アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(立川エリア)

Tokyo Art Research Lab 10周年を目前に、10年という時間軸でほかの活動も参照するべく全3回のレクチャーシリーズが行われた。地域を軸に展開するアートプロジェクトの実践者をナビゲーターに迎え、まちの変遷や時代ごとのアートシーンに精通したアーティストや研究者をゲストに交えながら振り返る。

第1回 立川エリア 2019年2月6日(水)

90年代、アーティストの創造拠点の走りだった「スタジオ食堂」

「立川には、“タチビ”と呼ばれる立川美術学院という美術予備校があり、武蔵野美術大学や多摩美術大学の学生やアーティストが数多く住んでいます。僕が浜松から上京してタチビに通った1987年、駅前はウィル(現ルミネ)や伊勢丹、髙島屋のある開発エリアで、駅から離れた周辺は村上龍の小説さながら米軍基地の名残が色濃く残っていました」とアーティストの笠原出さんは語る。笠原さんは90年代、若手作家が集まり自分たちの手で制作活動の道を拓いていた共同スタジオ「スタジオ食堂」(1994-2000)のメンバーの一人だ。笠原さんは当時から「笑い」をテーマに立体や絵画作品を発表している。

「レクチャー3」の初回は、デザイナーの丸山晶崇さんをナビゲーターとし、立川エリアを紹介した。丸山さんは立川美術学院で講師をしていた笠原さんに学んでおり、学生時代にスタジオ食堂を訪ねたことがある。インターネットが普及する以前で、スタジオ食堂に関する記録があまり残っておらず、笠原さんに記憶を聞く貴重な機会となった。丸山さんは、立川からほど近い谷保の民家を改装した「やぼろじ」の立ち上げに関わり、国立で地域文化と本の店「museum shop T」を運営するなど、グラフィックデザインの仕事をしながら、多摩を中心に地域の住民とアーティストやクリエイターなどの文化が交差するスペースを創造している。
 
東京都のほぼ中央に位置する立川市は、現在は人口18万人のベッドタウンだ。1922年に立川陸軍飛行場が開設され、戦後は米軍に接収されて「基地の街」として復興の道を辿ってきた。1977年に日本に返還されてからは、国営昭和記念公園と広域防災基地、立川駅に近い新たな商業・業務市街地の3つの区画に分けられた。1994年、この市街地整備にパブリックアートを導入した「ファーレ立川」が誕生している。北川フラムさんがディレクターを務め、車止め、ベンチや換気口など街の機能を持ち、ビルの合間を縫うようにして36カ国92人109点のアートが設置された。「基地の街」のイメージを変える「街なか美術館」の様相を呈し、現在も市民団体により普及活動が続けられている。

もとより立川および多摩地区とアートの縁は深く、1986年から現在まで続く「石田倉庫アトリエ」(中村政人を中心に、石田産業の旧小麦粉倉庫を利用して開設された共同アトリエ)のように、都心より安い賃料で広いスペースをシェアする共同アトリエが多数存在してきた。「僕と中村哲也と藤原隆洋は東京藝術大学の大学院を出て、須田悦弘は多摩美術大学卒業後勤めていたデザイン会社を辞めて、作家活動に入ろうとしていました。須田は当時立川に住んでいて、大きい物件を見つけたことを中村に伝え、僕と藤原、そして中山ダイスケに声をかけます。中山は1学年上の先輩で、すでに作家として知られていました。藤原以外の4人は立川美術学院デザイン科からのつながりがありました」。

「スタジオ食堂」旧リッカーミシン工場時代外観。

倒産したリッカーミシンの工場跡を倉庫として貸しており、社員食堂があった3階を借りた。階段は錆び、雨漏りもするが天井高は6m、契約では全体(約300坪)の半分を借りていたが、スペースはまるまる空いていた。「5人で建物に入った初日は興奮して、とりあえずサッカーをしました(笑)。制作中に出る音や匂いも近隣を気にしなくていいし、門限もないので一晩中制作できる環境でした」。最初の設備投資のために、それぞれ貯金を貯めて一人頭20万ほど集めた。1人30坪くらいで区画を決めて壁を立て、真ん中に大きい廊下をつくって共有スペースに。食事をしたり、仮眠ができるソファを入れたり。入口にプレゼン用の展示スペースも設けた。
 
「当時は美術界のシステムを全然知らなかったので手探りでした。書類などマネジメントは須田くん。ロゴを中国系ドイツ人デザイナーにデザインしてもらい、全員名刺もつくりましたね。中山くんが施工計画や広報に長けていて、学芸員、ギャラリスト、新聞や雑誌記者、ライターなどが訪れ、いろいろな作家の現場が見られるとみな楽しんでくれました」。東京在住アーティストのピーター・ベラーズさんが撮影した当時の映像には、音楽を聴きながら爆音で作業していた様子も登場した。スタジオができる前の1993年、須田さんは植物の木彫をしつらえた茶室のような空間をつくり、コインパーキングで仮設展示するというゲリラ的デビューを果たしていた。中山さんをはじめ若手作家たちは、当時は貸画廊が主流だった美術制度から逃れて新たなチャンスをつくろうとしていたのだ。

「スタジオ食堂」旧リッカーミシン工場時代 笠原出さんのブース。

そうした活動が美術界やメディアから注目されるにつれ、作家も坂東慶一など数名が参加。ほかのスペースにも入居者が増えていった。しかし人気に乗じて家賃が値上げされる。さらに1996年末にはNTTドコモ立川ビルの新築によって退去を言い渡された。「最後に、明和電機や八谷和彦さんなどを呼んで『STARTS』という展示やパフォーマンスのイベントを開催しました。東京造形大学で芸術学を学ぶ学生などがボランティアをやってくれて。一日(10時間)限りのイベントでしたが800人も来場があり、入場料は引っ越し資金に充てました」。

アートを通じて、人と人とがコミュニケーションする場に

閉鎖後から準備に半年かけ、1997年、立飛栄地区に移転した。立飛(たちひ)の前身は戦闘機を製造していた石川島飛行機で、戦後は立飛企業となって倉庫賃貸業を営んでおり、その一角を借りることにした。「スタジオ食堂」第2期にはプロデューサーとして菊地敦己さんと沼田美樹さんが参加し、共同スタジオというだけでなく、「社会とのコミュニケーション」という機能を持たせようと、オープンスタジオや展覧会を始める。天井が高く100坪くらいの精肉工場跡をスタジオとしてシェアするほか、事務所とギャラリー、倉庫を併設。電機など初期設備を整えた。「パラソルを立てて、来てくれた人と話ができる場所もつくり、カップベンダーも設置したんですよ」。武蔵美から自転車で移動できる距離になり、訪れる学生も増えていく。作家はほかに佐藤勲、眞島竜男、小金沢健人、池田光宏、田代悦之、フロリアン・クラールが加わるなど閉鎖する2000年まで変動があった。

「スタジオ食堂」立飛時代外観。
「スタジオ食堂」立飛時代内観。

「プロジェクトスペースとして、天井高4メートル、6畳ほどのギャラリーをつくり、主に菊地ディレクションで企画展を行っていきました。その第一弾は須田悦弘展で約600人が来場しました」。メセナが盛んな時代で、菊地さん・沼田さんがプレゼンテーションに行き、展覧会やレクチャーに助成を得ることができた。例えばフェリックス・バルザー展はドイツ大使館、大岩オスカール展ではブラジル大使館が後援。マチュー・マンシュ展ではフランス大使館やミナ(現ミナ・ペルホネン)の協賛を受ける。また、マチュー・マンシュ展では市内の中高生とワークショップも行った。入場料は無料でスタートしたが、運営のため300円〜500円で設定した。最初は平日も開催していたが、金土日曜のみに変更した。

「写真家の安斎重男さんに、この年のミュンスター彫刻プロジェクトの写真展示と報告を依頼しました。また翌週、美術ジャーナリストの新川貴詩さんと、作家でインディペンデント・キュレーターのユミソンさんがヴェネツィア・ビエンナーレ、ドクメンタなどについて帰国報告をした。ネットがまだそれほど普及しておらず、海外情報をポスターや雑誌から得ていた時代に、生の声は貴重でした」

「Talk on Art vol.1 part1 ヨーロッパ国際美術展レポート1997 写真家・安齋重男が見たミュンスター彫刻プロジェクト」(スタジオ食堂ドキュメントブック『Studio Shokudo1997-1998』より)。

また、企業4社(のちに5社)と美術研究者による研究会『ドキュメント2000』から「町内会プロジェクト」への助成があった。立飛に入居している会社でイベント告知の回覧板を回してもらい、作家と話しながら作品を見てもらうビアパーティーなどを開き、普段接する機会のない職種の方々との交流の機会をつくった。教育普及活動に熱心な美術館はまだ一部で、ギャラリーではコレクター以外とはあまり会話のない時代。作品を介した人と人とのコミュニケーション活動を模索してきた菊地さんと沼田さんだったが、1997-98年の2年間参加して脱退する。その後もスタジオ外部の作家を招く姿勢やイベントを開く活動は維持され、藤原隆洋企画で謝琳展、眞島竜男企画「ダブルポジティブ」展などがあった。そして2000年3月、メンバーが30歳を迎え、各自の制作に集中すべく解散した。「僕らをバンドになぞらえた人もいましたが、やっぱり10年続けるのは大変。濃縮された6年間でした」。

再開発にまつわる活動よりも他地域のオルタナティヴとつながっていた

後半のディスカッションでは、丸山さんからこんな質問があった。
「共同スタジオは、もの派や関西の具体美術活動のように運動体として語られることはあっても、スタジオ自体が語られることはあまりない。スタジオ食堂に共通のイデオロギーはなく、経済的負担を減らすためにスペースをみなで借り、個々に自身の制作活動をしていたんですよね? アーティストが集まる場所になっていったのはなぜでしょう?」。それに対して「情報が欲しかったんだと思います。ファイルの作り方やプレゼンの仕方など、どうやったらアーティストになれるか解らなかったから、むしろいろいろなことがやれたのではないでしょうか」と笠原さん。丸山さんは「昨年で6年を超えた橋本エリアの『相模原オープンスタジオ (S.O.S)』も最初からスタジオビジットがあったのではなく、横につながったのは後からですね」と昨今の共同スタジオの一例も示した。

会場から解散理由について「プロデューサー2名が抜けたことが大きかったのでは。経済的負担が理由でしょうか?」という質問があった。「プロデューサーに給金の支払いはしたいという話もありましたが、家賃が高く、何年も実施できなかったのは事実です。ほぼ運営参加費で賄っていて、アーティストもプロデューサーも手弁当でした。お金のこともそうですが、自己主張の強い20代でしたので作家間に軋轢が生じたり、複合的な理由からだと思います」と笠原さん。非営利な任意団体の活動に対する支援を企業から引き出したことは画期的なことだったが、「それはとても嬉しかったのですが、やはり家賃は計上できないよねということで、代わりに展覧会をする感じになっていったんだと思います。はじめはよかったのですが、メンバーそれぞれ自らの作家活動で忙しくなると、ほかの作家の展覧会のために時間を奪われることがつらくなっていきました。最終的には自分の作品をつくるためにスタジオを借りるという原点に立ち戻っていったんです」。

また、丸山さんは、1998〜2002年に開催された立川国際芸術祭についても概略を紹介した。最初は地元からはじまり、2回目の1999年にアートディレクターの清水敏男さんがディレクターを務めている。2回目には「LOVE」をテーマに、アジア諸国を中心に11カ国48作家および団体が立川駅からモノレールの各駅、公園などに作品を設置した。笠原さんによれば、最初はスタジオ食堂という団体に声がかかったが、作家個々に判断することにしたという。「僕や中村哲也、田代悦之、池田光宏(当時はいけだみつひろ)が個々に参加して、新しくオープンした駅ビルのグランデュオ、モノレール駅などに作品を展示しました」。

スタジオ食堂は、再開発と絡んだ立川国際芸術祭やファーレ立川との結びつきはほとんどなかった。むしろ、三田にあったオープンスタジオNOPEや名古屋の.dot、昭和40年会など、地域を超えたオルタナティヴな団体との交流があった。また、海外のキュレーターなどが日本にリサーチに訪れるときに見学コースに入るようにもなっていく。「交通が多少不便でも、広い場所で質の高いものが見られるから行く価値がある」という口コミが広がっていた。笠原さんは「当時はヨーロッパから関西へ行くことが多かったんです。ダムタイプや須田くんなどが出品した『どないやねん』という日本の現代美術をパリで紹介した展覧会のリサーチもメインは京都だった。そういったインディペンデントな展覧会のリサーチはスタジオ食堂にも多く来るようになりましたね」と語っていた。

最後に、丸山さんから新しい立川でのプロジェクトとして、ファーレ立川に隣接する「グリーンスプリングス」にアート作品を設置する「立飛パブリックアートアワード2020」が紹介された。立川駅周辺では現在もアートが立ち上がるムーブメントが続いている。

(執筆:白坂由里

みんなで看取れば怖くない?―生活圏のフレンドリーな死を考える

2018年10月から毎月1回開催してきた対話シリーズ「ディスカッション」、その最終回となる第5回が2019年2月20日(水)に行われました。今回タイトルに掲げられたのは「みんなで看取れば怖くない?―生活圏のフレンドリーな死を考える」。モデレーターのアーツカウンシル東京プログラムオフィサー、大内伸輔は「少子高齢化が問題になり、2030年の日本では年間160万人が亡くなるという予測も出ています。自分にとって身近な人の死はインパクトが強く、人生のターニングポイントになるものだと言えます」と述べたうえで、そういった『死』に対してどう向き合えばいいか、アートプロジェクトとして何かつくることはできないかと考え、今回のゲストの一人である指輪ホテルの芸術監督、羊屋白玉さんがディレクターとなったとアートプロジェクト「東京スープとブランケット紀行」について解説しました。

「東京スープとブランケット紀行」『Rest In Peace, Tokyo くすぐる』(撮影:GO)。

このプロジェクトは、アーツカウンシル東京が展開する事業「東京アートポイント計画」の一つとして展開されました。羊屋さんが22年間ともに暮らした猫を2012年に亡くしたことをきっかけに、2014年から3年間にわたり猫の月命日に羊屋さんの住む江古田にさまざまな人が集まり、そこでスープをつくって一緒に食べ、語る時間を持つことが活動の中心。2017年には活動を「Rest In Peace, Tokyo」として外に開き、同年10月には斎場を借り、羊屋さんが猫への弔事を読みあげました。映像、戯曲、記録集として活動の成果がまとまっています。

「どうしてスープなのかと言うと、猫が倒れて私が看病しているときに、友人が鍋にスープを入れて持ってきてくれたんです。さらに亡くなるまでのあいだ、徐々に体温が下がっていくときに友人がブランケットで包んでくれたり。それがプロジェクト名の由来となっています」と羊屋さんは説明し、さらに「猫が亡くなったときに、どういうふうに弔いたいかを考え、剥製にしたいとかいろいろ思ったんですけど、結局大家さんの家の庭にある桜の木の下に埋めました。スープを囲みながら個人的な課題をみんなで集まってどうしたらいいか向き合う時間の中で、大内くんが『みんなで看取れば怖くない』と言ったことが印象的でした。毎月みんなで集まることが、喪失の予行練習だったんじゃないかなと思います」と言うと、大内は「都市生活では、今回のタイトルのような『生活圏のフレンドリーな死』が失われていると思っています。私の田舎では家の後ろに墓地があるので、墓参り、墓掃除が日常の中にあり、死へのある種の準備ができている。でも都市ではその親密さのようなものが失われているように感じます」と応答。

続けて羊屋さんが、「越後妻有アートトリエンナーレで作品をつくったときに(2015年制作『あんなに愛しあったのに~津南町大倉雪覆工篇』)、会場の津南町に縄文ムラがありました。そこは集落の真ん中に柱が建っていて、そのまわりにお墓があり、家々の入り口がお墓のほうを向いているんです。これはアパートの真ん中にお墓があって、玄関がそこに向いているようなものだけど、現代の人はこれに耐えられるだろうかと思いました」と述べ、古代と現代では死への距離、考え方が異なることについて触れました。

DeathLAB 《Constellation Park》2014 ©LATENT Productions and Columbia GSAPP DeathLAB

続いてもう一人のゲスト、金沢21世紀美術館キュレーターの髙橋洋介さんは、現代において生と死の意味が変化してきていることを実例を交えて紹介されました。

最初に、髙橋さんが企画で携わった展覧会である、東京・表参道のGYREで行われた「2018年のフランケンシュタイン」を通して、生の変化が語られました。ここでは、小説『フランケンシュタイン』が1818年の発表から200年を迎えたことにあわせ、『フランケンシュタイン』が提起した問題と通底する主題を立て、バイオアートの作品を展示しました。その中の一つ、ディムット・ストレーブという作家の作品「Sugababe」は、ゴッホの子孫の細胞、DNAをもとに、ゴッホが切り落とした左耳を生きた状態で復元したもの。これについて髙橋さんは「バイオアートの問題として、死者の蘇生を取り扱うことが挙げられます。神話にも死者の蘇生は表されていますが、あくまでもそれは比喩でしかありませんでした。しかし、それが現代においては意味が変わってきています」と述べ、「不死化細胞」と呼ばれる、細胞老化を回避して連続的な細胞分裂能力を持った細胞が存在することを挙げ、「細胞レベルで見ると『死なない』ものがある。そこに違和感を覚えました。誰もが逃れられないもの、避けられないものとして死を捉え、生と対立するものとして描いてきた従来の前提が覆るようなテクノロジーが出てきたと言えます」と説明。

また、死の変化に対応するものとして、髙橋さんが金沢21世紀美術館で企画した展示「DeathLAB:死を民主化せよ」について説明いただきました。コロンビア大学のDeathLABは都市における死をめぐるさまざまな問題について、宗教学や建築学、地球環境工学、生物学などを横断して探求をする研究所。そのDeathLABを主催するコロンビア大学准教授のカーラ・ロススタインとともに、現代の死のあり方について発表した展示が「DeathLAB:死を民主化せよ」です。

さらに都市の死にまつわる状況として、死者が増え、墓地や葬儀の空間的、時間的余裕がなくなっていることに触れました。たとえば現在の東京は、亡くなっても火葬まで2週間待ち、墓地が空くまで数年待ち、という問題も出てきました。国内の孤独死者数も推定3万人と言われるなど、身寄りのない人や子どものいない人の死も増えています。「墓地は都市の郊外に阻害され、死に触れる機会そのものが少なくなりました。さきほど羊屋さんが言っていたように、縄文時代はもっと死が身近なものとしてありましたし、大内さんがお話ししていたような家と墓地が密接な距離にあるというのも、18世紀くらいまでの日本では普通のことでした。お盆の時期に死者が一時帰ってきて、また彼岸に戻っていく、というような『死者が自分たちを見守っている』ような考えがこれまでの価値観だとすれば、いまでは『見てはいけないもの』へと死者のあり方が変わってしまいました」。

都市における「死」を考えるDeathLABが誕生したきっかけには、2001年のワールド・トレード・センター倒壊で亡くなった民族や宗教の異なる3000人もの犠牲者をどのように弔うのか、という問題意識がありました。その中で展開されたものとして、「コンスタレーション・パーク」というプロジェクトが紹介されました。これはニューヨークのマンハッタンとブルックリンを結ぶマンハッタン橋の下を、弔いのメモリアルパークにしようという考えのもと、遺体をバクテリアで生分解する中で発生するエネルギーによって橋を光らせるというもの。ニューヨークはそもそも死者を土葬で葬りますが、そのための土地もなくなりつつあり、自然葬にも限界があるそうです。しかし亡くなった人をすべて火葬にすると二酸化炭素の排気量が膨大なものになってしまい、自然環境への影響が考えられるとのジレンマが。このような前提を踏まえたうえで、たとえば「コンスタレーション・パーク」のようなオルタナティブでエコロジーな死のデザインを考える必要があります、と髙橋さん。「別の例を挙げれば、福原志保さんというアーティストがロンドンで設立したバイオプレゼンス社が、故人のDNAを木の細胞に保存して、それをお墓にするという試みを行いました。外見は木だけれど、DNAのレベルでは人間という、同一個体に異なる遺伝情報を持つ細胞がある『キメラ』だと言えます。日本では墓石の代わりに樹木を墓標とする樹木葬などがあり、そこまで批判的な意見は出ていないようですが、キリスト教圏ではこの試みはグロテスクだと批判されました」として、テクノロジーを応用した「オルタナティブでエコロジーな死のデザイン」と、それに対する既存の倫理観の折り合いをつけることには難しさがあると説明しました。

またここで、歴史的な「死」のあり方について考えを巡らせました。秋田県鹿角市にある大湯環状列石は、日時計になっているストーンサークルの下に死者を埋葬していました。死者が大地とつながり、時間、季節が循環する中で生者にさまざまな恵みを与えていることを表現する文化的システムとして解釈できます。このような死生観は近代になればなるほど失われてきました、と髙橋さんは言い、「歴史家のフィリップ・アリエスは西洋の2000年の歴史を振り返り、死の類型を整理しました。一つ目、『飼いならされた死』はどの時代にも共通してある、運命としての死です。その後、中世に現れたのは『己の死』。これは教育が進んだことによる、『私は他の誰でもない私』という考え方です。

次いで、18世紀に現れた『他者の死』は、産業革命が起こり、次第に死が非日常となっていく中、ロマン主義文学が他者の死を過剰な言葉で修飾したように、かけがえない友や家族の死を悲劇として悼むというものです。そして現代における死は『タブー視される死』。第二次世界大戦以降顕著になってきていることで、人は生きるためというより死ぬために病院か介護施設に隔離され、心電図などを測定されるなど、死は自分で悟るものではなく、専門家や技術によって測られるものになってしまいました。死と死者は、スムーズで幸せな日常を邪魔するものとして隔離されてしまいました」と解説。

そのうえで、DeathLABがやっていることは、古代の人たちが触れていたようなあたたかい死者との関係をどうやって取り戻すかということであり、「死を民主化せよ」と言うのも、お金や家族、宗教がなくても、あらゆる人が都市で平等に死ぬことができるようにするためだと言います。

「東京スープとブランケット紀行」『Rest In Peace, Tokyo くすぐる』(撮影:GO)。

ここで、これまでの話を受けて大内は「死を民主化するというのは、隔離された死を自分たちのもとに取り戻していくことだと思いました。『東京スープとブランケット紀行』がやっていたことも、そういった考える時間をつくることでした」と言い、羊屋さんの話をどのように聞いたかと髙橋さんに問うと、「羊屋さんがやってきたことは、つながりを取り戻すことだと感じました。死にも三人称の死と一人称の死があります。三人称の死というのは概念としての死。でもいざ自分が死ぬとなると、そこでの死とどう向き合っていいのかわからない。それが一人称の死であり、個別具体的なものなんです。一人称の死の孤独と向き合うときに大事なのが、つながることだと思います」と応え、羊屋さんは「私の場合、猫が倒れたときに、その猫の死という三人称と、自分がどうしていくかという一人称を行ったり来たりしていました」と応答、さらに髙橋さんは「アメリカの精神科医、エリザベス・キューブラー=ロスは、死と向き合う人間に重要なのは、ある種の親しみやつながりだと言っています。自分の死は誰しも未知だからどう向き合っていいかわからない、だからこそ自分の親しいものに囲まれ、安心感に包まれてこの世界を去ることが幸福な死だ、と」と話をまとめました。

最後に会場から、自殺についてDeathLABではどう扱っているのか、という質問も。髙橋さんは、「DeathLABは死んだ後のことを考えているので、自殺自体を扱ってはいません」と前置きをしたうえで、いまの社会が生きることを特権化しすぎており、死ぬことの権利、死を選択することの尊厳があると思うと発言。「生きることは死ぬことと切り離せない。エリザベス・キューブラー=ロスが言うには、『死は成長の最終段階』。どんな死も生きている人にとって、『あなたはいまをいかに生きるか』と問いかけるメッセージと思うことが大事だと思います」と応えました。

また戦国武将が戦に自分の生き様を示す鎧をまとって戦いに臨むことを話題に挙げ、その行為は生きることと死ぬことが表裏一体であり、ユーモアを持って戦場に赴いていると髙橋さんは指摘。それに対し羊屋さんが「信仰と遊びが一緒にある、その感覚を持っていなきゃいけないと思いました」と言い、この回は幕を閉じました。

資本主義の発達と並走してテクノロジーの進化が目まぐるしく起こり続けている現在において、近代以降失われた「生活圏のフレンドリーな死」=「死の身近さ」をいかに奪還するか。そこには、お互いに顔の見えるコミュニティで話をしながら、自分にとっての「親密な死」を考え続ける道と、テクノロジーを自分たちの手に簒奪するような形で見たことのない「親密な死」を創造していく道、その二つが重なりあいながら、ずれながら並行していく、そんな可能性があるのではないかと思ったディスカッションでした。

(執筆:髙橋創一)

2018年、5つの「東京プロジェクトスタディ」報告会

Tokyo Art Research Lab「思考と技術と対話の学校」にて6か月にわたり展開した「東京プロジェクトスタディ」。今回は、2月24日(日)に開催した報告会の様子をお届けします。

“東京で何かを「つくる」としたら”という投げかけのもと、5組のナビゲーターが参加者と共にチームをつくり、それぞれが向き合うテーマに沿ってスタディ(勉強、調査、研究、試作)を重ねる「東京プロジェクトスタディ」。企画や作品など「かたち」にすることは必須とせず、決められているのは初動のみ。内容や進め方は、活動を展開しながら設定していきました。5組のスタディが、半年間どのような活動を行ってきたのか。プロジェクトがかたちになる前の「種」と向き合った各スタディの変遷や断片にふれる半日となりました。

スタディ1 「東京でつくる」ということ―前提を問う、ことばにする、自分の芯に気づく

ナビゲーター:石神夏希 (劇作家/ペピン結構設計/NPO法人場所と物語 理事長/The CAVE 取締役)、スタディマネージャー:嘉原妙 (アーツカウンシル東京プログラムオフィサー)

会場に投げかけられた東京やつくることにまつわる質問に対して、「Yes」と「No」に分かれて着席し、発言しあっている様子。

スタディ1は、「東京でつくること」を入口に、参加者それぞれが抱えている課題や関心について徹底的に対話し、スタディをへて芽生えた気づきや問いを参加者一人ひとりがエッセイにまとめていきました。毎月ディスカッションと書くことを繰り返しながら、東京でつくるということ、自分とつくることの関係について思考を重ねたこのスタディでは、東京との物理的な距離もさまざまなつくり手をゲストに招き、彼らの活動をケーススタディにディスカッションを展開。ときには言葉を離れ、映像をとおして東京について考えるワークショップも行いました。

報告会では、スタディ1のメンバ―が考えた質問を軸に、会場全体で、東京について、つくることについて、思考を巡らせる時間をもちました。「あなたは東京の一部ですか?」「いまの東京はおもしろいですか、おもしろくないですか?」「あなたにとって東京とつくることとの間には関係がありますか?」などの質問が投げかけられ、Yes/No に分かれて考えを述べあうなど、スタディ1が向き合ってきたものにふれる時間となりました。

スタディ1のメンバ―が考えた「東京でつくる」を巡る問いの一覧。

スタディ2 2027年ミュンスターへの旅

ナビゲーター:佐藤慎也 (建築家、プロジェクト構造設計)、居間 theater (パフォーマンスプロジェクト)、スタディマネージャー:坂本有理 (アーツカウンシル東京プログラムオフィサー)

スタディ2の発表の様子。勉強から実践への展開を表すシーンでは、「ひとつには彫刻という概念とその拡張について、もうひとつにはミュンスターに対しての東京(そしてそこにおける公共空間)について、このふたつをどちらも手放さず生かしながら次の段階へ進もうと思う」
という言葉を背景にパフォーマンスが進む。

1977年よりドイツのミュンスターにて10年に1度開催されている「ミュンスター彫刻プロジェクト」。スタディ2は、次回2027年に同プロジェクトに招聘されることを目指し、勉強やリサーチを重ねました。報告会では、活動のプロセスやエッセンスをパフォーマンス仕立てで紹介。ナビゲーターとミュンスターとの出会いからはじまり、村田真さん(美術ジャーナリスト)、小田原のどかさん(彫刻家)、今和泉隆行さん(空想地図作家)らをゲストに「ミュンスター彫刻プロジェクト」や「彫刻」について学んだこと、彫刻の概念やその拡張など議論したテーマにもふれていきます。

「東京藝術大学美術学部の前身となる東京美術学校が開校した1887年から2027年までの間10年ごとに、東京のまちなかに公共彫刻を設置する『東京彫刻計画』というプロジェクトがおこなわれている」というフィクションをベースに、都内に点在する彫刻をマッピングし、実際に歩いてみてまわった経験をへての気づきや問い、さまざまな文脈で設置された彫刻についてのエピソードも織り交ぜながら、「彫刻とは何か」という問いを巡る思考の変遷を辿りました。

「このスタディは必ずしも一つの答えは導きだしていない。それぞれの参加者の視点から、彫刻に興味をもち、彫刻を媒介として、それぞれが思考しているのです。可能性は無限大。刮目せよ! 旅はまだ始まったばかりなのである。」という台詞でパフォーマンスは締めくくられた。

スタディ3 Music For A Space—東京から聴こえてくる音楽

ナビゲーター:清宮陵一 (音楽レーベルVINYLSOYUZ LLC 代表/NPO法人トッピングイースト 理事長) スタディマネージャー:大内伸輔 (アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

スタディ3のメンバーの「人生で最も影響を受けた曲」を眺めながらふりかえっている様子。

音楽産業と公共空間における音楽のあり方や融合の可能性を探ることを目指し、さまざまな角度から音楽に携わるゲストを招きディスカッションを重ねたスタディ3。「人生で最も影響を受けた曲」を紹介し、エピソードを話し合った初回にならい、まずは会場全体で、人生の一曲を付箋に書いて貼り出すところからはじまりました。ゲストゆかりの場所を訪れながらおこなわれた全11回のスタディについて、「経済活動」「社会活動」「実践」「消費」の4点からなる座標軸をもちいてふりかえりました。

スタディ3の活動で試行した座標軸。

後半のディスカッションでは、スタディをとおして4つの座標でいまの音楽業界のあり方と向き合ってみたけれど、経済活動と社会活動をいったりきたりしていたりと、どちらか一方だけということではなく、それぞれの座標がクロスしたりまざりあったりしていることもあるのではないかという対話もなされました。参加者からは、自分が知っている音楽の体験はまだまだ狭かった、ステレオタイプだったなど、スタディの感想が話されました。

スタディ4 部屋しかないところからラボを建てる—知らないだれかの話を聞きに行く、チームで思考する

ナビゲーター:瀬尾夏美、小森はるか、礒崎未菜 (一般社団法人NOOK)、スタディマネージャー:佐藤李青 (アーツカウンシル東京プログラムオフィサー)

みなでテーブルを囲み対話を重ねるスタディ4。対話の要素を板書する様子なども含めて普段の活動風景を再現しながら展開した。

スタディ4は、メンバ―それぞれの関心をもちより、いっせいに調べ、それをまた共有し、反応し、価値化する活動をおこなってきました。「聞くという行為にはかならず相手がいます。相手が語ったことを聞く。そこで一度編集が入ります。共有する場で語り直す。そしてまた編集が入る。そのことを恐れるのではなく、編集がかかってしまうことを前提にしたうえで、うまく共有する仕組み自体を考えられたらおもしろいのではないか。それは、チームで思考する態度やあり方を共有することから始められるのではと考えました」とナビゲーターの瀬尾さんは語ります。

思ったよりもできなかったことは「聞く」ことだったといいます。語り手に会いに行く筋道(アポイントメントの取り方)、聞いたあとどうするのか(アウトプット)が未定だったり、親密な相手に聞くことで関係性が変わるのではという恐怖感が先に立ってしまうという状況もおきていたとのこと。「まずはとにかくおしゃべりして、『聞くこと』をはじめるために必要なものを考えていきました。そうしたなかで、活動が公的なものとなるような仕組みをつくろうという方向性も出てきました。」とファシリテーターの小屋さんはいいます。

繰り返し一緒におしゃべりしたことで、だれかの関心事が身体にしみついて、変わっていくといったように、ラボで話したことが徐々に実装されていき「聞こえる身体」になった感覚が芽生えていったようです。互いの言葉を聞き合いながら、いま東京にある問題系や関心事を知り、そこから誰かに話しを聞きにいき、また戻ってきて、共有することを試みながら、その価値を読み深めていく。東京という大きな都市の片隅に、既存の答えを求めるわけではない、余白のような場を立ち上げていく過程が紹介されました。

活動日に話されたことを内部共有用として「ラボ通信」にまとめ、話したことを定着させていった。ふりかえりのためのツールとしても活用された。

スタディ5 自分の足で「あるく みる きく」ために―知ること、表現すること、伝えること、そしてまた知ること(=生きること)

ナビゲーター:宮下美穂(NPO法人アートフル・アクション 事務局長、スタディマネージャー:佐藤李青(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

スタディ5の活動風景を紹介している様子。

3名のゲストアーティスト(揚妻博之さん、大西暢夫さん、花崎攝さん)と直接対話したり、作品制作の過程にふれながら、自分自身の表現やリサーチを深めていったスタディ5。さまざまなワークショップを組み込みながら活動が展開されていきました。たとえば、2人1組でひとりが目隠しをし、パートナーに連れられて音をきいたり、匂いをかいだり、周りが見えない状態で空間を経験する「ブラインドウォーク」。ほぼ初対面なのに身を預けなくてはならず、普段はしない経験だったと参加者は語ります。その他にも、演劇のメソッドをもちいて演じてみたり、ひもや竹の棒などささやかな道具をつかって身体の拡張や人との距離を意識するよう身体を動かしてみたり、詩を書いて朗読したり、他者の呼吸や間合いを意識するようなことも。野宿の経験をエッセイにしたり、身近な人を写真に撮ってくるという宿題が出たこともありました。

その宿題をきっかけに、そんなときに思い浮かぶ「身近な人」がいないと気づく人もいたとのこと。表現をするというのは、こんなにも自分のことをさらけだすんだなと、その辛さがわかったとある参加者はいいます。ときには参加者からの問いかけにアーティストが答えに窮することもあったそうです。そんなときは、次の回でまたそのことについて、アーティストと参加者が対話を重ね、連続して展開されるスタディならではの関係性が育まれて行ったようです。「表現はアウトプットがすべてとは思っておらず、表現することによってまた新しい何かがはじまると思っている。」と宮下さんは語りました。

スタディ5の活動をふりかえりながら各回の様子や感想を述べあっている様子。

報告会の最後には、「この5つのスタディが、新たなプロジェクトにつながっていくのか、そうでないのかはわかりません。そうした明解ではない困難さが、新たなことを生み出そうとするスタディならではなのだと思います。みなさんは、スタディをとおして自分たちの立ち位置を探る。そしてその基点から、さまざまな方向に、表現と向き合う入口を探していくような時間を過ごされたのではないかと感じました」と森校長が締めくくりました。

半年間のスタディをへて生み出されたものとは何だったのか。TARLでは、それぞれの活動の展開を今後も見守っていきたいと思います。

執筆:坂本有理 
撮影:川瀬一絵

物語から女性像をたどる―現在のイメージをとらえ直せるか

4回目を迎えた対話シリーズ「ディスカッション」。今回は「物語から女性像をたどる―現在のイメージをとらえ直せるか」と題して、1月16日(水)に俳優、美術家の遠藤麻衣さんと、日本文学研究者の恋田知子さんをゲストにお迎えして開催されました。

このテーマを選んだ理由として、今回のモデレータであるアーツカウンシル東京プログラムオフィサーの村岡宏太から、社会の中での女性像について、明文化されていないけれど共有、潜在化されているイメージがあり、それをどのように別の視点からとらえ直すことができるのかに着目したと説明。さらに、「遠藤さんの作品は女性像の新しい解釈に挑んでおり、その遠藤さんと言葉を交わす中で、女性や性を古典や人類史の観点から見てみてはどうだろうか、という話になりました。そこで、日本中世文芸の研究を専門に行っている恋田さんをお招きして、現在の女性像というものは日本の文化に根ざしたものなのか、それとも近代化以降のものなのかを考えられる内容にしたいと思いました」と今回の骨子を述べました。

最初は恋田さんのお話から。『異界へいざなう女 絵巻・奈良絵本をひもとく』(平凡社、2017年)という著書もある恋田さんは、室町時代から江戸時代中期にかけて制作・享受された短篇物語「お伽草子」の中でも、「女性が蛇に変化する」話を取り上げました。「能や物語などの中世文芸では、女性が蛇に変化する話が多く、とくに仏教説話では女性の嫉妬心や執着心の象徴として扱われていました。女性を穢れたものとみなす当時の仏教において、蛇への変身はそうした思想の反映でもありました」と述べたうえで、一般的には「安珍清姫」として知られている悲恋の物語であり、日本で最も有名な「女性が蛇に変化する」話、能の「道成寺」について解説しました。

これは紀州、現在の和歌山県日高郡日高川町の道成寺を舞台としたもので、釣り鐘の供養にあたり、女性を絶対に入れてはならないと住職がお触れを出したものの、供養の舞を舞わせてほしいと頼み込んできた女を寺男は供養の場に入れてしまいます。女はその鐘に近づき、鐘を落としてその中に入ってしまいますが、そこで住職はかつてある娘が男に裏切られたと思い込み、毒蛇となって、道成寺の鐘に隠れた男を炎で焼き殺してしまったことを語ります。果たしてその鐘の中からは蛇に変身した女が現れ、炎で自分の身を焼き、日高川に姿を消していきました――というのが話の大筋。「この話の原型は平安時代の説話集『大日本国法華験記』に載っています。もともとは法華経の教えを説くためのお話だったのですが、室町時代になって『道成寺縁起絵巻』にも描かれました」として、ここでは説話から縁起絵巻というメディアの変化に即して、話の内容、設定が変わった点を見ていきます。

「道成寺説話と道成寺縁起絵巻の相違点としては、女の大蛇への変身過程と、僧侶の遺体の描かれ方が挙げられます。この二点が変化したのは絵画と詞書による絵巻というメディアに合わせたからだと言えます。また、女の設定も人妻へと変化しており、これは能での娘という立場よりも罪深いもので、かつご利益を説くための振り幅の広さを持たせているとも言えます」。

また参考として、女だけではなく蛇に変化する男の話を『地蔵堂草紙』や『諏訪の本地』などを例としてお話しいただきましたが、男性の場合は淫欲を戒めるための一時的な変化であったり、異界往還のツールであったりすることが多い旨を指摘し、女性とは変化の意味合いが異なると語りました。

国立国会図書館蔵『道成寺絵巻』(賢学の草子) 〔江戸時代後期〕写 安珍・清姫で知られる紀州・道成寺の縁起の異本。 想いのあまり大蛇と化した女が鐘の中に隠れた僧の賢学を巻きつけようとする場面。

続いて、遠藤麻衣さん。普段はパフォーマンス作品などを発表している遠藤さんですが、自分の身体や社会的な「女性」であることから逃れられず、男女の対立をどう超えられるのかということに関心を持っていると言います。そこから女が蛇に変化する道成寺の話に興味を抱き、制作したパフォーマンス作品が『コンテンポラリーへびんぽじゃじゃりの引退』です。「私は女性が『蛇的な状態』になっているのは若くて、無敵である印象を受けました。でも人は生きている限り年を取る、そのことをどう描けるかと考えてつくったのがこの作品です。かつてヘビ女だったけれどいまは人間として生きている女性と蛇が登場し、人間の女性が過去を振り返る形でヘビ女としてパフォーマンスします。ヘビは過去から現在の時間の流れの中にいて、その時空が交差する点で合体して一人のアイドルとしてライブを行う、というものです。ダンサー、振付師の神村恵さんと一緒にパフォーマンスを行いました」。

また、2017年に発表した「アイ・アム・ノット・フェミニスト!」は、遠藤さんが夫婦で婚姻契約書をつくり、自分の結婚式をパフォーマンス作品として発表したというもの。「ゲーテ・インスティトゥート 東京ドイツ文化センターでの滞在制作だったのですが、会場ではそのときの居住スペースをそのまま展示して、さらに結婚式のパフォーマンスを実施しました。作成した婚姻契約書は実際に夫婦間で機能するようにつくりました」。男女のカップルが結婚を選択した場合、それは現在の日本の民法における婚姻制度の不平等を追認することになる、という問題意識がひとつの作品へと結実したと言えます。

2018年「コンテンポラリーへびんぽじゃじゃりの引退」(撮影:Ujin Matsuo)
「アイ・アム・ノット・フェミニスト!」パフォーマンス風景 – Festival/Tokyo 2017(撮影:Alloposidae)

ここまでのお二人の発表を受けて、事前の打ち合わせの際に浮かんだ「婚姻」「恋愛」「宗教」「物語」「蛇」「主体と客体」「女性像」「メディア」「家族」、以上9つのキーワードを村岡が提示し、それらの中でお互いに気になるものをピックアップして対話を深めることに。

まず選ばれたのは「蛇」。女性と蛇の関係について、恋田さんは「ギリシア神話のメドューサにおける女性の長い髪と蛇のフォルムなど、洋の東西を問わず、女性と蛇に共通性を見出す例は多くあります。また蛇が脱皮する生き物ということから、女性の生理周期を重ね合わる分析をしている人も。女性の体内に蛇がいると解釈している書物もあり、蛇は嫉妬や罪深さ、執着の象徴として長く扱われてきました。さきほどの仏教説話では、女性がそのようなネガティブな感情の隠喩として結びつきやすかったのではないでしょうか」と説明。

また、遠藤さんが「女性が成仏するときに男性に一度変わるという話を聞きました」と言うと、恋田さんは「法華経の『変成男子』という思想ですね。女性が成仏することは難しいため、一度男性に成ることで成仏するというものです」と応えたうえで、最近ニュースで目にした男性から尼さんになったというトランスジェンダーの方の話を紹介し、変成男子の思想は女性差別的だと言われているけれども、「男性になる」という性別越境を認めているとも解釈でき、現代でもさまざまなとらえ方が可能なのではと述べました。それを受けて遠藤さんは「私も変成男子の話を聞いて、ポジティブな印象を受けました。物語やイメージによってティピカルな像を強調する面はありますが、一方で描かれているイメージについて、性別、社会的役割が違う立場のほうが感情移入できるはずだと思っていて。なかなかそうはいかない状況だけれど、古典の物語の中ではすでに性別を越境していて、よかったなと思いました(笑)」と言い、ティピカルな女性像が近代以降にできたものに依拠しているのではとの疑問を提示しました。

この流れを汲んで、次に「仏教」の話題に移り、恋田さんはお伽草子の『磯崎』を話題に挙げました。「この話は、まず武士が鎌倉に出かけ、そのあいだ奥さんは家で留守をしていたのですが、その武士が帰ってきたときには鎌倉で出会った新しい奥さんを連れてきてしまいます。その元の奥さんは嫉妬で身を焦がし、能楽師から借りた鬼の面をつけてその新しい奥さんを覗き見ますが、憎い気持ちが増して思わず殴り殺してしまいます。するとその鬼の面が取れなくなり、本物の鬼のようになる、という話です。この後、仏教色の強い解決を迎えるのですが、この話の中に執着が勝るとこうなるんだ、という例話として道成寺の話が出てくるのです。

道成寺の話を説くにしても、『磯崎』の中では女性の立場で説いており、物語を場にあわせて変化させていることがわかります」と述べ、続けて「室町時代以降は国家の後ろ盾がなくなり、戦乱の中で寺社も生き残らなければならなくなりました。より多くの大衆に思想を広めるため『磯崎』のような三角関係など身近な話で共感を得るようにしていった面もあります。さらにこの『磯崎』に関連して、実際の肉付きの鬼の面を伝えるお寺も存在しています。そういうものを見に行きたいと思わせて参詣者を獲得していくところなど、当時の信仰心のあり方やお寺の戦略にもおもしろさを感じます」と解説。

遠藤さんからは、「お話を聞いていると、当時の宗教の感じが、現代で言うとことのファッションビルがお客さんを呼ぶための広告みたいな、都合のいい話をしているように思えました。昔の仏教を考えると、いまよりも尊いもののように見えるけれど、どうだったのでしょうか」と質問が上がり、恋田さんは「時代によって変化してきます。中世の人々は来世に救いを求めて熱心に信仰し、迎える寺側も物語や絵画などを活用しながら、教えを広めていったのでしょう。それが江戸時代になると、幕府による宗教統制などもあって、進行やご利益を疑うような視点が広まっていくのです。室町時代はその過渡期。物語などからは信じつつ疑うような視点もうかがえ、混沌としている様子がわかり、そこがまたおもしろいのです」と信仰心がその時代時代によって変化していることを示しました。

ディスカッションの後半は、来場者がこれまでの対話を聞いて質問したいと思ったこと、気になったことを紙にメモし、それを回収して読み上げる形式で進めました。「蛇と人間の関係」「性別を超えた存在」「男性優位の社会」「イメージと身体」など、さまざまなトピックが上がり、熱気を帯びた応答が続きました。中でもやはり「女性」「性」に関する話題が多く、「過去と今で女性の性が変わっていないと思う具体例」という質問には、恋田さんが「蛇になる話は非現実的ですが、たとえば道成寺縁起絵巻から展開した『賢覚草紙絵巻』では、男性がいかに身勝手かを強調し、女性の悲恋を浮かび上がらせています。これは女子大などで話すとウケがいいのですが(笑)、現実は男性のほうが執着して別れるときに大変だという意見も多く寄せられ、そういう意味では時代で変わるものはありますが、背景となる思想を考えると変わっていないものがあるように思います。またお伽草子には変身談が多くあります。何か別のものに変わりたいという願望は時代を経ても変わらないのかなとも思います」と応えました。

「婚姻」というキーワードについては、「中世の日本は一夫一婦制ではなかったと思いますが、嫉妬の感情とどう付き合ってきたのでしょうか」という質問が上がりました。これに「妻問婚の平安時代から一夫一婦制の嫁入り婚に変わって、しかも一夫一婦制だけど妾がたくさんいるような、一夫一婦多妾制のかたちになって、『磯崎』のような悲劇の物語が生まれました。ちなみに、室町時代には『後妻(うわなり)打ち』という風習がありました。これは夫が離縁して新しく妻を迎えたときに、先妻が親族などを募って、新しい妻の家財道具などを壊しにいく、というもの。そういうもので嫉妬心をはらしていたようです」と恋田さんが言うと、遠藤さんは「過去のお話を聞いて、全部過剰だと思ったんです(笑)」と続け、「過剰だから残っているんでしょうね。過剰だけど、共感するところがあるから残り続けるのかなと」(恋田さん)、「普段、あるご家庭のベビーシッターの仕事をしているんですが、その家の子どもとつくっているお話が過剰なストーリーなんです。そういう話が過剰になるのは日常と離れているからつくれるんだろうと思いますし、あえて過剰にすることで感情がおさまるという物語の力があるのかなと思ったりします」(遠藤さん)と言葉を重ねました。

また、遠藤さんの作品に関して、「結婚とフェミニストの矛盾が前提となっているように思ったが、何故そのような設定にしたのか」という質問が上がり、「私の仮定しているフェミニストはティピカルなイメージ。フェミニストになることとフェミニズムの考えは別だと思っています」と遠藤さんが応えました。

今回のディスカッションは「女性像」を一旦「蛇に変化した女」の話からたどり、そこに遠藤さんのパフォーマンスの話を接続することで、物語に端を発する過去の女性像と、現在の女性像の齟齬と共通点が浮かび上がったように見えました。いまの社会の中で流通している多様な「女性像」のイメージを、一度限定するところから考え始めることで、「とらえ直す」ための動線が引かれ、各々の立場からの言葉を交わし合うことができたのではないでしょうか。

(執筆:高橋創一)