つくることを考えてみよう 竹編

『多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting』の「ざいしらべ 図工 ― 技術と素材について考える」の一環として、多摩地域の小学校図工専科の先生や子どもたちと実施した活動をもとに、身近な素材を知り、加工や造形をして楽しむ方法を紹介するものです。

古くから人の暮らしの身近に存在してきた「竹」をテーマに、竹に関する知識や歴史、伐り方、加工の仕方、扱い方の事例や道具について触れています。

図画工作は、予定された解答や成果を求めるのではなく、身体を通した思考の過程という意味でも、大きな可能性を秘めた時間なのではないか

(p.1)
目次

竹と暮らし
身近な竹を知る
竹を伐る前に
竹を伐る
割り竹をつくる
ひごをつくる
結ぶ
竹で行灯をつくる<基本型>
竹で大きな建物をつくる
道具とともに
子どもと竹

シネマポートレイト 映像作品

「シネマポートレイト」は、Tokyo Art Research Lab の一環として実施した「Multicultural Film Making(MFM)」にて開発した手法です。海外に(も)ルーツをもつ人たちを対象に、映像制作のワークショップを展開するアートプロジェクト『KINOミーティング』では、その手法をブラッシュアップしながら継続してプログラムを実施しています。

まちを歩きながら自らの個人的なエピソードを語り、立場を交換して他者の話を聞くというプロセスは、作品制作のための行為を越えて、参加者同士の関係構築へとつながります。

詳細

関連リンク

KINOミーティングの公式Vimeoで作品を公開しています

ひとりひとりの人生の記憶に触れる。(APM#11 後編)

「Artpoint Meeting」は、東京アートポイント計画が各地で展開するアートプロジェクトから見えてきたトピックをとりあげ、事例を紹介するとともにゲストを迎えて新たな言葉を紡ぐ企画です。今回は「映像を映す、見る、話す」をテーマに、1月9日、東京・恵比寿の東京都写真美術館でひらかれました。

>レポートの前半はこちらから

レポート後編では、「セッション2:世田谷クロニクルをケアの現場でつかってみる」の後半について報告し、その後に上映した「ラジオ下神白 ドキュメント映像」とアフタートークの様子を紹介します。

[セッション2]世田谷クロニクルをケアの現場でつかってみる(後半)

[セッション2]の前半では、世田谷区内で収集した8ミリフィルムのデジタルデータ(世田谷クロニクル1936―1983)を活用した「移動する中心|GAYA」(以下、GAYA)の活動を紹介しました。プロジェクトを担当する松本篤さん(NPO法人remoメンバー・AHA!世話人)は、このデジタルデータのアーカイブを「つかう」方法を「サンデー・インタビュアーズ(SI)」というオンラインワークショップのなかで探るうちに、「福祉や医療との接合点になるのでは」と考えました。そこで出会ったのが、看護師・写真家の尾山直子さんとデザインリサーチャーの神野真実さんの活動です。

尾山さんは世田谷区にあるクリニックで訪問看護師を務めながら、大学で写真を学びました。卒業後はかつて暮らしのなかにあった看取りの文化を再構築する取り組みや、老いた人びととの対話や死生観、看取ることの意味を模索し、写真作品を制作しています。神野さんは、祖父の死をきっかけに、耳の不自由な祖母が引きこもる姿を目の当たりにし、社会包摂のあり方に興味をいだきました。現在は在宅医療の現場に身を置きながら、市民・専門家参加型のデザインアプローチで、在宅医療患者と家族・医療者が医療やケアについて対話しやすくするツールや環境づくりを行っています。

(写真左から)尾山直子さん(看護師・写真家)、神野真実さん(デザインリサーチャー)

2人は、老いやその先にある暮らしに自分ごととして向き合うことができ、家族や周囲の人との対話の道しるべとなる本(『LIFE これからのこと』)を制作しました。また、ひとりの男性の人生最終盤にある暮らしの風景の写真と、その男性が書き綴った言葉による写真展「ぐるり。」を各地で開催しています。そうした活動が松本さんの知るところとなりました。

「日常の記憶や記録を大切にするためにアーカイブというアプローチを取っている松本さんたちと、訪問医療の現場で患者さんの大切にしてきたことや物語を引き継いで暮らしを支えるケアには、共通するところがあるのではないか」(神野さん)ということから、「世田谷クロニクル」の映像を在宅医療の現場でつかうプロジェクトが始動。他の看護師にも協力してもらい、三十数人の在宅患者の家で、「世田谷クロニクル」の映像をケアに取り入れる試みを行いました。

ある女性の患者は、上野動物園の映像で着物で生活している人びとの姿を見て、自分も着物を着ていたと話しはじめました。着物の話から裁縫の話に移りかわり、共通の関心を持つ神野さんと糸の話で盛り上がる時間もみられました。

「映像を見ると、最初は映像から想起された地域の話をしているのですが、だんだん自分の記憶と関連するエピソードを語りはじめるんです。『世田谷クロニクル』から彼女自身のクロニクルになっていくのがとてもよかった。ケアをする私たちにとって、彼女の個人史とかどのような暮らしをしてきたかという情報は宝物だからです」。(尾山さん)

「世田谷クロニクル」の映像を見る(撮影:尾山直子)
裁縫箱を見せてもらう(撮影:尾山直子)

この現場では、看護師ではない神野さんにとっても気づきがありました。「チエコさん(患者さん)にとって、看護師は日常の登場人物の一人であり、彼女の人生に関連する映像を看護師が選び、勧められたからこそ抵抗なく見ることができる。日頃から信頼関係をつなぎ続けているから、さまざまな語りが引き出されたんだとあらためて思いました」。

訪問前には在宅医療に携わるスタッフで映像を見て、議論を重ねた(撮影:尾山直子)

2人の感想はさらに続きます。「『世田谷クロニクル』はウェブの映像をいつでも誰でも見ることができます。私たち看護師も本人の物語を引き出すためにアプローチをしていますが、その新たなひとつの手法として使用してみたら、いろいろな反応があった。映像をテレビにつなぐと家族も集まってきて世代間で会話がはじまったことがありました。その一方、思ったほどの反応じゃない方もいて、私たちにとってもトライアル&エラーでした」。(尾山さん)

神野さんは、他の看護師とともに「振り返り」をした内容も交えて、こう語ります。「映像を見ると、いまは記憶が混濁していたり不安定な方も、子供時代の鮮明な記憶を話されることが多かった。それが心の安定や自信の回復にもつながる。普段はケアする/されるという関係性だけど、その場面では、知識や経験の豊富な人として教える/教わるの関係性に変わっていく。過去の記憶を受け取る行為がケアにつながるということも看護師たちから教えてもらいました。映像はその人の人生に深く触れていく、ケアのツールとして豊かな可能性が開けるんじゃないかと話し合いました」。

総括的な感想を受けて、松本さんが語ります。「映像を見てもらうことで、(高齢の方々の)残り少ない時間を奪っていないか、善意の押し売りではなく、見ること・語ることにちゃんと魅力を感じてもらっているか、と悩ましい状況に直面している感覚が僕にはあります。文化事業として、他領域の現場でどうあることができるか、どうあるべきかという、われわれのスタンスや倫理観が問われていると感じていました。でも、(看護師の)プロフェッショナルの身体やそこで感じる感覚が、われわれの学びになるとも思います。自分たちなりに消化して、次の発展として文化と医療の間に新しい領域を開拓できないかと考えています」。

松本篤さん(NPOremoメンバー/AHA!世話人)

[セクション3]映像と音楽でプロジェクトを追体験する

ここまでに紹介した2つの事例の現場はいずれも東京でしたが、[セクション3]は、福島県いわき市で行われたプロジェクトの様子を収めた映像を上映しました。『ラジオ下神白(しもかじろ) ドキュメント映像』(70分、2022年)です。東北の各地で人びとの語りと風景の記録から作品制作を続ける小森はるかさん(映像作家)が、監督・撮影・編集を担当したドキュメンタリー映像です。

上映前には小森はるかさん(映像作家)とアサダワタルさん(文化活動家)が舞台挨拶を行った

映像の冒頭は雲が垂れ込める田園風景のショットで、そこに高齢の女性の歌声が重なります。数分後、スクリーンには突然、青空のもとにそびえる、真新しい団地が映し出されます。そこにナレーションが流れます。

下神白団地の皆さん、こんにちは。ラジオ下神白です。あのとき、あのまちの音楽から、いまここへ。司会のアサダワタルです。

下神白団地は2015年に完成した県営復興住宅です。東京電力福島第一原子力発電所の事故で被災した人たちが多く入居しています。ここを現場として2016年に始動したのが、「ラジオ下神白 あのときあのまちの音楽からいまここへ」というプロジェクトです。

プロジェクトディレクターのアサダワタルさんは音楽と文章表現を支点として、さまざまな生活現場に赴き「これまでにない他者とのつながり方」をプロジェクトとして実践してきました。下神白団地では、住民の部屋を訪ねて、お茶を飲みながら思い出と記憶に残る歌を聞き取り、その内容を収録したCDを架空のラジオ番組「ラジオ下神白」として団地内で配布する、という活動をはじめました。

下神白団地の風景
ラジオ下神白の活動の様子(『ラジオ下神白 ドキュメント映像』より)

小森さんが撮影した映像はアサダさんたちの活動に寄り添いつつ、下神白団地の日々と風景を丹念に収録しています。コロナ前の団地訪問の様子から、有志メンバーによるバンド活動、コロナ禍でのオンラインベースでの交流など、数年かけて積み重ねてきたプロジェクトの軌跡が感じられました。関東地区では初めての上映だったこともあって、終映後、会場はしばし拍手に包まれました。その余韻が醒めやらぬなかで、トークが始まりました。

トークに参加したのは、アサダさんと小森さん、ゲストは行動学者の細馬宏通さん(行動学者/早稲田大学文学学術院教授)です。まずアサダさんがこのプロジェクトの成り立ちと経過について説明します。「下神白団地では、演劇などで震災復興に関わる団体が以前から活動をしていました。その団体から、家から出ない人とも関われるプロジェクトができれば、と相談を受けました」。

(写真左から)細馬宏通さん(行動学者)、アサダさん、小森さん

その背景には、復興住宅の特殊な状況があります。原発事故で被災した4町の人びとが、1・2号棟が富岡町、3号棟が大熊町、4・5号棟が浪江町、6号棟が双葉町と分かれて入居しています。住民の大半は高齢者で、独り暮らしの人も少なくありません。集会場に来ない人とはほとんど交流する機会がありません。そうした状況に向き合って、アサダさんが編み出したのが「ラジオ下神白」という試みです。

「僕は一人ひとりに焦点をあてて、個の部分と地域性がグラデーションで浮かび上がる、ということを考えて、個をつなぐような音楽メディアとしてラジオ番組のCDを制作することにしました。テーマを決めて住民に取材して、その語りなどを収録したCDを、4か月に1回くらいのペースで制作して団地内に配布してきました」。

プロジェクトはさらに広がって、「ラジオ下神白」の活動を伝えるイベントを東京などでひらいたり、現場に通いたいという方々とバンド(伴奏型支援バンド(BSB))を組んで住民に思い出の曲を歌ってもらったりしました。コロナ禍のなかでもオンラインで住民との交流を続けました。2022年には、これまでの音源や新たに住民が自宅で録音した歌声をミックスして、音楽CD『福島ソングスケイプ』を制作しています。今回の映像上映は、プロジェクトにとって最新の活動です。

福島ソングスケイプの写真

細馬さんはすでに『福島ソングスケイプ』を聴いていて、「歌謡曲をお年寄りが斉唱しているだけやのに、ものすごくおもしろい。去年聴いたCDで一番感動した」そうです。そのうえで映像を見て「2度びっくりした。こんなに分厚い歴史があったんや」と語ります。映像については「小森さんが(アサダさんたちと)いっしょに住民のお家に入っていって、定点観測的に撮影しているのが印象的」と話し、小森さんの「立ち位置」について尋ねました。

小森さんがこのプロジェクトに参加したのは2018年。「文字で記録する役割の編集者の方が、文字では残せないことが起きていると思われて、声をかけてもらいました。現場では住民との関係ができあがっていて、お宅を訪問すること自体がプロジェクトの肝になっていました。いっしょにお茶を飲む輪のなかから撮ることがはじまりました」。

そうした小森さんの撮影を、細馬さんは「文化人類学的」と評します。「いつも『知った態度』で撮らないですよね。例えば映画のなかの一場面で、ラジオから『集会所の黄色いポストにリクエストを入れてください』というアナウンスが流れます。(観客は)『何っ?』と思う。その後、集会所のショットが映されて『あの黄色いのがさっきいっていたポストか』と発見する」。

映像の後半は、クリスマスに住民が多数集まった「歌謡喫茶」や、バンドの演奏など、音楽の要素が前面に出てきます。そのなかで、細馬さんは素朴な疑問を感じたようです。住民の人たちが思い出の曲として歌っているものに「福島固有の歌が入っているかと思ったら、『宗右衛門町ブルース』。どういうことです?」。

アサダさんが答えます。「震災以前の思い出を聞くところからはじまって、そのなかに出てきた曲の音源を聞いて、たまたま口ずさんだことをきっかけに歌ってもらうようになったからです。そこから、記憶に寄り添うためにアーカイブとして歌を引き出すようになる。団地のコミュニティのなかでは、例えば『宗右衛門町ブルース』といえばあの人ねという風に特定の住民と結びついて共有されるようになりました。音楽ってそういうふうにつかいこなせるんだなぁと思いました」。

小森さんも相槌を打つように「バンドメンバーはその人の話を聞いたり、その曲を好きな理由を想像しながら演奏しています。演奏する人にとってもただの曲じゃないものに仕上がっているんです」。

細馬さんは「むしろ聞き手がそのことを発見する必要がある」と応じます。「CDには、その人がイントロからはじまって山あり谷あり、危機も乗り越えてなんとか歌い終わった、というときの不思議な感じがある。そういうのは音楽にとってとても大切なことです」。

『ラジオ下神白 ドキュメント映像』の最後に、アサダさんたちのバンドが東京で『青い山脈』を演奏します。戦後まもない1949年のヒット曲です。そこに、下神白団地の自宅で歌声を録音する一人ひとりの姿が挿入され、東京と福島の距離を超えて渾然一体となったパフォーマンスが繰り広げられます。熱唱する下神白団地の人びとの胸に去来したもの。それは、アサダさんたちとの交流によって新たに想起された「山あり谷あり」の人生の記憶だったのではないでしょうか。「映像」を媒介としてコミュニケーションを開き、それぞれの人生の記憶に寄り添う試みを紹介した今回のArtpoint Meetingを象徴するエンディングでした。

「福島県営復興住宅 下神白団地の住民さんとつくった「青い山脈」ミュージックビデオ」(撮影:小森はるか、福原悠介、齊藤勇樹、編集:小森はるか、福原悠介、録音:大城真、福原悠介、ミックス:大城真)。「ラジオ下神白」の一環で制作された動画。ドキュメント映像に収録された風景を垣間見ることができる

(撮影:阪中隆文)

映像がひらく、コミュニケーション。(APM#11 前編)

東京アートポイント計画は地域社会を担うNPOと連携して、社会に新たな価値観や創造的な活動を生み出すために、各地でさまざまなアートプロジェクトを展開しています。そのなかから見えてきたトピックをとりあげ、事例を紹介するとともにゲストを迎えて新たな言葉を紡ぐ企画が、2016年から続く「Artpoint Meeting」です。その第11回が1月9日、東京・恵比寿の東京都写真美術館でひらかれました。

テーマは「映像を映す、見る、話す」。地域の日常に寄り添うアートプロジェクトの現場では、しばしば映像をつくることやつかうことから、さまざまな人びとを結び、語りの場をつくる試みが行われています。今回のArtpoint Meetingでは「KINOミーティング」、「移動する中心|GAYA」、そして「ラジオ下神白」という3つの取り組みにかかわるメンバーとゲストが映像を見ながら、語り合いました。

[セッション1]映画が映すまちと映画制作が作るまち

KINOミーティングは、東京アートポイント計画の一環として、2022年4月に始動し、海外に(も)ルーツを持つ人たちを対象とした映像制作のワークショップを手がけています。プロジェクトメンバーの阿部航太さん(デザイナー・文化人類学専攻・一般社団法人パンタナル)が説明します。

「ワークショップの参加者はまちに出て、映像や音声、写真などを使って自分自身のルーツと向き合い、同時に自身とはルーツの異なる人びとと互いの視点を交換して、協働しながら映像作品をつくります。新しい映像表現の発見を目標にしつつ、異なるルーツを持つ人たちがいかに協働できるかという視点でプロジェクトを展開しています」。

阿部航太さん(デザイナー・文化人類学専攻・一般社団法人パンタナル)

この日は「シネマポートレイト」というワークショップで制作した映像作品を上映しました。静止画がゆっくり切り替わっていく画面に、参加者の語りが重なるという実験的な映像作品です。

「参加者は3人1組になって、自分のルーツを見つめる3時間の小さな旅をします。1人はまちで自分のルーツについて思い出したエピソードを語ります。別の1人がそれを録音し、もう1人は旅をする様子をインスタントカメラで撮影します。その役割をローテーションして、最終的には2分間の映像作品を3本つくります」。(阿部さん)

上映したのは昨年、池袋と葛飾で撮影した5本の映像です。昼間の街を歩きながら「日本の夜を散歩するのが好き」と語る美術大学の留学生や、東京の青空と空気の匂いから中国の故郷を対比的に思い出す女性。日本に来る前に留学していたカナダのダウンタウンと日本の下町を比べつつ、日本の下町でも自分のルーツを感じる、と語る大学院生……。東京のまちの片隅を切り取ったインスタント写真の色調はどこかノスタルジック。そこに、ときにアクセントのある日本語に、英語や中国語が交じる語りが重なると、どこか見知らぬまちに迷い込んだような映像を体験することになります。

会場で上映された5つの「シネマポートレイト」

上映後のトークには、「シネマポートレイト」を設計した森内康博さん(映像作家/らくだスタジオ)とゲストの馬然(マラン)さん(名古屋大学人文学研究科准教授/東アジア映画研究者)が加わりました。馬さんはシネマポートレイトについて「ジョナス・メカスの日記映画的なジャンルに近い」という印象を語ったうえで、こう続けます。

「目の前に現れる風景に、自分の故郷やかつて住んだ場所の風景を思い出している。複数の時間が描かれている。アクセントのある日本語や英語が入っているのも素晴らしい」。

阿部さんも「ひとつの風景が言葉を通して見ると、違って見えるし、観客の感情を反映すると、また別の風景に見えるかもしれない。アクセントのある日本語にはその人が移動してきた経路が反映されている」。

馬さんも「rootsだけでなくroutes=軌跡もあって、その人の歴史が2分間の映像に入っている」と大きくうなずきました。その映像表現の特徴について、森内さんは「撮られた写真と語られるエピソードの時間や空間は一致していないけれど、僕たちは映像を見ながら、頭の中でイメージをリンクさせながら、想像的な見方をする。それはすごく映画的な表現です」と指摘しました。

(写真左から)阿部航太さん、馬然さん、森内康博さん

ここでトークを一休みして、「シネマポートレイト」のメイキング映像が上映されました。その映像を見ると、自分のルーツを探す役割の人、録音担当、撮影担当の3人が、初対面であるにもかかわらず、活発にコミュニケーションをしていることがわかります。そうやって生まれるコミュニティを、KINOミーティングでは「まち」と呼んでいます。

その「まち」の生成に、インスタントカメラが一役買っていることを森内さんが明かします。「インスタントカメラのフィルムは1パック10枚です。つまり10枚しか撮れない。短い旅のなかで何を撮るかを決めて、撮った写真をお互いに共有しなければならない。初対面の3人は、まず写真を介してコミュニケーションを始めます。シネマポートレイトという制作は、お互いの自己紹介の時間にもなっていると思います」

阿部さんは「KINOミーティングは多様性とか多文化共生といわれる分野のアートプロジェクトですが、交流の在り方をちゃんと考えなきゃいけないと思っています。交流だけを大事にするのではなく、新しい映像表現を発見することを第一の目標としてワークショップを行っています。いい作品をつくるにはコミュニケーションが必要。だから、工夫してコミュニケーションを実践しています」と言います。

ここで、馬さんが「議論が分かれたときに、クロスカルチャー的なコミュニケーションはできますか」と問いかけます。それに対して、森内さんは「シネマポートレイトは1日限りのプログラムなので、議論はそこまで起きていない。でも、ワークショップが続くなかで、この経験があった次に協働する際にはコミュニケーションのトラブルが起きても建設的な議論になっていく」と確信を語りました。

KINOミーティングでのワークショップ実施風景

[セッション2]映像アーカイブをケアの現場でつかってみる

次のプロジェクトは、「移動する中心|GAYA」(以下、GAYA)。「文房具としての映像」というコンセプトの普及に取り組む、NPO法人remo(記録と表現とメディアのための組織)が東京アートポイント計画の一環として実施しています。GAYAの企画運営は、このremoを母体とした活動であり、家族写真や8ミリフィルムなど「市井の人びとの記録」に着目したアーカイブプロジェクトを展開するAHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]が行っています。

2015年にAHA!は世田谷区にある「生活工房」と連携し、世田谷区民を中心とした家庭に眠っている8ミリフィルムを募集し、約200本の提供を受けました。その一部をデジタル化し、84巻約15時間の映像を収録するウェブサイト「世田谷クロニクル1936−1983」を2019年に公開しています。

2020年には「世田谷クロニクル 1936-1983」展を開催。8ミリフィルムの所蔵者12人のオーラル・ヒストリーが無音の映像に重なるかたちで鑑賞できるようにした

当日は「世田谷クロニクル 1936-1983」に掲載されたデータから2本の映像が、松本篤さん(NPO法人remoメンバー/AHA!世話人)の解説とともに上映されました。一つは「上野動物園」(1936年)。行楽で出かけた際に撮影したものと思われますが、後に戦時体制下で殺処分されるゾウたちの姿も写っています。もう1つは「消え行く玉電」(1969年)。世田谷の人びとに愛された路面電車が廃止になるまでの数か月間を記録しています。

このデジタル化した8ミリフィルムのアーカイブを活用するために2019年に始まったプロジェクトがGAYAです。公募したロスト・ジェネレーション世代のメンバーと映像を見て、語り合うオンラインワークショップの「サンデー・インタビュアーズ(SI)」というプログラムを実施してきました。その意義を、松本さんはこう語ります。

「サンデー・インタビュアーズは、余暇の時間としてあった当時の〈日曜日〉を、現在の〈日曜日〉から見つめ直すという、「日曜日」についての実践と研究の場です。参加者はプロのインタビュアーではなく、公募で集まった日曜大工ならぬ、ロスジェネ世代のDIY精神溢れる〈アマチュアの聞き手〉。彼らは映像の撮影者ではなく、親が撮る映像の被写体にあたる世代。なので、映像を少し距離感のある状態で見ることになります。そのときもしかすると、昭和の時代をレトロスペクティブに語ること自体の違和感や、いまの時代と異なる点への気づきなどが生じるかもしれない。そういった実感を深めていく。〈当事者ではない〉という当事者性を獲得していく。それは過去を経由していまの自分の場所を考えることにつながる。あるいは、誰かの記憶を借りながら自分の記憶をつくっていく作業になるのではないか」。

「GAYA」の活動を説明する松本篤さん(NPO法人remoメンバー/AHA!世話人・写真左)

「サンデー・インタビュアーズ」の実践を通して、ロスジェネ世代の参加者は親の世代の価値観に触れ、やがて親のケアの当事者となっていくことにも気づいていく。アーカイブの活用が、異なる世代、異なる時間軸をつなぐものとなるのではないかという可能性がふくらんできました。「アーカイブをつくる、つかうということは、文化的な営みにとどまらず、福祉とか医療との接合点になるのではないか」と松本さんは考えました。そこから、ある邂逅がもたらされました—。

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(撮影:阪中隆文)

誰もが「災禍の記録」を語り、きくことで、記憶は生き続ける——瀬尾夏美「カロクリサイクル」インタビュー

2022年の春から活動をはじめたアートプロジェクト、「カロクリサイクル」。カロク=禍録とは「災禍(さいか)の記録」のことで、自然災害や戦争のような災厄(さいやく)を体験した人、目撃した人が、語りや文章、映像など、さまざまなかたちで残した記録のことを指します。

2011年の東日本大震災後、東北に移住し、10年にわたり被災者の経験に耳を傾けてきたアーティスト・瀬尾夏美さんらが中心にはじめたこのプロジェクトでは、こうした禍録との新しい向き合い方や、語り部のネットワークの形成などが目指されています。

例えば、禍録という「記録」からみんなで「表現」をしてみたり、別々の土地で災禍に見舞われた人たちが、禍録を通してお互いの経験のなかに共通性を見出したり。このように、各地で独自に生まれ、引き継がれている複数の禍録をつなぎ合わせ、それを新しい表現やコミュニティの起点として機能させる狙いが、「リサイクル」という言葉に込められています。

震災から10年を超え、22年には東京に戻った瀬尾さん。生まれ故郷である東京での活動には、自身の足元を見つめ直し、そこにいる「語りを必要とする人」を意識したいという思いもあるようです。カロクリサイクルの活動について、瀬尾さんにお話をききました。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:池田宏 *1、2、4、10枚目)

一人の「災禍の記録」を、一人ぼっちにさせない

——「カロクリサイクル」のはじまりや、そこにある問題意識をきかせてください。

瀬尾:「禍録(カロク)」とは「災禍の記録」という意味で、災害や戦争を経験した人が残した記録のことです。禍録はさまざまな土地に存在しますが、そのような過酷な体験から人が再び立ち上がる過程には、時代や場所、出来事の違いにかかわらず、共通するものがあります。ならば、他者の経験や感情を想像し、共感する一助として、禍録が使えるのではないか。これが、プロジェクトの出発点にある問いです。

こうした取り組みは、「防災」という具体的な問題に対しても有効ですが、同時代にも災禍を経験した人たちがたくさん各地にいるなかで、その人たちを一人ぼっちにせず、互いの状況を想像したり、一緒にできることを見つけたりするうえでも意味がある。それが、私自身が東北でこの10年ほどやってきたことの延長にある視点だと思っています。

つまり、同時代的なネットワークをつくること。他者の状況を想像する力を身につけるうえで、記録という一種の「表現」が介在し得ること。わたしたちのミッションは、そうした視点から禍録のリサイクルを考えることだと思っています。その先に、同じ被害を出さない未来があり得ると信じて。

東京の水害と治水のリサーチで訪れた「荒川知水資料館 アモア」にて、「荒川の水害と放水路の誕生」の展示を見る。

——瀬尾さんは東日本大震災の翌年、2012年に東京から東北へ拠点を移され、震災を体験した多くの人の話をきかれてきました。まさに東北で禍録を収集してきたわけですが、そうした活動を経て、東北以外の禍録の存在も意識するようになったのでしょうか?

瀬尾:東北で人からきいた話を、違う土地の災禍を体験した人に話すという場を多くつくってきたのですが、誰かが話しはじめると、きいている人は自分の体験と重ね合わせたうえで語りだすことが多くて、いろいろつながるんですね。例えば、神戸の人たちは東北の話をきいたあとに阪神・淡路大震災の話をしはじめるし、広島の人は、東北の復興工事が原爆投下後の戦後復興と重なると話されていました。人が語る体験が、別の体験者の語りのスイッチになるという発見は、自分のなかで大きかったと思います。

東北で活動を続けていると、どうしても「東日本大震災」というイシューが自分にとって特別なものになってくるんです。一方で、最近は各地で深刻な自然災害も増えてきました。例えば、2021年からは宮城県の丸森町(まるもりまち)も取材しているのですが、この土地は2019年の台風19号で大きな被害を受けました。その被害規模は東日本大震災には及びませんが、現地には家族や家を失い、ほかの土地に移る人たちがいて、個人レベルでは同等といっていいような被災体験があります。

にもかかわらず、その被害は数としては「小さい」ので、どうしても忘れられてしまうし、「東日本大震災よりは大変じゃない」といった現地の方の声も聞かれます。そこで、「いや、ここにも被災をして、困難を抱えている人がいる」と目を向けることは、私のような被災当事者ではない「よそ者」にこそできることかもしれないと思っています。

——メディアや報道はどうしても、災害の直後に集中的に被災地を取り上げ、次の災害が起こるとそちらへ、という消費的な態度になりがちですよね。しかし当然、それぞれの被災者の方の時間はそのまま続いている。

瀬尾:東北での活動の記録をまとめた『あわいゆくころ──陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019)という本を出したとき、神戸の人が手紙をくれました。彼は阪神・淡路大震災でお子さんを二人亡くした方でしたが、東北の震災が起きたとき、これで神戸に向けられていた注目は東北に行っちゃうんだと感じたそうです。でも、数年経ち、岩手県の沿岸部を訪れた際、そのまちの人々が自分の講演をきいて泣いてくれて、人の視線を奪い合うのではなく、同じ痛みを経験した者同士で出会った方がいいと思えるようになったと話されていました。

こうした経験が、ほかの土地や出来事でもきっと多くありえると思います。私のような、ある土地に根ざしたものを、できるだけ丁寧にすくい取ろうとする「アート」という営みを仕事にする人間が、そこでできることがあるのではないか。震災10年目の頃から、そうしたことを意識的にやりはじめました。コロナ禍でオンライン化が進み、ネットワークが構築しやすくなったことも背景の一つですね。

瀬尾夏美さんが著した東日本大震災に関する本。

各地の語り部同士、個々の語り部の記憶をつなぐネットワークを

——東北で活動されるなかで、各地の取り組みや語り部を「横」につなぐネットワークの不足を感じられたのでしょうか?

瀬尾:「不足」もありますし、甚大な災禍があり、「当事者」と呼ばれる人の規模がどれだけ大きかったとしても、出来事から10年、20年が経つと、それを引き継ごうとする人の数は意外なほど減っていくということもあります。

東日本大震災も、当初はみんなが語り部のような状態でしたが、10年が経ち、まちで一人、二人しか語りを担う人がいない土地もあります。もちろん生活こそが絶対的に大事なわけで、これはこれである種ポジティブというか、パワフルな変化なんですよね。

——「平時」が戻ってきた、と。

瀬尾:そうですね。それに、災禍を忘れたい、話したくないという方もいます。それも当然、尊重されるべき感情です。一方、経験を伝えようとする人が孤独に陥っていることも感じていて、単純にそれまでの活動の蓄積が消えてしまうことを惜(お)しむ気持ちもあります。であれば、各地の被災地で少なくなった語り部や伝承にかかわる活動をする方同士が知り合えたら、支えになるのではないかと。

災禍の継承にはいろんな社会課題が絡みます。ときには、裁判に発展することもあるため、その災害の特殊性を主張しなければいけない場面もあり、それも大事なことです。しかし、そうしたなかでも、一つの正解を求めたり、ある種の闘いに参加するのではなく、もう少し緩やかに心情的な共感を探すような時間や場をアートはつくり出すことができるように思っています。何より、そうした現場をつくる過程のなかでどんなことが起きるのか、私自身が知りたいという思いがあります。

——さきほどの神戸と岩手の方々のつながりもそうですが、瀬尾さんがこれまで、異なる土地や時代の人々の経験に感じたつながりで、特に印象的だったものは何ですか?

瀬尾:以前、広島の平和記念公園を訪れた際、あるおじいさんに話しかけられました。その方が一番見せたいものだと案内してくれたのが、国立広島原爆死没者追悼平和記念館の地下1階にある地層標本だったんです。広島の地層を切り取ったオブジェですが、彼が指差す部分を見ると、現在の地面の1メートルほど下に被曝前のまちの地層がありました。おじいさんは、その「自分がかつていたまちの地層」が見せたかったんですね。

旅行者には「平和記念公園はきれいでいいですね」と褒められるけど、ここは、自分たちが以前暮らしていたまちを1メートルくらい埋めた上にある公園なんだ、と。そこにもともと公園があったのではなく、暮らしがあったことを忘れてほしくないと話されていたんです。

——それはまさに、瀬尾さんが東北の埋め立てられた土地を「二重のまち」と表現されていることと重なりますね。

瀬尾:そうなんです。似たことがほかにもあって、第五福竜丸事件の資料が並ぶ東京都立第五福竜丸展示館に行った際、マーシャル諸島で活動する詩人が話す映像がありました。マーシャル諸島は核実験の被害と同時に、温暖化による海面上昇の影響で島が沈むというので、陸地を嵩上げする計画があるそうです。それに対して映像のなかの詩人が、嵩上げはせざるを得ないけれど、丘や草原の一つひとつに記憶があり、民話や歌があり、それを埋めることは私たちが物語を失うことだと話していて、私が陸前高田できいた話と重なると思ったんですね。

災禍そのものだけではなく、その後の復興工事によって失う集団的記憶があること。そして、マーシャル諸島が核実験の舞台になったり、大国の放出した二酸化炭素の影響で海面上昇の煽(あお)りを受けたりすることには、東京の電気をつくるために福島が被災することや、ソーラーパネルの設置で地滑りが起きることと同じで、構造的な格差がある点も共通しています。

——災禍の跡を辿ると、その背景にあった構造の共通性も見えてくる。

瀬尾:例えば、東京の人がソーラーパネルと地滑りをめぐる報道をきいてもなかなか自分ごとには感じないけれど、せめてそれが構造的につながっていることは知っていてほしいと思います。だけど、それを「知らなきゃ駄目」と直接語りかけても、みんな生活が大変で余裕がない。そうしたなか、さまざまな土地に似た話が共通してある状況を見せることで、自然とほかの土地に想像が向くようになるといいなと思います。

足元に広がる荒川流域の地図。川下の人たちの暮らしを守るために川上に複数の調整池があることを、ボランティア解説員から学んだ。

より逞しく、遠くに届く「語り」とは

——被災地以外に住む「当事者」ではない人のなかには、戸惑いや後ろめたさのため、禍録へのかかわり方に悩む方もいるように思います。そうしたなか、瀬尾さんは以前、そのような戸惑いをもつ人も、禍録を巡るサイクルのどこか「一部」にはかかわることができると話されていた。これは多くの人のハードルを下げる考え方だと感じました。

瀬尾:震災後の東北で、「みやぎ民話の会」という、宮城をはじめとした東北の民話の採訪を行うサークルの方々と知り合いました。そこで知ったのは、民話というのは、「あったること」(ほんとうにあったこと)であるという前提で語られること。これは、ヘビとかキツネとかの話のような、かなりフィクショナルな話でも同じで、そこでは語り手と聞き手が手をつなぎながら、その「あったること」の世界に入っていくんだそうです。

そのとき、「あったること」とは一体何なのか。例えば大昔に、何か絶対に語らねばならない体験をした人がいる。それは洪水や飢饉、継子話(ままこばなし)だったりするかもしれない。それを目撃した人が誰かに伝えなきゃと思って、直接体験していない人に話すとき、相手がショックを受けないように、例え話や笑い話を入れたり、あるいは別の地域のエピソードを入れたりすることもある。そうして、いろんな方法で次の人に渡していくんだと思うんですね。

これはつまり、例えば震災体験を「この震災の話」としてだけ受け継ぐのではなく、間に入る無数の人が「自分の話」として語れる余白がある方が、結果的に逞(たくま)しく、遠くまで届く語りになるということではないか。当事者か否かに関係なく、これは大事と思ったら、自分に引きつけながら次の人に渡す。自分の体験や身体性も入ってよくて、そうして伝わる話の方が、当事者かどうかで精査された話よりも豊かだと思っているんです。

——確かに、一言一句を正確に伝えなければいけないと思うと、そこで語りが止まってしまう可能性もあります。

瀬尾:ハードルが高くて、かかわりたくなくなると思うんですね。もう一つ、これはアートにかかわる話ですが、強烈な体験をしたからそれを表現する資格があるということではなく、誰もが体験したことや感じたこと、考えたことを表現して誰かに渡していいと、シンプルに思います。アーティストだけがそれをやれるわけでも、アーティストが一番できるわけでもない。アーティストは表現を促す人になるのがわりと得意なのかなと思いますが、担い手は誰もがなれるはずだと思っています。

禍録の視点から東京を歩く。「記録」を「表現」に変える

——瀬尾さんと、瀬尾さんが代表を務める「一般社団法人NOOK」は、今春に東京へと拠点を移され、4月からカロクリサイクルの活動をはじめました。これまで東京ではどのような活動を行ってきたのでしょうか?

瀬尾:基本的には、禍録が残された場所を訪れ、災禍がどのように記述されてきたかということをリサーチしています。訪れる場所はさまざまで、5月の初リサーチでは、東京大空襲・戦災資料センターが発行する『戦災資料センターから東京大空襲を歩く』(2005)というガイドブックを頼りに、江東区の妙久寺にある戦災殉難者供養碑や、焼け野原を描く作品を残した俳人・石田波郷の記念館などを回りました。散策後は議論を行い、文章をブログに残しています。おもしろい手法で禍録を残している人と出会ったり、その人と情報交換することもまち歩きの目的です。

2022年5月、東京空襲と関東大震災の記憶を巡るまち歩き(公益財団法人東京慰霊協会主催)に参加。

——東京水道歴史館や、戦後の版画教育についての展示など、訪問先がユニークですね。夏には、「記録から表現をつくる」というワークショップも行われたそうですね。

瀬尾:これは、残された記録を見たり、記録を元に表現をしている作家の話をきいたりすることを通して、参加者も記録から自分の「表現」を考えるというもので、全国から十数人が参加してくれました。さきのアーティストの話にもつながりますが、日本では教育の影響もあって表現することのハードルが高い。それを、少し変えたいという思いもあります。

具体的には、参加者同士がペアになってお互いにインタビューをしあい、相手の語りを文章にして朗読してみることからはじめます。そこで、話をきかれることの楽しさや、書いて表現してみることから生まれるコミュニケーションを体験します。その後、自分の記録したい対象を調べ、中間発表とフィードバックを重ねます。最後には、リサーチの過程で出てきた記録物や資料を構成したり、朗読などのパフォーマンスを組み合わせながら、展示空間をつくります。実際アウトプットしてみると、みんな結構自信がつくというか、表現ってこんなハードルが低いんだ、と感じられるし、お互いの表現を見て感想を言い合うのって楽しいんですよね。そのうちの数人は今後も発表を続けようとしていて、コミュニティも生まれていますね。

「カロク・リーディング・クラブ」という企画では、東京と岡山をZoomでつないで同じ記録を見ながら「てつがくカフェ」のやり方で話し合う場をつくりました。岡山県では真備町(まびちょう)の豪雨被害などもあり、異なる災禍を経験した土地の人たちとネットワークづくりをはじめています。

2022年7〜8月に全4回開催した「記録から表現をつくる」ワークショップの様子。

さまざまな背景をもつ人たちのために、自分のために、いろんなことを知っていく

——江東区内に、カロクリサイクルの活動拠点もつくろうとされているとか。

瀬尾:拠点はいま準備中で、そこで何ができるかを考えている段階です。江東区を選んだのは、水害の歴史やリスクがあるからでもあります。そこでどんなことが起きたのか、地域の人とかかわるうえで、まずは共通言語として知っていきたい。ただ、日常生活のなかで地元の災禍のリスクを考えるハードルは高いと思うので、直接、地域の災禍について触れるのではないやり方で、災害に関して考え、過去をひもときながら、これからを想像するような拠点ができないかと最近は考えています。

また、拠点の近くには外国籍の方も多く住んでいます。私たちがこれまで調べてきた各地の災禍のなかには、そうした人たちの故郷で起きた出来事もありますが、それを伝える際、宗教的な背景や生活習慣の違いで考えなければいけないこともある。そうしたことも学びたいと思っています。

——ほかに、これからしたいと考えている活動についてもきかせてください。

瀬尾:私たちができること、得意だと思うことは、やっぱり東北とつなげることだと思います。

先日、「プラス・アーツ」というNPOの東京事務所に話をききに行きました。こちらは、阪神・淡路大震災の経験を出発点に、防災にまつわるノウハウをゲームのように楽しめる教材にして、こどもたちに向けてワークショップを行っている団体です。そこで印象的だったのは、その方たちはずっと東北でも活動をしたいと思っているけれど、知見があるからこそ、いまはまだ行くべきではないと考え、なかなか訪れることができていないということでした。

2022年7月、NPO法人プラス・アーツの東京事務局を訪問。

それに対して、私たちはずっと東北にいたので、東日本大震災から10年が経ち、すでに小学校に通うほとんどの子が震災を体験していないことや、一方で、大人のなかにはまだ傷が癒えていなくて、自分たちで教育をすることがしんどいけど、何かやらなきゃと思っている人がいることも知っている。プラス・アーツの方たちに、「いま東北での活動が求められていると思います」と伝えることができる。そうした、東北とほかの地域のつなぎ役もしていけるのかなと感じています。

——多岐にわたる活動ですね。

瀬尾:そうですね。ただ、それらを自分がコントロールしようという気はなくて。むしろ、先ほどのワークショップの参加者が独自にコミュニティをつくったり、岡山のチームが勝手に動き出したりすることがおもしろいし、楽しい。その方が、私自身の知見も増えるじゃないですか。そうやっていろんなことを知れば、自分もいい物語が書けるかもしれない。

——自分の創作にも跳ね返ってくる。

瀬尾:もちろん。私は慈善事業をやろうとしてるわけではないので、個人的な動機がなければこうした活動はできないです。プロジェクトには、個人の欲望や身体の感覚がちゃんとあるべきだと思うし、それは参加してくれるいろんな人にとってもそうであってほしい。研究をする人もいれば、まちづくりにいかす人も、演劇をつくりたい人もいる。そういう信頼関係のなかで情報を共有しながら励まし合っていけたらいいんじゃないか、と思っています。

日常のなかにある「語り」をきき逃さないためのコミュニティ

——東京は災禍の記憶やリスクをもつまちであると同時に、瀬尾さんにとっては生まれ故郷でもあります。東北での経験を通して自分の足元への意識が変化した部分はありますか?

瀬尾:東京という土地に対してよりも、災禍を経験して、そのことについて考えたり、傷を負ったままの人たちが同時代にも暮らしていることをちゃんと意識しないといけないという気持ちの方が強いかもしれません。

私の祖父は、戦争で南方に行って帰ってきた人でした。私の世代の「あるある」かもしれないですが、二世帯住宅でじいちゃんが家にいて、認知症でもあったので、戦争の話をしはじめると止まらないということがよくありました。それに対して私や家族は、「じいちゃん、もういいよ」という感じで、自分の日常生活から、ある体験や記憶を語らなければいけない人のことを排除してきた感覚があって。確かにみんな忙しいから、なかなか日常的にきくことは難しいですけど、もっときいてあげた方がよかったな、と。これは私にとって原体験的なものなんです。

そんな風に、同時代を生きている人のなかには、語らずにはおれない、語ることを必要としている人たちが実はたくさんいる。それを抑圧している状態が嫌なんです。きいた方がコミュニケーションも楽しいし、継承の機会にもなる。東京って、いろんなパターンで、いたるところにそうした人がいる場所でもあると思います。その人たちが、語れないままになっているのはよくない気がして。

——いまのお話をきいて、確かに禍録のサイクルが生まれていくためには、語る人だけではなくて、それをきく側の姿勢が伴っていなければいけない、と感じました。

瀬尾:被災地域にいて、語ること、あるいは記録するところまで、ただでさえ大変な状況にある当事者にやらせていていいのだろうかと感じてきました。当事者じゃない人は、それをやる役回りなんだよって、思うというか。

——せめてきこうよ、と。

瀬尾:そう。せめてきいたり、相づちを打ったり、横にいたりしようと。私はそれを家族というコミュニティのなかではやれなかった。だけど、それぞれ事情があるなかで、聞き手は必ずしも当事者に近い人だけではなくていいのかもしれない。聞き手を増やしていくことで、いろんな人が他者の話を持ち回りできいてもいい。私は祖父に話をきけなかった分、それに近い体験をもつ人の話をききたいと思うし、そうしたサイクルが生まれたらいいなという思いもあります。

カロクリサイクルの活動について伝える配信番組「テレビノーク」。月1回程度、YouTubeで配信。

——災禍の経験をもつ人は、常に既に日常のなかにいる。そうした人とどのように生き、そこから何を学ぶのか。そうした「災間の想像力」や、日常的なきく力をみんなで共有するプロジェクトでもあるのですね

瀬尾:災禍の体験者には、さまざまな事情や感情から語ることを躊躇する人もいます。辛くて話すことができないとか、もっと大変な思いをした人がいるから語る資格がないといった心理的な側面のほかに、聞き手が不在であることもよくある。そうしたとき、家族や村の人には話せないけど、外から来た人にならば話せる場合もあると思うんですね。あるいは、「なんか寂しい」といった自分でも整理がついていない抽象的な感情も、きく側の姿勢次第では話すことができるはず。

先ほど話したワークショップの参加者とは、そうした姿勢を共有できた気がしていて。例えば自分の住む郊外の歴史や、通学路にある戦争の痕跡のような、それこそ日常的には周囲の人に耳を傾けてもらえない話を、みんなで調べて、話し合っている。すると、このコミュニティではきいてもらえると感じて、それがまた、記録や表現をはじめる動機になる。同じ感性をもつ聞き手が集まることには、そうした価値もあると感じています。

2023年1月から2月に開催した、「展覧会 語らいの記録 2011-2022」の様子。NOOKが実践してきた記録と表現の手法および、東日本大震災にかかわるアート活動のドキュメント等を展示した。(撮影:加藤甫)

Profile

瀬尾夏美(せお・なつみ)

アーティスト/一般社団法人NOOK
1988年生まれ、東京都出身。東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくる。2012年より、映像作家の小森はるかとともに岩手県陸前高田市に拠点を移す。2015年、仙台市で一般社団法人NOOKを立ち上げる。主な展覧会に「ヨコハマトリエンナーレ2017」、「第12回恵比寿映像祭」など。最新の映画作品に「二重のまち/交代地のうたを編む」(小森はるか+瀬尾夏美)。著書に、『あわいゆくころ――陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019年)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房、2021年)。

「カロクリサイクル」

被災を経験した土地に蓄積されてきた記録物(禍録)や、防災やレジリエンスにかかわる知識や表現の技術、課題等を広く共有するプロジェクト。災間期をともに生き、次なる災禍に備え、災後も活用できるネットワークの形成を目指す。
https://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/what-we-do/creation/hubs/karoku-recycle/52796/

アートプロジェクトのためのウェブサイト制作 コ・クリエイションの手引き

本書ではアートプロジェクトのウェブサイト制作について、その一連のプロセスや、それぞれの段階で押さえておくべき課題、チームで制作に取り組むためのポイントをまとめました。以下のワークシートと合わせてご活用ください。

*本書は「ウェブサイトは必要か?」という問いを、ディレクター、デザイナー、エンジニアなど、多様なフィールドで活躍する10名のメンバーと議論した「東京プロジェクトスタディ これからのウェブサイトについて考える」をきっかけに制作されました。

▶刊行記念オンライン座談会の動画はこちら
「誰かと一緒にウェブサイトをつくるために必要なことはなんだろう?」YouTube再生リスト

プロジェクトオーナーが一方的にアイデアを押し付けるのではなく、エンジニアがすべてを突っぱねるのでもなく、不可侵に感じている互いの境界線をすこし曖昧にして、みんなで学びながら・前向きにチームでつくることが、成功のポイントとなるのです。

(p.3)
もくじ

Stage 1 俯瞰して確かめる

アートプロジェクト系のウェブサイトの分類を捉えよう
ウェブサイト制作での役割分担を共有しよう
ウェブサイト制作の流れを確認しよう
MAP

Stage 2 状況を整理する

ウェブサイトをつくる前にチームでKPTを確認しよう
ユーザー視点で情報発信するために「ペルソナ」をつくろう
届けたい人へ届けるために「カスタマージャーニー」をつくろう
予算・スケジュール・制作体制等を確認しよう
ウェブサイト制作のツール選びはみんなが挫折しないものを選ぼう

Stage 3 伝え方を考える

表現・伝え方のアイデアを考える。プロジェクトの個性をどう表現する?
導線・構成を検討する。ウェブサイトの構成を伝えよう
デザインを検討する。見栄えと使いやすさの優先順位を考えよう
アクセシビリティを検討する。いろんな立場や視点から考えよう
システムを構築する。技術に関する共通言語を手に入れよう

Stage 4 ウェブサイトを運用する

運営方法を検討する。リアルな運用のイメージをつかもう
継続する方法を考える。ユーザーとの「接点」を連続的に捉えよう

ワークシート(付録)のダウンロード

ダウンロードはこちらから。

このPDFデータは、冊子本体のQRコードからダウンロードできるワークシートです。それぞれのトピックに応じて項目を書き出し、ウェブサイト制作に役立てていただけたら幸いです。

「手話を使い会話する。」講座レポート 後編

手話でのコミュニケーションの基礎とろう文化を学ぶ「アートプロジェクトの担い手のための手話講座」。3ステップで通年開催される講座のひとつ「手話を使い会話する。」が2022年10月〜12月、3331 Arts Chiyoda 3F ROOM302にて開かれた。

講師は、俳優/手話・身体表現ワークショップ講師の河合祐三子さん、手話通訳は、瀬戸口裕子さん。全6回の講座内の後半3回の様子を、実際に講座を体験したライターの視点からお届けする。

前半レポートはこちら

11月24日 劇場と美術館を想定したロールプレイ

11月24日、アートプロジェクトにまつわる場面を想定して、メンバーと河合さんとでロールプレイを実施する回となった。実際に行ったのは2つの場面だ。

場面1:劇場。上演される演目のタイトルや開場・開演時間、チケット料金、お手洗いや自販機の場所、緊急時の対応などが記載された資料が当日共有される。前回同様、受付スタッフ役をメンバーが、お客さん役を河合さんが担当。受付でのチケット販売のやりとりや座席の誘導を筆談なども取り入れながら実施した。

場面2:美術館。美術展の内容や開館時間、入場料金、お手洗いや自販機の場所、鑑賞の際の注意事項などが記載された資料が当日共有される。受付や会場内のスタッフをメンバーが、お客さん役を河合さんが担当した。

ロールプレイ前には、配布資料を読みながらコミュニケーションにおけるポイントを河合さんとメンバー同士で話す時間が設けられた。「時間を伝えるときは、『19時』ではなく『午後7時』と伝える」「説明するときは館内マップも活用する、目印を認識しておく」「開演前アナウンスは『手話』でも伝える」などさまざまなアイデアが語られた。

ロールプレイの実施後には、河合さんから、それぞれの対応に関してフィードバックの時間があった。筆談時の文章を簡潔にすること、手のひら(五指を揃えて)ではなく指差しで方向を示すこと、時間を明確に伝えること。これまでの講座で学んだことではあるが、実践するとなると慣れていないこともあり、なかなか難しい。メンバーの様子を見ると、実際にやってみることで感じられたことが多くあったように思えた。

12月1日 ゲストを迎えて舞台公演における案内対応を想定したロールプレイ

12月1日、ゲストに高田和香子さんを迎え、劇場で舞台公演が開催される場面を想定して、受付や会場でのご案内対応のロールプレイを実施。河合さんはロールプレイの前に次のように語る。

河合さん「通じ合わないことがあって当然です。そのときどう工夫するのか。正解はありません。もしかしたらそこから新しい伝え方の発見ができるかもしれない。これまでと違うコミュニケーションが生まれるかもしれません」

筆者はこの日、実際に受付スタッフの役割を担当した。正直、目の前のお客さんとどうやりとりするかよりも、チケットの種別や開場時間・開演時間はいつなのかなど、スタッフとして頭に入れておく情報を把握することでいっぱいいっぱいだった。当たり前だが、自分自身に余裕がないと、他者とのコミュニケーションが雑になってしまうと痛感した。

ロールプレイ後には、高田さん、河合さんからフィードバックが行われた。手話を読み取れないときはわかったふりをせず筆談でやりとりすること、手話や身体の動きが読み取りづらくならないよう、ろう者とやりとりをするときは相手との距離を詰めすぎないこと、多様な特性をもつ人が来ても対応できるような事前準備をしておくことなど、さまざまな視点がメンバーに共有された。

高田さん「『手話ができます』と伝えてくれる人もいます。そう言われると、自分にとって自然なスピードで話していいんだと思ってしまうんですね。だから、名前や数字を伝えられるぐらいの手話の習熟度だったら、わざわざ『手話ができます』と伝える必要があるのか悩ましいところ。手話でのやりとりが難しいと感じたときは、筆談に切り替えてもらった方がいいですね」

河合さん「『手話ができる』と伝えること、そのものが悪いわけではないです。でも、それで誤解が生まれてコミュニケーションがずれてしまう場合があるということを覚えておいてもいいかもしれません」

後半には高田さんへの質疑応答の時間があり、さまざまな話が展開された。

高田さん「丁寧に対応してもらえるのはありがたいんですが、周りの視線がすごく刺さる感じもあるんです。聴者と一緒に、平等に誘導してもらえるのがうれしい。ろう者も一人の人間なので、同じようにみてほしいんです」

河合さん「そのためにも文化を知ることがまず大切です。ろう者がこんな文化を持っているんだと知る。そして人として尊重する。『聴こえないから』ではなくて、違う文化があることを理解することが大切なんです」

12月8日 カフェ併設の美術館での案内対応を想定したロールプレイ

12月8日、ゲストに越後節子さんを迎え、カフェ併設の美術館での案内対応を想定したロールプレイを実施。

筆者はこの日、美術館内での監視スタッフ役を担当した。積極的に鑑賞者とコミュニケーションをとるのではなく、作品保護のために必要なことや鑑賞者が困っている様子があったときのみ声がけすることを心掛けた。必須で伝えるべきことが明確になり、その分、伝える手段をどう準備しておくのがいいか考えやすくなった。目の前にいる人との臨機応変なやりとりもたしかに重要だ。ただその手前にある準備をしっかりしておくことが、現場にいるスタッフの個人スキルに任せすぎない形で、さまざまな特性をもつ人たちが安心できる環境づくりにつながるのではないかと感じた。

ロールプレイ後には、越後さん、河合さんからフィードバックが行われた。作品に近づきすぎているときは明確にNGラインを示してほしいこと、障害者手帳の確認の仕方、手話や筆談ですべてを確認するのではなく身振りなど別の方法でシンプルに伝えられないか考えてみてほしいなど、具体的なポイントが多く共有された。

後半には質疑応答の時間があった。受付対応のとき、筆談で長文を書かれてしまって時間がかかり自分の後ろに長蛇の列ができてしまったこと、緊急時の誘導で腕を急に掴まれて嫌だったこと、話しかけるときの肩の叩き方、越後さんが通っていた学校での学習環境などが語られた。

越後さん「ろう学校に通っていましたが、手話は禁止されていて、口話を教えられました。小学校2年生のときに転校して、そこは授業で口話を使うんですが、休憩とか給食のときは手話がOKな環境でした。同級生の手話をみて学んで習得していきました。

私にとって、口話はあまり役に立ちませんでした。私は聴こえないので、発語しても自分の声からフィードバックを得られない。聴こえるこどもたちは自分の声が聴こえます。だからフィードバックが得られてコントロール方法を学んでいける。私の場合は手話であれば、それを見ることでフィードバックが得られる。聴者とろう者で言語が違うだけなんです。だからそれぞれに合う学び方で成長できればいいのにと思います」

河合さん「いろんな人がいて、コミュニケーションがうまくいかない場合があると思います。ではどうするか、さまざまなコミュニケーション手段を持っていてほしい。そこがこの講座の目的です」

「コミュニケーション:手話を使い会話する。」と題された今回の講座。「手話を使い会話する」ことの実践というよりは、他者を尊重して関わるとはどういうことなのか、自身の身体を通して考える機会だったように思う。

また参加して、目の前にいる人を尊重するには2つのことが大事なのではないかと気づいた。社会においてその人の文化がどのような状況に置かれているのか知ること。唯一の正解があると思い込まず互いにコミュニケーション手段を考えること。知るだけでは頭でっかちになってしまう。でも、知ることをないがしろにすると、実践のなかで他者の文化を無意識に傷つけてしまったり、差別をしたりするかもしれない。

他者の文化を知ろうとすること、目の前にいる人と一緒に考えること、その両方を積み重ねる。それを個人に託すのではなく、そうした積み重ねが実践しやすい環境づくりをする。自分自身が携わるプロジェクトからすこしずつ実践していきたい。そう思わせてくれる講座だった。

(執筆:木村和博/編集:嘉原妙/撮影:齋藤彰英

関連情報

ステップ1「ろう者の感覚を知る、手話を体験する」レポート
ステップ2「手話と出会う。」レポート

誰もが「わたし」から出発できる場をつくるために——めとてラボインタビュー

「めとてラボ」の名前の由来は、「目」と「手」。2022年度からはじまったこのプロジェクトでは、視覚言語である「手話」を通じて育まれてきた独自の「文化」を見つめ直し、それらを巡る言葉や視点を豊かに耕しながら、コミュニケーションの新しいあり方を開発していく場づくりが目指されています。

ろう者が自然体で自分を表現できる空間、コミュニティのあり方とはどのようなものか? ろう者と聴者が手話通訳を介して対話するとき、両者の間にはどのようなことが起きているのか?

手話を第一言語とするろう者や、ろう者の両親をもつCODA(コーダ)、聴者が協働して展開するめとてラボでは、国内外のろう文化にかかわる事例のリサーチや、異なる身体をもつ他者との交流などを通じて、こうした問いや視点を一つひとつ深め、蓄積しています。そこにあるのは、多くの人が普段は何気なく行う「コミュニケーション」というものへの問い直しであり、自身の言語観が揺らぐような創造的な体験です。

今回はそんなめとてラボのはじまりや取り組みについて、メンバーの岩泉穂さん、南雲麻衣さん、根本和徳さん、嘉原妙さん、和田夏実さん、相談役で映画作家の牧原依里さんにお話をききました。インタビューは岩田真有美さん、小松智美さんの手話通訳を介してZoomで行いました。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:池田宏 *7、8、9枚目以外/撮影時手話通訳:川口千佳、小松智美)

「コミュニケーション」について、手前の手前から考える

——めとてラボのはじまりについてきかせてください。

和田:2020年に、アーツカウンシル東京のTokyo Art Research Lab(以下、TARL)で「共在する身体と思考を巡って」というプログラムを行いました。これは、今日も参加されているパフォーマーの南雲さん、写真家の加藤甫(はじめ)さん、インタープリター(通訳者)のわたしの3人ではじめたもので、異なるコミュニケーション方法や身体性をもつ人たちの間で、「伝える」ということについてあらためて実験的に考えてみようとする場でした。

お互いの違いをふまえながら、いかに他者の考えや言いたいことに寄り添い、出会うことができるのか。「伝える」という当たり前にも思えることをふたたび「発明」してみようとする関心がそこにはありました。メンバーは以前からこうしたコミュニケーションへの興味を抱いていましたが、プログラムを経て、文化事業としてこのテーマに取り組むことへの可能性を感じるようになりました。

インタープリターの和田夏実さん。

南雲:TARLのプログラムはちょうどコロナ禍と重なり、対面での実施ができなくなってしまったんです。でも、これが結果的にはよかった。聴者とろう者というわかりやすい違いにとどまらず、ろう者のなかにも聴者のなかにも、さらに個別の身体による違いがあるのではないか。対面できない不自由な状況のなか、そうした視点を深めることができたんです。

一方、そこでは手話通訳の問題も起こりました。わたしの会話の手段は手話ですが、話題がアートなどの場合、手話の表現は抽象的になりがちです。現場には2人の手話通訳者の方もいましたが、ものの捉え方が異なるなか、お互いのなかのイメージを伝え合うことが難しかったんですよね。そうした点も、「伝える」ことについて考えてみたいと思っている動機です。

パフォーマーでアーティストの南雲麻衣さん。

和田:「通訳」という次元の問題もありつつ、手話や日本語といった同じ言語を使う人同士でも、例えば文字や音声だけでつながってみたり、紐でつながってみたり、普段は絶対にしない出会い方をすると、相手の「その人らしさ」がまた違うかたちで見えてきて魅力的に感じることもあります。2021年のプログラム「わたしの、あなたの、関わりをほぐす」では、そうしたブワッと現れるその人らしさをそのままかたちづくる方法について、ゲストも交えてみんなで考えました。

そうしたなか、コミュニケーションの手前で一人ひとりが満ち足りていくこと、自分自身のなかにある言葉の豊かさや文化を大切にできる場所がまずあることがすごく重要だという思いが強くなっていきました。こうした場づくりが、東京アートポイント計画のなかならばできるかもしれない。それで、以前からご一緒させていただいた方たちに声をかけたのが、めとてラボのはじまりでした。

——いまのお話にあった、人それぞれのなかにある「言葉の豊かさ」や「文化」ということについてもう少しおききできますか?

根本:福島県に住んでいる根本といいます。デフファミリー(全員がろう者の家族)で育ちました。わたしからいまのお話について、ろう者としてのイメージを伝えてみます。例えば聴者は音をききますよね。音声言語を通して、口で話す。その言葉は時間を伴って発話され、それが線のようにつながって次第に意味を成していく感じだと思います。

それに対して手話は、この手のかたちや動きにもう「結果」があるのです。そして、その後の対話を通して、会話の意味がつくり上げられていくイメージがあります。手話と音声言語では対話の流れがそもそも違うんですね。さらに、手話のような表現として表に見えている部分だけではなく、内にある感覚の違いもあります。そうしたことが個人の「文化」で、そのつながり方を考えてみることがめとてラボで探究していることなんです。

——手話に馴染みがない人のなかには、手話を音声言語の代わりの言語と捉えている人もいるかもしれません。しかし、日本語と英語の言語構造が違うように、手話も独自の構造をもった一つの言語であり、そこには特有の「文化」があるということですね。

和田:そうですね。ただ、そうした「文化」は社会であまり知られていません。 わたしたちは、さまざまな他者が出会うことをプロジェクトの大事なテーマにしていますが、だからこそまずは、手話のなかで積み重ねられてきたものを残したり、それをしっかり考えたりする場所の開発が大切なんじゃないか、と考えています。

ろう者と聴者が一緒に視点を深める場づくり

——メンバーのみなさんは、それぞれどのような思いでめとてラボに参加されたのでしょうか?

岩泉:めとてラボで事務局を担当している岩泉です。わたしは東京に住んでいて、根本さんと同じくデフファミリーです。まだ入りたてですが、このメンバーとだったらいろんなことができるんじゃないか、気づきがあるんじゃないかと思って参加しました。

あと、わたしは手話通訳者のことを「常にそこにいる人」で、それが自然だと感じていたんです。だけど、自分で初めて手話通訳を依頼してみたことで、そこにはいろいろな準備や背景があることを知りました。手話通訳者がいて当たり前ではなくて、手話通訳者がいる環境の整備について考えてみたいと思ったことも参加した動機です。

めとてラボの事務局を担当する岩泉穂さん。

根本:わたしは、ろう者と聴者が一緒に何かを蓄積していく場がもっとつくれたらいいなと思っています。いまの社会にはそうした場がないですよね。それぞれが別々の方向に行くのではなくて、お互いの違いを知りながら、何が通じて何が通じないのか、一緒に話すにはどうしたらいのか、そういう実験をめとてラボでできたらいいなと思っています。

これは個人的な感じ方ですが、自分には「身体=答え」という感覚があります。例えば音声が文字化されたものをあとから読むと、話者の気持ちがわからない。そうではなく、実際の身体を前にして対話すると、その人の気持ちや言いたいことを感じる、そうした蓄積が重要で、そこから共感や理解が広がる気がします。その辺りの感覚の共有がうまくできたらいいなと思います。

南雲:「場」という意味では、ろう者の団体そのものは、以前からこどもや高齢者向けのものまで含めてたくさんあるんですよね。それに対してめとてラボの特徴は、「既存の場を見つめ直すための場をつくる」という点にあると考えています。つまり、何らかの目的でつくられた場をリサーチするための場である、という点がユニークだと思っています。

——その「場」とは、空間的な意味も、コミュニティという意味も含みますか?

南雲:仰るとおりです。いろいろなものが入っています。

牧原:めとてラボの相談役の牧原です。わたしは、いつもは「異言語Lab.(ラボ)」という団体で活動しています。これは手話を使う人、音声を使う人が一緒に謎を解く、謎解きゲームを開発している団体です。いままで手話を知らなかった聴者が、謎解きを通して手話のおもしろさやろう者の身体性に気づく、そしてろう者自身がエンパワーメントを得ていくことに可能性があると考えています。

異言語Lab.とめとてラボには似ている部分もありますが、異言語Lab.はゲームを通して実践していくエンタメ寄りなんですね。それに対して、めとてラボは、「なぜ、これはこうなっているのだろう」ということをみんなで一緒に対話を重ねながら考えていく、そういう場だと思います。

こうした対話に、もしかしたらろう者は慣れていないかもしれません。聴者にはいろんな対話の場がありますが、ろう者の場合、手話が言語として認められず、口話を強要され、手話を主張できなかった時代が長く続きました。そして聴者の環世界が正しいという目線のもと育てられたろう者も数多くいらっしゃいます。そのため、手話の身体性や文化的な視点はまだまだ未開拓なところがあります。いまは言語の面にフォーカスされていますが、手話の身体性や文化的な視点に関してこれから注目されていくのではと思っています。そうした視点を、対話を重ね、「言語を超えた非言語」もどんどん取り入れながら、ろう者も聴者も一緒に考えていけるとおもしろいのかなと思います。

映画作家でめとてラボ相談役の牧原依里さん。

和田:従来はどうしても集まる人数や場所の問題から、ろう者が「マイノリティ」となる状況が起きていました。しかし、そのマイノリティのなかに、自然と蓄積されてきたものがあるわけですよね。それを今度は みんなで一緒に「これは何だろう」と考えてみる。

例えば、ろう者が過ごしやすく設計された空間を「デフスペース」と言うそうです。そこでは手話のために視線が合わせやすくなっていたり、照明を点けたり消したりして誰かを呼べるようになっていたりします。こうした空間はろう者にとって「ホーム」ですが、一方で、社会のなかでは、これまでろう者はずっと「アウェー」で戦ってきたところがありました。それに対して、めとてラボではあらためて社会のなかに「ホーム」をつくるような活動をしたいと考えています。

嘉原:わたしは2022年の春までアーツカウンシル東京に勤めていて、長年、アートプロジェクトの現場にアートマネージャーとして携わってきました。そうしたなか、めとてラボでわたしが学びたい、掴み取りたいと考えているのは、違う言葉を使う者同士がいかにイメージのズレを重ねていきながら、一緒に見たい風景を見ていけるのか、ということです。

使う言語や会話のテンポの違いによるイメージのズレは、同じ言語を使う話者同士であっても起こります。特にアートプロジェクトのような、抽象的なビジョンを共有する必要がある活動では、その擦り合わせが難しいことも多い。またコロナ禍以降は、自分が蓄積したマネジメントの知識や経験に限界を感じることも増えました。そうしたなか、ご一緒していた和田さんや南雲さんのプログラムでは、その限界をふっと超えられるような感覚があったんですね。

マネジメントも通訳と似て、「間」に立つ仕事です。そこには、想像力を働かせながら準備をすることで、その場の可能性を担保するというおもしろさがあります。その準備や「間」への入り方によって、現場の対話の濃度や物事の見え方は変わります。めとてラボでそういうマネジメントのスキルを更新したい、一緒に考えていきたいと思っています。

もう一つ、わたしは3年ほど前にろう者の方に出会ったのですが、そのときに、世界の見え方が違うことを知って「わ!」となったんですよね。それは、アーティストと一緒に街を歩いたとき、いつもの風景がまったく違って見えてくる経験と似ていました。そうした風景をもっと見たいという、より個人的な思いも参加の動機にあります。

アートマネージャーの嘉原妙さん(中央)。

ろう者の豊かなコミュニティをリサーチする

——6月には視察として福島県に行き、社会福祉法人の運営する「はじまりの美術館」や福島県立博物館などに加え、ろう学校の先生のご自宅にも行かれたそうですね。

和田:さきほどの「ホーム」のあり方を考える上で、わたしたちにもよくイメージが掴みきれていない部分がありました。そのとき、根本さんから福島に長谷川俊夫さんという先生が自宅でひらいているデフコミュニティがあるときいて、みんなで行きました。

嘉原:先生の教え子が集まっているのですが、なかには教員になっている方もいて、みなさんでいまの教育について議論していたり、手話にも方言のように地域ごとに表現の違いがあるんだよと教えていただいたり。すごく素敵な空間でしたね。

——根本さんは、なぜ長谷川先生のコミュニティを紹介したいと思ったんですか?

根本:リサーチのテーマに「創造文化」というものがあって、「文化」という言葉を考えたとき長谷川先生のご自宅が思い浮かびました。なぜかというと、そこには「自然に自分が出せる場所」という感覚があったからです。

長谷川先生のご自宅はろう者、聴者に関係なく、目を合わせる必要がある空間です。お互いの無理解なところも見る必要があります。でも、さきほど話した「身体=答え」という感覚で言えば、そうやって自然に自分の身体をさらけ出せる場所があるということは、文化の創造にとってすごく重要だと思います。そうした場所があること、その場の感覚をみんなと共有したかったんです。

福島でのリサーチ、長谷川俊夫先生の自宅にて。緑のTシャツが根本和徳さん。撮影:めとてラボ事務局

嘉原:先生ご夫妻から、「いつでもおいで」って空気が出てるんですよね。伺ったときは手話通訳の方とわたしだけが聴者で、わたしはまだ手話を勉強中なので会話は断片的にしかわからないのですが、聴者にとっては「静か」なはずの、音声言語を使わない手話による会話から、確かなワイワイ感や空気の揺れを感じたことに驚きました。 和田さんが見たいと言っていた「ホーム」の一端が見えた気がしました。

南雲:福島に行ったのは、めとてラボの活動がまだぼんやりしていた時期でしたが、文化の拠点をいろいろ訪問してお話をきくなかで、メンバー間に共通言語ができてくる、共通言語で語れるようになることがほんとうにいいなと思いました。根本さんが言うように、身体の感覚を共有する、対話を重ねるということが大切だなと思いました。

牧原:わたしもリサーチに参加しましたが、異なる言語を使う人たちをつなぐ通訳のあり方について、あらためて考えました。なぜかというと、視察の間は、昼間は聴者中心に会話が進んでいったのですが、夜になると長谷川先生の家でろう者が中心になっていました。そうなると誰が中心かによってその場のコンテクストが変わり、情報の伝え方もおのずと変わってくるので、手話通訳の方は苦労されたのでは、と思います。

ほんとうに自然なコミュニケーションや会話の通訳というのは難しい。聴者の会話のなかにも「見えないルール」みたいなものがありますよね。そういうものがろう者の会話にもあるのですが、それが次第に聴者に伝えきれなくなってしまうことがあるんです。あらためて通訳とは何ぞやっていうことを考えるきっかけになりましたね。

和田:今回のリサーチには、「場」のモデルを見つけに行くという意図もあったのですが、結果的に福島と東京にいるろう者同士が出会って、何を考えているかを話せたことも大切でしたね。

根本:いろんな文化拠点とつながりができることも重要ですね。福島県立博物館とは今度、ろう者のためのガイドや、ろう者も一緒に楽しめるワークショップなどをやろうと話していて、相談しながら計画を進めています。これもめとてラボのおかげです。いま初めて言ったので、メンバーのみんなは驚いていると思いますけど。

一同:すごい!

福島の西会津国際芸術村にて。撮影:齋藤陽道

南雲:そのお話をきいて思いましたが、文化拠点とのつながりと同様、各地のろう者とのつながりも広がるといいなと思います。別の土地で暮らすろう者のことは、わたしたちもよく知らなくて。めとてラボの支部のようなものが全国に広がるといいなと思いました。

和田:そうですね。それと、プロジェクト1年目である今年度は、南雲さんが仰った「既存の場を見る」ことを中心に行っていますが、来年度以降は「場をつくる」ことも考えていきたいな、と。その意味で、視察のなかでいろんな場を見ることを通して、みんなで「場をつくること」のイメージを高めたり、対話を積み重ねていけたらと考えています。

ろう者が暮らしやすい空間「デフスペース」のあり方を探る

——福島のほかに、さきほども触れられていた「デフスペース」のリサーチとして長野県にも行かれたそうですね。

和田:長野の訪問先は、実はわたしの実家なんです。そこに、みんなに来てもらいました。うちは両親がろう者の家庭ですが、母が空間をいろいろ工夫しているんです。例えば、2階にいる人と1階にいる人とが会話ができるような吹き抜けになっていたり、照明をチカチカさせることで相手を呼べるようになっていたり。

デフスペースの研究をされている福島愛未さんによると、「デフスペース」というアイデアは、ろう者の身体にふさわしい建物の空間があるのではないかという観点から、アメリカのギャローデッド大学内の場所をつくる際に、さまざまな人が考え、発見しながらつくり上げていったものだそうです。日本ではまだそこまでこの言葉や考え方は浸透していないようですが、母が10年前に工夫しながら自宅をつくったように、いろんな方のお宅にもデフスペースと呼べるものがあるのではないかと伺って、ぜひ集めていきたいねという話になりました。スタートとして、福島さんと牧原さんを長野に招き、岩泉さんの家族や、福島にいる根本さんともオンラインでつなげたりしながら、みんなで家のなかを見て話をしました。

和田さんの実家のデフスペースをメンバーで視察。撮影:めとてラボ事務局

——岩泉さんのご両親は、参加されてなんて仰ってましたか?

岩泉:なぜわたしの家族が参加したかというと、両親は建築関係の仕事をしているんです。そういう関係もあって、デフスペースを見たかったようです。正直、両親はデフスペースについてあまり詳しくはないのですが、実際の場所を見たことで構造や素材について多くを学ぶことができた、と話していました。

——そうやって、リサーチを通してみなさんのなかに、新しく出会ったものや、身近だったがゆえに気づいていなかった視点、課題がどんどん蓄積されてきているんですね。

メンバー:はい、そうですね。

牧原:さきほども「聴者にも見えないルールがある」と言いましたけれど、わたし自身はめとてラボに参加していて、みんなが当たり前に思っていることをあらためて発見することが多いんですよね。例えば、ろう者の家には廊下がない場合が多い。聴者の家には普通にありますが、ろう者の家には、視界を遮るものがなく、なるべく大きな一つのスペースになっていることが多いので、廊下自体がないんです。それを発見しました。 ほかにも、ろう者と聴者が一緒に会議をするなかで、音声できく言葉と文字で見る言葉は違うんだという発見もありましたね。

会話の「ズレ」、感覚の「揺れ」を体感する

——すこし話が逸れてしまいますが、牧原さんがさきほど、手話の身体性はまだ未開拓な部分があるという話のなかで、新しくつくる場では「言語を超えた非言語」をどんどん取り入れていくのがいいと話されていましたね。これについて、そのイメージをおききしたいです。

牧原:わたしのイメージのなかでは、「言語を超えた」というより、「言語の奥にある非言語」というようなイメージでした。例えば、ろう者の身につけているルールもあれば、聴者のルールもありますが……(しばらく説明するが、取材陣にはうまく伝わらない)。

根本:いまの会話を見ていて、牧原さんの言いたいことを日本語に言い換えるのはすごく難しいと思います。このようなとき、「言語」の限界を感じます。牧原さんが手話で表現している内容を見てわたしはよく理解できるのですが、日本語にするとどうしても違和感が発生するんだと思います。これを通訳するのは大変だと思います。

牧原:手話をわかっている人が見れば、ある手話を見たときに、表現されていない部分も含めて「何となくこんなイメージ」というのがわかることがあるんですね。そういったことは、聴者同士の会話のなかにもあると思います。ただ、それらの暗黙のルールが同じ対話のなかで交わったときにズレが生まれてしまう感覚があって、その「ズレ」って何なのだろうと考えるんです。

和田:牧原さんは『LISTEN リッスン』(2016年)という映画を監督しています。ろう者の音楽=「オンガク」を探求した映画で、身体的なものを視覚的なものに変えていくには何が必要かを考えさせる作品です。わたしが「言語の奥にある非言語」という話からイメージするものは、この変換において何が必要なのかと考える、その感覚と似ている気がします。

その映画に映される「オンガク」は、ろう者が身体のなかにもっているリズムや衝動のような感覚を表現したものです。 同じように根本さんはよく哲学の話をするのですが、そこでも対話を重ねていくなかで言葉の「意味」が発見されていく感覚があるそうです。めとてラボのような場では、みんなでそうした「奥にあるもの」の共有の仕方についても考えることができると思います。

根本:いまのやりとりにも表れていましたが、ろう者が聴者と話す場において、どのようにバランスを取るのかはすごく難しいですよね。

和田:聴者は普段自分のなかに、日本語でも英語でも、音声言語という安定した立ち位置がありますよね。でも、その立ち位置が、手話に出会ったときに、揺れる感覚があると思うんです。それを体感するのは、すこし苦しい思いをするかもしれないですけど、出会ったあとの視野が広がる感覚もあると思います。

難しいですけれど、お互いに自分の立ち位置の揺れを体感できるというか、そのような揺れから、お互いの気づきにつながったりとか、自分たちの言語とは何かっていうのを発見することにもつながっていくのでは、と思っています。

——「揺れ」というのはとてもよいキーワードですね。和田さんが冒頭に話された、自明のものとされている「伝える/伝わる」を「発明する」、という話ともつながると思います。そして特に聴者にとっては、その自明性を点検することは、自分の言語の足場が揺らぐような体験になりますね。

牧原:わたしは自分の活動では、ろう者が聴者のルールに沿うのではなく、むしろ、聴者にろう者のやり方を共有していくことができたらと考えています。

もしかしたら聴者は、そこで知る新しい文化ややり方に戸惑いを感じるかもしれません。けれどもわたしは、みんなのなかの「当たり前」が壊れていくことは、お互いにとってよりよく生きることへの第一歩だと思います。ろう者っていうのがいままでイメージしていたのとはまた違うんだとか、聴者っていうのはこういうものなんだっていう理解を自分のなかで更新していくことが、大切だと思います。

和田:何かと出会ったとき、最初に感じる「揺れ」って苦しいですよね。でも、その奥に広い世界があるかもしれない。自分に合う、何かいいやり方があるかもしれない。

誰かの身体との出会いを通して感じるその広がりは、本の文字の奥に広がる空間とも近いのかもしれません。身体を通した出会いのなかで、思い込みを超えたその奥に新しい世界が広がっていく。 そういうことをお互いにできたらいいなと思っています。

海外や家庭内のろう文化を収集。未来の拠点にいかしていく

——最後に、今後の活動の予定をおききできますか?

和田:自分たちの拠点について考えるため、まずはデフスペースについてのリサーチや、国内外のろう文化に関する場づくりの事例にも触れていければと思っています。その拠点というのも、実際の空間なのかオンライン上なのか、はたまた、スタジオがいいのか、カフェがいいのか、宿泊できる施設がいいのかなど、いろんな選択肢があるので、どういうかたちが理想的なのかを考えていきたい。いずれにしても、福島で経験したように、みんなでご飯でも食べながら、何かが広がって膨らんでいく、そういう場所ができたらいいなと思っています。

また、実は手話は「消滅危機言語」と言われていて、特に、家庭や日常のなかでの対話、土地ごとの手話というものは記録に残りにくい状況にあるんです。こうした状況に対して、アーカイブの残し方やその活用も考えていけたらなと。いろいろな人に話を
きいたり、一緒に対話を深めていきながら、一歩ずつ着実に歩んでいけたらなと思っています。

Profile(五十音順)

岩泉穂(いわいずみ・みのり)

会社員
1998年生まれ。東京都江戸川区出身。インテグレーション。生まれつきろう者で家族や親戚含め、ろう者に囲まれ育つ。福祉施設の採用関係の仕事・聾学校の乳幼児相談室の相談員として勤めている。「めとてラボ」事務局を担う。

南雲麻衣(なぐも・まい)

パフォーマー/アーティスト
1989年生まれ。神奈川県逗子市出身。大学まで手話を知らずに音声言語のみで育ち、大学で日本手話に出会う。文化施設の運営とアートなどの企画の仕事の傍ら、アーティストとしても活動する。近年は、人工内耳による音声言語と手話の視覚言語を用いた、複数言語の「ゆらぎ」をテーマにし、当事者自身がもつ身体感覚を「媒体」に、各分野のアーティストとともに作品を生み出している。

撮影:齋藤陽道

根本和徳(ねもと・かずのり)

特別支援学校教員/ネギ書店店主
1993年福島県生まれ。特別支援学校の教員として働く傍ら、福島県二本松市にある「カメヤ書店」に書棚「ネギ書店」をもち、SNSでお薦めの本について発信している。手話を第一言語として獲得したネイティブ・サイナー。文章から心象風景を美しく再現する手話表現に定評がある。

牧原依里(まきはら・えり)

映画作家
1986年神奈川県生まれ。ろう者の「音楽」をテーマにしたアート・ドキュメンタリー映画『LISTEN リッスン』(2016)を雫境(DAKEI)と共同監督、最新作は『田中家』(2021)。東京国際ろう映画祭ディレクターや一般社団法人異言語Lab.理事と多岐にわたって活動中。「めとてラボ」相談役。

嘉原妙(よしはら・たえ)

アートマネージャー/アートディレクター
1985年兵庫県生まれ。京都芸術大学卒業。大阪市立大学大学院創造都市研究科(都市政策学)修士課程修了。在学中より企業メセナ協議会インターン、現代アートを中心に展覧会や美術鑑賞教育プログラム、アートプロジェクトの企画運営に携わる。「時の海 – 東北」プロジェクトディレクター、編集など活動は多岐にわたる。「めとてラボ」ではプロジェクトマネージャーとして活動。

和田夏実(わだ・なつみ)

インタープリター
1993年生まれ。ろう者の両親のもとで手話を第一言語として育ち、大学進学時にあらためて手で表現することの可能性に惹かれる。視覚身体言語の研究、さまざまな身体性の方々との協働から感覚がもつメディアの可能性について模索している。近年は、言葉と感覚の翻訳方法を探るゲーム制作やプロジェクトを展開。2016年手話通訳士資格取得。

「めとてラボ」

視覚言語(日本の手話)で話すろう者・難聴者・CODA(ろう者の親をもつ聴者)が主体となり、異なる身体性や感覚世界をもつ人々とともに、自らの感覚や言語を起点にしてコミュニケーションを創発する場をつくるプロジェクト。手話を通じて育まれてきた文化を見つめ直し、それらを巡る言葉や視点を辿りながら、多様な背景をもつ人々が、それぞれの文化の異なりを認めあった上でどのようにコミュニケーションを交わしていくのか、そのあり方を研究・開発している。

https://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/what-we-do/creation/hubs/metote-lab/52801/

ものが生み出す人とのつながり。学びの場をひらくには?(APM#10 後編)

約3年ぶりにひらかれた「Artpoint Meeting」第10回のテーマは「アートがひらく、“学び”の可能性」。日比野克彦さん(アーティスト、東京藝術大学学長)のビデオメッセージが披露された後、鞍田崇さん(哲学者)が「“つくること”で、感性をひらくこと」と題して基調講演をしました。それに続く「セッション1」では、多摩地域で行われている「ざいしらべ」という取り組みについての事例報告がありました。

>レポートの前半はこちらから。

会場の一角には、図工の授業で使われた様々な素材や道具が展示されました。木や竹、植物といった自然素材とともに、工業製品とおぼしい小さな部品も並びます。休憩時間には参加者が興味深そうに眺めたり、手にとったり。なかには人工の歯や馬用の蹄鉄といった見慣れないものもありました。アートとどうかかわるのだろうか、と不思議に思っているうちにイベント再開の時間になりました。

レポートの後編は、「セッション2」と全体を総括する「ディスカッション」の様子をお伝えします。

廃材からアートへ、新たな循環を生む「創造素材」

「新たな“学び”の循環をつくる」というテーマを掲げて登壇したのは、NPO法人アーティスト・コレクティヴ・フチュウ(ACF)の宮山香里さん(美術家)と西郷絵海さん(アトリエTutti主宰)。ACFは府中市を中心としたアートにかかわる人々やアートファンのネットワークで、「誰もが表現できるまち」をテーマに地域とアートをつなぐ活動をしています。そのひとつが、府中市の市民提案型協働事業として2021年に始めた「ラッコルタ-創造素材ラボ-」というプロジェクトです。

(写真左から)NPO法人アーティスト・コレクティヴ・フチュウ(ACF) 宮山香里さん、西郷絵海さん

「府中市には企業、それも製造業の中小企業が多く集まっています。そうした企業から不要になった部材を提供していただきます。アーティストが企画するワークショップで、おとなやこどもにその素材を使って作品をつくってもらい、展示する機会を設けます。そこで生まれた新たな視点や価値の変化を、提供企業にフィードバックすることで、引き続き素材を提供いただくという循環の仕組みを目指しています。素材の価値が変化し循環するプロセスを共有することによって、企業の方々にも『自分ごと』としてのアートとの関わりが継続的に続いていくことを期待しています」(宮山さん)

つまり、企業の製造過程で生まれる端材や不要な部材を、創造のための素材=「創造素材」と位置づけているのです。宮山さんは約20年間、イタリアでもアーティストとして活動を続けています。ラッコルタ(イタリア語で「収穫」)という愛称を添えたのは、そうした宮山さんの経験にも由来しています。

では、「創造素材」はどのようにして探すのでしょうか。「最初は、『(府中には)霊園があるから墓石はどう?』とか、『競馬場があるから蹄鉄かな』といった思いつきでした(笑)。企業にメールや手紙を送って、反応があった企業から少しずつ、いろいろな素材が提供されるようになりました」(西郷さん)

そうした企業のひとつが、医療機器製造・販売業の「株式会社TOKIO Lab」でした。製品梱包に使うダンボール製の小さな緩衝材(チップ)を提供してくれました。そのチップを使って、2021年に第1回ワークショップ「暮らしの彫刻」を実施しました。

「三木麻耶さんという、『日常を俯瞰する』というテーマで活動するアーティストを招きました。参加者がチップで自分の生活のなかに組み入れる彫刻をつくり写真作品にする、というオンラインワークショプです。参加者の作品とともに、三木さんの代表作をギャラリーに展示して、そこにTOKIO Labから提供されたチップに触れられるスペースも設けました。参加者はチップを持ち帰って、作品をつくり、暮らしのなかに組み込んだ写真を送ると、ギャラリーに展示される、というかたちで2週間、変わり続ける展示を実現しました」(宮山さん)

今年は府中市内の文化施設で開かれた対面のワークショップを実施しました。「素材の説明だけして自由につくってもらうと、おとなもこどももどんどんつくり始めました。創造素材を介して人ともの、人と人の交流が生まれ、毎回異なる出会いがあります」(西郷さん)。そこから、素材を持って各地に出かけるキャラバン的な活動や、素材を求める人に提供する活動も始めたそうです。

「ラッコルタ-創造素材ラボ-」で提供を受けたダンボール製の小さな緩衝材

創造素材がもたらす新たな“学び”。その一例として、宮山さんがこんなエピソードを紹介しました。ACFとは別に、個人の活動として愛媛県の小学生を対象にオンラインでワークショップを開いたときのことです。

「平和学習のなかで、『自分にとっての平和はなんだろう』と問いかけて、創造素材で造形するワークショプです。戸惑っていたこどもたちが、素材に手を触れることで思考が整理されていきました。『平和の花』という作品をつくったこどもがいました。説明してもらうと、『平和になるには、他の人に関心を持つことが必要。花は互いに関心を持つきっかけになる』。私もこのこどもたちの作品から学びました」

「つくる」を「学ぶ」につなぐ試み

事例報告の後は、客席からの質問も交えたディスカッションが行われました。登壇したのは、哲学者の鞍田崇さんとNPO法人アートフル・アクションの宮下美穂さん、ACFの宮山香里さんの3人。会場から寄せられた質問や感想を中心に話し合いました。

(写真右から)NPO法人アートフル・アクションの宮下美穂さん、ACFの宮山香里さん、哲学者の鞍田崇さん、アーツカウンシル東京の佐藤李青

この日の事例報告はどちらも、「つくる」を通した「学び」の仕組みを整える試み、といえそうです。それに対して、鞍田さんは「共感しました。学校や地域での可能性に従来とは異なるアプローチを試みています。アートならではの取り組みで、可能性を感じます」と語りました。

会場からは多くの質問や感想が寄せられました。そのなかで目立ったのは、「学校の枠組みのなかで、型にはまらない授業を行う困難さ」「図工教育の現場は学習指導要領をこなすだけで手一杯」という、学校現場からの切実な声でした。これらについて、現職の教員である河野路さんがフロアから発言しました。「たしかに授業や校務で忙殺されている人は多いです。私の場合は、自分の年間授業計画のなかにあらかじめ、発展的な内容の授業を予定として入れていました。学年やこどもたちの能力に応じて、様々な道具や素材を使う授業を考えています」

外部から学校の授業にかかわる立場の宮下さんは、学校現場の状況に柔軟に対応しているようです。「予算や備品の状況は学校ごとにまちまちなので、先生の要望や学校の都合、地域にあるもの、こどもたちの様子などをうかがったうえで、授業の内容を詰めていく。終了後は『ふりかえり』の機会を持つようにしています」。学習指導要領については、多摩図研は研究会で指導要領を読み込み、その目的にてらして可能な授業のあり方を考える取り組みをしているそうです。河野さんも「学習指導要領も『地域にひらく』ことに触れているので、考えるきっかけになる」と話しました。

セッション1に登壇した河野路さん(小金井市立第四小学校教諭)が質問に答える

海外と日本の教育の違いについての質問もありました。イタリアでも活動を続けている宮山さんは「イタリアやドイツでは自分の考えをどう培うか、が教育の中心にあります。ラッコルタのワークショップでは、アーティストがリサーチしたものを参加者が身体で体験し、そのことで気づきを得るようなプロセスを重視しています」と話しました。そうした気づきは、企業にも及んでいます。チップを提供している「TOKIO Lab」の人たちも、廃棄していた部材がアートに使えることを知って関心を寄せています。最近、インスタグラムを開設し、「#廃材アート」というハッシュタグを使っているそうです。

「学び」と「感性をひらく」ことについても、いくつか質問がありました。
鞍田さんは、それらの質問にやわらかく応答するように、友人がデンマークの森にある幼稚園で経験したことを紹介しました。「こどもたちが森で生き生きと遊んでいる時に、年少のこどもが一人で鬱蒼とした森に入り、大木の傍らに立っていました。心配になった友人が駆け寄ろうとしたら、幼稚園の先生に肩をつかんで止められました。『あの子はいま、木と対話をしているのだから』と」。私たちのあり方を考えさせられるエピソードです。

宮下さんも応答します。「こどもが持っている時空の全体が尊ばれるといい。こどもは身体のすべてを通して世界につながっている。外部から学校に入っていく私たちは、こどもたちのwhole(全体性)を分断してはいけない」。そのうえで、授業で小学3年生に織物を体験させた経験をふりかえります。「慣れない道具と素材で織物をするから、簡単ではない。それでもこどもたちは工夫して、その子なりのものを織ろうとする。それが出てくるまでは、ただただ待つことが大切です。創造性や個性などといったものをはるかに超えていく、そのこどもにしかできない経験が表れ出ます」

今回のArtpoint Meetingでは素材にかかわる2つの取り組みが報告されました。素材に手で触れることはつくることにつながり、同時に身体を起動します。そこから感性がひらかれ、気づきや学びを得ることが期待されています。けれども、そもそも地域からどのようにして素材を得るか、という問題があります。また、様々な素材や道具を授業に持ち込むこと自体が難しい、という声もあがりました。授業の延長としてこどもたちが学校の外に出ることも簡単ではなさそうです。

けれども、今回のイベントでは素材を前にしたこどもたちが自発的に手を動かして、思いがけないものをつくりだす姿が多々報告されました。他方、企業が素材を提供したことでアートとのつながりに気づいた事例もありました。こうした取り組みを息長く続けることが、鞍田さんがいう「パズルの歪み」を修復していくことにつながるのではないか。それによって社会が少しでもひらかれて、私たちも「生きがい」を感じられるようになるかもしれない。そんな希望を感じさせたArtpoint Meetingでした。

(撮影:阪中隆文)

つくることの根源を探る。身体をつかってやってみる。(APM#10 前編)

「Artpoint Meeting」は、アートプロジェクトに関心を寄せる人々が集い、社会とアートの関係を探るトークイベント。アーツカウンシル東京の企画で2016年に始まり、アートをめぐって新たな「ことば」を紡いできました。コロナ禍によって3年近く休止していましたが、第10回が2022年11月23日に東京・武蔵野市の「武蔵野プレイス」で開催されました。

今回のテーマは「アートがひらく、“学び”の可能性」。「民藝」の今日的な意義にまなざしを向ける哲学者・鞍田崇さん(哲学者)の基調講演に続いて、東京アートポイント計画の一環として多摩地域で行われている、アートの「素材」に注目した2つのプロジェクトのメンバーが登壇しました。

ひとつは、多摩地域の小学校の図工専科教員たちを対象に、図工の技術と素材について考える「ざいしらべ」。NPO法人アートフル・アクションの宮下美穂さんと森山晴香さん、小金井市立小金井第四小学校教諭の河野路さんが学校と連携した息の長い取り組みについて報告しました。もうひとつは、府中市を拠点とする創造素材ラボ「ラッコルタ」。地元企業から提供された不要な部材を表現のための素材として活かす仕組みづくりについて、NPO法人アーティスト・コレクティヴ・フチュウの宮山香里さんと西郷絵海さんが紹介しました。

手で素材に触れる=つくることの原初的な歓び

ミーティング当日は「勤労感謝の日」。あいにくの雨模様でしたが、それでも約60人が来場し、会場はほぼ満席になりました。来場者を迎えたのは、アーティスト・日比野克彦さんのビデオメッセージでした。

日比野克彦さんのビデオメッセージ上映中

「つくる時間は、未来をつくる」と題したメッセージは、まず人間の手に注目し、「人間はつくる前に手で触る。その手の感触が楽しい。土や粘土を握ると形が変わる。それが面白い」と、つくることの原初的な歓びを指摘します。「その先に、意識的にイメージを反映して、何かをつくるようになっていく」としながらも、「ことばを覚えるとつくることに理屈をつけたくなる」「人間は視覚的動物だから、ものをつくる以前の素材に触る楽しさ、素材を変形させる面白さを忘れがちになる」という懸念にも言及しました。そこには、2022年4月から東京藝術大学学長を務める日比野さんの思いが滲んでいるようでした。大学入試も変えようと考えていると明かし、「そうすれば高校や中学、小学校の美術・図工教育も変わっていく。地域と社会、学校との関係も変化するなかで、美術教育を地域のなかで展開することも考えられます」と、今回のミーティングで報告されるような地域の取り組みへの期待を語りました。

民藝に学ぶ、自ずと生まれくるものの「親しさ」

哲学者・鞍田崇さんの基調講演「“つくること”で、感性をひらくこと」も、つくることの根源にあるものを民藝の思想を手がかりに探りました。

民藝の発端は約100年前、哲学者・柳宗悦(1889〜1961年)が知人から朝鮮の焼き物を土産にもらったことです。民衆が日常的に使う実用的な器でしたが、柳はそこに新たな美を見出します。そうして出発した思想・文化運動としての民藝は後に日本民藝館(東京・目黒区)という美術館を創設するにいたります。

講演の冒頭で鞍田さんは、2012年に日本民藝館の第5代館長に就任したプロダクトデザイナー・深澤直人さんのことばを紹介しました。「デザインは、ジグソーパズルにたとえれば、最後のピースをつくるような仕事。デザインが実現する美しさは周囲の環境との調和のなかにある。でも、もとのパズル全体が歪んでいたら、デザインは歪みを助長することになるのではないか。そうだったら全体を見直すことを考えなければいけない。そのときに民藝は重要な参照軸になると思われる」。

哲学者・鞍田崇さん

深澤さんの問いかけを受けて、鞍田さんは柳の著作をひもとき、次のように語ります。

「柳は著書『民藝とは何か』(1941年刊)で、民藝の美しさを「用」に結びつけています。「用」には「物への用」(有用性)とともに「心への用」(美)があり、重なり合っていると指摘しています。では、「用」とは何か。柳はある文章で、「用」を「生活」という言葉に置き換えます。「用」は生活に密着していることが原点にあって、そこから抽出すると有用性や美しさに分かれてくる。柳はまた民藝を「肯定のみされる偉大な平凡」とも記しています。民藝を通して見えてくる「パズル全体」とは、あるべき生活とは何か、という問いにつながります。」

ここで鞍田さんは「つくること」に視点を転じて、重要な指摘をします。柳や民藝の仲間の陶芸家らは、「(物や美は)つくるのではなく生まれる」と考えていた、というのです。つまり意図的、作為的なものではなく自ずと生まれてくることに軸足を置いていたのです。そのときに重要なことは、生活とは美に先立つものではないか、という問いかけです。

次に鞍田さんが参照項として言及するのが、意外にも岡本太郎(1911〜96年)です。岡本は≪太陽の塔≫などで知られる前衛芸術家ですが、同時に民俗学のフィールドワーカーでもありました。著書『忘れられた日本 <沖縄文化論>』(1961年刊)で、岡本は沖縄のフィールドワーク体験を次のように生々しい言葉で書き付けています。

「生活そのものとして、その流れる場の瞬間瞬間にしかないもの。そして美的価値だとか、凝視される対象になったとたん、その実体を喪失してしまうような、そこに私がつきとめたい生命の感動を見てとるのだ。」

この言葉から、鞍田さんは「岡本が着目した世界は、半世紀前に柳が民藝と呼んだものでした。しかし、時代は大きく動き、戦後日本の国土全体が大きく変貌していくなかで、民藝程度ではだめだ、という思いが岡本にあった。それが激しい言葉になっている」と指摘します。それからさらに半世紀あまり。私たちは何を考えるべきか、と鞍田さんは問いかけます。そして、ここでも岡本の言葉に立ち戻ります。

「われわれが遠く捨て去り、忘れてしまったはずの本来の生活の肌理(きめ)が、意識下の奥底に生きている。……それが……たとえば芸術の表現によってむき出しにされたとき、われわれは不意に、言いようのない親近感を覚える。それは生甲斐だからだ。」

岡本の「親近感」という言葉に、鞍田さんは注目します。なぜなら、深澤さんが日本民藝館の所蔵品に対して「愛着」を語っていたからです。柳もまた、朝鮮の焼き物と出会った感動から「『親しさ』Intimacyそのものが、その美の本質だ」と記したのをはじめ、繰り返し民藝の「親しさ」に言及しています。

しかし、柳の「親しさ」はもっと切実なものです。晩年には「悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。悲しみは慈(かな)しみでありまた『愛(かな)しみ』でもある」とつづっています。柳は実生活では、父や妹、愛児を早くして失っています。それが彼の人生観であり、民藝に見出した生活の実相のなかにも潜んでいました。

哲学者らしく繊細な手つきで、柳を中心に民藝の世界を読み直してきた鞍田さんは、講演を次のような言葉で結びました。

「民藝を通して見えてくるものは親しさの世界で、同時に悲しさをはらんでいます。その生々しく、ひりひりするように痛々しいまでの世界が、実は僕たちにとって生き甲斐を見いださせてくれる。それが、ともするとリアリティの希薄な現代社会の中で、無意識的にも渇望している実感なのではないか、と思います。」

素材と地域を結び、子どもたちの「学び」を促す

次の「セッション1」に登壇したのは、「ざいしらべ」という取り組みを続けるNPO法人アートフル・アクションの事務局長・宮下美穂さんとスタッフの森山晴香さん、そして教育現場から協力している小金井市立小金井第四小学校教諭の河野路さんです。「先生たちとの“つくる”ための環境づくり〜『ざいしらべ』の取り組みから」と題して事例を紹介します。

NPO法人アートフル・アクションは小金井市の芸術文化振興計画推進事業として、12年間「小金井アートフル・アクション!」というプロジェクトを続けました。2011年度から2020年度までは東京アートポイント計画の一環として実施しましたが、そのなかで小学校と連携して、こどもたちと一緒に図工の時間を過ごしました。いわば「ざいしらべ」の前史にあたります。その内容を、宮下さんが、いくつかのキーワードに即して説明しました。

(写真右から)NPO法人アートフル・アクションの宮下美穂さん、森山晴香さん、小金井市立第四小学校教諭の河野路さん、アーツカウンシル東京の小山冴子

まず「素材」について次のように話します。

「硬い・大きい・柔らかい、ごくごく小さなものと、全身を使って抵抗を感じながら組み合ってみました。楽器をつくったときには、その楽器で演奏して、その音を絵に描いてみる、というように、ひとつひとつの経験を広げていきました。」

他教科とつながる「主題」の設定もキーワードのひとつ。国語の教科書に宮沢賢治が掲載されていることから、「なめとこ山のくま」を主題にし、「『生きものを撃つ』ということを考えました。この授業では、現役のマタギを招き、話を聞き、映し絵の芝居をつくることで、多くの気づきを得ることができました」と宮下さんは続けます。ハンセン病療養所を見学した体験を図工で深めるという試みも。「道具」や「技法」についても、教科書に出てこないノミやナタをあえて持ち込んだり、膠を使ったり。野焼きで器をつくったこともあるそうです。

「地域」との関係では、学校から外に出てみることを試みました。「小学6年生に大きな自画像を描いてもらい、それを持ってパレードし、公園で展示しました。自意識が強くなる時期のこどもたちに『厄介な自分』について考えるよう促す、という『主題』の授業でもありました。」

こうした実践を踏まえて、宮下さんは「学校の授業は教科ごとに分かれているけれども、ひとつの全体(whole)としての人間と出会うことが重要。そのきっかけとなるのが、自分が暮らしている地域であり、ものをつくろうとして稼働する身体であり、つくるなかで生まれる友達や世界との関係。多様であることに止まらずに、複雑さを丸ごと全体としてとらえる。図工という教科はそれができる」と語りました。

この日のテーマの「ざいしらべ」は、アートフル・アクションが2021年から始めたプロジェクト「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」の一環です。多摩地域全体を対象として、こどもたちだけでなく、学校の先生たちといっしょに取り組んでいます。

図工専科教員が集まる多摩地区図画工作研究会(多摩図研)と共催したワークショップでは、自分たちが暮らす地域がどのように成り立っているかをランドスケープデザイナーをゲストに迎えて学びました。地域の素材を活かす取り組みでは、先生方と東村山の竹林から竹を切り出したり、竹ひごをつくってみたり、地域の植物から抽出した色を使って、自然素材の筆で絵を描いてみたり。シンプルな機織りの道具をつくって、こどもたちと織物もやってみています。

「ざいしらべ」の展示ブース

「なにより重要なのは、身体全体を使ってつくってみることです。鞍田さんの言う『生まれ出る』に近いと思いますが、身体を通してやっていることを信頼できたら、あるいは委ねることができたら、作為やお仕着せのクリエイティビティを乗り越えて、ひとりの人として世界と出会い、そして心が安らかにいられると思います」(宮下さん)

「ざいしらべ」で取り組んだ絵の具や筆づくりワークショップの成果

「セッション1」の最後は、「ざいしらべ」に取り組む宮下さんと森山さん、河野さんによるトークです。小学校教諭の河野さんは、これまで10年間、アートフル・アクションといっしょに木の根や流木、竹などを使った授業を続けてきました。「既存の教材キットは、こどもたちにとっても答えが形になりやすい。でも、図工はこどもたち自身が答えを出す科目。自分の手や身体、頭を動かし、心を使っていくことが大切だと思うので、あえて自然素材を使っています」と、活動の意義を噛みしめるように話しました。

森山さんが、河野さんの前任地である東村山市の小学校に、自然素材を集めた「素材倉庫」をいっしょにつくったことを話すと、その意義を、河野さんは「図工の仲間の先生や他校の先生とともに活用することで、素材と同時にその扱い方や加工する道具、活用する人を広げていきたい」と語ります。それを受けて、宮下さんがトークを結びます。「学校と私たちだけでなく、他の学校や教育委員会、教育研究会との連携ができれば素材も活用される。そうしたシステムになればいいなと思っています」

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会場内には「ざいしらべ」の取り組み「樹の力(東村山市立南台小学校連携授業)」の写真が展示されていた

(撮影:阪中隆文)