現在位置

  1. ホーム
  2. /
  3. レポート
  4. /
  5. アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(谷中エリア)

アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(谷中エリア)

2019.12.20

執筆者 : 白坂由里

アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(谷中エリア)の写真

2019年2月、Tokyo Art Research Lab 10周年を目前に、10年という時間軸でほかの活動も参照するべく全3回のレクチャーシリーズが行われた。地域を軸に展開するアートプロジェクトの実践者をナビゲーターに迎え、まちの変遷や時代ごとのアートシーンに精通したアーティストや研究者をゲストに交えながら振り返る。

第2回 谷中エリア 2019年2月13日(水)

リズムの違うさまざまな集いの場をつくる「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」

「谷中を散歩していると、写真を撮りたくなったり、踊りたくなったりする場所がいっぱいある。狭い路地に植木鉢が置いてあり、きれいに育てられた花々に語りかけられているような気がする。どうしたらこんなふうに、まちが人の創造性を刺激するような空気感をもつのだろうか」。

谷中のまちと出会ったときの思いを、アートディレクターでパフォーマーの富塚絵美さんはこう語った。東京藝術大学美術学部先端芸術表現科でパフォーマンス制作を通じて人間の表現行為について研究していた富塚さんは、2008年、表現の場を創造するアートマネジメントを学ぼうと音楽学部音楽環境創造科 熊倉純⼦研究室に⼊った。千駄木に転居し、「人はどんなときに歌い、踊りたくなるのか、なぜ人は作品というものをつくるのか」という入学前からのテーマを胸に、谷中のフィールドワークを始めたという。

その頃、毎年秋には上野と谷中の美術館・ギャラリー・市民団体などが同時多発的にさまざまな発表を行うアートプロジェクト「art Link 上野-谷中」が行われていた。10年を過ぎ「終えてもいいか」という雰囲気のところへ富塚さんはじめ藝大生がボランティアスタッフに加わり、再び活気を取り戻す。まず「谷中のおかって」を設立し、週末にはアートマネジメントに興味のある社会人などと「何をしたいか」作戦会議を始めた。名前には「玄関からじゃなく、お勝手口から顔を出せるような関係に」という思いが込められている。路地を歩くだけで楽しく、まち歩き自体を生かしたプロジェクトをしたいと思い始めた。

「芸大からはみ出て、谷中のまちをふらふらしていた人たちがいたんです。アーティストになりたいわけではないが、何か表現したい人。社会的な価値観とは違う何かがやりたくてエネルギーがあり余っているけれど、安易には答えを出したくない。そんなリアリティをもったまま集える拠点をつくろうと思いました」また、そんな“もやもや”を抱えた人のなかには、谷中に惹かれて散歩に来る社会人も混ざっていた。「お店の人や保母さんなど、週末に谷中で何かしたいという人たちと話していると、アートやアートマネジメントという言葉が、それぞれのやりたいこととそぐわない、とも思いました」

そこで富塚さんは、「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」という言葉をつくる。「ぐるぐる」は、衝動や妄想のエネルギーをもった、渦を巻き起こす人。「ヤ→ミ→は、自ら最初の出来事をつくるわけではないが、その人たちとのかかわりに充実感を得る人。やじうま、闇なものを探しているという語感を持つ。2010〜2013年、両者が絡まり合いながら何かをつくっていくプロジェクトを行う。「アートかどうかは気にせず、体が反応してやりだしてしまう方を優先しよう」と。

「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」の拠点として使用していた「はっち」。

千代田線根津駅から徒歩2分、2階建ての狭くて細長い空家を「はっち」と名付け、拠点にした。ところが、何かしたい人は他者との企画会議や勉強会には参加せず、終わった後に、どうだった?と覗きに来る。それでも、約束に来ないような人も魅力的で、自由に出入りし続けられるようにした。「路地からのぞいてお茶していく人、ご飯を食べていく人。ゴーヤを植えたら街になじむよ、と言って取り付けていく人。仕上がっていない、余白が多いからこそ、ほぼ毎日いろいろな人が訪れるようになりました」。
 
1年目は公開イベントをほとんど行わず、プロジェクトを行うための関係性を紡いでいった。やったことを紙に書いて壁に貼ることで、その時間いなかった人ともできごとが共有できるなど、集うための仕掛けはいろいろ考えた。この場所に集まる人たちから生まれるものごとを大事に、いろいろな集いの場を、リズムを変えながらつくっていく。

「谷中妄想ツァー!!」開催の様子。

「谷中妄想ツァー」は、はっちに集う人たちやまちの人たちが同時多発的にあちらこちらで発表する参加型パフォーマンスだ。表現者かどうかもまだわからない「芸術っこ」たちが街に繰り出す。「勇気を出して社会に踏み出してみるありさまがとても魅力的だなと。個人的な欲望が社会の枠組みのなかで行われ、みなと共有する機会があってもいいのではないか」。観客は定員50人でスタート地点に集合し、4人ずつグループに分かれ、スペシャルマップを読み解きながら歩く。寺や路地、店の一角、個人宅の2階などでパフォーマンスが始まっている。最終地点にはそれぞれ違うルートで違う体験をした人たちが集まり、話し合う。スタッフは100人配置した。

ぐるぐるミックス「風あそび」(2014年)。

また、きむらとしろうじんじんを数か月レジデンスに招いて「野点」プロジェクトも行った。ほかにも、月2回の特別な時間としてアトリエ教室「ぐるぐるミックス」を幼稚園で実施。7〜9月の毎週末には、提灯を持って谷中の暗がりを案内する「谷中妄想カフェ」を行った。

「集まって、しばらくしてまた集まる。はっちはキープするリズムのような感じで、おじいさんやおばあさんがよく集まる企画とか、アーティストを呼んでみんなで集まれる企画とか、種類の違ういろいろな出来事が起きて、まちから人へ、人からまちへとエネルギーを還元していければと考えていました」。

みなが個人的な思いを持ち込んで、開かれた場所に

(左から)椎原晶子(地域プランナー、NPO法人たいとう歴史都市研究会理事長)、五十嵐泰正(筑波大学大学院人文社会科学研究科准教授)。

谷中に住んで30年になる地域プランナー、NPO法人たいとう歴史都市研究会理事長の椎原晶子さん。富塚さんの発表を聞いて「谷中に住み、まちを生み出す仕組みのなかに入っていきたいと思った動機が重なる」と語り始めた。「1986〜88年、藝大大学院でニュータウンなどの都市デザインを学んでいて、谷中を調査したときに、おじいちゃんとおばあちゃんが多く、デザイナーや建築家、プランナーなどはいないけれどもまちがきれいで、どうやってまちがつくられているのかを知りたいと思ったんですね。その一方で、不忍通りなどの開発が進み、放っておくと古いものはなくなってしまうと、谷中に住んで聞き取りを始めたのです」。

1993年から「谷中芸工展」を始めた。住民が工芸品を持ち寄り、翌年から店などまちじゅうを見て回り、話を聞き、買って、食べてと広がっていく。その頃、SCAI THE BATHHOUSE、アートフォーラム谷中など現代美術ギャラリーが自発的に生まれていた。美術館、ギャラリー、アーティストをつないで、新しい動きを生み出そうとしたのが「art Link 上野-谷中」だ。また、たいとう歴史都市研究会では、古い家を博物館のようにではなく、文化活動の拠点にしてさまざまな人が体験できる場所をつくり始めた。

「その時代時代の人がつながってきて今がある。岡倉天心もまた藝大を追い出されて日本美術院をつくり、みなで家を建てて住んでいたんです」と椎原さん。その日本美術院の彫刻部に所属していた彫刻家・平櫛田中の邸宅が空き家になったのは2001年。2004年以降、中村政人や保科豊巳研究室の学生が主体となった環境プロセスアート本部主催で「サスティナブル・アートプロジェクト」に活用された。そのうち、展覧会だけでなくなにかが生まれるかどうかわからないけれども、もう少し日常的な場所として使えないかと模索し始める。平櫛田中のお孫さんから「芸術文化の拠点にしてほしい、誰か一人のものにしてほしくない」とも言われていた。

平櫛田中邸を舞台に開催されたホームパーティー形式のパフォーマンス公演「どーぞじんのいえ」。

そして2013年には「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」で「どーぞじんの家」を開催。「どーぞ、どーぞ」と2階からクッションが投げられ、ホームパーティーという設定で、誰がパフォーマーでスタッフかお客かわからないなか、お茶をしたりアルバムを開いたりしておしゃべりをする。チラシや手紙、思い出のコンテンツをおみやげのような形でもらい、集合写真も動きながら撮る。これまでバラバラに集っていた人やものをひとつの家に集めた一日だった。

北窓からいい光が入ってくるアトリエ兼住居。いろいろなグループが修復して入れるようになった歴史のある家だ。「谷中のおかって」では最近、みんながホーム感を感じられる空気をつくろうと、第4日曜日は「平櫛田中邸を味わう日」として、ただ過ごせる場所として公開している。「マネジメントをしている人もアーティスティックだと思うこともあるし、メインとなるパフォーマンスしているときだけじゃない、お茶をしたり、話したり普段の時間がすごく贅沢だなと思ったので、みなが個人的な思いを持ち込んで、開かれた場所になるようにとつくっていました」と富塚さん。

面白いことをやっている人を育てる土壌がある

次いで、まちづくりにかかわる社会学者、筑波大学大学院人文社会科学研究科准教授の五十嵐泰正さんは「これをアートと呼ぶ必要があるのか?」と問いかけた。「映画『ジェイン・ジェイコブズ:ニューヨーク都市計画革命』でも、路地や井戸端空間など、人や用途が混じる余白をつくる「ニューアーバニズム」が提唱されていましたが、はっちはまさにまちづくりやコミュニティデザインだと思います。あるいは子育て支援や福祉、気仙沼でやれば復興支援、総務省でお金が出れば地方創生と呼ばれそう。つまり、小松理虔『新復興論』にも書かれているように“結果として”どうなっているかが大事。あるいは、福祉や復興などアートと関係ない分野にアーティストが参加し、結果としてアートになっているという方向性も大事だと思います」。

椎原さんは2000年、アートがまちなかに出る「ドキュメント2000 初音の道プロジェクト」を運営したとき、「谷中の住民たちは、それはアートじゃない、もっと思い切りやれなどと手厳しかった」と笑う。
富塚さんも「こっちが本物のアートだ、とまちに投げ込む人がいて、まわりが黙っていない(笑)」と共感。「平櫛田中邸にドイツ人アーティストがやってきて、飾りやベンチをつくったら、おばちゃんたちがお新香をもってどんどん集まってきた(笑)面白いことがあれば見に来る、アンテナ感度が高い人たちが住んでいる」。

椎原さんは「江戸時代には、職人たちが象牙や鼈甲細工などでものをつくりお寺に納めていた。明治には彫刻家が集まり、近代にはインスタレーションがまちに出て行く。そうした歴史があるから、学生や卒業生がまちに出た時に、まちの人たちが受け止めてくれる。下宿・銭湯、食堂、額縁、筆、運送、アーティストの生活を支える地場産業もある」と語った。「95%の人がアーティストとして成功しないとわかっていても慈しみ、育てる、温情のあるまち。下宿代やご飯代代わりにお店に作品が残っていたりして。長い目で見て楽しみにしてくれる」。「まちに育てられている」という富塚さんも、椎原さんに「まずはご近所の挨拶回りや掃除から」など、たくさんのことを伝授してもらった。

また、「谷中妄想ツァーは、ホスピタリティーのイベントだ」と五十嵐さん。社会学者や教育学者の中には、『アーティストの職業的レリバンス(どんな役に立つのか)を言語化したほうがいい』と言う人もいると思う。実はすごいことをしているので、お金や雇用を生み出したり、ある種の職業に適した人材育成にもつながってそうなんですが、そちらが目的化すると芸術家のポテンシャルを縛っていく可能性もある諸刃の剣でもある」。スタンスはそれぞれでいいとしつつも、プロジェクトを行う者にとって共通の課題でもあった。

ゲストのお話を聞きながら、富塚さんがキーワードを書き出していく。谷中界隈の歴史やアートプロジェクトの変遷、トークのなかで出てきたキーワードが重なり、地域の特色が徐々に浮かび上がる。

「エネルギーの大きさとマネジメントのしたたかな計算を感じた」という受講者から「方法論を書いたものがあればほしい」と要望されていた富塚さん。「オペラのような西洋的な空間より三味線の六畳間のような日本人スケールでやっていったほうが盛り上がるのでは? とか、エネルギーが消えすぎないうちに火をくべるタイミングとか。能書きだけでは人は来ないし、アートとしての力が抜きん出たものがやはり評価される、人間がアートの力への信頼を取り戻しやすいまちだともいえます」。 

谷中では、まちのなかで作品を散りばめてマップで回るという手法がよくある。集まっている人たちや空気感が違う、歩いて回れる空間。一方で、都市開発で風景が変わってもいる。「対抗手段があることに気づいていないので、まちの人が自分から手に取ってほしいと思っています。若手を見出す「Denchu Labo」など、文化振興、福祉など社会的効果がある実例を集めていきたい」と椎原さん。

最後は「社会的価値をつくりながら、言語化しすぎないようにする。“公共化”と“結果として意義を見出していく”ことのあいだで、工夫しながら希望をつないでいけたらと思っています」という富塚さんの言葉で締めくくられた。

「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」の成果物をはじめ、富塚さんがこれまで手掛けてきたプロジェクトの参考資料。

(執筆:白坂由里

関連レポート

SHARE