第5回レポート Tokyo Art Research Labコミュニティ・アーカイブ・ミーティング ――能登・仙台・東京

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2025.05.21

執筆者 : 本多美優

第5回レポート Tokyo Art Research Labコミュニティ・アーカイブ・ミーティング ――能登・仙台・東京の写真

ミーティング前:甲斐賢治さん(せんだいメディアテーク)と稲垣素子さんより、能登視察ツアーの参加者へ「スズレコードセンター」の活動紹介などを行う様子

市民の手によって、地域の記録を残し、活用していく「コミュニティ・アーカイブ」。
そのスキルを、 複数の地域や経験を重ね合わせることから、広く共有する場をつくります。 記録を残すことは、出来事の記憶を伝えることにつながっています。とくに各地で頻発する災害の現場では、多くのものが失われる一方で風景や出来事を記録しようとする無数の試みが生まれています。
2024年、能登半島は1月の地震と9月の豪雨で大きな被害を受けました。本プロジェクトでは各地の災害にかかわり、活動を続けてきたメンバーが集まり、能登への応答のなかから、互いのスキルを共有するためのディスカッションを行います。

――プロジェクトメンバーのディスカッションの記録を、レポートとして公開し、繰り返す災害のなかに生きる術としての「コミュニティ・アーカイブ」のありかたを広く共有します。

コミュニティ・アーカイブ・ミーティングの取り組みとしては最終回となる今回は、会場を石川県珠洲市宝立町にある本町ステーションに移してディスカッションを行いました。
また、今回は「のと部」で一般社団法人NOOKが主催した能登の視察ツアーと同日開催となり、東京からも珠洲からもあわせて約20人が同席し、オープンな話し合いの場となりました。

珠洲・奥能登のアーカイブ活動の拠点となる「スズレコードセンター」のオープン予定日が約1ヶ月後に控えたこの日、その立ち上げに関わる西海一紗さんと沼田かおりさん、稲垣素子さん、せんだいメディアテーク/NPO法人remoの甲斐賢治さんも、現地でディスカッションに加わりました。

*レギュラーメンバーの自己紹介は第1回のレポートをご覧ください。

被災地の状況 ─── 大谷地区

本企画の2回目にも参加した坂口彩夏さんは、この日、珠洲市大谷地区から足を運んで現地参加しました。
前回の坂口さんの参加時(2024年12月)には、大谷地区の避難所が解散直前であるとのお話を伺いました。それから約3ヶ月を経て、現在までに現場の状況がどう変わってきたのかを伺いました。

仮設住宅での生活がはじまり、町に活気が出てきた

2024年末の避難所解散の準備には、本ミーティングの参加者である新谷健太さんも現場を手伝いに駆けつけました。無事退去も済み、大谷小中学校の体育館を避難所として生活していた人々の多くは、その近くに4棟、高屋にも新設された仮設住宅に移って、今も大谷地区で暮らしています。

当初は坂口さんがひとりで運営していた「外浦の未来を作る会」には、2024年12月末頃から写真家の橋本貴雄さんをはじめ、協力者も増えました。現在は仮設住宅の住民たちの集会所で映画鑑賞会やお茶会などのイベントを企画するなどして、地元の人々が定期的に集まる機会を設けています。
坂口さんは、もともと交流の多い大谷の住人さんが仮設住宅で過ごす様子を、「一体感と活気があって、小さな町のよう」と表現します。

今の大谷を見に来てほしい、人と人として出会ってほしい

坂口彩夏さん(画面中央)

豪雨災害での被害が大きかった大谷地区沿岸部の真浦町や仁江町では、2025年3月現在でも水道・電気が復旧していない場所があります。
地区全体としては「水や電気が使えるようになってきた」といっても、詳細に見ていくと状況はまちまちで、その情報が見えづらくなっていることが現状の課題だといいます。

川沿いに位置する大谷町では、住宅の2階の高さまで土砂が流れ込んだような場所も多く、泥出し作業や田んぼや畑の復旧作業など、現地ではやるべき作業も残っています。しかし、力仕事や作業のボランティア以外にもできることが多くあります。

国による復旧作業も進み、日々状況や風景が変化していくなかで、「今の大谷をもっと多くの人に見てほしい」という住人の声も増えてきました。
坂口さんは大谷を訪れる人々に対して、「コーディネーターを通してボランティアに来た人ではなく、人と人として住人さんに出会ってほしい」「町を見て歩いて、散歩している住人さんと世間話をしてくれるだけでもありがたい」と語りました。

「外浦の未来を作る会」では、現在、大谷の毎年恒例の行事である「鯉のぼりフェスティバル」を震災後初めて再開しようと準備を進めています。鯉のぼりフェスティバルの本番は、ゴールデンウィークの5月4日。坂口さんらは、多い年では2日間で1万人以上を動員した行事を復活させることで、また多くの人々が大谷を訪れる契機になればと考えています。

外浦の未来をつくる会 鯉のぼりフェスティバル準備の様子(撮影:橋本貴雄)

動く人と記録する人

坂口さんの「記録」や「アーカイブ」に関する状況にも、変化がありました。
「外浦の未来を作る会」の活動などに、大谷地区に移住した写真家の橋本貴雄さんに同行してもらい、写真撮影をしてもらえるようになりました。

泥かき作業や復旧活動の最中でも、避難所生活のなかでも、楽しい瞬間や「残したい」と感じる瞬間が多く、それが記録できないことが、坂口さんにとっての心残りでした。しかし、今は橋本さんが記録者として活動に立ち会うことで、坂口さんは「住人さんたちにとってやわらかい時間をつくること」に集中できるようになったといいます。

坂口さんから見た橋本さんの写真には、「‟被災地”としてではなく、今の大谷がそのまま写って」いて、報道の情報だけでは「震災や土砂災害の被害が大きかった場所」という印象で記憶されるかもしれないなかで、「このとき、そういえば楽しかったよね」と、住民どうしで思い返せるような写真を撮ってもらえているのだといいます。

「記録」の意味や見方は変化していくもの

「記録」といっても、広く第三者に現地の状況を伝えるような活動もありますが、大谷で行われている記録は、そこにいる人々にとって大事なものを残し、返していくための活動といえそうです。
話し合いは、東日本大震災での経験を振り返りながら、記録の意味合いを見つめ、向き合う時間に移っていきました。

時間が経つことで、記録から見えるものは変わる

震災から14年が経過し、今も記録の活用や発信をつづける「3がつ11にちをわすれないためにセンター(通称:わすれン!)」の活動を振り返り、小川直人さん自身が実感している「記録の相互作用や変容性」について共有しました。

記録される側にとっても、記録という前提があるからこそ話せることや、前に進める場面もあり、それは「記録の相互作用」であると実感しているそうです。また、さらに時間を経ていくと、記録が届く相手が変わっていったり、記録から汲み取れることが変わっていくこともあるといいます。

例えば、東日本大震災に関しては、当時を知らない世代も生まれてきています。東日本大震災の記録に触れることによって、そういった世代にとっても、血肉の通った「体感」として災禍の出来事を知りなおすきっかけとなることがあるそうです。

記録から表現になるまでには時差がある

2012年に陸前高田市に移住し、記録と表現の活動を行ってきた瀬尾夏美さんは、当時の被災地の様子を、「とにかくいろんな人が来て、いろんな視点や動きが同時に起こっていた」と振り返ります。

それぞれに現場を見て、大事だと感じたことをそれぞれが地域に返していくような動きをする人もいれば、外に開くことに全振りしていくような人もいたそう。
瀬尾さんは、「地域の中と外の人がそれぞれ役割を任せ合うための繋ぎ手みたいな役割を持った人がレコードセンターでも増えてほしい」といいます。
「実際、『地域のための記録』という視点で地域に入っていく動きも大事だけど、ここで起きていることと外で起きていることを、意見交換しながら社会に繋いでいくような活動が無いと、被災地が孤立してしまうような感覚がある」と、瀬尾さんは現在の能登の状況に危機感を示しました。

対して甲斐さんは、「仙台でも、そういった動きがとれるようになるまでは時間がかかっていた」と、東日本大震災での経験を語ります。

甲斐さん(画面右)

被災地には外から来る人が目指せる場所、出会いのきっかけになる場所が必要です。現在の能登では本町ステーションやあみだ湯などが、交流の場として機能しています。今回参加した浅見風さんも、交流の場から参加したひとりでした。外と内が交流できる場所をひとつずつつくることから、表現への動きがはじまっていくのかもしれません。

記録を残し、バトンとしてつないでいく

瀬尾さんは記録という行為との向き合い方についても語ってくれました。わすれン!では、震災から3年目に総集編として「記録と想起」というタイトルの展示を行いました。
「それまでは記録をただずっと蓄積しているような感じで、展示とかっていうアウトプットの機会はそんなになかった」と、瀬尾さんは当時を振り返ります。とにかく記録し続ける段階が続き、それを展示したり活用したり、振り返ったりできるようになるまでには、ある程度の時差があったとのこと。
その時差を埋めるまで外部の人たちが向き合い続けられるよう、レコードセンターという場や仕組みが機能する必要がありそうです。

当時、瀬尾さんが記録を表現にできたことのきっかけは何だったのでしょうか。

瀬尾さんは、小森はるかさんとともに2012年に陸前高田に移住しました。しかし最初は何をすればいいのか分からず、現地で感じたことをSNSに投稿していたそうです。震災から3年目、被災地での道路の嵩上げ工事がはじまり、具体的に町の風景が大きく変わっていくタイミングがありました。

瀬尾さんらは、住民たちが道路の跡から多くの記憶を想起していたことに気づきました。そして、それが失くなっていくことの意味、記録していたことの意味が見いだせたのだそうです。
「その喪失感は『第二の喪失』と呼べるくらい大きなものだった。復興のフェーズが変わったことが、記録を表現にしたきっかけだった」と、瀬尾さんは語ります。それまでわすれン!に蓄積されていただけの記録に自分なりに意味を見出し、腑に落ちたときに表現に変わっていった、と。

現在も東北を拠点に、一般社団法人NOOKで活動する佐竹さんは、記録を「バトン」に例えていました。記録されているものを見た人も、それを見ることで「今何が記録されているのか」「何が記録されていないのか」を知れるし、それによって被災地で自分のできることを考える足がかりにもなるはず、と。
記録を「バトン」として次に繋ぐための場としても、レコードセンターが機能していくと良いのかもしれません。

内と外の視点を行き来しながら、「腸内細菌」みたいに表現をつくる

ミーティングでは、新谷さんの活動についても言及していきました。新谷さんが金沢で行った展示「kari(sou)*」は今までの活動の記録であり、また、それを表現として落とし込んだものでした。その反響はどんなものだったのでしょうか。
*展示については、第4回目のミーティングレポートをご覧ください。

新谷さん(画面中央左)

新谷さんは、「すごいリアクションだった」と反響を振り返りつつ、展示内容は、被災という現実を咀嚼して、直接的すぎない表現に落とし込み、かなり抽象的に表現したところがあるとのこと。
そのため、親戚が珠洲にいたり、二次避難先から地元に帰れていないなど、現地を受け止めることがまだ困難な人にとっても来やすい場になったのではないか、と分析していました。

新谷さんは、情報を取捨選択したり、受け取りやすい形に変換したり、個人に蓄積されたものを分解したりしていく自身の表現活動を「内側にいながら、外側から見たときの意識も持つのを個人的には大事にしている。腸内細菌みたいなもの」だと言います。

被災地のなかの人の声にぐっと寄り添って応答したい人もいれば、外との視点を行き来したい人、外向けの発信に全振りしたい人など、多様なバリエーションがあります。全体での連携が取れ、どこかに負担が偏りすぎないことが重要になっていくのかもしれません。

記録や表現の場を設定することによってひらかれる「語り」もある

被災地にいる人に関わるとき、記録という行為自体が優先することの課題についても話し合いました。このテーマは、これまでのミーティングにおいても何度か話題に上がっています。瀬尾さんは、「記録が口実になる場もたくさんある。記録という場をあえて持つことでやっと話せることもあるし、できることもある。」と述懐します。
浅見風さんが行っている活動はそういう面でも重要な一例です。

浅見さん(画面右奥)

浅見さんは去年の3月から能登に通い、豪雨災害の後は大谷の泥出しなども自主的に行ってきました。東京・能登・広島の往復生活を続けるなか、能登を離れると日常に能登の話題がほとんどないという距離感を感じたのだとか。
「町を歩いているような日常風景のなかで、『そういえば今、能登ってどうなっているんだろう?』と感じられるような場をつくりたいと思った」と、浅見さんは仲間と一緒に展覧会「能登『あれから1年』展」を企画しました。

「能登『あれから1年』」展は、今回浅見さんとともにミーティングに同席した、林光太郎さんが番台を務めていた銭湯「電気湯」で行われました。電気湯のオーナーも実際に能登を訪れ、あみだ湯の新谷さんと仲良くなり「銭湯と銭湯をつなぐような展示をやろう」ということに決まったそう。
浅見さんたちは、あみだ湯を利用する人々から聞いた言葉や能登の風景を収めた写真を、電気湯の浴槽の中で鑑賞できる展示を1〜2ヶ月ほど開催しました。
「普段から銭湯にくるような町の人たちが、お風呂に入った後に休憩スペースで、東京大空襲のことや関東大震災の話を織り交ぜて能登の話をしてくれた」と、浅見さんは展示の様子を語りました。
能登の「あみだ湯」では、被災のことを忘れられるような日常空間の銭湯として。東京の「電気湯」では、能登のことを日常空間である銭湯のなかで見られるような場として。それぞれの空間と、出会いを活かした取り組みが行われていました。

浅見さんは現在、松田さんからのアイデアをきっかけに「宝立かるたづくりワークショップ」を本町ステーションでも実施するなど、継続的に能登とのかかわりを続けています。
「宝立かるたづくり」は、被災体験を真正面から直接語るのではなく、多世代どうしが宝立という町とその暮らしぶりを語り合うことができるものとして機能しているようです。

能登と外をつなぐ、人と場所の重要性

西海一紗さんからは、「地震から1年と少し経って、この1年ずっと「忘れたくない!」という気持ちが強すぎて、最近、逆に「忘れたい」という気持ちがすごく出てきている」という話も出ました。

西海さん(画面右手前)

一方で、記録することによって、やっと前に進めることもある、と西海さんは語ります。「去年、住んでいた家を出ることになったときに、そこから見える風景とかがすごく好きで、それをたくさん撮った。それを満足いくまで撮ったら、撮ったことですごく満足して、これで一回忘れられるって思えた」

これまで西海さんは、記録をしてほしい人々のもとへ赴き、写真や映像で記録活動を行ってきました。しかし、活動を通して自分自身のなかに蓄積されていくものをアウトプットできていないとも感じていたそう。そんな西海さんの言葉を受け、レコードセンターという場所が担うべき役割や機能について、立ち止まって考える時間が生まれました。

「記録をする意味とかっていうのは、遅れてやってくるものもある」と、瀬尾さんは強調します。
東日本大震災における瀬尾さんたちのように、震災の1年後に支援や復興などを目的として移住する人々は、能登にもいます。1年目の状況を知らないというコンプレックスや距離感を感じる人がいたら、これまでの記録が1年目の状況を伝えるをきっかけにもなるはず。「役には絶対立つ」と、瀬尾さんは重ねて強調します。

また記録のアーカイブ化には、記録を取る人だけでなく、情報を整理をする人も必要です。遠隔でもできるような、資料整理や見せ方の整理のようなことは、のと部など、外で動ける人たちに預けてもいいかもしれません。甲斐さんからは、そのプロセスすら記録したい、という意見も上がりました。
瀬尾さんは、俯瞰的な研究的視点も、被災地で何が起きていたのかを客観的に事実として伝えられる視点も、どちらも重要だと答えました。

このミーティングや、「星空と路」の関連イベントに参加していた一般社団法人Code for Notoは、俯瞰的に情報をまとめて発信する取り組みを行っています。そういったいろんな視点や知見、技術を持った団体や人たちと役割を分担しあっていけるといいのかもしれません。
一般社団法人NOOKの磯崎未菜さんは、「とにかくたくさんの人を呼んで、今西海さんが一人で背負っているものを、手放してもらえるようにすることを本気でやりたい」と意気込みを見せます。

今はミーティングの参加メンバーをはじめ、地震の前から現地に住んでいた人が中心となって活動をしているところが多いのが現状。能登にかかわれる人を増やしていくために、能登と外側をつなぐ取り組みが必要です。

5月頭には、大谷地区の「鯉のぼりフェスティバル」の開催や、スズレコードセンターのオープンなど、現地でも新たな動きがありました。さまざまな活動や拠点のはじまりが、たくさんの人々が今の能登を知り、訪れるきっかけになればと思います。

おわりに── 過去を共有し、いま、語りをひらく「コミュニティ・アーカイブ」にできること

能登でのコミュニティ・アーカイブの動きはまだはじまったばかり。そして、現地での記録・表現を行うだけでなく、その周辺や遠方からの動きも、同時にもっと必要であることが見えてきました。
それは際限のない作業のはじまりではなく、どんな人でも、どこにいても、どんな形でも被災地に対して関わりをつくることができるという希望でもあります。

遠くにいてもできることはなんだろう。むしろ、遠くにいるからこそできることはなんだろう。
近くにいるからできることは?近くにいるからできないことは?
能登・仙台・東京を繋ぐ本ミーティング企画では、そのような様々な視点で、被災地との関わり方を見つめる機会になりました。

本企画もこのミーティングで終わるのではなく、ここで見えてきた課題をより多くの人に伝え、活かしていくための資産として活用していきます。
読者の方々も、もし活用できる機会があればぜひこのバトンを受け取って、次に活かしていってくだされば幸いです。

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