大岩オスカール展ではブラジル大使館が後援。マチュー・マンシュ展ではフランス大使館やミナ(現ミナ・ペルホネン)の協賛を受ける。また、マチュー・マンシュ展では市内の中高生とワークショップも行った。入場料は無料でスタートしたが、運営のため300円〜500円で設定した。最初は平日も開催していたが、金土日曜のみに変更した。
「写真家の安斎重男さんに、この年のミュンスター彫刻プロジェクトの写真展示と報告を依頼しました。また翌週、美術ジャーナリストの新川貴詩さんと、作家でインディペンデント・キュレーターのユミソンさんがヴェネツィア・ビエンナーレ、ドクメンタなどについて帰国報告をした。ネットがまだそれほど普及しておらず、海外情報をポスターや雑誌から得ていた時代に、生の声は貴重でした」

また、企業4社(のちに5社)と美術研究者による研究会『ドキュメント2000』から「町内会プロジェクト」への助成があった。立飛に入居している会社でイベント告知の回覧板を回してもらい、作家と話しながら作品を見てもらうビアパーティーなどを開き、普段接する機会のない職種の方々との交流の機会をつくった。教育普及活動に熱心な美術館はまだ一部で、ギャラリーではコレクター以外とはあまり会話のない時代。作品を介した人と人とのコミュニケーション活動を模索してきた菊地さんと沼田さんだったが、1997-98年の2年間参加して脱退する。その後もスタジオ外部の作家を招く姿勢やイベントを開く活動は維持され、藤原隆洋企画で謝琳展、眞島竜男企画「ダブルポジティブ」展などがあった。そして2000年3月、メンバーが30歳を迎え、各自の制作に集中すべく解散した。「僕らをバンドになぞらえた人もいましたが、やっぱり10年続けるのは大変。濃縮された6年間でした」。
再開発にまつわる活動よりも他地域のオルタナティヴとつながっていた
後半のディスカッションでは、丸山さんからこんな質問があった。
「共同スタジオは、もの派や関西の具体美術活動のように運動体として語られることはあっても、スタジオ自体が語られることはあまりない。スタジオ食堂に共通のイデオロギーはなく、経済的負担を減らすためにスペースをみなで借り、個々に自身の制作活動をしていたんですよね? アーティストが集まる場所になっていったのはなぜでしょう?」。それに対して「情報が欲しかったんだと思います。ファイルの作り方やプレゼンの仕方など、どうやったらアーティストになれるか解らなかったから、むしろいろいろなことがやれたのではないでしょうか」と笠原さん。丸山さんは「昨年で6年を超えた橋本エリアの『相模原オープンスタジオ (S.O.S)』も最初からスタジオビジットがあったのではなく、横につながったのは後からですね」と昨今の共同スタジオの一例も示した。
会場から解散理由について「プロデューサー2名が抜けたことが大きかったのでは。経済的負担が理由でしょうか?」という質問があった。「プロデューサーに給金の支払いはしたいという話もありましたが、家賃が高く、何年も実施できなかったのは事実です。ほぼ運営参加費で賄っていて、アーティストもプロデューサーも手弁当でした。お金のこともそうですが、自己主張の強い20代でしたので作家間に軋轢が生じたり、複合的な理由からだと思います」と笠原さん。非営利な任意団体の活動に対する支援を企業から引き出したことは画期的なことだったが、「それはとても嬉しかったのですが、やはり家賃は計上できないよねということで、代わりに展覧会をする感じになっていったんだと思います。はじめはよかったのですが、メンバーそれぞれ自らの作家活動で忙しくなると、ほかの作家の展覧会のために時間を奪われることがつらくなっていきました。最終的には自分の作品をつくるためにスタジオを借りるという原点に立ち戻っていったんです」。
また、丸山さんは、1998〜2002年に開催された立川国際芸術祭についても概略を紹介した。最初は地元からはじまり、2回目の1999年にアートディレクターの清水敏男さんがディレクターを務めている。2回目には「LOVE」をテーマに、アジア諸国を中心に11カ国48作家および団体が立川駅からモノレールの各駅、公園などに作品を設置した。笠原さんによれば、最初はスタジオ食堂という団体に声がかかったが、作家個々に判断することにしたという。「僕や中村哲也、田代悦之、池田光宏(当時はいけだみつひろ)が個々に参加して、新しくオープンした駅ビルのグランデュオ、モノレール駅などに作品を展示しました」。
スタジオ食堂は、再開発と絡んだ立川国際芸術祭やファーレ立川との結びつきはほとんどなかった。むしろ、三田にあったオープンスタジオNOPEや名古屋の.dot、昭和40年会など、地域を超えたオルタナティヴな団体との交流があった。また、海外のキュレーターなどが日本にリサーチに訪れるときに見学コースに入るようにもなっていく。「交通が多少不便でも、広い場所で質の高いものが見られるから行く価値がある」という口コミが広がっていた。笠原さんは「当時はヨーロッパから関西へ行くことが多かったんです。ダムタイプや須田くんなどが出品した『どないやねん』という日本の現代美術をパリで紹介した展覧会のリサーチもメインは京都だった。そういったインディペンデントな展覧会のリサーチはスタジオ食堂にも多く来るようになりましたね」と語っていた。
最後に、丸山さんから新しい立川でのプロジェクトとして、ファーレ立川に隣接する「グリーンスプリングス」にアート作品を設置する「立飛パブリックアートアワード2020」が紹介された。立川駅周辺では現在もアートが立ち上がるムーブメントが続いている。
(執筆:白坂由里)

白坂由里
みんなで看取れば怖くない?―生活圏のフレンドリーな死を考える
2018年10月から毎月1回開催してきた対話シリーズ「ディスカッション」、その最終回となる第5回が2019年2月20日(水)に行われました。今回タイトルに掲げられたのは「みんなで看取れば怖くない?―生活圏のフレンドリーな死を考える」。モデレーターのアーツカウンシル東京プログラムオフィサー、大内伸輔は「少子高齢化が問題になり、2030年の日本では年間160万人が亡くなるという予測も出ています。自分にとって身近な人の死はインパクトが強く、人生のターニングポイントになるものだと言えます」と述べたうえで、そういった『死』に対してどう向き合えばいいか、アートプロジェクトとして何かつくることはできないかと考え、今回のゲストの一人である指輪ホテルの芸術監督、羊屋白玉さんがディレクターとなったとアートプロジェクト「東京スープとブランケット紀行」について解説しました。

このプロジェクトは、アーツカウンシル東京が展開する事業「東京アートポイント計画」の一つとして展開されました。羊屋さんが22年間ともに暮らした猫を2012年に亡くしたことをきっかけに、2014年から3年間にわたり猫の月命日に羊屋さんの住む江古田にさまざまな人が集まり、そこでスープをつくって一緒に食べ、語る時間を持つことが活動の中心。2017年には活動を「Rest In Peace, Tokyo」として外に開き、同年10月には斎場を借り、羊屋さんが猫への弔事を読みあげました。映像、戯曲、記録集として活動の成果がまとまっています。
「どうしてスープなのかと言うと、猫が倒れて私が看病しているときに、友人が鍋にスープを入れて持ってきてくれたんです。さらに亡くなるまでのあいだ、徐々に体温が下がっていくときに友人がブランケットで包んでくれたり。それがプロジェクト名の由来となっています」と羊屋さんは説明し、さらに「猫が亡くなったときに、どういうふうに弔いたいかを考え、剥製にしたいとかいろいろ思ったんですけど、結局大家さんの家の庭にある桜の木の下に埋めました。スープを囲みながら個人的な課題をみんなで集まってどうしたらいいか向き合う時間の中で、大内くんが『みんなで看取れば怖くない』と言ったことが印象的でした。毎月みんなで集まることが、喪失の予行練習だったんじゃないかなと思います」と言うと、大内は「都市生活では、今回のタイトルのような『生活圏のフレンドリーな死』が失われていると思っています。私の田舎では家の後ろに墓地があるので、墓参り、墓掃除が日常の中にあり、死へのある種の準備ができている。でも都市ではその親密さのようなものが失われているように感じます」と応答。
続けて羊屋さんが、「越後妻有アートトリエンナーレで作品をつくったときに(2015年制作『あんなに愛しあったのに~津南町大倉雪覆工篇』)、会場の津南町に縄文ムラがありました。そこは集落の真ん中に柱が建っていて、そのまわりにお墓があり、家々の入り口がお墓のほうを向いているんです。これはアパートの真ん中にお墓があって、玄関がそこに向いているようなものだけど、現代の人はこれに耐えられるだろうかと思いました」と述べ、古代と現代では死への距離、考え方が異なることについて触れました。

続いてもう一人のゲスト、金沢21世紀美術館キュレーターの髙橋洋介さんは、現代において生と死の意味が変化してきていることを実例を交えて紹介されました。
最初に、髙橋さんが企画で携わった展覧会である、東京・表参道のGYREで行われた「2018年のフランケンシュタイン」を通して、生の変化が語られました。ここでは、小説『フランケンシュタイン』が1818年の発表から200年を迎えたことにあわせ、『フランケンシュタイン』が提起した問題と通底する主題を立て、バイオアートの作品を展示しました。その中の一つ、ディムット・ストレーブという作家の作品「Sugababe」は、ゴッホの子孫の細胞、DNAをもとに、ゴッホが切り落とした左耳を生きた状態で復元したもの。これについて髙橋さんは「バイオアートの問題として、死者の蘇生を取り扱うことが挙げられます。神話にも死者の蘇生は表されていますが、あくまでもそれは比喩でしかありませんでした。しかし、それが現代においては意味が変わってきています」と述べ、「不死化細胞」と呼ばれる、細胞老化を回避して連続的な細胞分裂能力を持った細胞が存在することを挙げ、「細胞レベルで見ると『死なない』ものがある。そこに違和感を覚えました。誰もが逃れられないもの、避けられないものとして死を捉え、生と対立するものとして描いてきた従来の前提が覆るようなテクノロジーが出てきたと言えます」と説明。
また、死の変化に対応するものとして、髙橋さんが金沢21世紀美術館で企画した展示「DeathLAB:死を民主化せよ」について説明いただきました。コロンビア大学のDeathLABは都市における死をめぐるさまざまな問題について、宗教学や建築学、地球環境工学、生物学などを横断して探求をする研究所。そのDeathLABを主催するコロンビア大学准教授のカーラ・ロススタインとともに、現代の死のあり方について発表した展示が「DeathLAB:死を民主化せよ」です。
さらに都市の死にまつわる状況として、死者が増え、墓地や葬儀の空間的、時間的余裕がなくなっていることに触れました。たとえば現在の東京は、亡くなっても火葬まで2週間待ち、墓地が空くまで数年待ち、という問題も出てきました。国内の孤独死者数も推定3万人と言われるなど、身寄りのない人や子どものいない人の死も増えています。「墓地は都市の郊外に阻害され、死に触れる機会そのものが少なくなりました。さきほど羊屋さんが言っていたように、縄文時代はもっと死が身近なものとしてありましたし、大内さんがお話ししていたような家と墓地が密接な距離にあるというのも、18世紀くらいまでの日本では普通のことでした。お盆の時期に死者が一時帰ってきて、また彼岸に戻っていく、というような『死者が自分たちを見守っている』ような考えがこれまでの価値観だとすれば、いまでは『見てはいけないもの』へと死者のあり方が変わってしまいました」。
都市における「死」を考えるDeathLABが誕生したきっかけには、2001年のワールド・トレード・センター倒壊で亡くなった民族や宗教の異なる3000人もの犠牲者をどのように弔うのか、という問題意識がありました。その中で展開されたものとして、「コンスタレーション・パーク」というプロジェクトが紹介されました。これはニューヨークのマンハッタンとブルックリンを結ぶマンハッタン橋の下を、弔いのメモリアルパークにしようという考えのもと、遺体をバクテリアで生分解する中で発生するエネルギーによって橋を光らせるというもの。ニューヨークはそもそも死者を土葬で葬りますが、そのための土地もなくなりつつあり、自然葬にも限界があるそうです。しかし亡くなった人をすべて火葬にすると二酸化炭素の排気量が膨大なものになってしまい、自然環境への影響が考えられるとのジレンマが。このような前提を踏まえたうえで、たとえば「コンスタレーション・パーク」のようなオルタナティブでエコロジーな死のデザインを考える必要があります、と髙橋さん。「別の例を挙げれば、福原志保さんというアーティストがロンドンで設立したバイオプレゼンス社が、故人のDNAを木の細胞に保存して、それをお墓にするという試みを行いました。外見は木だけれど、DNAのレベルでは人間という、同一個体に異なる遺伝情報を持つ細胞がある『キメラ』だと言えます。日本では墓石の代わりに樹木を墓標とする樹木葬などがあり、そこまで批判的な意見は出ていないようですが、キリスト教圏ではこの試みはグロテスクだと批判されました」として、テクノロジーを応用した「オルタナティブでエコロジーな死のデザイン」と、それに対する既存の倫理観の折り合いをつけることには難しさがあると説明しました。
またここで、歴史的な「死」のあり方について考えを巡らせました。秋田県鹿角市にある大湯環状列石は、日時計になっているストーンサークルの下に死者を埋葬していました。死者が大地とつながり、時間、季節が循環する中で生者にさまざまな恵みを与えていることを表現する文化的システムとして解釈できます。このような死生観は近代になればなるほど失われてきました、と髙橋さんは言い、「歴史家のフィリップ・アリエスは西洋の2000年の歴史を振り返り、死の類型を整理しました。一つ目、『飼いならされた死』はどの時代にも共通してある、運命としての死です。その後、中世に現れたのは『己の死』。これは教育が進んだことによる、『私は他の誰でもない私』という考え方です。
次いで、18世紀に現れた『他者の死』は、産業革命が起こり、次第に死が非日常となっていく中、ロマン主義文学が他者の死を過剰な言葉で修飾したように、かけがえない友や家族の死を悲劇として悼むというものです。そして現代における死は『タブー視される死』。第二次世界大戦以降顕著になってきていることで、人は生きるためというより死ぬために病院か介護施設に隔離され、心電図などを測定されるなど、死は自分で悟るものではなく、専門家や技術によって測られるものになってしまいました。死と死者は、スムーズで幸せな日常を邪魔するものとして隔離されてしまいました」と解説。
そのうえで、DeathLABがやっていることは、古代の人たちが触れていたようなあたたかい死者との関係をどうやって取り戻すかということであり、「死を民主化せよ」と言うのも、お金や家族、宗教がなくても、あらゆる人が都市で平等に死ぬことができるようにするためだと言います。

ここで、これまでの話を受けて大内は「死を民主化するというのは、隔離された死を自分たちのもとに取り戻していくことだと思いました。『東京スープとブランケット紀行』がやっていたことも、そういった考える時間をつくることでした」と言い、羊屋さんの話をどのように聞いたかと髙橋さんに問うと、「羊屋さんがやってきたことは、つながりを取り戻すことだと感じました。死にも三人称の死と一人称の死があります。三人称の死というのは概念としての死。でもいざ自分が死ぬとなると、そこでの死とどう向き合っていいのかわからない。それが一人称の死であり、個別具体的なものなんです。一人称の死の孤独と向き合うときに大事なのが、つながることだと思います」と応え、羊屋さんは「私の場合、猫が倒れたときに、その猫の死という三人称と、自分がどうしていくかという一人称を行ったり来たりしていました」と応答、さらに髙橋さんは「アメリカの精神科医、エリザベス・キューブラー=ロスは、死と向き合う人間に重要なのは、ある種の親しみやつながりだと言っています。自分の死は誰しも未知だからどう向き合っていいかわからない、だからこそ自分の親しいものに囲まれ、安心感に包まれてこの世界を去ることが幸福な死だ、と」と話をまとめました。
最後に会場から、自殺についてDeathLABではどう扱っているのか、という質問も。髙橋さんは、「DeathLABは死んだ後のことを考えているので、自殺自体を扱ってはいません」と前置きをしたうえで、いまの社会が生きることを特権化しすぎており、死ぬことの権利、死を選択することの尊厳があると思うと発言。「生きることは死ぬことと切り離せない。エリザベス・キューブラー=ロスが言うには、『死は成長の最終段階』。どんな死も生きている人にとって、『あなたはいまをいかに生きるか』と問いかけるメッセージと思うことが大事だと思います」と応えました。
また戦国武将が戦に自分の生き様を示す鎧をまとって戦いに臨むことを話題に挙げ、その行為は生きることと死ぬことが表裏一体であり、ユーモアを持って戦場に赴いていると髙橋さんは指摘。それに対し羊屋さんが「信仰と遊びが一緒にある、その感覚を持っていなきゃいけないと思いました」と言い、この回は幕を閉じました。
資本主義の発達と並走してテクノロジーの進化が目まぐるしく起こり続けている現在において、近代以降失われた「生活圏のフレンドリーな死」=「死の身近さ」をいかに奪還するか。そこには、お互いに顔の見えるコミュニティで話をしながら、自分にとっての「親密な死」を考え続ける道と、テクノロジーを自分たちの手に簒奪するような形で見たことのない「親密な死」を創造していく道、その二つが重なりあいながら、ずれながら並行していく、そんな可能性があるのではないかと思ったディスカッションでした。
(執筆:髙橋創一)
2018年、5つの「東京プロジェクトスタディ」報告会
Tokyo Art Research Lab「思考と技術と対話の学校」にて6か月にわたり展開した「東京プロジェクトスタディ」。今回は、2月24日(日)に開催した報告会の様子をお届けします。
“東京で何かを「つくる」としたら”という投げかけのもと、5組のナビゲーターが参加者と共にチームをつくり、それぞれが向き合うテーマに沿ってスタディ(勉強、調査、研究、試作)を重ねる「東京プロジェクトスタディ」。企画や作品など「かたち」にすることは必須とせず、決められているのは初動のみ。内容や進め方は、活動を展開しながら設定していきました。5組のスタディが、半年間どのような活動を行ってきたのか。プロジェクトがかたちになる前の「種」と向き合った各スタディの変遷や断片にふれる半日となりました。
スタディ1 「東京でつくる」ということ―前提を問う、ことばにする、自分の芯に気づく
ナビゲーター:石神夏希 (劇作家/ペピン結構設計/NPO法人場所と物語 理事長/The CAVE 取締役)、スタディマネージャー:嘉原妙 (アーツカウンシル東京プログラムオフィサー)

スタディ1は、「東京でつくること」を入口に、参加者それぞれが抱えている課題や関心について徹底的に対話し、スタディをへて芽生えた気づきや問いを参加者一人ひとりがエッセイにまとめていきました。毎月ディスカッションと書くことを繰り返しながら、東京でつくるということ、自分とつくることの関係について思考を重ねたこのスタディでは、東京との物理的な距離もさまざまなつくり手をゲストに招き、彼らの活動をケーススタディにディスカッションを展開。ときには言葉を離れ、映像をとおして東京について考えるワークショップも行いました。
報告会では、スタディ1のメンバ―が考えた質問を軸に、会場全体で、東京について、つくることについて、思考を巡らせる時間をもちました。「あなたは東京の一部ですか?」「いまの東京はおもしろいですか、おもしろくないですか?」「あなたにとって東京とつくることとの間には関係がありますか?」などの質問が投げかけられ、Yes/No に分かれて考えを述べあうなど、スタディ1が向き合ってきたものにふれる時間となりました。

スタディ2 2027年ミュンスターへの旅
ナビゲーター:佐藤慎也 (建築家、プロジェクト構造設計)、居間 theater (パフォーマンスプロジェクト)、スタディマネージャー:坂本有理 (アーツカウンシル東京プログラムオフィサー)

という言葉を背景にパフォーマンスが進む。
1977年よりドイツのミュンスターにて10年に1度開催されている「ミュンスター彫刻プロジェクト」。スタディ2は、次回2027年に同プロジェクトに招聘されることを目指し、勉強やリサーチを重ねました。報告会では、活動のプロセスやエッセンスをパフォーマンス仕立てで紹介。ナビゲーターとミュンスターとの出会いからはじまり、村田真さん(美術ジャーナリスト)、小田原のどかさん(彫刻家)、今和泉隆行さん(空想地図作家)らをゲストに「ミュンスター彫刻プロジェクト」や「彫刻」について学んだこと、彫刻の概念やその拡張など議論したテーマにもふれていきます。
「東京藝術大学美術学部の前身となる東京美術学校が開校した1887年から2027年までの間10年ごとに、東京のまちなかに公共彫刻を設置する『東京彫刻計画』というプロジェクトがおこなわれている」というフィクションをベースに、都内に点在する彫刻をマッピングし、実際に歩いてみてまわった経験をへての気づきや問い、さまざまな文脈で設置された彫刻についてのエピソードも織り交ぜながら、「彫刻とは何か」という問いを巡る思考の変遷を辿りました。

スタディ3 Music For A Space—東京から聴こえてくる音楽
ナビゲーター:清宮陵一 (音楽レーベルVINYLSOYUZ LLC 代表/NPO法人トッピングイースト 理事長) スタディマネージャー:大内伸輔 (アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

音楽産業と公共空間における音楽のあり方や融合の可能性を探ることを目指し、さまざまな角度から音楽に携わるゲストを招きディスカッションを重ねたスタディ3。「人生で最も影響を受けた曲」を紹介し、エピソードを話し合った初回にならい、まずは会場全体で、人生の一曲を付箋に書いて貼り出すところからはじまりました。ゲストゆかりの場所を訪れながらおこなわれた全11回のスタディについて、「経済活動」「社会活動」「実践」「消費」の4点からなる座標軸をもちいてふりかえりました。

後半のディスカッションでは、スタディをとおして4つの座標でいまの音楽業界のあり方と向き合ってみたけれど、経済活動と社会活動をいったりきたりしていたりと、どちらか一方だけということではなく、それぞれの座標がクロスしたりまざりあったりしていることもあるのではないかという対話もなされました。参加者からは、自分が知っている音楽の体験はまだまだ狭かった、ステレオタイプだったなど、スタディの感想が話されました。

スタディ4 部屋しかないところからラボを建てる—知らないだれかの話を聞きに行く、チームで思考する
ナビゲーター:瀬尾夏美、小森はるか、礒崎未菜 (一般社団法人NOOK)、スタディマネージャー:佐藤李青 (アーツカウンシル東京プログラムオフィサー)

スタディ4は、メンバ―それぞれの関心をもちより、いっせいに調べ、それをまた共有し、反応し、価値化する活動をおこなってきました。「聞くという行為にはかならず相手がいます。相手が語ったことを聞く。そこで一度編集が入ります。共有する場で語り直す。そしてまた編集が入る。そのことを恐れるのではなく、編集がかかってしまうことを前提にしたうえで、うまく共有する仕組み自体を考えられたらおもしろいのではないか。それは、チームで思考する態度やあり方を共有することから始められるのではと考えました」とナビゲーターの瀬尾さんは語ります。
思ったよりもできなかったことは「聞く」ことだったといいます。語り手に会いに行く筋道(アポイントメントの取り方)、聞いたあとどうするのか(アウトプット)が未定だったり、親密な相手に聞くことで関係性が変わるのではという恐怖感が先に立ってしまうという状況もおきていたとのこと。「まずはとにかくおしゃべりして、『聞くこと』をはじめるために必要なものを考えていきました。そうしたなかで、活動が公的なものとなるような仕組みをつくろうという方向性も出てきました。」とファシリテーターの小屋さんはいいます。
繰り返し一緒におしゃべりしたことで、だれかの関心事が身体にしみついて、変わっていくといったように、ラボで話したことが徐々に実装されていき「聞こえる身体」になった感覚が芽生えていったようです。互いの言葉を聞き合いながら、いま東京にある問題系や関心事を知り、そこから誰かに話しを聞きにいき、また戻ってきて、共有することを試みながら、その価値を読み深めていく。東京という大きな都市の片隅に、既存の答えを求めるわけではない、余白のような場を立ち上げていく過程が紹介されました。

スタディ5 自分の足で「あるく みる きく」ために―知ること、表現すること、伝えること、そしてまた知ること(=生きること)
ナビゲーター:宮下美穂(NPO法人アートフル・アクション 事務局長、スタディマネージャー:佐藤李青(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

3名のゲストアーティスト(揚妻博之さん、大西暢夫さん、花崎攝さん)と直接対話したり、作品制作の過程にふれながら、自分自身の表現やリサーチを深めていったスタディ5。さまざまなワークショップを組み込みながら活動が展開されていきました。たとえば、2人1組でひとりが目隠しをし、パートナーに連れられて音をきいたり、匂いをかいだり、周りが見えない状態で空間を経験する「ブラインドウォーク」。ほぼ初対面なのに身を預けなくてはならず、普段はしない経験だったと参加者は語ります。その他にも、演劇のメソッドをもちいて演じてみたり、ひもや竹の棒などささやかな道具をつかって身体の拡張や人との距離を意識するよう身体を動かしてみたり、詩を書いて朗読したり、他者の呼吸や間合いを意識するようなことも。野宿の経験をエッセイにしたり、身近な人を写真に撮ってくるという宿題が出たこともありました。
その宿題をきっかけに、そんなときに思い浮かぶ「身近な人」がいないと気づく人もいたとのこと。表現をするというのは、こんなにも自分のことをさらけだすんだなと、その辛さがわかったとある参加者はいいます。ときには参加者からの問いかけにアーティストが答えに窮することもあったそうです。そんなときは、次の回でまたそのことについて、アーティストと参加者が対話を重ね、連続して展開されるスタディならではの関係性が育まれて行ったようです。「表現はアウトプットがすべてとは思っておらず、表現することによってまた新しい何かがはじまると思っている。」と宮下さんは語りました。

報告会の最後には、「この5つのスタディが、新たなプロジェクトにつながっていくのか、そうでないのかはわかりません。そうした明解ではない困難さが、新たなことを生み出そうとするスタディならではなのだと思います。みなさんは、スタディをとおして自分たちの立ち位置を探る。そしてその基点から、さまざまな方向に、表現と向き合う入口を探していくような時間を過ごされたのではないかと感じました」と森校長が締めくくりました。
半年間のスタディをへて生み出されたものとは何だったのか。TARLでは、それぞれの活動の展開を今後も見守っていきたいと思います。
