現在位置

  1. ホーム
  2. /
  3. レポート
  4. /
  5. 「東日本大震災」後の実践(北澤潤×佐藤李青)

「東日本大震災」後の実践(北澤潤×佐藤李青)

2018.11.21

執筆者 : 高木諒一

「東日本大震災」後の実践(北澤潤×佐藤李青)の写真

レクチャー1「徹底解体!アートプロジェクト」第3回のレポートをお届けします。今回も本レクチャーシリーズのレポート担当高木がお送りします。前回は2000年代を中心に国内の芸術祭や国際展、アートプロジェクトを含め運営体制の変化をナビゲーターの佐藤李青が紹介しました。後半は美術家である北澤潤の活動を中心に「北澤潤八雲事務所」という体制・運営に分析を交えながら、「サンセルフホテル」と取手アートプロジェクトの関係についてディスカッションを行いました。

>レクチャー1「徹底解体!アートプロジェクト」 第1回レポート
>レクチャー1「徹底解体!アートプロジェクト」 第2回レポート

今回のレクチャーシリーズも、いよいよ最終回となりました。今回は2010年代の話、特に2011年3月11日に起こった「東日本大震災」後の北澤の実践を軸に話題は展開しました。そのなかで、このレポートは次の3つのトピックに絞って構成しています。ひとつ目は北澤が出展した展覧会『3.11とアーティスト:進行形の記録』(以下、『3.11とアーティスト』)と東日本大震災後に展開した「マイタウンマーケット 」について。ふたつ目は北澤が近年活動のフィールドとしているインドネシアでの活動と「コレクティブ」について。最後に、このレクチャーを通して、私が考えた北澤の活動(アートプロジェクト)について、少し触れたいと思います。

2011年3月11日に起こった「東日本大震災」。被災地となった福島県相馬郡新地町・小川公園応急仮設住宅にて北澤が行なった「マイタウンマーケット 」と2012年に水戸芸術館で開催された『3.11とアーティスト:進行形の記録』の話題からレクチャーは始まりました。 

『3.11とアーティスト』の開催趣旨では、本展が「震災を受けて現れた約30に及ぶアーティストのアクションと表現を、2011年3月から現在へと時間軸をたどる形で」振り返ったものだと説明されています。キュレーションを行なった学芸員の竹久侑さんは今回の震災が起こった際に、過去の震災、特に阪神・淡路大震災の時を参照の対象とし、震災後にアーティストや文化施設などが実際にどのような対応をしたのか、どういうことが起こっていたのかを調査したが、記録があまり残っていなかったと図録で述べています(※)。震災から一年半経った時点で、3.11以降に起こったそういった動きをきちんと残していくためにこの展覧会は企画されました。

※ 竹久侑「本展の企画についての記録と考察」『3.11とアーティスト:進行形の記録』水戸芸術館現代美術ギャラリー、2012年。

佐藤と北澤の対話では、今回の震災は特にアーティストの動きが早かったと言われることがありますが、その理由として1995年の阪神・淡路大震災の時に動くことが出来なかったという経験、東日本大震災ではアートプロジェクトという形式がすでにあったことがアーティストの活動に繋がったのではないか、そして、災害でアートプロジェクトが機能したのではなく、災害というフレームによってアートプロジェクトの意義が見えやすくなったとのではないか、と議論が展開しました。

次に『3.11とアーティスト』に出展し、北澤がその展覧会の名の通り当時「進行形」で取り組んでいた「マイタウンマーケット」について当時の状況やプロジェクトの進展を現場の動きを追いながら、北澤が話しました。

「マイタウンマーケット」は東日本大震災で被災した地域である福島県相馬郡新地町小川公園応急仮設住宅の中で、北澤が地域の人たちと対等になりながら住民たちと一緒にマーケットを開くというプロジェクトでした。

北澤と佐藤の対話では、特に「プロジェクトの転用の可能性」が焦点となりました。2011年7月10日の第1回から新地町で始まった「マイタウンマーケット 」、その活動の延長として2012年1月28日にマイタウンマーケットを他の場所へ出張して行う「マイタウンマーケットキャラバン」を開催しました。会場となったのは同じ新地町にある「がんご屋応急仮設住宅」です。これはマイタウンマーケットで出来た仕組み、作り上げるプロセスを応用することが出来れば、他の違う場所でも実施が可能ではないかという、ひとつの試みでした。しかし、結果的に、がんご屋応急仮設住宅で開催した「マイタウンマーケット」は続くことはありませんでした。

「マイタウンマーケットキャラバン」の試みで分かったのは、「マイタウンマーケット」は単に仕掛けや仕組みで成り立っているものではなく、プロジェクトをつくりあげるプロセスを住民の人たちとの関係の上で機能するプロジェクトであったのではないか、と話は展開していきました。「マイタウンマーケット 」は実施主体をマイタウンマーケット実行委員会とし、あくまで北澤はその一員であり、「作家」としての署名性をあまり強調しない運営を行ってきました。作家がいなくとも続くプロジェクトを目指していた「マイタウンマーケット」でしたが、そのやり方を別の場所へ持っていこうとして分かったのは「マイタウンマーケット」がアーティストと地域の人々との固有の関係を前提とする、作家の帰属性が高いプロジェクトであったということでした。

■参考リンク
『3.11とアーティスト:進行形の記録』(2012年10月13日(土)〜12月9日(日)/水戸芸術館 現代美術ギャラリー)
『阪神・淡路大震災 芸術文化被害状況調査報告書』(阪神・淡路大震災 芸術文化被害状況調査研究プロジェクト委員会、1995年8月/リンク先は公益社団法人企業メセナ協議会のウェブサイト)
「阪神・淡路大震災+クリエイティブ タイムラインマッピングプロジェクト」(2011年10月~)
「マイタウンマーケット」(2011年6月~2014年8月/福島県相馬郡新地町・小川公園応急仮設住宅)※ 一番古い記事は2011年4月25日に書かれた7日目の滞在記録。当時、北澤が感じていた整理し切れていない生の言葉と体感が書かれています。

北澤が近年活動のフィールドとしているインドネシアについて、特にコレクティブというあり方について佐藤との対話が行われました。

国際交流基金アジアセンターが設立されてから東南アジアとの人同士の移動と交流の中で、コレクティブとアクティビズムの再確認と議論が行われました。「コレクティブ」とはアーティストに限らずリサーチャーなど、様々な立ち位置を持つ人が集まり、グループのようなものを作って活動していることです。日本ではコレクティブを集団という意味で捉えていますが、その核となるのはその紐づいている「スペース」となり、その拠点に集まっている人たちがコレクティブと呼ばれます。

日本で使用されている「コレクティブ」という言葉について、北澤のインドネシアでの実感とは異なる部分があると話しました。インドネシアの代表的なコレクティブである「ルアン・ルパ」には30人ぐらいのメンバーがおり、役割はあいまいで、その時々で関わっている人が違うといいます。それに比べて日本での「コレクティブ」という言葉はアーティストチームと変わらないのではないかと続けました。それに対して、佐藤は美術におけるコレクティヴィズム、つまり「共同制作により、いかに個の表現を超えていくか」という見方があるのかもしれないと指摘しました。

最後に、これからの日本のアートプロジェクトを考えるうえでの、美術館や博物館の変化についても話は及びました。一般財団法人地域創造が発表した『災後における地域の公立文化施設の役割に関する調査研究-文化的コモンズの形成に向けて-』では、震災を受けて地域の文化拠点として公立文化施設が他の文化活動との連携をとって「文化的コモンズ」をつくっていくことを大事だと指摘しています。また、青森県八戸市の「八戸新美術館」では、「人」を軸に空間をつくる新たな美術館づくりに取り組んでいます。文化施設に求められる役割が変化し、その「外」を舞台としてきたアートプロジェクトとの関係も変化してくるのではないかといった、この先に関する議論に広がったところで、レクチャーは終了となりました。

■ 参考リンク
国際交流基金アジアセンター(北澤は2015年度フェロー
『災後における地域の公立文化施設の役割に関する調査研究-文化的コモンズの形成に向けて-』(財団法人地域創造、2014年)
「八戸市新美術館整備事業について」(八戸市ウェブサイト)

このレクチャーでは全3回を通して、「アートプロジェクトの表現と、それを支える仕組みと環境」と共に「北澤潤のこれまでの作品」について振り返りました。私は最後に、北澤のプロジェクトにおける「仕事」というものについて考えてみたいと思いました。北澤のプロジェクトには役割として「職業」や「仕事」が組み込まれています。「サンセルフホテル」ではホテルマン、「マイタウンマーケット」では喫茶店やTシャツ屋さんなどの店員、「ネイバーズ・ランド」では横浜在住の外国の人々が飲料・料理販売、物品販売をする各国のブースの担当としてプロジェクトを担っていました。そうした参加者は本番までの準備も行います。

プロジェクトにおける「仕事」は、他者をプロジェクトに迎える仕組みとして機能しています。北澤が描くヴィジョンと共に各々の参加者がお客さんという他者を前提とした「自分のしたいこと・してみたいこと」を仕事というかたちで展開しているように感じます。このレクチャーシリーズの中では、ある種の「作業」というものが、コミュニケーションを引き出す媒介として機能するという話がありましたが、北澤のプロジェクトでは単純な「作業」ではなく、「仕事」がその媒介としての機能を担っているのではないかと思います。これは第2回目のレクチャーで、北澤が自身の「八雲事務所」という体制について話した「社会の役割、態度としての意思表示であり、社会の中で仕事をするのが当然である」という考え方に繋がります。それは北澤のアーティストとしてのあり方であり、活動の原理となるようなものだと思います。

全3回のレクチャーシリーズ「徹底解体!アートプロジェクト」は、今回で終了となりましたが、レポートでお届けしてきたレクチャーの議論を、ぜひみなさんの実践でもご活用いただけたらと思います。

(執筆:高木諒一/写真:CULTURE

プロジェクトについて

関連レポート

SHARE