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第4回|表現をめぐる小さな哲学〜小金井アートフル・アクション!の現場より|宮下美穂×佐藤李青(後半)

公開日|2018.06.20

対談シリーズ「表現をめぐる小さな哲学〜小金井アートフル・アクション!の現場より〜」の第4回はNPO法人アートフル・アクション!の宮下美穂さんとアーツカウンシル東京の佐藤李青の対話(後半)をお届けします(前半はこちら)。対談は今回で最終回。前回に引き続き、話題は現場を動かす方法論から、最後は目指すべき場のありかたへと向かいます。

話し手のプロフィール
宮下美穂(NPO法人アートフル・アクション!事務局長)
佐藤李青(アーツカウンシル東京プログラムオフィサー)

(構成:大谷薫子)

その場にいるすべての人にとっての創造的体験

佐藤 以前、宮下さんにTARLの学校でお話しをしてもらったとき、みんなものすごく共感していたんです。でも同時に、どうしたら宮下さんが言うような場をつくれるんだろうとも言っていたんです。ふだんの仕事では「どう最短距離で成果を得るか」を考えてしまうけれど、宮下さんはそうではないやり方を話しているように思えた。そうしたいって思うけど、自分が手を動かすと、どうしていいかわからなくなるだろうと言っていました。

宮下 昔、李青さんに「宮下さん、結局、なにがきてもやり方はいつも同じですね、現場をつくる方法論はいつも同じですね」って言われたことがあります。覚えてます? 

佐藤 覚えてないですけど、言いそうですね(笑)。そう思うので。

宮下 たぶん方法論は変わらないんです。つまり指揮系統をはっきりさせて、参加する人たちに指示どおりに動いてもらうみたいなことはできないし、したくない。むしろ予測できないことがいっぱい出てくることのほうが面白いし、ズレとか違いから次のステップ、次に進むべき道が出てくることこそクリエイティブだと思うので、場をつくるときは、最小限の安全管理みたいなことだけは最初に言うけど、それ以外のことは、あまり言わない。説明って常に多いことがいいのか、わからないなって思いはじめているんですよ。「あなたはあなたの経験で判断して動いていいよ」みたいなことのほうが、実は動きが早いなって。
安全管理にしても、私がエキスパートというわけではなく、それぞれの人の気づきをあげてもらってそれを共有していきます。マニュアルにしてしまうとその時点で完成してしまって、逆に現場で役に立たない。

佐藤 個々の判断にかなり任せているということですね?

宮下 学校のワークショップでも、子どもたちだけが豊かな時間を体験するのではなくて、そこに関わる大人たちにとってもよい体験となるために、それぞれの人の判断で相対してくださいと言っています。それぞれの人がそれぞれの度合いで主体的に関わる現場のほうが、みんなにとって創造的な体験になるし、そうあってほしい。
そこには、それぞれの人の来し方に裏づけられた、ものごとへの対処の仕方や向き合い方がある。たとえば目の前で赤ちゃんが大泣きしているような状況下で、それぞれの人がそれぞれの人のアイデアや知恵や思いやりで「どうして泣いているのかな? どうすれば泣きやむかな?」と自分なりの関わり方を考えて対処すればいいと思う。学生は経験が浅いからダメというわけでもなくて、私たちの半分くらいの人生経験であるがゆえの目線でアプローチすることができますよね。
スピード感があるだけではなく、決して狭い意味で利己的にならず、思いやりに満ちた共同作業の中でその場にいるそれぞれの人が、それぞれの経験のなかでできることをやっていく。それが循環していく中で自由度が増し、有機的に自走する場というのが自然にうまれてくることがあって、みんなすごいなって思います。

準備と安全管理の幅

佐藤 そういう場での動き方は、スタッフのなかでリレーみたいに伝わっていくんですか?

宮下 基本的にはリレーですね。でも、リニアに一対一でバトンを渡すわけではないような気がします。あの人はこうやっているけど、自分だったらこういうふうにするとやりやすいといったことを試しながら。こことの関わりの長い人がバトンを渡す側になるとも限らなくて、関わりの浅い人から指摘されることも、学ぶことも多い。重要なのはそれを聞く場があるってことのほうかな。遠慮せずに「こういうやり方、どうだろう?」って、それぞれが言えることが大事ですね。

佐藤 それぞれの生活経験や職業経験から、知恵とかアイデアを出し合って?

宮下 たとえば「子どもが怪我をしないようにしてください」と言ったときに、怪我をしないやり方を自分でやって見せてあげようと思うならそうすればいいし、体の使い方が不慣れで不安定な子どもの体を支えてあげようと思うのならそうすればいい。一方で、少しくらい怪我をしないと道具の使い方を覚えないよねっていう話もあって、そのときは小さい怪我からしていったほうがいいっていう選択もありえます。
大人たちにも「怪我をしないように防具をしてきてください」みたいなことは言わないので、自己判断で手袋をして来る人もいれば、素手で来る人もいる。いろいろなあり方の人がその場でないまぜになっていることはむしろいいし、そういう大人の姿を子どもも見ればいいって思います。

佐藤 宮下さんが仰っていることって、本番で動ける体をつくるための態度でもあると思うのですが、準備運動みたいなことはしないんですか?

宮下 小学校に行くときは、ワークショップの前に実験とリサーチはすごくしますよ。素材や道具がこれで本当に適しているだろうかとか、この量で足りるのだろうかとか、この伝え方や考え方でいいのかとか。大人が7、8人集まって、実験を4、5回くらいはやって現場に行きます。子どもに刃物を渡すときは、切れない刃物よりも、切れる刃物のほうが怪我をしにくいので、ワークショップの前日に大人が刃物を研いだりね。そういう過程でアイデアが生まれることもとても多いです。

佐藤 その場合の準備と安全管理って、通常の意味よりは幅が広いかもしれませんね。「なにか起こった」ときに電話をかける病院の連絡先を知っているということだけではなく、素材や道具に触れておくことで「なにが起こりうるか」を身体的に理解しておくことや、経験豊富な人も含めていろんな人が現場にいることで、結果的に誰かの大きな怪我を防ぐこともあるかもしれないですからね。

宮下 30分のスピーチを30分でとりこぼしがないように話すための予行練習みたいなことはしないですね。その場その場であれが足りない、これが足りないっていうのは当然、発生するし、天候によっても事態はどんどん変わりますから。
いずれにせよ、これは危険だからとか、怒られるからといった理由で、無条件降伏することは絶対にないです。これをこっちに、これはあっちにみたいなことで、いわば「やりくり」しながら、課題を解決しながらできるかなって考え続けますね。その結果、想定していたこととは違うことになったり、予定外の豊かな産物が生まれたりすることがある。それを実現するのが、個々の多様な経験と、考え続けようとするマインドをもちつづけられる場なのかな。

佐藤 でも、そういうマインドをもつことは簡単にできないこともあると思うんですが、そうしたときはどうするんですか?

宮下 やってみる(笑)。まあ、まずはともかくやってみよう、って。
たとえば立派な桜の原木が手に入ったら、どうしたら子どもたちのワークショップで使えるかを考えて、どのくらいの大人の力でくり抜けるか、みたいなことを試します。そのときに、刃物の使い方について経験のある人はその技を尊重しますけど、使ったことのない人もやってみたらいい。刃物の使い方だけではなく、見守りとか、その人オリジナルの技が必ずある。
少なくともやってみる、なにかしらはかなりしっかりやってみる。でも、出た先ではほとんど即興です。全部設えてブースみたいに垣根をつくって、この人はこの担当、というようにパッケージして現場に行ったら、参加した大人にもセンシング能力はつかない。この状況、危なくない?みたいな感覚は、とても大事な気がします。

私的なセンサーでひらかれた身体

佐藤 日本にいる「移民」の若者たちを対象としたBetweens Passport Initiativeというプロジェクトを2016年度から担当しているんですが、このプロジェクトは「移民」の若者たちが社会で抱えている困難や社会課題に目を向けるだけでなく、彼ら/彼女らがもっているポジティブな能力とどう向き合うかに取り組んでいます。なにがポジティブかというと、たとえばなにかの状況において足りないものがあったとしても「その瞬間になにができるか」を考えて、なんとかやる方法を編みだしていくのがうまいんだそうです。準備や物が足りなくても、これだったらこうやれちゃうよねっていう対応の技術がすごく高い。

宮下 それこそダイバーシティだし、サバイバルですよね。系統立てて積み上げていかなくても、散り散りになっているパーツをかき集めて必要な「もの」「こと」にしていく。まあ、「栽培された思考」に対して「野生の思考」— 概念的にはずっと前から言われているブリコラージュなのだけど、百の仕事ができるという意味で百姓でもあるし、即興でもあるかな。
細かい専門分野ごとに準備とか技術を積み上げて堅牢な楼閣に身を潜めるみたいなことって、実は脆かったりする。そういう意味だと、細い糸作戦とよく言っている作戦(笑)もあります。休みなく働き続けることが社会人であるというレッテルを疑わない社会に対して、自分の感覚を信じて休んでみる、そこでの出会いや変化の中で菌糸のように人とつながったり、出来事につなげたりしていく。実はそちらのほうがタフだし、多様ゆえに変化に強いって気がします。

佐藤 それこそ、いま社会にとって必要な技術だという気がします。継続的に関わったり、安定してなにかをやり続けていくという考え方が、マイノリティになったりすることもあるのかもしれないし。

宮下 もちろん、技能や専門性を獲得するためには知識や技術を積み上げていくことが重要な分野もあると思うのですよ。それは大切なこと。けれど、無意識か意識的かは別にして、獲得したその技術や分野の尺度が、その人が世界と相対するときの価値判断の尺度になってしまって、物事と出会うときの曖昧さを排除したり、生物としての人間の原初的な能力や直観、好奇心が覆い隠されてしまうとしたら、もったいないですよね。
その人の原初的な能力や可能性を後ろに引っ込めて、社会のルールに乗って生きられるようになることが大人になることや人が社会化されることとされてしまったら、とても偏狭なものしか生まれない気がします。

佐藤 宮下さんの話をうかがっていると、社会に足りない技術を補うということではなくて、そもそもそういうあり方で動くことのほうが自然だよね、みたいな価値転換を促されるような気になってきます。なんでそれができないんだろう、という疑問すら湧いてきますが、一方で最初の質問に戻るんですが、実際にやろうとすると、とても難しいことなんだと思います。
宮下さんがつくる場に関わるうちに、そこにいられる技術、そこで動ける態度みたいなものが生まれるのでしょうか? それともなにか意識していることはあるのでしょうか?

宮下 なんでしょうね。「あなたはどう思う?」とか、「その方法で本当にいいの?」みたいな問い掛けはかなりしつこくしますけど。たとえば些細なことですが、ワークショップのアンケートをつくるときも、自然科学系の教育を受けた人に多いですけど、数量化できるということで項目をつくるんですよね。「分析しやすいから」って。
それはそれでいいのですが、ここでなにを分析したいの?ということを尋ねたときに、前年度と比較したいということもありますが、そのことによってそこで起きたこととか、聞きたいことが聞けなくなるのであれば、「比較」が重要なのではないかもしれない。なによりも、次になにかをつなげるために人になにかを尋ねたかったら、そのワークショップを開催した意図や方法に即した問い掛け方があるよね、って。
アンケートだけでなくミーティングの資料も、既成の方法にこだわる必要もなくて、大きな模造紙に書いたほうがと思えばそうすればいいし、しゃべり続けたければそうすればいい。自分のなかの問いとか、そこでつかんだことを伝えたり、残したりするのにふさわしい技、方法というのを見出してくださいという話は結構、長くして、本人が答えを見出すまで待ちたいと思います。そのときも、答えがあってそこに誘導するみたいなことはしたくはないし、そもそも答えはもっていない。だから、考え続けることに伴走はするし、私も自分の意見は言いますが、最後はその人に委ねたいと思っています。そうしなければ、やったことに対するリフレクションというか、照り返しも自分のこととして受け止められない。そういうやりとりは、あらゆる場面で起こります。結構しつこいですね(笑)。

佐藤 根気が要りそうですね。

宮下 そのとき、その場でいちばん必要なことはなんなのか、その問いをちゃんと考えるということですよね。さらにその問いを解くための方法というのは、アートに限らず、360度あらゆる技術が考えられるはず。そういうことを自由に考えられるようなクリエイティビティや場があることも大事だと思っています。
だから「アートがなにかを解決する」みたいなところに逃げちゃわないで、できるだけ事の本質は自分にとってなんであるのかを、全方位的に考えようとする心と体というのがあったらいいですよね。結局、とことん考えなければ問いの本質も、解決の本質もわからない。その問いを探すためには、身体が社会の規範や常識で閉じるのではなく、私的なセンサーでひらかれてなければ、見つけられないと思うんです。

佐藤 そうした問い掛けに対する多様な方法を持つという意味では、本来、教育という枠組みが拾うところでもあると思うのですが、見落とされがちな気がします。

宮下 いまの教育「システム」の問題はあるのかもしれないですね。考える動機とか、学ぶ動機とか、自分が本当にそれを望んでいるかどうかよりも、与えられた課題をクリアするための努力のほうが要求される。そのことで自分の感情とか違和感みたいなものを小さい頃から封じ込めていくと、自分の身体や心で出来事や身のまわりを先入観なしにセンシングする能力がどこかで摩滅していく気がするんです。
自分の感情や違和感を隠蔽して生きるのと、心を開いて受け止めながら生きるのと、どちらのほうがその人が持って生まれた潜在的な能力を発揮することができたのかなって思うとなかなか難しいなって。どんなに稚拙でも、その場その場で立ち止まって問わないと、どんどんイージーになって、気がつかなくなっていくという気がします。

佐藤 そうやって問い続けることは、ぐっと踏みとどまる力が必要そうですが、同時に宙ぶらりんな気持ちにもなりそうですね。

宮下 うん、答えの無さに耐えないといけないからね。先日、長島確さんにお話をうかがったのですが、長島さんは、自分のオリジナリティとか、確固たる「自己」を求めて内面を掘り下げ、求め続けることはけっこう問題のように思われているようで、作り手になろうとしている学生たちには「自分の中からなにかを出そうと掘り続けることをやめよう。それはきついし、案外出てこない。とりあえずそこに頼るとすぐ枯れる。その代わりたくさんインプットして、いろんなものを見るとかパクれ」と言っていると聞きました。また、いま若い人たちが作ったり見たりする映画や小説が描く社会、時代の物語にしても、ある種のハッピーエンドを設定しないとやっていられないぐらい、悲惨な絶望感を生きているというか、未来がない感があるのでは?という話もしていました。
私たちの世代の20代、30代の頃は、頑張ればなんとかなるというその幻想に騙されて生きて来られた。でも、今の若い世代にはその幻想のもつ言葉は通じない。高度経済成長は終わって、バブルも弾けたわけで、なりふり構わずに高みという幻想を目指すのではなく、むしろ宙づりにされた曖昧な日々を淡々と生きること。これを単純に日常などと言ってしまうつもりは全くないのだけれどね。
確固たる「自己」やある種のハッピーエンドを設定するのではなく、問い続けるということを保証するのは、自分を照らす、自分を客観的に眺めることを強いてくる表現やその表現を成り立たせる場があると良いのかな?と思います。蛸壺のような穴を孤独に掘り続けてもいいですが、その方法以外にもあるかもしれないねと、ささやかでも対話を繰り返しながら、体と心を緩やかに開いていくことができるといいな、と思います。

バラバラに存在しながら、照らし合う場

宮下 そういう意味でもそれぞれの人が自分自身のセンサーを頼りに身体を開いて、世界に身をさらしていくことができる場や状況って、けっこう大切だと思うのです。個々の身体が既成の価値や周りからの評価、期待のなかでがんじがらめになってシェルターを閉じていくと、孤立化したり、あるいは自分で自分を疎外してしまう。浅学ですが、近代においては、「世界」とか「家族」とか「共同体」みたいな価値が厳然とあって、仮に疎外された主体であっても「個人」がそのなかで相対化された。けれど現代は、そのどれもがなし崩しになって、個人さえもが分裂している感じがします。自分で自分を侵食している。「個人」や「自己」が溶け出して体をなさない。「表現」というのは瓦解していく自己をつなぎとめ、貼り合わせようとする懸命な防衛かもしれません。これは、なんだか、かきむしること、みたいな感じもします。この、貼り合わされた自己が、いわゆる近代的な自我という概念に沿うような自己である必要は全くないのですが。それにしても、自分を掘り続けることを少しやめることともつながります。

佐藤 そうした「個人」と「個人」の関係を編みなおすような場のあり方が必要なんですかね。

宮下 自分自身からも疎外されるような状況においては、「個人」対「個人」という構図がもはや成り立たないのかなって気もしているんです。肉体はそこにあるけどね。
数年前、国立ハンセン病資料館で一遍聖絵・極楽寺絵図の展示があって、会期中、オリジナルが展示されたので観てきたのですが、その絵には、身分の高い人や念仏踊をしている町衆、宴会をしている人もいたり、遊女もいるなかで、癩病を病む人も描かれていて、お寺の軒下のようなところでお酒を飲んでる描写もあったりするんです。この絵は、病むこととか弱さをその社会が、あるいは一遍がどのように捉え扱っているのか、その考え方が端的に扱われていて、興味深い。もちろん、この時代にも厳然たる差別はあったのでしょうが、街のなかに暮らしながら、さまざまなかたちで隣り合わせに居ることが、少なくともここに描かれています。
翻って、今日、個が溶け出ようとするぎりぎりの一人ひとりが、他者との違いや自分のなかにある分裂をも内包しつつ、閉じたシェルターを広げていくことで、他者や世界との境界線が重なったり緩んだりするのではないかと思うんです。かきむしるような状態で開けといわれても、それは……ってかんじだけれど、少なくとも、その人がその人としてシェルターを広げていくことのできるときが来るまでそれを待つ、一遍にはなにも求めずに受け入れる感じがあるような気がする。簡単なことではないと思うのですが。そしてこちら側に答えがあるわけではないのだけれど。

佐藤 ワークショップで、大人たちが研いだノコギリや鑿(のみ)を子どもたちに手渡すという現場のお話がありましたね。怪我をしないように研いでいるわけですけど、刺されたら死ぬものを道具として使っているともいえる。でも、だからといって、なにかあってもそう簡単に死なないものだとも知っている。シェルターが広がることで、そのすれすれ感みたいなものが人と人との関係のなかに生まれるとおもしろいかもしれないですね。

宮下 狭いシェルターのなかで身体を縮こまらせて生きているなって気づいたら、このくらいなら死にやしないんじゃない?っていう「このくらい」が広くなっていくと、生きやすくなるかもしれないですよね。多様な状況や様態/容態がバラバラに存在しながら、その存在を照らし合う場、みたいなものがうまれえるような気がするんです。許し合う場、ではなく照らし合う場、ですね。

(了)

国立ハンセン病資料室編『一遍聖絵・極楽寺絵図にみるハンセン病患者 ~中世前期の患者への眼差しと処遇~』図録では、画面左手で、踊り念仏を見学する群衆の「両手に下駄で「いざる」の人は障碍者、覆面の2人組は「癩者」」なのではないかと指摘されている。画像)国立国会図書館デジタルコレクション「一遍上人絵伝」第7巻より。

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