共生社会を聞いて、みる

東京都・府中市芸術文化連携事業「共生社会を聞いて、みる」は、 府中市の地域共生社会実現に向けて様々な取り組みを進めていくために、 共生社会にまつわる活動に取り組むゲストをお迎えし、お話を伺う配信番組です。 番組では話の内容を「見える化」するため、会話を聞きながらリアルタイムで 文字やイラストを使って1枚にまとめる、グラフィックレコーディングを 採用しています。

詳細

Vol.0ゲスト:高野律雄(府中市長)
パーソナリティ:宮川亜弓(Artist Collective Fuchu[ACF])
グラフィックレコーディング:清水淳子

今後の配信予定
Vol.1 中川英治さん(パリ2024パラリンピックブラインドサッカー監督)
「スポーツにおける共生社会について」
Vol.2 高田裕美さん(書体デザイナー・株式会社モリサワ)
「誰もが読みやすい!?奇跡のフォントとは」
Vol.3 小野寺敏雄さん(府中市聴覚障害者協会会長)
「2つあるって知ってた?日本手話と日本語対応手話」
Vol.4 柴田まりさん(アール・ブリュット立川実行委員)
「アール・ブリュット作家との家族としての関わり」

つくることを考えてみよう 地域を生きる

多摩地域を舞台に、地域の文化的、歴史的特性をふまえつつさまざまな人々が協働、連携するネットワークの基盤づくりを進めている『多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting』において実施した、学校を拠点とした地域プログラムの記録集です。

NPO法人アートフル・アクションは、これまでの活動の中で、多くの小学校の図工などの授業と連携し、たくさんの市民の方々やNPOスタッフ、アーティストが参加する機会を作ってきました。この冊子では、企画づくりや授業に参加したスタッフが、地域との連携を視野に入れながら、連携の考え方や授業のプログラムなどを振り返ります。

学校と地域の浸潤し合う双方向性のある関係は、どちらにとっても、自らの将来を自ら考えていくための好機になるように思います。

(p.3)
目次
  • 0 はじめにーなぜ地域なのか?
  • 1 地域を知るー「知る」とは何か?
    ・アーティストの気づきを通して、地域への新しい視野が開ける
    ・学校との関係を地域の視点で知る・考える
  • 2 調べるって?
    ・物語の地層をめぐる〜図工研究会
    ・調べたこと、見つけたもの・ことを構造化し、探求する
  • 3 きっかけについて考えるやってみる
    ・さすらいの竹林が図工と出会う〜その1
    ・さすらいの竹林が図工と出会う~その2
    ・身近な植物から色を抽出して絵の具をつくる
  • 4 つながりをつくる、育てる、引き継ぐ
    ・そこにある歴史と資源に気づく〜縄文ハウス
    ・地域の施設とつながり、育む〜ハンセン病資料館の見学から
    ・国語+マタギ+造形による知覚の拡張
    ・桑の葉染めで総合学習〜大学との連携
  • 5 振り返る
  • インタビュー
    ・眞砂野 裕(昭島市立光華小学校校長)「風」を吹かせることが学校の仕事
    ・猪瀬浩平(文化人類学者)「答え」がない場所で、折り合いながら生きていく・・・

つくることを考えてみよう 表現のひろがりと可能性をめぐる

多摩地域を舞台に、地域の文化的、歴史的特性をふまえつつさまざまな人々が協働、連携するネットワークの基盤づくりを進めている『多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting』において、2024年12月から2025年3月アーティストの弓指寛治さんが、昭島市立光華小学校4年2組に通った記録です。

弓指さんの滞在の断片について、彼の日々の気づきに、観察者として伴走した吉田さんから見えたものを併記しています。弓指さんはもとより、吉田さんも今日の社会と生きるひとりの直観とこの間に見えたことを相対させ、自身の言葉で書き綴っています。

冊子の後半は、表現のひろがりと可能性をめぐるをテーマに、アーティスト・学芸員の方々へのインタビューをもとにご自身の活動から美術教育の話まで幅広く表現の可能性について伺った記録を収録しています。

鬼ごっこに誘われたら断らないこと、大事です。やっぱり、あれは大人は断ってしまうじゃないですか。しんどいし、寒いし

(p.3)
目次
  • アーティストが学校にやってきた
    ・弓指寛治、小学4年生になる
    ・授業と日常
    ・”2回目” の学校生活
    ・小学4年生のリアリティ
    ・図工室内のアトリエ
    ・観察者のあとがき
    ・対談 弓指寛治(アーティスト)×古賀久貴(昭島市立光華小学校図工専科教諭)
    ~アーティストが「小学4年生」として学校にいるということ~
  • インタビュー集 表現のひろがりと可能性をめぐる
    ・描くこと 岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員)
    「描くことがものの見方を鍛え、そして社会が変わっていく」・織る・ほどく 呉夏枝(美術家)
    「手を動かし想像をめぐらせながら問い続ける」・言葉と芸術 山崎佳代子(詩人、翻訳家)
    「ひらき、つなぎ、紡ぐ 詩/言葉の可能性をめぐって」

    ・身体性と表現 曽我英子(アーティスト)
    「問いが形になるまでの距離と時間」

    ・彫ること 安藤榮作(彫刻家)
    「自分と木と斧、そして世界と。エネルギーが循環するよろこび」

○ZINE -エンジン- ACKT03

アートやデザインの視点を取り入れた拠点づくりやプログラムを通じて、国立市や多摩地域にある潜在的な社会課題にアプローチするプロジェクト『ACKT(アクト/アートセンタークニタチ)』。このフリーペーパーは、まちに住む人に情報を発信、収集することで、これまでになかった縁がつながり、これからの活動のきっかけとなることを目指しています。

第3号のテーマは「星座、はじめました」。ACKTでの活動紹介のほか、日本各地のさまざまな実践への取材を通じて、一人ひとりが自分らしさを考えながら、個性と連帯のプラットフォームについて考えています。

見えない星、彗星のような存在、そういった同じものだけではない集まりこそが「星座」なのかもしれません。

目次
  • みんなで星座をつくるには(文:関口太樹)
  • 華僑・華人がつなぐ星座とは(文:天野陽日)
  • 船遊び「みづは」から見るトウキョウシティ(文:石本千代乃)
  • 大学と商店街がつくりだす星座とは(文:加藤健介、構成:加藤優)
  • エンジンルーム 振り返り会議(文:山本毱乃)
  • 編集後記(文:田尾圭一郎)
  • ACT’s ACTION
  • 国立高校「私たち国高新聞部」
  • たまたまブラブラ散歩(堀道広)
  • CAST「田尾圭一郎」
  • LAND「HOUSEHOLD」

人と活動をつなげる、「かかわりしろ」となる場や時間のあり方とは?(APM#15 後編)

毎回、まちで活動するさまざまなゲストを招き、これからのアートプロジェクトのためのヒントを探る、東京アートポイント計画のトークシリーズ「Artpoint Meeting」。その第15回が、2024年12月14日、「港区立男女平等参画センターリーブラ」にて開催されました。

港区の文化芸術施設や団体などを支援・育成するための取り組み「港区文化芸術ネットワーク会議」との共催で開催された今回のテーマは、「プロジェクトを広げる、“かかわりしろ”のつくりかた」。プロジェクトと、それにかかわりや関心をもつ人たちをつなぐ上で欠かすことのできない余白のありかた、つくりかたについて、語り合いました。

ゲストとして、水戸芸術館現代美術センターで1993年から続く、高校生を中心とした幅広い市民とカフェ運営や部活動を行う企画「高校生ウィーク」などに携わる教育プログラムコーディネーターの中川佳洋(なかがわよしひろ)さん、そして、京都のまちで1998年より多種多様な人たちが集まる場づくりを行っている「バザールカフェ」のメンバー、狭間明日実(はざまあすみ)さんと、ソーシャルワーカーの松浦千恵(まつうらちえ)さんらが登壇。実践のなかで感じてきたことを話しました。

人と人、人と場をつなぐものとは何なのか? イベント当日の模様を、ライターの杉原環樹がレポートします。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:高岡弘*1、2、4、5、10、12-18枚目)

レポート前編はこちら>
人と活動をつなげる、「かかわりしろ」となる場や時間のあり方とは?(APM#15 前編)

トークセッション2
さまざまな現実を生きる人たちの居場所としての「バザールカフェ」

「ばらばらだけど、ともにいる場をつくる-バザールカフェの取り組み」と題されたセッション2には、京都の「バザールカフェ」から狭間明日実さんと松浦千恵さんが登壇。プログラムオフィサーの川満ニキアンを聞き手に、その実践を語りました。

トークセッション2の登壇者、左からプログラムオフィサーの川満ニキアン、ゲストの狭間明日実さん、松浦千恵さん。

同志社大学の近くに位置するバザールカフェは、「ヴォーリズ建築」(明治〜昭和にかけて日本で多くの西洋建築を手掛けたアメリカの建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズによる建築の総称)の宣教師館を改装した、250坪超の敷地をもつカフェです。同時に、松浦さんが「『空間』と『人』から成る『場』」と表現するように、LGBTQ、依存症、HIV陽性、外国籍など、さまざまなの背景をもつ人たちの居場所としても機能してきました。活動に多くのボランティアがかかわり、「匿名性」「固定化しない関係性」「誰も排除しない」などを大切にしたその場のあり方は、近年、書籍化されるなど注目を集めています。

大正8年に建てられたヴォーリズ設計の宣教師館を改装した、バザールカフェの外観。
2024年夏に刊行された単行本『バザールカフェ ばらばらだけど共に生きる場をつくる』(学芸出版社、2024年)。社会福祉士、ボランティア、宣教師、研究者らの実践レポートを収録。

狭間さんは、京都の大学で社会福祉の勉強をしていた2014年からバザールカフェにかかわりはじめ、2015〜2024年まで事務局に従事。その後はボランティアとして、「気が向いたときにかかわっている」と言います。一方の松浦さんは、2004年頃よりバザールカフェに携わるようになり、店長やボランティアなどいろんな立場で参加。現在は、依存症が専門のソーシャルワーカーとして医療機関で働きつつ、カフェの事務局でも働いています。松浦さんは「バザールカフェは既存の福祉制度の枠組みにあてはまらないからこそ可能性がある場所」と話します。

左から松浦千恵さん、狭間明日実さん。

バザールカフェでは多国籍料理を提供するほか、シンボルの八朔(はっさく)の木がある庭も舞台に、さまざまな活動が行われています。例えば、30人ほどで1枚の布を染めてもち帰る「野染め」や、近所のこどもたちとの秘密基地づくり。キッチンではボランティアや学生の実習生らがひしめき合って料理をします。年に一度のお祭り「バザールフィエスタ」には、庭に約20軒のお店が集結。海外ルーツや福祉事業所の人たちも参加して賑わいを見せます。

日替わりシェフが腕をふるう、日替わり多国籍ランチ。タイ、フィリピン、インドネシア、韓国など、さまざまな国の味が楽しめる。 

そんなバザールカフェは1998年、日本キリスト教団京都教区と、バザールカフェプロジェクト運営委員会の共同プロジェクトとしてオープンしました。設立メンバーには、京都を代表するアートコレクティブ「ダムタイプ」のメンバーも含まれており、そのことからアーティストやHIV関連団体の関係者が多く集まるように。「バザール(市場)」という名称は、多様な人が行き交う、活気あふれるアジアの市場をイメージして名づけられました。

バザールカフェのキッチンの様子。ボランティアや実習生も参加して、日々カフェで提供するメニューの調理にあたる。

バザールカフェでは、設立当初から、セクシュアリティ、国籍、病などさまざまな現実を生きる人がありのままで受け入れられること、社会のなかで周縁化されがちな人たちに就労機会を提供したり、ともに働くことで社会問題を考えたりすること、すなわち、多様な人が立場を超えて自然に出会い、一緒に考え、ともに生きることを目指してきました。「こうした場のあり方や目的は、当時では先駆的だったと思う」と松浦さんは振り返ります。

こうした設立当初の姿勢を引き継ぎつつ、現在、バザールカフェという場は大きく6つの機能をもっています。それは、①社会との接点となり、仕事をつくる「カフェ」、②カフェ内や世界の出来事についての「情報発信」、③就労が困難な人に仕事を提供し、自信の回復につなげる「就労機会」、④社会について現場で学ぶ実習生を受け入れる「フィールドワーク」、⑤特別な専門家ではなく、いろんな人が双方にかかわる共助としての「ソーシャルワーク」、⑥自分自身を語るなどの「プログラム」の実施、の6つです。これらは互いに絡み合って機能しており、そのことで多様な人が集まる「仕掛け」となっています。

スライドで示された、バザールカフェの6つの機能(2024年12月時点)。

完璧ではない「余白」や「余分」があるから、個人の考えを受け止められる

狭間さんと松浦さんは、バザールカフェという場を運営する上で大切にしていることとして、「ただ在ることの価値を根っこにもつ」「人間性が見える関係を構築する」「お互いの尊厳を尊重する」「誰も排除されない場作り」の4つを挙げます。

例えば、「ただ在ることの価値を根っこにもつ」に関しては、何もしなくてもある「その人がいること(being)の価値」を可能にするため、カフェでは役割(doing)をもつことを重視していると言います。また、「人間性が見える関係を構築する」については、人々が属性ではなく、個として出会うことを意味しています。狭間さんは、「カフェにはいろんな事情をもつ人がいますが、それを話さない人がほとんど。数年後に告げられることもあるけれど、最初に情報として知るのと、その人自身とつき合ってから知るのとでは意味が違う」と話します。

カフェの庭に個性豊かなブースが出店し、料理や雑貨を並べる、年に一度のおまつり「バザールフィエスタ」。国籍、年齢、性別、さまざまなものを超えて、人と交流する機会になっている。

こうしたバザールカフェの活動は、当然、「支援」の文脈でも語れます。ソーシャルワーカーである松浦さんは、「あまり『支援』という言葉は使いたくない」と前置きしつつ、その活動をあえて支援として見るなら、「存在の支援」という表現が相応しいとコメント。そこでは「支援する/される」という一方向の関係や、「支援をしてあげる(FOR)」という関係ではなく、「一緒に何かを行う(WITH)」かかわりを大切にしているといいます。

ソーシャルワーカー(社会福祉士・精神保健福祉士)で、2004年頃よりバザールカフェにかかわるようになり、現在は事務局スタッフの松浦千恵さん(左)。

そして、人が、属性を通してではなく、個人として出会う、そのような関係を築く上で二人がキーワードだと語るのが、「余白、余分、かわわりしろ」です。では、そうした一種のバッファはどこに生じるのか?

バザールカフェの6つの側面の説明図(2024年12月時点)。6つの要素の間にある「うにょうにょとした」混じり合いが、バザールカフェという場になっている。

ここで二人は、先に触れたバザールカフェの6つの側面の説明図をふたたび見せ、その6つの要素の間にある、「うにょうにょとした」混じり合いの場にこそ、そうした余白が生まれていると説明。松浦さんが、「バザールカフェは綺麗ではないし、事業としてダメな部分もあるけど、だからこそいろんな人がかかわれる」と話すと、狭間さんも「少し抜けた部分をつくるその姿勢は創設時のアーティストたちから受け継いだもの。そこにいまではソーシャルワークの要素が加わっている」と応答し、活動における「遊び」や、完璧を求めすぎない姿勢の重要性を指摘しました。

これらの発表を前提に川満が「余白を保つためにしていること」について尋ねると、二人は「プロセスを誰かと共有すること」と返答しました。何かモヤモヤした際は、それを誰かに話し、そのプロセスをほかの人にもひらいていくこと。松浦さんは、そのような小さな個人の考えや感じ方を大事にしてきたことの積み重ねが、この場をつくっていると指摘。また、狭間さんは、そうした個人の考えを受け止める上で、中川さんが「まどろみの時間」と呼んだ終業後の時間が、バザールカフェにおいても重要な役割を果たしていると話しました。

プログラムオフィサーの川満ニキアン(右)から、問いが投げかけられた。

川満からはもう一点、二人がこのカフェにボランティアや事務局などさまざまな立場で携わっていることや、松浦さんが医療機関とカフェを行き来していることなど、かかわり方の変化を許容する姿勢が、余白の広がりにつながっているのでは、という問いが投げかけられました。

これに松浦さんは、「医療機関ではドクターをトップとする階層があり、その制度のなかでケアを行おうとすると、診断書が必要になったりして、人の営みのなかに直接入っていけないんです。でも、バザールカフェでは、わたしも一人の人としてその営みのなかに入れてもらえる。だから一番楽です」とコメント。狭間さんも、「バザールカフェでは、スタッフだからボランティアだからと立場を決められることもないし、体調が悪くても、そのときどきの自分の状況を受け入れてもらえる」とし、その自由さがこの場にかかわり続けている理由でもあると話しました。

ディスカッション
誰もが「いていい」と感じられる場をつくる上で、重要なこと

イベントの最後では、中川さん、狭間さん、松浦さんの三人が揃って登壇。冒頭に登場した佐藤を聞き手に、会場から寄せられた質問もふまえて、ディスカッションを行いました。

ディスカッションでは、本日のゲスト三人と、モデレーターの佐藤李青(右)が登壇。

最初に取り上げられたのは、情報発信の方法や呼び掛け方、両者のプログラムや場にはなぜそれほど多様な人が集まってくるのか? という問いです。これに松浦さんは「人が人を呼んでいるのが大きい。困った人がいると、『バザールカフェに行ってみたら? なんとかなるで』と、口コミのネットワークで来る人が多いです」と返します。実際、福祉制度から溢(あふ)れた人が、ここに行けば食事ができるとききつけ、訪れることもあるそうです。

バザールカフェの松浦千恵さん。

こうした場のあり方から、最近では京都府と連携して、引きこもり当事者の就労体験の場としても利用されるなど、行政とのかかわりも増えてきています。この場所はもともとマイノリティのアジール(避難所)として、比較的クローズドな性格をもっていました。しかし、「べつにそうした人たちが隠れる必要はない。社会において当たり前に隣にいることを発信していく時期だ」と活動をオープンにしていくなかで、「行政もかかわり方がわかってきたのだと思う」と松浦さん。「活動の全貌までは理解されていないかもしれないけれども、場やそこにいる人たちへの信頼が芽生えているのを感じます」。

一方で中川さんは、「高校生ウィーク」の発信として、毎年市内の高校を中心にお知らせを出していることを紹介。そこではからずも重要なフックになっているのが大学受験等で有効な「ボランティア証明書」の発行なのだと言います。「それがほしくて来るのでもいいんです。そこから新しいつながりが生まれることもあるから」と中川さん。最初の接点をゆるやかに構える大切さを話しました。

大人のボランティアは、経験者の紹介で来る人が多いといいます。さらに「展覧会のお客さんにもおもしろい人が多い」といい、展示室の奥にあるワークショップルームを覗いている人がいたら、なるべく招き入れて話をきかせてもらうなど、細かな「つながり」を大切にしているそうです。

水戸芸術館現代美術センターの中川佳洋さん。

会場からはバザールカフェについて、どのように運営しているのかという質問も寄せられました。狭間さんはこれに、運営資金は約1100万円で、うち寄付が約200〜300万円、残りをカフェの収入や福祉の助成金で賄っていると明かしました。こうした運営には、「寄付に頼らず自立すべき」との意見が寄せられることも。ただ松浦さんは、「最近はひらき直って、寄付を受けることにしています」と話し、その理由を「この居場所づくりの活動が地域にとって必要と感じつつ、いろんな事情で直接にはかかわれない、でも寄付ならできるという人もいるから」と説明。つながりのチャンネルを多くもつことの重要性を指摘しました。

最後に佐藤は、「今日、話をきいていて、どちらの活動も、かかわる人たちが『場のイメージ』をゆるやかに共有している点が印象的だった」と話しつつ、「一方、みんながやりたいことをする上で、意見がぶつかった際はどうするか?」という問いを投げました。

中川さんはこれに、「そうしたときは、わたし自身も一緒に困っている。でも、困っていることを相手にも伝えて、みんなで考えていくしかない」と返答。「まずは、誰かが『これは言えない』と感じるような状況にはしないことが大切。みんなが思っていることをきちんと言えているかを確認する、その気持ちをもつことを大事にしています」と話します。

これをきいた狭間さんは、「一緒に困るのは、わたしたちも同じ」としつつ、「バザールカフェが病院や施設と違うのは期限がないこと。時間をかけて行ったり来たりしながらつき合っていけるのがこういう場の強み。たとえいっとき離れても、その空白の時間があるからまたつながれることもある」と語り、その場での人間関係には「完了」がないと語りました。

バザールカフェの狭間明日実さん。

松浦さんは「誰も排除しない」という原則をふまえ、苦手な相手がいる際は、「わたしがここにいていいのと同じように、あの人もここにいていいと思えることが大切」と話します。また、そうしたゆとりある人間関係を築くにあたり、ふたたび「まどろみの時間」に言及。「ついルールを決めそうになるけれど、その余白の時間が絶対に必要。まどろみの時間のなかでこそ、誰もが言いたいことを言える。そうした言葉は用意された会議の時間では出てこない。この時間がないと、自分や他者を大事にする場は生まれない」と指摘しました。

――

その場にかかわる人の数を広げるだけではなく、人がその場に心地よくかかわり続けることができるための「かかわりしろ」のあり方について、水戸芸の教育プログラムやバザールカフェの活動を見てきた今回の「Artpoint Meeting」。両者の話には、かかわる人の動機やかかわり方の多様性を柔軟に受け入れる姿勢や、サービスの提供者と顧客のような固定的な関係ではなく、誰もが対等に自身の意見を語り合える関係などの共通性がありました。

特に印象的だったのは、中川さんが語り、狭間さんや松浦さんにも広がった「まどろみの時間」というキーワードです。プログラムやカフェの営業時間の外にある、名前のない曖昧な時間。両者の話からは、その目的をもたない時間にこそ、その人のその人らしさが現れるということ。そして、そうしたそれぞれの考え方を尊重し合う関係にこそ、人がその場にかかわり続けたくなる、居心地のよさの種があることが感じられました。

イベント終了後も、登壇者と来場者の間に多くの意見が交わされた。
ビルやマンションが立ち並ぶ会場周辺。住民の9割以上がマンション住民である港区では、基本政策として地域の課題を自ら解決できるコミュニティづくりを目指している。

レポート前編はこちら>
人と活動をつなげる、「かかわりしろ」となる場や時間のあり方とは?(APM#15 前編)

人と活動をつなげる、「かかわりしろ」となる場や時間のあり方とは?(APM#15 前編)

毎回、まちで活動するさまざまなゲストを招き、これからのアートプロジェクトのためのヒントを探る、東京アートポイント計画のトークシリーズ「Artpoint Meeting」。その第15回が、2024年12月14日、「港区立男女平等参画センターリーブラ」にて開催されました。

港区の文化芸術施設や団体などを支援・育成するための取り組み「港区文化芸術ネットワーク会議」との共催で開催された今回のテーマは、「プロジェクトを広げる、“かかわりしろ”のつくりかた」。プロジェクトと、それにかかわりや関心をもつ人たちをつなぐ上で欠かすことのできない余白のありかた、つくりかたについて、語り合いました。

ゲストとして、水戸芸術館現代美術センターで1993年から続く、高校生を中心とした幅広い年齢層の市民とカフェ運営や部活動を行う企画「高校生ウィーク」などに携わる教育プログラムコーディネーターの中川佳洋(なかがわよしひろ)さん、そして、京都のまちで1998年より多種多様な人たちが集まる場づくりを行っている「バザールカフェ」のメンバー、狭間明日実(はざまあすみ)さんと、ソーシャルワーカーの松浦千恵(まつうらちえ)さんらが登壇。実践のなかで感じてきたことを話しました。

人と人、人と場をつなぐものとは何なのか? イベント当日の模様を、ライターの杉原環樹がレポートします。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:高岡弘*1-9、13枚目)

オープニングとトークセッション1の登壇者、左からプログラムオフィサーの佐藤李青、ゲストの中川佳洋さん、田中真実さん、宮崎刀史紀さん。

「港区文化芸術ネットワーク会議」とは? 区を超えた気づきの機会をつくる

今回の「Artpoint Meeting」のパートナーである「港区文化芸術ネットワーク会議」(以下、「ネットワーク会議」)は、港区で活動する文化芸術施設や団体、企業などが交流、情報交換する機会として、2013年より定期開催されているプラットフォーム型の会議です。

2016年の開始以来、多くのゲストを迎えてきた「Artpoint Meeting」ですが、「今回は企画自体を、同様の活動を行い、近しい問題意識をもつ方と開催しようと思った」と、プログラムオフィサーの佐藤李青。この日のトークは、そんな佐藤と、この取り組みを主催する「港区スポーツふれあい文化健康財団」(以下、「Kissポート財団」)文化芸術部長の宮崎刀史紀(みやざきとしき)さんとの、イベントの背景を巡る話からはじまりました。

プログラムオフィサーの佐藤李青。

そもそも港区は、40を超える美術館・博物館や、30を超える劇場・音楽ホールを擁するなど、文化芸術施設が豊富な地域として知られています。「そのようにきくと、もはや公共サイドが文化芸術を支援する必要などないのではないか、と思われるかもしれません。しかし、そうではなく、公共だからこそできる支援があると思うんです」と宮崎さんは語ります。

その考え方の基盤を成すのが、港区が2024年3月に改定した、今後の区の文化芸術振興の方向性を示す「港区文化芸術振興プラン」です。

「港区スポーツふれあい文化健康財団」文化芸術部長の宮崎刀史紀さん。

2021〜2026年度を計画期間としたこのプランでは、区が目指す将来像を、「多様な人と文化が共生し、文化芸術を通じて皆の幸せをめざす世界に開かれた『文化の港』」という言葉で表現。それを実現する上で進めていくべき施策を、大きく3つ記しています。

1つ目は「年齢・障害の有無・国籍等にかかわらず誰もが文化芸術を鑑賞・参加・創造できる機会の充実」。ここには多様な人に向けた鑑賞のサポートや、鑑賞機会のアウトリーチ活動などが含まれます。2つ目は「多様な主体間の協働による文化芸術振興」。そして3つ目が、文化施設の充実などを指す「文化芸術振興施策の推進に向けた基盤整備」です。

このうち、2つ目の施策の具体例として進められているのが、Kissポート財団による「港区文化芸術活動サポート事業」です。この事業では、区内で行われる文化活動や、その主体となる団体に対する助成を行うほか、専門家による活動へのサポートを実施。「ネットワーク会議」は、このサポートを受ける団体のつながりの場にもなっており、今回の「Artpoint Meeting」の会場には、同会議のメンバーも多く参加していました。

オープニング「地域のかかわりづくりを支える仕組みー東京アートポイント計画と港区の文化芸術活動支援」会場の様子。港区内で活動する団体などが多く集まった。また、手話通訳がつき、UDトークも使用した。

活動をサポートする対象について、宮崎さんは、「展示やコンサートのような一時的なイベントにとどまらず、その先の広がりを強く意識している団体を対象としています」とコメント。また、「ただ資金などを支援するのではなく、さまざまな人が交流することで、それぞれが気づきを得られる活動を目指してきました。そのためには、かかわりしろを広げることが必要。今日のイベントは、そうしたつながりを区の範囲を超えてもちたいとの思いから開催しました」と話します。

背景や関心の異なる人たちが「かかわりしろ」を通して交流することで、活動を厚くする文化活動のありかたは、東京アートポイント計画が大切にしてきたことです。佐藤は、そんな「かかわりしろ」についてゲストの話をきく際のポイントとして、①地域のなかで活動や場にかかわる「のりしろ」をどうつくるか? ②それが活動を「続けること」にどうつながるか? ③年代や属性などが「異なる」人とどうかかわるか? の3点を挙げました。

それを受けた宮崎さんは、「のりしろ」のうち、「余白を指す『しろ』も大事だけど、何かと何かをつなげる『のり』も大事。かかわるための仕掛けが重要なのでは」と指摘。会場の参加者に向け、普段の活動のなかで何気なく感じている感覚を、あらためて「かかわりしろ」という言葉で意識してほしいと呼びかけました。

トークセッション1
「高校生ウィーク」という場と、かかわりしろとしての「まどろみの時間」

続いて、「居場所であること、そこから広がったこと-高校生ウィークの取り組み」と題し、水戸芸術館現代美術センター(以下、水戸芸)の教育プログラムコーディネーター、中川佳洋さんの話をききました。聞き手は、認定NPO法人STスポット横浜の副理事長・事務局長で、港区文化芸術活動サポート事業の調査員である田中真実(たなかまみ)さんが務めました。

トークセッション1「居場所であること、そこから広がったこと-高校生ウィークの取り組み」、会場の様子。左からゲストの中川佳洋さん、聞き手の田中真実さん。

香川出身の中川さんは、大学進学で茨城へ。在学中の2008年から水戸芸にボランティアとしてかかわるようになり、今日のトピックである「高校生ウィーク」のカフェスタッフとして活動します。卒業後は香川の中学教員となりますが、「高校生ウィークのスタッフはみんな温かく、水戸を訪れるたび誰かが迎えてくれて。それで、2022年より水戸芸で働くことにしたんです」と中川さんは言います。

水戸芸術館現代美術センター 教育プログラムコーディネーターの中川佳洋さん。

水戸芸は、全国的にも早い時期から教育普及活動やボランティア活動に力を入れた美術館として知られます。その背景には、1990年、主に現代美術を扱う国内2つ目の公立美術館として開館した歴史があります。同館には、当時では珍しく収集よりも企画に重きを置き、しかも展示されるのは「よくわからない」現代美術。「市民の方からは『(イメージしていた)作品がないじゃないか』という声もあり、そのなかで必然的に教育プログラムが求められた」と中川さんは説明します。

現在、同館では多くのプログラムが展開されています。例えば、ボランティアと作品を前に対話しながら鑑賞する「ウィークエンド・ギャラリートーク」、毎月異なる素材とテーマで老若男女がつくることを楽しむ集いの場「造形実験室」、視覚に障害がある人との鑑賞ツアー「session!」、シニア、認知症当事者・家族、ケア施設職員らが交流する「ブリッジカフェ」など。「学校訪問アートプログラム」や、作家の拠点を訪ねる「つくりてくらして」という館外活動もあります。

聞き手の田中真実さん。

「高校生ウィーク」はこうしたプログラムのひとつとして、開館直後の1993年から現在まで続く企画です。もともとこの企画は、ハイティーン向けに発売された1000円の年間パスの販売促進のため、市内の高校生に水戸芸を体験してもらおうと、年に一度、学校別に一週間だけ高校生の鑑賞無料期間を設けるというものでした。

ただ、その後、企画の内容は状況に応じて変化していきます。1994年には無料期間が1か月となり、早くも「ウィーク」ではなくなります。1999年頃に、無料鑑賞だけではなく高校生自身が活動できるプログラムをやってみようと、まだあまり普及していなかったデザインソフトや大判プリンターによるポスター制作をする「広報プロジェクト」を開始。活動するなかで他校生徒や美術館スタッフ、ボランティアとのコミュニケーションが楽しいとの声があがり、その流れから2003年にワークショップルーム内に小さなカフェを設けたところ、お客さんとの交流から参加者の活動も拡大。2004年からは、1か月間、カフェが本格的にオープンすることになります。

高校生ウィークの拡大、2004年に1か月間、ワークショップ室全面にオープンした「ゆうかりカフェ」。

また、2007年には「高校生ウィーク」内の企画として、「部活動」がはじまります。「3人寄ればブカツの提案ができる」をルールに、若者と大人、アーティストらが自主的な部活動を行うもので、「写真部」「書く。部」「聴く部」などが発足しました。2018年には高校生の入場料が無料となり、企画当初の高校生の無料招待期間という役目はなくなりますが、カフェは継続。コロナ禍による2年の休止を挟みつつ、現在は活動を再開しています。

部活動の一例、「写真部」活動の様子。 撮影:根本譲

カフェでは、無料の飲み物のほか、誰かのおすすめの本が並び、音楽がきこえて、来訪者と話したり、展示関連のワークショップに参加することもできます。もちろん、何もしないでボーッと過ごしてもOK。中川さんは2004年の「高校生ウィーク」のチラシにある、「いつもどことなく騒がしい身のまわりの雑音や情報から離れ、(中略)居心地よく過ごせる場所」という一文を取り上げ、「大事にしていることが当時からあまり変わっていない」と語ります。

そんな中川さんが、高校生から大人まで幅広いスタッフがいるカフェを運営するなかで大事にするのが、「まどろみの時間」と呼ぶ、カフェの閉店後の余韻の時間です。「すぐ帰ってもいいし、グダグダといてもいい。この余白の時間が、その人らしさを発揮したり、スタッフが仲良くなる上で重要だと思うんです」と中川さん。そんな時間が失われたコロナ禍を経て、活動を再開した際は、「この場所はお客さんだけでなく、スタッフのための場所でもあるんだと感じました」と振り返りました。

年間1か月だけオープンするカフェをより日常化するために、2022年から、毎月2日間「造形実験室」を開催。こどもから大人まで、みんなで「つくること」を楽しむ。 撮影:山野井咲里

それぞれの人生を生きる一人ひとりと、柔軟に、丁寧な関係を築くことの大切さ

「高校生ウィーク」をはじめとした、水戸芸の一連の教育プログラムは、多くのボランティアによって支えられています。中川さんはこのボランティアという存在について、「いろんな経験や背景をもつ方がいて、かかわる動機も、かかわり方の頻度や濃度も、プログラムの数も人それぞれです。一回離れて、また戻ってくる人もいます。唯一の決まり事は、かかわり方はその人と相談しながら決めるということくらいです」と説明。美術館に多くの人が自主的にかかわる環境をつくる上では、関係の柔軟性が重要であることを示唆しました。

このように、参加者一人ひとりと丁寧で親密な関係を築くことの重要性は、中川さんの話のなかに通奏低音のように流れていました。例えば、田中さんから「活動を長く続ける上で大切にしていることは何か?」ときかれると、「心得というより、単純に高校生やボランティアの方と話すのが楽しい」と中川さん。「こんなにいろんなことを考えている人がいるんだ、その人のなかにこんな考えがあったんだと気づいた」と話し、それは教員と生徒という固定的な関係性になりがちな「教員時代には気づけなかったこと」だと語りました。

先の「まどろみの時間」に代表される、目的のない曖昧な時間を大切にするのも、個人のなかに生まれる小さな動きを大事にしているから。一方、その自由さは予期せぬ出来事を生む可能性もあります。田中さんから「やりたいことをやるのが基本だが、ダメと言う場合もありますか?」と問われると、「ダメとは言わないが、どうかなと思うことはある。でも、それも相談して決めるしかない。一旦離れる人もいるが、そのあとまた戻ってくるかもその人次第」と、あくまで個別性が大事だと話しました。

高校生や地域の大人、アーティスト、美術館の職員などが職能や立場を超えて集まる水戸芸の教育プログラム。中川さんは最後に、「いろんな人とのかかわりがおもしろいのは、ある人生のプロはその人しかいないから。それぞれに生きる一人としてかかわることを、教育プログラムではやりたい」と、あらためて強調。それをきいた田中さんは、「社会的な属性を離れて一人の人としてかかわる場になっている。そうした場は、実は少ないですよね。だからこそ水戸芸のプログラムはこんなに続いているんだと感じました」とまとめました。

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人と活動をつなげる、「かかわりしろ」となる場や時間のあり方とは?(APM#15 後編)

WALLA|Artpoint Radio 東京を歩く#8

「Artpoint Radio 東京を歩く」では、都内にあるさまざまな拠点を訪ね、その運営にかかわっている方にインタビューを行い、その様子をラジオとレポート記事の2つの形式でお届けします。
拠点によって、その業態や運営の手法、目指す風景はさまざま。そうした数多くのまちなかにある風景には、運営者たちの社会への眼差しが映し出されているのではないでしょうか。
本シリーズでは、拠点の運営にかかわるひとびとの言葉から、東京の現在の姿をともに考えていきます。

――

第8回は東京都小平市にある「WALLA」を訪れました。西武多摩湖線青梅街道駅から徒歩10分ほど、住宅街のなかに畑や果樹園などの耕作地が点在する、のどかな風景が広がるエリアです。

街の風景。民家が並ぶ横の線路を、電車が手前に向けて走ってくる。その脇には車道が通っている
青梅街道駅付近の風景

このエリアで活動を続けてきたWALLAは、1階をギャラリースペース、2階を運営メンバーのシェアアトリエとして2019年にオープン。約5年の活動期間を経て、2024年12月をもってクローズすることになりました。インタビューに伺った日は、ちょうどクローズイベント「さよならのかわりに」が行われた翌々日。ギャラリースペースにはその名残がたくさん残っていました。

今回お話を伺ったのは、WALLAの立ち上げから運営に関わる大石一貴(おおいし かずき)さん、大野陽生(おおの はるき)さん、前田春日美(まえだ かすみ)さん、吉野俊太郎(よしの しゅんたろう)さんの4人。立ち上げからクローズに至るまでの経緯、活動のなかで生まれたこと、そしてそれぞれにとってWALLAはどんな場所だったのかをお聞きしました。

白い壁の民家の外観。大きな窓ガラスの横にすりガラスの引き戸がある
WALLAの外観

WALLAについて

――はじめに、WALLAという名前の意味について教えてください。

大石:WALLAは、英語でガヤとか、エキストラといった意味の言葉です。人が集まって、僕たちもエキストラになりつつ、ガヤガヤした場所にするみたいな、そういう思いを込めて名付けました。

――WALLAは4人のコレクティブのお名前ではなく、拠点の名前という認識でよいですか?

大石:そうですね、場所の名前としてつけました。僕たちはあくまでWALLAを使っている人たちなので、12月のクローズの告知も、WALLAから4人全員が出ていって、そうすると同時にWALLAはなくなります、みたいな回りくどいことを言っているんです。4人が一つの目的を持ってコレクティブ的な活動をするというよりかは、それぞれが別々の活動や目的を持って集まっていて、それぞれが果たしていくことがある。それをWALLAという場所が担保していた感じです。

引き戸の横、上の方にWALLAと書かれた30センチくらいの看板が、壁から垂直につけられている
WALLAの入口にある看板

――WALLAという名前はどうやって決まったのでしょうか?

大石:みんなで名前を決める会があったんです。台所にある四角いテーブルを囲んで候補を提案しあって。そのなかで誰かが「WALLA」を案として持ってきていて。語源とか意味を調べていくと、みんなのイメージに近いね、それで行こう、という感じで決まりました。

前田:候補がたくさん挙がっていたんですけれど、投票制にしたのではなく、WALLAという案が出てきたときに、「それで!」と自然に決まった印象がありますね。

――4人共通の意識があったというか、場のイメージに共有できるものがあったんですね。そもそもこの4人で場所をもつことになった経緯はどのようなものだったのでしょうか?

大石:2017年に、いまのメンバーのうちの3人、先輩の大野さんと、後輩の前田さんと、僕とで連続で個展をしようと話したのがきっかけです。そのときはWALLAの話はまだしていなくて、単純に展覧会をやろうということで話しました。そのあとに僕が新しくシェアアトリエをつくろうとしたときに、最初に声をかけたのがその2人でした。こういう場所にしたいね、みたいな、意識として共通している部分がたくさんあったので、3人で何かやっていけるといいなと思っていましたね。

前田:そうでしたね。展示の打ち上げか、飲みの席で、拠点をつくりたいっていう話をしたよね。

大石:ちょうどその時期は、僕らがお世話になった人たちがアーティストランスペースなどを立ち上げていて、アトリエとしてだけじゃなく、別の使いかたもするスペースとして運営していくという流れが近くにありました。なので、いろいろな機能がある場所を持つことに対して違和感はなかったし、作家活動としてそういうかたちもあるよねって、自然に話が進んでいったというか。もともと僕と前田さんは在学時期が重なっていたので、大学で作品についてとか制作活動について、よく話をしていた記憶があります。大野さんは大学の先輩であると同時に、同じバイト先だったりして近い存在でした。

大野:もう一人の吉野さんとは、僕との縁がたまたまあったんです。とある地方での展覧会に参加したときに吉野さんと一緒で、そこでこれから場所をつくるっていう話があるんだよねと話題にしたら、興味を持ってくれたのがきっかけでした。

吉野:運用をはじめるにあたって、参画する人数をもう少し増やそうという話があったらしくて。僕はアトリエが欲しいわけではなかったんですが、ギャラリースペースとしても利用できるという話を聞いて、ここでなら展覧会の企画などもできるかもしれないと思い見学させてもらいました。そこからは、ますますかかわりが深くなっていって。

和室に正座をして座る6人。中央にローテーブルが置いてある
インタビューの様子

――いろんな縁が重なったんですね。この建物はどのように見つけたのですか?

大石:いろんなところを探していたんです。不動産サイトとか、ジモティーというサービスとか。そんななかで偶然、安くてDIYが自由にできて、しかもちょうど価格が下がったタイミングでこの建物が目に留まりました。「これはいましかない!」と思って、すぐ連絡して、この家を借りることになりました。

前田:ここは、もともとコインランドリーだった物件で、家の入口とは別にお客さんのための入口と大きな窓があります。わたしたちが借りる前はおばあさんが住まわれていたんですけど、床の高さとかを生活しやすいように改装していて。大きな窓とドアが魅力的だなと思ったことや、展示をできる空間が欲しかったこともあって、自分たちでDIYをして、コインランドリーだった場所をギャラリーとして使える空間にしました。

展示風景。外観のガラス面から中の様子が見える。パネルや人形のようなものが設置されているのが見える
笹野井もも・村松大毅 「嘔吐学vol.1『ユー体、後ケイ』」(2020年、WALLA)の様子

WALLAのなか

――コレクティブではないと仰っていましたが、それぞれがWALLAのなかでやっていたことについて教えてもらえますか?

吉野:僕は展覧会を企画することが回数的にも多かったかもしれませんが、かといって誰かの企画が連続するということもあまりなかったですね。順序を決めていたわけでもなく、でもこの間は吉野が企画をやっていたし、次は大野さんかしらねみたいな感じで、企画なり展覧会なりをなんとなく順番に担当しながらコンスタントに続けていました。あとは企画を担当するにはそれなりに集中できる時間が必要なので、現実的に二つ三つを連続でというのが難しい側面もあったのかも。

企画を進めるにあたっては4人のうちの誰かがやりたいのであれば、基本的にはその人自身が責任をもつ、という協定で運営していました。作業を分担するにしても、一つひとつの企画に対してのそれぞれの距離感とか、立ち位置とか、役割みたいなものは、ある程度明確にしていたと思います。

大野 :思い返すと、僕はプレスリリースをつくっていることが多かったですね。分業というわけではないですけど、いろんな機会にプレスリリースをつくっていた気がします。前田さんは、運営の中盤からはずっとSNSでの発信を担ってくれていましたね。

大石:僕はウェブサイトのなかに開設した、テキストメインの展示壁「WALLA Board」の企画運営とか、あとは契約書やお金の管理や、大家さんとの不動産の手続きなどをやっていました。そうした事務的なことは場所を持ってから鍛えられましたね。プレスリリースもそうですが、誰かに連絡するとか、来場者への対応とか。事務的なことをする、ということは一つの展示をつくる上で必要不可欠なものです。たとえばチラシについても、毎回しっかりつくるとか、どういう内容がチラシに入ってなきゃいけないとか、事前に確認するとか。4人とも共通して、そうしたフローはとてもよい経験になったと思います。

――なるほど。そうしたWALLAの運営を通して、それぞれが個人的にできたことや、変化したと思うことはほかにはありますか?

大石:先ほど挙げた「WALLA Board」というのはまさにそれかなと思います。ウェブサイト上のWALLAです。WALLAは今年、4年半を経てクローズするんですけど、WALLA Boardだけは僕が続けていくことになっています。そういった、媒体を通した表現や展示空間の在りかたは、今後の自分の活動にもつながっていく気がしています。

前田:わたしは、ここをやっていたことが、はじめてパフォーマンス作品をつくるきっかけになりました。この場所がないと、その作品は生まれなかったなと思います。ずっとこの場所にかかわり続けることで生まれた作品だったので、どこかの場所を一時的に借りて、パフォーマンスを考えるという経験とは全く違ったなって思うんです。

マスクをして座って話す人
WALLA運営メンバーの前田さん

――コレクティブではないと言いつつも、4人で場所を続けてきたことが重要な気もしますね。場所をはじめる際に、当初から一人ではじめるのではなく、何人かが集まってやりたいという気持ちが大きかったのでしょうか?

大石:むしろ一人じゃできないなって思っていましたね。一人で場所をもつと、自分のもてる関係やつながりに限界もありますよ。実際にWALLAをやっていても、メンバーの誰かが企画したら、そこに参加しているのはそのメンバー以外は初めて出会う作家だったりするし、来てくれる人も初めて出会う人が多かったり。そうしてどんどんコミュニケーションやコミュニティが広がっていくのを実感していました。そういうことは、やっぱり一人では難しいんじゃないかなと思います。

吉野:あとは作家として、お互いが制作と発表を続ける刺激にもなればいいなって話していたよね。

大石:そうでしたね。みんな大学を卒業してすぐのタイミングだったので、どこかで発表する機会ができるとか、ギャラリーに所属するということなんかもまったく想像できない時期だったんです。貸し画廊を借りたり、自分たちで場所を見つけて企画をつくったりする人も周囲に増えていたし、アーティストがサバイブする方法について考えていました。

吉野:WALLAをコレクティブや団体ではないとする思想にはコレクティブに対する反発というか、それらとは違ったあり方を考えてみたいという意識がありました。とはいえ集団ではないと言いつつ、相互に困ったことを支援し合っていこうとする互助組織みたいな側面は確かにあって。だからここをはじめた当初から、あんまり無理をしないようにしようとは話していましたね。誰かが大変そうになったら、その企画を少し助けてあげるとか、担当を明確に分けきるだけではなくて、得意な人やできる人が補助していけるように。

WALLAと4人

――4人のテンションというか、モチベーションというか、波が揃っている感じがおもしろいです。それは、はじめからこの4人でなら続けられるという感覚があったのでしょうか?

大石:そこは修正しながらでもありますね。運営をはじめて2年経ったぐらいで、毎月の定例会をはじめました。そうしないとまとまらないし、それぞれがどういう状況かを共有できないということになって。でも、定例会そのものはお互い苦ではないし、しっかりやるべきだよね、という感じではじまりました。

前田:きっと、そういう連絡とか報告があまり苦じゃない4人だった、というのが一番大きいのかな。場や展示に対する姿勢というよりも、コミュニケーションのとりかたが似ていたんだと思います。

――なるほど。場や展示への姿勢、という意味では、企画を立てて場をひらくことと、ご自身の作品制作との関係はどのように考えているのでしょうか? 作品制作だけが目的なら、オープンな場所をもつことが必須ではないですよね。

大石:僕は制作と企画はわりと別に考えているかな。企画をつくるときに、作品をつくるのと同じようなことをしているとは思わないし。企画だけじゃなくて、本をつくったり、別のコミュニティでアーティストユニットをしていたり、それぞれ別の肩書きで別のことをやっているから、そういう感覚なのかもしれないですね。僕自身は彫刻家としての活動がベースにありますが、こういう作品をつくってますと決めてしまうよりは、もう少しふわっとしてるほうが好きなんです。

吉野:僕はセットで考えていますね。もし展示することが作品や作家にとっての晴れ舞台だとしたら、「つくること」は必ずしも絶対的な中心というわけではないはず。そもそもつくることだけが美術ではないと考える観点から、ものの見せかたとか、何を見せるのかに注目すること自体に不思議はないんじゃないかなと思っています。僕はこの場所で作品制作はしていないと言っていますけれど、ある意味では自分の制作として、企画づくりにかかわってきたという気持ちでいます。

大野:僕も吉野くんに考えが近くて、企画と制作は割とセットというか。ずっと勉強してるみたいな感じで、企画の経験が制作にも活きています。僕は場所に反応してつくるようなタイプなので、しっかりそこの場所を見たいとか、良さを引き出したいという視点は、WALLAで企画を組むなかで鍛えられたのかなと思っています。

前田:閉じるときは閉じるし、ひらくときはひらく、そういう、あいまいな場所としてWALLAを使いたいと思っていましたね。アトリエとギャラリーが別にあって、ギャラリーは発表する場所というかたちをよくとると思うんですけど、どちらの意味も含む曖昧な場所を持つことで、目的によっていつでもひらかれた場所としてアクセスできます。それってなかなかないことで、自分が場所をもっているからできる状態であり、その状態だからこそできる作品もあるんだと思います。

白い空間の中で、2人がパフォーマンスをしている。一人がうつ伏せに寝転がり、その人の手をと腰を、もう一人が立って支えている
前田春日美 個展「やわらかい杖を置く」(2022年、WALLA)の様子

――それぞれの制作のなかに少しずつWALLAがあるという感じなんですね。4年半ほどWALLAを続けるなかで、この場所について変わってきたと感じることはありましたか?

吉野:良くも悪くもすこしずつ敷居が上がってしまった気がします。一人ひとりが本当に真剣に展覧会に取り組んで、かつ4人それぞれが拾ってきた知見を追加していくので、どんどんギャラリーのような仕草が増えていくんですよ。

たとえば、オルタナティブスペースが持っている「やっちゃえ!」みたいな雰囲気ではなくて、ギャラリーだったらこうやりますとか、しっかり運営するならこうするとか。プレスリリースもそうなんですけど、きちんとやることが増えていった印象です。運営をはじめた初期の頃だったらすごく緩やかに受け入れられただろうという企画も、少し眉をひそめながら、「これをやるんだったら、ここはこうしないといけない」とか、「この部分を残すためにはどういう工夫が必要か」とかを、ちゃんと考えるようになってしまった。それはよく言えば企画について考える技術力が蓄積されたということであるんですが、悪く言うと……堅苦しくなったというか、厳しくなってしまったということだと思います。WALLAは5年目にクローズに至ったわけなんですけど、ある意味それなりの行き詰まりというか、臨界点を感じていたのかもしれないですね。

前田:わたしも堅くなってしまった印象はありますね。本当は、一日限りの企画とかもできたはずだけど、なかなかできなくなっていて。

大石:そうですね。最初はそういうイメージもあったんですけれど、集まった4人で、それぞれがもっと良くできるんだと真剣に取り組んでいくと、たしかにクオリティは上がっていくんですが、なんでもOKみたいな感じじゃなくなってしまった。

吉野:途中でコロナウイルスの影響を挟んだのも大きいですよね。初期の勢いのままできるはずだったものが、ちょっとストップ、ということになったので。オープンして2年目がコロナウイルスの影響が拡大した時期だったので、そこから3年4年と続けたときには、なおさら最初のテンションとは違うものになっていました。

大野:感染経路を判断できるように準備するという意味でも、一つひとつ確認しておくことがあったりとか、そうした名残もあるのか、細かい部分をしっかりしなきゃという意識が、今日まで続いてる気がします。

吉野:WALLAは場所の名前だけれど、それでもどうしたって集団でもあるから、個人の行いがWALLAに帰属する面もあるんですよね。あるいはWALLAで行ったことは個人に返ってきてしまうというプレッシャーみたいなものも、良くも悪くもあった気がします。だからこそ報告とか、プレスリリースをつくる段取りとか、しっかりやるべきところをきちんとやっていく。

大石:それはありますね。自分がしっかりしていないと、ほかの3人もそのように思われてしまうみたいなところは考えていました。

展示風景。ホワイトキューブの空間の横に小上がりで和室があり、それぞれの部屋にモニタなどが展示されている
石﨑朝子・大石一貴 二人展「路上のマチ」(2021年、WALLA)の様子

クローズという選択

――なるほど。次第に緩さや勢いみたいなものを許容しづらくなっていたんですね。今回、この場所をクローズすることに決めた経緯を伺ってもいいでしょうか?

前田:アトリエを別で持つことになったので、はじめはわたしがここから抜けるという提案をしたんです。WALLAっていうのは場所の名前だから、メンバーが抜けたとしても別の在り方で進んでいくんじゃないかと思っていたので、その前提で話をしました。そしたら徐々に、それぞれの考えが「WALLAを閉める」という方向になっていきました。

吉野:この4人のバランスと、1年目から足並みを揃えてやってきた4年半があるじゃないですか。そのバランスが崩れたときに、前田さんではない、0年0か月目の人が入ってくるとテンションの差も生まれるし、この場所での知識と経験の差もあるし、性格とか方針とか、あるいは目指していることのすり合わせが難しいし、すり合わせることにものすごい労力を割かなければならなくなると思ったんです。なので、僕は前田さんが抜けるという提案をしてくださったときに、もうこのタイミングが閉める好機なんじゃないかと思いました。

――大石さんと大野さんは、前田さんからWALLAを抜けるという話を聞いて、どう思いましたか?

大野:WALLAがそもそも、建築の耐久年数的にも不安な部分があるなということをずっとどこかで考えていたんです。それで、前田さんが抜けると聞いたときに、続けるルートと同時に建物としての限界を何とかしなきゃいけないっていう気持ちが僕のなかにありました。大石くんとも話して、たとえばこの2人だけでも残って続けるっていうルートも考えたりして。

大石:個人的にはもうちょっとWALLAは続いていくのかな、という思いもありました。でもやっぱり、初期からやってきたメンバーに思い入れがあるので、その一人が抜けることに対する寂しさも感じていて。僕ももうここをアトリエとしては使っていなかったのですが、それでもWALLAを続ける方法をいろいろ悩むなかで、ここまで話した場所に対する課題意識も鑑みて……。最終的には、いま終わらせるほうが自分の新しいステップにつながると思ったということと、全員にとってもそういう機会になるならむしろポジティブなことだなと考えるようになりました。

腕を組んで離す人
WALLA運営メンバーの大石さん

――前田さんにとっては、抜けると言う話がWALLAをクローズする話になっていくとは、思ってもいなかったんですよね。

前田:そうですね。話してからは結構すんなりクローズするという方針に向かっていって。そういう道が用意されたのは、意外だったかもしれない。でも、それぞれと話したり、5年間やってきたこのメンバーじゃないといけないっていう思いは、たしかにそうだなと思います。

大野:WALLAは場所の名前なんだと切り離して言っているんですけど、でもやっぱり5年近くも一緒にいたら、そりゃそうなるよという感じですよね。臓器の一部じゃないですけど、家が体で、我々がその臓器みたいな感じというか。なので、我々が変わっちゃったら何というか、全然違うものになっちゃいますよね。

笑っている人
WALLA運営メンバーの大野さん

大石:いまとなっては終わることを「そして伝説へ……(笑)」みたいに捉えることができるというか、なんか肩の荷が下りた気もしますね。

場所を運営するということは、コレクティブみたいに集団で何かをやってくこととは少し違って、お金も時間もかかるし、いろんなことを一人ひとりがきちんとやっていかないといけない。続けていくとメンバーそれぞれが歳を重ねて、いろんなライフスタイルの変化も訪れる。ずっとダラダラ続けていくほうが不健康な場合もあると思う。これが本当に正解だったかって言われるとわからないですけど、WALLAはその一例ではあるから、今後もいろんなスペースが、そのタイミングにどう向き合っていくのかは、クローズした我々としては興味がありますね。続けときゃ良かった、と思うこともあるかもしれないです(笑)

「クローズ」と伝えること

――先日、クローズイベントを行ったと聞きました。当日の様子はどうでしたか?

大野:山も谷もなく。ずっと人が集まっているという感じでしたね。イベントとして「鏡割り」はあったんですけど、それ以外はもう本当にご自由にどうぞ、という感じで。

大石:いろんなひとが来てくれたので、それぞれが挨拶しあったり、ありがとうございました、と伝えたり。

吉野:飲み会みたいな感じでしたね。でもそういうことをやることによって、瞬間的にですが一番最初の記憶に立ち戻ったような感覚もあって。ここをはじめたころもこんな感じだったよね、と思い出しながら。

鏡割りの樽とハンマー。樽には「祝」という文字が大きく書かれている
取材当日、ギャラリースペースにはクローズイベントの痕跡が残っていた

前田:たしかに。オープニングパーティーもすごかったよね。2階まで人が溢れていたもんね。

吉野:2階ではゲームをしていたりして。

大石:この家に誰が来ているのか、自分たちも把握しきれないくらいだった記憶がある。

前田:この4人って、イベントがあると基本的にキッチンのある部屋にいて、お酒を提供したり、ご飯を持って行ったりとか裏方に回りがちなんです。途中でギャラリースペースを覗いたら、武蔵野美術大学の油画科出身の作家たちがいっぱいいました。

吉野:人が集まる機会があると、我々もいるんだけど、かといって我々が主役だとか話し相手として立っている感じにならないのが恒例ですよね。来た人同士が話しているみたいな。

大石:それがWALLAの良い使い方というか。

大野:クローズイベントも、これで終わるんだ、みたいなノリじゃなかったんです。

吉野:今後ともよろしく、くらいの感覚で。

大石:いままで、僕たちが4人合わせて一つに見られることも多分あったと思うんですよ。コレクティブではないという意識には、そこに対する抵抗もあったかもしれない。けれど今後は、個人として互いにかかわりが生まれたりとか、より客観的にそれぞれが個人として見られるなかで、また違うことが起こるんじゃないか、そうなったらいいなって思います。

展示風景。絵画や彫刻などが仮説壁や呪鬼の上に展示されている
石川遼・大野陽生・キンマキ・山口ひかり 4人展「rib」(2021年、WALLA)の様子

――これで終わるという雰囲気じゃなかったのは、なんだかいいですね。クローズをお知らせしたときには、どのような反応がありましたか?

大野:展示してくださった作家のみなさんは、やっぱり寂しがってくれましたね。

前田:なかには自分でスペースをつくりはじめている方がいて、その改装中にWALLAのことを思い出していたから、すごく残念ですってメッセージをくれたんです。そう言ってくれると、いまもつながりつづけている感じがしますよね。クローズをちゃんとお知らせしてくれて嬉しい、という反応もあって、いつの間にかなくなっているスペースが多いなかで、クローズパーティーというか、終わりですと言える機会をつくったことが良かったなと思いました。

4人の今後とWALLA

――最後に、それぞれにとってWALLAがどういう場所だったのか、そしてそれぞれの今後の展望について教えてください。

吉野:WALLAがどういう場所だったのかは、なかなかすぐには答えづらいのですが……でも今後の話でいうと、アーティストランスペースであれアートスペースであれ、今後アーティストがかかわるものは、インストールの方法や見せ方、告知の仕方とかどんどん情報が共有されて、しっかりしていくと思うんですよね。ただ反面、「雑にする」ということができなくなる。WALLAでもそうでしたが、丁寧にやればやるほど、突発的なことが起こりづらくなると思っていて。もっと、より瞬間的に、ふっと火がついて消えるような……その瞬間性とか、勢いや汚さみたいなものがもっと残ること。あるいは復権するようなことも、たくさんあっていいんじゃないかと思っています。パッケージを用意して見せることができる人が増えていくからこそ、そうではないかたちが必要になる時期なんじゃないかなと。ポジティブな意味で、そういった雑さや、適当さや、気まぐれみたいなものが今後のスペースにあったらいいなと思うし、求められていくべきなんじゃないかなと考えています。

大野:自分にとってWALLAは作家として活動している期間の大半を過ごした場所です。だから自分自身の活動の基礎的な部分を、人とかかわりながら、勉強させてもらった場所だなと思います。今後については、僕はコーヒーを淹れるのが好きなんですけれど、ちゃんと人にも出せるようになったりとか、焙煎の勉強をしたりだとか、自分でそういう場所を持ちたいなと思っているんです。WALLAで培ったノウハウとか、技術を活かして、飲食とともに美術作品を鑑賞したり、展示できたりする活動をしたいですね。

前田:WALLAはわたしにとっては風通しが良い場所だったなと思っています。WALLAの運営を通して人とかかわることと、自分の作家活動とが、すべて密接にかかわっていたかというと、必ずしもそうではない。でも、人がいる空間について考えることは、自分の作品に影響があったのかなと振り返って思います。今後も空間と人のかかわりとか、自分の作品との関係性みたいなものは考えていきたいことなので、WALLAのようにオープンにしなくても、作品を置いて考えられる場所は自分で持ちたいです。作品をつくることと、誰かに見せることが地続きであることで発生する面白いことがあるんじゃないかと思っているんです。それが自分自身のパフォーマンスで実践できた経験があるからこそ、これからも考えていけたらいいなと思っています。

大石:WALLAは理想としていたような場所になったんだな、と思っています。場所があることで、そこに人が来て出会いが生まれる。僕たちがつくったイベントや展示や作品を通して、それを見にくる人がいて、出会うはずがなかった人が出会う。そういう場づくりの理想としていたことがWALLAではできたんじゃないかなと思います。今日もまた、このインタビューで初めて会う人とWALLAの話が出来たように、この5年近くの日々で、本当にいろんな人に出会いました。本当に数え切れない数の人と。そうして新しいことにつながっていくきっかけとしてWALLAがあったのなら、こんなに幸せなことは無いなと思います。

今後は別のかたちで場づくりが出来たらいいですね。本当に場所というものは、あらゆる概念として存在すると思っていて。展示空間もそうですし、ウェブサイトとか、コーヒーがある場所とかいろいろあります。僕は最近出版をはじめたので、本という媒体のなかで、また新しい場所をつくるのもいいなと思っています。

白い壁にメッセージやイラストがたくさん書かれている。WALLAありがとう、2019.8→2024.12などと書かれ、中央には木製の什器の上に置かれた鏡割りの樽がある

――

思っていたよりさっぱりしているな、というのがWALLAのインタビューを通して感じた第一印象でした。それはおそらくインタビューに至るまで、長い時間をかけてWALLAの在り方について議論し、それぞれのなかでクローズという選択肢に納得していたからなのでしょう。

さまざまな拠点のお話を聞いていると、場の運営を続けていくなかで出会った人や生まれた光景を大切にしたいから、継続する道を選びたいという言葉も多く耳にしました。しかし運営しているのはあくまで人間。場を続けていくなかで、やはりさまざまな変化が生じていきます。運営しているひとびとの変化にあわせて、拠点がひらいたり閉じたり、変化していくのも当たり前のこと。WALLAのインタビューを通して、どんな拠点にもかたちを変える柔軟さや身軽さがあるということをあらためて実感しました。またその試行錯誤のなかでさまざまな経験や知見がうまれ、場所がなくなってもそういった経験は続いていくのだということも。

――

WALLA
* 2024年12月にクローズ
住所:東京都小平市仲町615-29
アクセス:JR武蔵野線新小平駅から徒歩20分、西武多摩湖線青梅街道駅から徒歩10分
公式ウェブサイト:https://walla.jp

話し手:大石一貴、大野陽生、前田春日美、吉野俊太郎
聞き手:櫻井駿介、小山冴子、屋宜初音
執筆:屋宜初音
編集:櫻井駿介、小山冴子

>YouTubeでは短編ラジオを公開しています

水性|Artpoint Radio 東京を歩く #7

「Artpoint Radio 東京を歩く」では、都内にあるさまざまな拠点を訪ね、その運営にかかわっている方にインタビューを行い、その様子をラジオとレポート記事の2つの形式でお届けします。
拠点によって、その業態や運営の手法、目指す風景はさまざま。そうした数多くのまちなかにある風景には、運営者たちの社会への眼差しが映し出されているのではないでしょうか。
本シリーズでは、拠点の運営にかかわるひとびとの言葉から、東京の現在の姿をともに考えていきます。

――

7回目は中野駅から徒歩8分ほど、薬師あいロード商店街にある「水性」を訪れました。駅前の大きくにぎやかなアーケードを抜けたこのエリアは、落ち着いた雰囲気があり、昔ながらの商店と新しいお店が入り混じるなかに、多くのひとびとが行き交います。

今回お話を伺ったのは、水性を運営している前澤秀登(まえざわ ひでと)さんです。もともとクリーニング屋だったというこの場所の歴史から、そこに残るさまざまな痕跡に込める想い、また商店街と地続きの空間で場をひらいているからこその出来事や、大切にしている在り方について聞きました。

水性の外観

この場所について

――まずはこの場所についてお伺いしたいと思います。ここは前澤さんのご実家ということですよね?

前澤:はい、そうです。2階と3階が住居になっていて、そこに住んでいます。2022年末までクリーニング屋として営業していた1階の店舗を、僕が引き継ぎました。「水性」として動きはじめたのは2023年の10月からなので、いまはちょうど1年と少し経ったくらいですね。

――クリーニング屋が家業だったということでしょうか?

前澤:そうです。僕の祖父の代から「清水屋」というクリーニング屋さんをやっていて、それを両親が継いで、2022年まで続けていました。

祖父母が戦後に上京してきて、ここで小さなバラック小屋のようなかたちで場所をひらいて、はじめはアイスクリームを売ったりしていたみたいですね。そこから甘味喫茶になって、そのあとクリーニング屋になりました。クリーニング屋になったのは、オリンピックが開催された1960年代ごろで、みんなおしゃれな洋服を着るようになった時期だったようです。

水性を運営する前澤秀登さん

僕が小さいころは、おじいちゃんとおばあちゃん、そしてお父さん、お母さんと、あとパートさんも加わってクリーニング屋を経営していました。この建物は1983年に建てられたので、水性がオープンした時点で築40年が経っていました。だから古い痕跡が結構残っているんです。たとえば床も、クリーニング屋だったころにあったカウンターの位置から床材が変わっていたり、パートさんが会計をしたり品物を見たりして受付をしていた部分だけ、床のカーペットが剥げちゃっていたり。店内で仕上げまでしていたので、いろいろな工程があって、それが床の痕跡となっています。また、クリーニング屋さんってお客さんから預かり物をしているのもあって、40年の間あまりリノベーションが出来なかったようです。水性を始めるにあたって、こういった痕跡はあえて残すようにしました。

床にはクリーニング屋の痕跡が残る

――なるほど、いろいろな痕跡が残っているんですね。クリーニング屋が閉店した2022年以降は、どういった経緯で「水性」をつくることになったのでしょうか?

前澤:僕は普段、主にパフォーミングアーツの業界でステージフォトの仕事をしています。演劇やコンテンポラリーダンスの写真を撮ることが多いんですけど、そんな仕事をしていますし、今はこういう個人店の時代じゃないのでクリーニング屋は継げないと思ったんです。ほんとは、○○屋さんと名乗るような、商店街っぽい仕事ができたらよかったんですけどね。両親はテナント貸しにすることも考えていました。収入面の心配も少ないですし、ここの商店街のお店も何代目かになってテナント貸しをしているところばかりです。でも、10年くらい前からいろいろ考えていて、何をやりたいのか明確にはわからないみたいな状態ではあったんですけど、やっぱりわがままを言わせてもらって、親に貸してもらうことにしました。写真の仕事を続けつつ、この場所はフリースペースとしていろんな人に使ってもらう場所にしたいなと思ったんです。

――水性がオープンするまでにはどんな過程があったのでしょうか?

前澤: 2022年の12月にクリーニング屋としては店じまいをしました。1月末にクリーニング店専門の解体の方々が来て、いくつか残すものはあったのですが、大きな洗濯機やらアイロン台やら、天井を走るたくさんの配管や外の大きな看板など、ほとんどのものが撤去されました。そのあと僕がこの場所を貸してもらうことになって、2月には友人や知人とフリーマーケットをひらいたり、試験的に企画や貸し出しをしたりしました。なんとなく来てもらって、ぼんやり窓の外を眺めながら過ごしたりもしましたね。あとはダンサーに来てもらって、この場所で動いてもらったりもしました。公開のイベントではなく、クローズドな実験的なものだったのですが、キャリアのある方も多く来てくれて、贅沢でありがたかったです。

――ダンサーに動いてもらうとは、 具体的には何をしたんですか?

前澤:その時は、場所はほぼ空になっていたんですが、クリーニング屋さんの痕跡を残しながら新しくはじめようと考えている状況だったので、ダンサーには、ここに残されたモノを使って空間を自由に動いてもらいました。あと、近所を歩いて帰ってきたりして、この場所と外とのかかわりや、街との関係を考えたりも。僕は様々なダンスがずっと好きだったので、人の身体が動く姿から、わかることがすごく多いんです。だから、ダンサーの身体の流れや所作を通して空間を見てみたかったんです。この場所に残すべき痕跡についても大きなヒントとなりました。

たとえば劇場の大きさも、作品やダンサーによって広くも狭くも感じますし、印象も違いますよね。クリーニング屋さんのときは物があふれていて広さが把握できなかったし、クリーニング屋さんとして動いている場所だったので、分からなかったんです。今でも色々残してはいますが、大きなものが一気になくなると、最初はすごく広く感じたし、水性をはじめてからもイベントごとにさまざまなことを感じます。そのときも、いろんなタイプのダンサーさんに来てもらって、この場所で動くなかでどう感じたかフィードバックをもらったりしつつ、自分が感じたことを大事にしながら、何を残して何を変えるかなど、ここをどのような可能性をもった場所にするのかを考えました。4ヶ月くらいはそうやって場を慣らすようなことをしていました。場を知るというか。そのあとに、リノベーションの工事に入りました。

――ダンサーの動きを通して場を把握する、というのは、パフォーマンスを撮ってきたカメラマンならではの感覚のように思います。いろいろな実験をしながら場のつくりかたから探っていたのですね。

前澤:はい、本当にいろいろな方に協力してもらいました。友人のポートレイトを撮影したりとか、ミュージシャンに来てもらって音漏れのテストをしたり。最後の企画のときにボロボロだったシャッターが壊れて、真っ白いシャッターにしたのが最初の改修工事になりましたね。

――そういったことが、いまの運営にもつながっているんですね。ウェブサイトを見ていると、水性ではよく演劇の公演を行われている様子がありますよね。

前澤:はい。やっぱり僕が舞台写真の仕事をしているので、そのつながりが多かったんです。あと場所の特殊性を面白がってくれたり。それに、水性ぐらいの広さだと、30人ちょっとくらいは入るので、その規模で公演をしたい若い人達やオルタナティブな方々がたくさん使ってくださいました。人から人へ、こういう場所があるよって伝わっていったみたいです。ただ、もちろん舞台関係の人たちに使っていただくのも嬉しいなと思っていますが、僕自身は特にジャンルを決めているわけではありません。今後はもうちょっと、自分で企画を立てたりもしていけたらと思っています。

――なるほど。そもそも舞台写真をはじめた経緯をお伺いしてもいいですか?

前澤:写真と舞台は別々の経緯ですね。写真は20代前半のころに、父が持っていた一眼レフを使ってスナップなどを撮っていたのがはじまりです。舞台は、もともと見るのが好きだったんです。2000年代はじめごろに、演劇や、当時盛り上がっていたコンテンポラリーダンスを見はじめてハマりました。その後いくつかきっかけがあって、ダンスの写真を撮りたいなと思ったんです。それから少しずつダンスや演劇の写真を撮らせてもらう機会が増えていって、仕事にもなっていきました。

場をつくる

――さまざま実験や考える時間のあとに、リノベーションに入られたということですが、ご自身で手を加えられたのでしょうか? クリーニング屋の痕跡を残しつつも、キッチンや天井照明はきれいにリノベーションされていますよね。

前澤:はい、僕はリノベーションについてはまるで無知だったので、なんとなくの図面をイラストレーターとかでつくって、小駒豪(おごま ごう)さんという、舞台照明や美術などをやりつつ、飲食から音楽スタジオまで内装業も手掛けたりしている友人に相談して、主に二人で設計を進めました。お金がなかったので工務店も通さず、豪さんが図面をつくってくれたり、施工のときには現場監督もやってくれたりしました。地元のリフォーム会社が手配してくれた水道屋さんや大工さんにかかわってもらったり、近所で「うた」というお蕎麦とハーブティーのお店をやっている友人に紹介してもらった電気会社の社長さんが、既に退職している腕のいい職人のおじさんを紹介してくれたり、近くにある「デザインファーム建築設計スタジオ」という学校の、当時は生徒さんだったのですが施工も凄腕の飯田悟士(いいだ さとし)さんという方と出会ったりだとか、ダンサーの水越朋(みずこし とも)さんや小山(こやま)まさしさん、劇作家・演出家の小田尚稔(おだ なおとし)さん、ニャーという屋号でカフェをやっているユカさんなど、友人も手伝いに来てくれて、天井を塗ったりタイルを貼ったり、良い出会いの中で進めることができました。僕も細かく言うし、みんな慣れない作業を頑張ってくれました。

この建物を建てたときの設計図があるんですが、それをもとに電気の配線がどう来ているのかを確認しながら、どうするかを考えたり、クリーニング屋さんという特殊事情もあって、電気や排水など図面に書いていないことも多いので、水はどこから引いて来ているのかなとか、下水の穴は開いてるけどこれって使えるかなとか、まるで人体を探るような感じでしたね。使えそうだと思って水を流してみたら、ほかのところから水が溢れてきて、ここは使えないんだって発見したり。そんな感じで探っていきました。あとは照明を個別に調光できるように、電気職人さんにはかなり頑張ってもらいました。ベテランの職人さんって、一見愛想はないんですけど、やれると言ったことはやり抜くような、プロフェッショナルで素敵な人ばかりでした。

――自分たちで手探りしながらの改装、楽しそうですね。改装にはどのくらいの期間がかかったのでしょうか?

前澤:3か月ほどですかね。施工自体は1か月半くらいです。施工の前にはいろいろと下調べをしていましたし、施工中も夜は必要な物を調べてずっと買い物をしていました。全部自分で買ったので、それが大変でした。僕はすべてを人任せにできないタイプだからかもしれないんですけど、全部自分で調べたくて。例えばトイレを水道屋さんに見てもらったら、中のパーツを変えれば使えるって言われて、ウォシュレットについて延々と調べたり。でも調べていくと、良いものが欲しくなっちゃうんです。ほかにも予算をどんどん使っているから、金銭感覚がわけわかんなくなっちゃってました。いま考えると、高いものを買いすぎたものもありますね(笑) 夜中の調べ物と買い物が大変で朝起きられず、工事を任せてしまっている日も結構ありました……。

――手探りしながら、一つひとつ決めながら改装を進めていたんですね。ただ、いまの設えを見るとキッチンをつくることは決めていらっしゃったような印象も受けました。

前澤:そうですね、キッチンをつくろうという構想だけは唯一あったんです。ギャラリーや劇場としてだけ運営するなら必要ないかもしれないんですけど、ちゃんとお菓子が焼けるキッチンが欲しいなって思っていました。キッチンがあって食を提供できることで、コミュニティのようなイメージが生まれる気がしていて。飲食を絡めたイベントができたり、人が長く滞在できたり、アートだけではない、生活感のあるスペースになるといいなと思っていました。

リノベーションしてつくったキッチン

うちと、そと

――水性は、入り口も窓も大きなガラスで、一面がガラス面なので、商店街からも室内の様子がよく見えると思います。中の様子を見て、お客さんがふらっと入ってくることはありますか?

前澤:企画によってはそういうこともあります。キッチンをつくったことも大きくて、それを活用した企画をやってくれる人がいるときなどは、ふらっと来てくれる人も多いです。一方で、演劇の公演をやっていたりすると、雰囲気的に少し入りにくさはあるかもしれませんが、前日に外から見ていた人が翌日は見に来てくれた、といったこともありましたね。

ここには大きなガラス窓があって、内側から外が見えているし、逆に外からも見られているという構造なので、その構造を活かして使ってくれる企画や公演も嬉しいです。ただ、中の空間も変わっているので、借景として外の風景を使うのは難しいだろうな、と思います。今後もリノベ―ションは続くのですが、カーテンをつけるかどうかは一番悩んでいますね。

――商店街のお祭りのときにもオープンしているのですよね。そこでは水性の企画をされているのでしょうか?

前澤:はい、夏には商店街恒例の、いろいろなお店が路上に出店をする日があって、リノベーションの途中でしたが去年から参加しています。今年は水性をオープンスペースとして開放して、休憩所みたいにしていました。この商店街には商店組合もあって、うちも代々その会員になっていたのですが、今年から僕も会員になったので、みなさんともう少し仲良くなれたらと思います。

――水性がオープンしたことや、ここで行われている活動について、商店会からはどんな反応がありますか?

前澤:たくさん話すわけではないので、いまのところ特に大きな反応はないのですが、音が大きかったり、外に人が溢れてしまってご迷惑をおかけしたことがあったので、そこは気を付けています。

この場所の難しいところでもあるのですが、入り口が商店街に面しているので外からのざわざわした音も常に入ってくるんです。あと、商店街の秋祭りではお神輿が目の前を通るんですけど、商店会に聞いても何日にお神輿が通るのか、ギリギリまで日程がわからないので、その期間は演劇に貸せないなと思って、展示企画に貸すことにしたんです。でも、会期中にダンスパフォーマンスをする日があって、それがお神輿の日と重なってしまったので、借りてくれた方に「もしかしたら、お神輿が通る日かもしれないんだけど……」って相談をしていました。やっとお神輿が通る時間がわかって、パフォーマンスの時間を確認してみると、パフォーマンスの時間に重なるかどうかギリギリだったんですよ。

公演時間も決めてチラシをつくって広報しているので、いまさら時間の変更はできないし、お神輿がどこを何時に出発して、水性の前を通り過ぎるまでに何分ぐらいかかるのかを計算して……。ギリギリ大丈夫かもしれないとか、やっぱりちょっと駄目かもしれないとか、何回も確認しました。それで結局、パフォーマンスの最中にお神輿が通っちゃったんです。でも、ダンサーさんや見ていたお客さんに話を聞くと「いいタイミングに通った」と肯定的に言ってくれて、ほっとしました。

近隣からの苦情がないようにしないといけないけど、同時に、借りる人のことも考えなきゃいけないんですよね。商店街でのイベントは定期的にひらかれているので。ほかにも、春の交通安全週間に小学生のパレードが通ることも昔はあったな、と思い出したりして。すごくシリアスな演劇をやっているときに、小学生の明るいパレードが通ったとしたら……と思うとひやひやしてしまいますね。そういうことが、こういう場所にある面白さだとも思いますが、同時に難しさでもあります。

残すこと、見送ること

――あらためて空間を見ると、手を入れすぎず、クリーニング屋の痕跡を残しながら商店街と地続きにあることが特徴なのだなと思いました。

前澤:最初はもっと全体をリノベーションしてきれいにするというアイデアもあったんです。けれど、そうじゃない、痕跡の残る場所の方が個人的にも好きだったので、あえてクリーニング屋の機材も残したりしているんです。企画によっては邪魔なことも多いんですけどね。

たとえばフロアの端に業務用洗濯機の蓋があるんですけど、解体業者が来たときに「蓋だけください」とわざわざお願いしたりしたんです。本当は、こうして残したものを使って改造したりとか、何かつくったりしたいんですけど、なかなか時間と人が見つからなくて……。

――お話を聞いていると、前澤さんはこの場所に蓄積された歴史や時間も含めて、引き継いでいるんだなと思いました。リノベーションのときにひとつひとつ部品を調べて選んでいかれたことも、小さなことでもきちんと目配せをして、変わっていく様子を取りこぼさないようにしているからなのではないでしょうか。

前澤:そうかもしれません。僕は写真をやっているので、クリーニング屋としての最終営業日の様子を映像や写真で撮っておいたんです。その流れで店内の什器の解体の様子や、空間が変わっていく様子も記録していました。個人的にはそのあたりのストーリーが重要な気がしています。変わっていくにしてもあくまで段階を踏むというか、人が出入りする痕跡が残っていく感じや、空気感を大切にしたい。だからリノベーションの段階になっても、「全部塗り替えて新しくしよう!」とはならなかったんですよね。一度まっさらにしてしまったら、そういう痕跡や空気感は二度とつくれるものではないですから。だから、床のガムテープからちょっとした突起から何から残し具合を考えつつ、リノベーションを進めるのは難しかったですね。この場所に名前をつけるのもギリギリまで迷いましたし。

――水性という名前はクリーニング屋の清水屋から引き継いでいるのですか?

前澤:はい、清水屋から一文字取りたいなとは思っていたんです。清水屋のままでもいいなとも思ったのですが、でも○○屋っていうには売っているものもないですし、もう少し抽象的な言葉の方がいいなと思いました。ここのリノベーションをする前に、国分寺にある「ユングラ」という、上村恵(かみむら めぐみ)さんのスタジオのリノベーションに参加する機会があったんです。そのときにホームセンターで工具やペンキを見ていたら、水性や油性ってたくさん書いてあるのを見つけて。それで漠然と、水性っていい言葉だなって思っていたんですよね。

でも、そこからギリギリまで決めあぐねていました。リノベーションは進めていたのですが、オープンの数日前に飲食の営業許可を取るためのチェックで保健所の方々が現場を見に来たときに、「今日、許可証を出すのでいま屋号を決める必要があります」って言われたんですね。営業許可を取るためには屋号を決めて申請を出さないといけないんです。それで、「あ、じゃあ、水性で」みたいな感じでその場で決めました。

でも、水性っていい言葉だと思います。この場所の変化していく感じもなんだか水性っぽいですよね。

――水性の看板も、「水性」という手書きの文字の写真を貼っていますが、ロゴマークなどはつくられていないのですか?

前澤:ロゴは、まだ決められていないんです。看板もウェブサイトも、内装もですが、これから変わっていく予定です。いまは看板として写真を貼っていますが、これは母の文字なんです。母の字で何度か看板は入れ替わっています。今後看板も母の文字のロゴを元につくろうとしていて、それはデザイナーさんにも依頼してお話ししています。ただ、忙しさもあり進んでいないのですが……。でも、場も変わっていくしゆっくり段階的につくっていければと思っています。

はじめにかっちりつくってしまうと、そこから動かしようがなくなるので。やりたいことがはっきりあれば、それでもいいんですけど、ここはそういうわけじゃないから。ひらいてみて、動かしながら、たとえば椅子を増やそうとか窓を塞ごうとか、こういうことやったほうがいいかも、みたいな感じで、段々と変化していく。それを大切にしたいとも思っています。

 水性の看板

――いまはレンタルスペースとしての利用が多いと伺いましたが、場所のストーリーだったり特性を知らない人に貸すことは大変だったりしませんか?

前澤:お話ししたようなこれまでのストーリーもありますが、場所をひらいていきたいし、私的なストーリーをあえて共有したいとも思わないので、あくまで自由な解釈で好きに使ってもらえたらと思っています。ただ、古くてボロボロに見えてもあえて残している部分があるのですが、そのせいか、どうしても雑に扱われてしまうことがあったりはしますね。ただ、人に貸すというのはそういうことだなとも思います。人が出入りするなかで場所も変わっていく。それもまた新しいストーリーになると思っています。

水性の今後

――ここまでを振り返って、ほかの土地ではなく、この場所で水性をひらくことが前澤さんにとって大切なのだなと思いました。

前澤:僕はここにずっと住んでいるんですよね。 ここで生まれ育って、親が働く姿を見てきました。なので、小さいころから「この場所は自分が引き継ぐのかも知れない」という気持ちが、無意識的にあったと思います。全然違うことをやっていても。だから、とりあえずはしばらく続けていきたいと思っています。

クリーニング屋で使用していた什器の一部がいまも残る
足もとには購入日が。大切に使われてきたことがわかる

――だいたい何年ぐらい先まで続けようという目標はありますか?

前澤:いまは、なるべく長くやっていきたいなとだけは思っています。でも、自分がずっと続けていくわけではないかもしれない。いい出会いがあれば、任せてしまうこともあるかもしれないです。

あと、水性という名前で続けるかもわからないですね。拠点のアイデンティティって、どこにあるのかわからないというか。名前を付けるとその瞬間に自分のこどもみたいになっちゃうけど、ここはまだ猶予期間というか、モラトリアムな感じがあります。誰かが運営していて、僕が使うときだけ水性になるとか……先のことはわからないです。

――ロゴも仮ですし、段々とつくっているスタンスをあえて選んでいますしね。しかし、まだはじまって1年しか経っていないのに、人に任せてもいいと言ってしまえるのは不思議です。

前澤:まちも変わっていくので、それが大きいかもしれないです。いま中野は大規模な再開発中で、これから超高層ビルが建って、大きな工事が進んで、この先の数年でまちが大きく変わりそうで。その影響は、この商店街やうちも受けると思うんです。ここ数年でも商店街はどんどん変わっているし、その移り変わりも見ているから、どうなるかわからないなという思いが僕にはあります。

――この場所も、まちと一緒に変化し続けるということですよね。場所を開けている限り、いい意味で完成しないというか。

前澤:完成しない感じがいいですよね、完成すると終わっちゃう気がするから。僕は仕事でも舞台という、なくなってしまうものの記録写真を撮っているし、性格的にも古いものを捨てられないタイプというか、思いを込めがちで。なくなることがすごい悲しいんです。入ったことのないお店でも、閉店のお知らせの張り紙を見つけると、じっと見てすごく落ち込むこともあります。

ここを日々運営しているなかでも、借りてくれている方が変わるときは悲しいですね。秋頃に演劇の団体が借りてくれていたのですが、そのあいだの練習や公演のなかで歌声が2階まで聞こえてきていたんですよ。でも、公演の期間が終わるといなくなってしまう。僕はここに残って見送ることが多いから寂しいんです。借りる人を迎えるということは、見送る日があるってことじゃないですか。今日も、このインタビューのあと、みなさんを見送ると思うんですけど、誰かが来てから帰ってほしいな(笑) なんだかリセットされるのが好きじゃないタイプなのかもしれないですね。
なるべく連続性というか、空間もまちの歴史も、僕の人間関係も、写真の仕事も全部切らずに、混ぜていく感じにしたい。そういうことを大事にしたいと思ってます。

――

代々受け継いできた場所だからこそ見える、蓄積されている時間とその痕跡。まちや建物自体が内包している、過去・現在・未来という時間軸のなかで、水性の在り方を考える語り口が印象的でした。オープンから1年という段階で、ほかの人に運営を任せてもいいと言ってしまえるのは、その場所の歴史やその時間の厚みを知っているからこそなのかもしれません。まちの変化や人との出会いに影響されて、じんわりと変化し続ける水性の今後の姿に注目です。

――

水性
住所:東京都中野区新井1丁目14−14
アクセス:JR中央線・総武線・東京メトロ東西線中野駅北口から徒歩8分
公式ウェブサイト:https://suisei-nakano.com/

話し手:前澤秀登
聞き手:小山冴子、櫻井駿介、屋宜初音
執筆:屋宜初音
編集:小山冴子、櫻井駿介
写真:齋藤彰英

取材日:2024年12月12日(木)

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