OUR MUSIC 心技体を整える—これまでの話と、これからの話—

「アセンブル2|OUR MUSIC 心技体を整える」は、アートプロジェクトの現場で起こりうる屋外などの公共空間での音楽の演奏にあたり、公共空間における音楽の在りかたについての調査や、音量に関する規制の成り立ちの分析を行うプログラムです。「音」にまつわるさまざまな領域の専門家や、今まさにアートプロジェクトの現場に関わる方々とともに、音楽が奏でられる空間での共生のあり方を考えました。
企画運営を担当した清宮陵一(VINYLSOYUZ LLC 代表/NPO法人トッピングイースト 理事長)による、本プログラムを振り返るレポートをお届けいたします。

これまで、音と公共との関係性を考えるプロジェクトを約6年間に渡って、Tokyo Art Research Lab事業および東京アートポイント計画事業の一環として、調査・実践してきた。今回の『OUR MUSIC 心技体を整える』は、その調査・実践を踏まえた、現時点での回答と考えている。

2014年、私は主に東京の東側をベースに音楽がまちなかでできることを拡張すべく、NPO法人トッピングイーストを立ち上げた。これまでに、地域の子供達が響きの美しい音楽を体験できる「ほくさい音楽博」(※01)、アーティスト和田永と共に電化製品を楽器化しオーケストラを目指す「エレクトロニコス ・ファンタスティコス!」(※02)、コムアイ、寺尾紗穂、コトリンゴら女性音楽家が東東京をリサーチする「BLOOMING EAST」(※03)といったプロジェクトを実施・運営してきた。

和田永「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」 (撮影:Mao Yamamoto)。
ほくさい音楽博(撮影:三田村亮)。

プロジェクトを実施していく中で、出会う様々な人の関わり方や、交渉する様々な人の立場を本当にひとつひとつ、徐々に知るようになっていった。活動に興味のある人、ない人、二つ返事でよっしゃ!とサポートしてくれる人、テコでも動かない人。プロジェクトを動かしながらそういった人や考え方に、一喜一憂している自分。きっと、同じようなことに打ちあたっている人がたくさんいるだろうなあといつも思っていた。そういったちょっと遠くの仲間に、もう少し実践的に何か使えるような「提言」はないものか、と思うようになっていた。

Tokyo Art Research Lab 東京プロジェクトスタディ スタディ3「Music For A Space – 東京から聴こえてくる音楽 -」

これまでの勉強会(※04)やスタディ(※05)は、直接集まって、それぞれその場に居る人の考え方を理解したり、ゲストの方々のお話を時には生い立ちまで深く丁寧に聞いたりすることで、いわばその空間をチューニングしていく作業だったように思う。もちろん、その作業はとても大事だし、これからも続けていきたいと思っているが、この原稿を書いている2020年3月31日は、直接集まってチューニングすることが許されない状況にある。

『OUR MUSIC 心技体を整える』(※06)の構想当初は、当然、新型コロナウイルスは存在しなかった。しかし、今回の社会状況に限らず、公共の中で何か(音楽に限らず)を実践していく時には、会ってゆっくりチューニングしている場合ばかりではないことが多々起きてくる。それは私が今現在、準備している「隅田川怒涛」(※07)というプロジェクトの中でも頻発していることだ。「公の場で思いっっっっきり音楽する!芸術する!」空間を隅田川のあちこちに作ることと、それがトラブルになってしまうことは表裏一体である。年々公共空間での芸術活動への風当たりは厳しくなる雰囲気を感じている。
そこで、どうしたら芸術活動を行ったりサポートをしたりしていく中で、心が安らぎ、技が磨かれ、体のバランスを保てるのか?その、ある種人間の根源的とも言える部分を、様々な専門家の方々にインタビューして提言書という形で冊子にまとめる作業を行いたいと考えた。今回、インタビューしたのは、公共空間プロデューサーの飯石藍さん、弁護士の齋藤貴弘さん、僧侶の近江正典さん、医師の稲葉俊郎さん、サウンドエンジニアのZAKさん。音と公共の関係性を考えるという広大なフィールドに立つために、この5名の専門家のあまりにも個性豊かな機知に富んだお話を、朝日出版社で「公の時代(卯城竜太・松田修、2019年)」を編集された綾女欣伸さんと、いつもお世話になっている美術ライターの杉原環樹さんとで伺って、纏める機会を得た。

稲葉俊郎さんへのインタビューの様子。
近江正典さんへのインタビューの様子。

5名へのインタビューは、どなたのお話も、その人だからこそ見える視点と経験、思考の蓄積に満ちあふれたものだった。この濃密な話をまとめ、共有可能にするにはどういったかたちがふさわしいのか。ちょうどインタビューを終えたばかりのタイミングで行った2月24日の公開編集会議では、参加者の経験談も交えて、どんなインタビューがなされたのか、どういった纏め方があり得るのかを議論した。

10名ほど集まった参加者からは「日本はアートに対してだけでなく、いろんなことに対しての許容範囲が狭いなと最近特に感じていたので、ぐさぐさ心にきました。クレームという言葉が世界で1番嫌いなんですけど、言ってくる方にもそれなりの理由があるわけで。でも企画制作する側にも強い想いがあるし。完全に気持ちを共有しあって上手くいくことなんてなかなか無いとは思いますが、まだまだ踏み込んでいける部分はあるんじゃないかなと」といった意見や、「公共事業は何も言われないことがいいこと、ということからの脱却こそがめざすべきではないでしょうか。いいものはきちんといいものだと言うことと、その評価軸、そしてそれを言いやすくさせる仕組みを作ることこそが残る価値になると思いました」、「やったもん勝ちではなく、地道に交渉を重ねて、下地を作っていく。多数決の民主主義、公共の福祉と、アートの包括性の話も興味深かった」、「対話し続けるしかないというか、人は自分の欲を満たしたい生き物だし、そんな簡単に相手は変わらないものなのだから、相手を知ろうとすることを諦めないでいないとな……と。身体のことも、音楽のことも、法のことも、行政のことも」といった感想が寄せられた。

そう、結局、対話を続けていくしかない。ひとつの正しい答えやルールがあるわけではないのだ。そして、健全な対話を続けていくためには、常に心技体を整えておく必要があるように思う。この提言書『いま「合奏」は可能か? 心技体を整えて広場にのぞむために』が、ぜひその一助になれば、嬉しい。

VINYLSOYUZ LLC / NPO法人トッピングイースト 清宮陵一


*本プログラムの内容をまとめた冊子『いま「合奏」は可能か? 心技体を整えて広場にのぞむために』pdfリンクはこちら

『いま「合奏」は可能か?心技体を整えて広場にのぞむために』

参考サイト:

01
ほくさい音楽博 アーカイヴ動画 (2019年2月10日)

02
エレクトロニコス・ファンタスティコス!とは?

03
BLOOMING EAST CINRA.net記事

04
トッピングイースト「BLOOMING EAST」 プロジェクト勉強会「OUR MUSIC」
(全4回)
2017年11月25日〜2018年3月11日
第1回 「音になってみる」
第2回 「リスナーになってみる」
第3回「公共になってみる」
第4回「OUR MUSIC」

05
東京プロジェクトスタディ「Music For A Space / 東京から聴こえてくる音楽」
(全12回)
2018年9月19日〜2019年2月24日

06
Tokyo Art Research Lab アセンブル2「OUR MUSIC 心技体を整える」
(全5回インタビュー+公開編集会議)
2020年2月7日〜2020年2月24日
*プログラムの内容をまとめた冊子『いま「合奏」は可能か?心技体を整えて広場にのぞむために』PDFはこちら

07
Tokyo Tokyo Festival スペシャル13「隅田川怒涛」

記憶・記録を紡ぐことから、いまはどう映る?―見えないものを想像するために

開催日:2020年2月19日(水)
ゲスト:佐藤洋一(都市史研究/早稲田大学社会科学総合学術院教授)瀬尾夏美(アーティスト)
モデレーター:上地里佳(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

「いまの社会で、これからの実践を立ち上げるための新たな視座を獲得する対話シリーズ」として全4回にわたってひらかれる対話の場「ディスカッション」。各回にそれぞれテーマを設け、独自の切り口や表現でさまざまな実践に取り組むゲストを迎えながら「これからの東京を考えるための回路をつくること」を試みます。
最終回となる第4回のテーマは、「見えないものを想像するために」。ゲストには、記録の少ない敗戦直後の東京の姿を探るため、米軍やアメリカ人によって撮影された写真の収集・調査を行う都市史研究者の佐藤洋一さんと、東日本大震災後、宮城県仙台市を拠点に人々の “土地の記憶”の継承に取り組むアーティスト、瀬尾夏美さんのお二人を迎えます。

「今回のテーマを設定したきっかけとなる出来事に、昨年発生した首里城の火災があります。首里城はかつての琉球王国の象徴として名高い世界遺産ですが、私の地元である沖縄県宮古島といった離島側の歴史をたどってみると、『統治する/される』という関係性があったことが見えてきます。そのことを、火災を機に改めて考えるようになり、これまで見えていた『沖縄』とは違う側面を強く意識するようになったんです。
そこから、いま見ている風景や既知の出来事について視点をずらしたり、他者の記憶やまなざしを加えたりすることで、『いま』を捉えるための新たな回路をつくることにつながるのではないか? という考えに至りました。史実からはこぼれ落ちてしまうものごとを、どのように継承しうるのか。他者のフィルターを通して風景を眺め直したとき、『いま』の捉えかたはどのように変容するのか、といった問いが生まれました」(上地)

モデレーターの上地から、今回のテーマに至るまでの経緯が語られた後、ゲストお二人の活動を共有しながら、「記憶」や「記録」の継承という行為について考えました。

東京の歴史を「写真」から紐解く:佐藤洋一

「戦後の東京はどのような都市空間だったのか?」というテーマをもとに、東京の戦後写真を収集し、調査研究を行う佐藤洋一さん。もともと都市史を専攻されていた佐藤さんは90年代から写真の収集を開始し、戦後の東京の姿を網羅できる包括的な写真アーカイブズを制作するため、活動を続けられているそうです。収集しているのは、主に米軍やアメリカ人個人によって撮影された写真。近年では約9か月間にわたって全米各地の所蔵機関を巡り、調査の旅を実施されたといいます。こうした活動の経緯には、一体どのような背景があるのでしょうか。

「僕が学生の頃はバブルの真っただ中で、東京のまちの表情やかたち、匂いすらも目まぐるしく変わっていく状況がありました。その傍ら、ずっと東京で過ごしてきた祖父母からは、戦後直後のまちに関する話を聞く機会が多くあった。彼らの記憶のよりどころとなっている場所が大きく変わっていく様子を目の当たりにしたことで、戦後の『東京』というまちの姿をあらためて捉え直してみようと思ったことが、きっかけのひとつにあります」(佐藤)

しかし、いざ調べようとしたときに、なかなか体系的な資料が見つからない状況だったという佐藤さん。調べていくうちに、アメリカに戦後日本で撮影された写真や文書、地図などの貴重な資料が多くあることを知り、アメリカでの写真収集をはじめられたといいます。

約30か所の所蔵機関を巡るアメリカでの調査旅行では、軍によって撮影された公的な写真から個人が撮影したプライベートな写真まで、150以上ものコレクションに触れ、8万カットの撮影を遂行したそう。

そこから膨大な数の写真を調査していくうちに、日本とアメリカそれぞれで撮影された写真から「アメリカから見た“Tokyo”と日本人にとっての“東京”の差異も見えてきた」と佐藤さんは話します。

「写真は、実際に『何が写っているのか』ということに加えて、その写真が撮られた背景にはどのような意図があって、どんな行動がなされていたのかという撮影者の行為の記録を読み解いていく手がかりにもなります。視点が違うと、そこに記録されているものも随分と違うことが分かる。まだ見つけられていない潜在的な史料を掘り出し、写真の背景も語れる体系的なアーカイブを公開できれば、さまざまなイメージを見つけ出すこともできるし、戦後日本のイメージがどのように形成されてきたのかを問い直すこともできる。そして私たちの自己認識や歴史認識もきっと深まるはずだと思っています」(佐藤)

想起するための「身体」をつくる:瀬尾夏美

東北を中心に土地の人々の語りと風景の継承に取り組む、アーティストの瀬尾夏美さん。東日本大震災を機に岩手県陸前高田市に移住し、現在は宮城県仙台市を拠点に絵や文章の制作、ワークショップにプロジェクト運営など、さまざまな領域で表現活動を続けています。「震災後に東北へ移り住み、たくさんの人々の語りや、震災によって変わりゆくまちの風景に出会った。それらを記録し、残していく方法はないかと考えるようになったんです」と、活動の経緯を語ります。

「継承していく、というテーマの対象において、私がとくに関心を持っているのは、人々の『語り得ない』もの。人に出会うと必ず『語り』に出合うのですが、さまざまな環境や状況、人間関係のなかで、誰もが『語りづらい』こと、まだ言葉としてあらわれてこない『語り得なさ』を抱えています。そうした、いわゆる“記録”からは取りこぼされ残されていかないもの、でもきっとそこにあったはずの想いや感情、風景の記憶を記述していきたいと考えています」(瀬尾)

そう話す瀬尾さんの活動は、語りを引き出していくために必要な「対話の場づくり」からはじまるといいます。「自分と語り手の関係性のなかで一緒に『物語』を編んでいくような作業」と説明する作品《遠い火|山の終戦》の一端が、ここで語られます。

「震災の経験と併せて、戦争体験の話もしてくださる方に出会うことが多くありました。けれど、自分はそのときの時代背景が分からない。『話を聞く』ことがままならない状態であることに気づいた。そこで実践したのが、彼らの記憶に残る現在の風景を、自分の身体で歩き直すということ。とても単純な行為ですが、その場所に実際に行き想像をめぐらせることで、少しずつ想起できるようになっていくんです」(瀬尾)

語り手と自分が共有できる、「今」と「過去」のあいだにある“仮設の道”をどのようにつくっていくかが課題だったと話します。

個人の語りの背景にある歴史を知り、風景を歩き直し、丁寧に向き合う時間をつくる。そうすることで「話を聞くことのできる身体」をつくっていったという瀬尾さん。その話に通ずるかたちで、映像作家の小森はるかさんとともに制作された《二重のまち/交代地のうたを編む》でのエピソードについても触れられました。

「この作品の発端は、復興工事で陸前高田のまちが嵩上げされ、新しいまちができたこと。土地に住む人々はかつてのまちの痕跡を失ったことで、次第にまちの思い出を語らなくなることがありました。その過去のまちと現在のまちをつなぐ手だてとなる何かをつくろうと思い、未来のまちの物語『二重のまち』を描いた。本作はその物語を、まちに滞在しながら4人の旅人に朗読してもらう、小さな”継承”のはじまりを記録した映像作品です。まちに訪れた旅人たちは、最初はただ目の前に存在する風景しか見えない。けれど、その土地の人と出会い、対話を重ねていくなかで、過去の風景を想起する準備ができていったんです。作品制作が終わり日常に戻った彼らが『まちのレイヤーを想像する身体に変わった』と話していたのが、とても印象的でした」(瀬尾)

「時間」の層を、意識する

それぞれの活動紹介を経て、ディスカッションへと移ります。まず、瀬尾さんのお話を受けて、過去−現在−未来という「時間軸」への意識について話題が挙がりました。

上地(以下、U):瀬尾さんの《二重のまち/交代地のうたを編む》は、2031年という未来の物語を通じ、旅人たちとまちの人のあいだで新たな語りや関係が生まれているのが印象的でした。この「時間軸」に対して瀬尾さんはどのような意識を持たれているのでしょうか。

瀬尾さん(以下、SE):どちらかというと私は、いま「同時代」に生きている人たちの話を聞き、残していくためにどうしていくべきかということに関心を持っています。なので、この作品も同時代的な試みとしてあるんです。被災者/非被災者という、震災に対してそれぞれ違う想いや背景を抱えた彼らが、個人と個人として出会うことができれば、より手触りのある形で互いのことを想像しようとしながら、じっくりと考える時間や語る時間が生まれるはず。いま現在の地点から、まちの「語り」と「風景」を共有していくことで、土地の人と外の人をつなげていくようなことができないか? 語りの往復のあいだに、このまちでの体験を継承できないか? と考え、同時代に生きる彼らをつなげられる道をつくるようなイメージを持っていました。

佐藤さん(以下、SA): 《二重のまち/交代地のうたを編む》は僕も拝見し、とても感動しました。基本的に自分の活動にある時間軸は、「今」と「過去」をどうつなげるかという直線的なもの。けれど、瀬尾さんの作品には、新しく生まれた「上のまち」と、かつてあった「下のまち」というレイヤーがあり、その二つのレイヤーを舞台にした未来の物語がまちの人に語られることで、時間軸が交錯し、いまの私たちを照らし出している。さらに、その物語がその場所で語られる映像を、いまの私たちが観ているという非常に多層的な構造の物語になっていますよね。記憶を継承していくためには時間の層を行き来できるような「物語」としての強度が非常に重要なんだと感じました。

いま目の前にしている対象のなかには、どのような時間が積み重ねられてきたのか。そのレイヤーを意識することが、「見えないものを想像する」「記憶や記録を紡ぐ」ためには重要なのかもしれません。そこから、さらに話が続いていきます。

U:「時間のレイヤーをまなざす」という視点を得る方法として、瀬尾さんは他者から受け取った物語の風景を自身の身体で「歩き直す」ことを通して実践されていました。同様に佐藤さんも、実際に写真が撮影された場所を訪ねて行くということをされていますよね。

SA:そうですね。写真を収集した後の調査として、それらの写真が撮影された場所にカメラを持って行き、同じ焦点距離と構図で同じように撮影する、ということも実践しています。すると、いろんな発見があるんです。たとえばこの構図で視点がこの位置であるということは、きっと石段に座って撮影したのだろうという確信ができる。撮影者の行動背景や興味関心、シチュエーションなどが見えてくるんです。撮影者の視点をなぞりながら想像を重ねていくことは、深い理解のために必要なことだと思います。

「フィクション」がもたらすもの

ディスカッションの後半では、参加者からの質問も交えながら進行していきます。ここで大きなテーマとして語られたのは、継承方法としての「フィクション」の役割について。参加者から挙がった「記憶・記録を継承していくことは、『フィクション』を通すことでしか成し得ないのか?」という質問をもとに、思考をめぐらせていきます。

U:何かを継承していくとき、そこにはいろいろな手法や幅があると思います。佐藤さんのように資料を集め、「事実」を網羅的にアーカイブすることで受け継いでいく方法もあれば、瀬尾さんのように他者の語りを自らの身体に引き寄せ、「フィクション」として別のかたちで表現することも、ひとつの継承のあり方です。お二人はその継承方法において、何か意識されていることはあるのでしょうか。

これを受け、瀬尾さんは「どんな作業でもどこかに編集を介するものなので、『フィクション』というものの境界をどこに設定するかにもよりますが…」と前置きしつつ、スライドに自身が描いた図解を映しながら解説していきます。

SE:アーカイブを残していく手法には、大きく分けて2種類の方向性があると思っています。それは、記録を「土地に返す」ことと「抽象度を上げて外に届ける」こと。前者は主に研究や資料保管として土着的に活用され、後者はいわゆるフィクションとして大衆に向かってひらかれていく。どちらもまちの資料を集め、分析推測をするという作業は同じですが、向かっていく方向や範囲が違うんです。私自身は、アーティストという立場で後者の手法を使い、「語り」や「風景」など、その土地固有にあるものの抽象度を上げることで、外部へとつなぐ回路をつくるようなことをしています。

さらに、どちらの方向も重要でありながら一長一短があると話す瀬尾さん。「土地に返しすぎると外部の人が介入しづらくもなりますが、その土地の人が記録物をまなざし続けるなかで自ずと“土地の物語”ができ、コミュニティも強くなっていくし、現物が残る可能性は高くなると思う」といい、こう続けます。

SE:一方で抽象度を上げる方法は、その真逆のことを引き起こします。土地との結びつきは弱くなるけれど、「語り」が変容しフィクショナルであるがゆえに広域に受け入れられやすい。そしてそれは、そのまち固有の物語としてではなく、別の土地の物語にもなり得る。ある出来事や記憶の“痕跡”が残りつづけていく可能性が広がっていきます。

SA:すごく分かります。その話でいうと、僕の活動は「土地を記録に返す」立場ですよね。今お話しされたとおり、土着化しすぎることで外部の人たちが触れにくくなるというのは往々にしてあることです。ときには、死蔵されてしまうこともある。そこはひとつの課題でもあります。

SE:なのでどちらかに完全に振り切るのではなく、分担しながらそのあいだの領域で協働できるような何かをつくれれば良いですよね。私にとっては、アーカイブが形成されていくあいだのプロセスが一番豊かな状況で、実は「フィクション」になるちょっと前の部分が重要なように思っています。《二重のまち/交代地のうたを編む》のプロジェクトも、外からの旅人がまちの人から話を聞き、完全には理解しきれないのだけど、そこで受け渡されたことを、もぞもぞとした心地のなかでゆっくりと自分の身体へ受け入れていく状況があった。そのあいだで起きているようなことが、フィクショナルとリアルな部分のつなぎ目として作用し、多くの人と出会える可能性を持っているような気がしました。

想像を重ねていく

さまざまな変遷を経たまちの風景、自分とは違う背景を抱えた他者の記憶。それらは、どこまでいっても「語り得ない/語り尽くせない」ものを抱え、時間の経過とともに改変されたり、忘れ去られ消えていくものでもあったりします。そうしたものを未来へと残そうとしたとき、私たちはどのようなかたちで継承していくことができるのでしょうか。
人々の「記録」や「記憶」を継承していく佐藤さん、瀬尾さんの実践はそれぞれに違う手法ではありますが、どちらにも共通しているのは、過去から現在、そして未来へと積み重ねられていく“時間のレイヤー”をまなざすこと。そして目の前の対象と丁寧に向き合い、繰り返し想像を重ねていくこと。そうしたものごとへ向かう態度が何よりも大切なのだと、お二人の対話から感じられました。見えないもの、分からないものを前提に抱えながら、その態度を持って多くの“想起の種”を掘り起こし、いま現在という地点につなげ育てていく。何かを継承していくという行為は、そんな風にさまざまなかたちで他者へと受け渡しながら、新たな物語を紡いでいくようなものなのかもしれません。

執筆:花見堂直恵
撮影:齋藤 彰英
運営:NPO法人Art Bridge Institute

Artpoint Meeting Paper Media 第2号

「人に出会う」フリーペーパー『AM/PM(エーエム・ピーエム)ーArtpoint Meeting Paper Mediaー』は、東京アートポイント計画が開催しているトークシリーズ「Artpoint Meeting」の内容をお届けする不定期刊行紙です。アートプロジェクトにまつわるさまざまな視座をもつ人と人が出会うことを目指しています。

ゆるやかに混ざり合う社会はどう生まれる?―「違い」を「出会い」に変換する

開催日:2020年2月12日(水)
ゲスト:徳永智子(筑波大学人間系教育学域助教)横堀ふみ(NPO法人DANCE BOX プログラムディレクター)
モデレーター:上地里佳(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

「いまの社会で、これからの実践を立ち上げるための新たな視座を獲得する対話シリーズ」として全4回にわたってひらかれる対話の場「ディスカッション」。2019年度は、アーツカウンシル東京プログラムオフィサーの上地里佳が企画・モデレーターを務め、「これからの東京を考えるための回路をつくること」を試みます。
第3回(令和2年2月12日)のテーマは、「『違い』を『出会い』に変換する」。ゲストは、多文化の居場所づくりの研究・実践を重ねる教育社会学者の徳永智子さん、劇場Art Theater dB神戸を拠点に多文化をかけ合わせながらパフォーマンスや企画制作に取り組むNPO法人DANCE BOX プログラムディレクターの横堀ふみさんのお二人です。

「普段すれ違う人々のなかに、いろんなルーツを持つ人がいて、私たちがアートプロジェクトを行う際にも移民の方や海外ルーツの方と協働する機会が増えてきています。そして、私の地元であり、ゆくゆくは拠点を移す予定である沖縄県宮古島でも、近年のリゾート開発が進むにつれて海外からの労働者流入が起こっています。彼(彼女)らと、どのように出会い、よりよい暮らしや価値観を育んでいくことができるのかについて関心があります」(上地)

モデレーターの上地による、ディスカッションにあたってのきっかけが語られたあと、ゲストのお二人の活動をおさらいしながら、多様な文化が同居する社会における「違い」と「出会い」について考えました。

場所や領域を越境して考える:徳永智子

筑波大学人間系教育学域の助教である徳永智子さん。「教育社会学」を専門分野に置き、移民の若者たちにとっての居場所づくりを考え、実践を重ねてこられました。ご自身の育った場所も、日本、アメリカ、インドネシアにまたがり、研究分野においても学際的に学びを深め、「場所や領域を行き来しながら」活動されています。かねてから多文化共生を考える徳永さんは、いまの日本はひとつの転換期を迎えていると言います。

「最初に、日本はすでに多文化社会です。外国人を日本に受け入れるか、受け入れないかという議論を聞くことがありますが、80年代に多くのアジアの女性たちが来日したことからはじまり、日本には多文化社会の歴史がかたちづくられています。さらに、去年の4月には改正出入国管理法が施行され、正面から外国人労働者を受け入れる体制になりました。新たな法の施行に伴い、いままさに『多文化共生』が重要になってきていると思います」(徳永)

徳永さんが大学で受け持つ「越境と日本社会」に関する授業の受講者の多くは多様なルーツを持つ学生たち。一方的に語る講義ではなく、ともに考え議論する場づくりを行い、そのなかで徳永さんが培った「多文化・多言語」との向き合い方について語ってくれた。

海外からの労働者の受け入れを拡大する法案は施行されたものの、外国人児童の教育環境整備など、生活者としてサポートするという点において、現段階では多くの課題が残っています。どういうふうに外国人との暮らしをつくっていくのか、転換期のいまこそ考えていく必要があります。

「ただ、これらの問題を考えるのは、マジョリティである日本人だけではだめなんです。日本人が外国人をどう支援するかではなく、共生の難しさも含めて、一緒に考えて実践すること、対等な目線で議論して『多文化共生』を実現していく必要があります。今日のディスカッションで私がキーワードとして考えたのは、『越境』と『出会い』。これらが、多文化における『共生』につながるのではないかと思います」(徳永)

1999年より舞台芸術制作者として「NPO法人DANCE BOX」に務め、さまざまな舞台公演をプロデュースしてきた横堀ふみさん。拠点を置く神戸市長田区は、市内でも高齢化率、空き家率が高い、課題先進地域と言われています。そして長田区のもうひとつの特徴は、その国際性。人口のおよそ1割弱が、ベトナムや韓国、フィリピンなど海外の地域をルーツとする移住者なのです。

「『DANCE BOX』が長田区で活動をはじめたばかりの頃、地域のリサーチやヒアリングをベースにプログラムを組み立てていきました。そして徐々に若いアーティストを受け入れられるような土壌をつくりながら、同時に、国際プログラムとして、アジアやアメリカ、ドイツなどからのアーティストと協働してプログラムを制作しています。ただ、あるとき、ふと気づいたことがありました。それは『国際って、海外の地域のことだけを指すの?』ということでした」(横堀)

「新長田で踊っている人に会いに行く」(NPO法人DANCE BOX、2010年)フィールドワークにて、老人ホームでの一幕。
横堀さんは、イベントの最後に、アリランや民謡が流れるなか、在日コリアンのおじいちゃんおばあちゃんが踊る姿を見て、
「こんなに美しい踊りがこの世にあるのか」と、感動したそう。

長田区には、各国の料理店・食材店、そしてコミュニティが形成され、多文化が深く根付いています。それならば、海外でなくとも長田区でこそ国際的なプログラムができるのではないかと思い直した横堀さんは、2014年から移住者や在日の方々と一緒につくるプログラムを進めることにしました。地道なリサーチやフィールドワークを積み重ねて2017年にできた舞台作品が、その名も「滲むライフ」。

「この作品は、在日コリアンが行う『チェサ』という故人を弔う儀式を舞台上で再現することと、新長田の日常のひとつの風景である『カラオケと踊りのある場』をつくる、そんな2部構成の作品でした。実際には、長い時間をかけて、在日コリアンのおじいちゃん、おばあちゃんとエクササイズして、話して、学んで、一緒に過ごして、作品をつくりあげていきました。そのときに強く実感したのは、ダンスは文化や料理を含めた、人の生活のいろんな要素と絡まり合いながら生まれてきたものなんだってこと。公演に来てくれたお客さんの様子を聞くなかで、どこか感情にふれる部分があったのかもしれません」(横堀)

対等な関係のままに話すこと

お二人の活動紹介を経て、ディスカッションの時間が続きます。横堀さんが行った「滲むライフ」の紹介を受けて、徳永さんから熱い感想が語られました。

―徳永智子(以下、T):横堀さんの話を聞いて、私も「滲むライフ」の公演の場にいたかったなと思いました。在日コリアンのおじいちゃんやおばあちゃん、その孫や、友達に連れてこられた人、たまたまそこに居合わせた人、いろんな人が同じようにパフォーマンスを共有できる場だったのだろうなと想像します。もしかして、多文化共生には関心なかったけど、来てみたらすごく感動して涙が出てきた、というような人もいたのかもしれませんよね。

―上地(以下、U):私も横堀さんと同じようにアートプロジェクトに従事する者として、地域へ根気強くアプローチする姿勢に感銘を受けました。積み重ねてきた地道なアプローチが、ちゃんと舞台に表れていますよね。この2年後に行った「多国籍カラオケ大会」でも、涙した人が多かったと聞きました。

―横堀ふみ(以下、Y):「多国籍カラオケ大会」は、私の念願の企画なんです。2014年の事業で、最初は、ベトナム人の方々と演劇をつくりたいと思って走り出したのですが、気づけばカラオケ大会になっていたという企画がありました(笑)。でもこのかたちになって良かったなと思います。ベトナムコミュニティのレストランに行くと、みんなカラオケが好きで歌っているんです。だから、「多国籍カラオケ大会」のときにも「自分の大好きな歌を歌ってください、できれば故郷の歌が聞きたいです」というお願いをしていました。なかには、故郷の歌は歌いたくない人や「日本の歌が歌いたい」という人もいましたが、それはそれでOK。あと、これまでこの地域を引っ張ってきたおっちゃんたちにも出てもらいました。そして、司会は長田区の多文化の歴史を知り尽くしているプロフェッショナルの方にお願いして、歌っている方のそれぞれの背景や、どんな思いで生活しているのか、自然に引き出してもらいました。上手い下手は関係なく、しみじみ良かったですね。染み入るものがありました。

―T:これは、すごく学びの多い事例だと思います。よくNPO団体などの多文化共生の取り組みを聞くと、外国人が消費されてしまう現実があるんです。例えば、「『多国籍カラオケ大会』やるから、外国語で歌って!」みたいなお願いをしてしまって、結局外国人が歌わされて、それを日本人が聞くという妙な上下関係の構造が生まれる。対等な関係をつくり、優劣をつくらないように気をつけていても、そのようなことが起きてしまうのです。横堀さんの話からは、そういうものを微塵も感じさせませんよね。

―Y:どんなプロジェクトでもそうですが、主催する側は力関係におけるパワーを持つ立場にありますよね。対等な関係を決して崩さないために、その前提に自覚的であることは、常に心がけています。

―U:今回伺ったプロジェクトは、演者、観客、支援者、制作者といった役割があいまいになるようなプログラムをつくっていますが、舞台美術からもそのポリシーが伝わってきました。舞台と客席が地続きになっている会場の仕立てが、それぞれの境界をゆるやかにして、対等な関係をつくる意識にもつながっているようです。

想像して、異文化へと歩み寄る

ディスカッションの後半は、参加者からの質問に答えながら進行していきます。とりわけ対話が白熱したのは、多文化共生を考えるうえで「マジョリティ」にどう開くべきか、という問題です。多様なルーツを持つ、いわゆる「マイノリティ」と言われる人たちが日本社会のマジョリティから独立して自由になりたいという思いと、保守的なマジョリティにも理解を広げるためにはお互いが歩み寄る必要がある、というジレンマがあるのです。

―T:例えば、私が主催しているマイノリティの人たちが集まっている交流の場を、外に開いてしまっていいものかと頭を悩ませることがあります。同じ文化、言語、経験を共有している人が集まるからこそ安心していられる場所があるとすると、そこにいろんな人を招き入れてしまえば、その瞬間にそこは居心地のいい場所ではなくなってしまう可能性があります。けれど、いろんな人が交流できる居場所があったほうがいいってなったとき、その線引きはすごく難しい。

―Y:私も、その線引きはすごく大事だなと思います。長田区のおばあちゃんのもとへ話を聞きに行くときは、できる限り少人数のスタッフで行くようにしました。最終的には開いたかたちのプログラムにしますが、プロセスの段階では、どこまで開くか、閉じるか、というところにはすごく気を遣います。

―T:いまひとつ思っているのは、いろんな居場所を持っていたほうがいいなということです。あるときは、同じような人が集まるインフォーマルなサポートの場。あるときは、マジョリティと呼ばれる人がいて緊張感のある場。そこは一見ネガティブなようだけど、難しい議論もできるかもしれないし、次の居場所につながるきっかけが生まれるかもしれない。これまでつくってきた交流の場をいつ開いて、閉ざせばいいのかというのは、こういった実践を行ううえで、大事な問いだと思います。

多文化共生の下地をきちんとつくるために、マジョリティと多様なルーツを持つ人との出会い方についても、試行錯誤があるようです。ただ、そのうえで徳永さんは、すでに日常のなかで私たちは「混じり合っている」とも話します。

―T:授業やプログラムよりもっと日常的な場所、例えばスーパーやコンビニ、銭湯など、日常生活のなかには多様なルーツの人と混じり合っている場所はたくさんあります。けれど、そのときは何も考えず通り過ぎていくことが多いです。コンビニで働いている人の背景まではなかなか考えないものですが、そこで一歩先の想像力を膨らませてみる。共感はできないかもしれないけど、想像して、その人に歩み寄ることがとても大事だと思います。例えば今日、これから帰る途中に「そういえばこんな人と出会っていたな」と気づくかもしれません。日常世界にもっと目を凝らせば、ヒントはそこかしこにあります。

多文化共生をもたらすもの

日本における移民や外国人労働者にまつわる情報はメディアを通じて入手できますが、いまいち実感を持って理解できていないということが往々にしてあります。徳永さんの授業の受講生は、実習のなかで定時制高校へ赴き、交流した際に「すごく可哀想な生徒だと思っていたから、あんなにポジティブで元気だと思わなかった」と驚いたそうです。そういった機会を得てはじめて「出会う」ことができるように感じますが、かねてから多文化社会である日本で、私たちは多様なルーツの人とすでに出会っているはずです。必要なのは、日常生活ですれ違う異文化の人々に気づき、想像して、「出会い直す」こと。それが多文化社会を実現するために個人ができる最初のステップなのだと教わりました。

多様なルーツを持つ人に対して「受け入れる/受け入れられる」という二項対立から抜け出し、いかに一人の人間として出会うことができるか。自らの偏見を取り払い、常に想像力を働かせながら日々の生活を送ることができたのなら、個人としての成長にもつながるのではないか。ひいては、「多文化」に限らず、同じ文化の同じ世代・異なる世代とのより良い共生にも作用するのではないかと思いました。

執筆:浅見 旬
撮影:齋藤 彰英
運営:NPO法人Art Bridge Institute

誰と暮らす? どう住まう?―これからの「家族」のカタチを考える

開催日:2020年2月5日(水)
ゲスト:首藤義敬(株式会社Happy 代表取締役)いわさわたかし(岩沢兄弟/有限会社バッタネイション 取締役)
モデレーター:上地里佳(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

「いまの社会で、これからの実践を立ち上げるための新たな視座を獲得する対話シリーズ」として全4回にわたってひらかれる対話の場「ディスカッション」。各回にそれぞれテーマを設け、独自の切り口や表現でさまざまな実践に取り組むゲストを迎えながら「これからの東京を考えるための回路をつくること」を試みます。
第2回のテーマは、「これからの『家族』のカタチを考える」。多世代型介護サービス付きシェアハウス「はっぴーの家ろっけん」など、型にはまらないユニークな場所づくりを展開する・首藤義敬さんと、空間デザインユニット「岩沢兄弟」で空間づくりを通したコミュニケーションデザイン・プランニングを行ういわさわたかしさんのお二人をゲストに迎えます。

「今回のディスカッションでは、家族に関わる試行や実践を重ねているお二人のゲストをお招きし、さまざまな“家族のカタチ”について考えていきたいと思います。お二人の活動は「家族」を閉じたかたちではなく、地域にひらこうと試みながら、関係性や場所を築いているのも特徴です。そこから、アートプロジェクトにおけるコミュニティや拠点形成のあり方とも重ねながら、お話を伺っていきたいと思います」(上地)

モデレーターの上地から、今回のテーマにあたっての想いが語られた後、それぞれの活動を共有しながら、これからの「家族」のカタチと、コミュニティ形成のあり方について、考えました。

「共存」できる環境をつくる:首藤義敬

首藤さんが運営する兵庫県神戸市の介護付き高齢者シェアハウス「はっぴーの家ろっけん」(以下、はっぴーの家)は、従来の介護施設とは違う、一風変わった形態が特徴です。看板のない6階建ての建物には約30名の高齢者が入居し、施設の1階にあるリビングスペースは入居している・していないに関わらず誰もが出入り自由。集う人たちは、認知症の高齢者から外国人、地元の子供たちにノマドワーカーまで、年齢も職種も国籍もバラバラ。入居者の親戚というわけでもなく、さまざまな背景を持った人々が1週間に約200人以上も訪れるといいます。

彼らは一体何を求めて、この場所に集うのでしょうか。「『はっぴーの家』に特別なルールはなく、集まる人たちはみんな思い思いの時間を過ごしています。誰も否定されずゆるやかに関係し合う環境下で、いろんな化学反応が起きるので、自然とみんなの『居場所』になっていくんです」と首藤さんは説明します。

「“介護付き高齢者向けシェアハウス”としていますが、社会のためや高齢者のためにこの場所をつくったわけではないんです。もともとは自分たち夫婦が子育てに対する不安を抱えている最中、祖父母の介護も重なり、家族にとって一番良い教育や介護の環境はどんな世界なのか、改めて考えるようになったことがきっかけ。そこで生じた課題を解決するための場所として『はっぴーの家』をつくりました。自分たちにとって心地良い場所をつくれば、それに共感する人もきっといるはず。自分の『エゴを社会化』したんです」(首藤)

自社のWEBや広告を一切出さず、口コミやメディア取材のみで認知されていった「はっぴーの家」。
この環境の近くで子育てをしたいと、東京から移住してきた方もいるそう。

施設ではみんながバラバラな背景を抱えているがゆえに、衝突も頻繁に起こるそう。けれど、「無理に誰かを矯正しようとするのではなく、その人がその人のまま存在でき、共存できる環境をつくることが仕事」と首藤さん。

「ここで実践しているのは、『日常の登場人物を増やす』こと。みんながゆるくつながれば、もっと生きやすくなるのでは?という思いでやっています。『遠くのシンセキより近くのタニン』という概念のもとに、たとえ他人であっても近くの人たちのコミュニティが豊かであれば、いろんな世代が暮らしやすくなるのではないかなと。限定的な家族観だけでなく、こうした選択肢を増やすためにこの場所を運営しているんです」(首藤)

「役割」が固定されない関係:いわさわたかし

空間や家具・什器から映像、コミュニケーション設計まで、地域やコミュニティに根付いた幅広いクリエイティブ制作を手がける兄弟ユニット「岩沢兄弟」 で活動するいわさわたかしさん。アーツカウンシル東京主催の「HAPPY TURN/神津島」でも、プロジェクトの活動拠点となる空間づくりを担当(詳細はこちら)。「空き家となっていた場所だったので、そこに住んでいた方の“家への想い”を想像し、『丁寧に壊す』ということを意識しながら改装を進めていった」と神津島でのプロジェクトを振り返ります。

そんないわさわさんは近年、自身の空間デザインのスキルを生かして、祖母宅の改装を手がけたそう。そこで「家族」という関係性に改めて目を向け、さまざまな想いを巡らせたと話します。

「千葉にある実家の建て替えを機に、数年前から、祖母と両親、私と妻、子供の一家で変則的な同居生活を行っています。実家を離れて20年以上経っていたこともあり、そこで自分の知らない間に両親や祖母の老いが思いのほか進んでいることに気づいたんです。定年で退職した父は一日中テレビを見ている状況で、家族間のコミュニケーションの課題について向き合う必要が出てきました」(いわさわ)

そうした課題を抱えながら生活を続けるうちに、祖母が骨折。介護が必要となり、実家から斜め向いの祖母宅に母親が住むようになってからは、テレビ漬けだった父の孤立がますます加速したといいます。そこからいわさわさんは、これまで積み重ねてきた課題を解消するためにも、祖母宅をみんなが集える場所にしようと、改装を実施しました。

改装した祖母宅の間取り。父親が孤立せずにテレビを見ることができるスペースをつくったり、壁にデジタルサイネージを設置して家族写真を流したりと、コミュニケーションを促す工夫を各所に施したそう。

「部屋の間仕切り壁をとってリビングを広くし、いろんな人が集えるように可能な限りオープンな空間にしました。キッチン・食事スペースのそばに祖母の介護ベッドを置き、父のテレビ空間も同居させたことで、場所のあり方が多様になった。すると、祖母が自分の意思で積極的に動き、自由な振る舞いをするようになったんです。家族間でも『役割はあるけれど、固定されない』という柔軟な関係ができ、居心地良く過ごせるようになった気がします。そうした環境を保てるように、日々意識していますね」(いわさわ)

改装後の生活では、家にお客さんを呼んで一緒に食事をとることも多くあるそうで、家族以外の人とも交流が生まれる状況を、ゆるやかに展開しているといいます。

「けれど、父の孤立はまだ解消されず……その膜をゆっくりとはがしていくような日々ですね。次は家のなかに子供向けの美術教室などを設けて、父が子供たちとの関わりに自然に巻き込まれるような状況をつくろうと構想中です」(いわさわ)

「家族」のなかに、他者を介入させる

それぞれの活動紹介を経て、ディスカッションへと移ります。まず、上地が話題に挙げたのは、“さまざまな人が集える場”というお二人の空間設定における特徴から、「『家族』という構成に他者を介入させる」ことについて。そこには、どのような狙いがあったのでしょうか。

―いわさわさん(以下、I):そもそもは父親の孤立を防ぐため、というのが大前提にありますが、一方で自分への負荷を軽くしたい、という想いからそうした状況を生み出すようにしています。というのも、家族のこととなると、自分のなかで重く捉えないようにしても常にどこか引っかかるものがあり、語りづらくもなる。けれど、家のなかに家族以外の他者も関われるようなひらかれた環境があると、少しずつ視点を広げられるんです。そこから見えてくるものもあるんじゃないかなと。

―首藤さん(以下、S):僕たち家族も「はっぴーの家」でいろんな人との交流が増えたことは、とても良かったです。僕も奥さんも自営業なので、子供と接する時間を多くは捻出できない。けれど、この家に集まる人たちと一緒に食事をしたり、遊びに行ったりと、いつのまにか自分の知らないところで子供の交友関係が広がっていたんです。自分たちだけで子育てを背負わなくても良いんだと思えて、楽になりました。

個人的な「家族」だったものが、他者を介入させることでかたちを変え、ひらかれた関係性になっていく。外に小さな関係をいくつも編み出せる環境が心を軽くしたと、お二人は話します。そうした話を受け、モデレーターの上地からはこんな意見も語られました。

―上地(以下、U):「家族」という関係性のなかでは、お互いにとって大切なことをどこか共有しづらい状態があるような気がします。私自身も、普段の自分が抱えている価値観のまま家族と話をするのは、難しく感じてしまう。そういうときにも“他者を介在させる”ことによって、解決できることがあるように思いました。

首藤さんは、そういった家族間におけるコミュニケーションの不自由さを「お互い過ごした時間が一番濃密な記憶のなかで、そのまま時間や関係が止まっているから」だと説明し、こう続けます。

―S:たとえば認知症の母親を介護する子供は、いま現在の自分が母親の世話をしている感覚になるけれど、母親にとってはいつまでも自分の子供だという認識なんです。だから、コミュニケーションが噛み合わないことも出てくる。感情と背景がぶつかって、冷静になれないこともあります。その意味で、僕は「家族」が一番難しい関係性だといつも感じているんです。

「余白」がもたらすもの

ディスカッションの後半は、参加者からの質問をもとに進行。「『場所』や『空間』を立ち上げるときに、大切にしていることは?」という質問を受け、「コミュニティづくり」に対するお二人の認識について意見が交わされます。

―I:こうした話をする際、よく「コミュニティデザイン」という言葉で語られることが多くありますが、僕のなかでは「場」も「コミュニティ」も、それ自体を自分たちがデザインできるとは考えていなくて。もっと、その手前にある課題を表出させ、共有することにデザインの役割があると思っています。その先のことは私たちでなく、みんながつくっていけるように橋渡しができれば良い。その一歩手前の部分を整えることを大事にしています。

―S:すごく共感します。僕にとって「コミュニティ」は“現象”なので、最終的な結果でしかない。よく若者から「コミュニティをつくりたい!」と相談を受けることがありますが、最初から「コミュニティづくり」が目的にあってもダメなんです。そうではなく、その前段階にある、“価値”のデザインをすることが大切。訪れた人たちが、その場所に価値を感じて集うようになれば、「コミュニティ」は勝手にできていく。とてもシンプルな仕組みなんです。

場所そのものの価値を育てていくのは、あくまでもそこに集う人々。その前段のところでいかに丁寧に課題を探り、集いたくなる魅力を注げるかが重要だといいます。そしてその魅力は、役割を固定しない「余白」から生まれるものだと、お二人は続けます。

―I:場所に決まった役割や枠組みをつくってしまうと、「こうあるべき」という理想や正しさが押し付けられるような価値観が持ち込まれてしまうんです。そこに縛られすぎると不自由になる。だから、意味や役割を固定しない、ということは意識しています。

―U:岩沢兄弟が手がけられた「HAPPY TURN/神津島」のプロジェクトも、最初から何をする場所なのか定めないまま拠点づくりが進められていましたよね。けれど、そのように役割を定めなかったからこそ、多彩な場の使われ方が展開され、魅力ある場所が生まれています。

―S:「はっぴーの家」が看板を掲げていないのも、100人いたら100通りの使い方をしてもらえれば良いと思っているから。訪れる人たちも、肩書や役割を気にせず「お互いがお互いにどうでもいい」というゆるい関係が心地良いそう。いわさわさんの家族のエピソードでも語られた「役割はあるけど固定しない」という表現は、場所にも人にも通ずるキーワードで、まさに真理だなと思いました。

枠組みをとかしていく

「家族」について考えるとき、そこには老いや介護、育児や住まいなど、さまざまな課題がついてまわります。さらに社会の状況や生活環境も変化していくなかで、私たちはそれらの課題とどのように向き合い、どんな視点のもと、「家族」との関係を見つめることができるのでしょうか。
首藤さん、いわさわさんの実践を紐解いていくと、家族やコミュニティ、場所などに対するアプローチは、いずれも「他者を介入させる」「固定しない」といった、ある枠組みをゆるやかにほどき、溶かしていくような方法にたどりつきます。そうすることで、これまで抱えていた課題が自分だけの固有のものではなくなり、他者に共有され外にひらかれていく。縛られていた枠組みから解かれて、自由に振る舞うことができる。「こうあるべき」「こうでないといけない」と規定するのではなく、大切なのはそのとき、その状況に合わせて一番心地良い関係にかたちを変えていくこと。そうした視点を得ることで、「家族」という関係はいつでも更新しつづけることができるものなのかもしれません。今回のディスカッションで生まれた対話から、そんな可能性を感じることができる時間となりました。

執筆:花見堂直恵
撮影:齋藤 彰英
運営:NPO法人Art Bridge Institute

どこまでが「公」? どこまでが「私」?―まちを使い、楽しむ暮らしをつくる

開催日:2020年1月29日(水)
ゲスト:mi-ri meter(アーティスト/建築家)阿部航太(デザイナー/文化人類学専攻)
モデレーター:上地里佳(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

「いまの社会で、これからの実践を立ち上げるための新たな視座を獲得する対話シリーズ」として全4回にわたってひらかれる対話の場「ディスカッション」。2019年度は、アーツカウンシル東京プログラムオフィサーの上地里佳が企画・モデレーターを務め、「これからの東京を考えるための回路をつくること」を試みます。
第1回(令和2年1月29日)のテーマは、「まちを使い、楽しむ暮らしをつくる」。公共空間に関わるプロジェクトを多く手がけるユニット・mi-ri meterと、文化人類学的なアプローチを持ちながら多岐にわたるデザインワークを行う阿部航太さんの2組をゲストに迎えます。

「私たちTARLで扱っているアートプロジェクトはまちなかで実施することが多くあるのですが、なかには“公共性”の問題や課題について考えさせられる場面に出くわし、立ち止まることがあります。そういったときに物事をどう整理すればいいのかという問いが、このディスカッションを開催するきっかけになりました。
 もうひとつ、個人的なことなのですが、私は沖縄・宮古島の出身で将来的には故郷に帰ってアートプロジェクトを立ち上げたいと思っています。そのとき、どのように自分の暮らしをつくって、まちと関わっていけばいいのか迷っています。今日は、その2つについて、一緒に考えていきたいです」(上地)

モデレーターの上地による、このディスカッションにあたっての想いが語られた後、ゲストがお互いにこれまでの活動を紹介しながら、それぞれの知見から「公」と「私」の関係性、そして役割について考えました。

建築から都市をみる:mi-ri meter

mi-ri meterが活動をスタートしたのは、2000年。日本大学芸術学部で建築を専攻していた宮口明子さん(左)、笠置秀紀さん(右)は、在学中から行っていた公共空間に関わるプロジェクトを続けるため、卒業後に2人でmi-ri meterを立ち上げました。

「mi-ri meterは建築設計を基本業務にしながら、それだけにこだわらない活動をしてきました。都市にまつわるセルフプロジェクトを発足したり、地域アートに関わったり、ときにはアートユニットとして芸術祭に招致されることもあります」(笠置)

2000年から、40に及ぶプロジェクトを発足した。

ジベタリアン、屋外電源コンセント、グラフィティ、酒屋のコンテナ、渋谷の花壇……都市で過ごすなかで気付いた違和感や兆候に反応して、プロジェクトを立ち上げることが多いmi-ri meter。20年間の活動を振り返ると、「さまざまなタイプのプロジェクトが大量にあるので、一見何をやっているかわからない(笑)」と話しつつも、綿密なリサーチとフィールドワーク、そして『建築から都市をみる』という視点はすべての活動に共通しています。

「建築やアートのような小さい視点から都市を見て、公共空間を個人に取り戻す、ボトムアップでまちを取り戻すということは世界各国でも同時多発的に行われてきました。一方で数年前からは都市計画の分野でも『タクティカル・アーバニズム』や『プレイスメイキング』という言葉で、小さいことからまちを変えていく動きが活発化しています。私たちもそういった潮流の中で、これまでの知見を社会に実装するために2014年から『小さな都市計画』という法人をつくりました」(笠置)

空間に作用するビジュアル、サインとグラフィティ:阿部航太

2009年から2018年にわたってデザイン事務所で働き、サインデザインの設計・制作に従事していた阿部航太さん。デザイン事務所を退職後、1年間南米に赴き、そのうちの半年間はブラジルに滞在し、現地のグラフィティ・カルチャーを追いかけたそうです。

「僕は、昔から空間とビジュアルの関係に興味がありました。デザイン事務所で働いていたのも、ブラジルのグラフィティ・カルチャーに惹かれたのも、それがきっかけにあります。そもそも日本のグラフィティをあまり意識したことはなかったので、こんなにもまちに溶け込んでいるブラジルの路上を見て、『そもそもなんでグラフィティって悪いんだろう、「まち」は誰のものなんだろう』と考えるようになりました」(阿部)

ブラジルの4都市を巡り、5人のグラフィティライターに取材・撮影を行った映像作品「グラフィテイロス」

ブラジルの公用語であるポルトガル語では「グラフィテイロ」と呼ぶように、日本の「グラフィティ」とは社会のなかでの立ち位置も異なるといいます。阿部さんはブラジル滞在中に現地のグラフィティライターを取材・撮影し、およそ70分の映像作品を制作。この日は20分に再編集したものを上映しました。そのなかでグラフィティライターたちは、自らの活動について自分の言葉で語ります。

「映像のなかで『雨や風、自然のものと同じように、ストリートは人のものではない』という話がありました。『誰のものか?』というものへの模範解答としては『みんなのもの』という意見が出がちですが、その問答は何も答えていないに等しい。この人の場合は、『ストリートは、ストリートのものなんだ』と言い切り、僕はなぜか腑に落ちました。それは、今回のテーマの『公』や『私』という話につながるのではないかと思います」(阿部)

「商」と「公」の対立構造?

2組の活動紹介を経て、いよいよディスカッションへ。阿部さんによる、ブラジルのグラフィティライターたちのドキュメンタリー映像から、「グラフィティ」をキーワードに話が展開されていきます。

―mi-ri meter笠置さん(以下、K ):映像の途中、ひとりのグラフィティライターが街路樹の実をとって、阿部さんと分け合って食べるシーンが印象的でした。そこで思い出したのが「自然享受権」という権利です。北欧には、自然に生えているものは採って食べていいし、誰かの所有の森であっても泊まってもいいという、自然を享受する権利があるんです。そこから「都市享受権」というのを空想しながら見ていました。そうしたら、壁の見え方も変わるのかもしれないなと。

―阿部さん(以下、A):確かに、享受という意識は彼らにもあります。ブラジルのグラフィティライターへ取材するなかで「グラフィティはいちばん民主的なアートだ」という言葉を聞きました。市民間の格差が大きく、美術館に行くことが難しい人々も多くいるブラジルでは、グラフィティは無償で享受できるアートでもあります。

―上地(以下、U):mi-ri meterは活動のひとつに「JGRF Graffiti in Japan」という、都内を中心にグラフィティの写真を集めて公開するサイトの運営もしています。

―mi-ri meter宮口さん(以下、M):そうなんです。mi-ri meterを立ち上げて間もない頃、都市を家に見立てて居心地の良い場所を探していたとき、気になる場所の多くにグラフィティを見つけました。その頃からグラフィティに注目するようになり、立ち上げたプロジェクトです。印象深いのは、当時QPという家のようなマークを用いた作風のライターを行く先々で見つけたのですが、後から知るところによれば、彼も都市のなかでも居心地の良い場所にボミング(落書き)していたといいます。つまり、都市に対して私たちと同じように感じているのだなと。

「家」という個人的なスケールに置き換えて都市を見つめ直した結果、そこにはグラフィティライターたちの仕事が先にあった。この話を受けて、阿部さんは、グラフィティという行為はまちを自分たちのものに取り戻すアクションになっていると語ります。というのも、ブラジルでは廃墟が乱立する危険なエリアにグラフィティが描かれることで、おしゃれなスポットとして認識されるような現象が起きているそう。グラフィティという極めて「私」的な活動が、「公」に大きな影響を与えているといいます。

―A:このディスカッションには、「公」と「私」というキーワードがありますが、僕自身はその間に対立構造はないと思います。むしろ商業、「公」と「商」のかみ合わせの悪さを日々感じています。いま都心部で展開されている都市計画のなかには、必ず商業施設がありますが、それが公共性を阻害しているんじゃないかなと思うんです。

―M:確かに、商業がはびこっているとまちがあまりにも管理されて余地がないです。グラフィティをイリーガルに行うのは行き過ぎかもしれませんが、個人が「勝手に」何らかの活動を行うのは本来当然で、あるべき姿だと思います。

都市が綻びはじめるとき

まちに住む人々が、自分で考えて「勝手に」まちを組み替えて、居心地良く住むこと。阿部さんは、クリエイターすら介在せずに、「公」や行政などの機関が、その大本の環境づくりを担うことを期待しているといいます。

―A:ブラジルでグラフィティが盛んな要因のひとつに、条例規制で屋外広告がほぼなくなったという背景があります。広告がなくなった代わりに、依頼主のもとグラフィティライターが合法的に描く、大型の「プロジェクト」が出てきた。制度や「公」の土台づくりをきっかけに、まちに新しいアクションが起きて、それぞれを認め合っていくという流れがすごく重要な気がしています。

―K:最初から最後まで「公」の管理下ではなく、環境や土台のところに注力した、一歩引いた施策があるといいですよね。

―U:「公」が、何かアクションを起こすためにあってほしい、というのにはすごく共感します。私たちがアートプロジェクトで大事にしているのは、違う文化や価値観に出合う機会をいかにひらいて いけるかという点です。けれど公的な機関と関わる以上、「これは不快感を覚える人がいる可能性があるからNG」というようなジャッジが付きまといます。どうしたらもう少し間口を広げられるか、常に突きつけられている課題です。

ディスカッションも終盤、グラフィティを発端にした「公」と「私」の話を受け、参加者から質問とともに自身の素敵なエピソードが語られました。

―会場からの質問:場所は、本来の目的性を失うと「公」に寄るのでしょうか。かつて電話ボックスがあったところに公衆電話の台だけが残っている場所を知っているのですが、この前、その台を使って子供 のおむつを替えている人を見かけて、すごくいいなと思ったんです。

―K:場所の読み替えができていますよね。場所に対して、凝り固まった考えがない。住宅にも「リビング」「ダイニング」とありますけど、使い方はそれだけじゃない。時として、市民、ユーザーは、ワイルドに場所を読み替えて活用しています。

―U:「場所の読み替え」というのは、大事なキーワードですね。与えられたものをそのままに受け入れるのではなくて、自分で読み替えながら活用するスキルやリテラシーを養うことが、「公」に縛られずに暮らしやまちを心地よく過ごすためのキーワードなのかなと思いました。

―A:「公」に縛られるのではなく、「公」を自らつくっていかないといけないですよね。電話ボックスの跡地でおむつを替えるのも、「公」をつくっていく行動のひとつだと思います。

―K:都市が綻びはじめたときが、いちばん楽しいと思うんです。電話ボックスを取り除いて、昔だったら台まで撤去されるはずのところが、恐らく費用の問題で取り残された結果、おもしろい動きが生まれる。阿部さんの映像にあった、ブラジルのグラフィティが溢れている路地裏の空間は、決して金銭的には豊かではない地域のなかの綻びのような場所だけれど、本来の意味でとても豊かな気がします。

うねる、「公」と「私」

私たちが、まちのなかでより居心地よく過ごすためには、何を心がければいいのでしょうか。
mi-ri meter、阿部さんの両者は、社会実験やワークショップ、まちづくりを通じて、「私」に対してまちを読み解くたくましい視点と活動性を身につけることを促しています。一方で、「公」による「私」を活性化するような施策が公布されれば、新しい局面がひらかれる ことを期待できるかもしれません。
ブラジルで起こっている事例でいえば、「公」による施策がまちにグラフィティを増やすきっかけになり、その結果、グラフィティという「私」的な営みが、まちの綻びともいえるようなエリアをポジティブな場所へ転回することになりました。
このディスカッションを経て、「公」と「私」は相互関係にあり、うねり、日々影響し合っていることが浮かび上がってきました。 ときに「商」という強力な要素が影を落とすことがあっても、「私」という小さな波紋が積み重なり、大きな波になり、また都市を循環していくのでしょう。上地から冒頭で問いかけられた、「まちのなかで自分の暮らしをつくり、関わっていく方法」、そのひとつとして場所を読み替え、「公」をつくる、能動的な態度が必要なのだとあらためて気付かされました。

執筆:浅見 旬
撮影:齋藤 彰英
運営:NPO法人Art Bridge Institute

FIELD RECORDING vol.04 特集:出来事を重ねる

『東北の風景をきく FIELD RECORDING』は、変わりゆく震災後の東北のいまと、表現の生態系を定点観測するジャーナルです。

東日本大震災を経験し、だんだんとほかの土地の厄災の経験に気がつくようになりました。同じような課題を見出し、取り組む手法への共感をもつ。そうして双方が学び合うように導き出させる視点は、まだ厄災を経験していない人々にとっても意義があるかもしれない。そして、時間が経つことで遠くなってしまう震災の経験を、遠くの人々と共有するための糸口になる可能性もあるのではないでしょうか。

vol.04の特集「出来事を重ねる」では、東北のいまに、ほかの厄災を重ねてみました。

もくじ

はじめに

Prologue
八巻寿文さんにきく[後編] 言葉/自然

Dialogue
秘密の置き場所 高森順子×瀬尾夏美

Coversation
白地の持つ豊かさに気づく 気仙沼 リアス・アーク美術館に山内宏泰さんを訪ねる 山本唯人

途中の風景、その続き 松本 篤

厄災からの表現
チリのアルピジェラ/山川冬樹 ≪歩みきたりて≫
2010年代の『原爆の図』と記憶の伝播 岡村幸宣

わたしの東北の風景
編集後記 佐藤李青
参加者一覧