どういう態度で、現場に立つのか?

災禍の現場に立つには、いったい、どんな態度や技術、方法がありうるのか? 災害復興の現場に多様なかかわりかたをしてきたゲストに話を伺うディスカッションシリーズの第2回は、阪神・淡路大震災以降、25年以上に亘り国内外の被災地支援を行っているCODE海外災害援助市民センター事務局長の吉椿雅道さんをゲストにお迎えし、支援者の現場での態度や活動のあり方について伺いました。
このレポートでは、前半の吉椿さんのレクチャー(聞き手:宮本匠)、後半のナビゲーター3人(宮本、佐藤李青高森順子)や参加者のみなさんを交えての議論のエッセンスをまとめました。

ゲストの吉椿雅道さん(右下)、ナビゲーター(聞き手)の宮本(右上)。

ゲストレクチャー:
厳しい状況にある人たちに学ぶ(吉椿雅道)

今日は、これまで出会ってきた人や、具体的な出来事を織り交ぜながら、僕がどのように災害支援を行っているかをお伝えしたい。

福岡出身の僕は、友人がいた神戸に震災が起きたことがきっかけで、災害支援の道に進むことになった。「顔の見えるつながりが最大の防災」といわれているが、あのときもし、神戸に友人がいなかったら、今僕はこの仕事をしていないかもしれない。国内で特にやっていたのは、足湯ボランティア。これは、26年経過した今も、学生さんたちが被災地で実践している。

これまで国内外で被災地の支援活動をしてきた。CODE海外災害援助市民センターは、被災地神戸が受けてきた支援のお返しをしようと、これまで35の国と地域で、63回の救援活動を行ってきた。CODEは「困った時はお互い様」、「支え合い」、「学び合い」、「最後のひとりまで」を理念として掲げている。災害支援は大きくわけて2つの支援がある。災害直後の衣食住を支える緊急支援と、その後の住環境や生業を支える復興支援。そのうち、CODEは後者を担っている。CODEが現場で大切にしていることは、(1)被災者一人ひとりの声を聴き、支援にいかす、(2)その地域の文化、習慣、宗教を尊重し、それを活かした支援を考える、(3)被災地の人たちと共に学び合う、(4)被災地の力(内発性)を育み、自立への道を共に歩むということだ。

僕が支援活動をしているなかでいつも思うのは、支援を通じてその地域の防災や減災のあり方を考え直さなければならなくなるが、その種はそこで住む人々の暮らしのなかにあるということだ。その地域の文化や習慣が、そのまま防災、減災、復興に活きる。最近は頻繁に災害が起き、人々は日々打ちのめされているが、先人はそれをどう乗り越えてきたのかを考える。そこで大切になるのは、小手先の技ではなく、本質的にどのように自然と折り合いをつけるかということだ。土着知(local knowledge)に支援の種がある。それを僕らは被災地の人たちと共に見つけて育てることが大事で、それは他所から持ってくるものではない。

「災間」の社会とはなにか。佐賀県は2年前に豪雨災害が起き、今、全く同じ地域で同じように被害が起きたが、災害はもう非日常ではない。災害は日常として考えなければならない。「災害」というと、自然災害がイメージされるが、途上国はそれ以前に貧困、飢餓という災厄を抱えている。途上国に行くと、災害が日常にあることをまざまざと知ることになる。ただ、彼らはそれをたくましく、いなして、付き合っている。また、先住民族や少数民族は、文化や言語の消滅やジェノサイドなどの危機がつねにある。彼らはそれを包み込みながら暮らしている。そこに学ぶべきところがある。僕たちは、被災地での気づきから、災間に今一度、人と人、人と自然の関係を結び直さなければならないと考えている。

これまで出会った人たち

2005年パキスタン北東地震:バラコットという壊滅的な被害を受けた町での出会い。僕らは大きなNGOではないので、旗を立ててトラックで支援物資を持ち込むということはしない。一人か二人で現地に入る。現地の男性は僕の容姿で外国人だとわかると「どこから来たのか」と声をかけてきた。「支援者で日本のNGOだ」というと、「それなら何かくれ」と言われた。「あげるものはないが、話をきかせてくれ」というと、「そんなんだったら帰れ」と言われた。無理もないことだが、ショックを受けた。そこから懲りずに毎日彼のもとに行くと、最後には「こんなに話をきいてくれたのはお前だけだ」と言ってくれた。しつこく一人にかかわること、通い続けることで、その人の置かれている状況が少しずつ見えてきて、関係を結ぶ事ができる。

2007年能登半島地震:若かりし(ナビゲーターの)宮本さんと共に活動した足湯ボランティアでの出会い。仮設住宅で学生さんたちと足湯をしていると、体格のいい男性がやってきた。女子学生が彼に足湯をしたが、一言もしゃべらなかった。たかだか10分程度の時間だが、ボランティアたちは沈黙に耐えられずに、つい質問攻めにしてしまう。女子学生は質問するがも返事がなく、落ち込んでいた。ただ、翌日も彼はやってきたが、一言も発せずに帰っていく。そして、三日目に初めて彼はやっと話をしてくれた。彼は漁師をなりわいとしていると、後に教えてくれた。ひとそれぞれに話しはじめるまでに必要な時間がある。「待つ」ことは難しいが、焦ってはいけない。

2008年中国・四川大震災その1:村で医師をしている彭(ほう)さん。従軍の経験があり、激しい反日感情を持ち、最初は僕たちを相手にしてくれなかった。ある一人のボランティアとの出会いで、彼は少しずつ心を開いていった。「毎日どろどろになって日焼けして帰っていく日本人ボランティアたちをみて、これが本当の日本人かと気づいた」と言ってくれた。僕たちはついつい、偏見の目で見てしまうことがあるが、目の前の人とちゃんと出会うことが大切なのだと思う。

彭さんの心を開いてくれたのは、Iさんという日本人ボランティアだった。彼はこの震災で、中国人の彼女を亡くしていた。Iさんはボランティアで被災者にかかわるなかで、少しずつ元気を取り戻していった。彭さんもIさんも、お互いに支え支えられる関係になっていった。

数年後、宮本さんがヒアリングをおこなった際に、彭さんに「一番印象に残っていることはなにか」と聞いた。彼は「2008年に長崎の学生たちと棒遊びしたこと」だと言った。それなの? と僕はびっくりしたが、彼の言葉から、大きな支援をしたかどうかが重要なことではないと気づいた。なにげないことの積み重ねが、その人を支えているのだと思った。

2008年中国・四川大震災その2:1000回以上通う村で出会った謝さん。CODEがやろうとしているプロジェクトが、政府の圧力ですべてだめになった。落ち込んでいる僕を見て、「あなたが努力したのはわかっている。あなたがただ来てくれるだけでいいんだよ」と言ってくれた。とてもほっとした。支援者としての役割を果たすことが重要だと思っていたが、このような固有名で付き合える関係になれたことが嬉しかった。

2010年青海地震(中国・チベット高原):草原にできた難民キャンプでの出会い。キャンプにはスーパー、カラオケ屋、食堂ができて、仮のまちのようだった。被災によって住まいは仮のものになるが、阪神・淡路大震災後に言われていた「暮らしに仮ない」という意味を改めて知った。チベット仏教徒が多いこの地域で最初にやったことは仮設のお寺の再建。お寺のなかでは、諸行無常を表す砂曼荼羅がつくられた。通常は、完成したらすぐに壊されるが、このときばかりはすぐに壊さずに被災者たちに見せるよう展示した。被災者たちは涙を流し、それを心の拠り所にしていた。物資を渡しても、すべてお寺に寄進するおばあちゃんもいた。カルチャーショックを受けたが、それだけ心の拠り所が大切なのだと知った。

2011年東日本大震災その1:地震の翌日、宮城県名取市の避難所で出会った女性。避難所となった学校の各教室には行方不明の張り紙がたくさん貼り出されていた。ある日、空き教室で一人の女性がうなだれている姿を見かけた。彼女に声をかけると、顔も見ずに「大丈夫です」と言った。ドタバタした避難所の中では、ちゃんと泣いたり、悲しんだりする喪の時間を持つことができないんだとその時気づいた。彼女は悲しみの時間をそっと持とうとしていた。避難所の運営を支援することがあるが、こういう時間や場所が必要であることも理解しておくことが大切だと思う。

2011年東日本大震災その2:陸前高田で出会った女性。たった一度、10分足湯をした。「また来ますね」と挨拶をして、それから一度も伺うことはできなかった。別のスタッフが後日、彼女にあったとき、「あのときのお兄ちゃんは今度いつ来てくれるんかな」と言っていたという。すごくショックを受けた。僕にとっては数多く出会った被災者の一人。彼女にとっては大事な思い出だった。この女性は息子を津波で亡くしていて、僕が息子に似ていたのだと、後から知った。ビクトール・E・フランクルが著書『夜と霧』で「あなたを必要としてくれている誰かがいるはず。あなたを必要としている何かがあるはず。このつながりを意識した人は決して自らの命を断つことはない」と記したことを思い出す。その人にとって、その出会いがかけがえのないものであったことから一つ一つの出会いを大切にしなくてはいけないと改めて思った。

「聴く」という実践と、「めざす」と「すごす」かかわり

僕たちは現場で聞いたことをかぎ括弧書きにして、その人が語ったような形でレポートで発信している。一人ひとりの語る「つぶやき」から被災者の心の内を想い、その意味を考える。ひとりの声をきくことへのこだわりは、目の前の一人から、その人生や暮らし、地域が見えてくる。ひとりの声から問いを立てて、考える。それが復興の道筋になると思っている。哲学者の鷲田清一の言葉「聴くというのは、何もしないで耳を傾けるという単純に受動的な行為なのではない。語る側からすれば、ことばを受け止めてもらったという、確かな出来事である」(『聴くことの力』)が腑に落ちている。

宮本さんが発展させているかかわりの概念「めざす」、「すごす」は、とても理解できる。支援者は「めざす」かかわりをやりがち。ただ、「めざす」かかわりは、相手に変わってもらうことを前提にしているため、本当に打ちのめされている人にはともすれば暴力のように変容を強いてしまう。一見無駄のようにも思える、変わらなさを前提にした「すごす」かかわりとしての足湯ボランティアやお茶飲みの付き合いが大事だったと後から気付かされる。共に「すごす」時間や空間があったからこそ、一歩踏み出して「じゃあなにかやりましょうか」と、「めざす」かかわりをつくることができる。

中国四川省にて(2008年)。

自然と折り合いをつける智恵

国内外には、災害とともにある暮らしから生まれた智恵がある。国内では、雲仙普賢岳の100年の森づくりや、伊勢湾台風が襲った三重県北部の水防共同体「輪中」など、枚挙にいとまがない。海外にも、災害との付き合い方で私たちが忘れていたことを思い出させてくれるような智恵がある。

バングラデッシュは、水害が日常にある。彼らは洪水を、「ボンナ」という被害を及ぼすものと、「ボルシャ」という水と栄養分をもたらす恩恵とにわけて捉えている。水が溢れることはすべて悪いこととは考えていない。それは、メコン川での雨季乾季の水位差を利用したエコサイクルを農業とも通じるところがある。日本でも、棚田という農業形式は、地滑りを防ぐ役割をはたしつつ、地滑りが起きる度に土が耕され土壌が豊かになるといわれているが、これも自然との付き合い方の一つである。

少数民族との出会いは、自然や文化を改めて考えるきっかけになった。文化を考えるとき、シャン文化圏のことを思う。シャン文化圏とは、中国、ラオス、ミャンマー、タイ、ベトナムの5カ国にまたがって暮らしているシャン族系の文化圏のこと。僕は国境と言われると、強固な壁や柵があるイメージがある。僕が何度か訪れたこのあたりの地域では、しならせた一本の竹のみが国境ゲートで、少年兵が一人立っているのみ。少数民族の人たちは、そこを行ったり来たりしていて、そこで暮らす人たちにはあとから線引きした国境という概念はあまり関係ない。実は国境とはそんなものなのかもしれない。

雲南省寧浪県の標高2700mにある濾沽湖(四川省との境)付近に住むモソ人は、少数民族には認定されていない。モソ人は母系社会で、家長が女性であり、すべての決定権は女性にある。私たちはついつい、女性を災害弱者として見てしまう。ただ、モソ人の文化を知ると、女性はただ弱い存在ではないということや、文化が違えば別の見方があることがわかる。

タイ北部・西部から、ミャンマー東部・南部にかけて居住するカレン族は、その家に死者が出ると、家を建て替える。私たちとは違い、家に対する執着が軽やか。カレン族の人たちを含め、少数民族の多くは、争いから逃れて山岳地帯に住んだという変遷を辿っている。彼らは非常におだやかで、災難を前にすると、戦わずにじっと過ぎ去るのを待つ。カレンのことわざ「危機にはバナナの木の茂みに集まれ」は彼らの態度を象徴的に表している。僕が大変お世話になったカレン族の長老で、ジョニ・オドチャオという人物がいる。彼は、伐採の危機にある森を、その一つ一つの木に人格をあたえ、森の得度式を行うことで5000万本の木を守った。彼らはもともと、子どもが生まれると、その臍の緒を木に縛り、一つの木と一生の関係を結ぶ習慣がある。それが「得度式」につながった。彼らは森とともに生きてきたが、1920年代にはケシ栽培によるアヘン中毒、1940年代には天然痘の流行、1970年代には近代農業の発展による若者の流出、2010年代には遺伝子組み換え作物の導入にともなう環境汚染と、激動の時代を生きてきた。危機は今も続いているが、ジョニたちは今も、伝統循環農法などを駆使して何度も危機をなんとか乗り越え、新たな道を模索してきている。

先住民族や少数民族、途上国の人々との出会いや支援活動を通じて痛感するのは、僕たちは救っているのではなく、実は僕たちが救われている、彼らの生き方や自然との付き合い方に教えられているということだ。発想の転換を私たちに迫ってくる。危機のときにこそ、物事の本質に気づき、次のチャンスを見出している。そうやって災間を生きている。彼らが本質に気づくことができる大きな力となっているのは、物語(伝説や神話)を持っていて、それを信頼しているということだ。そこに共感して、アイデンティティを紡いでいる。物語の力が弱くなっている日本の私たちは、彼らから学ぶことは多いはずだ。

自然との折り合いのつけ方と、物語について

宮本:吉椿さんの話で印象的だったのは、小手先ではない、自然との折り合いのつけ方を私たちはどう考えるか、ということです。吉椿さんは、現地を見ること、現地できくことで、自然との折り合いのつけ方を理解して、そこで得られた理解を土台にして支援をされている。そこで思うのは、今私たちが渦中にある新型コロナウイルス感染症の感染拡大についてです。世界中がコロナ禍で大変ななかで、現在、それに応じる対策は大きく分けて二つあると思います。一つは、ウィズコロナ。コロナと共生していくんだというあり方です。日本でも去年春ぐらいから言われだしましたよね。もう一つは、ゼロコロナ。先日も一人の感染者が出たことを受けてロックダウンしたニュージーランドが話題ですが、とにかくコロナウイルスを排除する、国に入れないというやり方です。エリミネーションストラテジー(Elimination strategy)ともいわれています。日本は前者のウィズコロナの立場といえますが、いま、世界中でウィズコロナの立場をとってきた国々が失敗している状況にあります。その国々はワクチンに賭けているわけですが、それもデルタ株の登場で、効果が以前ほど期待できない。

思い返すに、最初に私たちが「ウィズコロナ」ときいたとき、すごく耳触りが良いと感じたと思うんです。「あ、そうやな、大変なウイルスかもしれないけれど、地球にいる以上避けられないんだから、共生せざるをえないよね」と。そうやって、ウィズコロナという立場を受け入れたはずです。ただ、よくよく考えると、「共生」や「ウィズ(with)」を、まだ「相手」がどんなものかよくよくわかっていない段階で掲げるというのは、すごくいい加減な態度だったと思うんです。さらに言うと、よくわからない相手を私たちはコントロールできるという、分をわきまえない態度があったのではないか。自然との折り合いのつけ方をめぐる感性が鈍くなっていた。なのに、「共生」や「ウィズ(with)」という言葉でうまく言い当てたようにふるまい、けれどそれはとてもいい加減な態度で、門戸を開いてしまった。そこにいまの被害があるのではないかと思うんです。

そもそもコロナが出てきたのは、乱開発によって人間がこれまで踏み入れてこなかったところに人間が住むようになったことで、未知のウイルスとの接触機会を持つことになったことが一つの要因ですよね。この状況は、吉椿さんが出会ったカレン族が自らを「パガニ」(「足るを知る人たち」)と呼んでいることとすごく対照的です。私たちは足るを知らずに開発を進めて行った結果、そのしっぺ返しをくらっている。そう考えると、自然から恩恵を受けつつ、猛威をいなしていく、ということであったり、ここは踏み入れてはいけない、という一線を引いて守るであったり、そういう自然との折り合いのつけ方に対する感性をいかに回復するかが問われているように思います。

吉椿:古神道では、建物に神様が宿っているのではなくて、木や岩といった、自然を依代(よりしろ)として神が宿ると考えます。神籬(ひもろぎ)といって、榊(さかき)などの常用樹を立てたものであったり、磐境(いわさか)や磐座(いわくら)という巨石であったり、そういうものを見立てて、場所をつくって、ここは踏み入れてはいけない、ということを守ってきた。そこに後になってから神社という建造物を建てたわけだけれども、それはもともと自然だったわけで、建物は自然を象徴していたわけです。民俗学者の宮本常一は、地域を変えていく時に、そこにあるものでないと役に立たないと言いますが、本当にその通りだと思います。「森の得度式」をして、木々を守ったカレン族から教えてもらった態度とも重ねて考えると、もう一度私たちは自然との物語を紡ぎ直す必要があると思っています。

ディスカッション:
現場で「すごす」ことの意義をわかりあう

佐藤:お話を伺いながら、東北での経験をいろいろと思い出しました。私は東日本大震災の後に、Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)に携わることで、仕事として東北に通ってきました。都内の仕事(「東京アートポイント計画」)では、モノとしてのアートというより、人とかかわりや人とかかわる場をつくることを「作品」とするアーティストたちと協働することが多かったので、それが東北の支援にも生かせるのではないかと思っていたわけです。でも、東北に通うなかで「文化観」が変わりました。たとえば、2011年6月に宮城県女川町に入ったとき、まだ災害の爪痕が残る中で夏祭りの準備が進んでいました。なんでこんな状況で祭りなんだ、まずは復旧や復興だろう、という考えもある。けれど、現場にいる人たちは、いや、祭りをやるから復興だ、と言っていたわけです。復興したからお祭りなのでは、順序が違うということです。民俗芸能との出会いもありました。東北で「芸術文化」を支援するとは、その範囲で考えていかねばならないのだと気がつかされました。土地によって芸術や文化の捉え方は異なる。そして、芸術や文化とは何か、ということを根本から考え直さなきゃいけないと思ったことを思い出しました。

東日本大震災の被災地では「アート」というよりも、「文化」といったことばのほうがしっくりくる取り組みが多かったと思います。時間軸のスケールが、ひとりの人が生きる時間より長く捉えている。それは吉椿さんの言葉を借りれば、土着知(local knowledge)をもう一度みなで共有できるように再提示したり、別の形にしようとした試みだと言えるのだと思いました。また、未来に向けて、この経験を伝える物語をつくっていくような試みも生まれています。そういう意味で、哲学者の鷲田清一さんの言う「生き抜く術(すべ)としてのアート」(『素手のふるまい』)というのがあるのだと思いました。

吉椿:(佐藤)李青さんの言葉を聞いて、「俺たちが文化を支えていたと思っていたけど、文化に支えられていたのは俺たちだった」という言葉を思い出しました。宮本さんも長くかかわっている2004年の中越地震の現場で、住民の方がおっしゃった言葉です。まさにそういうことだ思うんです。「お祭りがないと復興できない」という言葉のように、それが現場の人々のアイデンティティであり、災害という危機があったからこそ、それが生きるためのアイデンティティとして蘇ってくるわけです。

僕らがやっていることは一言でいうと、場づくりです。特別な専門技術があるわけではなく、つなぎ役なんです。日本から専門家を連れて活動することはありますが、やはり現場に支援の種がある。それをどれだけ僕らが掘り起こして見つけられるかが大切だと思っています。現場の人たちが種に気づき、そこにかかわれるような場をつくる。僕らがやれることは限られているので、極端にいうと、何かと何か、誰かと誰かをつなぐだけなんです。僕らはNGOとして、いただいた支援金の範囲内でしか活動することはできず、すべてのプロジェクトに長くかかわることは難しいです。たまたま中国は10数年に亘ってかかわりを持っているけれど、それ以外は5、6回しか伺えないということもあります。長くかかわると、関係が膠着するということもないわけではないです。ただ、状況は刻々と変化するし、そこから新たな支援のあり方が生まれてくるということがあります。そして、ここでとても大事なのは、淡々と現場での人々のふるまいを見ること、そして、それを報告するということだと思います。新たなプロジェクトを立てることも確かに大事ではあるけれど、災害をきっかけに出会った者同士、折に触れて「大丈夫か」、「今こうなっているよ」と声を掛け合いながら関係を切らさない。僕らと現場との関係についてのしっくりくる言葉はそういうもののように思います。

佐藤:現場との関係として、前回から話に出ている「めざす」アプローチと、「すごす」アプローチを考えると、「すごす」というのは、支援の成果が見えにくいですよね。「すごす」アプローチは、現場に「いる」ということそれ自体が成果とも言える。とはいえ「いる」ためには資金的な基盤が必要で、そこには成果の説明もセットになってくる。「すごす」ための資金は、それこそ悩みの部分かもしれませんが、どうつくられているんでしょうか。

吉椿:財政基盤はまさに悩みの種で、脆弱なんですけれど、僕らは国に頼らずに民間だけでやろうと決めているので、寄附金として集まった額でしか支援ができないという限界があります。中国はたまたま寄付金がある程度集まったので、それこそ現場で「すごす」ことができているわけです。支援の実践者は社会から成果を求められます。僕らは、被災地の支援を実践するとともに、それに賛同して寄付をしてくれた人たちへの報告、説明責任があります。そのときに大事なのは、「すごす」かかわりの支援、最近は「いるだけ支援」と言われていますけれど、それを寄付してくれた人たちに理解してもらうためのコミュニケーションをつくっていくということも大切だと思います。物資を提供したであるとか、建物を建てたであるとか、そういう支援のあり方はわかりやすいです。ただ一方で、そこにいて、他愛のない話をしているということも支援であり、それが現場にとって必要だということを理解してもらうためには、日本の支援者、寄付者に共感してもらうためのコミュニケーションが必要になります。

スタディツアーとして海外の現場に学生さんを連れていくことがよくあるのですが、そこでは学生たち自身に企画を考えてもらって、学生たち自らが現場で活動をしてもらっています。そこでの成果というのは、「成果」と呼べるほどのものではないわけです。失敗することもある。でも、そこで学生たちは、机の上で考えていたことが上から目線であったことに気づいていく。そのような現場での学びがとても重要で、そういうことを理解してもらえるような、活動の賛同者や支援者とのコミュニケーションが大事だと思います。

経験値に基づく自信は、きける言葉もきけなくする

高森:今日のお話をきいて、吉椿さんのイメージが変わった、というのが一番の感想です。吉椿さんは「達人」だと思っていたんです。物資を持っていないことに憤った現地の人から「帰れ」と言われたことにショックを受けたり、沈黙に耐えられなかったり、話がはじまるまで待つということは難しいと感じたり、反日感情のある現地のお医者さんに罵られて傷付いたり、いろいろ支援をしたのに一番思い出に残ったのは「学生と棒遊びをしたこと」だといわれて「なんでやねん」と思ったり。語弊を恐れずに言えば、吉椿さんはちゃんと、そのときそのとき、驚いているなと思ったんです。私自身、宮本さんから教えてもらった「すごす」という態度がいかに大切かは理解しているんです。ただ、目標がないなかで数時間お茶を飲み交わすとか、そういうふうに、なにげなくすごす、ということがとても不得意なんです。なにか目的がないと、そこにいられない不安、というんでしょうか。吉椿さんは、そういうことにうまく対応できる人なんだと勝手に思っていたんですが、今日お話をきいたら、すごく戸惑っていらっしゃる(笑)。私は、外部者が支援のために現場に入るというとき、外部者が自分のこれまでの経験値を「異物」として持ち込む、というイメージを持っていました。外部者はあらかじめ「きっとこうすればうまくいく」というような想定をもっていて、いざ現場に入ったら、経験値から生み出された複数の実践の「持ち札」から、どれにしようか、どれを組み合わせようかと思案して、より良い実践を展開する。吉椿さんも、きっとそういうふうにされているんだと思っていたんです。けれど、お話をきいたらそうじゃなかった。毎回戸惑いながら、関係をつくっている。そのことに、吉椿さんはもしかしたら私と同じかもしれない、という気持ちを持てて、とても嬉しかったです。

けれど、こういう現場で驚いたり、戸惑ったりする感覚を、その人の感性といってしまうのは、思考が止まってしまうようにも思います。今日の参加者の羽原康恵さんからのコメントで、「一人の声を聞く、種を見つける、能力が必要なことはまさにその通りだと思うのですが、吉椿さんのような方が現場にいらしたら成立するようなこと、つまり属人的な特性によるケースが多いのではないかという気がします」とあります。これはみなさん思い当たるところがあるかもしれないですが、この人が入るとなんだか色々収穫があって、どんどんうまくいく、ということがあるし、反対に、この人が入るとなんだかいつも収穫がない、ということもあると思います(笑)。でも、これを人それぞれの感性の問題、としてしまうのも、腑に落ちない気がします。

吉椿:僕は達人でもなんでもなくって、いつも戸惑っています。経験値があるからやれることですよね、と取材できかれることがよくある。それは確かにある部分ではそうだけれど、僕が意識しているのは、前回がこうだったから、今回もこうなる、ということはなかなかないということです。土地が違うし、人も違う。そこは自分で、これまでの経験は一旦置いておいて、現場で話をきかないと失敗すると思っています。そうしないと丁寧にきけないじゃないですか。経験値に基づく自信をもってかかわると、きける言葉もきけなくなってしまう。そこはいつも意識しています。

高森:もう一つお伺いしたいのは、現場での悔いの残る関係についてです。私自身は、阪神・淡路大震災の手記の書き手の方々と関係するなかで、いまはもう亡くなられてしまって、もうお会いできない方々がいます。Kさんという女性は、震災から20年後に手記集をつくろうとなった際に、手記を寄せてくれました。ただ、編集をした私の校正が甘くて、「更地となった元の住処(すみか)跡の前に立ちます」と、「元」と「跡」という、同じ意味合いの言葉を重ねたままになっていたんです。のちに、NHKが彼女の手記を朗読したいとのことで、この部分を一部直して、「元の住処の前に立ちます」と読んで良いかどうか打診されたんです。私は、手記の書き手である彼女に「ごめんなさい、ちゃんと校正できていませんでした。こう直したいと依頼があったのですが」とお話したんですが、そのとき私はとてもバツが悪かったんです。でも、彼女は「自分の文章をこんなにしっかり受け止めてくれた人はいなかった」と、NHKの人にも、私にも、とても感謝してくれたんです。私にとっては、うまく役割を果たせなかった、自分の実践の欠点だと思っていたけれど、彼女はそれを含めて、ありったけの表現で感謝を表してくれた。この出来事を考えるとき、吉椿さんが現場で戸惑ったという経験をお話してくださることは、聞き手である私たちにとっては、現場の状況がよくわかる大事な部分を言葉にされているのだと思うんです。自分が持っている専門知が揺らいでしまうような驚きや悲しみを、どうすれば、うまく繕おうとせずに人と共有することができるでしょうか。やはりそれは、結果として「うまくいった」から共有できるのでしょうか。たとえうまくいかなくても、共有する術はあるでしょうか。

吉椿:確かに、結果的にうまく関係を結べたから、その前の戸惑いをここでお話できているというのはあります。でも一方で、あえて失敗の話を人前ですることもあります。災害復興の研究を長年されている室崎益輝先生がおっしゃっていますけれど、サクセスストーリーはよくきくけれど、失敗事例のなかに活動の本質があると思うんです。このあいだシンポジウムに出た時、ネパールでの実践で、うまく展開できなかった話をしました。そういう話はいっぱいあります。事前の打ち合わせでも、みなさん失敗談を話しましょうよ、とすり合わせていたんですが、結局失敗談を話したのは僕だけで、僕だけ恥をかきましたが(笑)  でもやっぱり、失敗の話は大事です。ただ失敗した、だけではなくて、それについて自分なりの捉え方、解釈がある程度できれば、失敗を共有することは不可能ではないと思います。

ディスカッションの様子。

その土地の区切りのあり方を見る

高森:質問がたくさん出てしまうのですが、もう一つだけ。このディスカッションシリーズの次のゲストでもある、アーティストの瀬尾夏美さんは、これ以上の表現はない、というものに被災地で出会えたと言うんです。それはどういうものかというと、陸前高田のおばちゃんたちが嵩上げ工事の予定地につくった花畑だと。嵩上げして、土が盛られることはわかっているわけで、これは一時的なものです。季節が巡るたび、百花繚乱のごとく様々な花が咲いていたそうです。それは土色になった風景全体からみると、とても目立っていて、高台からもよく見えるわけです。家々がなくなってしまったため、ここにくる用事もないけれど、花畑を見るという用事が出来たことで、皆ここを訪れることもできた。おばちゃんたちの花畑は、高田にとどまる人、高田を離れた人、外からやってきたボランティア、みんなの居場所になっていた。そして、そこで育った花たちは、花束になって、いろいろな人の手に渡り、それは弔いの一つのあり方にもなっていた。瀬尾さんはそれを見て、おばちゃんたちは弔いの作法を発明している、と捉えているんです。そして、それは最上級の表現である、と言うんです。瀬尾さんがアーティストであるということはあるかもしれないけれど、人間は誰しも、うつくしいものに出会いたい、という気持ちがあると思うんです。その土地に根差した新たな作法を見出す、うつくしさを知る喜びというんでしょうか。アートというのは「美術」と訳されることがありますが、そこにも「美」があります。吉椿さんが出会ってきた人々の暮らしのなかにも、うつくしさがあるように感じましたが、吉椿さん自身はどんなふうに捉えていらっしゃいますか。

吉椿:被災地の人たちって、僕らが思う以上にたくましい。あっさりしている、とも言えるかもしれないです。喪の時間を過ごした後は、ケロっとしていて、僕らが逆に気にしすぎているなと思うことがある。陸前高田のおばちゃんたちの花畑は、一つの区切りの付け方、乗り越え方の作法なのだと思います。日本と海外では文化や感覚の違いはあるけれど、中国の人たちもあっさりしていて、散々泣いた後にケロッとして、古いものをどんどん新しくしていったりするんです。そういう、その人なり、その土地なりの区切りの付け方というのがあって、区切るから次に進めるということがあるんだと思います。うつくしさというのは、なかなかよくわからない、難しいものですよね。宮本常一は「美しい」という言葉をたくさん使っていて、民衆は美しい、と言うんです。僕は彼の文章を読んでいると、いままで関わってきた被災地の人たちが浮かぶんです。うつくしさというのは、ただ形が整っているとかではなくて、酸いも甘いも乗り越えた、人の生き様というものに感じるところがあると思うんです。被災地の人々を一歩引いてみたとき、うつくしい、と感じるのかもしれないです。災害は命や財産を奪う脅威ではあるけれど、それだけじゃなく豊かな恩恵も受けている。そういう自然とともに生きていこうとする姿は、うつくしいのではないでしょうか。

宮本:僕も陸前高田のお母さんの花畑は、1日お手伝いをしたことがあるんですが、陸前高田の人たちは、あのとき、嵩上げを待つしかなかったわけです。宙ぶらりんにされたというんでしょうか。元の市街地に行っても、そこが、かつてのどこなのかがわからない。そういうなかで、あの花畑が、自分たちの位置を確認する目印になっていたんです。嵩上げが行われるまで花畑に通い、手入れをしながら出会った人たちと会話をする。僕は、現場でのかかわり方として、「めざす」と「すごす」かかわりがあるとともに、「つなぐ」ということもあるんだと最近思うんですが、それをこの花畑という場所が果たしていたんじゃないかと思うんです。現場はそう簡単に次のステップには移っていかない。次の段階に行くまで待ったり、耐え忍んだりする時間があります。その宙ぶらりんの時間はとても孤独だし、先が見えない中で不安がある。そういうときに、問題解決するわけではないけれど、ただただ支えるような、「つなぐ」かかわりというのが大事だと思うんです。「また来月きますね」と言われて、それを楽しみに一ヶ月過ごせるとか、「花畑に次これ植えようね」と言って、また二ヶ月過ごせるとか、そういうことで、次の段階を待つことができると思うんです。

自分の位置を確認するための拠り所をつくる

吉椿:自分の位置を確認できる場所をつくるって大事ですね。誰しも、自分がどこにいるかわからないのは不安ですよね。中国で活動をしているなかで、国のトップダウンの政策によって、復興されずに廃墟になった場所があります。そこは震災遺構になって、そこに住んでいた人たちは20キロ先の平地に降りることになった。いわゆる強制移転です。平地に忽然と新しいまちができて、そこは通りの名前も、ビルの名前も、全部新しいわけです。山間部の一軒家に住んでいた人たちは新しくできた町のビルの5階とかに住むことになるのですが、そうなるとだんだん、降りるのが面倒臭くなって、閉じこもる人も出てきます。ただ一方で、気がつくと川沿いに集まっていてしゃべっている人たちもいる。僕はそれを見たとき、彼らは川の近くに行くことで、自分の位置を取り戻しているように思えたんです。

宮本:自分がどこにいるかわからない、という、陸前高田や中国四川省の被災地の話は象徴的だと思います。この言葉は、地理的な意味でどこにいるかわからないということでもあるし、同時に、吉椿さんが今日紹介してくださったビクトール・フランクルの言葉にあったように、自分が果たして必要とされているんだろうか、というような、関係的な意味でどこにいるかわからないということでもあると思います。参加者の宮崎さん、辻さん、小川さんが書いていただいたコメントに共通することがあると思ったのですが、チベットの人たちにとっての、見るだけで涙を流せるような砂曼陀羅のような、かけがえのない拠り所を持っている人は強いんだと思います。ところがそれが奪われたり、宮本常一が「忘れられた日本人」というように、忘れ切ってしまったり、あるいは小川さんが書かれているように、人工的に開発して街をつくったところでは、そういう拠り所を見出しにくいところも少なくない。そういう、拠り所が消滅したり、そもそも無かったりする社会において、どうやって拠り所を見出せるのか。辻さんのコメントにある「ある場所に、根付くような創造性や小さな暮らしを営むための創造性」というのが、アートにもそういう拠り所をつくる可能性があることを示唆していただいているのかなと思うのですが、コメントいただいた皆さんはいかがでしょうか。

宮崎:私は2018年に胆振東部地震のあった北海道の厚真町に仕事でかかわっていました。この土地は4000年前という考古学的なレベルでかつて大規模な地滑りがあったと言われているのですが、ここで暮らしている人たちは、もちろん自分たちの先祖も含めて今回のような土砂被害を受けた経験はありません。そこに今回の地震が起きたことで、山との付き合い方を考えざるをえない、という状況だったと感じています。自分たちが知る時間軸では記憶に残っていないような災害が襲ってきたとき、今度は自分たち自身で、そういう経験をもとにした文化をつくっていかなければいけないのかもしれないと思いました。

辻:陸前高田の花畑に対する瀬尾さんは、美術館という箱のなかには入らないけれど、自分の表現というものを超えてくるものに出会い、うつくしいと感じています。それを見つけるということ、それはキュレーションといえるかもしれませんが、それが大切だと感じます。見つける、という、現場との向き合い方があると思いました。高森さんが言っていた、弱さを開示するというところについては、コミュニティ・オーガナイジングという考え方を思い出しました。専門家であっても弱さはあって、そういうところでつながることができるのではないかと。ただ、もともとつながりがあるからこそ、弱さを開示できるというのはあると思います。吉椿さんの話にあった、避難所で一人で泣いていたという方のことを考えるとき、現代社会ではそういうつながりを持つことが難しいとも感じます。

小川:宅地造成でつくられた地域に住んでいるのですが、ここに住んでいて思うのは、死ぬのが怖いんですよね。みんな、死なないように生きている。吉椿さんについて、高森さんが達人だと思っていたといっていましたが、それは、死ぬのが怖くない人なんじゃないかと思っていたのではないでしょうか。吉椿さん、死ぬの怖いですか? 様々な地域に関わって、そこで、人の一生よりも長いものと付き合っていらっしゃる。死生観が変化しましたか?

吉椿:死ぬのはめちゃめちゃ怖いです(笑)。死生観はなかなか変わらないけれど、当事者性というか、これは他人事なのかどうか、という判断のあり方は変わったように思います。死ぬのは怖いし、死にたくはない。ただ、自然のサイクルでものを考えると、自分たちの世代では変えたくても変えようのないことがある、というような諦念はあります。

ここだけは、という本質を残す

吉椿:新しいまちに人々が共通にもつアイデンティティを一からつくるのは難しいことだと思います。ここで思い出すのは、四川省西北部に住むチャン族という少数民族の村についてです。そこは、少数民族とはいえ、漢族との交流があり、ほとんど漢族と変わらない人もいました。民族衣装も着ないし、中国語を話すし、チャン族の言葉は話せない。そういう人たちが多数派の、中国のどこにでもある農村の一つだったんです。

その村が地震で被害を受けて、国の政策でいきなり観光復興が掲げられ、その結果、観光地になったんです。政府が主導になって、ハリボテのような構造物もつくられていった。そのやり方について村には反対する人もいたが、出稼ぎにいかずに稼げるのであれば良いのではと、多くの人が賛成をして、観光地になっていった。僕らは、テーマパーク化されたような村を最初に見たときは、偽物じゃないかと思いました。ただ、住民たちは、チャン族の暮らしが観光資源になったのだから、もう一度自分たちの民族のことを勉強しなおそうとしたんです。偽物の観光地としてのスタートだったけれど、それをきっかけにして自分たちのことを捉えなおそうとしていた。彼らが勉強しなおしたチャン族の踊りや歌は、もちろん観光客に見せるためです。ただ、そこで住民同士見せ合い、学び合うということが生まれた。一概には言えないけれど、そういう、外にむけた魅せ方からはじまる、そこに住む人たちのための文化のつくり方があるのではないかとも思います。

カレン族をはじめ、タイの山岳民族は、ハンドクラフトをたくさん観光資源としてつくって売っています。カレン族がつくる手縫いの鞄は、もともと、女性が好きな相手のためにつくるものだった。それが段々と、チェンマイのナイトバザールなどで売れるようになって、その結果、外貨のために鞄をつくるようになった。だいたい僕がみれば、どの民族がつくったものかがわかるのですが、だんだんと、いろいろな民族の技が混ざったものになっていたり、どの民族のものかわからないものもつくられるようになった。ある人類学者の方にこのことを伝えたら、確かに観光資源のためにつくられてはいるが、彼らがつくっているという意味で「本物」なんだと言われた。それをきいて、確かにそうだな、と思ったんです。時代の変遷とともに、文化のあり方は変わっていくし、グローバリズムに抗うことは困難であるけれど、ここだけは、という本質を残していくということが大事なんだと思います。

宮本:中越の中山間地で、盆踊りの踊り方にどんな変遷があったかを調べたときに、自分たちがわかる範囲でも、少なくとも2回断絶しているということがわかったんです。伝統とか文化とかって、つつがなく続いてきたものだと思われるけれど、断絶というのはしばしばあって、もう一度リバイバルさせるということを繰り返している。そして、そのリバイバルをするときに、実は本質はここにあったんじゃないかという問い直しがある。すごく大きなスケールだと、ヨーロッパに興ったルネサンスは、ヨーロッパにおいては失われていた文化をイスラム圏が保存していてくれたから可能だったわけです。リバイバルのときには、当事者がそれまで見えていなかったものを外部が気づいたり、内部の本質なるものが、その外部に保存されていることに気づいたりすることもあるわけです。そう考えると、今の私たちの文化は一時的に危機かもしれないけれど、それをリバイバルして、新たな気づきを得る機会としても捉えたいです。

「災間」は切れたものを結び直す機会を生む

吉椿:まさしく「災間」がその機会だと思うんです。災害をきっかけにして本質に気づき、リバイバルを試みる。途絶えていたものを見つめ、立ち返る。そして、関係を結び直していく。それは、危機のときに起こるのだと思います。

佐藤:吉椿さんの話の「視点」が大事なのだと思います。盆踊りが2度途絶えていた、という歴史の変遷を知ることというより、盆踊りについて知ることが大事なんじゃないか、という視点を持てるかが問われますね。こういう視点は、自分が生きている時間だけでものを考えているだけでは持ちにくい。そういうときに、文化を見よう、というのが一つのヒントになると思います。吉椿さんが中国やラオスなどの国境をまたいだシャン文化圏の話をされたときに、東北で行政区ではなく藩で地図を見なさいと教えてもらったことを思い出しました。合併でできた自治体の場合、地域の人たちが使う地名は合併前のものだったりします。福島の会津の人たちは、これを機に再び独立するか!と言ったりしていたわけです。人の暮らしって、実は100年から150年くらいの時間がベースにある。その視点を支援に生かすというとき、行政区分や国別ではなく、文化圏で見るということが必要になるんだと思います。

宮本さんの言う「めざす」、「すごす」と、さらに「つなぐ」があるのではという考えを受けて、アーティストは個人の小さな行為であるけれど、災害によって断絶した日常に、連続性をつくる作業をしていたようにも思います。被災という経験は、「喪失した」というより、「断絶した」とか「切れてしまった」ということが積み重なっていく側面があると思います。それを一つずつつなぎ直していく作業が、アートのかかわりの一つとしてあるのかなと。大槌町の方に、嵩上げ工事で土盛りがされていくなかで、地元の人も道に迷うようになったけれど、家が建ちはじめると、たとえ他が歯抜けの状態であっても、道に迷わなくなったときいたことがありました。震災以前に、「あの角を曲がればあの人の家がある」と言っていたものが、本当に「あの人」の家が経つと、その感覚ごと戻ってくるんだなと。生活レベルでの断片がつながると、それをめぐる感覚も戻ってくるということだと思うんです。景色が様変わりしても、点と点がつながれば、うまく暮らしていくことができるのかもしれないですね。

宮本:災害からの復興は、災害によって断ち切られた日常を取り戻すことなんだ、非連続なものに連続性を取り戻すことなんだとよく言われています。そこで切れたものとして言われているのは、電気とか、ガスとか、狭い意味でのBCP(事業継続計画)とか、そういうことですよね。確かにそれは大事なんですが、李青さんが言われたことは、災害によって切れたものはそういう類のものだけではないということですよね。インフラや仕事ではないけれど、切れたものはなんなのか。それを見出そうとしているのが、吉椿さんの活動だったり、アートを通してかかわろうとしている人たちの活動なんじゃないでしょうか。

吉椿:切れたものを結びなおす上で大事になるのは、外から人やモノやアイデアを持ち込むにせよ、ローカライズするということです。CODEで活動をしていくなかで、阪神・淡路大震災をきっかけに生まれた「しあわせはこべるように」という歌を、海外の被災地に持っていこうという活動が生まれています。曲のなかの「神戸」という地名の部分を、海外の地名に代えて歌ってもらうわけです。でも、それだけでその地域に根付くことはないんです。地域によってリズムも旋律も違いますよね。これは失敗事例ですが、CODEのスタッフが「しあわせはこべるように」をペルシャ語にして、イランのバムという街に持っていったんです。地元の学校の先生が子どもたちに教えてくれて、子どもたちが歌うわけですが、やはりしっくりこないんです。そのとき、一人の女の子が「先生、私たちの歌はどこ?」と言ったんです。自分たちの歌がつくりたいという思いがあって、自分たちのリズム、自分たちの旋律で歌をつくるということ。そういう、現場の人々が自ら生み出すということを支えることが大事なんです。

宮本:固有名だからこそやれていることや、個人間だからつながることができていることを「文化」にしていきたいというのは、被災地神戸であったり、そこで生まれたCODEであったりが、「たすけあい」を文化にすることを目指していることからも、実践の目標のあり方の一つだと思います。ただ、それをどうやって文化にしていくか、ということは悩ましいところもあります。この問いは、残り4回のディスカッションでも、立ち戻りながら考えていけたらと思います。

まだまだ話が尽きないところで、あっという間の3時間となりました。次回は、アーティストの瀬尾夏美さんをお迎えして、さらに議論を深めていきます。それでは、次回もよろしくお願いします。

執筆:高森順子

日時:2021年8月21日(土)14:00~17:00
場所:オンライン(Zoom)での実施

東京プロジェクトスタディ1  共在する身体と思考を巡って ー東京で他者と出会うためにー

写真家、ダンサー、インタープリター(通訳者/解釈者)とともに、身体性の異なる人々の世界に触れながら、「ことば」による表現だけではないコミュニケーションのあり方を探り、その可能性について考えた「スタディ1|共在する身体と思考を巡って 東京で他者と出会うために」

本書は、プログラムのなかで行われた議論やワークショップの様子、スタディに取り組みながら考えたことを、ナビゲーターや参加者が綴ったアーカイブブックです。

もくじ

2020年1月に日本で最初の新型コロナウイルスが発見される前の話
共在する身体と思考を巡って〜東京で他者と出会うために〜
加藤 甫/南雲麻衣/和田夏実 (スタディ1 参加者募集のメッセージ)

#00 スタディ1で、私たちが取り組みたいことは何か
#01 お互いの顔が見えないまま「出会う」「共に在る」
#02 私たちは本当に出会ったのだろうか
#03 撮る/撮られるから、他者の無意識に触れる
#04 それぞれのもやもやから出会う
#05 フィクションを織り交ぜながら、自分の分岐点について書く
#06 翻訳する身体と思考を巡って
#07 既存の「自己紹介」の手前にあるものとは?
#08 わかりやすさ/伝わるはやさだけにとらわれない言葉を味わう
#09 南雲麻衣のパフォーマンスから「フィクションを織り交ぜる」を考える
#10 これまでの経験をあらわす
#11 誰にもなれない自分の身体に、一番近いコミュニケーションのあり方とは

研究日誌概要
おわりに(木村和博 /嘉原 妙)

「災間の社会を生きる術を探る」イントロダクション

災禍の現場に立つには、いったい、どんな態度や技術、方法がありうるのか? 災害復興の現場に多様なかかわりかたをしてきたゲストに話を伺うディスカッションシリーズの第1回目回は、ナビゲーターの佐藤李青(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)高森順子(愛知淑徳大学助教/阪神大震災を記録しつづける会事務局長)宮本匠(兵庫県立大学大学院減災復興政策研究科准教授)が話題提供し、3人がそれぞれ関わってきた現場を通して得られた視点を共有し、イントロダクションとしました。このレポートでは、3人の報告と議論のエッセンスをまとめました。

ナビゲーターの話題提供:
Art Support Tohoku-Tokyoの「かかわり」から:佐藤李青

Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業/ASTT)の立ち上げから、まとめに到るまでプログラムオフィサー(中間支援)としての役割から見てきたことを報告。まちなかでアートプロジェクトを展開する東京アートポイント計画の事業スキームを使い、東京から東北へアートによる支援のあり方を探ってきた。ASTTでの10年のかかわりは、次の3つの問いにかかわることだった。

(1)アートに何ができるか?
これは外から問いかけられることもあったし、自問自答でもあった。初動でよく問われていたものだった。この問いの「できる」ということについて、時間軸を長く考える必要がある。関係をつくっていくことで時間をかけて「できる」ようになることがある。表現によって、状況に応答するスピードとタイミングがある。水戸芸術館のキュレーターである竹久侑さんは、「3.11とアーティスト:進行形の記録」という展覧会の図録において、阪神・淡路大震災と異なり、東日本大震災では「市民」を対象にするアーティストの実践があり、それは「市民による参加をベースとして行われる、プロセスを重視した芸術活動」であるアートプロジェクトの影響があることを指摘している(別の論考で竹久さんは美術作品が「もの」から「こと」へ変化し、「ひと」を対象とする活動が現れてきたという言い方もしている)。これはASTTの動きとも重なっている。

(2)外からかかわる意義とはなんだろうか?
震災から6年目に、私たちアーツカウンシル東京を主語にした初めての記録を作成した。そのインタビュー集『6年目の風景をきく』では、ASTTで取り組んできた中間支援としてのふるまい(対話)の構造を、インタビューとコラムを交互に入れることで冊子化した。冊子をつくることで、取材という切り口から関係づくりができる。自分たちが地域内外のメディアになる。2017年に発刊したジャーナル『FIELD RECORDING』では、それを自覚的に展開した。それが、外からさまざまな境界線/関係性を混ぜることを促すのではないかと考えた。

(3)10年目の「節目」をどう使うのか?
2020年6月から「震災後の経験を未来に伝えるメディア」としてウェブサイト 『Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021』を運営し、10年という「節目」の使い方を考えた。「コロナ以前」の計画では、東北の担い手のネットワークづくりや、東京でのフォーラムによる情報発信、そしてそれらのアーカイブを予定していた。コロナ後、対面での出会いづくりや遠距離移動が困難となり、目的はずらさずに、活動をオンラインにシフトすることにした。10年で得られた関係性を生かし、「節目」を外から「使う」ことで、ふだん震災に対して強い関心を持たない人に「関わりしろ」をつくる=より広く「当事者」を増やすことを目指した。

振り返って思うのは、「被災地支援」という目標のある事業で「めざす」ことにかかわったから、「すごす」ことができたということ(「めざす」と「すごす」は後述する宮本の報告に詳しい)。それは目の前の「ひと」と向き合うアートを介したものだったことも大きい。いま、「めざす」事業がなくなって考えるのは、この10年のまなざしを他の経験、他の人とのかかわりにつなげること。「被災地のリレー」をいかに生み出すか。

記録を本にまとめる実践から:高森順子

阪神・淡路大震災を経験し、それを手記として書いてきた人々(阪神大震災を記録しつづける会)と、震災から15年目(2010年)からかかわり始めた。活動の初動にはいない、遅れてやってきた高森が執筆者と取り組んできた実践のうち、記録を本にまとめる活動を2つ紹介し、さらに、その経験が生きた実践として、他の活動の記録をひとつ紹介した。

(1) 阪神大震災を記録しつづける会(編)『阪神・淡路大震災 わたしたちの20年目』, 2015年
(2) 阪神大震災を記録しつづける会(編)『筆跡をきく 手記執筆者のはなし』, 2020年
(3) あいちトリエンナーレ実行委員会(編)『あいちトリエンナーレ2019ラーニング記録集』「アート・プレイグラウンド はなす TALK」受け手ノート──8月18日から最終日までの58日間に及ぶ「対話」のアーカイブ」, 2020年, pp.61-84.

3つの「本を作る」実践で得られたことは、まず、本にまとめるということは、実践の「後始末」ではないということ。本にまとめることこそが実践。本にしていく過程で、活動の「別の見え」が現れる。本にするきっかけとして、それがどんな「見え」かはわからないが、「別の見え」があることは予期している。20年目の手記集は、「もう一度、10年ぶり、20年目に手記を書いたらどんな経験が語られるだろうか」、25年目のインタビュー集は、「私の目の前にいる執筆者のふるまいと、執筆者が書いた手記がどうにも重ならない、執筆者も私も多面的な存在なのに、手記にはその多面の限定された部分しか現れていないのではないか」、あいちトリエンナーレの記録では「『表現の不自由展・その後』の騒動のなかで、その他大多数の展示が世間から見過ごされていること、外野の「見え」と、目の前にいるスタッフたちの声にギャップがある」という、記録することが別の見えをもたらすであろう予期があった。

言葉を本にすることは、別の誰かがそこから何かを引き取り、次につなげていくことになる。つまり、本にするという実践は、外部への回路をつくる、関係のための実践だと捉えている。そして、それは編集する者―掲載される者という内部の関係のための実践でもある。言葉が編集され、本に載るというのは、「確かに私の言葉を受け取ってくれた」ということを喚起させる。現場をもつ実践において、「わかり合う」という感覚は必要だが、得難い。その「わかり合う」という感覚を本にする実践はもたらす可能性がある。

災間の受容のために:宮本匠

大学学部生の時に、新潟県中越地震(2004年)があった。現地に住み、集落支援をしたことが研究のスタート。現在、内発的な災害復興はいかに可能かを主要な関心としながら、外部支援者の役割などについて研究している。

現在は、「災後」ではなく「災間」だと言われる。これは人類の影響が自然に不可逆的な破滅的影響を与えているのだという「人新世」の議論にも重なる。現在のコロナ禍も「ポストコロナ」ではなく「インターコロナ」であると考えることが、災害という出来事と、そこにどう関わるかということを考える上での前提になる。いつから「災間」の社会になったかを紐解けば、1995年の阪神・淡路大震災であろう。これ以降、毎年のように災害が起こっている。また、各種社会指標も右肩下がりの分岐点となっている。ここで参考になるのは「戦間」(第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間:1919〜1939)。「戦間」は、「災間」と違い、「間」であった意識はなく、当時の人々にとっては「戦後」だった。共通なのは、終戦というかたちで一時的なユートピアを迎え、そこから恐慌、混沌へというプロセス。「戦間」期の思想家アントニオ・グラムシは、時代の空白期には多くの病的な兆候が現れるという。それは、「災間」にも重ねて捉えられるのではないか。

哲学者スラヴォイ・ジジェクは、エリザベス・キュブラー=ロスの「死の受容」の五段階を、個人から、社会に拡張して捉えなおし、パンデミックの「受容」に至ってはいない社会において、「否認」「怒り」「取引」「抑圧」という病的兆候があるという。宮本は、この、「受容」への回路をつくることのなかに、「災間」の社会を生きる術(すべ/アート)があるのではないかと考えている。

その病的兆候のなかで注目しているのは、社会資源が縮小する中で災害が頻発することで生じる2つの主体の危機。ひとつは被災地で生じる主体の危機。眼前の課題があまりに大きいときに、人は自分にできることはもう何もないと諦め感や無力感をもつようになる。そこで「より良い状態をめざす」支援をしても、支援をすればするほどむしろ問題を大きくしてしまう。これは、「よりよい状態をめざす」ことが暗黙の裡に「現在を否定」しているため、支援がむしろ当事者の無力感を強めてしまうことで起きてしまう。このような「より良い状態をめざす」支援のかかわりを「めざす」かかわりとすると、「めざす」かかわりがうまくいかないときは、むしろ「変わらないこと」を前提とし、相手の現在のかけがえのなさを肯定する「すごす」かかわりが主体の回復に有効である。

もうひとつの主体の危機は社会全体で生じる。社会資源が縮小する中で災害が頻発し続けると人々がそもそも被災という事実を「見なかったことにする」「集合的否認」が起きるようになる。とはいえ、被災した人を前に見なかったことにするのは容易ではない。そこで「集合的否認」を貫徹するために、採用されるロジックが「悪しき両論併記」だ。これは、本来、同じ土俵で比べてはいけないことを、対等に並べることで、結局のところ問題を見ないで済むようにさせることだ。このような社会に、まだかすかな希望があるとすれば、「見なかったこと」にしたいということは、「他人事ではない」と感じているということ。苦しい経験をしている人たちに、社会がまだ当事者性をもっているということだ。この当事者性をいかに喚起できるかが、災間の「受容」の鍵だろう。現実を他の視点で見せるアートには、この「集合的否認」と「悪しき両論併記」から抜け出し、「集合的受容」へとつながる回路をつくるのではないか。

宮本の発表スライドより

ディスカッション:
社会の「節目」が機能しないなかで

佐藤:これまでの3人の話を聞いて、災害復興へのかかわり方は、みなさんがイメージしているものよりバリエーションがあると思われたかもしれません。現場にいって、そこで活動するということだけでなく、そこでの話を外へと届けるメディアづくり、時間が経った後にはじめる実践、かかわり方に迷いがある人と当事者とのかかわりを生み出すような仕掛けをつくることなどが見えてきました。

また、宮本さんの話はこれからこのシリーズで考えていく上での大きな基盤になってくると思います。牧紀男さんの『災害の住宅誌』では「『災害』が発生するのは人間がそこに住んでいるからである」といい、自然現象ではなく社会現象であるといっています。今回のシリーズではアートを人の営みという社会現象にかかわる「術(すべ)」として考えていきたいと思っています。その意味で、私たちの日常である「災間」を見たいのだということが今日確認できたのが良かったです。

宮本:牧さんの議論でいうと、もう自然現象と社会現象は区別できない、というところまでいっているのが、いま言われている人新世の議論だと思います。いままでは、「災害は自然現象にみえるけれど、社会現象でもあるんです」という言い方をされてきたんです。ところがいま、自然現象と社会現象が区別できなくなっている。

高森さんが災害から10年、20年と経過した後でも、それを「渦中」と呼んで記録しているということと、李青さんが「これまで紹介した実践がみなさんの思っていたイメージと違ったかもしれないですね」と言ったことに補足すると、まず大きな前提として、私たちは、災害のあと、ちょっとずつ回復していくと思っているということがあると思うんです。右肩上がりの社会に生きてきた時代の私たちの前提です。街なみは少しずつ良くなっていくし、被災した方の心は少なくとも変化していく、良くなっていくだろうと。ただ、それは決してそうではないんです。そういうこととどう折り合いをつけていくかということの一つが、高森さんが震災から26年経っても、手記を書いた人たちとかかわって言葉を編み出しているということなんじゃないかと。

そう考えると、「災後」の社会であれば、李青さんのいうように「節目」を使って、みんなで「あれから何年経ったね」とふりかえり、ちょっとずつ「当事者」という枠を広げていくことができる。ただ、「災間」はそうはいかない。災害が多発しているので、一人ひとりにとっては大きな節目だけれども、それがかつてのように社会全体で「節目」として共有されないですよね。外からの回路が生まれにくくなっています。だからこそ、コミュニケーションを増やしていくことが大切なんだと思います。

佐藤:社会は右肩上がりに成長していくのだ、というような大きな前提が変わると、いろんな言葉の概念自体が揺らぎますね。「節目」が「節目」でなくなっていく。宮本さんのいう「集合的否認」のように、どうしようもないから目を背けたいし、ただ、どうしようもないということだけは皆がわかっている。ASTTは復興支援をするというそれこそ「めざす」事業をしていて、ただ、現場で起こっていたことは「すごす」ことだったと言いましたが、そこでは、つねに固有名でのかかわりをアーティストはつくっていたと思います。つねに「この人とやろう」、「この人とかかわりたい」というのがあった。そう考えると、人と人との関係を切り結ぶ上で、固有名に戻すということは重要だと思います。「どうしようもない」と大きな変化を見出せないようなときに、目の前の具体的な変化をおよぼす現場をつくるというのが、術(すべ)としてあるんじゃないかと改めて思いました。

渦中の記録を、どうとるか?

佐藤:10年目にASTTでの出来事を本にまとめました(『震災後、地図を片手に歩きはじめる』)。事業をはじめたときから、いろんな人に「ちゃんと記録は残しておいたほうがいいよ」といわれてきました。「振り返るためにも、これから同じことで悩む人のために……」と、その意義はわかるのですが、無理なんですよね。記録のためとはいえ、言葉にする、というのがなかなか難しい。

それで写真を撮ることはしていたんです。とにかく、きれいでもない、会議室の様子でもなんでもいいから、写真を撮って、それをGoogleフォトで日付と地名を入れたアルバムにしていました。その写真を見ると、そのときの感覚を思い出せるんです。震災から何年か経って、ブログなんかにASTTのことを書くときは、写真を使って思い出したエピソードを書いてました。そのエピソードを集めたようなものが、10年目につくった本でした。

何かを振り返るときに、後から総括は難しい。点で残しておいて、その点を集めることで結果的に総体を伝えるものにできないだろうかと、ぼんやり考えてました。断片を残すというやり方、というんでしょうか。

宮本:脱線するかもしれないですが、よく記録を残すというときに、ホワイトボードを撮っておくとか、議事録を残すとかがあるけれど、その日食べたものを見れば「あ、そういえばこんなことしてたな」と思い出すことができると思うんです。あれってよくよく考えると不思議で、食べたものを思い出すことで、あの日あんなことあったな、と記録に書かれていないことまで思い出せるという効率的なやり方ですよね。現実を直接記録していくというアーカイブのやり方じゃなくって、現実を変化球で、それこそアートなりを通して象徴的な断片を取り出すことで、かえって全体を効率的にアーカイブしていくことにつながるのかもしれない。食べたものを思い出せばその日のことが思い出せるというのは僕の特殊な能力かもしれませんが(笑)。そういうやり方はあっていいと思いますね。

高森:「食べる」ということは、自分の意思なるものが介在しきれないところがありますよね。「今日カレー食べるぞ」と思っていても、お昼はなぜか蕎麦を食べていたりする。そういういろんな変遷を経て、食べるということがあると思うんです。だからその日のことが思い出せる、ということがあるのかもしれないです。

現実を記録するということを考えると、思い出すことがあるんです。「あいちトリエンナーレ2019」では、ラーニングチームにゲストとして入らせてもらって、トークイベントのファシリテーションをすることになっていました。8月1日にスタートして、8月3日に「表現の不自由展・その後」の公開が中止されて、爆破予告も来るようになっていた。そういう状況をアーカイブするってすごく難しかった。なぜなら、飛び交う言葉のなかにヘイトや暴力的な言葉が含まれていて、残して見せる、ということが難しいものがあったからです。

展示中止によって閉じられたドアには、有志のアーティストが置いた付箋とペンを使って、来場者が多くの言葉を書き残し、貼り出されていました。いま、この言葉の中身は見ることができないです。その理由のひとつは、暴力的な言葉が含まれているからということだと思います。不自由展の再開を願う言葉のなかに、マイノリティに対する暴言や、特定の国へのヘイトも混じっていた。そういう観客たちの言葉、芸術祭を見ようとやってきた人たちの言葉も、暴言を残すためにやってきた人たちの言葉も含めて、残さなければと思ったけれど、しかしどうやって残すのか、すごく悩んだんです。

悩んだ結果として、アーカイブの手法として考えたのが「受け手ログ」というものでした。「アート・プレイグラウンド はなす」という場所で話されたことを、スタッフの方がモノローグとして話をして、それをGoogle音声入力で文字起こしして、それを受け取った私が読みやすいように修正して、さらにそれを現場のコーディネーターが作品名等の間違いがないかチェックをして、翌日には印刷して配架していました。その配架の仕方はとてもこじんまりとしたもので、見たい人は見るけれど、見ようという気持ちのない人は気づかないようなものでした。そういう微妙な位置に置かれたんです。だからこそ、落ち着いてじっくりずっと読んでいた人もいらっしゃいました。

あいちトリエンナーレ2019での「受け手ログ」配架風景

記録に「手を入れる」

高森:このアーカイブは、すごくいろんな人の手が入っているんですね。記録ということを考えるとき、「手を入れる、編集をする」ことを、「修正する、改竄する」というふうに思う人がいるかもしれない。私もそう思っていたところがありました。「ありのまま」を残すことができれば一番良いのではないかと。でも、そうじゃなくて、即興的な言葉のやりとりを「手を入れる」ことでようやく見せられることがある。

この考え方は、小森はるかさん瀬尾夏美さんの実践(『波のした、土のうえ』)にとても影響を受けています。彼女たちは、当事者の語りを、瀬尾さんが一回文章に起こして、それを小森さんが携えて当事者に渡して、校正してもらっている。「これは私の感覚と違う」とか「これは私が言ったことないけど、すごく共感する」とか、そういうやりとりを経て、文章のバージョンが変更されていく。そして、当事者が納得するバージョンができたところで、当事者自身がそれを朗読するんです。そこでの語りの「私」というのは、その当事者の方でもあり、瀬尾さんでもあり、陸前高田に住む「私たち」のひとりという「私」でもある。いろんな主体が混ざり合った一人称だと思います。それがヒントになって、今回「受け手ログ」ができて思ったのは、「手を入れる」ということにアートの萌芽があるということなんじゃないかということです。「本音」や「ありのまま」でないと隠蔽だと言われるかもしれない社会で、「手を入れる」という動作を考えたいなと思っています。

佐藤:手を入れることは、届く相手を変える所作でもありますね。例えば、瀬尾さんは目の前の人の話をきいて、それを作品にしている。瀬尾さんは手を入れ、作品化することで、その人たちでは届かないところ、もしかしたら一生出会わないかもしれない人々にパス出しをしている。そこがすごく大事だと思います。

当事者の発話をどう促すか、いかに思いに寄り添うような表現をするかという話だけでなく、その人の経験を思いがけない別のところに届けるとか、別のかたちで見せるとか、そういうことにアートの役割があるように思います。

宮本:高森さんの話から石牟礼道子さんのふるまいを思い出しました。石牟礼さんの表現方法は患者さんの話をきいて文章にするという「聞き書き」かというと、そうじゃない。彼女は患者さんに「なる」。彼女は人だけでなく、あらゆるものになる。水俣の自然にもなれる。それは彼女の感性が凄まじいということでもあるけれど、僕たちにも、石牟礼さんほどではないにしろ、「なる」という力はそなわっているんです。出会ってしまうと、ひとごとじゃないか、関係ないじゃないか、見なかったことにしよう、と思えなくなる。固有名として出会うというのは、その人に「なる」と言い換えられると思います。僕らはそういうふうに、誰かになれちゃうんです。そう考えると、その人に「なる」ことを促すという作業として、「編集」や「アート」というものがあるんじゃないかいうことがあるし、「手を入れる」というとなんらかの作為とか、修正とかそういうニュアンスを感じるけれど、そうじゃなくて、その人に「なる」ことを促すという作業なんだと考えるといいと思いますね。

佐藤:もっと感性を信頼するような残し方をしてもいいのかもしれません。その記録が自分にとっては、過去の出来事をありありと思い出すものだとして、でも自分にしかわからないものだろうと思うと、その記録を社会化すること、ひらくことに躊躇しちゃうんですよね。特に、災害のような社会的な出来事であれば、共有することの意義を先んじて考えるので、ならばすべて記録しようとか、できるだけ他の人にも役に立つようにと意気込むけれど、それはとても重たい作業になってしまう。

自分にしかわからないメモだけれども、これを見れば私は思い出せる。そういう断片があれば、また語り始めることができるし、実はそれは全く違う場所にいる、感性が重なる誰かが見たときに、強烈に思い出すことが起こるかもしれない。宮本さんのいう、その人に「なる」ということが起こりうる可能性がある。その人にしか思い出せないような断片、感性的に思い出せるところに振り切って残す、ということがあってもいいんじゃないかと思います。

固有名で出会いとかかわり方

高森:誰かに「なる」ということを考えるときに思うのは、かつて「阪神大震災を記録しつづける会」の執筆者の方々が、私との関係のあり方として、研究においては固有名として付き合うのではなく、なにかの集団のひとりとして付き合いたい、というようなものがあったことです。私は彼らと出会ってから5年くらい、20年目の手記集を一緒につくるまでは、なぜか私を彼らが紹介するときには、執筆者の語りの場をつくることを目標にしてやってきた人とは言われず、「高齢者の復興調査をしていて、趣味で執筆者の語りの場をつくっている人」と言われていたんです。でもそれは今思うと、出会ったばかりの人に、かけがえのない「あなた」と、固有名の関係として何かを一緒にしたい、と言われるのってすごく重いことになっていたのかもしれなくて、それで彼らは、「高齢者」という集団として、匿名としてまずはかかわりたいというのがあったのかもしれないです。

それが、手記集をつくってから、手記集をつくること、執筆者の言葉を聞くことが研究なんだと言ってもらえるようになった。25年目のインタビュー集では、手記で書かれていないこととして「いつ、どこで、どんなふうに書いていたのか」ということを、一緒になって探究して、共同研究者になった感じがしました。共同研究者って、第一筆者、第二筆者っていうふうに、固有名が論文に並びますよね。だからここでようやく、固有名の関係になったなという感じがあったんです。

東北でのアート支援では、どういう出会い方が多かったんでしょうか。

佐藤:固有名か集団か、ケースバイケースな気がしますね。ただ、高森さんの話を聞いていて思ったのは、時間をかけるということの大事さだと思います。出会い方って、何かの肩書きがなければうまく出会えないことがあるように思うんです。固有名で出会うこともあれば、何かの肩書きの関係で繋がれることもある。ただ、それが変わっていくことが必要で、そのためには時間が必要で。時間をかけたときに、固有名として出会い直すということがある。

例えばアーティストです、ということで入った方が良い場合もあるし、なんかよくわからないけど、あいつ面白いぞっていうふうに固有名で付き合っているうちに、やっていることが作品や本といった別のかたちになることで肩書きが発見されるようになるとか……。それも時間をかけたやりとりが背景があるから起こる。役割だけ、固有名だけのどちらか一方で終わらないというのが大事なのだと思います。

本日のディスカッション参加者の宮崎汐里さんからのコメントで、「自分が災害にかかわりつづけることを人に説明するとき『執着してるんだと思います』と言っていました」というものがありました。納得しつつ、逆に、執着せずに、それでもかかわれるような方法はないのかなと思ったりもします。というのは、災害が起こると、いままで社会が抱えていた問題が一気に露呈する。それに初動で向き合った人の多くは、「災後」の問題ではなく、「災間」の課題として気づき、その後の日常を変えなきゃいけないと思うようになる。でも、意外と日常は早く戻ってきて、そのなかで議論を続けることに疲れてしまう。そういう、「気づいてしまった人」が日常でも執着せずにかかわりつづけるようなやり方はどうすればつくれるのか。「災後」じゃなく「日常」につなげていくということを、東日本から3年から5年くらいの時によく考えていたな、と思い出しました。

宮本:それこそ、李青さんがまさに取り組んでこられたことだと思います。僕にとっては新潟の中越っていうところが始まりでしたけれど、最初にある集落に濃くかかわって、そのとき僕が考えたのは、「この村を支援したのは宮本くんだ」ってなったら良くないと思ったんです。僕の仕事は、この村にかかわるプレイヤーを増やして、自分のように濃くかかわったんだ、という人を増やしたいと思って、そっちのほうにふりたかったし、そのためにはある程度距離を取る必要があったんです。いまのかかわり方は、一年に一回会って、あとは年賀状のやりとりで、いろんなプレイヤーの人たちの様子を見て、というような感じですね。初動のときのかかわり方と、時間が経ってからのかかわり方は違うし、得意不得意もあるでしょうし、人との相性もありますよね。宮本とはしゃべりたくもないけど、その後にきた高森なら仲良くなれそうとか。そういう意味では、李青さんのプログラムオフィサーっていう立ち位置もプレイヤーを増やすという立ち位置だったんじゃないかと思っていたんです。

佐藤:確かに、時間が経つとかかわり方って限られてくるんですよね。それは資源の問題とか、「後から参加しづらい」っていう心理的な問題とか、いろんな理由があると思うんです。今回参加いただいている方のなかでも、いままでかかわってきてはいなかったけれど、なにか関わりしろがないだろうかという方もいる。誰もがかかわる気がないわけではないんだと思うんです。ただ、時間が経った今、そのかかわり方は自然にあるわけではなくて、つくる必要があるんだと思うんです。それは、高森さんが本を作ったり、そこでやってきたことをもう一度捉え直すことでかかわりやすくなったりするんじゃないかと。なにか具体的な作業をつくるということが大事なんじゃないかと思います。

というわけで、このシリーズでは、ナビゲーターがすごくしゃべります。議論していくことがまだまだあります。私たちも結論をあらかじめ持っているわけではなく、トピックとして話すほどに、さらにトピックが生まれてしまうという状況です。こういう形で、次回以降、実践を重ねてきたゲストを交えながら議論していくことができればと思います。この議論が、参加者それぞれの方法論につながっていくのではないかという見通しを持っています。それでは次回もよろしくお願いします。

執筆:高森順子

日時:2021年7月31日(土)14:00〜17:00
場所:オンライン(Zoom)での実施

東京プロジェクトスタディ2 Tokyo Sculpture Project Rehearsal Book

Tokyo Art Research Lab「思考と技術と対話の学校」の一環として行われた「東京プロジェクトスタディ」。
ドイツの芸術祭・ミュンスター彫刻プロジェクトを考えることからはじまった「Tokyo Sculpture Projec」は、彫刻、公共、東京、美術/演劇、などのキーワードをもとに、2018年度から3年間活動しました。

本書では、活動の流れとそのなかで交わされた言葉、そして活動のなかで生まれたさまざまな問いを記録しています。

もくじ

まえがき 佐藤慎也

プロローグ
エピソードⅠ 二〇二七年ミュンスターへの旅
エピソードⅡ 東京彫刻計画
エピソードⅢ トーキョー・スカルプチャー・プロジェクト
エピローグ

あとがき 居間 theater
おわりに 坂本有理

東京プロジェクトスタディ3 Cross Way Tokyoー自己変容を通して、背景が異なる他者と関わる

自分とは異なるルーツをもつ人とコミュニケーションをとろうとするとき、何かしらのハードルを感じる人は多いのではないでしょうか。

本書は、東京プロジェクトスタディ3「Cross Way Tokyo ー自己変容を通して、背景の異なる他者と関わる」のプロセスをまとめたドキュメントブックです。スタディでの活動のなかで生まれた議論、思考を記録した「スタディ」、スタディを通して立ち上げたメディアを紹介する「メディア」の二つのパートで構成されています。

もくじ

このスタディを企画した経緯
「自己変容を通して、背景が異なる他者と関わる」というテーマについて
なぜメディアを立ち上げるのか
出会うことと語ること、そしてその理由

他者は理解できない
揺れる/ミャンマー
上海と水元公園と子ども

ゆるやかな変容のはじまり

スタディを通して立ち上がったメディア群