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その人自身の地下水脈で何かが醸成され、育まれ、全体としての自分に出会う(宮地尚子×宮下美穂)

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2018.06.22

その人自身の地下水脈で何かが醸成され、育まれ、全体としての自分に出会う(宮地尚子×宮下美穂)の写真

対談シリーズ「表現をめぐる小さな哲学〜小金井アートフル・アクション!の現場より〜」の第2回は、前回に引き続き、精神科医の宮地尚子さんとNPO法人アートフル・アクション!の宮下美穂さんの対談(後半)をお届けします(前半はこちら)。人と人との関係のありかたは、どうあるべきなのか? 表現のもたらす意義とは何なのだろうか? 前回の対話に続いて、話題はより深まっていきます。

話し手のプロフィール
宮地尚子(精神科医)
宮下美穂(NPO法人アートフル・アクション!事務局長)

(構成:大谷薫子/写真キャプション:宮下美穂)

その人自身の地下水脈で何かが醸成され、育まれ、全体としての自分に出会う

宮地 ワークショップをやると、その成果を報告書として出さないといけないじゃないですか。でもそこで報告されることって、短期で表面に見えてくる成果の話ですよね。もちろん、表面的に見えることも大事だけど、心のなかで起きているいろいろなこと、誰かとの関係のなかで起きること、そのときには感じないんだけど、別の場所や時間に及ぼされる影響とか。小金井の活動というのは、そういう見えない水脈が地下でどんどん広がっていく動きのような気がしています。

宮下 ここにはいろんな関わり方をしている大人がたくさんいますが、その一人ひとりのなかに流れる水脈、関わり合う人と人の間に流れる水脈が動いていることを感じます。この間も、「描いた絵は作品として壁に飾らねばならない」といった、伝統的な美術教育を受けてきた人が「この場所に来て、やっと描くということの広がりを感じました」みたいなことを言っていたり。

だから、自明だとみんなが思っている既存の方法論やルールだけに縛られるのではなくて、時間がかかってもいいから、いつ地上に水が出てくるかわからないけど、その人自身の地下水脈でなにかが醸成されて、育まれて、全体としてのその人に出会えるといいですよね。

考えてみれば、小学校にワークショップに行く場合でも、大人たちとなにかをつくる場合でも、それぞれの人の表現や創造というのはワークショプによってのみ生まれるわけではないですね。すでに彼らの存在自体はワークショップの有無に関わらずそこにある。そのことを私たちは丁寧に感じて、彼らが持っているものに私たちが沿わせてもらって、乗せてもらって、お互いに事が始まるような、丁寧な言葉にならない対話が必要な気がします。気をつけないとワークショップの場では、はい、教えてあげます、授けてあげます、こっちに素敵な世界があるよと、あたかも誘導するようになってしまう。それはなんだか高みから見下ろすようになってしまって、少し苦しいですね。

宮地 宮下さんは子どもに対して、あまり褒めたりしないですよね。私は子どもたちと一緒になって床に座って絵を描いているうちに煮詰まってくると、横の子が描いているものを見てインスピレーションをもらうんです。そのとき、それ、面白いね、なんて褒めたりするんだけど、それをあまりやると宮下さんのやりたいことと違ってくるのかなって。

声をかける、かけないというのは、臨床の感覚とも似ていると思うでのですが、たとえば固まっている子に声をかけたほうがいいのか、かけないほうがいいのか、そこは難しい距離感。正しい答えなんてないんでしょうけど、わりと意識的に言わないで静かに見守ることが多いのかなって。

宮下 褒めるということの良し悪しというより、褒める人=ある種の評価を下す人という力関係に陥ってしまうとしたら、少し危ない気がします。相手が子どもであっても、もちろん大人でも、自分以外の人の選択やこうしてみたい、という意思を尊重し続ける距離をお互いに維持することは大切だと思います。褒めるって、なんとなく、あなたの価値を私はわかっていますよ、みたいな感じがするときがある。

最近はワークショップの場では、どれだけ私たちがほかの人から学べるのか、ということを考えます。なにかを一緒にする過程を通して、あなた自身がかけがえのないあなたである、ということを、アーティストも含めて、それぞれが見つけることのできる機会であればいいと思っています。それは平場なんですよね。ヒエラルキーはいらない。だから、大人が褒めたり、一方的に誰かのワンダーランドに引っ張ったりしていく必要はない。見えにくいパワーゲームのなかに無意識に引きずり込まない誠意は、アート、などということを標榜するうえで絶対的に必要なのかなと思います。

ものをつくること、空虚さに寄り添っていくこと

宮地 さっき宮下さんが言われた宙ぶらりんの状態を持ちこたえるとか(前半「曖昧さ、儚さのなかに佇むこと」参照)、その人の営みにおいて、表現というのいったんは拡散していくんだけど、どこかで凝縮しなくてはいけない。結晶というと綺麗すぎるから、凝縮って言ったほうがいいかな。その凝縮がいわゆる表現ということになるんだろうなって思うんです。でも、凝縮される瞬間っていうのは、人によって違いますよね。

宮下 ええ、瞬間も違うし、形態も違うし、求め具合も違うと思いますよね。私は、人って生き延びるために表現が必要だってずっと思っているんです。つまり、その人がその人として生きていくのを支えるのは、ひろい意味での表現なのではないかって。「その人がその人として生きる」ということが本当にどのようなものであるのかは、社会が決めることでも、決定版みたいなものもなくて、その人自身が日々の営みの中で凝縮したりほぐしたりしながら、ゆらぎながら繰り返していく中にあるのかなと思っています。

ですから、子どもの頃の体験で、学校の授業で絵が下手とか、歌うことは苦手とかいうことを刷り込まれて、私は絵が描けない、歌は苦手、ダンスなんて恥ずかしい、と固まっちゃう大人になるなんてことは、やめたほうがいい。自分が自分でいることに、上手いも下手もないですよね。それから、「表現」を、絵や歌、物語、ダンスみたいなジャンルに分けること、既存のジャンルに当てはめることもないと思っています。

宮地 人間っていろいろなものを抱えながら生きているじゃないですか。解決できないどうしようもないこととか、すぐには決められないこととか。そういうものを抱えながら生きていくしかなくて、そういうときに、体を動かしたり、ものをつくったり、表現をすることが、非常に重要になってくると思います。答えは出なくても、そうした漠とした時間をやり過ごすためだけでもいいし、自分のなかにある「言葉にできない」とか、「言葉にしてもどうしようもない」という思いを少しでも出してみる、そういうことがとても意味があるような気がします。

宮下 私、美大を卒業しましたが、絵が上手だったわけでもなんでもないんです。けれど多感な18才(笑)は、強く感じる空虚さに対して、ある日、ものをつくるということは、この空虚さに寄り添っていく、宙に浮く遥かな感じを抱きかかえるようなものなのだろうと思った。思ったっていうか、発見した。その日のこと、いまも覚えています。

結局、私自身は、手を動かしてものをつくる人にならなかったし、そのことから離れてしまった気がしているけど、手や体を動かしてなにかをつくる、表現をすることは、この世界と出会っていくときに私を支えてくれる、あるいはより深い宙空に出会わせてくれるのだろうなっていう予感はあります。それは外に向けたものではなく、ときに自分と向き合うためなのかもしれませんが。そのときの表現は合目的的な、課題解決ではないことはもちろん、世界を切り開いて分け入っていく衝動/希求となったり、その過程でその人でしか見いだすことのできない瞬間に出会うことにもつながるかもしれません。

宮地 ポーリン・ボスという人の『あいまいな喪失とトラウマからの回復』(誠信書房 、2015)という本があります。この「あいまいな喪失」というのは、たとえば身近な人が行方不明になってそのままわからない状態、親がアルツハイマーになって本来の姿ではなくなってしまった状態、つまりいないのにいるという状態といるのにいないという状態のことを言いますが、アートというのは、曖昧なものを曖昧なまま出せるからいいのだと書いていて、本当にそうだなって思いました。

このあいだ、私も自分のなかでモヤモヤしていることがあって、殴り描きをしていたら、あれって思ったの。頭のなかで考えていることとぜんぜん違うんだって。相手との関係にしても、相手の人間性や存在感を意識よりもっと複雑に感じ取っていて、それが絵を描くときに現れるんだなって思いました。色やかたち、質感、大きさなどとてもたくさんのファクターがありますよね。

人はただその人として、そこにいることが許されてもいい

宮地 宮下さんがいつだったか、「自分の仮説が合っているのかどうか、自分のプロジェクトを通して検証したい」と言ってましたよね。それってどんな仮説?

宮下 どのプロジェクトでも土台に常にある仮説というのは、人間は掛け値ない圧倒的な肯定というのが必要なのかもしれないってことかな。私、初めてピナ・バウシュの「カフェミュラー」をなんの知識もなく見たとき、小さいテレビのモニターで見たんですけど、掛け値ない圧倒的な肯定を感じた。そして「人って赦されていいんだ」って思えたんです。それまで頑張り続けることでなにかが得られていくんだ、頑張ることは当たり前だって思っていたけど、人はただその人として、そこにいることが赦されてもいいのかもしれないなって。

宮地 そういう意味では、呉夏枝(お・はぢ)さんのワークショップも印象的でしたね。着古した編み物を持ってきてひたすら皆でほどく。ほどいていると見えてくることがたくさんあって、それぞれの編み物がどう編まれていったのかはほどいていく過程でいちばんよくわかる。それから、私は、結局、持って行ったセーターはほどかずにほかのものをほどいて、そのセーターはほかの人にあげた。それもとてもよい経験でした。ほどかなければいけないという縛りからもほどけた。いま、ほどく時期ではない、ということ、そのままでいいというようなことが感じられました。それは赦されるからほどけていく、ということでもありますね。ここでの活動が、なにかをしっかりとつくらなければ、ということから、ほぐされる、ほどく、赦されて、ほどくことができる、そういう場や時間を共有できるものであるといいですよね。

宮下 ええ、本当にね。既成の価値とか学校の成績みたいなものを物差しにせず、たんにあなたはあなたでいいと赦され、ほどかれる感覚というのは、ある種の肯定される感覚だと思うのです。それはずっと考え続けていることです。近代的な、構築することや何かを生み出すことが正しく、停滞すること、立ち止まること、痛むことは弱さで、それは排除される、それはなんとなく違うかなと思う。人と人が出会ったり、なにかをつくったりするときに、戦いで勝ち取っていくということではなくて、そこにいること自体が、よいものであるとか、よいものにつながっていくみたいな有りようをつくりたいですね。

呉夏枝さんのワークショップ。持ち寄ったウールの着物をほどくワークショップ。手元を見つめながら、心と頭は別のところに。時折は初めて会う隣の人とうなづきあう。 ほどいた毛糸は蒸して綛(かせ)にして、また、編めるようにする。別のものに生まれ変わる。カメラを構えるのは呉さん。持ち寄った衣類の撮影。記憶とともにカルテになる。

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