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ドキュメンタリーの部 B期 DAY3「他者のルーツをまちのなかに見出す」

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2022.03.09

執筆者 : 阿部航太

ドキュメンタリーの部  B期 DAY3「他者のルーツをまちのなかに見出す」の写真

2021/9/19 10:00-17:00

DAY2で、それぞれの「シネマポートレイト」をつくることを通して、互いのルーツや現状の思いを知ったメンバーたち。その経験を応用しながら、DAY3のプログラムに臨む。

DAY3「他者のルーツをまちの中に見出す」

A期と同様ではあるが、ここで改めてプログラムの内容を記す。3つのグループに分かれたメンバーたちが、上野エリアの外へ出て、「まちのなかの他者」に会いに行き、そこでその人のルーツを見出すことを試みる。その日初めて会う人とともにフィールドワークを行いながら、その過程を音声と写真で記録し、最終的に10分以内のドキュメンタリー作品を制作する。

今回は「まちのなかの他者」が「探す人」である。その人の探す旅を記録するために、DAY2と同じように3つの役割を設けるが、DAY3ではローテーションはなく、それぞれの役割に専念する。括弧書きで映画制作の現場で使用される役割を与え、その日限りのワークショップではなく、あくまでも実践の一環として意識してもらう。

①インタビューする人 (インタビュアー)
・取材対象者の旅に伴走する

②録音する人(サウンドオペレーター)
・音声で記録する

③写真を撮る人(カメラオペレーター)
・写真で記録する

今回は「まちのなかの他者」として、プロジェクトに興味をもっていただいた方の中から2名、そして運営スタッフの知人2名に出演をお願いした。事前の運営スタッフによるヒアリングで伺った、それぞれの人の「馴染みのまち」が、今回のフィールドとなる。

グループB1

①インタビューする人 (インタビュアー)+②録音する人(サウンドオペレーター)録音:キン
③写真を撮る人(カメラオペレーター):ケイ
出演者:水野ジュメイさん
フィールド:千葉県船橋市中山

千葉県船橋市にある下総中山駅で水野さんと待ち合わせる。メンバーが今日のフィールドワークの意図や、録音のやりかたを説明すると「私も映像を撮ってるので。」と理解の早い水野さん。改札前で早々に録音を始めようとする2人に水野さんが「ここは改札の音とかがあるから。」と促し、3人はまちを歩き始める。

最初に向かったのは、彼女が通っていた小学校。中山は、水野さんが生まれてから小学校2年生の頃まで過ごした場所だという。その頃の記憶を頼りに道を進んでいたところ、以前は通り抜けできていた道が新しいマンションに塞がれていた。水野さんは少し唖然としながら「まちって変わりますね。記憶の中で歩いていたんですけど。やっぱり記憶だと今とずれがあるんだな。」と話す。

両親は中国出身であるが、水野さんはこのまちで生まれ育った。幼いころに両親の判断で帰化し、日本国籍を持っている。家庭では日本語が共通語であり、料理も彼女が食べたいものとして日本料理が出てくることが多かった。両親が中国の新年を祝うことはあっても、彼女がそこに参加することはなかったという。そのような環境や、帰化のタイミングもあり、幼いころは自分を素直に日本人と認識し、あえて中国のルーツを公にすることはなかったという。「隠してきたな、ていう人生です。」と彼女は語る。

一方で、キンが自身が小学4年生まで通っていた朝鮮学校のことを打ち明ける。「そこで、純粋な韓国語とはまた違う、コミュニティ内で通用している韓国語、朝鮮語を学んでいたんですけど。それが結構アイデンティティを獲得するには役割を果たしていて……。」学校の指導でも日本語を使用することを避ける方針があり「自我を獲得する前から言われていたので、無意識的に”日本人じゃない”ていう意識があって。」と話す。そして、「ちょっと質問項目がうまくまとまってないんですけど……。」と言いつつ、自身のアイデンティティに向き合うことへの恐怖、そしてそうせざる得ない状況に対する怒りなどとどう向き合っているのか?とキンが問いかける。

水野さんが自身の中国のルーツに初めて向き合ったのは、美術大学での卒業制作であった。そこで「血と育ち」というテーマを掲げてインタビューを重ね、どのように個々がアイデンティティを獲得していくのかを探求していった。そして今“ルーツは自分にとっては縁のようなもの”と考えているという。「自分の言葉とか、味の好みとか、そいういうもの、価値観とかは生まれて育った場所とかで、周りの人たちがどういうことを私に伝えてきてくれたかで決まっていくものだから。」と話す水野さんの言葉を聞いていると、ルーツというものが流動的なものに思えてくる。既成事実として存在するものではなく、生まれてからずっと変化し続け、そして今後も変化し得るもの。現在も同じテーマで創作を続けている水野さんのルーツも、今後また変化があるのかもしれない。

3人は、住宅街、商店街を抜け、まち中にある寺にたどり着いた。そこは、中学から高校まで演劇部で活動していた水野さんたちの稽古場だったという。そこで3人はお賽銭を投げ入れ、並んで手をあわせる。その帰り道、高架下にある証明写真のブースで3人の記念写真を撮った。この2時間で互いの距離がかなり近づいたのがわかる。「めっちゃなんか、シンパシーを感じる部分もかなりありつつ……でも、ちゃんと向き合ってる姿勢がすごい尊敬できて。」と話すキンの表情からはマスク越しにでも明るいものが見てとれる。

グループB2

①インタビューする人 (インタビュアー)+②録音する人(サウンドオペレーター)+③写真を撮る人(カメラオペレーター):エイスケ、ジウン
出演者:ハンさん
フィールド:十条、王子、赤羽

十条の駅近くの公園で待ち合わせる。ハンさんは「緊張して何話せるかわからないけど。」と言いながら、明るい表情で「何でも聞いてください。」とメンバーの2人を受け入れてくれる。線路の脇道を歩き出すと、電車が轟音を立てて通過する。録音するのにとまどうエイスケに「いいことは駅が近くて便利なとこだけど、ちょっとその辺がね。」とハンさんが笑う。

ハンさんは中国の内モンゴル自治区の出身で、現地でエステティシャンとして働いた後、来日する機会を得た。最初は「日本語が困って。シャンプーとリンスをよく間違えて……やっぱり勉強しきゃ。」と思い、アルバイトしながら日本の美容学校に通い、美容関係の職についた。その後に出産、離婚を経験し、現在は十条で息子とふたりで暮らしている。

3人はハンさんの息子が通っているという幼稚園を目指す。ハンさんは、もともと本プロジェクトのプロデューサーを担当する森内の妻の友人であり、その縁で今回は協力いただいている。「すごくありがたいんです。子供のこととか何かあったら、困るな、悩むなと思って連絡すると、何かアドバイスしてくれる。」そうして、息子の幼稚園も見つけることができたという。それを聞いたエイスケは「うちのお母さんもそういうふうに、いろんな人に聞いたんだろうなって。」と笑いながらつぶやく。エイスケも、台湾にルーツを持つ自分の母が経験した苦労を想像しているようだ。

幼稚編の隣の公園で何枚か写真を撮った3人は、そのまま歩いて王子駅に辿り着いた。活気あるこの商店街へは、普段はドラッグストアなどで日用品を買うために訪れるという。そこでエイスケが「調味料とかどうしていますか?」と聞いたところ、赤羽にある中華系の物産店で買い物をしているとハンさんは答える。その店のことに興味を持ったメンバーを見たハンさんは「ちょっと待ってね、今日やってるか聞いてみます。」とすぐさま電話をかける。その素早さに対して“やっぱり”というトーンで「僕の母も!」「わたしの中国人の友達も!」と反応するふたりに「この近辺の中国人、知り合いになったらもう友達で、電話番号交換して、WeChatを交換して、なにかあったら情報で流す、早いです。」とハンさんが明るく答える。そして3人は電車に乗って赤羽へ向かう。

道すがら、エイスケとジウンはハンさんに自分の子供時代のことを語った。言葉のこと、習い事のこと、そして親との関係のこと。ジウンが自身の母が35歳で自分を出産したことを話すと、ハンさんは驚いて「私も!」と返す。そしてジウンは、5歳の頃に両親が別居状態となり、彼女は母と祖母のもとで育ったと、話を続ける。それに対するハンさんの「自分も悩みながら、パパいない、兄弟もいない、寂しい思いさせてごめん、て……」という言葉を遮るように、ジウンは「でもそれは全然必要なくて。片親でも愛されたり尊重されたりしたら、寂しい思いは絶対しませんし。私はたくさん愛されたし、おばあちゃんが愛してくれたし。私は幸せでした。」と言い切った。ハンさんは、「そっか、ありがとう……。今日2人に会えて……、なんか……、ありがたいです。」とこぼした。

物産店に着くと、そこには中華系の商品が所狭しと並んでいた。それを見たエイスケは「普通に見えちゃって、どれを撮っていいやら。」と笑いながらカメラをジウンに渡す。一方ジウンは、お菓子などを物色しながら、いちいち驚いて「美味しそう。」とつぶやいている。

買い物を済ませ、十条に戻るとそこにはハンさんの息子と、息子の面倒を見てもらっていた同じアパートに住む女性が待っていた。恥ずかしそうにしている息子にエイスケがマイクを向ける。「内モンゴルに行ったら何したい?」と聞くと彼は「馬に乗ってみたい。」と答えた。

グループB3
①インタビューする人 (インタビュアー):カイル
②録音する人(サウンドオペレーター):セイブン
③写真を撮る人(カメラオペレーター):テイ
出演者:ジョイスさん
フィールド:井の頭

京王線の久我山駅でジョイスさんと待ち合わせ、改札前で今日の意図を説明する。まずは言語の確認。インタビューを担当するカイルは日本語でのやりとりに不安を感じていたため、とりあえず英語での会話を先行させ、エピソードを録音するときには日本語で改めて語り直す、という方法をとることに。「とりあえず歩きながら。」というジョイスさんの提案のもと、4人は歩き出す。駅を出るとすぐに川沿いの道に出る。それは神田川で、ドキュメンタリーA期のグループA1が訪れた高井戸で流れていた川に続いている。

ジョイスさんは現在大学院に通うために横浜に住んでいるが、この井の頭のエリアには去年まで住んでいたという。川沿いの豊かな桜並木の緑道を進むなかで、ジョイスさんはこのまちに引っ越してきたときの情景を思い出す。「2018年4月1日。その前に代々木上原に住んでいて、引っ越してきた日に、自転車で代々木上原からこっちにきた時に、もう満開で。それがめっちゃ覚えてる。」また、この緑道の先には井の頭公園があり、コロナ禍でのロックダウン中は、ひらすらこの道を通り家と公園を往復していたという。

ジョイスさんは、香港で生まれ、カナダ、ロンドンで育ち、交換留学の機会で初めて日本で暮らすようになる。その後、大学院に通うために改めて来日。卒業後はアート系書籍の編集の仕事をしながら、昨年から再び大学院に通い出した。そのように彼女の人生は常に移動とともにあり、引っ越しの回数も多い。日本で暮らして9年になるというが、ひとつの場所に留まることが苦手であるため、そろそろ外へ出ることも考えているという。「新しい場所で新しい経験のために、日本を離れてもいい」という可能性に対し、カイルは羨ましそうに「I miss that path.(その感じが恋しい)」とつぶやく。

ジョイスさんが井の頭で暮らしていた家はシェアハウスだった。そこに彼女が越してきた後、前からそこで暮らしていたカップルの間に子供が生まれた。知人からは他人の子供と暮らしていることに驚かれることもあったというが、その環境は彼女自身の興味や考え方ともマッチしていた。ジョイスさんは編集者であると当時に、メディアアートを実践するアーティストでもあり、彼女の現在のテーマは“家族の定義”であるという。「“友だち以上家族未満”の関係性が一番心地いいなと思って。」と話す彼女は、家族と暮らしていた頃は心配性の母に束縛されると感じていた。一方シェアハウスでは、それぞれの自由を尊重しながら支え合って生活する関係性が心地よかった。それを聞いたセイブンも「わたしもお母さんとあんまり連絡をとってなくて、少し共感できる。」と打ち明ける。「人間はコミュニティの中に住んでいるっていうか、親密な仲は必要。ひとりで生きていけるけど、家族のような親密な関係は人間の本能として誰でも欲しい。でもそれは一般的な家族っていう関係性だけではないはずで、別のかたちでそういう関係性を見つけたい。」と考えているジョイスさんはそのためにも作品制作やリサーチを今も続けているという。

私はこの話を聞いてグループB1で出演いただいた水野さんの言葉を思い出す。共に、roots/homeを場所に限定せずに、“関係性”の中に見出している。そして、それは不定形であり変化し続ける。4人は井の頭公園にたどり着く。川の流れは続いていて、公園ではその水面に近づくことができる。水の流れる音が心地よく聞こえる。

グループB4

①インタビューする人 (インタビュアー):パイヴァ
②録音する人(サウンドオペレーター):チハル
③写真を撮る人(カメラオペレーター):JP
出演者:ラクシーさん
フィールド:南麻布

地下鉄広尾駅の地上出口で待ち合わせる。横断歩道をはさんで反対側の出口にいたラクシーさんを見つけ、メンバーが大きく手を振る。そんな初対面を経て、4人は近くの有栖川公園へと歩き出す。そこは、ラクシーさんの家から徒歩圏内で、コロナ禍の前はよく子供と訪れていた場所だという。公園に着くと、そこは起伏があり、様々な木々や植物が生い茂る豊かな公園だった。強い日差しを避けるために東家に入る。「ここにはパキスタンにはない植物があるけど、なぜか故郷を思い起こさせるんです。」とラクシーさんが話す。

メンバー3人とも英語を得意としていることと、ラクシーさんも英語の方が意思疎通しやすいとのことから、英語でやりとりが交わされる。ラクシーさんは、“典型的なパキスタンの村”で生まれ育った。そこは大きな山々が背景にあり、土壁でできた家で大家族が暮らし、ガスは通っておらず薪で火を焚き料理をしていた。大学を卒業して現地で働き、そこで2人の子供を育てていたところ日本にくる機会を得た。日本で暮らして4年になり、今は専業主婦をしているという。

東屋を出て、少し公園内を歩く。誰かが管楽器の練習をしているようで、なごやかな音色がときたま聞こえる。この公園での具体的な思い出をパイヴァが訪ねる。「日本に来た時、自転車に乗れなかったんです。」とラクシーさんが話し出す。パイヴァが「私もです。」と返す。「先に日本に来ていた兄に、ここで習いました。兄、母、そして息子も加わり後ろから押しながら〈お母さん、こうやってやるんだよ。どうして子供の頃に覚えなかったの?〉って言われながら。」とラクシーさんは懐かしそうに話す。

4人は公園を出て、南麻布のまちを歩き出す。向かったのは、近くにある「アラブ・イスラーム学院」。そこにはモスクや、アラビア語の学校などの施設があり、ラクシーさんも以前は礼拝で通っていたという。しかしコロナ禍となってからは、人々の集まりが制限され、しばらく訪れることができていなかったから「今日もやっているかわからない。」と話す。到着すると、門は閉ざされており、管理人に確認すると改装工事中で中に入れないという。ラクシーさんは残念そうに「いつもはこの門は誰にだって開いているんです……。中に入ると水とデーツをくれて……あなたたちにもあげたかった。」と話す。学校が開校されていたころは、多くの日本人がアラビア語や、イスラム教について学びに来ていたという。ラクシーさんはそのように自身の文化や風習に興味を持つ人がいることを嬉しく思っているという。「ヒジャブは私のトレードマーク。私は他の人と違う、ユニークなのです。だから○○のお母さんだ!ってみんな気付いてくれる。」と楽しそうに話すラクシーさんに、「それはアインデンティティなんですね。」とパイヴァが返す。

旅の終わりにパイヴァが「日本に住む外国人として他の人の視点や、経験を聞くことができてとてもリフレッシュしました。」とお礼を伝えると、ラクシーさんは「そうね。この会話は、それぞれの故郷へ連れていくね。」と答えた。

編集準備/ディスカッション

それぞれの場所でフィールドワークを終えたメンバーたちがROOM302に再び集まり、フィールドワークで記録した写真と音声をもとにしたドキュメンタリー作品の制作にとりかかる。メンバーたちは、今日のプログラム終了後も、各グループごとに連携をとりながらフィクションの部の初日に行われる上映会を目指して制作を続ける。ひと段落したところで、DAY3、そしてこの3日間を振り返るディスカッションが行われた。

キン「人のことについて聞く時間の方が長かったかもしれないけど、逆に自分のことについて考えられる時間だった。」

ケイ「こんなに激しく自分のルーツを探すことはなかったのでちょっと疲れたんですけど……ルーツっていうのは答えじゃなくて“縁のようなもの”というインタビューで受けた言葉が、とても美しかった。」

カイル「静止画と音声で記録する方法がすごく面白かった。映像は普段仕事で扱ったりしているけど、今回の方法は自分にとってチャレンジでもあったし、すごくフレッシュな体験だった。」

ジウン「大学院を卒業して、会社に入ってどんどん自分を失っていって……でもこのプロジェクトが始まって、大学院に戻ったみたいで、自己表現するのってこんなに楽しいんだ!って思って。これから自分が制作しないといけない理由をひとつ見つけました。」

ドキュメンタリーと銘打って、あくまで“記録”という姿勢で取り組んだこの3日間だったが、そこには常に表現が介在していた。他者をどのように捉えるのか、自分をどのように伝えるのか、他者と自分の間にあるずれをどのように考えるのか……そこで生まれたコミュニケーションは新たな“自己表現”であったはずだ。この3日間を締めくくる最後の言葉を求められたテイは、メイキング用のマイクとカメラを向けられ「こうやってマイクとカメラを向けられると、すごく緊張しますね。私、今もちょっとたどたどしいけど。でも、これも自分ですよね。これもテイですね。だからこれで新しい自分を見つけて……それもいいと思います。」と話した。
フィールドワークやインタビュー、映像制作を通して見つけた新しい“自分”を抱えながら、ドキュメンタリーの部は幕を閉じる。プロジェクトは約1か月半のインターバルを挟み、次のチャプターである「フィクションの部」へ進む。

執筆:阿部航太(プロデューサー、記録)

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