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どこまでが「公」? どこまでが「私」?―まちを使い、楽しむ暮らしをつくる

2020.03.09

執筆者 : 浅見旬

どこまでが「公」? どこまでが「私」?―まちを使い、楽しむ暮らしをつくるの写真

開催日:2020年1月29日(水)
ゲスト:mi-ri meter(アーティスト/建築家)阿部航太(デザイナー/文化人類学専攻)
モデレーター:上地里佳(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

「いまの社会で、これからの実践を立ち上げるための新たな視座を獲得する対話シリーズ」として全4回にわたってひらかれる対話の場「ディスカッション」。2019年度は、アーツカウンシル東京プログラムオフィサーの上地里佳が企画・モデレーターを務め、「これからの東京を考えるための回路をつくること」を試みます。
第1回(令和2年1月29日)のテーマは、「まちを使い、楽しむ暮らしをつくる」。公共空間に関わるプロジェクトを多く手がけるユニット・mi-ri meterと、文化人類学的なアプローチを持ちながら多岐にわたるデザインワークを行う阿部航太さんの2組をゲストに迎えます。

「私たちTARLで扱っているアートプロジェクトはまちなかで実施することが多くあるのですが、なかには“公共性”の問題や課題について考えさせられる場面に出くわし、立ち止まることがあります。そういったときに物事をどう整理すればいいのかという問いが、このディスカッションを開催するきっかけになりました。
 もうひとつ、個人的なことなのですが、私は沖縄・宮古島の出身で将来的には故郷に帰ってアートプロジェクトを立ち上げたいと思っています。そのとき、どのように自分の暮らしをつくって、まちと関わっていけばいいのか迷っています。今日は、その2つについて、一緒に考えていきたいです」(上地)

モデレーターの上地による、このディスカッションにあたっての想いが語られた後、ゲストがお互いにこれまでの活動を紹介しながら、それぞれの知見から「公」と「私」の関係性、そして役割について考えました。

建築から都市をみる:mi-ri meter

mi-ri meterが活動をスタートしたのは、2000年。日本大学芸術学部で建築を専攻していた宮口明子さん(左)、笠置秀紀さん(右)は、在学中から行っていた公共空間に関わるプロジェクトを続けるため、卒業後に2人でmi-ri meterを立ち上げました。

「mi-ri meterは建築設計を基本業務にしながら、それだけにこだわらない活動をしてきました。都市にまつわるセルフプロジェクトを発足したり、地域アートに関わったり、ときにはアートユニットとして芸術祭に招致されることもあります」(笠置)

2000年から、40に及ぶプロジェクトを発足した。

ジベタリアン、屋外電源コンセント、グラフィティ、酒屋のコンテナ、渋谷の花壇……都市で過ごすなかで気付いた違和感や兆候に反応して、プロジェクトを立ち上げることが多いmi-ri meter。20年間の活動を振り返ると、「さまざまなタイプのプロジェクトが大量にあるので、一見何をやっているかわからない(笑)」と話しつつも、綿密なリサーチとフィールドワーク、そして『建築から都市をみる』という視点はすべての活動に共通しています。

「建築やアートのような小さい視点から都市を見て、公共空間を個人に取り戻す、ボトムアップでまちを取り戻すということは世界各国でも同時多発的に行われてきました。一方で数年前からは都市計画の分野でも『タクティカル・アーバニズム』や『プレイスメイキング』という言葉で、小さいことからまちを変えていく動きが活発化しています。私たちもそういった潮流の中で、これまでの知見を社会に実装するために2014年から『小さな都市計画』という法人をつくりました」(笠置)

空間に作用するビジュアル、サインとグラフィティ:阿部航太

2009年から2018年にわたってデザイン事務所で働き、サインデザインの設計・制作に従事していた阿部航太さん。デザイン事務所を退職後、1年間南米に赴き、そのうちの半年間はブラジルに滞在し、現地のグラフィティ・カルチャーを追いかけたそうです。

「僕は、昔から空間とビジュアルの関係に興味がありました。デザイン事務所で働いていたのも、ブラジルのグラフィティ・カルチャーに惹かれたのも、それがきっかけにあります。そもそも日本のグラフィティをあまり意識したことはなかったので、こんなにもまちに溶け込んでいるブラジルの路上を見て、『そもそもなんでグラフィティって悪いんだろう、「まち」は誰のものなんだろう』と考えるようになりました」(阿部)

ブラジルの4都市を巡り、5人のグラフィティライターに取材・撮影を行った映像作品「グラフィテイロス」

ブラジルの公用語であるポルトガル語では「グラフィテイロ」と呼ぶように、日本の「グラフィティ」とは社会のなかでの立ち位置も異なるといいます。阿部さんはブラジル滞在中に現地のグラフィティライターを取材・撮影し、およそ70分の映像作品を制作。この日は20分に再編集したものを上映しました。そのなかでグラフィティライターたちは、自らの活動について自分の言葉で語ります。

「映像のなかで『雨や風、自然のものと同じように、ストリートは人のものではない』という話がありました。『誰のものか?』というものへの模範解答としては『みんなのもの』という意見が出がちですが、その問答は何も答えていないに等しい。この人の場合は、『ストリートは、ストリートのものなんだ』と言い切り、僕はなぜか腑に落ちました。それは、今回のテーマの『公』や『私』という話につながるのではないかと思います」(阿部)

「商」と「公」の対立構造?

2組の活動紹介を経て、いよいよディスカッションへ。阿部さんによる、ブラジルのグラフィティライターたちのドキュメンタリー映像から、「グラフィティ」をキーワードに話が展開されていきます。

―mi-ri meter笠置さん(以下、K ):映像の途中、ひとりのグラフィティライターが街路樹の実をとって、阿部さんと分け合って食べるシーンが印象的でした。そこで思い出したのが「自然享受権」という権利です。北欧には、自然に生えているものは採って食べていいし、誰かの所有の森であっても泊まってもいいという、自然を享受する権利があるんです。そこから「都市享受権」というのを空想しながら見ていました。そうしたら、壁の見え方も変わるのかもしれないなと。

―阿部さん(以下、A):確かに、享受という意識は彼らにもあります。ブラジルのグラフィティライターへ取材するなかで「グラフィティはいちばん民主的なアートだ」という言葉を聞きました。市民間の格差が大きく、美術館に行くことが難しい人々も多くいるブラジルでは、グラフィティは無償で享受できるアートでもあります。

―上地(以下、U):mi-ri meterは活動のひとつに「JGRF Graffiti in Japan」という、都内を中心にグラフィティの写真を集めて公開するサイトの運営もしています。

―mi-ri meter宮口さん(以下、M):そうなんです。mi-ri meterを立ち上げて間もない頃、都市を家に見立てて居心地の良い場所を探していたとき、気になる場所の多くにグラフィティを見つけました。その頃からグラフィティに注目するようになり、立ち上げたプロジェクトです。印象深いのは、当時QPという家のようなマークを用いた作風のライターを行く先々で見つけたのですが、後から知るところによれば、彼も都市のなかでも居心地の良い場所にボミング(落書き)していたといいます。つまり、都市に対して私たちと同じように感じているのだなと。

「家」という個人的なスケールに置き換えて都市を見つめ直した結果、そこにはグラフィティライターたちの仕事が先にあった。この話を受けて、阿部さんは、グラフィティという行為はまちを自分たちのものに取り戻すアクションになっていると語ります。というのも、ブラジルでは廃墟が乱立する危険なエリアにグラフィティが描かれることで、おしゃれなスポットとして認識されるような現象が起きているそう。グラフィティという極めて「私」的な活動が、「公」に大きな影響を与えているといいます。

―A:このディスカッションには、「公」と「私」というキーワードがありますが、僕自身はその間に対立構造はないと思います。むしろ商業、「公」と「商」のかみ合わせの悪さを日々感じています。いま都心部で展開されている都市計画のなかには、必ず商業施設がありますが、それが公共性を阻害しているんじゃないかなと思うんです。

―M:確かに、商業がはびこっているとまちがあまりにも管理されて余地がないです。グラフィティをイリーガルに行うのは行き過ぎかもしれませんが、個人が「勝手に」何らかの活動を行うのは本来当然で、あるべき姿だと思います。

都市が綻びはじめるとき

まちに住む人々が、自分で考えて「勝手に」まちを組み替えて、居心地良く住むこと。阿部さんは、クリエイターすら介在せずに、「公」や行政などの機関が、その大本の環境づくりを担うことを期待しているといいます。

―A:ブラジルでグラフィティが盛んな要因のひとつに、条例規制で屋外広告がほぼなくなったという背景があります。広告がなくなった代わりに、依頼主のもとグラフィティライターが合法的に描く、大型の「プロジェクト」が出てきた。制度や「公」の土台づくりをきっかけに、まちに新しいアクションが起きて、それぞれを認め合っていくという流れがすごく重要な気がしています。

―K:最初から最後まで「公」の管理下ではなく、環境や土台のところに注力した、一歩引いた施策があるといいですよね。

―U:「公」が、何かアクションを起こすためにあってほしい、というのにはすごく共感します。私たちがアートプロジェクトで大事にしているのは、違う文化や価値観に出合う機会をいかにひらいて いけるかという点です。けれど公的な機関と関わる以上、「これは不快感を覚える人がいる可能性があるからNG」というようなジャッジが付きまといます。どうしたらもう少し間口を広げられるか、常に突きつけられている課題です。

ディスカッションも終盤、グラフィティを発端にした「公」と「私」の話を受け、参加者から質問とともに自身の素敵なエピソードが語られました。

―会場からの質問:場所は、本来の目的性を失うと「公」に寄るのでしょうか。かつて電話ボックスがあったところに公衆電話の台だけが残っている場所を知っているのですが、この前、その台を使って子供 のおむつを替えている人を見かけて、すごくいいなと思ったんです。

―K:場所の読み替えができていますよね。場所に対して、凝り固まった考えがない。住宅にも「リビング」「ダイニング」とありますけど、使い方はそれだけじゃない。時として、市民、ユーザーは、ワイルドに場所を読み替えて活用しています。

―U:「場所の読み替え」というのは、大事なキーワードですね。与えられたものをそのままに受け入れるのではなくて、自分で読み替えながら活用するスキルやリテラシーを養うことが、「公」に縛られずに暮らしやまちを心地よく過ごすためのキーワードなのかなと思いました。

―A:「公」に縛られるのではなく、「公」を自らつくっていかないといけないですよね。電話ボックスの跡地でおむつを替えるのも、「公」をつくっていく行動のひとつだと思います。

―K:都市が綻びはじめたときが、いちばん楽しいと思うんです。電話ボックスを取り除いて、昔だったら台まで撤去されるはずのところが、恐らく費用の問題で取り残された結果、おもしろい動きが生まれる。阿部さんの映像にあった、ブラジルのグラフィティが溢れている路地裏の空間は、決して金銭的には豊かではない地域のなかの綻びのような場所だけれど、本来の意味でとても豊かな気がします。

うねる、「公」と「私」

私たちが、まちのなかでより居心地よく過ごすためには、何を心がければいいのでしょうか。
mi-ri meter、阿部さんの両者は、社会実験やワークショップ、まちづくりを通じて、「私」に対してまちを読み解くたくましい視点と活動性を身につけることを促しています。一方で、「公」による「私」を活性化するような施策が公布されれば、新しい局面がひらかれる ことを期待できるかもしれません。
ブラジルで起こっている事例でいえば、「公」による施策がまちにグラフィティを増やすきっかけになり、その結果、グラフィティという「私」的な営みが、まちの綻びともいえるようなエリアをポジティブな場所へ転回することになりました。
このディスカッションを経て、「公」と「私」は相互関係にあり、うねり、日々影響し合っていることが浮かび上がってきました。 ときに「商」という強力な要素が影を落とすことがあっても、「私」という小さな波紋が積み重なり、大きな波になり、また都市を循環していくのでしょう。上地から冒頭で問いかけられた、「まちのなかで自分の暮らしをつくり、関わっていく方法」、そのひとつとして場所を読み替え、「公」をつくる、能動的な態度が必要なのだとあらためて気付かされました。

執筆:浅見 旬
撮影:齋藤 彰英
運営:NPO法人Art Bridge Institute

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