アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(谷中エリア)
執筆者 : 白坂由里
2019.12.20
2019年2月、Tokyo Art Reserch Lab 10周年を目前に、10年という時間軸でほかの活動も参照するべく全3回のレクチャーシリーズが行われた。地域を軸に展開するアートプロジェクトの実践者をナビゲーターに迎え、まちの変遷や時代ごとのアートシーンに精通したアーティストや研究者をゲストに交えながら振り返る。
「1960〜70年代の六本木は演劇のまちでした。戦前に千田是也ら10人の同人で立ち上げた俳優座が中心となり、養成所で育った演劇人から劇団青俳、青年座、自由劇場などがつくりだされました。1976年に寺山修司の天井桟敷が渋谷から麻布十番に移転し、1979年には串田和美がオンシアター自由劇場を旗揚げします。私は、大学卒業後の1974年、渋谷にあった安部公房スタジオに入団し、演出家の勉強をしながら六本木でもよく演劇を観ていました」。
2000年代から六本木に森美術館を開設した森ビルに勤め、六本木アートナイトの事務局長を務めた高橋信也さんのレクチャーは、若き日の六本木との接点から始まった。また、東京ミッドタウンの一帯はもとは軍用地で2000年まで防衛庁があったように軍隊のまちでもある。「乃木神社(明治天皇の崩御の際に殉死した乃木希典を祀る)があることでもわかるように、麻布連隊と呼ばれた旧日本陸軍第一師団歩兵第一・第三連隊の拠点でもあり、二.二六事件の主力にもなった第三歩兵連隊の建物の一部が国立新美術館別館として残されています。六本木トンネル上の赤坂プレスセンターは『麻布米軍ヘリ基地』と呼ばれる在日米軍基地ですね」。
六本木ヒルズは、造成前は日ヶ窪といういわば窪地だった。江戸時代には、豊かな湧水をいかして金魚店の「原安太郎商店」が創業し、開発の始まった1999年まで存続していた(五代目は前・六本木ヒルズ自治会長)。長府藩毛利家上屋敷の大きな池は、ニッカウイスキー工場を経て、現在は人工池になっている。道が狭くて防災上の問題があり、都市インフラの整備から始まって、再開発には17年かかった。
「その頃、私は表参道にあったアート系の書店『NADiff(ナディッフ)』で専務取締役を務めるとともに、アーティストとさまざまな展示企画を行っていました。森アーツセンターからショップやものづくり、オペレーションなどの相談を受けるうちに、故・森稔社長から森アーツセンターに転籍しないかと誘われました。3年ほど森美術館のショップの立ち上げのお手伝いに行くつもりが、2003年に森美術館の立ち上げメンバーとなり、「オープニングの『ハピネス:アートにみる幸福への鍵 モネ、若冲、そしてジェフ・クーンズへ』からジェネラルマネージャーとして、美術館経営もみることになったのです」。
ちなみに、ナディッフの前身は、1975年に池袋の西武百貨店内でセゾン美術館の開館とともにオープンした美術書店「ART VIVANT(アール・ヴィヴァン)」である。セゾングループの堤清二オーナーの文化戦略のもと、芦野公昭さんが西武百貨店の子会社として「ニューアート西武」を設立し、高橋さんは常務取締役として、この美術洋書や現代音楽のレコードなどを扱う画期的なショップを運営した。しかしながらバブル崩壊後の1991年、セゾングループの代表が代わり、文化事業から撤退。東京都現代美術館、水戸芸術館などに出店していたミュージアムショップは、芦野さんが「ニューアートディフュージョン」という新会社を設立して経営を独立させる。このとき高橋さんは、当時水戸芸術館のキュレーターだった森司にもショップの継続を相談している。
そんな高橋さんが森美術館に深く関わっていったのは、森稔社長も堤清二のように一般の企業家のイメージとは違っていたからだった。「小説家になりたかった人で、感受性豊かな柔軟な方でした。いきなり黒字にしろとは言わないからという言葉と人柄にほだされたのです」。
2003年10月の森美術館オープン時、村上隆が描いた六本木ヒルズ開業シンボルキャラクター「ロクロク星人」が街に溢れた。海外では高く評価されていたが、日本では新進気鋭ながら一般的な知名度はそれほどでもなかった村上を推したのは高橋さんだ。ナディッフ時代から交流のある、村上さん世代が森ビル等に受け入れられたら離れてもいいと思っていた高橋さんは、森社長なら理解してくれるだろうと考えた。そして2002年12月24日に森社長から突然携帯に電話があり、「村上さんに六本木ヒルズのシンボルキャラクターを依頼したい、この電話で決裁したってことでいいから」と依頼される。森社長は、年明け早々に挨拶に来たちょんまげ、ジーパン、スニーカー姿の村上さんを気に入った。高橋さんは当時カイカイキキのスタジオがあった埼玉県の丸沼芸術の森に何度も足を運ぶ。入稿直前、村上さんからの「すべてやり直したい」というギリギリの要望も飲み、森社長をモデルにしたキャラクターとロクロク星人との祝福感に満ちたストーリーのビジュアルやアニメが完成に至った。
さらに2015年には14年ぶりに日本での大規模個展、森美術館で開催された「村上隆の五百羅漢図展」の開催。「アーティストとのコミュニケーションの取り方の深さ、造形行為に対する読み取り、気づきももたらす最大の鑑賞者」と高橋さんを森司は評価する。
2003年10月の森美術館に続き、2007年1月に国立新美術館、同年3月に赤坂から東京ミッドタウン内に移転したサントリー美術館がオープンした。森美術館のゼネラルマネージャーに就任していた高橋さんは、この3館をつなぐ「アート・トライングル六本木」のマップ作成を推進する。「パブリシティがついて雑誌でも数多く取材され、車のメーカーから3館回るスポンサーがついたんですね。それで定期的に発行し、地図持参割引などもつけました」。これが好評で、東京都から六本木アートナイトの話が来る。ヨーロッパで行われているオールナイトイベントのようなものができないか。7団体に東京都と港区の共催で、オリンピック招致にも直結してくる話だった。
こうして2009年、都市生活の中でアートを楽しむという新しいライフスタイルの提案と、大都市東京における街づくりの先駆的なモデル創出を目的に開催する、一夜限りのアートの饗宴として「六本木アートナイト」がスタートする。六本木ヒルズ、国立新美術館、東京ミッドタウンの3か所を大きなコンテンツでつなぎ、その間に小さなコンテンツがたくさんある。現代アートやデザイン、音楽、映像、パフォーマンスなどの多様な作品が街なかに展開された。
2009年3月28日〜29日。第1回目のヤノベケンジから、毎回メインプログラム・アーティストが設定されていく。チェルノブイリの旅からつながるヤノベの《ジャイアント・トらやん》は、消防対策も万全に火吹きも実現した。第2回目のメインは、椿昇の《ビフォア・フラワー》。バルーン型の胞子が散らばり、奇妙な花をあちこちで咲かせているという立体作品だ。2011年には草間彌生の作品が完成していたが、東日本大震災で中止とし、翌年の2012年に10メートルを超える巨大バルーンの彫刻、やよいちゃんと愛犬のリンリンが披露された。実行委員長は森美術館館長南條史生。「埼玉や神奈川からもやってきて始発まで楽しんで帰ろうという構えの人が多くて気合が入りましたね」と高橋さん。
2013年は夜桜の効果もあり、83万人の延べ鑑賞者数を記録した。この年から主体的プレイヤーをアーティストに託し、日比野克彦がアーティスティックディレクターを務める。「開催の1ヶ月前に陸前高田市に行き、津波に遭った塩害杉を利用して木炭をつくり、当日は約8メートルの灯台の上で芸大の学生が24時間炭を炊いていました。灯台の下にはらはら落ちる火の粉を見つめながら一晩中過ごしましょうという、3.11後の東北とのつながりや追悼を込めたプロジェクト型作品でした」。
翌年も日比野さんがディレクターとなり、身体性をテーマとした作品やプロジェクトが展開された。六本木ヒルズアリーナの作品を手掛けたのは西尾美也で、膨大な布のパッチワークの家が風に揺れていた。音があまり出せない深夜帯、近藤良平さんはそれを逆手にとってサイレント盆踊りを行う。林曉甫さん(NPO法人インビジブル マネージング・ディレクター)が企画した、クラシックオーケストラの演奏で朝5時から行うラジオ体操はその後定番となり、毎年会場を埋めるほどの人々が集まっている。
「私の出身の京都にも祭りがたくさんあります。1995年以降グローバリゼーションが発達してアイデンティティーが置き去りにされ、都市が非常に似通っていくなかで、六本木の都市生活者の祭りを考えたときに、アートは非常にいい器でした。90年代からさまざまなジャンルのアーティスティックなエッセンスが『アート』と呼び習わされるようになり、音楽、演劇、映像など幅広くとらえることができるようになった。日比野さんの回にはモニュメンタルなものはないけれど、訪れる人にとってなじみがある。一昼夜集い過ごす日本の祭りと通底します」。
2015年は4月開催となり、アーティスティックディレクターは日比野さんのまま、メディアアートディレクターとして「ライゾマティクス」の齋藤精一さんが加わる。「メディアアートにとって、アプリケーションソフトの意図をアートの意図として受け止められるという位置づけができたと思います。しかし制作に非常にお金がかかり、さまざまな業界から受注するかたちで作品を作らざるを得ない矛盾も抱えている。一方アニメやコミックなどサブカルチャーは変わらず強いですね。そして日比野さんのプロジェクト型アートは、一般も参画しつつ、段階的に完成を目指しつつ、相互交流的なつくりかたで、あるゴールを目指す。震災以降、地に足を付けたかたちで定着していったように思います」。
2016年にはアーティスティックディレクター制を停止。文部科学省からの依頼でオリンピック関連催事に伴い10月開催となる。メインプログラム・アーティストは名和晃平。東京2020オリンピック・パラリンピックの公認文化オリンピアードのひとつである劇作家の野田秀樹さん総監修による「東京キャラバン」が、リオ五輪から帰ってきて、名和さんの《エーテル》をシンボリックに使いながら繰り広げられた。
2017年は9月に開催。メインプログラム・アーティストの蜷川実花はオープニングで「TOKYO道中」を繰り広げた。ASEAN10カ国の展覧会と連動するという初の試みもあった。2018年は5月開催に変わり、メインプログラム・アーティストは、金氏徹平、宇治野宗輝、鬼頭健吾の3名が手掛けた。金氏は六本木ヒルズアリーナに巨大な建物のような立体作品を設置。舞台装置にもなり、パフォーマンスやライブが繰り広げられた。宇治野は音と光の動く彫刻《ドラゴンヘッド・ハウス》、鬼頭は、国立新美術館でカラフルな布の滝《hanging colors》と鏡を敷き詰めた《broken flowers》のインスタレーションを展開した。
後半は、森の質問から、初年度から55万人を動員するビッグイベントになった裏側も覗いた。スケジュールは、土曜日朝10時スタート。日没からのコアタイムにはメインの作品が集積する。18時からキックオフセレモニーを行い、コアタイムが始まる。プレスプレビューは2日前の木曜日に実施。本番開催前の告知に間に合うよう配慮している。一夜明けた日曜の朝は地域の人々と10時から清掃する。観客の質が高く、屋内外とも酷く汚れていることはないそうだ。予算のなかでは監視警備に十分なコストをかけ、ここまでほとんどクレームなく、無事故で管理されている。また、印刷物を日本語と英語のバイリンガルで膨大に制作するなど広報費もかかる。「そのようなタフな現場を、一夜のイベントであっても毎年やってきて、10年継続してきた成果が出ている」と森。昨今の課題である多言語ツアー、障害者ツアーなど、インクルーシブ(包括的)な試みにも力を入れていくそうだ。
続いて、会場からの質問をいくつか紹介したい。主催者の動機をあらためて尋ねると「ミュンスター彫刻展など、屋外のイベントが増えていた時代でもあった。また、商店街を含む参加者は、六本木に、夜のまちだけじゃなく、薄くてもアートのまちというレイヤーをかけたいという希望があった」という。
一方、「六本木のまちが、ヒルズができてきれいになってしまい、電車から直結になってから限定されたエリアで終わってしまうという印象がある」という感想も。「テートモダンの元館長のニコラス・セロータが来日したときに、ロンドン・オリンピックはテートモダンにどう影響を与えたかと質問してみたら『まったく無関係だよ。第一アートは競技ではない』と即答でした。21世紀以降、アートは都市機能とともに語られることが多く、スラムクリアランスとも言われますが都市の暗い部分を一掃する役割がアートに要請され、実際に効果を発揮する面もあります。ブライアン・イーノは「アートはムダなものであることをみんな忘れているんじゃないか。アートは、二次的にいい感情と悪い感情を一瞬味わうことができる装置であって、それ自体には意味はないんだ」と言ったんですね。無意味だと認めたときに別の意味が生じることがあって、それを意図的に利用しようとするのはちょっと違うんじゃないの? という意味なんですが、それは腑に落ちるところもあります」という高橋さん。
美術界の未来に対する懸念も尋ねた。「芸術祭など、広がりすぎた地方のイベントの見直しがくるだろう、廃墟にならなければいいがという思いがある。と同時に、美術館に就職できない学生たちや若者がイベントを通じて学習する機会が多数あるが、どれだけ学習できていて、どこにいけるのか。また、70年代後半に西洋型美術館をモデルにした地方美術館が、東西崩壊前後に構造が入れ替わり、維持できていない。それは新しいアートの需要がワールドワイドに広がったということで、南半球の人々がインターネット社会を通じて北上し、アートに参入していくなかで日本は取り残されていて世界と連携できていない。地方の美術館は動員もできていなくてコンテンツも回ってない。そのうえ耐震問題が出てきたらどうなるのだろうと。ちなみに森美術館は、西洋からすると、極東の美術館で一番西側に近い、ハブのように見られている傾向があります。こうした海外の美術館での位置づけと、香港のM+やシンガポールの美術館と合わせた極東の美術館での位置づけとの両面から見る必要があります」。
最後に、「六本木アートナイトの最大の特徴は、あれだけ大きな規模のイベントを毎年やってきたことなのだと再確認しました。全3回のレクチャーの結びとして、持続性のある文化事業を10年間続けると、まちにどんな変化が生じるのかというひとつの事例を見ることができました」という森の言葉で、六本木エリアで展開されてきたアートプロジェクトの意義を振り返るとともに、今回のレクチャーシリーズが締めくくられた。
(執筆:白坂由里)