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REPORT

第5回│アカウンタビリティとは何か?(帆足亜紀×山内真理)

公開日│2016.03.28

今回の対談メンバー

帆足亜紀さん(アート・コーディネーター/横浜トリエンナーレ組織委員会事務局プロジェクト・マネージャー)
山内真理さん(公認会計士・税理士/Arts and Law代表理事)

質的な振り返りを行う監査

山内│昨今、アートプロジェクトなどの事業の評価についての議論を耳にする機会も増えてきました。事業の成果を振り返るという観点から監査や批評の役割についてはどのようにお考えでしょうか?

帆足│監査は、いかに正しくお金が使われたかをモニタリングすることが第一義ですよね。しかし、アートプロジェクトでは、お金が適正に使われ、収支の整合性もとれているからすべてよしとは言えません。いまの社会にとって意味のあるプログラムが組めたか、時代を反映した作家・作品を選定できたか、メディアに露出した情報は適切だったか、専門家の評価、観客の反応はどうだったかなど、批評的な面での評価やモニタリングも大事です。

山内│そうですね。監査と一口に言っても、例えば企業会計における会計監査などと公監査、つまり国、自治体などの公的機関を対象にした監査ではその目的や機能が異なります。後者の公監査は、実に多様な役割があると感じています。
企業の場合、経営者は経営を受託している立場であり、株主などの利害関係者に対して説明責任を負っているので、利害関係者の判断に資するような情報を提供・開示する必要があります。決算書は経営者が説明責任を果たすための重要な手段の一つとなりますが、利用者の期待する透明性や信頼性が社会的に担保されるように、独立的な第三者が一定の保証を加える仕組みがあり、それが監査制度というわけです。
一方、自治体などの公的機関においても、その首長は納税者である市民から信任を受けて自治体の経営を担う立場であり、市民に対して説明責任を負っています。説明責任は、アカウンタビリティとも言われますが、公的機関における説明責任は市民・納税者の知る権利に応えるものなので、単に法令順守の状況や予算執行・財務報告に関する状況だけでなく、行政が関与する事業それぞれの成果について、その達成状況なども適切に報告されることが期待されています。自治体が関与するアートプロジェクトなどの事業も、その説明責任の範疇ということになりますね。
現状の公監査では、監査の目線としては「経済性、効率性、有効性」といった視点がありますが、このうち「有効性」は、狭義の意味での事業の目的達成度はもちろんのこと、短期・長期を含む成果の質や社会的インパクト、政策自体の適切性や事前の決定プロセスまでを問う目線が、本来期待されていると思います。

帆足│来場者数などの数字だけではなく、体験の質を問うこともできるということでしょうか。
横浜トリエンナーレ(以下、横トリ)の場合は、新聞などに取り上げられた批評の内容も評価対象にしています。例えば、2014年展の総来場者数は21万人だったのですが、その前の回では30万人を超えていたこともあり、数字的には前回より低いというマイナス評価になります。ただ、2014年の全国紙の回顧には数多く取り上げられ、「…芸術の役割を問う、骨太の内容だった。ただ、コンセプトよりある種の祝祭性…(中略)…と期待する美術ファンにとっては、やや刺激不足だったようだ」(『産経新聞』2014年12月25日朝刊「回顧平成26年 美術」)という記事がある一方で、「自治体などが主催し、不特定多数の観客を想定する芸術祭は心地よく楽しい体験につい重きを置きがちだが、美術の役割はそれだけではないことを問うた」(『日経新聞』2014年12月1日朝刊「回顧2014 美術」)あるいは、「やっと国際的に渡り合える展示が生まれた印象をもった」(『日経新聞』2014年9月20日夕刊「あすへの話題 国立西洋美術館館長馬渕明子」)という評価もありました。
さらに国際展では、国内的な評価だけではなく、海外の関心を集めることができたかどうか、ということも重要です。そのためにメディアの露出だけではなく、海外のどういう専門家(例えばキュレーター)が観に来たかということも追跡したりします。特に海外の専門家に「これは我々の問題意識にも通じる作品である」と感じてもらえると、今後の国際交流の基盤づくりにもつながるので、事業のアカウンタビリティは多角的に説明する必要があると思います。

山内│批評などの内容も報告し、評価対象にしているのですね。監査において行政の事業の「有効性」評価については、実際のところ、短期・長期を含む成果の質や、社会的インパクト、政策自体の適切性などについて深いところまで踏み込んだ報告は少ないように感じます。
自治体運営の多様性が高まるなかで、アートに関わる事業に限らず、「公」の説明責任を担保する事業評価の分野や、公監査の制度設計については未だ発展途上。監査や事業評価が広くアカウンタビリティに応えるための前提としても、事業主体は、目標達成度や質、社会的なインパクトなどを客観的に測定・説明できるように、材料や尺度を準備しておく必要がありますよね。

帆足│質の定義は、非常に悩ましいですね。質とは別に、「意味のある事業づくり」というのもどのように説明するべきか、悩むところです。横トリは、「次世代」というキーワードを重視しているのですが、それをどういった指標で測るかでまったく異なる結論に辿り着きます。大勢の小中学生が来場すればよいのか、関心の高い少数に限定して特別な体験を提供すればよいのか。後者の場合は、教育の現場と同じで丁寧にやればやるほどコストはかかります。それでもやる意義がある場合は、何をもって意義があると説明すればよいのか。「費用対効果を超えた有用性」を訴えていく技術が必要です。

山内│なるほど。事業で追求すべき質については、公(おおやけ)色の強いプロジェクトでは、最終的には自治体経営のビジョンによって、目指すべき目標も、達成すべき具体的な成果も異なってくるのだと理解しています。特に大きな予算が動くものについては成果として期待される方向性も多様化するでしょうし、その優先度や舵取りについてはバランスが難しいですね。
自治体の事業は、地方自治法において「住民の福祉増進に努め、最小の経費で最大の効果を挙げる」ことが元来求められています。アートプロジェクトでは、逸脱のなかに可能性を見出すかのようなアーティストの姿勢であったり、混沌を内包させ余白を守ろうとする現場の姿勢であったりと、自治体の説明責任との狭間で事務局サイドが大変に苦労されるのだろうと想像します。そういった意味で、公共政策としてのアートプロジェクトは微妙なバランスの上に成り立っているわけですよね。
外部に目を向ければ、財政の健全化が叫ばれる時代に、事業予算の適切な見積などを含め、費用対効果についての社会の目線はより厳しくなっていると感じます。その意味で、社会に対して波及する様々な効果を丁寧に報告すると同時に、外部からの「投入された税金が適切に使われたのか」「予算の使用者は適切な事業運営を行っているのか」「報告内容は適切か」などの目線に対しても、事業主体自ら信頼に足る状況をつくっていくことも重要だと感じています。
そして、もしアートプロジェクトに関わる団体やアーティストが、自治体や企業などの利害関係者のビジョンや要求を超えて自律的にふるまいたいのであれば、経済的にもそれを可能にする状況をつくる必要があると思います。例えば特定の協力先に頼らない多様な財源を確保する、市場を創造していく、ということです。

帆足│そうですね。事業設計はそれを構成する財源によって左右されるので、「はじめが肝心」だと常々感じています。どんなに途中で方向転換しようとも、大胆な刷新を行わない限り最初に設計された形は生き残ってしまいます。
横トリの場合は、最初に「国際」という冠(International Triennale of Contemporary Art)をつけたことや、当初より国の機関が関わることで(最初は国際交流基金が主催。現在は文化庁の支援事業となっている)、ローカルな議論に留まらない、広い視野で事業の有効性を測る仕組みが内包されており、アカウンタビリティを議論する際にも、議論の幅を広くとります。
2003年から4年間ディレクターを務めた『アーカスプロジェクト』は、当初から茨城県と守谷市からの公的資金のほか、民間企業からの協賛金が財源になっていました。いずれ行政からの財源が少なくなることを見越しての設計です。このような事業設計は有効だと思いますが、最初からいろいろと見通すことは非常に高度なことです。そのときに私たちがどれだけ知見を積んでいるかが問われるわけです。

山内│仰る通りだと思います。

帆足│現時点では、「自律的にふるまう」というレベルに辿りつくまでの道のりは、まだ長いように思います。また、スポンサーはそれぞれに個別の要求を出してくるので、仮に公的資金への依存度が減って民間の協賛が増えたとしても、今度は民間が求めてくる協賛メリットに一つひとつ応えていかなければなりません。要求の海に呑まれるのではなく、一定の距離を保ちつつ、自分たちの要求とスポンサーの要求を一致させ、それぞれの軸足のバランスをとれるようになる必要があります。
お金の使途とその成果や効果を説明する際も、「より多くの人が来られるように間口を広げた」「人生観を変える体験を提供した」「世界的なアートの潮流で議論されるべき問いかけをした」ということを裏付けるデータをもとに根拠を示していかなければならないので、そのようなデータや情報をどのように集めるのか、事前に検討しておかなければなりません。そして、その成果や効果とそれにかかわる指標を事前に関係者と共有・合意し、同じものさしで測るようにする。異なるものさしで会話をするとズレが生じ、疑心暗鬼になります。数字だけではないものさしづくりと、それを互い共有することが求められています。

山内│規模の大きな芸術祭のように、複数のプログラムが集まって全体をつくっている事業では、期待される目的や効果、想定するターゲットも多様でしょうから、なおさらですね。

帆足│そうですね。ものさしづくりも簡単ではありません。また一過性のものさしではなく、「時間軸」のある指標を準備することが重要だと思います。例えば、複数年にまたがって事業を設計することが可能な場合、各年度の達成目標を段階的にして、経験を積みながら補完していくという事業計画が可能になります。

アカウンタビリティの罠

帆足│近年こうした事業の仕組みや説明責任についての議論は盛んになっていますが、アーティストに関する議論が置き去りになっていると感じます。
現在、芸術祭や地域密着型のアートプロジェクトが増加したことで、コミュニティとうまく付き合うことのできるアーティストの需要が高まっている状況があります。しかしアーティストには、コミュニティとの協働が向いているタイプのほかに、コマーシャルギャラリーに所属してコレクターがつくタイプもいれば、オルタナティブな活動を展開しているタイプ、どこにも当てはまらないタイプなどがいろいろといるわけです。
アートプロジェクトでアカウンタビリティを優先すると、説明しやすいアーティストやアートばかりを供給する事業になってしまいかねない。処方箋通りのアートだけでは、社会のなかに存在する多様な価値を映し出せないことがあるということを肝に銘じる必要があります。

山内│説明しやすいものばかり供給されるという方向に極端に振れてしまうのは残念です。アートの魅力は、限られた言葉や尺度で容易に説明できない部分でもありますが、説明できないものは伝わらないというジレンマがありますね。

帆足│アカウンタビリティについての議論を精鋭化していくと、資料も評価基準もきっちり整って事務的に説明できるすばらしいプログラムができるかもしれませんが、果たしてそれが表現として価値のあるものをつくり出せているものなのかどうか、同時に問い続ける姿勢が必要だと思っています。
本来、現代アートは、価値の定まらない先端的な表現です。物故作家による価値の定まった作品の収集・保存・展示を行うことが優先される美術館の制度には収まらない領域ですが、ここ20年ほどの間にアーティスト・イン・レジデンスやアートプロジェクト、芸術祭という多様な現場に公的資金が投入されるようになってきました。つまり、文化政策のなかに現代アートが位置づけられるようになってきました。税金を使うようになると「みんなに広く行き渡ること」が求められることもありますが、「みんなに広く受け入れられる」というように意図がズレるとエンターテイメントとの差が見えにくくなってしまう。
大勢の人を癒す薬のようなアートだけではなく、毒になるものや猥雑なものなども取り入れる余白をいかに持つか、その余白にこそ文化の存在意義があるということをよく考えていかないといけないと思っています。

アカウンタビリティを多角的に見る

山内│帆足さんのような立場は、枠組みそのものをハックしていくかのようなアーティストのチャレンジングな姿勢に対し、その表現のための防波堤となりながら社会と折り合いをつけていく、という役割ですよね。折り合いの付け方は事業主体のビジョンや社会的な位置づけにより変わるところだと思いますが、政治や市場との距離の測り方を含めて、調整役に期待される役割は大きいですね。

帆足│互いの立場でアカウンタビリティの意識を持つことが大事ですよね。
政治といえば、独裁の政権下で公的資金が充当される場合は、政権の持つ思想に従う、つまりプロパガンダになる恐れがある。いまは、民主主義を基盤とした制度のなかで公的資金が使われているという、ある程度民意が反映されている信頼感が存在する環境のなかでこうした議論をしているはずです。これだけ芸術祭などの大型プロジェクトも含めて公的資金が使われるようになっているので、政策・財源とアウトプット・成果の関係性についてもいま一度議論する必要が出くると思います。
日本は、かつてプロパガンダを優先し、表現が検閲される時代を経験しています。その反省もあってか、戦後の日本の文化芸術の振興は、国や自治体より民間のほうが積極的かつ先進的でした。美術展といえばデパートでの開催も多く、現代アートでは、セゾン美術館の前身である西武百貨店の西武美術館の開館が1975年でした。民間における現代アートの専門館は、原美術館の設立が1980年。そして公立美術館については、1989年の広島市現代美術館の開館まで待たなければなりませんでした。パブリック、プライベートそれぞれの可能性と限界があるかと思いますが、「自分たちが使うお金がどこから何のために流れてきているのか」自覚し、選択することも考えなければなりません。

山内│そうですね。お金について考えると、より政治や経済と無関係ではいられませんよね。

帆足│特にアーティストは、公的資金を受けることで、一定の政治性を帯びる覚悟をする必要があると思います。ただ、民主主義である以上、政治的な環境のなかにあっても自由と選択の権利はあると思います。アーティストというのは、新しいものを求めるために既存制度を覆すことを考えるし、それが役割でもある。公的資金とアーティストとの関係性については歪みのようなものが出ても不思議ではないということを理解しておく必要があります。かつてのようにパトロンからのオーダーを受けて作品を作るという関係性だけを維持してしまうと、アートである必要性がなくなってしまう。現代アートは、見たことのないものや、経験したことがないものを提示する役割を担っています。そこに耐えうる制度も同時につくっていく必要性を感じています。
現実的な話でいえば、現行の会計制度も、創造的な活動には不向きです。インスタレーションのように環境に合わせて毎回新しくつくるような作品の場合、つくっているうちに当初の計画が更新され、仕様書が変更され、予算も変わっていきます。そういう状況が発生してしまうと、会計担当との戦いがあるんですよね(笑)。
アーティストはどんどんチャレンジングなことを言ってくるかもしれませんが、私たちコーディネーターは公的資金を信託されている以上、できること、できないことがあるということをわかっている必要があります。対してアーティストにもこの仕組みや現実については理解しないまでも、知っていてほしい。私たちは、「それでもあなたでないと駄目」と思って頼んでいるわけですから。

山内│そうですね。芸術の分野に限らず、ものづくりやカルチャーの分野であれ、混沌や非効率から類稀なる創造が生まれると思っているのですが、有限な資源を利用して何らかの「価値」を社会に提供することが期待されている以上、組織の「経理」や、事業の「予算」は、必要な調整機能だと思います。当事者には「戦い」があると思うのですが(笑)。そうした制約やせめぎ合いがあるからこそ、担保されている部分もあるように思います。

帆足│アーティストの場合、予算の枠内で考えるというよりは、少しのお金でも何かつくるきっかけをもらったら、自分の目指しているものをつくるという行動に出ると思うんです。もちろんつくるプロセスでは、予算削減のために工夫しますが、そこをアーティストにコントロールさせるのは難しい。あえて超えてくる人たちもいますから(笑)。
だから公的資金を出す側は、言う通りにならない分、非常にやりにくいと思います。でも、言う通りにならないことを許容できるのが社会の度量の広さなのではないかという思いもあるんです。独裁や軍国主義の社会はその対極にあって、言う通りにならないことを許さない。そう考えると、どうやって多様性を担保するか、アートやアーティストの関わりが社会の豊かさを測る指標になり得ると思います。
ただ、そうした立場の異なる人たちが現場で予備知識なく直接出会うと対立してしまいます。どちらも妥協できない立場ですから。間をつなぐコーディネーターは、両者の考え方の違いを理解しておくことが必要です。そうでないと、「あの人が悪い」という矮小化された不満だけになってしまって、建設的な議論になりません。

社会の信用を獲得する想像力

帆足│「アカウンタビリティ」の意識は、監査だけでなく、例えば広報活動にも影響を与えます。広報は、どんな風にプロジェクトをやっているかを説明するアカウンタビリティを果たす活動の一部。広報活動を通してメディアとの関係性を築き、「広く伝える」内容の質が向上し、社会におけるアートへの理解も深まるのではないかと思います。

山内│そうですね。地域のお金が使われている以上、より多くの地域の人が、暮らしや営みに接続する身近なものとして、親しみを持ってもらえる距離感をつくること、当事者性をしっかり設計することも大事ですよね。危機管理広報的な観点からも、事前の決定プロセスで当事者を巻き込んで意義・目的の共有を丁寧に進めることには意味があると思います。

帆足│そうなんです。議会説明的なアカウンタビリティの表現だけでは一般の市民には伝わらないと思うんです。新聞などのマスメディアを通した広報も、アカウンタビリティにつながるように設計することが求められていると思います。アカウンタビリティとは直訳すれば説明責任ですが、つまりは信用を獲得するプロセスのひとつなのです。そのためにも技術が求められます。相手あってのことであれば、自分たちのことを伝えようとするだけではなくて、相手がどう見ているのかも把握する必要があります。
話は少しずれますが、一定の規模の事業の信頼を得るためにはやはり多くの人の支持が必要になります。そのためには大勢の人に実際体験してもらわないといけません。
横トリのように目標来場者数が数十万人というレベルになると、従来の現代アートの展覧会とは違う発想を必要とします。一定の社会的な支持を得るためには、自分たちの世界観がわからない人たちがいて、その人たちに間口を開かないのは、公平性を欠くということを想像できるようにならなければならない。
アカウンタビリティというと、ステークホルダーごとの利害を考えてしまいがちですが、広く社会の信頼を得るために、政治や経済も視野に入れて自分の手掛けるプロジェクトを誰にでもわかる言語で説明していくことが大事ですね。

山内│私もそう思います。「幸せな現場づくり」というテーマに立ち返れば、つまるところ「他者を幸せにしてこそ、自分たちが幸せになれるという意識」を持つことかな、と個人的には思っています。自分ではない他者を少し俯瞰的な視点から想像するということが、これから必要になってくるのではないでしょうか。

対談日│2015年9月17日