問いを通じて見えない状況を可視化する。これからのアートNPOとして ―インビジブル林曉甫・菊池宏子「リライトプロジェクト」インタビュー〈後篇〉

「東京アートポイント計画」に参加する多くのアートプロジェクトは、いったいどのような問題意識のもと、どんな活動を行ってきたのでしょうか。この「プロジェクトインタビュー」シリーズでは、それぞれの取り組みを率いてきた表現者やNPOへの取材を通して、当事者の思いやこれからのアートプロジェクトのためのヒントに迫ります。

第2回で取り上げるのは、2015年にスタートした「リライトプロジェクト」です。東日本大震災を機に消灯された宮島達男さんのパブリックアート《Counter Void》を毎年3日間限定で再点灯する「Relight Days」と、アート的アプローチを生かした行動によって自らの生活や社会を変える「社会彫刻家」の育成を行う「Relight Committee」。この二つを軸としたプロジェクトでは、震災後の社会でアートが果たしうる「装置」としての可能性に焦点が当てられてきました。

一方、プロジェクトと並行して設立されたNPO法人インビジブルでは、地域再生から教育まで、多様な現場でアートを取り入れた実践を展開しています。「大きな時代の流れの中に、小さな支流を作る」かのような彼らの活動、そして、より社会に接続していくこれからのアートの“使い方”とは? インビジブルの林曉甫さんと菊池宏子さん、東京アートポイント計画ディレクターの森司に語ってもらいました。

〈前篇〉「逆境から生まれたプロジェクト、考える装置としてのアート ―インビジブル林曉甫・菊池宏子「リライトプロジェクト」インタビュー」

(取材・執筆:杉原環樹)

社会を生きる人たちによるアクション

——Relight Committeeの具体的な内容は、大きく二つの要素から成っています。ひとつは、さまざまな分野で活動する社会彫刻家を招いてのトーク&ディスカッション。そしてもうひとつが、参加者がそれぞれの問題意識から主体となって、まちなかなどで具体的なアクションを起こす実践プログラムです。

菊池:活動しながら思うのは、意外とアート業界以外のボイスのことをまったく知らない人の方が、この概念を自分なりに理解してくれる。たとえば、以前、ワークショップで社会彫刻の考え方と育児をテーマにした時、お母さんたちにとても伝わったんです。

:その人たちには、目の前に具体的な社会がありますからね。

菊池:本当にそうなんですよ。自分が生きている社会があるから。具体的に変えたいことがあるんですよね。

Relight Committee受講生一人ひとりが「社会彫刻家」像を問いながら活動している。(撮影:丸尾隆一)

——参加者のアクションには、どんなものがあるのでしょうか?

菊池:たとえば、 2016年に参加してくれた江口恭代さんは、《Counter Void》の前で震災と関係する「花は咲く」という歌を歌ってまちなかを歩くアクションをしました(>「心の声 祈り ここから新たに」)。彼女は、東京で会社員として暮らす被災地出身者として、自分と震災の距離感をうまく消化できず、軋みを感じていた。でも、もともと好きな声楽を生かしたアクションをすることで、震災に対して当事者の意識を持つことができたんです。また山田悠さんは、《Counter Void》からタクシーに乗って決まったルートを回りながら、「ここに作品があったのを覚えていますか?」など、運転手との会話を記録するアクションを行いました(>「Passengers」)。彼女はアーティストなのですが、自分自身を媒体にするのは新しい挑戦でしたね。

Relight Committee メンバー・江口さんによる、社会彫刻家としてのアクションは、3月11日にで震災と関係する「花は咲く」という歌を歌ってまちなかを歩くこと。

——それぞれ、その人らしい挑戦的な行動を起こすが大事だと。

菊池:とはいえ、動機は必ずしも前向きなものとは限らないんです。たとえば関恵理子さんは、生きることが面倒くさいという思いを持っていた。その隠すべきだと思っていた気持ちを表に出そうと、最初に声明文を書いたうえで、「生きるってめんどくさい」という日記を365日書き続けています(「生きるってめんどくさい」)。

——声明文があることによって、日記を書くという行為に特別な意味が出てくる。アート的な仕掛けですが、こうした枠組みは菊池さんたちが提案するんですか?

菊池:参加者に自分のことを考えてもらうため、彼らが普段は触れないアートの蓄積を見せることはしていますね。たとえば関さんの場合、ステートメントに基づいて、一見無駄とも思える行動をし続けている海外アーティストの活動を見せました。そうした実例に触れることで、これもアートになり得るんだ、自分ならこうしたい、と考えることができる。まねをせず、影響の根源を広げることを意識しています。

——私も一度、Relight Committeeの現場を見学させていただきましたが、菊池さんたちが「なぜそのアクションなの?」と、何度も問いかけていたのが印象的でした。

菊池:この場所では、いかに真剣に自分と向き合い、かつ、自分にしかできないアクションを作り上げるかを求めていると思います。なので、アクションづくりのプロセスに比重を起きつつも、参加者全員がアクションをすることができたわけではないんですね。視点をなかなか深めることができなかった人には、アクションではなく、できないこと自体を記事にしてもらいました。

:参加者の職業や経歴は様々ですが、一人ひとりが妥協しないでやりぬく強度を保ちたいんです。Relight Committeeはあくまでも、自分で動かないと何にも得られない場ですね。

学び方は人それぞれ。あくまで主体的な姿勢を重視している。(撮影:丸尾隆一)

——必ず技術を習得できる、学びの「サービス」ではないということですね。

:普段は作り手ではない人が、他人の作った作品ではなく、アートそのものの働きを日常のなかで感じることができる。実社会とは異なるもう一人の自分を、社会彫刻家として演じることができるわけですよね。服によって人が変わるように、息苦しい閉塞感のなかで自分をズラすことができるのは、新しいアートの位置付けとして可能性がある。こうしたNPOが誕生したこと自体が、このプロジェクトの一番の成果ですね。

問いを通じて見えない状況を可視化する

——リライトプロジェクトは2018年春にひとつの区切りを迎えますが、一方、インビジブルはNPOとして、その活動を広げていますね。たとえば「文化起業家」は、事業によって新しい価値を創出するとともに、新たな文化を生み出する起業家を紹介するトークセッションシリーズです。

:僕たちは、見えないことを可視化し、異なるあり方を提示するのがアートの価値だと思っていて。文化起業家でも、事業を通じて新しい文化を作ろうとしている起業家をお呼びして、どんな状況を作り出したいと考えているのか、月に一回、お話を伺っています。また最近始まった「問ひ屋プロジェクト」は、群馬県高崎市にある高崎問屋街を舞台にしたアートプロジェクトです。「問ひ屋」は「問屋」のかつての呼び名ですが、そこでは多様な人々が問いを投げかけ合いながら商売をしていた。そんな歴史を参照しつつ、問屋街の未来を考えるうえでアートがどんな触媒になり得るのかを提案し、様々なプログラムを実施しています。

創業支援施設で展開しているトークシリーズ「文化起業家」。インビジブルが企画・コーディネートを担当。(写真提供:NPO法人インビジブル)

——そうしたプロジェクトは、どのようにして始まるのですか?

:高崎の場合は、問屋街の経営者の一人が声をかけてくれました。また福島でも、以前から多くの小学校が集まるイベントのアドバイザーを宏子さんが担当した経緯から、今後開校される小学校のアクションプランを考える実行委員会に宏子さんが参加し、震災後の教育を考える仕事もさせていただいています。活動の軸にしているのは、アートを見せるというより、アートを通じて状況を可視化し、その先に伸びる視座を見せたいという点です。

菊池:一見バラバラに見えるけれど、私たちの中では、与えられた環境で何ができるかという点が重要なんです。その「何」が重要で、コンテクストは問わない。アートがどこかの社会の縮図の中に介入したとき、いかに力を発揮できるのか。そうしたプロジェクトが多いですね。言い換えると、余計なお世話が多い(笑)。真っ向から注文に応えるのではなく、ギリギリのところで「こういうこともできますよ?」と、より深い問いを投げかける。効率の悪さもあるけれど、そこに存在意義があると思っています。

群馬県高崎市にある日本で最初の卸商業団地「高崎問屋街」の50周年記念事業としてスタートしたアートプロジェクト「問ひ屋プロジェクト」。2017年からインビジブルが企画・運営・コーディネートを担当。(写真提供:NPO法人インビジブル)

——あらためて、逆境の中で誕生したNPOから、こうした多様な実践が生まれたのはとても面白いですね。

:さきほど、宮島さんと光の蘇生を始めたとき、予想もできない方向に進むようなチームが作りたかったと言いましたが、その発酵の時間がないと、日本にはこの先がないという思いがあったんです。いまあらゆる時計が早回しされる中で、悠長な時間の使い方はなかなかできなくなっている。でも、それはとても危険なことだと思うんです。

:リライトプロジェクトは終わりますが、これからはRelight Committeeで育んできたことに一層、力を入れたいと思っていて。というのも、合理化が進む中でも、こうした一見無駄は多いけれど、ともに学べる場と人を作っていく活動が、一番レバレッジが効くと思うんですよね。だから今後のRelight Committeeでは、年度ごとの卒業という仕組みも無くそうと考えているんです。スポーツジムじゃないけれど、日々の生活の中でふとストレッチをしに来る人もいれば、がっつり身体を作りに来る人もいる。そんなコミュニティを作りたい。それこそ、森さんの言うような大きな川の流れに個人では抗えないけど、その中にせっせと小さな支流を作っていく。そういうことをしていけたらいいなと思っています。

菊池:一方で私たちの仕事は、いつなくなってもおかしくなくて。ものすごく利益を生むわけではないし、見方によっては自分たちの理想の押し付けにも見えてしまう。だからこそ柔軟に、信じたことをまっすぐやり続けないといけないなと思いますね。

:今後人が減る社会では、昔の作り方でいいという発想も生まれてくる。我々はもう一度、時間を取り戻す可能性もあると思うんです。そこで大事なのは、小さな規模で発酵させるような、手間暇をかけたやり方。だからインビジブルの仕事には、僕はとても広がりがあると感じるんです。

菊池:自分たちの活動は、マラソンみたいだと思います。教育や学びは、絶対的にすぐ成果が現れないものだから、いかに長くやり続けるかが問われている。その人が学んだことを納得して形にするのは、10年後かもしれないし、生涯かかるかもしれない。でも、もしかしたら、「社会彫刻家」という言葉が当たり前のように使われる時代が来るかもしれないんですよね。その未来の姿を思い描きながら、これからも目の前のことに取り組んでいきたいですね。

(撮影:高岡弘)

Profile

林曉甫(はやし・あきお)

NPO法人インビジブル 理事長/マネージング・ディレクター
1984年東京生まれ。立命館アジア太平洋大学アジア太平洋マネジメント学部卒業。卒業後、NPO法人BEPPU PROJECTに勤務し公共空間や商業施設などでアートプロジェクトの企画運営を担当。文化芸術を起点にした地域活性化や観光振興に携わる。2015年7月にアーティストの菊池宏子と共にNPO法人インビジブルを設立。International Exchange Placement Programme(ロンドン/2009 )、別府現代芸術フェスティバル2012「混浴温泉世界」事務局長(別府/2012)、鳥取藝住祭総合ディレクター(鳥取/2014,2015)六本木アートナイトプログラムディレクター(東京/2014~2016)、 Salzburg Global Forum for Young Cultural Innovators(ザルツブルク/2015)、女子美術大学非常勤講師(東京/2017)

菊池宏子(きくち・ひろこ)

NPO法人インビジブル クリエイティブ・ディレクター/アーティスト
東京生まれ。ボストン大学芸術学部彫刻科卒、米国タフツ大学大学院博士前期課程修了。米国在住20年を経て、2011年、東日本大震災を機に東京に戻り現在に至る。在学中よりフルクサスやハプニングなどの前衛芸術・パフォーマンスアート、社会彫刻的観念、またアートとフェミニズム、多文化共生マイノリティアートとアクティビズムなど、アートの社会における役割やアートと日常・社会との関係について研究・実践を続けている。MITリストビジュアルアーツセンター、ボストン美術館、あいちトリエンナーレ2013、森美術館など含む、美術館・文化施設、まちづくりNPO、アートプロジェクトにて、エデュケーション活動、ワークショップ開発・リーダーシップ/ボランティア育成など含むコミュニティ・エンゲージメント戦略・開発に従事。また、アート・文化の役割・機能を生かした地域再生事業、ソーシャリーエンゲージドアートに多岐にわたり多数携さわってきている。その他武蔵野美術大学、立教大学兼任講師、一般財団法人World In Asia理事なども務めている。

NPO法人インビジブル

アートを軸にした「クリエイティブプレイス(Creative Place)」を標榜するNPO法人。「invisible to visible(見えないものを可視化する)」をコンセプトに、アート、文化、クリエイティブの力を用いて、地域再生、都市開発、教育などさまざま領域におけるプロジェクトの企画運営や、アーティストの活動支援、アートプロジェクトの支援や運営人材の育成、それに伴うプロトタイプの研究に取り組んでいる。
http://invisible.tokyo/

リライトプロジェクト

六本木けやき坂のパブリックアート『Counter Void(カウンター・ヴォイド)』を再点灯させると同時に、未来の生き方や人間のあり方を考えるプラットフォーム形成を目指すプロジェクト。東日本大震災をきっかけに、作者であるアーティスト・宮島達男の手によって消灯されたこの作品を、3.11の記憶をとどめ、社会に問いかけ続けるための装置と位置づけ、様々なプログラムを展開します。
http://relight-project.org/
*東京アートポイント計画事業として2015年度から実施

逆境から生まれたプロジェクト、考える装置としてのアート ―インビジブル林曉甫・菊池宏子「リライトプロジェクト」インタビュー〈前篇〉

「東京アートポイント計画」に参加する多くのアートプロジェクトは、いったいどのような問題意識のもと、どんな活動を行ってきたのでしょうか。この「プロジェクトインタビュー」シリーズでは、それぞれの取り組みを率いてきた表現者やNPOへの取材を通して、当事者の思いやこれからのアートプロジェクトのためのヒントに迫ります。

第2回で取り上げるのは、2015年にスタートした「リライトプロジェクト」です。東日本大震災を機に消灯された宮島達男さんのパブリックアート《Counter Void》を毎年3日間限定で再点灯する「Relight Days」と、アート的アプローチを生かした行動によって自らの生活や社会を変える「社会彫刻家」の育成を行う「Relight Committee」。この二つを軸としたプロジェクトでは、震災後の社会でアートが果たしうる「装置」としての可能性に焦点が当てられてきました。

一方、プロジェクトと並行して設立されたNPO法人インビジブルでは、地域再生から教育まで、多様な現場でアートを取り入れた実践を展開しています。「大きな時代の流れの中に、小さな支流を作る」かのような彼らの活動、そして、より社会に接続していくこれからのアートの“使い方”とは? インビジブルの林曉甫さんと菊池宏子さん、東京アートポイント計画ディレクターの森司に語ってもらいました。

パブリックアート《Counter Void》を毎年3月11日~13日の3日間限定で再点灯する「Relight Days」。リライトプロジェクトでは、東日本大震災以降消灯していた作品の再点灯を実現した。(撮影:丸尾隆一)

逆境から生まれたアートプロジェクト

——リライトプロジェクトは、2013年より始まった、六本木ヒルズにある宮島達男さんのパブリックアート《Counter Void》の再点灯を考察する「光の蘇生」プロジェクトを土台としているそうですね。まずは光の蘇生の経緯について聞かせてください。

:きっかけは、宮島さんとの何気ない会話の中で、彼が《Counter Void》の電気を消していると知ったことでした。当時僕は、美術家の川俣正さんと行っていた「川俣正・インプログレス―隅田川からの眺め」(2010〜2013年)の終了もあり、次に東京で世界的なプロジェクトを協働できるアーティストを探していたんです。そこで宮島さんに会いに行くと、彼が震災から2日後の2011年3月13日、計画停電に先立って、自主的に作品を消灯する決定をしていたと知って。再点灯の議論自体をプロジェクトにしようと考えたんです。

——そこで、多分野のゲストを招いた勉強会を中心とする、光の蘇生の活動が始まったわけですね。当初、林さんはその事務局のスタッフとして、菊池さんは勉強会のゲストとして参加しています。

:林くんは彼の前職のBEPPU PROJECTでの実力を知っていたし、震災を機にアメリカから帰国した菊池さんは、あいちトリエンナーレでの評判を聞いて、良い人がいるなと思っていました。光の蘇生では、そんな豪華メンバーでチームビルディングすることで、予測できない動きが生まれる生態系を作りたかったんですね。その一方、光の蘇生はまだ20世紀的な価値観で進んでいたプロジェクトでした。というのも、ここで議論していたのは、要は「作品の再生(※)」ですから。物理的な作品を中心にした、従来の芸術観の延長にあるプロジェクトだったんです。しかし途中で、作品の所有者からの要請などもあり、完全な再生が難しくなってしまった。そして、この逆境への応答の中から、インビジブルがプロジェクトを現在のかたちに更新していったんです。

※編注:当時「光の蘇生」では経年劣化した《Counter Void》を修繕し、作品として完璧に再生した上で、再び点灯させることを目指していた。

リライトプロジェクトの前身となった「Tokyo Art Research Lab プロジェクト構想プログラム―「光の蘇生」プロジェクトを構想する」。様々なゲストを招いて作品の再生を考える勉強を開催していた。(2013年11月26日)

:光の蘇生では、作品の修繕資金を集めるファンディングの仕組みなどを作っていたのですが、他方で、ただ作品を綺麗にして再点灯を実現しても、その社会的な位置付けが変わらなければいけません。そこで、宏子さんを招き、コミュニティ開発の領域にもプロジェクトを展開していくことを考えました。しかし、プロジェクトが本格稼働する直前、作品の蛍光灯を全てLEDに入れ変えて再生することは難しいという話になり、一転してプロジェクトをゼロベースで考えなおさなくてはいけなくなりました。ここでプロジェクトを離れることもできたけど、宮島さんは僕が最初に仕事をしたアーティストですし、六本木の喧騒の中に「生と死」をテーマとする《Counter Void》があることは意味があるのでやりたかった。それで、宏子さんとインビジブルを設立することにして、森さんに「この企画を引き取りたい」と提案したんです。

菊池:こうした状況は、コミュニティ開発の世界ではよくあることなんですよ。地権者や所有者の事情で紆余曲折するというのは。でも、そこに対していかに柔軟に、クリエイティブな発想を埋め込んでいくのかが、プロセスの重要な部分になるんです。

別府現代芸術フェスティバル2012「混浴温泉世界」事務局長(2012年)や、鳥取藝住祭総合ディレクター(2014,2015)を務めてきた林さん。2015年、リライトプロジェクトをきっかけに、菊池さんと共にNPO法人インビジブルを設立した。

——毎年3日間だけ再点灯するRelight Daysの発想は、そこで生まれたのですか?

:そうですね。どうしたら状況を裏返せるかを考えたとき、3月11日から作品の電気が消された3月13日までの3日間をシンボルに使えないかと。伝統的にも、灯籠流しやお盆のような、失った人へと哀悼を捧げる年中行事がありますよね。作品すべてを再生できなくても、その三日間の再点灯によって失われたものを見せたいと考えたんです。

:宮島さんが一番こだわっていたのは、点ける理由なんです。でも、作品再生ができなくなったとき、ある意味で点ける理由ができたんですね。その理由を正当化してくれたのがインビジブル。ロジカルに考えると「点けられないなら諦めよう」か、正面突破で抗議をしにいくのが普通でしょう。でも、彼らが提案したのは「三日間だけ点けるのはどうですか?」ということ。これは宮島さんと僕にとっては、すごくシャープな回答だった。このとき、我々が光の蘇生でやってきたことは、リライトプロジェクトとしてインビジブルへと移行されたんです。

2016年3月11日、5年ぶりの再点灯直前の様子。「Relight Days 2016」点灯式にて、作者の宮島達男さんが想いを語った。(撮影:丸尾隆一)
《Counter Void》点灯中は様々な人が足を止めていく。(撮影:丸尾隆一)

考える装置としてのアート

——菊池さんは最初ゲストとして参加した中で、なぜ、このプロジェクトにここまで深く関わろうと思ったのでしょうか?

菊池:タイミングというのは、率直な答えとしてあって。ゲストで関わり、結果NPO法人まで立ち上げるのは、自分の意思以外の部分に促された不思議な感覚もあります。そもそも、今日は整理をして話していますが、当時は考える要素も多く、わからないことや戸惑いもあったんです。でも、森さんのアート作品を装置としてプロジェクト化したいという気持ちは、私がアメリカでやってきたこととも重なっていました。特別な存在としてのアーティストが作る、自我を表現する作品という以外にも、アートには社会的な装置や触媒としての機能がある。どうアートを生かしていくかという意識の重なりがあったから、やりたいと思いました。あと、宮島さんを含めて、こういう人たちと仕事をしてみたいという思いも大きかったですね。

:スティーブ・ジョブズの「コネクティング・ザ・ドッツ(点と点を結ぶ)」という言葉があるけど、うまい表現だなと。振り返ると整理されちゃうけど、当時は1日1日なんとか前に進んでいるような状態だった。もともとこのプロジェクトの名前を「Relight Project」にするか「Rewrite Project」にするかを考えていたことを思い出し、先日も宏子さんと「『Relight』という表記にしているけど、実際は書き換えるという意味の『Rewrite』の方だね」と笑って話していたんです。このプロジェクトは直線的ではなくて、状況に応じて変化しながら進んできたんですよね。

:計画的ではなく、現在進行形。チームができるまでには多くの時間を過ごしたけど、そこに良いプロセスがたくさんあったんです。現在のかたちは、当初は誰も想定していなかった。宮島さんはよくこの結果を引き取ってくれたなと思います。

アーティストとして活動する傍ら、コミュニティ開発やエデュケーション事業にも関わってきた菊池さん。米国在住20年を経て、2011年、東日本大震災を機に帰国した。

——装置や触媒としてのアートというお話がありましたが、リライトプロジェクトがアートプロジェクトとして異質なのは、いわゆるアーティストを中心とした作品制作が行われていない点ですね。

:Relight Daysにしても、作品を3日間点灯するだけで、アーティストに新しい作品制作を依頼するわけではないですからね。でも、僕らが問おうとしていたのは、この社会の中で、我々はいかにアートを必要とするのか、ということ。たとえばこのプロジェクトでは、六本木にある港区立笄(こうがい)小学校図工科の江原貴美子先生とその生徒と、ワークショップをしたり《Counter Void》の現場に足を運んだり、様々な形で関わりをもったのですが、結果として彼らは再点灯を自分事として考えてくれるようになった。宮島さんの本来の意図を引き継ぎつつも、それを自分の言葉で紡げる人が生まれたことは、意味があることだと思います。

菊池:一方、Relight Daysが年に3日間のシンボルだとすれば、その土台としてある365日間で、点灯の意味や、震災後の社会とアートを考える場として始めたのが、市民大学のRelight Committeeです。この二つがないと、リライトプロジェクトは成り立たないんですね。作品は、物理的にはすぐ点けられる。でも、なぜわざわざ点けるのか。その社会的な意味とは何か。それを作品の作者や所有者ではなく、本来作品を鑑賞する側が議論するところにこのプロジェクトの本質があります。わかりにくい部分もありますが、やりがいでもあるんです。

「社会彫刻家」の輩出を目指す「Relight Committee」。2016年より市民大学形式でスタート。(撮影:丸尾隆一)

社会彫刻家を育てる学びの場

——Relight Committeeがミッションとして掲げているのが、社会彫刻家と呼ばれる存在の育成や輩出です。「社会彫刻」は、もともとドイツ人アーティストのヨーゼフ・ボイスが提唱した概念ですが、このプロジェクトではそれを現代的に捉え、社会彫刻家を「アートが持つ創造性や想像力を用いて、自らの生活や仕事に新たな価値をつくり続け、行動する人」と定義していますね。なぜこの言葉を使うことになったのですか?

菊池:そこにはプロジェクト1年目の、私の認識不足によるつまずきがあったんです。そもそも初年度のコミッティは、「アートと社会について従来の定義や枠組みを超えた対話を重ね、具体的な行動につなげる人を育てる学びの場」という目的を持って立ち上げました。初めての再点灯とそこに向けたプログラムづくりなど、彼らの時間や労働の多くがそこに注がれてしまい、実践からの学びはあるものの、根本のアートや社会の関係などの学びの部分が抜け落ちてしまったというか。いろんな意味での認識の違いやズレから、人が離れることなども起きてしまって。

そこで、どうしても必要な学びの要素を取り入れ、本当に何かを変えたいという思いのある人を育てたいなと。アートファンの育成でも、造形やコンセプトの美しさの学びでもなく、「アートが装置である」という認識を育てるうえでは、歴史上、やはり社会彫刻の考え方に戻らないといけない。そうしないと、いつまでも宮島さんの作品をどうするかという話にしかならないという危機感があったんです。

:Relight Daysが当初の再生計画の延長上のプログラムだとしたら、Relight Committeeはそこにあるアートをいかに使うかを考えるプログラム。つまり、アートに対するタッチの仕方が違うんですね。ただ、いま菊池さんが話したことは、NPO側の思惑だから、じつは僕も初めて聞いたんです。思いつきじゃないから、我々も引き取ることができたんだなと。

Relight Committee活動日の様子。様々な職業、年齢、背景を持つ人々が議論し、思考する学びの場。(撮影:丸尾隆一)

:社会彫刻は重要な概念なので、使うことには戸惑いもありました。もちろん僕たちもボイスの考え方をつねに振り返っていますが、重要なのは、僕たちが生きている社会はいまこの社会だということ。だから、「ボイスが何をしたか」を学ぶのではなく、ボイスの考えを引き継ぎつつ、現代を生きる僕ら一人ひとりが「社会をいかに彫刻し生きていくか」を考えたい。概念を知るだけでなく、それを踏まえて実装する人を増やしていきたいんです。

:その意味では、インビジブルは「アートNPO」と呼べる組織になりましたね。アーティストの活動を支えるNPOは山ほどあるけど、インビジブルはひとつの思考体として、NPOそのものからメッセージを発信できる。物言えるNPOになったと。この考え方は、宮島さんのキーワードである「Art in You」(アートはそれを受け取るあなたの中にある)にもつながるものです。

菊池:ただ、日本の美術大学では、意外と社会彫刻についてあまり教えられないんですよね。それは私が通っていたアメリカの美大では、ありえないことだったので。すべての学生が、アートの概念、表現方法のひとつに「行動」があると教えられる。でも、社会彫刻家という考え方が日本でも本当に必要だと納得するために、一年目のつまずきは重要なプロセスでしたね。

現在のRelight Committeeプログラムは、レクチャー+実験+議論を組み合わせて構成している。(撮影:丸尾隆一)

〈後篇〉「問いを通じて見えない状況を可視化する。これからのアートNPOとして ―インビジブル林曉甫・菊池宏子「リライトプロジェクト」インタビュー」

Profile

林曉甫(はやし・あきお)

NPO法人インビジブル 理事長/マネージング・ディレクター
1984年東京生まれ。立命館アジア太平洋大学アジア太平洋マネジメント学部卒業。卒業後、NPO法人BEPPU PROJECTに勤務し公共空間や商業施設などでアートプロジェクトの企画運営を担当。文化芸術を起点にした地域活性化や観光振興に携わる。2015年7月にアーティストの菊池宏子と共にNPO法人インビジブルを設立。International Exchange Placement Programme(ロンドン/2009 )、別府現代芸術フェスティバル2012「混浴温泉世界」事務局長(別府/2012)、鳥取藝住祭総合ディレクター(鳥取/2014,2015)六本木アートナイトプログラムディレクター(東京/2014~2016)、 Salzburg Global Forum for Young Cultural Innovators(ザルツブルク/2015)、女子美術大学非常勤講師(東京/2017)

菊池宏子(きくち・ひろこ)

NPO法人インビジブル クリエイティブ・ディレクター/アーティスト
東京生まれ。ボストン大学芸術学部彫刻科卒、米国タフツ大学大学院博士前期課程修了。米国在住20年を経て、2011年、東日本大震災を機に東京に戻り現在に至る。在学中よりフルクサスやハプニングなどの前衛芸術・パフォーマンスアート、社会彫刻的観念、またアートとフェミニズム、多文化共生マイノリティアートとアクティビズムなど、アートの社会における役割やアートと日常・社会との関係について研究・実践を続けている。MITリストビジュアルアーツセンター、ボストン美術館、あいちトリエンナーレ2013、森美術館など含む、美術館・文化施設、まちづくりNPO、アートプロジェクトにて、エデュケーション活動、ワークショップ開発・リーダーシップ/ボランティア育成など含むコミュニティ・エンゲージメント戦略・開発に従事。また、アート・文化の役割・機能を生かした地域再生事業、ソーシャリーエンゲージドアートに多岐にわたり多数携さわってきている。その他武蔵野美術大学、立教大学兼任講師、一般財団法人World In Asia理事なども務めている。

NPO法人インビジブル

アートを軸にした「クリエイティブプレイス(Creative Place)」を標榜するNPO法人。「invisible to visible(見えないものを可視化する)」をコンセプトに、アート、文化、クリエイティブの力を用いて、地域再生、都市開発、教育などさまざま領域におけるプロジェクトの企画運営や、アーティストの活動支援、アートプロジェクトの支援や運営人材の育成、それに伴うプロトタイプの研究に取り組んでいる。
http://invisible.tokyo/

リライトプロジェクト

六本木けやき坂のパブリックアート『Counter Void(カウンター・ヴォイド)』を再点灯させると同時に、未来の生き方や人間のあり方を考えるプラットフォーム形成を目指すプロジェクト。東日本大震災をきっかけに、作者であるアーティスト・宮島達男の手によって消灯されたこの作品を、3.11の記憶をとどめ、社会に問いかけ続けるための装置と位置づけ、様々なプログラムを展開します。
http://relight-project.org/
*東京アートポイント計画事業として2015年度から実施

あとは命名を待つだけ。都市を減速させる試み —羊屋白玉「東京スープとブランケット紀行」インタビュー〈後篇〉

「東京アートポイント計画」に参加する多くのアートプロジェクトは、いったいどのような問題意識のもと、どんな活動を行ってきたのでしょうか。この「プロジェクトインタビュー」シリーズでは、それぞれの取り組みを率いてきた表現者やNPOへの取材を通して、当事者の思いやこれからのアートプロジェクトのためのヒントに迫ります。
 
第1回目に取り上げるのは、演出家・劇作家の羊屋白玉さんを中心に2014年より活動を始めた「東京スープとブランケット紀行」です。毎月一回、彼女が22年間一緒に暮らした猫(2012年5月17日他界)の月命日に、江古田の街で買い集めた食材でスープを作り、それを参加者みんなで食べることを軸にしたこのプロジェクトでは、そのささやかな行為の積み重ねを通して、成熟都市の抱える「看取り」の問題に取り組んできました。

2017年、参加型プログラム「R.I.P. TOKYO」の開催を機に、ひとつの節目を迎えた「東京スープとブランケット紀行」。4年間の活動のなかで探られてきた、本当に創造的なアートプロジェクトのあり方とは何なのか? 羊屋さんと、伴走者である東京アートポイント計画ディレクター・森司に話を訊きました。江古田周辺をめぐった写真とともにお届けします。

〈前篇〉「縮小社会に向き合う、“看取り”のアートプロジェクト —羊屋白玉「東京スープとブランケット紀行」インタビュー」

(取材・執筆:杉原環樹)

命名できない時間を持つ

——関係者が集まってスープを飲み続けた「江古田スープ」。そこで自然な疑問として湧くのは、「それはアートプロジェクトなのか?」ということだと思うのですが。

:従来の意味では、そうではないかもしれません。しかし、アートプロジェクトかもしれない。もちろん、そうした疑問が出ることは当然だと思います。

羊屋:「従来」という部分ですよね。私はそれは慣れっこで、人生の半分くらいは自分の作品を演劇ではないと言われてきた。劇場で行われるものが演劇であるという観念があるから。

:そうした経験をされてきたからこそ、羊屋さんに頼んだんですよ。

羊屋:でも、じゃあ、それを演劇だと呼ぶ人がいたら嬉しいかというと、わからない。アートプロジェクトだと言われたら安心するかというと、そうではないと思うんです。

:アートプロジェクトとしてはみ出し続けていたから、やっていたんですよ。そのあり方の曖昧さに堪えが効かなくなると、こうした取り組みはすぐにわかりやすい型に回収されるんです。しかし、そうならずに三年間、やり続けられた事実がとても重要で。それをアートプロジェクトと呼ぶか、月命日の集いと呼ぶかは、どちらでもいい。ラベリングによって回収されることが、一番怖かったんです。

ラベリングのないものを売るガラクタやネバーランドにて。店主の安藤仁美さんを「対談紀行 2016紫陽花篇」にお招きした。(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:中澤佑介)

——型にはまることによる安心は、危険でもあると。

羊屋:「江古田スープ」は猫の死の再現でもあると言いましたが、一度だけでは満足することできずに、やり続けることになった。でも、それは世の中にある儀式もそうだと思うんですね。長い積み重ねで儀式ができてくる。だから、物事の生まれ方としてはまるで新しくはないんだけど、アートプロジェクトの側から見るとはみ出しているんだなと思います。

:日比野克彦さんの「明後日朝顔プロジェクト」という取り組みがありますよね。

——地域住民と朝顔を育て、その種を別の場所に広げていくプロジェクトですね。

:あれも当初は、ただ芸術祭の観客をもてなすために始まったものです。僕が水戸芸術館の学芸員として開催したときも、「朝顔を育てることがアートなのか」という疑問の声があった。でも、いまやあの取り組みは押しも押されぬプロジェクトになっていますよね。認知には儀式が必要で、「明後日朝顔」は金沢21世紀美術館で一度、破天荒な規模で開催され、同館に収蔵された。その瞬間、何を持ってあれをアートじゃないと言えるのか?という世界に一瞬で変わります。制度があれば、ある行為をアートにすることはできる。むしろ難しいのは、その手前で命名できない時間を持つことなんです。

羊屋:簡単には命名させないぞと、引っ張ってきたんですけど、同時に、名前が付いたときには「そういうことか」と驚くものがあるといいと思っていて。大人が普段、自分では意識できていない現実を子供に指摘されてドキッとすることがありますよね。たとえば、子供が「大人になったら好きなことできるの?」と聞くと、お母さんが「そうよ」と答える。そしたら子供が、「じゃあお母さんは好きなことしてるの?」と聞いてお母さんは絶句した、という実話があって。言葉が与えられてドキっとする瞬間。そうしたところに降りてくるまで、このプロジェクトも待っていたんだと思います。

江古田の街に現れる、加藤材木店による、新年恒例、干支の動物を描いた、巨大パブリックアート(写真提供:東京スープとブランケット紀行)

みんなで看取る

——その待っていた瞬間の訪れが、2017年の「R.I.P. TOKYO」につながった?

羊屋:そうですね。じつは3年目の2016年にも一度、「何かを作ろう」と話になったのですが、まだ無理だと。それが2017年に、平行して続けてきたいくつもの活動がすっとひとつになったんです。「R.I.P. TOKYO」と公言する動機が揃ったというか。

:40回以上も集まった3年間の活動が、結果的にそのプロローグになったんです。実際、「R.I.P. TOKYO」は、これまで関係者でやってきたことを外在化し、見える化したプログラムです。これまで日常にあったものを、ようやくステージに上げた。

羊屋:5月17日の「はじまる」と題した回に始まり、「はなまる」「みとれる」「はぐれる」「きこえる」「くすぐる」「みつける」と、11月までに7回開催しました。基本的にはいままでの月命日と同じで、江古田駅前に集合し、みんなで買い物をして、スープを作って食べる。そして、集まった人たちにそれぞれ話を聞くというものです。

「R.I.P. TOKYO きこえる」(2017年8月11日開催)。出来上がったスープを参加者とともにいただき、言葉を交わす。(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:GO)

——僕は10月14日に行われた「くすぐる」に参加しました。この回は江古田斎場を舞台にしたもので、「弔問客」となった観客を前に、まずは羊屋さんが猫のまぷへの弔辞を読み上げました。その後、貝のスープやゆで卵、栗のような、何かの残骸が残る料理を食べ、地元に長く住むお年寄りなどの話を聞き、リヤカーを引く羊屋さんを先頭に江古田の商店街を歩いた。そして、とてもあっさり解散したのが印象的でした。

羊屋:リヤカーは、かつての江古田市場を忍ばせる風景の再現で、「R.I.P. TOKYO」では毎回引きました。でも、斎場は特別な場所で、みんな何かになりきっていましたね。その回の終了後、このプロジェクトにずっと伴走してくれた東京アートポイント計画の大内(伸輔)くんが、「みんなで看取れば怖くない」と言っていたのが面白くて。

大内:我々にしたら、あの回はついに羊屋さんが弔辞を読んだ瞬間だったんです。4年間ずっとまぷの死と向き合うことに戸惑いがあったなかで、やっと真正面から向き合ったと。

羊屋:やってみて、「みんなで看取れば怖くない」を実感したんです。まぷはたまたま大勢で看取ることになりましたが、友人には、一人で猫を看取らなくてはいけなかった人もいて。実際、人同士の世界で考えても、今後の社会は看取る人の数がどんどん減っていくわけですよね。

「R.I.P. TOKYO くすぐる」(2017年10月14日開催)。江古田斎場で愛猫「まぷ」への弔事を読んだ。(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:GO)

——かつてのように大勢の親戚や友人に見送られる、といったかたちは減っていくのかもしれないですね。

羊屋:そこでは、極度に「死」というものを怖がる状況が生まれると思うんです。かたやベトナムや沖縄では、埋葬後に何年か経ってから、骨を取り出して綺麗にして、また埋めるという葬儀の仕方もあるそうです。死を近くに感じるそうした機会は、もっと多くあっていいのではないかと思うんですね。このプロジェクトは、そんな死を恐れる人のもとにも持っていきたいな、と考えています。

減速と免疫

——プロジェクトは今後、どのように展開されていくのでしょうか?

羊屋:こうしたプロジェクトは5〜6年で止めるか、100年続けるかのどちらかで、本当は100年続けたいけど、死んでしまうからできない。なので今、こうした試みがあったことを多くの人に伝えて、未来にも残したいと、実践のためのアーカイブを作っているところです。今度、ニューヨークに行く機会があるので、そこにもプロジェクトを持っていきますし、「アジア女性舞台芸術会議実行委員会」という団体でマレーシアとベトナムを担当しているので、そこでの伝え方も考えたいと思っています。

:アジアの人たちも、このプロジェクトに興味を示しているんです。

羊屋:でも国のバッググランドは違っていて。日本では、ここ10年の間でも、東日本大震災や、東京オリンピックに向けて混迷の時代に突入する中、人口減少の問題があります。しかし例えば、マレーシアやベトナムは、平均年齢が30歳程度という国です。そこで「看取りの時代が来る」と言ってもピンとこないのはあたりまえです。そんな事情の違う国で、どんな風に訪れるはずの未来を伝え、ともに考えることができるのか。

:そこには、シンボリックなものが必要で。なので、いま作ろうとしているのは、簡単に触れてもらえるドキュメントブックや映像に加えて、唯一の造本が施されたユニークピースの戯曲のアーカイブなんです。その一冊を携えていれば、物の力で行為が誘発されるようなものを作ろうと。そうしたものができれば、世界の人たちが勝手に引き受けて、解釈して、実行してくれる。そこで誰かが、「これはアートだ」と言ってくれたら、その瞬間に命名式は終わるので。あとはその命名を待つだけなんです。造本は、ドイツでバリバリにコンセプチュアルな造本を学んだ、太田泰友さんにお願いしています。

「R.I.P. TOKYO」では殻や皮など残骸が残る食事を用意し、その残り方を記録し続けた。(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:GO)

羊屋:その戯曲には、3分ほどで終わる短いプロローグがあって。そこが、この4年間の活動に当たる部分。だから、3分のものを4年間に引き延ばしたんだなと(笑)。

:しかも、普通ならその戯曲がまずあり、そこから4年間を始めるところを、いろんなことが終わってから出発点に着くという。その意味でも、従来とはまったく真逆のプロジェクトの作り方をしたわけです。羊屋さんは一見演劇を解体しているように見えるけど、徹頭徹尾、演劇をしていたということがいまになってわかります。それは、演劇空間ではない実社会に重なるフィクションのようなもので、日常とのギリギリの境界でこのように演劇を考えることができると感じられたという意味でも、ここには大きな収穫がありました。

——その収穫は、簡単に成果を求めないタフさから来ているということを、今日は感じました。

:ゴールが設定されたアートプロジェクトをやって「はい、答えが出ました」と。それって一体何をしているんだろうと本当に思うんです。発酵期間を持てるアーティストが減っていることがとても問題だと思うし、それに耐え切れるタフさがないと、本当にペラっとしたものしか出てこない。

羊屋:武術には「7年殺し」という古来の技があります。ポンと叩かれただけなのに、あとからジワジワ効いてきて、7年後に死ぬという。そうした毒は、このプロジェクトのなかでずっと持てたのかな、と思います。浄化されたきれいな街もそうですけど、雑多なものへの免疫がないと、人も都市も本当の意味で死んでしまう。アートプロジェクトのなかには、都市の浄化の一助になってしまうものもありますが、その現実に対して自分なりの解決策を考えたいというのが、じつは最初の思いでもあります。振り返ると、このプロジェクトは都市を減速させ、未来に再生する為の免疫をつける試みだったんだと思いますね。

(撮影:高岡弘)

Profile

羊屋白玉(ひつじや・しろたま)

1967年北海道生まれ。「指輪ホテル」芸術監督。劇作家、演出家、俳優。主な作品は、2001年同時多発テロの最中ニューヨークと東京をブロードバンドで繋ぎ、同時上演した「Long Distance Love」。2006年、北米ヨーロッパをツアーした「Candies」。2011年、アメリカ人劇作家との国際協働製作「DOE」。2013年、瀬戸内国際芸術祭では海で、2014年の中房総国際芸術祭では鐵道で、2015年、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレでは雪崩よけのスノーシェッドで公演した「あんなに愛しあったのに」。舞台作品以外の活動は、2013年よりアジアの女性舞台芸術家たちとのコレクティブを目指す亜女会(アジア女性舞台芸術会議)を設立。2014年より東京を舞台に「東京スープとブランケット紀行」始動。2006年、ニューズウイーク日本誌において「世界が認めた日本人女性100人」の一人に選ばれる。

東京スープとブランケット紀行

演出家・劇作家の羊屋白玉を中心に、生活圏に起こるものごとの「終焉」と「起源」、そして、それらの間を追求するアートプログラムを展開。テーマに呼応するコラボレーターとともに、トークシリーズや、アートプログラムの実施へ向けたエリアリサーチを行う。
*東京アートポイント計画事業として2014年度から実施

縮小社会に向き合う、“看取り”のアートプロジェクト —羊屋白玉「東京スープとブランケット紀行」インタビュー〈前篇〉

「東京アートポイント計画」に参加する多くのアートプロジェクトは、いったいどのような問題意識のもと、どんな活動を行ってきたのでしょうか。この「プロジェクトインタビュー」シリーズでは、それぞれの取り組みを率いてきた表現者やNPOへの取材を通して、当事者の思いやこれからのアートプロジェクトのためのヒントに迫ります。
 
第1回目に取り上げるのは、演出家・劇作家の羊屋白玉さんを中心に2014年より活動を始めた「東京スープとブランケット紀行」です。毎月一回、彼女が22年間一緒に暮らした猫(2012年5月17日他界)の月命日に、江古田の街で買い集めた食材でスープを作り、それを参加者みんなで食べることを軸にしたこのプロジェクトでは、そのささやかな行為の積み重ねを通して、成熟都市の抱える「看取り」の問題に取り組んできました。

2017年、参加型プログラム「R.I.P. TOKYO」の開催を機に、ひとつの節目を迎えた「東京スープとブランケット紀行」。4年間の活動のなかで探られてきた、本当に創造的なアートプロジェクトのあり方とは何なのか? 羊屋さんと、伴走者である東京アートポイント計画ディレクター・森司に話を訊きました。江古田周辺をめぐった写真とともにお届けします。

(取材・執筆:杉原環樹/撮影:高岡弘 *提供名のある写真以外)

「演劇は作るな、クリエイションするな」

——「東京スープとブランケット紀行」は、東京アートポイント計画の関わるアートプロジェクトのなかでも、ひときわ変わった活動で知られているそうですね。まずはプロジェクトの始まりがどのようなものだったのか、お聞きできますか?

羊屋:2013年7月に、森さんから声をかけていただいたのが始まりですね。このときのオファーがとても難しいもので、ひとつは「若いアーティストの心に火をつけるようなことをしてください」ということ。もうひとつは、「演劇は作るな。クリエイションはするな」ということでした(笑)。演劇の世界では、公演の半年ほど前に告知を打って本番を行うという制作パターンがあります。私もそうした制作をしてきたのですが、従来の作り方をしないで、より時間をかけて作ってほしいと問いかけられました。

:東京アートポイント計画では、過去にも演劇人と組んだプロジェクトを行ってきたんです。劇作家の岸井大輔さんとは、新しい公共モデルを考える「東京の条件」(2009〜2011年)を、ドラマトゥルクの長島確さんとは、ギリシャ悲劇の物語を街にインストールする「アトレウス家」シリーズ(2010〜2012年)を行っています。その流れのなかで、三人目の演劇人としてお願いしたいと考えたのが羊屋さんでした。

——なぜ羊屋さんを?

:このとき、いくつかのテーマを考えていたんです。ひとつは、何かの終わりに立ち会う「看取り」の問題をアートプロジェクトでやりたいということ。いま、地域活性化のような事業にアートを活用する試みは多くありますが、東京は今後、人口減少や空き家問題に直面し、静かにシュリンクする時代に入っていく。そこでは別種のプロジェクトも用意しなければなりません。また、非常に口当たりがいいプロジェクトが多いことに対して、毒を皿に盛れる人はいないかとの思いもあった。そんなとき、それらをまとめてできる毒たっぷりの人がいるじゃないか、と思ったわけです(笑)。

——実際、羊屋さんといえば、過去の作品でも劇場ではない屋外での公演や、一般の人たちとの協働制作を行うなど、演劇のかたちを疑うような活動をされていますね。

羊屋:森さんからは、2005年から2006年にかけてやった《東京境界線紀行》の話をされました。これは障害者をはじめ、多様なマイノリティの方と交流して作ったツアー型の作品で、「厳しいことをやり続けていてタフだ」と。だけど、「クリエイションをするな」というのは私にとって行動を封じられていることに近い(笑)。そこからは、企画を考えては森さんに提示して……という、千本ノックのようなやりとりが長い期間続きました。

:「作るな」というのは、言い換えるとクリエイションの仕方を作ってほしいということでもあります。これまでにない看取りの文化事業のオペレーションシステム(OS)を作ってほしいと。じつはこれに連なる社会的テーマ型の取り組みには、「東京迂回路研究」(2014~2016年)のような研究型のプロジェクトもあったんです。羊屋さんはその表現サイドであり、一種の劇薬だと考えていたので、時間がかかるのはわかっていました。そんななか、羊屋さんがあるとき一種の宣言文をフェイスブックに上げたことから、具体的な活動が始まりました。

羊屋:そこに綴ったのは、加速記号に溢れた東京に休符を打ちたいという思いです。私は上京して以来、つねに加速する東京を感じてきました。東京は疲弊している、もう少しゆっくりの方がいいと感じていた。2017年に行ったプログラムのタイトル「R.I.P. TOKYO」(東京よ、安らかに眠れ)は、当時から考えていたものです。

プロジェクトの複層化

——そこからプロジェクトは、どのように具体化していったのでしょう?

:最初の打ち合わせから半年ほど試行錯誤が続いたのですが、そんなとき羊屋さんがふと出してきたキーワードが、プロジェクト名にもなった「東京スープとブランケット紀行」でした。この言葉によって、それをどう捉えるか考えられるようになりました。

——スープやブランケットという言葉は、なぜ出てきたのですか?

羊屋:由来は2012年の、飼い猫「まぷ」の死です。まぷは社交的な猫で、倒れたときには仲の良かった多くの友人が駆けつけてくれたんです。そのさい、みんながその身体を温めるために持ってきてくれたのが、スープやブランケットでした。そして亡くなるまでの五日間、猫をどう弔うか、焼くのは嫌とか木の下に埋めるのがいいとか、みんなでいろいろ話しました。そこには自分の死への思いも重なっていて、猫の死を機に夜な夜なそんな話ができたのはすごいことだなと。「江古田スープ」には、この弔いに向けた時間の経験を、まぷを知らない人とも再現したいという側面もあります。

江古田市場跡地に立つ東京スープとブランケット紀行のチーム(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:中澤佑介)

——「江古田スープ」は、「東京スープとブランケット紀行」という言葉が分解されて生まれた、四つの小さなプロジェクトのひとつですね。これは羊屋さんが暮らしてきた江古田で、月に一回、プロジェクトに関わる人が集まり、スープを作って食べるものですが、そこには食事を通した一種の看取りの場をつくるという思いもあったと。

羊屋:さらに「江古田スープ」では、活動を始めてまもない2014年の大晦日、90年間続いた地元の江古田市場が閉場することが決まったため、そのリサーチも行うようになりました。これも一種の看取りですね。とはいえ、月に一度の集まりで交わされる会話は本当に世間話のようなものでしたし(笑)、そもそも当初、私は自分の街を材料にすることをうまく消化できていなかった。そこで、どこかに行くべきだと思って訪れたのが、「青ヶ島ブランケット」というプロジェクトで行った青ヶ島です。この人口180人の島への訪問が、概念としての「東京」や自分の街を見直す機会になりました。

——というと?

羊屋:東京を成り立たせている背景を感じたというか。もちろん青ヶ島も東京の一地域ですが、遠方から自分のベースを考えることの有効性を感じたんです。速すぎる本州の東京が何も生み出していないこと。青ヶ島では1785年の火山活動の激化で、島民全員が八丈島に避難し、50年後に帰還した「還住」という歴史があることも知りました。「青ヶ島ブランケット」の二年目には、都市への水の供給のために奥多摩のダムに沈んだ村もリサーチしたのですが、こうした秘境の経験が活動を複層的にしていったんです。

リサーチプログラム「青ヶ島ブランケット」、2017年7月の青ヶ島訪問にて。かつて名主屋敷があった場所をリサーチ。(写真提供:東京スープとブランケット紀行)
島の歴史を引き継ぐ「還住太鼓」を叩いてみる。(写真提供:東京スープとブランケット紀行)

雑多な材料から澄んだスープが生まれる

——小さなプロジェクトとしては、「江古田スープ」「青ヶ島ブランケット」以外にも、「東京一箱」「対談紀行」というプロジェクトも行われています。「東京一箱」は、東京に住宅を購入しようとする人を追うドキュメントで、「対談紀行」はゲストを迎える対談企画です。ところでこうして見ると、じつにさまざまな要素が混在していますが、それらが最終的にどう絡み合っていくか、といった予想図は描かれていたのでしょうか?

:いや、「江古田スープ」の月一の集まりもそうですが、青ヶ島や奥多摩を訪れることにも最初から明確な目的はありませんでした。プロジェクトというと、事前に具体的なゴールがあるように思われますが、そうした必然はなくてもいい。むしろ、偶然が必然を呼び、必然が偶然を呼ぶ、「わらしべ長者」的な連鎖があればいいんですよ。

羊屋:そうですね。「対談紀行」も、アートプロジェクトにつきもののトークを自分もやってみたい、くらいの気持ちで始まっていて、人選も緩やかに決めましたが、いいタイミングで出会うべき人に出会えました。

2016年2月21日に開催したトークイベント「対談紀行 2016年春篇」。詩人・詩業家でココルーム代表の上田假奈代さんを迎えて。(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:中澤佑介)

:それこそスープを作るには、いろんな材料を突っ込みますよね。同じように、このプロジェクトにも最初は多様な要素が突っ込まれた。それらが溶け合って、結果的に透明感のあるスープになったけど、はじめから予期していたわけではないんです。

羊屋:そうして「江古田スープ」を月に一回、「対談紀行」を半年に一回……と続け、4年目にようやくそれらが「R.I.P. TOKYO」としてひとつになった。やっと公言できたなと。

——ただ、それはプロジェクトの作り方として、異質なようにも思います。普通、少なくとも建前では何かの「成果」に向かうものですが、そうした作り方はしなかったと。

:発酵するのを待ったんですよ。「月命日」と称したスープの集まりも、基本的には集まるだけ。そこには積極的なクリエイションなんかないし、むしろ、しないようにしていた。みんな、一生懸命やりすぎているわけです。まずは「元気?」から始まる、取るに足らない日常会話があり、誰かが「なぜ集まっているんだっけ?」と言うと、たまにシビアな会話にもなる。「あの店、閉まったらしいよ」とか。テーマの「看取り」だけにフォーカスするわけではなく、日常の集まりにそれが紛れている状態なんです。

羊屋:プロジェクトメンバーには演劇関係者やデザイナーなどもいるのですが、みんな、その場では自分の仕事を離れているんですね。デザイナーがスープのシェフになったり(笑)。でも、何回かに一度、ふと大事なことに気づくこともある。それは、劇的な気づきではなくて、みんなのなかに自然に染み込んだものから出てくる気づきです。だから、プロジェクトの一環としては「これをしている」と明確に言えないといけないんだけど、そうした言い方ができなくて。むしろ本当に大事なのは、月に一回、みんなで会うことだったんです。

〈後篇〉「あとは命名を待つだけ。都市を減速させる試み —羊屋白玉「東京スープとブランケット紀行」インタビュー」

(写真提供:東京スープとブランケット紀行/撮影:中澤佑介)

Profile

羊屋白玉(ひつじや・しろたま)

1967年北海道生まれ。「指輪ホテル」芸術監督。劇作家、演出家、俳優。主な作品は、2001年同時多発テロの最中ニューヨークと東京をブロードバンドで繋ぎ、同時上演した「Long Distance Love」。2006年、北米ヨーロッパをツアーした「Candies」。2011年、アメリカ人劇作家との国際協働製作「DOE」。2013年、瀬戸内国際芸術祭では海で、2014年の中房総国際芸術祭では鐵道で、2015年、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレでは雪崩よけのスノーシェッドで公演した「あんなに愛しあったのに」。舞台作品以外の活動は、2013年よりアジアの女性舞台芸術家たちとのコレクティブを目指す亜女会(アジア女性舞台芸術会議)を設立。2014年より東京を舞台に「東京スープとブランケット紀行」始動。2006年、ニューズウイーク日本誌において「世界が認めた日本人女性100人」の一人に選ばれる。

東京スープとブランケット紀行

演出家・劇作家の羊屋白玉を中心に、生活圏に起こるものごとの「終焉」と「起源」、そして、それらの間を追求するアートプログラムを展開。テーマに呼応するコラボレーターとともに、トークシリーズや、アートプログラムの実施へ向けたエリアリサーチを行う。
*東京アートポイント計画事業として2014年度から実施