“災間文化研究”のはじまりに寄せて(佐藤李青)
執筆者 : 佐藤李青
2022.01.28
2022.01.28
執筆者 : 宮本匠
2021年7月から12月にかけて全6回で開催したディスカッション「災間の社会を生きる術(すべ/アート)を探る」。本プログラムのナビゲーター・宮本匠(兵庫県立大学大学院減災復興政策研究科准教授)がディスカッションを振り返りました。ゲストや参加者との議論を通して見えてきた、災間とは、どんな社会なのか? そのなかで生きる術(すべ/アート)とは?
筑豊の炭鉱労働者の中に「スカブラ」と呼ばれる人たちがいた。彼らは、ろくに仕事もせずに、「スカッとブラブラしている」から、スカブラなのだという。雪のように真っ白な手ぬぐいを目印に(もちろん多くの坑夫の手ぬぐいは炭塵と汗で真っ黒だ)、スカブラは地の底で遊んでばかりいた。ある大スカブラは仕事にはやってくるけど全く働こうとしない。代わりに、彼がしているのは係員の詰め所に時間を聞きに行くこと。他の坑夫が仕事にとりかかると、「もう何時になるやろうかな。いっちょ時間を見にいってやろう」と、すたすた詰所までのぼっていく。行ったらしばらくは帰ってこない。詰所で係員を相手にほら話を吹きまくっているからである。しばらくして現場に帰ってくると、「おい、もう八時を過ぎちょるぞ。なんぼぐずぐずしよるな。憩うて一服せんな」と、今度は坑夫を相手にほら話を吹く。みんなが仕事を始めると「もう何時になりよるやろかな。いっちょ、見にいってやろう」とふたたび詰所に。この繰り返しだ。
10人足らずの組でこんな怠け者が一人でもいると、彼の分まで働いてやらないといけないのだから大迷惑だ。ところが、スカブラは不思議と嫌われていなかった。彼がいる日はどんどん仕事がはかどったが、彼がいない日にはさっぱり能率が上がらなかった。彼がいない日には、時間が倍にも3倍にも感じられた。だからスカブラは大変な人気者だった。一度だけ、このスカブラが大変働いたことがあった。彼が詰め所でほら話を吹いている間に、大きな落盤事故があったのだ。彼は仲間を助け出すために休まず岩を払いのけた。やっと仲間が助け出された時の決めセリフは「このアホタン! きさまどんのおかげで俺は時間を見にいくひまもなかったぞ!」
この話は、上野英信さんがまとめた『地の底の笑い話』におさめられたものである。死と隣り合わせの過酷な労働の現場である炭鉱で人々がしていたのは、嘆き悲しむのでも、沈黙して耐え忍ぶのでもなく、ほら話や笑い話だった。『地の底の笑い話』からは、炭鉱の過酷な現実とともに、そこで人々が尊厳を失わずに生き生きと生きていたことを知らされる。そこには、戦後日本の経済成長の裏側で犠牲となった炭鉱労働者という顔だけではなく、それでも人間として生き抜いたひとりひとりの顔がある。最も過酷な生の中に、笑い話があったということは、私たちが災間の社会を生きていくときに、ひとつの視点を与えてくれるように思う。
災間という言葉を、このシリーズでは、提唱者である仁平典宏さんの用いている意味よりも強いニュアンスで扱ってきた。先の大災害と来る大災害の間にある社会、というよりも、常に災害が起きている社会、恒常的な災害の中を生きる社会として考えてきた。私たちはいつ自分が被災してもおかしくない時代にいる。かつて、災害は忘れたころにやってくると言われた。しかし、災間においては、災害は先の災害の傷がまだ癒えないうちにやってくる。
災間について、あらためて5つの点を確認しておこう。ひとつは、すでに述べたように、災間とは、(1)「災いと災いの間というよりも災いの中を生きるということ」。次に、その災いの解決は、(2)「『人類』の単位での連帯を必要としていること」。災害の恒常化の背景にある気候変動しかり、感染症然り。一部の国の人々だけがワクチン接種を済ませても、ワクチンの行き届かない国でウイルスは新たな変異を繰り返してしまう。自分たちだけ生き延びようとすることが、自分たちを含めた人類全体の破局を近づける。そして、(3)「災いへの対処には時間の制約がある」こと。2030年までに、産業革命期から比べた気温の上昇を1.5度におさえたとしても、地球上のサンゴの大部分が死滅するとされている。このような危機を、日本社会は人口減少と高齢化、低成長の帰結として、(4)「社会資源が縮小する中で対応しなければならない」。このような、解決が大変に難しい問題について、手持ちのカードがほとんどない状態で立ち向かわなければならないことが、災間について最も重要な次の特徴をつくりだす。それは、(5)「災間という不都合な事実を『見なかったことにする』否認が事態を悪化させること」。ここで災間は、私たちのふるまいゆえに、社会を加速度的な破綻へと導くものとなる。
だから、災間の社会を生きるというときに、私たちはまずもって災間の問題に向き合おうとする主体を社会の中で回復させることから始めなければならない。けれど、この主体は、災間という問題の深刻さを訴えれば訴えるほど弱体化するという厄介な逆接の中にある。このことの理解が災間の社会を生きる術にとって最も重要だと思う。気候変動のリスクをどれだけ正確に把握し、必要な対処を明確にしても、それだけでは人々を説得、連帯させることはできない。この困難を克服するには、正攻法ではない、何かしらの迂回路、跳躍(リープ)が必要だ。一見、災間の解決とはむしろ無縁に見えるようなもの。災間の問題に向き合う主体の回復につながるもの。それはどのようなものか。
ナビゲーターの佐藤李青さんが、震災後に女川町を訪れたときのこと、まだ津波の痕跡が生々しい被災地で、女川の人々は「夏祭りをしたい」、「祭りをやらないと復興できない」と話していたことを紹介された(第2回)。李青さんは、「社会が考える順序と、被災地の人々の順序が違った」という。社会が考える順序が正攻法なら、被災地の人々の順序が迂回路だ。これは、ゲストの瀬尾夏美さんがこれこそがアートだと紹介された、陸前高田市でかさ上げが決まっている土地で人々が世話をしていた花畑にも重なるところがある(第3回)。あるいは、吉椿雅道さんが紹介された、新潟県中越地震の被災者にとっての牛の角突き、「俺たちは文化を守ってきたと思っていたけど、本当は俺たちが文化に守られてきたんだ」という言葉の中にも、この迂回路は存在する(第2回)。さらに、山住勝利さんが被災体験を伝えるというときに、その手前に被災体験を伝えることなんてできないこと、共感不可能なものがあることを置いていたこと、ここにも迂回路が存在する(第4回)。
復興をするのに祭りが必要だということ、花畑が必要だということ、住宅再建がまだ途上にあっても牛の角突きをしたいということ、簡単に人と共有できないようなかけがえのない体験があるということ、これらは何を意味しているのだろうか。かさ上げが始まった陸前高田の被災地では、元の住民らはまちを歩いていても、自分が被災前のまちのどの場所にいるのかわからなくなり、何とも言えない喪失感があるのだと聞いた。このとき、花畑にいると、そこで土をいじったり、友人と何気ない話を交わすことで、気持ちを落ち着かせることができる、ほっと一息つくことができるんだと、花の世話をしている女性が話してくれた。思いきって抽象化してみると、この花畑とは、自然と他者との交流を通して、自分が世界の中でどこにいるのか、何ものなのかを教えてくれ、力を与えてくれる場所だ。
熊本地震の直後、「美術館は開いていないのか」という声が寄せられ驚いたと、坂本顕子さんはいう(第5回)。人間が生きていくときに、生きるために必要なものを先の正攻法、生きる必要からはみ出すものを迂回路とあらためて整理してみると、この迂回路というのはふだんの生活ではあまり意識されずに、場合によっては生きる必要に埋没しているのかもしれない。けれど、災害のような危機の中にあるとき、それは浮上し、人を美術館へと、祭りへと駆り立てる。そう考えると、この迂回路こそが、実は人間が人間らしく存在するための「正攻法」だったのではないかと気づかされる。
災間の社会とははっきり言って苦しい社会だ。生きていくのがしんどい時代である。災間において進行する増大する危機は不可逆的なものだ。残念ながら、私たちはこの先、ますます頻繁に、そして激甚化する災害によって被災することを避けることはできない。すでに、今世紀に入って3例目の新型コロナウイルスによる感染症も、covid-2x、covid-3xとして私たちを襲うだろう。そして、少なくともこのシリーズに参加した私たちは、人生のどこかで必ず南海トラフの巨大地震と巨大津波を目撃することになる。また、人生のどこかで必ず首都直下地震がもたらす人類史上例を見ないような巨大都市の地震災害にも出会うことになる。自らもその犠牲になるのかもしれない。私たちの目の前には、このような恒常化する災害とカタストロフィが、何度も繰り返すが、残念ながら約束されたものとして存在する。
このような苦しい時代をどのように生きることができるのか。冒頭のスカブラを思い出してみたい。彼らは地の底の地獄で笑い話をしていたのだった。彼らはなぜ笑うのだろう? 死と隣り合わせの炭鉱で働く自らの境遇を自嘲していたのか?そうではない。上野英信は、炭鉱労働者の過酷な生活を描いた本のタイトルを「笑い話」とした理由について、「今日も依然として、働く民衆が自ら名づけて『笑い話』と呼ぶ生活に生きており、生活と労働のもっとも重い真実をそこに託しているから」だという。「生活と労働のもっとも重い真実」とはなんだろうか。これは、多かれ少なかれ、人間として生きていく以上避けることができない苦難や悲劇が存在することを認めたうえで、それでも人間の尊厳を失わずに生きていく道があるということではないか。不慮の災難を避けることができないことを認めるのは「重い真実」だ。それは人間の限界、弱さを認めるということである。けれど、それでも人間は、ただ苦境を嘆いて生きるのだけではない術(すべ/アート)をもっている。
災間の社会は、その問題に向き合う主体が消失してしまうことで、危機が加速度的に増大してしまうことは先に述べた。だから、災間においてはまず主体の回復が大切なのだと。けれど、ここでの主体とは、災間の問題を根本的に解決するに至るような主体ではないのかもしれない。負け戦であり、撤退戦である災間を、人間にとって好都合なものにつくりかえることはできないのだから。すると、ここで回復されるべき主体というのは、問題を解決する「強い主体」ではなく、自らの限界を認めた「弱い主体」だ。けれど、この「弱い主体」は、限界を認めつつも、最後の最後の一点で人間らしく生きていくことをあきらめない、その意味での主体性が残されている。
だから、災間の社会を生きる術(すべ/アート)とは、この「弱い主体」を回復させる術(すべ/アート)ではないだろうか。それは、問題解決をめざす正攻法のわきに迂回路として、祭りや花畑として、笑い話として存在している。
さらに、この祭りや花畑によって「弱い主体」が回復させられるというのは、祭りに参加したり花の世話をしたりするように、実際にその迂回路を歩むだけではなくて、そのような道があるのだということを何かしらの記録によって知ることでも可能だ。ここで、記録は媒体となって「弱い主体」を時空間を超えてつなぐことができる。上野英信さんの本には絵筆で豊かに表現された炭鉱労働者たちのくらしの絵が挿入されている。これは、山本作兵衛さんというひとりの坑夫が地の底の世界を伝えるために描いたものだ。作兵衛さんは多くの炭鉱、ヤマを渡り歩いた。そしてそこで見聞きしたことを92歳で亡くなるまでに1000点以上の記録画としてこの世に残した。晩年のインタビューで作兵衛さんは、「片言交じりで恥ずかしいのもかえりみず、絵や文にしたのは数百年後の子孫のため、明治、大正、昭和のヤマはこうだったといっておきたかったからです」と述べている。迂回路がふだんの生活ではあまり意識されずに埋没しがちであるなら、まずは虚心坦懐に、日常をただ記録するということが、迂回路を記録する「正攻法」なのかもしれない。思い返せば、本シリーズで紹介された数々の記録にもその共通のモチーフが存在したし、ナビゲーターの高森順子さんが長く取り組まれてきた手記(阪神大震災を記録しつづける会)もこの「正攻法」そのものだ。
当事者研究で有名となった浦河べてるの家のキャッチフレーズは「苦労を取り戻す」だ。そこでは専門家によって治療されるべき病として精神疾患を退けるのではなくて、病を自分とは切っても切り離せない私の一部として扱い、苦労を抱えて生きていくことを肯定する。スカブラが地の底で笑うのも、現状を肯定しているのではなく、生を肯定しているからだ。迂回路に「正攻法」を見いだし、客観的な苦難の中でそれでも尊厳を失わずに生きてきた人たちがこれまでも多く存在したし、これからも存在するだろう。その結節点を見出し、つくり、記し、かなで、語り、えがき、演じることが災間の社会を生きる術(すべ/アート)だと思う。
仁平典宏(2012)「災間の思考 繰り返す3.11の日付のために」赤坂憲雄・小熊英二編『辺境から始める 東京/東北論』明石書店.
西日本新聞社(2011)『ヤマの記憶―山本作兵衛 聞き書き―』.
上野英信(1967)『地の底の笑い話』岩波新書.
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