共通: 年度: 2022
つくることを考えてみよう 竹編
『多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting』の「ざいしらべ 図工 ― 技術と素材について考える」の一環として、多摩地域の小学校図工専科の先生や子どもたちと実施した活動をもとに、身近な素材を知り、加工や造形をして楽しむ方法を紹介するものです。
古くから人の暮らしの身近に存在してきた「竹」をテーマに、竹に関する知識や歴史、伐り方、加工の仕方、扱い方の事例や道具について触れています。
図画工作は、予定された解答や成果を求めるのではなく、身体を通した思考の過程という意味でも、大きな可能性を秘めた時間なのではないか
(p.1)
目次
竹と暮らし
身近な竹を知る
竹を伐る前に
竹を伐る
割り竹をつくる
ひごをつくる
結ぶ
竹で行灯をつくる<基本型>
竹で大きな建物をつくる
道具とともに
子どもと竹
シネマポートレイト 映像作品
「シネマポートレイト」は、Tokyo Art Research Lab の一環として実施した「Multicultural Film Making(MFM)」にて開発した手法です。海外に(も)ルーツをもつ人たちを対象に、映像制作のワークショップを展開するアートプロジェクト『KINOミーティング』では、その手法をブラッシュアップしながら継続してプログラムを実施しています。
まちを歩きながら自らの個人的なエピソードを語り、立場を交換して他者の話を聞くというプロセスは、作品制作のための行為を越えて、参加者同士の関係構築へとつながります。
詳細
関連リンク
KINOミーティングの公式Vimeoで作品を公開しています
仲間や先輩と手を取り合って次を考える。
東京アートポイント計画に参加するアートプロジェクトの事務局たちが集い、定期的に行っている勉強会「ジムジム会(事務局による事務局のためのジムのような勉強会)」。2022年12月にひらかれた第5回は、アーツ千代田3331のROOM302にて、9つのプロジェクトから30名近くのメンバーが集まり、久しぶりに対面で顔を合わせました。
今回のテーマは「ジムジム会2022 歳末学び合い〜解決のヒントはおとなりさんがもっている〜」。2022年夏から秋にかけて、各プロジェクトの事務局メンバーはそれぞれがもつ課題や興味関心にあわせて、東京アートポイント計画にかかわる団体や、以前かかわっていた団体を訪問するヒアリングを実施しました。
ヒアリングは、各事務局の個別具体的な疑問や課題を出発点にして、「このプロジェクトの手法がいまの我々にとって参考になりそう!」「似たようなテーマを扱っている先輩事務局は、どうやってプロジェクトを展開していったのか具体的に聞いてみたい!」と、トピックの洗い出しをしたうえで、話を聞きにいく団体を決定しました。
今回のジムジム会では、それぞれがヒアリングで得られた感触・気づき・学びを、ほかの事務局へ「おすそわけ」すべく、話を聞いたチームと聞かれたチームとで壇上に上がって報告しました。「どんな視点で、なぜ、どんなことを聞いたのか」「どんなことを知れたのか」「ヒアリングを受けて、自分たちの活動について新しい気づきがあったか」この3つを軸に、アーツカウンシル東京の担当プログラムオフィサー(PO)も交えて発表した当日の模様を、レポート形式でお伝えします。
ホームムービーというアーカイブの活用から、現代を捉えてみる

まずは、「めとてラボ」と「移動する中心|GAYA(以下、GAYA)」の発表から。このグループは、「アーカイブ」をテーマに、お互いにヒアリングを行いました。
視覚言語(日本の手話)で話すろう者、難聴者、CODA(ろう者の親をもつ聴者)が主体となり、自らの感覚や言語を起点とする創発の場づくりに取り組む「めとてラボ」。共催1年目となる今年度は、異なる身体性の人がともにいられる「場」づくりに向けたリサーチを重点的に実施しました。
プロジェクトを行いながら、「手話のアーカイブ」もテーマに上がってきています。手話は、ニュース映像などの記録以外に、その時代・その地域でいきた人々の暮らしのなかでつかわれている様子がなかなか残っていません。また、時代の変化とともに、言語である手話自体も常に変化しているため、記録に残らないことで忘れさられていく表現もあります。そのなかで、めとてラボでは現在、ある家族の手話での日常会話を収めたホームムービーを見つけたことをきっかけに、生活のなかにある手話のアーカイブを収集したり活用したりする試みを画策中です。
・「めとてラボ」アーツカウンシル東京公式ウェブサイト
GAYAは、8ミリフィルムに残された昭和のホームムービーを囲み、アーカイブから語りの場をつくるプロジェクトです。今年度は他領域との協働をすすめ、活動地域である世田谷区内の医療関係者らと連携した映像活用方法の開発なども行っています。運営団体であるremoは、GAYAとは別の事業の一環で、視覚障害がある方と映像鑑賞をする取り組みを続けており、さまざまな身体性や背景をもつ方と映像を活用していく可能性を探っています。
・「移動する中心|GAYA」公式ウェブサイト
ヒアリングではごく私的な記録であるホームムービーを他者とともに鑑賞することで、どんな気づきがあるのか、GAYAの取り組み共有をもとにディスカッションを行いました。ホームムービーを囲みながら対話することで、そこに直接は映っていない記憶や時代の雰囲気、歴史の断片が現れます。それをふまえて、アーカイブから滲み出てくる豊かな文化を感じられる可能性などについて、両者で意見交換をしました。また、アーカイブ映像の活用実践の先輩であるGAYAがもつ、映像を取り扱う上での注意点や運営・企画面での知見は、めとてラボのこれからのプログラムでも参考になり、「今後、なにかのかたちで協力できるかも」という話も。GAYAにとっても企画を一緒に考えることは新しいチャレンジになっていきそうです。今後の相互協力関係の可能性を感じられるヒアリングとなりました。
異なる防災へのアプローチに学び、次の展開を一緒に考える

被災地に蓄積されてきた記録物(禍録=カロク)をもとに、防災にかかわる知識や表現技術・課題などをさまざまな手法で伝え、災禍と災禍の間(災間)を生きる人々が、次に備えられるようなネットワークの形成を目指す「カロクリサイクル」。共催1年目の今年度は、ワークショップの開催や配信番組、リサーチの様子をまとめたレポートなどを積極的に発信しました。
ヒアリングでは、2009~2011年まで東京アートポイント計画の共催事業だった「イザ!カエルキャラバン!in東京」の運営団体、NPO法人プラス・アーツを訪問。同じく災禍を扱うプロジェクトの先輩から、防災の楽しさをアート的な視点で伝える事業のデザインや、地域の人たちとの持続可能な運営の仕組みづくりについて学びました。プラス・アーツの活動と比較して、場の開き方や参加者の対象年齢も異なるカロクリサイクル。今後は、このヒアリングから生まれた関係性をいかして、双方の都内の活動拠点である江東区での連携を探っていくことになりそうです。
・「カロクリサイクル」アーツカウンシル東京公式ウェブサイト
・「NPO法人プラス・アーツ」公式ウェブサイト
さまざまな協働先とつながり、持続可能な事業運営の姿を描く

多摩地域を舞台にプログラムを展開する「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting(以下、地勢図)」は、府中市で活動する「Artist Collective Fuchu[ACF](以下、ACF)」を訪問。自分たちのミッションを、他の事務局の活動を知ることで見直したいと考え、まずは“ご近所”であるACFに、どんな活動をしているかなどを話しにいきました。現在は、ACFのメンバーが地勢図の活動にも参加するなどの行き来もはじまり、連携も強まっているそうです。
・「多摩の未来の地勢図 cleaving art meeting」公式ウェブサイト
・「Artist Collective Fuchu[ACF]」公式ウェブサイト
墨田区でプロジェクトを展開する「ファンタジア!ファンタジア!-生き方がかたちになったまち-」は、事務局やプロジェクトの運営、チームのディレクションについてなどを、先輩である地勢図に聞きました。地勢図は共催2年目ですが、運営するNPOは10年以上活動を続けており、長期的な展開についてのヒントをもらいました。
・「ファンタジア!ファンタジア!-生き方がかたちになったまち-」公式ウェブサイト
壇上では、拠点運営の方法や、行政をはじめとする外部機関とどう連携しているか、事業パートナーと自分たちのミッションをどう重ね合わせているか、それぞれの試行錯誤や工夫なども共有。3つの事務局はそれぞれ、運営者の世代も、運営団体としての経験値もさまざま。東京アートポイント計画のネットワークをとおして、プロジェクト同士で質問しあったり、相談できたりする環境があることの大切さにもあらためて気づいたヒアリングでした。
プロジェクト参画までの手立てを先輩に聞く

海外に(も)ルーツをもつ人々と映像制作のワークショップを通じて、多文化交流の新たなプログラムの開発を目指す「KINOミーティング」。共催1年目となる今年度は池袋と葛飾で2回のワークショップを実施しました。
ヒアリング先は、2011~2021年度まで共催していた「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」を運営するNPO法人音まち計画。国内に在留する海外ルーツの人々の、日本での日常生活に焦点をあてたプログラム「イミグレーション・ミュージアム・東京」では、多国籍美術展「Cultural BYO…ね!」を12月に開催していました。KINOミーティングのメンバーは、展覧会を視察し、会場となった仲町の家でヒアリングを行いました。
・「KINOミーティング」公式Facebookページ
・「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」公式ウェブサイト
「多文化共生」がテーマの両プロジェクト。ヒアリングでは、展示作品の公募方法や、幅広い参加者を募るための広報戦略、地域にある外国人コミュニティとの関係性のつくり方、海外ルーツをもたない方のプロジェクトへの参画方法に関する話題が上がり、「一度つくった関係性が冷めない工夫」がプログラムを豊かにするポイントになりそう、という手ごたえを感じた時間になりました。
プロジェクトを500年続ける徹底した仕組みづくりに触れる

国立市で、行政と連携してアートプロジェクトを実施する「ACKT (アクト/アートセンタークニタチ)(以下、ACKT)」と、神津島で人々が島に愛着をもち、当事者としてかかわる土壌を育むことを目指す「HAPPY TURN/神津島(以下、HAPPY TURN)」。この2つの事務局は、昨年度まで東京アートポイント計画として展開した「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」の運営団体である、社会福祉法人東香会に話を聞きにいきました。
ACKTは、プロジェクト2年目。今年度は活動拠点の調査を進めつつ、遊休地にテントを張り道行く人々とのかかわりや接点をつくる「・と -TENTO-」や、地域の資源をつかって土器をつくるワークショップを開催。共催6年目となるHAPPY TURNは、拠点運営を軸にアーティストプログラムや、教育機関との連携などを進めました。これから拠点をひらくために準備しているACKTと、すでにある拠点「くると」をどう運営・維持したらよいか考えているHAPPY TURN。拠点や場のひらき方や続け方を探っている両事務局は、そのヒントを得に、YATOの拠点である町田市の簗田寺を訪れました。
・「ACKT (アクト/アートセンタークニタチ)」公式ウェブサイト
・「HAPPY TURN/神津島」公式ウェブサイト
・「500年のcommonを考えるプロジェクト『YATO』」公式ウェブサイト
まずお寺に到着してYATOのディレクターである齋藤紘良さんに言われたのは「では、一緒に掃除しましょう」。みんなで庭の掃除をしてみると、お寺や里山の雰囲気が徐々に伝わってきて、この場所について自然と意識が向いていきました。YATOは「500年つづくcommonを考える」を掲げ、町田市忠生地域の寺院と里山を中心にこどもたちを対象にしたお祭り「YATOの縁日」や、ワークショップを開催してきました(2017〜2021年度共催)。東京アートポイント計画として共催した期間を振り返り、齋藤さんは「やるべきことのリズムができた」「拠点であるお寺や里山を自分の場所だと思ってもらえるようなものにしていきたいし、そのための取り組みを続けています」と話したそうです。
最初の掃除を通して、YATOが「500年」のスパンでやろうとしていることを身をもって体感した、と、ヒアリングに参加したメンバーは語ります。さまざまな人が、多様な関わり方でお寺や里山を訪れるようになる、いわば「アクセスポイント」をつくる工夫や事業展開から、人を巻き込み、活動を長く続けるための仕組みづくりを学びました。
拠点や活動で、排除せず受け止める

報告の最後を締めくくるのは、多摩と神津島という地域性の異なる場所でそれぞれにアートプロジェクトを実践する2団体。ヒアリングを希望した地勢図メンバーが、実際に「HAPPY TURN/神津島」の拠点「くると」を訪れました。
こどもたちの生きる力や、それを育む教育に焦点をあてたプログラム「ざいしらべ」を行っている地勢図のメンバーは日々、多摩の地域性や人々の暮らしぶりを、どう活動へ反映させていくべきか考えています。そこで、地勢図で進めている図工教員と連携したプロジェクトのヒントを得るべく、多摩と環境の異なる神津島がどのような教育環境にあるのか、離島という限られたコミュニティのなかでのこどもたちがどう暮らしているのかといった様子や、拠点運営の様子、これまでで変わったことなどの聞き取りを実施しました。
ヒアリングを振り返りながら、HAPPY TURN事務局メンバーの中村さんは「地勢図の方に、この場所をどういう場所にしたいかと聞かれたので、拠点ではとにかく排除をしたくない、という話をしました。家では自由にできないこどもたちも、『くると』では自由に振る舞えるように、ひとまず受け止めてから考えるようにしています」と語りました。同事務局メンバーの飯島さんは「『島の人にちゃんと見られるようとしなくちゃ』と思うあまり、自分が頑固になってしまったり、自分の判断で人を排除しようとしてしまうようなことがありました。いまはそこから変わって『くるととしてはどうしようか?』と、地域のお母さんたちや移住者も巻き込みながらみんなで意見をもち寄って話し合える局面にやっと来ました」と話しました。
「教育」をテーマにはじまったヒアリングでしたが、交流のなかで、地域を舞台に行われるアートプロジェクトが、拠点や活動をひらいていくために大切なこととはなにか、再確認する時間にもなりました。

これからも、学び合いの輪をひろげたい!
2019年度からスタートしたジムジム会。これまでは広報や事業評価などの「共通する大きなテーマや参考事例」をピックアップして、他の事務局とともにディスカッションをしたり、ゲストのトークに耳を傾けたりする機会をつくってきました。
ヒアリングでは、そこからもう少し踏み込んだ「それぞれの事業に即した実践的なこと」を話し合う機会になって、事務局同士のつながりも強まり、次の展開や手ごたえを感じたメンバーも多かったのではないでしょうか。
参加者からは、「先輩プロジェクトの話を聞いて、それぞれに時間的なスケールが大きく驚きました。自分達の事業をどのようなスパンで想定するか、今後考えていくきっかけとなりました」という感想や、「実際にやっていることが違っていても、まちや人とのかかわりのなかで通ずるものが、アートプロジェクトの運営のなかでもあるのだとあらためて実感しました」などの声が集まりました。

都内各地で、それぞれの視点からアートプロジェクトに取り組む事務局のメンバーたち。活動が違うからこそ自分たちの活動への気づきが得られたり、違っているけれども共通し合うことが見つかったりします。来年以降の「ジムジム会」は、どんな学びや展開が待っているのでしょうか。
(執筆:遠藤ジョバンニ)

(撮影:加藤甫 *1、2、4、8、9、10枚目)
ひとりひとりの人生の記憶に触れる。(APM#11 後編)
「Artpoint Meeting」は、東京アートポイント計画が各地で展開するアートプロジェクトから見えてきたトピックをとりあげ、事例を紹介するとともにゲストを迎えて新たな言葉を紡ぐ企画です。今回は「映像を映す、見る、話す」をテーマに、1月9日、東京・恵比寿の東京都写真美術館でひらかれました。
>レポートの前半はこちらから
レポート後編では、「セッション2:世田谷クロニクルをケアの現場でつかってみる」の後半について報告し、その後に上映した「ラジオ下神白 ドキュメント映像」とアフタートークの様子を紹介します。
[セッション2]世田谷クロニクルをケアの現場でつかってみる(後半)
[セッション2]の前半では、世田谷区内で収集した8ミリフィルムのデジタルデータ(世田谷クロニクル1936―1983)を活用した「移動する中心|GAYA」(以下、GAYA)の活動を紹介しました。プロジェクトを担当する松本篤さん(NPO法人remoメンバー・AHA!世話人)は、このデジタルデータのアーカイブを「つかう」方法を「サンデー・インタビュアーズ(SI)」というオンラインワークショップのなかで探るうちに、「福祉や医療との接合点になるのでは」と考えました。そこで出会ったのが、看護師・写真家の尾山直子さんとデザインリサーチャーの神野真実さんの活動です。
尾山さんは世田谷区にあるクリニックで訪問看護師を務めながら、大学で写真を学びました。卒業後はかつて暮らしのなかにあった看取りの文化を再構築する取り組みや、老いた人びととの対話や死生観、看取ることの意味を模索し、写真作品を制作しています。神野さんは、祖父の死をきっかけに、耳の不自由な祖母が引きこもる姿を目の当たりにし、社会包摂のあり方に興味をいだきました。現在は在宅医療の現場に身を置きながら、市民・専門家参加型のデザインアプローチで、在宅医療患者と家族・医療者が医療やケアについて対話しやすくするツールや環境づくりを行っています。

2人は、老いやその先にある暮らしに自分ごととして向き合うことができ、家族や周囲の人との対話の道しるべとなる本(『LIFE これからのこと』)を制作しました。また、ひとりの男性の人生最終盤にある暮らしの風景の写真と、その男性が書き綴った言葉による写真展「ぐるり。」を各地で開催しています。そうした活動が松本さんの知るところとなりました。
「日常の記憶や記録を大切にするためにアーカイブというアプローチを取っている松本さんたちと、訪問医療の現場で患者さんの大切にしてきたことや物語を引き継いで暮らしを支えるケアには、共通するところがあるのではないか」(神野さん)ということから、「世田谷クロニクル」の映像を在宅医療の現場でつかうプロジェクトが始動。他の看護師にも協力してもらい、三十数人の在宅患者の家で、「世田谷クロニクル」の映像をケアに取り入れる試みを行いました。
ある女性の患者は、上野動物園の映像で着物で生活している人びとの姿を見て、自分も着物を着ていたと話しはじめました。着物の話から裁縫の話に移りかわり、共通の関心を持つ神野さんと糸の話で盛り上がる時間もみられました。
「映像を見ると、最初は映像から想起された地域の話をしているのですが、だんだん自分の記憶と関連するエピソードを語りはじめるんです。『世田谷クロニクル』から彼女自身のクロニクルになっていくのがとてもよかった。ケアをする私たちにとって、彼女の個人史とかどのような暮らしをしてきたかという情報は宝物だからです」。(尾山さん)


この現場では、看護師ではない神野さんにとっても気づきがありました。「チエコさん(患者さん)にとって、看護師は日常の登場人物の一人であり、彼女の人生に関連する映像を看護師が選び、勧められたからこそ抵抗なく見ることができる。日頃から信頼関係をつなぎ続けているから、さまざまな語りが引き出されたんだとあらためて思いました」。

2人の感想はさらに続きます。「『世田谷クロニクル』はウェブの映像をいつでも誰でも見ることができます。私たち看護師も本人の物語を引き出すためにアプローチをしていますが、その新たなひとつの手法として使用してみたら、いろいろな反応があった。映像をテレビにつなぐと家族も集まってきて世代間で会話がはじまったことがありました。その一方、思ったほどの反応じゃない方もいて、私たちにとってもトライアル&エラーでした」。(尾山さん)
神野さんは、他の看護師とともに「振り返り」をした内容も交えて、こう語ります。「映像を見ると、いまは記憶が混濁していたり不安定な方も、子供時代の鮮明な記憶を話されることが多かった。それが心の安定や自信の回復にもつながる。普段はケアする/されるという関係性だけど、その場面では、知識や経験の豊富な人として教える/教わるの関係性に変わっていく。過去の記憶を受け取る行為がケアにつながるということも看護師たちから教えてもらいました。映像はその人の人生に深く触れていく、ケアのツールとして豊かな可能性が開けるんじゃないかと話し合いました」。
総括的な感想を受けて、松本さんが語ります。「映像を見てもらうことで、(高齢の方々の)残り少ない時間を奪っていないか、善意の押し売りではなく、見ること・語ることにちゃんと魅力を感じてもらっているか、と悩ましい状況に直面している感覚が僕にはあります。文化事業として、他領域の現場でどうあることができるか、どうあるべきかという、われわれのスタンスや倫理観が問われていると感じていました。でも、(看護師の)プロフェッショナルの身体やそこで感じる感覚が、われわれの学びになるとも思います。自分たちなりに消化して、次の発展として文化と医療の間に新しい領域を開拓できないかと考えています」。

[セクション3]映像と音楽でプロジェクトを追体験する
ここまでに紹介した2つの事例の現場はいずれも東京でしたが、[セクション3]は、福島県いわき市で行われたプロジェクトの様子を収めた映像を上映しました。『ラジオ下神白(しもかじろ) ドキュメント映像』(70分、2022年)です。東北の各地で人びとの語りと風景の記録から作品制作を続ける小森はるかさん(映像作家)が、監督・撮影・編集を担当したドキュメンタリー映像です。

映像の冒頭は雲が垂れ込める田園風景のショットで、そこに高齢の女性の歌声が重なります。数分後、スクリーンには突然、青空のもとにそびえる、真新しい団地が映し出されます。そこにナレーションが流れます。
下神白団地の皆さん、こんにちは。ラジオ下神白です。あのとき、あのまちの音楽から、いまここへ。司会のアサダワタルです。
下神白団地は2015年に完成した県営復興住宅です。東京電力福島第一原子力発電所の事故で被災した人たちが多く入居しています。ここを現場として2016年に始動したのが、「ラジオ下神白 あのときあのまちの音楽からいまここへ」というプロジェクトです。
プロジェクトディレクターのアサダワタルさんは音楽と文章表現を支点として、さまざまな生活現場に赴き「これまでにない他者とのつながり方」をプロジェクトとして実践してきました。下神白団地では、住民の部屋を訪ねて、お茶を飲みながら思い出と記憶に残る歌を聞き取り、その内容を収録したCDを架空のラジオ番組「ラジオ下神白」として団地内で配布する、という活動をはじめました。


小森さんが撮影した映像はアサダさんたちの活動に寄り添いつつ、下神白団地の日々と風景を丹念に収録しています。コロナ前の団地訪問の様子から、有志メンバーによるバンド活動、コロナ禍でのオンラインベースでの交流など、数年かけて積み重ねてきたプロジェクトの軌跡が感じられました。関東地区では初めての上映だったこともあって、終映後、会場はしばし拍手に包まれました。その余韻が醒めやらぬなかで、トークが始まりました。
トークに参加したのは、アサダさんと小森さん、ゲストは行動学者の細馬宏通さん(行動学者/早稲田大学文学学術院教授)です。まずアサダさんがこのプロジェクトの成り立ちと経過について説明します。「下神白団地では、演劇などで震災復興に関わる団体が以前から活動をしていました。その団体から、家から出ない人とも関われるプロジェクトができれば、と相談を受けました」。

その背景には、復興住宅の特殊な状況があります。原発事故で被災した4町の人びとが、1・2号棟が富岡町、3号棟が大熊町、4・5号棟が浪江町、6号棟が双葉町と分かれて入居しています。住民の大半は高齢者で、独り暮らしの人も少なくありません。集会場に来ない人とはほとんど交流する機会がありません。そうした状況に向き合って、アサダさんが編み出したのが「ラジオ下神白」という試みです。
「僕は一人ひとりに焦点をあてて、個の部分と地域性がグラデーションで浮かび上がる、ということを考えて、個をつなぐような音楽メディアとしてラジオ番組のCDを制作することにしました。テーマを決めて住民に取材して、その語りなどを収録したCDを、4か月に1回くらいのペースで制作して団地内に配布してきました」。
プロジェクトはさらに広がって、「ラジオ下神白」の活動を伝えるイベントを東京などでひらいたり、現場に通いたいという方々とバンド(伴奏型支援バンド(BSB))を組んで住民に思い出の曲を歌ってもらったりしました。コロナ禍のなかでもオンラインで住民との交流を続けました。2022年には、これまでの音源や新たに住民が自宅で録音した歌声をミックスして、音楽CD『福島ソングスケイプ』を制作しています。今回の映像上映は、プロジェクトにとって最新の活動です。

細馬さんはすでに『福島ソングスケイプ』を聴いていて、「歌謡曲をお年寄りが斉唱しているだけやのに、ものすごくおもしろい。去年聴いたCDで一番感動した」そうです。そのうえで映像を見て「2度びっくりした。こんなに分厚い歴史があったんや」と語ります。映像については「小森さんが(アサダさんたちと)いっしょに住民のお家に入っていって、定点観測的に撮影しているのが印象的」と話し、小森さんの「立ち位置」について尋ねました。
小森さんがこのプロジェクトに参加したのは2018年。「文字で記録する役割の編集者の方が、文字では残せないことが起きていると思われて、声をかけてもらいました。現場では住民との関係ができあがっていて、お宅を訪問すること自体がプロジェクトの肝になっていました。いっしょにお茶を飲む輪のなかから撮ることがはじまりました」。

そうした小森さんの撮影を、細馬さんは「文化人類学的」と評します。「いつも『知った態度』で撮らないですよね。例えば映画のなかの一場面で、ラジオから『集会所の黄色いポストにリクエストを入れてください』というアナウンスが流れます。(観客は)『何っ?』と思う。その後、集会所のショットが映されて『あの黄色いのがさっきいっていたポストか』と発見する」。
映像の後半は、クリスマスに住民が多数集まった「歌謡喫茶」や、バンドの演奏など、音楽の要素が前面に出てきます。そのなかで、細馬さんは素朴な疑問を感じたようです。住民の人たちが思い出の曲として歌っているものに「福島固有の歌が入っているかと思ったら、『宗右衛門町ブルース』。どういうことです?」。

アサダさんが答えます。「震災以前の思い出を聞くところからはじまって、そのなかに出てきた曲の音源を聞いて、たまたま口ずさんだことをきっかけに歌ってもらうようになったからです。そこから、記憶に寄り添うためにアーカイブとして歌を引き出すようになる。団地のコミュニティのなかでは、例えば『宗右衛門町ブルース』といえばあの人ねという風に特定の住民と結びついて共有されるようになりました。音楽ってそういうふうにつかいこなせるんだなぁと思いました」。
小森さんも相槌を打つように「バンドメンバーはその人の話を聞いたり、その曲を好きな理由を想像しながら演奏しています。演奏する人にとってもただの曲じゃないものに仕上がっているんです」。
細馬さんは「むしろ聞き手がそのことを発見する必要がある」と応じます。「CDには、その人がイントロからはじまって山あり谷あり、危機も乗り越えてなんとか歌い終わった、というときの不思議な感じがある。そういうのは音楽にとってとても大切なことです」。
『ラジオ下神白 ドキュメント映像』の最後に、アサダさんたちのバンドが東京で『青い山脈』を演奏します。戦後まもない1949年のヒット曲です。そこに、下神白団地の自宅で歌声を録音する一人ひとりの姿が挿入され、東京と福島の距離を超えて渾然一体となったパフォーマンスが繰り広げられます。熱唱する下神白団地の人びとの胸に去来したもの。それは、アサダさんたちとの交流によって新たに想起された「山あり谷あり」の人生の記憶だったのではないでしょうか。「映像」を媒介としてコミュニケーションを開き、それぞれの人生の記憶に寄り添う試みを紹介した今回のArtpoint Meetingを象徴するエンディングでした。
(撮影:阪中隆文)
映像がひらく、コミュニケーション。(APM#11 前編)
東京アートポイント計画は地域社会を担うNPOと連携して、社会に新たな価値観や創造的な活動を生み出すために、各地でさまざまなアートプロジェクトを展開しています。そのなかから見えてきたトピックをとりあげ、事例を紹介するとともにゲストを迎えて新たな言葉を紡ぐ企画が、2016年から続く「Artpoint Meeting」です。その第11回が1月9日、東京・恵比寿の東京都写真美術館でひらかれました。
テーマは「映像を映す、見る、話す」。地域の日常に寄り添うアートプロジェクトの現場では、しばしば映像をつくることやつかうことから、さまざまな人びとを結び、語りの場をつくる試みが行われています。今回のArtpoint Meetingでは「KINOミーティング」、「移動する中心|GAYA」、そして「ラジオ下神白」という3つの取り組みにかかわるメンバーとゲストが映像を見ながら、語り合いました。
[セッション1]映画が映すまちと映画制作が作るまち
KINOミーティングは、東京アートポイント計画の一環として、2022年4月に始動し、海外に(も)ルーツを持つ人たちを対象とした映像制作のワークショップを手がけています。プロジェクトメンバーの阿部航太さん(デザイナー・文化人類学専攻・一般社団法人パンタナル)が説明します。
「ワークショップの参加者はまちに出て、映像や音声、写真などを使って自分自身のルーツと向き合い、同時に自身とはルーツの異なる人びとと互いの視点を交換して、協働しながら映像作品をつくります。新しい映像表現の発見を目標にしつつ、異なるルーツを持つ人たちがいかに協働できるかという視点でプロジェクトを展開しています」。

この日は「シネマポートレイト」というワークショップで制作した映像作品を上映しました。静止画がゆっくり切り替わっていく画面に、参加者の語りが重なるという実験的な映像作品です。
「参加者は3人1組になって、自分のルーツを見つめる3時間の小さな旅をします。1人はまちで自分のルーツについて思い出したエピソードを語ります。別の1人がそれを録音し、もう1人は旅をする様子をインスタントカメラで撮影します。その役割をローテーションして、最終的には2分間の映像作品を3本つくります」。(阿部さん)
上映したのは昨年、池袋と葛飾で撮影した5本の映像です。昼間の街を歩きながら「日本の夜を散歩するのが好き」と語る美術大学の留学生や、東京の青空と空気の匂いから中国の故郷を対比的に思い出す女性。日本に来る前に留学していたカナダのダウンタウンと日本の下町を比べつつ、日本の下町でも自分のルーツを感じる、と語る大学院生……。東京のまちの片隅を切り取ったインスタント写真の色調はどこかノスタルジック。そこに、ときにアクセントのある日本語に、英語や中国語が交じる語りが重なると、どこか見知らぬまちに迷い込んだような映像を体験することになります。
上映後のトークには、「シネマポートレイト」を設計した森内康博さん(映像作家/らくだスタジオ)とゲストの馬然(マラン)さん(名古屋大学人文学研究科准教授/東アジア映画研究者)が加わりました。馬さんはシネマポートレイトについて「ジョナス・メカスの日記映画的なジャンルに近い」という印象を語ったうえで、こう続けます。
「目の前に現れる風景に、自分の故郷やかつて住んだ場所の風景を思い出している。複数の時間が描かれている。アクセントのある日本語や英語が入っているのも素晴らしい」。
阿部さんも「ひとつの風景が言葉を通して見ると、違って見えるし、観客の感情を反映すると、また別の風景に見えるかもしれない。アクセントのある日本語にはその人が移動してきた経路が反映されている」。
馬さんも「rootsだけでなくroutes=軌跡もあって、その人の歴史が2分間の映像に入っている」と大きくうなずきました。その映像表現の特徴について、森内さんは「撮られた写真と語られるエピソードの時間や空間は一致していないけれど、僕たちは映像を見ながら、頭の中でイメージをリンクさせながら、想像的な見方をする。それはすごく映画的な表現です」と指摘しました。

ここでトークを一休みして、「シネマポートレイト」のメイキング映像が上映されました。その映像を見ると、自分のルーツを探す役割の人、録音担当、撮影担当の3人が、初対面であるにもかかわらず、活発にコミュニケーションをしていることがわかります。そうやって生まれるコミュニティを、KINOミーティングでは「まち」と呼んでいます。
その「まち」の生成に、インスタントカメラが一役買っていることを森内さんが明かします。「インスタントカメラのフィルムは1パック10枚です。つまり10枚しか撮れない。短い旅のなかで何を撮るかを決めて、撮った写真をお互いに共有しなければならない。初対面の3人は、まず写真を介してコミュニケーションを始めます。シネマポートレイトという制作は、お互いの自己紹介の時間にもなっていると思います」
阿部さんは「KINOミーティングは多様性とか多文化共生といわれる分野のアートプロジェクトですが、交流の在り方をちゃんと考えなきゃいけないと思っています。交流だけを大事にするのではなく、新しい映像表現を発見することを第一の目標としてワークショップを行っています。いい作品をつくるにはコミュニケーションが必要。だから、工夫してコミュニケーションを実践しています」と言います。
ここで、馬さんが「議論が分かれたときに、クロスカルチャー的なコミュニケーションはできますか」と問いかけます。それに対して、森内さんは「シネマポートレイトは1日限りのプログラムなので、議論はそこまで起きていない。でも、ワークショップが続くなかで、この経験があった次に協働する際にはコミュニケーションのトラブルが起きても建設的な議論になっていく」と確信を語りました。

[セッション2]映像アーカイブをケアの現場でつかってみる
次のプロジェクトは、「移動する中心|GAYA」(以下、GAYA)。「文房具としての映像」というコンセプトの普及に取り組む、NPO法人remo(記録と表現とメディアのための組織)が東京アートポイント計画の一環として実施しています。GAYAの企画運営は、このremoを母体とした活動であり、家族写真や8ミリフィルムなど「市井の人びとの記録」に着目したアーカイブプロジェクトを展開するAHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]が行っています。
2015年にAHA!は世田谷区にある「生活工房」と連携し、世田谷区民を中心とした家庭に眠っている8ミリフィルムを募集し、約200本の提供を受けました。その一部をデジタル化し、84巻約15時間の映像を収録するウェブサイト「世田谷クロニクル1936−1983」を2019年に公開しています。
当日は「世田谷クロニクル 1936-1983」に掲載されたデータから2本の映像が、松本篤さん(NPO法人remoメンバー/AHA!世話人)の解説とともに上映されました。一つは「上野動物園」(1936年)。行楽で出かけた際に撮影したものと思われますが、後に戦時体制下で殺処分されるゾウたちの姿も写っています。もう1つは「消え行く玉電」(1969年)。世田谷の人びとに愛された路面電車が廃止になるまでの数か月間を記録しています。
このデジタル化した8ミリフィルムのアーカイブを活用するために2019年に始まったプロジェクトがGAYAです。公募したロスト・ジェネレーション世代のメンバーと映像を見て、語り合うオンラインワークショップの「サンデー・インタビュアーズ(SI)」というプログラムを実施してきました。その意義を、松本さんはこう語ります。
「サンデー・インタビュアーズは、余暇の時間としてあった当時の〈日曜日〉を、現在の〈日曜日〉から見つめ直すという、「日曜日」についての実践と研究の場です。参加者はプロのインタビュアーではなく、公募で集まった日曜大工ならぬ、ロスジェネ世代のDIY精神溢れる〈アマチュアの聞き手〉。彼らは映像の撮影者ではなく、親が撮る映像の被写体にあたる世代。なので、映像を少し距離感のある状態で見ることになります。そのときもしかすると、昭和の時代をレトロスペクティブに語ること自体の違和感や、いまの時代と異なる点への気づきなどが生じるかもしれない。そういった実感を深めていく。〈当事者ではない〉という当事者性を獲得していく。それは過去を経由していまの自分の場所を考えることにつながる。あるいは、誰かの記憶を借りながら自分の記憶をつくっていく作業になるのではないか」。

「サンデー・インタビュアーズ」の実践を通して、ロスジェネ世代の参加者は親の世代の価値観に触れ、やがて親のケアの当事者となっていくことにも気づいていく。アーカイブの活用が、異なる世代、異なる時間軸をつなぐものとなるのではないかという可能性がふくらんできました。「アーカイブをつくる、つかうということは、文化的な営みにとどまらず、福祉とか医療との接合点になるのではないか」と松本さんは考えました。そこから、ある邂逅がもたらされました—。
(撮影:阪中隆文)
誰もが「災禍の記録」を語り、きくことで、記憶は生き続ける——瀬尾夏美「カロクリサイクル」インタビュー
2022年の春から活動をはじめたアートプロジェクト、「カロクリサイクル」。カロク=禍録とは「災禍(さいか)の記録」のことで、自然災害や戦争のような災厄(さいやく)を体験した人、目撃した人が、語りや文章、映像など、さまざまなかたちで残した記録のことを指します。
2011年の東日本大震災後、東北に移住し、10年にわたり被災者の経験に耳を傾けてきたアーティスト・瀬尾夏美さんらが中心にはじめたこのプロジェクトでは、こうした禍録との新しい向き合い方や、語り部のネットワークの形成などが目指されています。
例えば、禍録という「記録」からみんなで「表現」をしてみたり、別々の土地で災禍に見舞われた人たちが、禍録を通してお互いの経験のなかに共通性を見出したり。このように、各地で独自に生まれ、引き継がれている複数の禍録をつなぎ合わせ、それを新しい表現やコミュニティの起点として機能させる狙いが、「リサイクル」という言葉に込められています。
震災から10年を超え、22年には東京に戻った瀬尾さん。生まれ故郷である東京での活動には、自身の足元を見つめ直し、そこにいる「語りを必要とする人」を意識したいという思いもあるようです。カロクリサイクルの活動について、瀬尾さんにお話をききました。
(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:池田宏 *1、2、4、10枚目)
一人の「災禍の記録」を、一人ぼっちにさせない
——「カロクリサイクル」のはじまりや、そこにある問題意識をきかせてください。
瀬尾:「禍録(カロク)」とは「災禍の記録」という意味で、災害や戦争を経験した人が残した記録のことです。禍録はさまざまな土地に存在しますが、そのような過酷な体験から人が再び立ち上がる過程には、時代や場所、出来事の違いにかかわらず、共通するものがあります。ならば、他者の経験や感情を想像し、共感する一助として、禍録が使えるのではないか。これが、プロジェクトの出発点にある問いです。
こうした取り組みは、「防災」という具体的な問題に対しても有効ですが、同時代にも災禍を経験した人たちがたくさん各地にいるなかで、その人たちを一人ぼっちにせず、互いの状況を想像したり、一緒にできることを見つけたりするうえでも意味がある。それが、私自身が東北でこの10年ほどやってきたことの延長にある視点だと思っています。
つまり、同時代的なネットワークをつくること。他者の状況を想像する力を身につけるうえで、記録という一種の「表現」が介在し得ること。わたしたちのミッションは、そうした視点から禍録のリサイクルを考えることだと思っています。その先に、同じ被害を出さない未来があり得ると信じて。

——瀬尾さんは東日本大震災の翌年、2012年に東京から東北へ拠点を移され、震災を体験した多くの人の話をきかれてきました。まさに東北で禍録を収集してきたわけですが、そうした活動を経て、東北以外の禍録の存在も意識するようになったのでしょうか?
瀬尾:東北で人からきいた話を、違う土地の災禍を体験した人に話すという場を多くつくってきたのですが、誰かが話しはじめると、きいている人は自分の体験と重ね合わせたうえで語りだすことが多くて、いろいろつながるんですね。例えば、神戸の人たちは東北の話をきいたあとに阪神・淡路大震災の話をしはじめるし、広島の人は、東北の復興工事が原爆投下後の戦後復興と重なると話されていました。人が語る体験が、別の体験者の語りのスイッチになるという発見は、自分のなかで大きかったと思います。
東北で活動を続けていると、どうしても「東日本大震災」というイシューが自分にとって特別なものになってくるんです。一方で、最近は各地で深刻な自然災害も増えてきました。例えば、2021年からは宮城県の丸森町(まるもりまち)も取材しているのですが、この土地は2019年の台風19号で大きな被害を受けました。その被害規模は東日本大震災には及びませんが、現地には家族や家を失い、ほかの土地に移る人たちがいて、個人レベルでは同等といっていいような被災体験があります。
にもかかわらず、その被害は数としては「小さい」ので、どうしても忘れられてしまうし、「東日本大震災よりは大変じゃない」といった現地の方の声も聞かれます。そこで、「いや、ここにも被災をして、困難を抱えている人がいる」と目を向けることは、私のような被災当事者ではない「よそ者」にこそできることかもしれないと思っています。
——メディアや報道はどうしても、災害の直後に集中的に被災地を取り上げ、次の災害が起こるとそちらへ、という消費的な態度になりがちですよね。しかし当然、それぞれの被災者の方の時間はそのまま続いている。
瀬尾:東北での活動の記録をまとめた『あわいゆくころ──陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019)という本を出したとき、神戸の人が手紙をくれました。彼は阪神・淡路大震災でお子さんを二人亡くした方でしたが、東北の震災が起きたとき、これで神戸に向けられていた注目は東北に行っちゃうんだと感じたそうです。でも、数年経ち、岩手県の沿岸部を訪れた際、そのまちの人々が自分の講演をきいて泣いてくれて、人の視線を奪い合うのではなく、同じ痛みを経験した者同士で出会った方がいいと思えるようになったと話されていました。
こうした経験が、ほかの土地や出来事でもきっと多くありえると思います。私のような、ある土地に根ざしたものを、できるだけ丁寧にすくい取ろうとする「アート」という営みを仕事にする人間が、そこでできることがあるのではないか。震災10年目の頃から、そうしたことを意識的にやりはじめました。コロナ禍でオンライン化が進み、ネットワークが構築しやすくなったことも背景の一つですね。

各地の語り部同士、個々の語り部の記憶をつなぐネットワークを
——東北で活動されるなかで、各地の取り組みや語り部を「横」につなぐネットワークの不足を感じられたのでしょうか?
瀬尾:「不足」もありますし、甚大な災禍があり、「当事者」と呼ばれる人の規模がどれだけ大きかったとしても、出来事から10年、20年が経つと、それを引き継ごうとする人の数は意外なほど減っていくということもあります。
東日本大震災も、当初はみんなが語り部のような状態でしたが、10年が経ち、まちで一人、二人しか語りを担う人がいない土地もあります。もちろん生活こそが絶対的に大事なわけで、これはこれである種ポジティブというか、パワフルな変化なんですよね。
——「平時」が戻ってきた、と。
瀬尾:そうですね。それに、災禍を忘れたい、話したくないという方もいます。それも当然、尊重されるべき感情です。一方、経験を伝えようとする人が孤独に陥っていることも感じていて、単純にそれまでの活動の蓄積が消えてしまうことを惜(お)しむ気持ちもあります。であれば、各地の被災地で少なくなった語り部や伝承にかかわる活動をする方同士が知り合えたら、支えになるのではないかと。
災禍の継承にはいろんな社会課題が絡みます。ときには、裁判に発展することもあるため、その災害の特殊性を主張しなければいけない場面もあり、それも大事なことです。しかし、そうしたなかでも、一つの正解を求めたり、ある種の闘いに参加するのではなく、もう少し緩やかに心情的な共感を探すような時間や場をアートはつくり出すことができるように思っています。何より、そうした現場をつくる過程のなかでどんなことが起きるのか、私自身が知りたいという思いがあります。
——さきほどの神戸と岩手の方々のつながりもそうですが、瀬尾さんがこれまで、異なる土地や時代の人々の経験に感じたつながりで、特に印象的だったものは何ですか?
瀬尾:以前、広島の平和記念公園を訪れた際、あるおじいさんに話しかけられました。その方が一番見せたいものだと案内してくれたのが、国立広島原爆死没者追悼平和記念館の地下1階にある地層標本だったんです。広島の地層を切り取ったオブジェですが、彼が指差す部分を見ると、現在の地面の1メートルほど下に被曝前のまちの地層がありました。おじいさんは、その「自分がかつていたまちの地層」が見せたかったんですね。
旅行者には「平和記念公園はきれいでいいですね」と褒められるけど、ここは、自分たちが以前暮らしていたまちを1メートルくらい埋めた上にある公園なんだ、と。そこにもともと公園があったのではなく、暮らしがあったことを忘れてほしくないと話されていたんです。
——それはまさに、瀬尾さんが東北の埋め立てられた土地を「二重のまち」と表現されていることと重なりますね。
瀬尾:そうなんです。似たことがほかにもあって、第五福竜丸事件の資料が並ぶ東京都立第五福竜丸展示館に行った際、マーシャル諸島で活動する詩人が話す映像がありました。マーシャル諸島は核実験の被害と同時に、温暖化による海面上昇の影響で島が沈むというので、陸地を嵩上げする計画があるそうです。それに対して映像のなかの詩人が、嵩上げはせざるを得ないけれど、丘や草原の一つひとつに記憶があり、民話や歌があり、それを埋めることは私たちが物語を失うことだと話していて、私が陸前高田できいた話と重なると思ったんですね。
災禍そのものだけではなく、その後の復興工事によって失う集団的記憶があること。そして、マーシャル諸島が核実験の舞台になったり、大国の放出した二酸化炭素の影響で海面上昇の煽(あお)りを受けたりすることには、東京の電気をつくるために福島が被災することや、ソーラーパネルの設置で地滑りが起きることと同じで、構造的な格差がある点も共通しています。
——災禍の跡を辿ると、その背景にあった構造の共通性も見えてくる。
瀬尾:例えば、東京の人がソーラーパネルと地滑りをめぐる報道をきいてもなかなか自分ごとには感じないけれど、せめてそれが構造的につながっていることは知っていてほしいと思います。だけど、それを「知らなきゃ駄目」と直接語りかけても、みんな生活が大変で余裕がない。そうしたなか、さまざまな土地に似た話が共通してある状況を見せることで、自然とほかの土地に想像が向くようになるといいなと思います。

より逞しく、遠くに届く「語り」とは
——被災地以外に住む「当事者」ではない人のなかには、戸惑いや後ろめたさのため、禍録へのかかわり方に悩む方もいるように思います。そうしたなか、瀬尾さんは以前、そのような戸惑いをもつ人も、禍録を巡るサイクルのどこか「一部」にはかかわることができると話されていた。これは多くの人のハードルを下げる考え方だと感じました。
瀬尾:震災後の東北で、「みやぎ民話の会」という、宮城をはじめとした東北の民話の採訪を行うサークルの方々と知り合いました。そこで知ったのは、民話というのは、「あったること」(ほんとうにあったこと)であるという前提で語られること。これは、ヘビとかキツネとかの話のような、かなりフィクショナルな話でも同じで、そこでは語り手と聞き手が手をつなぎながら、その「あったること」の世界に入っていくんだそうです。
そのとき、「あったること」とは一体何なのか。例えば大昔に、何か絶対に語らねばならない体験をした人がいる。それは洪水や飢饉、継子話(ままこばなし)だったりするかもしれない。それを目撃した人が誰かに伝えなきゃと思って、直接体験していない人に話すとき、相手がショックを受けないように、例え話や笑い話を入れたり、あるいは別の地域のエピソードを入れたりすることもある。そうして、いろんな方法で次の人に渡していくんだと思うんですね。
これはつまり、例えば震災体験を「この震災の話」としてだけ受け継ぐのではなく、間に入る無数の人が「自分の話」として語れる余白がある方が、結果的に逞(たくま)しく、遠くまで届く語りになるということではないか。当事者か否かに関係なく、これは大事と思ったら、自分に引きつけながら次の人に渡す。自分の体験や身体性も入ってよくて、そうして伝わる話の方が、当事者かどうかで精査された話よりも豊かだと思っているんです。
——確かに、一言一句を正確に伝えなければいけないと思うと、そこで語りが止まってしまう可能性もあります。
瀬尾:ハードルが高くて、かかわりたくなくなると思うんですね。もう一つ、これはアートにかかわる話ですが、強烈な体験をしたからそれを表現する資格があるということではなく、誰もが体験したことや感じたこと、考えたことを表現して誰かに渡していいと、シンプルに思います。アーティストだけがそれをやれるわけでも、アーティストが一番できるわけでもない。アーティストは表現を促す人になるのがわりと得意なのかなと思いますが、担い手は誰もがなれるはずだと思っています。
禍録の視点から東京を歩く。「記録」を「表現」に変える
——瀬尾さんと、瀬尾さんが代表を務める「一般社団法人NOOK」は、今春に東京へと拠点を移され、4月からカロクリサイクルの活動をはじめました。これまで東京ではどのような活動を行ってきたのでしょうか?
瀬尾:基本的には、禍録が残された場所を訪れ、災禍がどのように記述されてきたかということをリサーチしています。訪れる場所はさまざまで、5月の初リサーチでは、東京大空襲・戦災資料センターが発行する『戦災資料センターから東京大空襲を歩く』(2005)というガイドブックを頼りに、江東区の妙久寺にある戦災殉難者供養碑や、焼け野原を描く作品を残した俳人・石田波郷の記念館などを回りました。散策後は議論を行い、文章をブログに残しています。おもしろい手法で禍録を残している人と出会ったり、その人と情報交換することもまち歩きの目的です。

——東京水道歴史館や、戦後の版画教育についての展示など、訪問先がユニークですね。夏には、「記録から表現をつくる」というワークショップも行われたそうですね。
瀬尾:これは、残された記録を見たり、記録を元に表現をしている作家の話をきいたりすることを通して、参加者も記録から自分の「表現」を考えるというもので、全国から十数人が参加してくれました。さきのアーティストの話にもつながりますが、日本では教育の影響もあって表現することのハードルが高い。それを、少し変えたいという思いもあります。
具体的には、参加者同士がペアになってお互いにインタビューをしあい、相手の語りを文章にして朗読してみることからはじめます。そこで、話をきかれることの楽しさや、書いて表現してみることから生まれるコミュニケーションを体験します。その後、自分の記録したい対象を調べ、中間発表とフィードバックを重ねます。最後には、リサーチの過程で出てきた記録物や資料を構成したり、朗読などのパフォーマンスを組み合わせながら、展示空間をつくります。実際アウトプットしてみると、みんな結構自信がつくというか、表現ってこんなハードルが低いんだ、と感じられるし、お互いの表現を見て感想を言い合うのって楽しいんですよね。そのうちの数人は今後も発表を続けようとしていて、コミュニティも生まれていますね。
「カロク・リーディング・クラブ」という企画では、東京と岡山をZoomでつないで同じ記録を見ながら「てつがくカフェ」のやり方で話し合う場をつくりました。岡山県では真備町(まびちょう)の豪雨被害などもあり、異なる災禍を経験した土地の人たちとネットワークづくりをはじめています。

さまざまな背景をもつ人たちのために、自分のために、いろんなことを知っていく
——江東区内に、カロクリサイクルの活動拠点もつくろうとされているとか。
瀬尾:拠点はいま準備中で、そこで何ができるかを考えている段階です。江東区を選んだのは、水害の歴史やリスクがあるからでもあります。そこでどんなことが起きたのか、地域の人とかかわるうえで、まずは共通言語として知っていきたい。ただ、日常生活のなかで地元の災禍のリスクを考えるハードルは高いと思うので、直接、地域の災禍について触れるのではないやり方で、災害に関して考え、過去をひもときながら、これからを想像するような拠点ができないかと最近は考えています。
また、拠点の近くには外国籍の方も多く住んでいます。私たちがこれまで調べてきた各地の災禍のなかには、そうした人たちの故郷で起きた出来事もありますが、それを伝える際、宗教的な背景や生活習慣の違いで考えなければいけないこともある。そうしたことも学びたいと思っています。
——ほかに、これからしたいと考えている活動についてもきかせてください。
瀬尾:私たちができること、得意だと思うことは、やっぱり東北とつなげることだと思います。
先日、「プラス・アーツ」というNPOの東京事務所に話をききに行きました。こちらは、阪神・淡路大震災の経験を出発点に、防災にまつわるノウハウをゲームのように楽しめる教材にして、こどもたちに向けてワークショップを行っている団体です。そこで印象的だったのは、その方たちはずっと東北でも活動をしたいと思っているけれど、知見があるからこそ、いまはまだ行くべきではないと考え、なかなか訪れることができていないということでした。

それに対して、私たちはずっと東北にいたので、東日本大震災から10年が経ち、すでに小学校に通うほとんどの子が震災を体験していないことや、一方で、大人のなかにはまだ傷が癒えていなくて、自分たちで教育をすることがしんどいけど、何かやらなきゃと思っている人がいることも知っている。プラス・アーツの方たちに、「いま東北での活動が求められていると思います」と伝えることができる。そうした、東北とほかの地域のつなぎ役もしていけるのかなと感じています。
——多岐にわたる活動ですね。
瀬尾:そうですね。ただ、それらを自分がコントロールしようという気はなくて。むしろ、先ほどのワークショップの参加者が独自にコミュニティをつくったり、岡山のチームが勝手に動き出したりすることがおもしろいし、楽しい。その方が、私自身の知見も増えるじゃないですか。そうやっていろんなことを知れば、自分もいい物語が書けるかもしれない。
——自分の創作にも跳ね返ってくる。
瀬尾:もちろん。私は慈善事業をやろうとしてるわけではないので、個人的な動機がなければこうした活動はできないです。プロジェクトには、個人の欲望や身体の感覚がちゃんとあるべきだと思うし、それは参加してくれるいろんな人にとってもそうであってほしい。研究をする人もいれば、まちづくりにいかす人も、演劇をつくりたい人もいる。そういう信頼関係のなかで情報を共有しながら励まし合っていけたらいいんじゃないか、と思っています。
日常のなかにある「語り」をきき逃さないためのコミュニティ
——東京は災禍の記憶やリスクをもつまちであると同時に、瀬尾さんにとっては生まれ故郷でもあります。東北での経験を通して自分の足元への意識が変化した部分はありますか?
瀬尾:東京という土地に対してよりも、災禍を経験して、そのことについて考えたり、傷を負ったままの人たちが同時代にも暮らしていることをちゃんと意識しないといけないという気持ちの方が強いかもしれません。
私の祖父は、戦争で南方に行って帰ってきた人でした。私の世代の「あるある」かもしれないですが、二世帯住宅でじいちゃんが家にいて、認知症でもあったので、戦争の話をしはじめると止まらないということがよくありました。それに対して私や家族は、「じいちゃん、もういいよ」という感じで、自分の日常生活から、ある体験や記憶を語らなければいけない人のことを排除してきた感覚があって。確かにみんな忙しいから、なかなか日常的にきくことは難しいですけど、もっときいてあげた方がよかったな、と。これは私にとって原体験的なものなんです。
そんな風に、同時代を生きている人のなかには、語らずにはおれない、語ることを必要としている人たちが実はたくさんいる。それを抑圧している状態が嫌なんです。きいた方がコミュニケーションも楽しいし、継承の機会にもなる。東京って、いろんなパターンで、いたるところにそうした人がいる場所でもあると思います。その人たちが、語れないままになっているのはよくない気がして。
——いまのお話をきいて、確かに禍録のサイクルが生まれていくためには、語る人だけではなくて、それをきく側の姿勢が伴っていなければいけない、と感じました。
瀬尾:被災地域にいて、語ること、あるいは記録するところまで、ただでさえ大変な状況にある当事者にやらせていていいのだろうかと感じてきました。当事者じゃない人は、それをやる役回りなんだよって、思うというか。
——せめてきこうよ、と。
瀬尾:そう。せめてきいたり、相づちを打ったり、横にいたりしようと。私はそれを家族というコミュニティのなかではやれなかった。だけど、それぞれ事情があるなかで、聞き手は必ずしも当事者に近い人だけではなくていいのかもしれない。聞き手を増やしていくことで、いろんな人が他者の話を持ち回りできいてもいい。私は祖父に話をきけなかった分、それに近い体験をもつ人の話をききたいと思うし、そうしたサイクルが生まれたらいいなという思いもあります。

——災禍の経験をもつ人は、常に既に日常のなかにいる。そうした人とどのように生き、そこから何を学ぶのか。そうした「災間の想像力」や、日常的なきく力をみんなで共有するプロジェクトでもあるのですね。
瀬尾:災禍の体験者には、さまざまな事情や感情から語ることを躊躇する人もいます。辛くて話すことができないとか、もっと大変な思いをした人がいるから語る資格がないといった心理的な側面のほかに、聞き手が不在であることもよくある。そうしたとき、家族や村の人には話せないけど、外から来た人にならば話せる場合もあると思うんですね。あるいは、「なんか寂しい」といった自分でも整理がついていない抽象的な感情も、きく側の姿勢次第では話すことができるはず。
先ほど話したワークショップの参加者とは、そうした姿勢を共有できた気がしていて。例えば自分の住む郊外の歴史や、通学路にある戦争の痕跡のような、それこそ日常的には周囲の人に耳を傾けてもらえない話を、みんなで調べて、話し合っている。すると、このコミュニティではきいてもらえると感じて、それがまた、記録や表現をはじめる動機になる。同じ感性をもつ聞き手が集まることには、そうした価値もあると感じています。


Profile
瀬尾夏美(せお・なつみ)
アーティスト/一般社団法人NOOK
1988年生まれ、東京都出身。東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくる。2012年より、映像作家の小森はるかとともに岩手県陸前高田市に拠点を移す。2015年、仙台市で一般社団法人NOOKを立ち上げる。主な展覧会に「ヨコハマトリエンナーレ2017」、「第12回恵比寿映像祭」など。最新の映画作品に「二重のまち/交代地のうたを編む」(小森はるか+瀬尾夏美)。著書に、『あわいゆくころ――陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019年)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房、2021年)。
「カロクリサイクル」
被災を経験した土地に蓄積されてきた記録物(禍録)や、防災やレジリエンスにかかわる知識や表現の技術、課題等を広く共有するプロジェクト。災間期をともに生き、次なる災禍に備え、災後も活用できるネットワークの形成を目指す。
https://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/what-we-do/creation/hubs/karoku-recycle/52796/
アートプロジェクトのためのウェブサイト制作 コ・クリエイションの手引き
本書ではアートプロジェクトのウェブサイト制作について、その一連のプロセスや、それぞれの段階で押さえておくべき課題、チームで制作に取り組むためのポイントをまとめました。以下のワークシートと合わせてご活用ください。
*本書は「ウェブサイトは必要か?」という問いを、ディレクター、デザイナー、エンジニアなど、多様なフィールドで活躍する10名のメンバーと議論した「東京プロジェクトスタディ これからのウェブサイトについて考える」をきっかけに制作されました。
▶刊行記念オンライン座談会の動画はこちら
「誰かと一緒にウェブサイトをつくるために必要なことはなんだろう?」YouTube再生リスト
プロジェクトオーナーが一方的にアイデアを押し付けるのではなく、エンジニアがすべてを突っぱねるのでもなく、不可侵に感じている互いの境界線をすこし曖昧にして、みんなで学びながら・前向きにチームでつくることが、成功のポイントとなるのです。
(p.3)
もくじ
Stage 1 俯瞰して確かめる
アートプロジェクト系のウェブサイトの分類を捉えよう
ウェブサイト制作での役割分担を共有しよう
ウェブサイト制作の流れを確認しよう
MAP
Stage 2 状況を整理する
ウェブサイトをつくる前にチームでKPTを確認しよう
ユーザー視点で情報発信するために「ペルソナ」をつくろう
届けたい人へ届けるために「カスタマージャーニー」をつくろう
予算・スケジュール・制作体制等を確認しよう
ウェブサイト制作のツール選びはみんなが挫折しないものを選ぼう
Stage 3 伝え方を考える
表現・伝え方のアイデアを考える。プロジェクトの個性をどう表現する?
導線・構成を検討する。ウェブサイトの構成を伝えよう
デザインを検討する。見栄えと使いやすさの優先順位を考えよう
アクセシビリティを検討する。いろんな立場や視点から考えよう
システムを構築する。技術に関する共通言語を手に入れよう
Stage 4 ウェブサイトを運用する
運営方法を検討する。リアルな運用のイメージをつかもう
継続する方法を考える。ユーザーとの「接点」を連続的に捉えよう
ワークシート(付録)のダウンロード
ダウンロードはこちらから。
このPDFデータは、冊子本体のQRコードからダウンロードできるワークシートです。それぞれのトピックに応じて項目を書き出し、ウェブサイト制作に役立てていただけたら幸いです。
関連記事
Tokyo Art Research ウェブサイトの制作プロセスを振り返る座談会記事を公開しています。
「手話を使い会話する。」講座レポート 後編
手話でのコミュニケーションの基礎とろう文化を学ぶ「アートプロジェクトの担い手のための手話講座」。3ステップで通年開催される講座のひとつ「手話を使い会話する。」が2022年10月〜12月、3331 Arts Chiyoda 3F ROOM302にて開かれた。
講師は、俳優/手話・身体表現ワークショップ講師の河合祐三子さん、手話通訳は、瀬戸口裕子さん。全6回の講座内の後半3回の様子を、実際に講座を体験したライターの視点からお届けする。
前半レポートはこちら。
11月24日 劇場と美術館を想定したロールプレイ
11月24日、アートプロジェクトにまつわる場面を想定して、メンバーと河合さんとでロールプレイを実施する回となった。実際に行ったのは2つの場面だ。
場面1:劇場。上演される演目のタイトルや開場・開演時間、チケット料金、お手洗いや自販機の場所、緊急時の対応などが記載された資料が当日共有される。前回同様、受付スタッフ役をメンバーが、お客さん役を河合さんが担当。受付でのチケット販売のやりとりや座席の誘導を筆談なども取り入れながら実施した。


場面2:美術館。美術展の内容や開館時間、入場料金、お手洗いや自販機の場所、鑑賞の際の注意事項などが記載された資料が当日共有される。受付や会場内のスタッフをメンバーが、お客さん役を河合さんが担当した。

ロールプレイ前には、配布資料を読みながらコミュニケーションにおけるポイントを河合さんとメンバー同士で話す時間が設けられた。「時間を伝えるときは、『19時』ではなく『午後7時』と伝える」「説明するときは館内マップも活用する、目印を認識しておく」「開演前アナウンスは『手話』でも伝える」などさまざまなアイデアが語られた。
ロールプレイの実施後には、河合さんから、それぞれの対応に関してフィードバックの時間があった。筆談時の文章を簡潔にすること、手のひら(五指を揃えて)ではなく指差しで方向を示すこと、時間を明確に伝えること。これまでの講座で学んだことではあるが、実践するとなると慣れていないこともあり、なかなか難しい。メンバーの様子を見ると、実際にやってみることで感じられたことが多くあったように思えた。
12月1日 ゲストを迎えて舞台公演における案内対応を想定したロールプレイ
12月1日、ゲストに高田和香子さんを迎え、劇場で舞台公演が開催される場面を想定して、受付や会場でのご案内対応のロールプレイを実施。河合さんはロールプレイの前に次のように語る。
河合さん「通じ合わないことがあって当然です。そのときどう工夫するのか。正解はありません。もしかしたらそこから新しい伝え方の発見ができるかもしれない。これまでと違うコミュニケーションが生まれるかもしれません」



筆者はこの日、実際に受付スタッフの役割を担当した。正直、目の前のお客さんとどうやりとりするかよりも、チケットの種別や開場時間・開演時間はいつなのかなど、スタッフとして頭に入れておく情報を把握することでいっぱいいっぱいだった。当たり前だが、自分自身に余裕がないと、他者とのコミュニケーションが雑になってしまうと痛感した。
ロールプレイ後には、高田さん、河合さんからフィードバックが行われた。手話を読み取れないときはわかったふりをせず筆談でやりとりすること、手話や身体の動きが読み取りづらくならないよう、ろう者とやりとりをするときは相手との距離を詰めすぎないこと、多様な特性をもつ人が来ても対応できるような事前準備をしておくことなど、さまざまな視点がメンバーに共有された。
高田さん「『手話ができます』と伝えてくれる人もいます。そう言われると、自分にとって自然なスピードで話していいんだと思ってしまうんですね。だから、名前や数字を伝えられるぐらいの手話の習熟度だったら、わざわざ『手話ができます』と伝える必要があるのか悩ましいところ。手話でのやりとりが難しいと感じたときは、筆談に切り替えてもらった方がいいですね」
河合さん「『手話ができる』と伝えること、そのものが悪いわけではないです。でも、それで誤解が生まれてコミュニケーションがずれてしまう場合があるということを覚えておいてもいいかもしれません」

後半には高田さんへの質疑応答の時間があり、さまざまな話が展開された。
高田さん「丁寧に対応してもらえるのはありがたいんですが、周りの視線がすごく刺さる感じもあるんです。聴者と一緒に、平等に誘導してもらえるのがうれしい。ろう者も一人の人間なので、同じようにみてほしいんです」
河合さん「そのためにも文化を知ることがまず大切です。ろう者がこんな文化を持っているんだと知る。そして人として尊重する。『聴こえないから』ではなくて、違う文化があることを理解することが大切なんです」


12月8日 カフェ併設の美術館での案内対応を想定したロールプレイ
12月8日、ゲストに越後節子さんを迎え、カフェ併設の美術館での案内対応を想定したロールプレイを実施。


筆者はこの日、美術館内での監視スタッフ役を担当した。積極的に鑑賞者とコミュニケーションをとるのではなく、作品保護のために必要なことや鑑賞者が困っている様子があったときのみ声がけすることを心掛けた。必須で伝えるべきことが明確になり、その分、伝える手段をどう準備しておくのがいいか考えやすくなった。目の前にいる人との臨機応変なやりとりもたしかに重要だ。ただその手前にある準備をしっかりしておくことが、現場にいるスタッフの個人スキルに任せすぎない形で、さまざまな特性をもつ人たちが安心できる環境づくりにつながるのではないかと感じた。
ロールプレイ後には、越後さん、河合さんからフィードバックが行われた。作品に近づきすぎているときは明確にNGラインを示してほしいこと、障害者手帳の確認の仕方、手話や筆談ですべてを確認するのではなく身振りなど別の方法でシンプルに伝えられないか考えてみてほしいなど、具体的なポイントが多く共有された。

後半には質疑応答の時間があった。受付対応のとき、筆談で長文を書かれてしまって時間がかかり自分の後ろに長蛇の列ができてしまったこと、緊急時の誘導で腕を急に掴まれて嫌だったこと、話しかけるときの肩の叩き方、越後さんが通っていた学校での学習環境などが語られた。
越後さん「ろう学校に通っていましたが、手話は禁止されていて、口話を教えられました。小学校2年生のときに転校して、そこは授業で口話を使うんですが、休憩とか給食のときは手話がOKな環境でした。同級生の手話をみて学んで習得していきました。
私にとって、口話はあまり役に立ちませんでした。私は聴こえないので、発語しても自分の声からフィードバックを得られない。聴こえるこどもたちは自分の声が聴こえます。だからフィードバックが得られてコントロール方法を学んでいける。私の場合は手話であれば、それを見ることでフィードバックが得られる。聴者とろう者で言語が違うだけなんです。だからそれぞれに合う学び方で成長できればいいのにと思います」
河合さん「いろんな人がいて、コミュニケーションがうまくいかない場合があると思います。ではどうするか、さまざまなコミュニケーション手段を持っていてほしい。そこがこの講座の目的です」

「コミュニケーション:手話を使い会話する。」と題された今回の講座。「手話を使い会話する」ことの実践というよりは、他者を尊重して関わるとはどういうことなのか、自身の身体を通して考える機会だったように思う。
また参加して、目の前にいる人を尊重するには2つのことが大事なのではないかと気づいた。社会においてその人の文化がどのような状況に置かれているのか知ること。唯一の正解があると思い込まず互いにコミュニケーション手段を考えること。知るだけでは頭でっかちになってしまう。でも、知ることをないがしろにすると、実践のなかで他者の文化を無意識に傷つけてしまったり、差別をしたりするかもしれない。
他者の文化を知ろうとすること、目の前にいる人と一緒に考えること、その両方を積み重ねる。それを個人に託すのではなく、そうした積み重ねが実践しやすい環境づくりをする。自分自身が携わるプロジェクトからすこしずつ実践していきたい。そう思わせてくれる講座だった。

関連情報
たくさんの人と出会うための方法。サインネームを考えよう!
東京アートポイント計画の事業を行うチームが、一堂に会するジムジム会。2022年9月に実施した今年度4回目のジムジム会は、ホストに「めとてラボ」のメンバーを迎えて、活動を伝えるための情報保障や手話について考えながら、各事業の「サインネーム」をつくるワークショップを行いました。
アートプロジェクトの現場で明日から使えるアクセシビリティチップス
「めとてラボ」は、「目(め)」と「手(て)」で生まれる文化をテーマに、ろう者やCODA(コーダ)が中心となり、様々な身体性や感覚を持つ人が集い、活動していく創造拠点をつくることを目指すチーム。今年は国内外のろうコミュニティやデフスペースなど、さまざまな「場」のあり方をリサーチしています。ジムジム会の配信拠点STUDIO302からは、メンバーの和田夏実さんと岩泉穂さんが参加。「めとてラボ」の活動紹介のあと、和田さんからアートプロジェクトの現場で「明日から使える」アクセシビリティのチップス(ヒント)が紹介されました。
「たとえば展覧会では、作品を伝えるための音声ガイドやキャプション(解説文)があり、また鑑賞ツアーが組まれていたりします。そのうえで、さらに手話通訳やキャプションの音声読み上げ、ガイド内容の文字化、筆談などが追加されていくことで、より開かれた出会いが生まれていくのではないか、と思っています」と和田さんは話します。

情報保障とはただの環境整備ではなく、「ひらかれた出会いの場」をつくることです。ですがそれを実行するには、「専門的な知識が必要だったり、お金がかかったりするのでは?」と思う方もいるかもしれません。そこで、和田さんからは、身近なツールや無料のアプリケーションを使って、気軽に取り組めるものが紹介されました。
まず音声や動画による情報発信ですが、現在実験的に取り組まれているものとして、音楽ストリーミングサービスの「Spotify」では、ポッドキャストを公開すると自動で文字が起こされます。また「TikTok」も自動字幕機能が充実しています。実は、こうした身近なアプリケーションも、飛躍的に技術改革が進んでいるのです。インタビューの文字起こしには「vrew」という動画の字幕編集アプリもおすすめ。自動字幕という点ではYouTubeの編集アプリ「YouTube Studio」も使いやすく、自動で文字に起こされた字幕を編集することができます。
また、チラシなど紙媒体の場合は、PDFデータがあると音声読み上げ機能を使用できるため、ウェブサイトにPDFデータをアップロードすることが推奨されました。チラシに書かれた内容を自分たちで読み上げ、ウェブでシェアするという、楽しみながらできるアイデアもあります。そのほか、オノマトペの視覚化や舞台手話通訳など、アクセシビリティの新しい取り組みも紹介されました。
「アクセシビリティは『伝えあうことの発明』だと思います」と和田さん。「伝え手が何を伝えたいか、受け手は何を感じ、理解したか。『伝わる』『わかる』というところまで一緒に開拓していく過程はクリエイティブでもあります」と話します。

自分たちのサインネームを考えよう!
後半は各事業がそれぞれの「サインネーム」をつくり、発表するワークショップに移ります。サインネームとは、その人の特徴を手や体の動き、形であらわし、視覚的に伝えるもの。手や指で表現するあだ名のようなものです。たとえば名前に含まれる漢字や、外見の特徴を使って表すこともあります。
2022年のジムジム会では、めとてラボチームの主な使用言語が手話ということもあり、手話通訳者が並走しています。事業について手話で話す機会が増えた中で、自分たちの事業をどう表すのか気になっている、という話があがり、改めてみんなで自分たちの事業を表す方法を考え、伝わりやすい表現について考えてみることにしました。
サインネームについて考えるプロセスとしては
- めとてラボよりサインネームに関する体験や「あるある」の例、よくある省略例について動画で伝える
- それぞれ事業のメンバーに事前に考えてもらう
- ジムジム会で考えてきた内容を提案しあい、お互いの「わかりやすい」を探してみる
という流れで進めました。
例えば、「Zoom」などの新しい固有名詞がうまれていく際、会話の中でさまざまな手話表現の工夫が現れ、その中からシンプルでわかりやすく、伝わりやすい表現が自然に残っていく流れがあるそうです。その自然淘汰の流れを簡易的に体験するために、A案とB案を用意し、みんなで選んでいくという方法を試してみることになりました。

今回参加した6チームは、自分たちの事業名をサインネームで表すとどうなるかを、各自が事前に考えてきました。そのアイデアを各チーム内で話しあい、A案とB案の2つにしぼり、全員の前で発表します。その発表を聞いて、分かりやすいと思った案、いいなと思った案に参加者が人気投票をした後、それぞれの案についてめとてラボのメンバーの南雲麻衣さん、牧原依里さんからコメントをもらいました。
たとえば府中市で活動する「Artist Collective Fuchu[ACF]」はA案では「アーティスト」「コレクティブ」「フチュウ」の3つの単語をそれぞれ表現。「フチュウ」の部分は「府中市」の手話を検索し、使用しました。B案では、「A」「C」「F」の文字を組み合わせた事業のロゴマークをもとに、ロゴの中心に書かれた「A」を示す2本の線と、「C」「F」の文字の形を組み合わせて両手で表しました。

獲得票が多かったのはB案。めとてラボの南雲さんもB案に票をいれたと言います。「B案はロゴマークと似ているのでわかりやすいと思いました。ただ片手側が親指と人差し指で『C』を表していますが、残りの3本の指が『W』に見える。これが手話だと『トイレ(WC)』という意味になってしまうんです。なので『W』と見えないように3本の指は閉じるのはどうでしょうか」とアドバイスします。
また牧原さんも「サインネームは短いほうがいいのでB案のほうがいいと思います」と前置きし、「たとえば、右手で『C』をつくり、そのなかに左手で『A』の動きをいれ、ロゴをそのまま表現するのはどうでしょう」とコメントしました。

手で伝える言葉と、音で伝える言葉
そのほか“ターン”の動きで迷った「HAPPY TURN/神津島」、片手での表現が好評だった「ファンタジア!ファンタジア!-生き方がかたちになったまち-」、ロゴにある線の動きを使った「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」、事業パンフレットのデザインのイメージも取り入れた「ACKT(アクト/アートセンタークニタチ)」、“災”のニュアンスに悩んだ「カロクリサイクル」など、各チームともロゴや音の響き、単語の意味そのものをサインネームで表し、さまざまな表現が生み出されました。どの事業も、自分たちの活動を端的に表したり、イメージを伝えたりするためにはどうしたらいいか、をまた違う視点で考えるきっかけになったようです。こうしてワークショップは終了。アフタートークでは、めとてラボのメンバーが振り返りをしました。
和田さんは「体で覚えやすく、身に付きやすいものが選ばれたのが良かったですね」とコメント。「手話には、体に馴染みやすいルールのようなものがあるのかもしれません。それがちょっとずれると、違和感を感じるのかなと思いました」と岩泉さん。
牧原さんは、「手話は、世界共通と思われることもありますが、『文化や地域性、食事、生活、いろいろなものが影響して生まれているもの』で、国はもちろん国内でも地域によって異なることもある」と話します。それだけに日本語に翻訳しきれない言葉もあるそうです。その一方で、「手話は視覚言語の一種なのですが、互いにその国の手話を知らなくても、その動きを見れば、概念が通じることが多い。そこが面白いんです。たとえば『歩く』の手話は、日本では片手の2本指で示します。アメリカ手話だと、両手の指を交互にパタパタさせる。フランスも少しアメリカ手話に似ています。いずれにしても、歩いている体の動きをとらえたものなのです。だから、手の動きは少し違うけれど、何を意味しているのかは想像がつくんですよね。手話は視覚の記憶に直接アクセスする言語なのだと思います」と話します。
参加者からは「手話を実際にやってみるのは初めてでしたが、プロジェクト名を表現することで楽しく触れることができました」「使っているうちに徐々に使いやすい形にサインが変わっていく、使いにくいものは淘汰されていくというのが面白いと思いました」「アクセシビリティは、受け手と伝え手とが一緒に考えていくことが大事で、それが面白さであるという視点を知れました。情報保障に限らず、日常のコミュニケーションにも通じる話で、普段のプロジェクト運営でも感じる『伝わらなさ』への解決に生かせる考えだなと思いました」などの感想があり、自身のプロジェクトの振り返りにもつながったようです。サインネームをはじめ、アクセシビリティから手話という言語の話題を取りあげつつ、自分たちの活動をより多くの人に伝えるための方法を幅広く学び、考える会となりました。

それぞれ「めとてラボ」と「ジムジム会」のサインネームで記念撮影。
*本来、新しい言葉の手話表現は、ろう者からうまれた言語である手話の中のルールや手話の言語的な規則からそれぞれつくられ、語らいの中で自然淘汰されていく過程があります。今回はジムジム会の運営上、各事業名が必要であったこと、自分たちの事業について考える機会として、めとてラボチームとともに規則やルールについて考えながら、表現を考えていくワークとして設計されました。新しい表現を自由につくってもいい、ということではなく、言語としての規則やルールの踏襲、手話話者とともに探る過程を大切にすることを前提にワークが行われました。