「生きること」と「アート」の新たな結び目。 —青木彬「ファンタジア!ファンタジア! —生き方がかたちになったまち—」インタビュー〈前篇〉

まちで活動するプレイヤーの言葉から、「アートプロジェクト」の営みについて考えるインタビューシリーズ。今回は、2018年より墨田区北東部の「墨東エリア」を舞台に「ファンタジア!ファンタジア! —生き方がかたちになったまち—」(通称、ファンファン)を展開する、インディペンデントキュレーターの青木彬さんにお話を聞きました。

まちの人たちや多様なゲストとの対話や実践を通して、自分の「当たり前」を解きほぐすような学びの場を生み出してきたファンファン。「集まる口実」として、みんなでユルめの広報誌「ファンファンレター」を定期的に手作りしたり、それぞれの想像力を引き出すため、会議の冒頭にお互いの近況をラジオ風に話したりと、一見ささやかなその所作のなかには、プロジェクトの運営に関わる多くのアイデアが仕掛けられています。

同時に、ギャラリーなどで展覧会もキュレーションしている青木さんにとって、まちと溶け合うファンファンの活動は、従来の「アート」の枠組みでは捉えられない、「生きること」そのものと表現をめぐる新たな問いの場所にもなっているようです。活動を続けるなかで、青木さんはどんなことを考えてきたのか? 東京アートポイント計画・ディレクターの森司と探っていきます。

(取材・執筆:杉原環樹/撮影:加藤甫 *提供名のある写真以外)

東京アートポイント計画ディレクター 森司(写真右)とともに伺った。

なにか知らない「予感」めいたものに向かって

——「ファンタジア!ファンタジア! —生き方がかたちになったまち—」(以下、ファンファン)では、「学び」をテーマにされているそうですね。どのようにして活動が始まったのか、ということから聞かせてください。

青木:墨田区との関係から話すと、10年ほど前の学生時代から、当時行われていた「墨東まち見世」というアートプロジェクトを見に来たり、2016年からは友人と一緒に長屋を改装した「spiid」という住居兼アトリエを運営したりと、以前から関わりがあったんです。墨田はアサヒビールのメセナ活動もあり、数十年前からアートプロジェクトの歴史が蓄積されてきた地域ですが、実際、「spiid」の近隣にも面白い活動をしている人たちがたくさんいて、僕にとってその長屋の家賃は、このまちで遊ぶための入場料のような感覚でした。

青木さんが友人でアーティストの奥村直樹さんとともに墨田区京島エリアで運営している住居兼アトリエ「spiid」。展示やアートブックフェアなども開催してきた。(写真提供:青木彬)

そして2018年、僕もこの場所で活動をより広げたいと、ファンファンを始めました。ファンファンのサブタイトルは「生き方がかたちになったまち」ですが、墨田には長屋や町工場がいまも多く残されていて、DIYで空間を作るような風土があるんです。人の振る舞いの優しさが、きちんとまちに反映されている。同時にコミュニティが成熟して、外から来るものへの柔軟性を失っていると感じる部分もありました。そこで、僕たちもこのまちで一緒に知らないものを経験していきたいと思い、「学び」ということを打ち出しました。

——この場合の「学び」とは、どんなイメージなんですか?

青木:僕らは「学び」を、学習的なものではなくて、「人が安心して変われるもの」とイメージしています。それはアートにも近くて、たとえば美術館というのは、制度的に設けられた、「この空間なら安心して変わっていいよ」という場所ですよね。それと同じような変容を、まちで、しかも「アート」を前面に出さずにやってみたい、と。でも、最初の頃は上手く言葉にできなくて、森さんに何度も問い返されていましたね(笑)。

森:当初は「研究」や「リサーチ」など、青木さんから出てくる言葉がもっと固かったんです。しかも、かなりアカデミックな意味で使っていて、本来やりたいのはまちなかに考え方を実装するようなもののはずなのに、その言葉は違うのではと感じていました。でも、それらは強い言葉として青木さんの身体に入っていて、しばらくは手放さなかったよね。

青木:そうですね。そこから離れられたのは、もう一つ大事にしている「当たり前を解きほぐす」という考えを深められたからだと思います。アートプロジェクトにも「こうやるものだ」という一種の型、当たり前がありますが、それを再生産してもつまらない。とくにこの地域の人たちは、既存の「アート」の制度に変に固執せず、もっと柔らかい活動を展開していて、それがシンパシーを抱いた部分でした。ならば、僕も既成の言葉やアートの思考に頼らず、「アート」と呼べるかはわからないけれど追い求めたい感覚、よくわからない予感めいたものを求めていけばいいんだ、とわかってきたんです。

「ファンタジア!ファンタジア! —生き方がかたちになったまち—」公式ウェブサイト

——森さんが、青木さんやファンファンに期待したものは何だったのですか?

森:まずは、絶対的な新しさです。「研究」などの言葉は、青木さんのまちに対する真摯な姿勢から出てきたものですが、その遠慮があると行動が起こせない。だから、それを取り除きたかった。同時に、さきほどもあったように、彼は大胆にも家賃を「まちへの入場料」と見立てていました。その読み替え自体は、ぜんぜんアカデミックじゃないわけですよ。青木さんはアートの言語をよく知っていて、でも、その不自由さにも気づいているから、別のコードを入れていたわけです。そのタッチでまちに入ろうとしているのは、面白いと思いました。

また、彼は当時すでに展覧会をキュレーションする若手として、メディアでも紹介される存在でした。その道で行くこともできたはずです。しかし、何かモヤモヤを感じていて、言葉にできないもどかしさを持っていた。それは、言い換えると絶対的に新しいものへの指向性でしょう。だから「一緒にやろう」となったんです。

ウロウロの先の関心

——青木さんはなぜ、いわゆるキュレーターではなく、アートプロジェクトの方面に行ってみようと思ったのですか?

青木:僕自身にとっては、そこは地続きだったというか。そもそも僕はキュレーションの専門教育を受けていなくて、アートマネジメントを指向していました。キュレーターとして展覧会を行うときも、ギャラリーのような空間だけでやるのではなくて、まちのある場所に作品と呼ばれるものが置かれたらどうかという、少し俯瞰的な関心があったんです。

森:それで言うと、彼を面白いと思ったまた別の理由は、ウロウロしていたからなんです。話題のものや人気のものだけでなく、「こんなものまで見にくるんだ」という企画まで、いろいろな場所で彼の姿を見かけていました。

青木:ウロウロすることはわりと意識していましたね。相対的に物事を考えたくて。

森:その出没情報は重要でした。「好き」で動くファン心理でも、人に出会いたいという野心でもなく、興味の有無に関係なく、とりあえず雑多なものを俯瞰しておく、オンタイムで見ておくという行動様式。それは歌手のボイストレーニングのように重要で、その信頼はありました。でも、そうやっていろんなものを見ている前提で企画を求められるから、困ったんだよね(笑)?

青木:そうですね。ゲストを立てる企画のときも、森さんからは「ゲストは僕が知らない人がいい」と言われたり(笑)。僕も期待に応えて見つけたいと思うんだけど……。

森:「見つける」というより、僕としてはそこで、「この人、この企画は新しい」と言い切るジャッジと振る舞いを求めていたんです。突き詰めると、ある人が長期的に残るような新しい人かどうかなんて、時の運でしょう。でも、「よくわからないけど、自分はこれが新しいと思う」という踏ん切りがあるかが重要で。それを言い切れるかどうかだった。

青木:たぶん当初は、やろうとしていることが価値として認められるか、不安を抱いていたんだと思います。でも、ファンファンを続けながら、少しずつ自信が付いた。とくに最近は、ファンファン以外にも、僕の関心にシンパシーを感じてくれるアーティストや人に出会えていて、だんだん自分のなかで関心の濃度が高まっている感じがあります。

去年、個人の仕事で、京都芸術センターで『逡巡のための風景』という展覧会を企画したんです。そこで関わった人には、アーティストも福祉施設の人もいました。いろんな立場の人が混じりながら、「展覧会」という形式は正しいのか、「アーティスト」という存在はどこまでを指すのかという問いに、一年ほどかけて向き合えた。それはファンファンで考えたいことでもあって、自分の考える「新しさ」の言語化のうえで大事でした。

「アート」と「よりよく生きること」

——個人的に、アートプロジェクトをめぐる「言語化」の話題は、青木さんに今日、一番聞きたかった部分でした。ファンファンのようなまちで展開されるアートプロジェクトの可能性は、展覧会や作品を中心に語られるアートシーンや、主要なアートメディアのうえでは、いまもマージナル(周縁的)であり続けていると思うからです。しかし青木さんには、そうしたシーンにも届き得る言葉で、その可能性を言語化したいという気配を感じます。

青木:その二つの領域にあるのは、技術の違いだと思います。展覧会を作るにも、アートプロジェクトを作るにも、別の技術がいる。でも、それらは互いに引用可能で、その意味で僕はフラットに見ています。たとえば先の京都の展示では、主にアートプロジェクトで活躍している作家を展覧会に入れました。すると、展覧会という形式に付随した「展評」というかたちで、プロジェクトの活動がこれまでとは別の回路に広がっていく。同じことは反対でも起き得ます。もう片方で使えるものを得るために、両者を行き来することは意識している気がします。

他方で、価値付けという場合、展覧会だと作品に価値を問えるけど、アートプロジェクトはそこが流動的で、本人たちも言語化できていない部分があるかもしれません。行政的な価値観で評価されたり、美学的な視点から問われたり。でも、そこでは、「そもそも美学的な価値じゃないんだ」と自分たちで言い切ることも大事ではないか、と感じます。

森:僕は、いわゆる展覧会と批評を軸としたアートワールドがアートプロジェクトを引き取るかどうかにあまり興味がなくて。その評価にかかわらず、存在としてのアートプロジェクトはこの20年あまりで確実に必要とされ、増えていますよね。たしかに批評的な言語の用意はないし、「アートピースとしての質」を求めたらそれはないことになるんだけど、逆にそこに固執しなかったからこそ、消費されなかった部分がある。

日比野克彦さんや宮島達男さんなど、それこそアートワールドで活躍した作家がアートプロジェクトをしている現実もあるじゃないですか。その背景には、アートプロジェクトの方が構えることなく夢が見られる感覚があると思う。その場所でいつの間にか幸せを感じた人がいたときに、「それはアートの効能だ」とわざわざ言う必要はないんじゃないか。ある局面においては、積極的に「アート」を手放すことがあっていいと思うんですよ。

青木:日本型アートプロジェクトは、1960年代に隆盛した野外美術展が源流だとよく語られるのですが、それはアートピース中心の歴史だと思うんです。でも、僕は、視点を変えるとより以前に遡れると思っていて、最近、大正期に日本で盛んになったボランティア活動である「セツルメント運動」(※)などを調べています。そこでは、アーティストが社会福祉に関わっていたり、こども向けの鉛筆画のワークショップをしていたりした。でも、作品は残されていないから、作品中心の歴史からはこぼれ落ちてしまうんです。

まだ、アートの制度がそれほど確立されていない時期に行われたそうした活動は、「幸せに生きたい」とか、「健康でいたい」とか、アート的な目的とは違う切実さに基づいた想像力の実践だったんだと思う。僕が考えるアートプロジェクトは、それに近いような気がしていて。たとえ、従来の意味での「アート」じゃなかったとしても、そこに意味があるという価値観をより強固にしていきたいという関心があります。

※「セツルメント運動」の詳細と、青木さんが感じる現代におけるアートとの関連性については、CINRA.netの対談記事「アートって図々しい。青木彬×福住廉が考える市民と作家の交歓」(2019年10月15日)で詳しく語られています。

——なかでもとくに福祉への関心が強いと感じますが、それはいつ頃からですか?

青木:遡ると、学生時代に卒業論文を書いていた頃から、精神医療は少しかじっていて。そこから家族が病気をしたり、自分のこと(※青木は2019年11月に右足を切断する手術を受けた)だったりで、医療福祉への関心がずっとあって、本は読み続けていました。それがいままではアートと遠かったんだけど、最近は近づいて、「あれ、つながるじゃん」みたいな。とくに手術後は、より明確になった感じがありました。

森:手術の後、自信も付いたし、元気にもなったよね。

青木:本当に身体が変わって、100%自分と向き合える感じになったんです。アートに関わる人は少なからず経験していると思うのですが、個人の経験は制度で語れない分、価値が見出されにくい。けれど、手術後、やっぱり自分はアートで救われているという実感が確実に持てたんです。そのとき、「よりよく生きること」にアートの技術を使ったり、自分の身体と向き合うことにアートを使ったりすることに、もっと貪欲になろうと思いました。

「アート」の新しい問い、新しい語りに向けて。 —青木彬「ファンタジア!ファンタジア! —生き方がかたちになったまち—」インタビュー〈後篇〉

Profile

青木彬(あおき・あきら)

インディペンデントキュレーター/一般社団法人うれしい予感 代表理事/まちを学びの場に見立てる「ファンタジア!ファンタジア!─生き方がかたちになったまち─」ディレクター。
1989年生まれ。東京都出身。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。プロジェクトスクール@3331第一期修了。公共劇場勤務を経て現職。アートプロジェクトやオルタナティヴ・スペースをつくる実践を通し、日常生活でアートの思考や作品がいかに創造的な場を生み出せるかを模索している。
これまでの主なキュレーションに、「中島晴矢個展 麻布逍遥」(2017, SNOW Contemporary)、「根をもつことと翼をもつこと」(2017, 大田区京浜島、天王洲アイル)などがある。「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展」(2017, アーツ千代田3331)キュラトリアルアシスタント、「黄金町バザール2017 –Double Façade 他者と出会うための複数の方法」(2017, 横浜市)アシスタントキュレーター。「KAC Curatorial Research Program vol.01『逡巡のための風景』」(2019, 京都芸術センター)ゲストキュレーター。社会的擁護下にある子供たちとアーティストを繋ぐ「dear Me」プロジェクト企画・制作。「喫茶野ざらし」共同ディレクター。

ファンタジア!ファンタジア!―生き方がかたちになったまち―

多くのアトリエやオルタナティヴ・スペースが集まる東京都墨田区北部(墨東エリア)において、点在する文化拠点との連携やアートの思考を通じて、「学びの場」を形成するプロジェクト。街そのものの特性とこの街に集う人々がみせる文化的な生態系、そして区内外のアーティストや研究者など専門家のアクションが交わる状況を創造する場としてのラーニングプログラムの実施とそれらの検証から、豊かに暮らすための創造力や地域の文化資源の価値についてやわらかな観点で考えます。
http://fantasiafantasia.jp/
*東京アートポイント計画事業として2018年度から実施

事業紹介ムービーはこちら(アーツカウンシル東京YouTubeチャンネル)

「アート」の新しい問い、新しい語りに向けて。 —青木彬「ファンタジア!ファンタジア! —生き方がかたちになったまち—」インタビュー〈後篇〉

まちで活動するプレイヤーの言葉から、「アートプロジェクト」の営みについて考えるインタビューシリーズ。今回は、2018年より墨田区北東部の「墨東エリア」を舞台に「ファンタジア!ファンタジア! —生き方がかたちになったまち—」(通称、ファンファン)を展開する、インディペンデントキュレーターの青木彬さんにお話を聞きました。

アートプロジェクトを運営すると同時に、ギャラリーなどにおける展覧会もキュレーションしている青木さんにとって、まちと溶け合うファンファンの活動は、従来の「アート」の枠組みでは捉えられない、「生きること」そのものと表現をめぐる新たな問いの場所にもなっているようです。活動を続けるなかで、青木さんはどんなことを考えてきたのか? 東京アートポイント計画・ディレクターの森司と探っていきます。

(取材・執筆:杉原環樹/撮影:加藤甫 *提供名のある写真以外)

「生きること」と「アート」の新たな結び目。 —青木彬「ファンタジア!ファンタジア! —生き方がかたちになったまち—」インタビュー〈前篇〉

月2回発行している広報誌「ファンファンレター」。このレターを集まってつくること自体もプロジェクトの大事な活動。ファンファンを表す代表的なツール。

メンバーの「いま」を映す広報紙

——ファンファンでは、まちの人の個人的な話を聞く「WANDERING」や、外部のゲストの話を聞く「ラーニング・ラボ」、その対話から生まれたものを実践する「プラクティス」などのプログラムが行われています。また、活動を紹介する「ファンファンレター」という広報紙を定期的に発行していますが、その制作方法がユニークだとお聞きしました。

青木:さきほど「当たり前を解きほぐす」と言いましたが、ファンファンレターは自分たち自身の当たり前から解きほぐすためのものとして設計しているものです。活動をカッコよく伝えようと思ったら、カッコいいデザイナーに依頼すればいいんだけど、それよりもみんなと集まる口実が欲しい。制作過程に協働性を入れたくて、手探りで作れる広報紙をデザイナーと相談して考えました。具体的には、みんなで対話をしながら、ハサミやノリやオリジナルのスタンプを使って手作業で「版」を作り、それを刷っています。

3年間の活動で、ファンファンレターがあったのは一番大きかったと思います。地域の人と関わるという意味でもそうだけど、裏テーマ的に言うと、やっぱり事務局が鍛えられたんです。 定期的に集まってコミュニケーションをとる場がある。かつ、そのつどの参加者によるムラや空気が、誌面に出ている。これまで すでに30号以上を発行していますが、そういうムラを許容できる身体を作っていった感じがします。

森:去年、そのレターなどをまとめた「ファンファンパック!!2019」というボックスを作りましたよね。僕は、あれがファンファンの一つの集大成の仕事だと思っていて。構造的に設計されたものを、あえて「ヘタレ」な形に落とし込む。個々は歪なところもあるけど、まとめるときちんとメッセージになり、所信表明になっている。「やったな」と思った。東京アートポイント計画で毎年発行している印刷物のなかでも、去年のベストでした。「ファンファンは何をしたの?」と聞かれたら、「ボックスを作ったね」というものとして、僕は受け取っているんです。

プロジェクトの運営レベルで言うと、スーパーの広告チラシ風のこの印刷物に東京都の主催を表すロゴを付けることは、すごいことなんです。そこでまず自分たちも覚悟を問われた感じがあるのですが、ボックスでまとめると、見事に受け入れやすいものになっている。そこまで見据えていたかはわからないけれど、 できているという事実が大きい。コロナ禍を受けて作った特別号もとても良かったです。

「ファンファンレター」特別号。

青木:6月に立て続けに全4号を出した「みじかい間」という特別号で、紙でミニチュアの展覧会を作れる付録をつけました。コロナで直接会えなくなるなか、 プログラムを止めるのではなく、いままでやってきたことを使えるんじゃないかと思い、ファンファンレターのフォーマットを使って実践的なプログラム「プラクティス『みじかい間、少しとおくまでの対話』」をやりました。展覧会の作品素材は墨田区でギャラリーをやってるアーティストたちに協力してもらい、描いてもらいました。

森:コロナの時代への打ち返しとして、すごく良かったです。アートワールドの人はここに価値を認めないかもしれないけど、この微弱な価値を認めないと行き詰まると思います。

青木:もうひとつファンファンレターで重要なのは、それがメンバーや東京アートポイント計画のプログラムオフィサー(PO)とのコミュニケーションツールでもあることでした。初期の頃によく、自分たちの考えを身近な人たちにどう伝えるかを話したのですが、そこでは、仰々しい企画書を出せばいいわけではない。何を考えているのかを共有していく一番手前のところから設計できたのが、ファンファンレターの機能として大きかったと思います。

組織やアートの当たり前をいかにほどく?

——さきほど「ムラを楽しめるようになった」というお話がありましたが、青木さんは組織の運営方法も工夫されているそうですね。ミーティングの際も、冒頭にメンバー同士でラジオ風に近況を報告し合うなど、中心性を作らない仕掛けを導入しているとか。

青木:決定権をいかにフラジャイルにするかに興味があるんです。アートに限らずさまざまな組織において、中心的な誰かが物事を引っ張るのは簡単で、その求心力の生み方もわかるのですが、個々人の想像力を引き出す会議の仕方を作りたいと思いました。そのとき、ただ集まるのか、付箋やホワイトボードを使うのか、メールか、LINEを使うのかなど、集まり方や用いる道具によってあり方が変わるじゃないですか。それこそ、「当たり前」の部分から問いたかったんです。そこに手を入れないと、新しいものも出てこないなと。

——集まり方から変える。

青木:そうですね。定例会も、これまでは集まって会議をして、ご飯を食べて、というかたちでしたが、最近はオンラインで、最初に5人の出席者を二組に分け、ここ一週間ほどの関心をラジオ風に話す時間を20分ほど設けています。映像は切って、音声のみ。だんだんBGMを付けたり、ラジオメール風にお便りを出すようになったり。会議としては、その部分はとくに意味があるわけじゃないんだけど、それが活動に影響していく。その小さい選択から決定権が揺らぎ、その先に見たことがないものが作れる気がしています。

岡野:私もPOとして定例会に参加していますが、ラジオの仕掛けはプロジェクトのあり方に影響を与えていると思います。本当にそれぞれの個人的な関心を話しているのに、不思議とキーワードが重なっていたり、つながっていたり。一人の人が主導してまとまっていくんじゃなくて、みんなで「ファンファンの脳味噌」を作っている感じがあります。

森:面白いマネジメントですよね。このプロジェクトには、「プロジェクトをしよう」という構えがないんですよ。所作のすべてをプロジェクトにしているから。逆に言うと、だからこそ、よりわかりにくくなっているんです。

さっきの話で言うと、ファンファンの活動の価値を誰もが当たり前に感じられればいいんですけど、なかなかそうはならない。一般に表現とは、「刺激的なもの」「向こうから楽しませてくれるもの」と考えられていますよね。ファンファンの活動はそれとは異なり、乗るか乗らないかはその人次第。非常に能動性が求められるから、届け先をどう創出するかという問題が出てくるんです。「勝手に楽しむ人」をどう増やしていけるのか。

東京アートポイント計画ディレクター 森司

——コロナ禍で、大きなイベントに頼っていた場所が危機に追い込まれている。一方、小さな活動を大事するファンファンのような場所は元気というのも、示唆的です。

森:本当の自由を求めているからだと思います。価値化された「自由」のなかで動いている限り、現在の状況では立ち行かなくなる。その象徴が、美術館で、大きな動員を見込んで行われるいわゆる「ブロックバスター」展ですよね。でも、本当に必要なのは、ファンファンのような勝手に認証を楽しむあり方。それを変わらず楽しんでいるから、ファンファンは「元気」に見えるのだと思う。ファンファンレターのようなサイズの営みを価値化していかないと、これからの時代、立ち行かなくなると思うんです。

——逆にその価値を認めないと、あらゆる文化的イベントが閉じられてしまったいま、この時代には文化的な出来事は「何もなかった」ことになってしまいますね。

森:そう。その「何もなかった」という感覚は、危ない。

青木:それはすごく感じます。最近、ほかのアートプロジェクトの関係者から、「コロナになって出会いがなくなった」と聞くのですが、それはアートを非日常性のなかで捉えているからだと思う。ファンファンにはその感覚はなくて。日常には普通に人との出会いはあるし、そこにもクリエイティビティはある。展覧会やイベントがないと言えばそれまでですが、むしろ、その外にあるものをいかに「アート」と呼び直すかだと思います。

ファンファンのプログラム「新しい対話のためのプラクティス『ゆびのかたりて』(アーティスト:佐藤史治+原口寛子)の様子。(2020年8月23日〜25日開催)

新しい問い、新しい語り

青木:いま、「アート×福祉」のように、異なるジャンルとの間に架け橋を掛ける取り組みが多くありますが、そもそも、「福祉」にも「地域」にも、「アート」はあった。僕らが興味を持っているセツルメント運動や、あるいは、手作業を通して障害を持つ人の能力の回復をめざす「作業療法」という領域も、じつは源流には19世紀のアーツ・アンド・クラフツ運動があります。そうした関係性に、あらためて気づいていくことも重要になるのかな、と。でも、それをブロックバスター展的な規模でやると、おそらく「アウトサイダー・アート」的な文脈に回収されてしまう。それと、僕らがファンファンレターなんかでやっている当事者間のやりとりは、まるで軸の違うものなんです。

——青木さんは、その部分を言語化したい?

青木:言語化をしたい思いはあります。 ただ、いまのような語り方では、その言葉が届く範囲はすごく限られてしまう。歴史を参照しても、ファンファンレターが届くような人たちには通じないというか。言葉の作業もやりつつ、一方で言葉だけでなく、ファンファンを通して作ってきたようないろんな人が集まれる場所、それは空間的な意味に限らず、生態系的なネットワークをより作っていけたらいいんじゃないか、と。その規模感で実感を作らないと、「生きること」とアートという視点は社会に伝わらないと思っています。

——ありがとうございます。いろんなお話を聞けましたが、正直に言うと、今日はその「本当に新しい部分」にうまく触れられていない気もして。どう質問したらいいものか……。

森:それで言うと、おそらく、「従来のアートの着こなし」による問いの立て方では向き合えない活動だからだと思うんですよ。普通のアートワールドの人たちには響く問いだとしても、青木さんはもうそれとは違うアートの着こなしをしている。だから、そこでは違う問いの立て方が必要になる。彼の言う、ファンファンレターが届く人はいわゆるアートの言葉で話す人とは違うというのはそれを言い当てていて、違う場所を見据えているから。

——話しながら、それは感じますね。インタビュアーである僕自身ももう一つ大事なところを抑えられていないような感じがする。

森:実際、その先に問いを進めるのは難しいのですが、「Why?」「Because~」というかたちのやりとりではなく、「So what?」(だから何?)と返されるくらいが我々にとってはいい塩梅ではないかと思うんです。そうじゃないと、あっという間に既存の制度に回収されるから。

一方で青木さん自身も、以前は語れなかったことを、いまではこんな風に綺麗に語れるようになった。ただ、それは言い方を変えると、ひとまずの代弁ができるようになったということでもある。でも本当は、現在もうまく語れないものを持っているはずで、「代弁をやめようぜ」というのが、いま、青木さんに問いかけてみたいことですね(笑)。

青木:そこが自分でも、もどかしいところで……。語れないことがあることは自分でもよく分かっているけれど、語れるものがある程度まとまってきちゃった。でも、その先にどんどん自分が見つけたいもの、本当に言葉にしていきたいところが出てきていて。

突拍子なく聞こえるかもしれませんが、最近、僕は東京の外に引っ越して、自然に囲まれた環境で畑仕事をしたり、手芸をしたりし始めているんです。手芸というジャンルは、これまでのアートの制度のなかで、その中心から幾重にも隔てられ、ジェンダーや家庭というものと結び付けられてきた。これも予感ですが、そうしたものを自分で体験して、咀嚼するなかで、何かファンファンの活動に反映できるものがある気がしています。でも、いまこうして話していても、アートの言葉で話している違和感はあるのですが……。

森:その意味では、いまは「貯め」の時期で、「待ち」の時期なんですよ。

青木:そうですね。少なくとも言えるのは、 それに向かっていま、確実に思考を貯められているという実感があることです。ファンファンのみんなで話し合えているし、みんなもその新しさを掴もうとしている。この2年くらいで、そこに向き合うことに躊躇がなくなりました。このメンバーとなら、ちゃんと考えられるという気がしています。

2020年8月26日「喫茶野ざらし」にて収録

Profile

青木彬(あおき・あきら)

インディペンデントキュレーター/一般社団法人うれしい予感 代表理事/まちを学びの場に見立てる「ファンタジア!ファンタジア!─生き方がかたちになったまち─」ディレクター。
1989年生まれ。東京都出身。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。プロジェクトスクール@3331第一期修了。公共劇場勤務を経て現職。アートプロジェクトやオルタナティヴ・スペースをつくる実践を通し、日常生活でアートの思考や作品がいかに創造的な場を生み出せるかを模索している。
これまでの主なキュレーションに、「中島晴矢個展 麻布逍遥」(2017, SNOW Contemporary)、「根をもつことと翼をもつこと」(2017, 大田区京浜島、天王洲アイル)などがある。「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展」(2017, アーツ千代田3331)キュラトリアルアシスタント、「黄金町バザール2017 –Double Façade 他者と出会うための複数の方法」(2017, 横浜市)アシスタントキュレーター。「KAC Curatorial Research Program vol.01『逡巡のための風景』」(2019, 京都芸術センター)ゲストキュレーター。社会的擁護下にある子供たちとアーティストを繋ぐ「dear Me」プロジェクト企画・制作。「喫茶野ざらし」共同ディレクター。

ファンタジア!ファンタジア!―生き方がかたちになったまち―

多くのアトリエやオルタナティヴ・スペースが集まる東京都墨田区北部(墨東エリア)において、点在する文化拠点との連携やアートの思考を通じて、「学びの場」を形成するプロジェクト。街そのものの特性とこの街に集う人々がみせる文化的な生態系、そして区内外のアーティストや研究者など専門家のアクションが交わる状況を創造する場としてのラーニングプログラムの実施とそれらの検証から、豊かに暮らすための創造力や地域の文化資源の価値についてやわらかな観点で考えます。
http://fantasiafantasia.jp/
*東京アートポイント計画事業として2018年度から実施

事業紹介ムービーはこちら(アーツカウンシル東京YouTubeチャンネル)

Artist Collective Fuchu[ACF]

「誰もが表現できるまち」を目指して

郊外にある府中市に暮らす職種も年齢も多様なメンバーが集まり、身近なところにある「表現」を通して「だれもが表現できるまち」を目指すプロジェクト。異なる視点に触れ、互いの違いを尊重し、自由で活発な表現ができる土壌づくりを行っている。行政や企業、市民などさまざまな役割をもった人たちと連携し、プロジェクトを実施している。

実績

NPO法人アーティスト・コレクティヴ・フチュウ(以下、ACF)は、アートや表現活動に関心をもった人たちが集まったネットワークから生まれた。2019年度に開始した「nullー自由な場所とアートなことー」では、場所とテーマを変えて、参加者同士が交流するコミュニティづくりを行ってきた。2020年度はコロナ禍によって活動をオンラインに移行したが、2021年度には事前に一定期間、オフラインの会場でエピソードを集め、それをもとにオンラインで交流の場をつくる形式のプログラム運営も行った。

府中エリアのコミュニティFM放送局と連携した番組『おとのふね』では、毎月第1火曜日に、府中にゆかりのあるゲストに話を伺っている。2020年度からは、市内を中心に配布するかわら版『かみひこうき』を年2回ほどのペースで発行し、府中のおもしろい人や場所を紹介している。ローカルに流通する情報は、市内だけでなく、近隣地域の人々のかかわりを呼びこむきっかけになっている。

2021年度からは府中市の市民提案型協働事業として、「ラッコルタ-創造素材ラボ-」を始動。企業から不要な部材の提供を受け、アーティストのワークショップなどに活用する仕組みづくりとして、第一弾では市内にある株式会社TOKIO Labから提供を受けたダンボールチップを使い、美術家・三木麻郁がオンラインワークショップと展示を行った。小さな部材を組み合わせ、自由にかたちをつくることができ、素材として扱いやすいダンボールチップは、市が主催するフェスティバルへの出展や市内外の学校教育の現場でも活用されている。ほかにも市内外の企業から反響があり、さまざまな部材が提供されており、素材の収集と活用の循環をつくるプログラムの運用方法が課題となっている。2023年度には市主催の生涯学習フェスティバルや、都主催の多摩東京移管130周年イベント等でワークショップを行い、好評を博した。企業や福祉施設、教育施設などからの相談も増え、新たな協働者との出会いにつながっている。

近年は、プログラムが多岐にわたり、チームごとの動きが活発化していくなかで、活動を集約する拠点づくりにも手を伸ばしている。2022年度には、ACFで大東京綜合卸売センター(府中市場)の一画を暫定的に利用して「やど(仮)」というスペースをひらいた。2023年度は、ラッコルタのアーティストワークショップで現代美術家・岡田裕子とともに「モノモノローグ」を開催。参加者がさまざまな素材に触れて対話をしながら「想像」を膨らませる映像作品が生まれた。リサーチプログラム「まなばぁーと」では、持続的な活動を続けていくために「ロジックモデル」をつくり、これからの活動指針を専門家とともに見直した。そのほか、地域FMでのラジオ番組『おとのふね』の定期配信(月1回)や、かわら版『かみひこうき』の発行(年1回)など定期的な情報発信を続けている。今後も活動を継続的に地域に定着させていくため、行政や企業とのより強固な連携体制づくりを試みていく。

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ファンタジア! ファンタジア! ―生き方がかたちになったまち―

「当たり前」を解きほぐし、創造力を育む

「墨東エリア」と呼ばれる墨田区北東部は、2000年代初頭の住民主導のアートプロジェクトをきっかけに、現在も多くのアーティストが暮らす地域。そこを舞台に、地域の人々がアーティストや研究者との出会いを通じて、豊かに生きるための創造力を育む「学びの場」を生み出す試み。他者との対話で生まれる気づきを通して、自分自身の想像の幅を広げ続け、自分のなかの常識や「当たり前」を解きほぐす小さな実験をしかけている。

実績

墨東エリアでアートスペースやアートプロジェクトの運営にかかわっていたメンバーらを中心にスタート。本事業が指す「学びの場」とは、これまでの「当たり前」を解きほぐす対話が生まれるような場。そのため、対話することを重視した多様なプログラムを開発してきた。

2018年度からは、現在も継続して発行している広報紙『ファンファンレター』の発行や、ヒアリング企画「WANDERING」を実施。『ファンファンレター』は、複数の人が集まり、オリジナルのスタンプなどを使って手作業で制作しており、誰かと協働作業を行うことが前提となった設計となっている。「WANDERING」は、相手にヒアリングしながら墨田区の白地図の上に対話の軌跡を落としこんでいくプログラムで、本人も気づかなかった発見に至ることを目指している。

新型コロナウイルス感染拡大の影響により、対面で集まりにくくなった2020年度には、『ファンファンレター』に組み立て式の付録をつけ、近隣飲食店のテイクアウトと連動させたり、「WANDERING」のオンライン版ムービーを制作したりするなどといった「みじかい間、少し遠くまでの対話」を実施。また、事務局内でラジオ番組風にオンラインで情報共有をする「ラジオの時間」を設けるなど、日常のなかでの創造力を忘れず、変化する「日常」や「生活」に柔軟に応答してプロジェクトを継続した。

そのほかにもアートや教育、まちづくりなど様々な分野の研究者やアーティストをゲストに招いたトーク企画「ラーニング・ラボ」や、「安心して楽しく“もやもや”しよう」をテーマに公募メンバーが定期的に集う活動「ファンファン倶楽部」、墨田区で行われてきた文化活動のアーカイブをつくるプログラム「スミログ」といったプログラムを展開。「スミログ」では、記録に残りやすい大きなアートイベントのみならず、朧げで小さな出来事などの記録も集め、「何をアートイベント/文化事業と定義するか」という問いを携えながら、記録の整理や活用方法を模索している。

また、アーティストとともに地域にかかわり、自分たちのまちや現在を見つめ直すプログラムも開催。2019年度から2020年度にかけては、アーティスト集団・オル太とまちの歴史についてリサーチを行い、それをもとに映像インスタレーション展「超衆芸術スタンドプレー 夜明けから夜明けまで」を展開した。2021年度からは、アーティストの碓井ゆいと、1919年に発足した福祉施設「興望館」との協働プロジェクトを始動。興望館のセツルメント運動や地域の歴史をリサーチし、写真や保育日誌、同人誌などの膨大な記録に出会いながら、こどもたちと一緒にZINEをつくるワークショップ「トナリのアトリエ」や、地域福祉とアートのつながりを考える展覧会「共に在るところから/With People, Not For People」を実施した。これらの企画を通して、表現と社会活動の間の領域を模索したり、暮らしのなかに脈々と流れる創造力のあり方について考えたりしながら、アートプロジェクトの足元を問い、現在を見つめ直している。

2021年度には、東向島駅の近くに「藝とスタジオ」をオープン。これまでかかわった地域団体や参加者と関係を育み、新たな人々に出会うために、拠点交流の場として活用している。オープンスタジオを不定期で開催し、事務局メンバーの関心ごとから「リソグラフ」「アクセシビリティ」「ソーシャルワーク」などのテーマでプログラムを企画。他団体とも連携しながらプログラムを実施することで、新たな人を呼び込み、さらなる関係性をつなげている。ほかにも「すみだ地域福祉・ボランティアフォーラム」や「すみだボランティアまつり」に参加し、墨田区内で“福祉とアート”をテーマに活動する団体としての働きを積み重ねている。

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HAPPY TURN/神津島

島をめぐる「幸せなターン」を見つける

豊かな自然、神話や独特な風習が残る神津島村を舞台に、人々が島での暮らしに愛着をもち、自分ごととして島にかかわる土壌を育むプロジェクト。新たな価値観との出会いや発見によって、自分自身でつかむ変化のきっかけを「幸せなターン」と捉え、これからの生き方のヒントを探る。もともと島に住む人だけではなく、移住者や観光客、島を離れて暮らす人ともつながりながら、それぞれの考え方や文化を学び合う場をひらいている。

実績

2019年、島の中心地にほど近い通りにある元中華料理店を改装し、誰もが自由に使える広場のような活動拠点「くると」をオープン。大きな黒板や駆けめぐられる庭、音楽が流れるスピーカーのあるスケルトンの建物が生まれ、もともと島に暮らしていた人や移住者、たまたま通りがかった人、旅人など、大人からこどもまで多くの人々が行き交う風景が生まれている。

2021年度からは「アーティスト・プログラム in 神津島」を実施。島外からアーティストを招聘し、島の文化のリサーチや、島民との交流を通じて作品制作や発表に取り組んできた。アーティストの大西健太郎は、島に流れ着いた漂着物や、島の土や枝葉を組み合わせて、島民たちとともにオリジナルの盆栽をつくった。そして、それらの盆栽を持って島内を練り歩く「くると盆栽流し」では、こどもたちが自分のつくった盆栽に見せたい風景を探し、普段は見過ごしてしまうような島の魅力やおもしろさにあらためて触れる機会になった。美術家の山本愛子は、島ならではの素材を集め、刻んだり煮立てたりする染色ワークショップ「景色から染まる色」を開催。常連さんのみならず、草木染に興味を持って訪れた新たな島民たちも参加した。島の資源や染色の工程を学ぶとともに、何気ない景色にひそむ素材から生まれる思いがけない色や、布に定着した模様を楽しんだ。2022年度には、再び大西健太郎や山本愛子とワークショップを実施したほか、アーティスト集団・オル太は住民の話などを手掛かりにパフォーマンスや展示を島内の空き家でひらいた。また、ミュージシャンのテニスコーツとは「くると冬まつり2022」を開催。大人やこどもと島を巡り、島に伝わる唄や踊りを披露した。2023年度には美術家・馬喰町バンドの武徹太郎らを迎え、「くると冬まつり2023」と題し、島に伝わる民話に着想を得た演劇を上演したり、神津島の唄や踊り、参加者がそれぞれの得意技を披露したりした。島内の人々を巻き込こみながら準備に取り組んできたことで、事業に誰もが参加できる余白が育まれた。

そのほかにも、神津島福祉健康まつりへの出展や、島の空き家にある庭の草刈りをきっかけに島民が交流する「島の庭びらきプロジェクト」、島を出た人から島に住む人にメッセージを届ける映像シリーズ「やーい!~島をつなぐビデオレター~」の公開、やりたいことをみんなでやってみる「くると部活動プロジェクト」など、さまざまな企画を実施。部活動では「畑部」「まめでんきゅう部」「おどり部」など、拠点スタッフを顧問として、さまざまな世代が交流する場となっている。ウェブサイトでは、島で「幸せなターン」をしている人を探し、そのインタビューから一つの物語を共有する「HAPPY TURN/神津島 通信」を掲載しているほか、島内の全世帯に向けて活動を届ける『くるとのおしらせ』を発行するなど、島をめぐるさまざまなかかわりしろを生み出している。

※ 共催団体は下記の通り変遷

  • 2017~2020年度:特定非営利活動法人神津島盛り上げ隊
  • 2021年度~:一般社団法人シマクラス神津島

アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(六本木エリア)

2019年2月、Tokyo Art Reserch Lab 10周年を目前に、10年という時間軸でほかの活動も参照するべく全3回のレクチャーシリーズが行われた。地域を軸に展開するアートプロジェクトの実践者をナビゲーターに迎え、まちの変遷や時代ごとのアートシーンに精通したアーティストや研究者をゲストに交えながら振り返る。

第3回 六本木エリア 2019年2月19日(火)

六本木アートナイトを生み出すまでの土地の記憶

「1960〜70年代の六本木は演劇のまちでした。戦前に千田是也ら10人の同人で立ち上げた俳優座が中心となり、養成所で育った演劇人から劇団青俳、青年座、自由劇場などがつくりだされました。1976年に寺山修司の天井桟敷が渋谷から麻布十番に移転し、1979年には串田和美がオンシアター自由劇場を旗揚げします。私は、大学卒業後の1974年、渋谷にあった安部公房スタジオに入団し、演出家の勉強をしながら六本木でもよく演劇を観ていました」。

2000年代から六本木に森美術館を開設した森ビルに勤め、六本木アートナイトの事務局長を務めた高橋信也さんのレクチャーは、若き日の六本木との接点から始まった。また、東京ミッドタウンの一帯はもとは軍用地で2000年まで防衛庁があったように軍隊のまちでもある。「乃木神社(明治天皇の崩御の際に殉死した乃木希典を祀る)があることでもわかるように、麻布連隊と呼ばれた旧日本陸軍第一師団歩兵第一・第三連隊の拠点でもあり、二.二六事件の主力にもなった第三歩兵連隊の建物の一部が国立新美術館別館として残されています。六本木トンネル上の赤坂プレスセンターは『麻布米軍ヘリ基地』と呼ばれる在日米軍基地ですね」。 

六本木ヒルズは、造成前は日ヶ窪といういわば窪地だった。江戸時代には、豊かな湧水をいかして金魚店の「原安太郎商店」が創業し、開発の始まった1999年まで存続していた(五代目は前・六本木ヒルズ自治会長)。長府藩毛利家上屋敷の大きな池は、ニッカウイスキー工場を経て、現在は人工池になっている。道が狭くて防災上の問題があり、都市インフラの整備から始まって、再開発には17年かかった。

「その頃、私は表参道にあったアート系の書店『NADiff(ナディッフ)』で専務取締役を務めるとともに、アーティストとさまざまな展示企画を行っていました。森アーツセンターからショップやものづくり、オペレーションなどの相談を受けるうちに、故・森稔社長から森アーツセンターに転籍しないかと誘われました。3年ほど森美術館のショップの立ち上げのお手伝いに行くつもりが、2003年に森美術館の立ち上げメンバーとなり、「オープニングの『ハピネス:アートにみる幸福への鍵 モネ、若冲、そしてジェフ・クーンズへ』からジェネラルマネージャーとして、美術館経営もみることになったのです」。

高橋さんは、ご自身が森美術館の立ち上げに関わるまでの経緯と六本木の変遷を織り交ぜながら、レクチャーを進行。

ちなみに、ナディッフの前身は、1975年に池袋の西武百貨店内でセゾン美術館の開館とともにオープンした美術書店「ART VIVANT(アール・ヴィヴァン)」である。セゾングループの堤清二オーナーの文化戦略のもと、芦野公昭さんが西武百貨店の子会社として「ニューアート西武」を設立し、高橋さんは常務取締役として、この美術洋書や現代音楽のレコードなどを扱う画期的なショップを運営した。しかしながらバブル崩壊後の1991年、セゾングループの代表が代わり、文化事業から撤退。東京都現代美術館、水戸芸術館などに出店していたミュージアムショップは、芦野さんが「ニューアートディフュージョン」という新会社を設立して経営を独立させる。このとき高橋さんは、当時水戸芸術館のキュレーターだった森司にもショップの継続を相談している。

そんな高橋さんが森美術館に深く関わっていったのは、森稔社長も堤清二のように一般の企業家のイメージとは違っていたからだった。「小説家になりたかった人で、感受性豊かな柔軟な方でした。いきなり黒字にしろとは言わないからという言葉と人柄にほだされたのです」。

2003年10月の森美術館オープン時、村上隆が描いた六本木ヒルズ開業シンボルキャラクター「ロクロク星人」が街に溢れた。海外では高く評価されていたが、日本では新進気鋭ながら一般的な知名度はそれほどでもなかった村上を推したのは高橋さんだ。ナディッフ時代から交流のある、村上さん世代が森ビル等に受け入れられたら離れてもいいと思っていた高橋さんは、森社長なら理解してくれるだろうと考えた。そして2002年12月24日に森社長から突然携帯に電話があり、「村上さんに六本木ヒルズのシンボルキャラクターを依頼したい、この電話で決裁したってことでいいから」と依頼される。森社長は、年明け早々に挨拶に来たちょんまげ、ジーパン、スニーカー姿の村上さんを気に入った。高橋さんは当時カイカイキキのスタジオがあった埼玉県の丸沼芸術の森に何度も足を運ぶ。入稿直前、村上さんからの「すべてやり直したい」というギリギリの要望も飲み、森社長をモデルにしたキャラクターとロクロク星人との祝福感に満ちたストーリーのビジュアルやアニメが完成に至った。

さらに2015年には14年ぶりに日本での大規模個展、森美術館で開催された「村上隆の五百羅漢図展」の開催。「アーティストとのコミュニケーションの取り方の深さ、造形行為に対する読み取り、気づきももたらす最大の鑑賞者」と高橋さんを森司は評価する。

村上隆さんの作品について説明しながら、当時のエピソードを紹介。

「アート・トライングル六本木」から「六本木アートナイト」へ

「六本木アートナイト2010」開催風景 ©六本木アートナイト実行委員会

2003年10月の森美術館に続き、2007年1月に国立新美術館、同年3月に赤坂から東京ミッドタウン内に移転したサントリー美術館がオープンした。森美術館のゼネラルマネージャーに就任していた高橋さんは、この3館をつなぐ「アート・トライングル六本木」のマップ作成を推進する。「パブリシティがついて雑誌でも数多く取材され、車のメーカーから3館回るスポンサーがついたんですね。それで定期的に発行し、地図持参割引などもつけました」。これが好評で、東京都から六本木アートナイトの話が来る。ヨーロッパで行われているオールナイトイベントのようなものができないか。7団体に東京都と港区の共催で、オリンピック招致にも直結してくる話だった。

こうして2009年、都市生活の中でアートを楽しむという新しいライフスタイルの提案と、大都市東京における街づくりの先駆的なモデル創出を目的に開催する、一夜限りのアートの饗宴として「六本木アートナイト」がスタートする。六本木ヒルズ、国立新美術館、東京ミッドタウンの3か所を大きなコンテンツでつなぎ、その間に小さなコンテンツがたくさんある。現代アートやデザイン、音楽、映像、パフォーマンスなどの多様な作品が街なかに展開された。

「六本木アートナイト」各年の概況をまとめたスライド。各年の開催風景や来場者数の変遷などをお話いただいた。

2009年3月28日〜29日。第1回目のヤノベケンジから、毎回メインプログラム・アーティストが設定されていく。チェルノブイリの旅からつながるヤノベの《ジャイアント・トらやん》は、消防対策も万全に火吹きも実現した。第2回目のメインは、椿昇の《ビフォア・フラワー》。バルーン型の胞子が散らばり、奇妙な花をあちこちで咲かせているという立体作品だ。2011年には草間彌生の作品が完成していたが、東日本大震災で中止とし、翌年の2012年に10メートルを超える巨大バルーンの彫刻、やよいちゃんと愛犬のリンリンが披露された。実行委員長は森美術館館長南條史生。「埼玉や神奈川からもやってきて始発まで楽しんで帰ろうという構えの人が多くて気合が入りましたね」と高橋さん。

「六本木アートナイト2012」開催風景 ©六本木アートナイト実行委員会

2013年は夜桜の効果もあり、83万人の延べ鑑賞者数を記録した。この年から主体的プレイヤーをアーティストに託し、日比野克彦がアーティスティックディレクターを務める。「開催の1ヶ月前に陸前高田市に行き、津波に遭った塩害杉を利用して木炭をつくり、当日は約8メートルの灯台の上で芸大の学生が24時間炭を炊いていました。灯台の下にはらはら落ちる火の粉を見つめながら一晩中過ごしましょうという、3.11後の東北とのつながりや追悼を込めたプロジェクト型作品でした」。

翌年も日比野さんがディレクターとなり、身体性をテーマとした作品やプロジェクトが展開された。六本木ヒルズアリーナの作品を手掛けたのは西尾美也で、膨大な布のパッチワークの家が風に揺れていた。音があまり出せない深夜帯、近藤良平さんはそれを逆手にとってサイレント盆踊りを行う。林曉甫さん(NPO法人インビジブル マネージング・ディレクター)が企画した、クラシックオーケストラの演奏で朝5時から行うラジオ体操はその後定番となり、毎年会場を埋めるほどの人々が集まっている。

「六本木アートナイト2013」開催風景 ©六本木アートナイト実行委員会

「私の出身の京都にも祭りがたくさんあります。1995年以降グローバリゼーションが発達してアイデンティティーが置き去りにされ、都市が非常に似通っていくなかで、六本木の都市生活者の祭りを考えたときに、アートは非常にいい器でした。90年代からさまざまなジャンルのアーティスティックなエッセンスが『アート』と呼び習わされるようになり、音楽、演劇、映像など幅広くとらえることができるようになった。日比野さんの回にはモニュメンタルなものはないけれど、訪れる人にとってなじみがある。一昼夜集い過ごす日本の祭りと通底します」。

2015年は4月開催となり、アーティスティックディレクターは日比野さんのまま、メディアアートディレクターとして「ライゾマティクス」の齋藤精一さんが加わる。「メディアアートにとって、アプリケーションソフトの意図をアートの意図として受け止められるという位置づけができたと思います。しかし制作に非常にお金がかかり、さまざまな業界から受注するかたちで作品を作らざるを得ない矛盾も抱えている。一方アニメやコミックなどサブカルチャーは変わらず強いですね。そして日比野さんのプロジェクト型アートは、一般も参画しつつ、段階的に完成を目指しつつ、相互交流的なつくりかたで、あるゴールを目指す。震災以降、地に足を付けたかたちで定着していったように思います」。

2016年にはアーティスティックディレクター制を停止。文部科学省からの依頼でオリンピック関連催事に伴い10月開催となる。メインプログラム・アーティストは名和晃平。東京2020オリンピック・パラリンピックの公認文化オリンピアードのひとつである劇作家の野田秀樹さん総監修による「東京キャラバン」が、リオ五輪から帰ってきて、名和さんの《エーテル》をシンボリックに使いながら繰り広げられた。

2017年は9月に開催。メインプログラム・アーティストの蜷川実花はオープニングで「TOKYO道中」を繰り広げた。ASEAN10カ国の展覧会と連動するという初の試みもあった。2018年は5月開催に変わり、メインプログラム・アーティストは、金氏徹平、宇治野宗輝、鬼頭健吾の3名が手掛けた。金氏は六本木ヒルズアリーナに巨大な建物のような立体作品を設置。舞台装置にもなり、パフォーマンスやライブが繰り広げられた。宇治野は音と光の動く彫刻《ドラゴンヘッド・ハウス》、鬼頭は、国立新美術館でカラフルな布の滝《hanging colors》と鏡を敷き詰めた《broken flowers》のインスタレーションを展開した。

一夜限りで10年続いた六本木アートナイト

「六本木アートナイト2018」開催風景 ©六本木アートナイト実行委員会

後半は、森の質問から、初年度から55万人を動員するビッグイベントになった裏側も覗いた。スケジュールは、土曜日朝10時スタート。日没からのコアタイムにはメインの作品が集積する。18時からキックオフセレモニーを行い、コアタイムが始まる。プレスプレビューは2日前の木曜日に実施。本番開催前の告知に間に合うよう配慮している。一夜明けた日曜の朝は地域の人々と10時から清掃する。観客の質が高く、屋内外とも酷く汚れていることはないそうだ。予算のなかでは監視警備に十分なコストをかけ、ここまでほとんどクレームなく、無事故で管理されている。また、印刷物を日本語と英語のバイリンガルで膨大に制作するなど広報費もかかる。「そのようなタフな現場を、一夜のイベントであっても毎年やってきて、10年継続してきた成果が出ている」と森。昨今の課題である多言語ツアー、障害者ツアーなど、インクルーシブ(包括的)な試みにも力を入れていくそうだ。

ゲストとモデレーターを参加者が囲み、サロンのような雰囲気でトークが進行。質問や感想が多く寄せられた。

続いて、会場からの質問をいくつか紹介したい。主催者の動機をあらためて尋ねると「ミュンスター彫刻展など、屋外のイベントが増えていた時代でもあった。また、商店街を含む参加者は、六本木に、夜のまちだけじゃなく、薄くてもアートのまちというレイヤーをかけたいという希望があった」という。

一方、「六本木のまちが、ヒルズができてきれいになってしまい、電車から直結になってから限定されたエリアで終わってしまうという印象がある」という感想も。「テートモダンの元館長のニコラス・セロータが来日したときに、ロンドン・オリンピックはテートモダンにどう影響を与えたかと質問してみたら『まったく無関係だよ。第一アートは競技ではない』と即答でした。21世紀以降、アートは都市機能とともに語られることが多く、スラムクリアランスとも言われますが都市の暗い部分を一掃する役割がアートに要請され、実際に効果を発揮する面もあります。ブライアン・イーノは「アートはムダなものであることをみんな忘れているんじゃないか。アートは、二次的にいい感情と悪い感情を一瞬味わうことができる装置であって、それ自体には意味はないんだ」と言ったんですね。無意味だと認めたときに別の意味が生じることがあって、それを意図的に利用しようとするのはちょっと違うんじゃないの? という意味なんですが、それは腑に落ちるところもあります」という高橋さん。 

美術界の未来に対する懸念も尋ねた。「芸術祭など、広がりすぎた地方のイベントの見直しがくるだろう、廃墟にならなければいいがという思いがある。と同時に、美術館に就職できない学生たちや若者がイベントを通じて学習する機会が多数あるが、どれだけ学習できていて、どこにいけるのか。また、70年代後半に西洋型美術館をモデルにした地方美術館が、東西崩壊前後に構造が入れ替わり、維持できていない。それは新しいアートの需要がワールドワイドに広がったということで、南半球の人々がインターネット社会を通じて北上し、アートに参入していくなかで日本は取り残されていて世界と連携できていない。地方の美術館は動員もできていなくてコンテンツも回ってない。そのうえ耐震問題が出てきたらどうなるのだろうと。ちなみに森美術館は、西洋からすると、極東の美術館で一番西側に近い、ハブのように見られている傾向があります。こうした海外の美術館での位置づけと、香港のM+やシンガポールの美術館と合わせた極東の美術館での位置づけとの両面から見る必要があります」。

最後に、「六本木アートナイトの最大の特徴は、あれだけ大きな規模のイベントを毎年やってきたことなのだと再確認しました。全3回のレクチャーの結びとして、持続性のある文化事業を10年間続けると、まちにどんな変化が生じるのかというひとつの事例を見ることができました」という森の言葉で、六本木エリアで展開されてきたアートプロジェクトの意義を振り返るとともに、今回のレクチャーシリーズが締めくくられた。

(執筆:白坂由里

「六本木アートナイト」のチラシやパンフレットを閲覧できるコーナー。参加者の方が熱心に読んでいた。

アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(谷中エリア)

2019年2月、Tokyo Art Research Lab 10周年を目前に、10年という時間軸でほかの活動も参照するべく全3回のレクチャーシリーズが行われた。地域を軸に展開するアートプロジェクトの実践者をナビゲーターに迎え、まちの変遷や時代ごとのアートシーンに精通したアーティストや研究者をゲストに交えながら振り返る。

第2回 谷中エリア 2019年2月13日(水)

リズムの違うさまざまな集いの場をつくる「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」

「谷中を散歩していると、写真を撮りたくなったり、踊りたくなったりする場所がいっぱいある。狭い路地に植木鉢が置いてあり、きれいに育てられた花々に語りかけられているような気がする。どうしたらこんなふうに、まちが人の創造性を刺激するような空気感をもつのだろうか」。

谷中のまちと出会ったときの思いを、アートディレクターでパフォーマーの富塚絵美さんはこう語った。東京藝術大学美術学部先端芸術表現科でパフォーマンス制作を通じて人間の表現行為について研究していた富塚さんは、2008年、表現の場を創造するアートマネジメントを学ぼうと音楽学部音楽環境創造科 熊倉純⼦研究室に⼊った。千駄木に転居し、「人はどんなときに歌い、踊りたくなるのか、なぜ人は作品というものをつくるのか」という入学前からのテーマを胸に、谷中のフィールドワークを始めたという。

その頃、毎年秋には上野と谷中の美術館・ギャラリー・市民団体などが同時多発的にさまざまな発表を行うアートプロジェクト「art Link 上野-谷中」が行われていた。10年を過ぎ「終えてもいいか」という雰囲気のところへ富塚さんはじめ藝大生がボランティアスタッフに加わり、再び活気を取り戻す。まず「谷中のおかって」を設立し、週末にはアートマネジメントに興味のある社会人などと「何をしたいか」作戦会議を始めた。名前には「玄関からじゃなく、お勝手口から顔を出せるような関係に」という思いが込められている。路地を歩くだけで楽しく、まち歩き自体を生かしたプロジェクトをしたいと思い始めた。

「芸大からはみ出て、谷中のまちをふらふらしていた人たちがいたんです。アーティストになりたいわけではないが、何か表現したい人。社会的な価値観とは違う何かがやりたくてエネルギーがあり余っているけれど、安易には答えを出したくない。そんなリアリティをもったまま集える拠点をつくろうと思いました」また、そんな“もやもや”を抱えた人のなかには、谷中に惹かれて散歩に来る社会人も混ざっていた。「お店の人や保母さんなど、週末に谷中で何かしたいという人たちと話していると、アートやアートマネジメントという言葉が、それぞれのやりたいこととそぐわない、とも思いました」

そこで富塚さんは、「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」という言葉をつくる。「ぐるぐる」は、衝動や妄想のエネルギーをもった、渦を巻き起こす人。「ヤ→ミ→は、自ら最初の出来事をつくるわけではないが、その人たちとのかかわりに充実感を得る人。やじうま、闇なものを探しているという語感を持つ。2010〜2013年、両者が絡まり合いながら何かをつくっていくプロジェクトを行う。「アートかどうかは気にせず、体が反応してやりだしてしまう方を優先しよう」と。

「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」の拠点として使用していた「はっち」。

千代田線根津駅から徒歩2分、2階建ての狭くて細長い空家を「はっち」と名付け、拠点にした。ところが、何かしたい人は他者との企画会議や勉強会には参加せず、終わった後に、どうだった?と覗きに来る。それでも、約束に来ないような人も魅力的で、自由に出入りし続けられるようにした。「路地からのぞいてお茶していく人、ご飯を食べていく人。ゴーヤを植えたら街になじむよ、と言って取り付けていく人。仕上がっていない、余白が多いからこそ、ほぼ毎日いろいろな人が訪れるようになりました」。
 
1年目は公開イベントをほとんど行わず、プロジェクトを行うための関係性を紡いでいった。やったことを紙に書いて壁に貼ることで、その時間いなかった人ともできごとが共有できるなど、集うための仕掛けはいろいろ考えた。この場所に集まる人たちから生まれるものごとを大事に、いろいろな集いの場を、リズムを変えながらつくっていく。

「谷中妄想ツァー!!」開催の様子。

「谷中妄想ツァー」は、はっちに集う人たちやまちの人たちが同時多発的にあちらこちらで発表する参加型パフォーマンスだ。表現者かどうかもまだわからない「芸術っこ」たちが街に繰り出す。「勇気を出して社会に踏み出してみるありさまがとても魅力的だなと。個人的な欲望が社会の枠組みのなかで行われ、みなと共有する機会があってもいいのではないか」。観客は定員50人でスタート地点に集合し、4人ずつグループに分かれ、スペシャルマップを読み解きながら歩く。寺や路地、店の一角、個人宅の2階などでパフォーマンスが始まっている。最終地点にはそれぞれ違うルートで違う体験をした人たちが集まり、話し合う。スタッフは100人配置した。

ぐるぐるミックス「風あそび」(2014年)。

また、きむらとしろうじんじんを数か月レジデンスに招いて「野点」プロジェクトも行った。ほかにも、月2回の特別な時間としてアトリエ教室「ぐるぐるミックス」を幼稚園で実施。7〜9月の毎週末には、提灯を持って谷中の暗がりを案内する「谷中妄想カフェ」を行った。

「集まって、しばらくしてまた集まる。はっちはキープするリズムのような感じで、おじいさんやおばあさんがよく集まる企画とか、アーティストを呼んでみんなで集まれる企画とか、種類の違ういろいろな出来事が起きて、まちから人へ、人からまちへとエネルギーを還元していければと考えていました」。

みなが個人的な思いを持ち込んで、開かれた場所に

(左から)椎原晶子(地域プランナー、NPO法人たいとう歴史都市研究会理事長)、五十嵐泰正(筑波大学大学院人文社会科学研究科准教授)。

谷中に住んで30年になる地域プランナー、NPO法人たいとう歴史都市研究会理事長の椎原晶子さん。富塚さんの発表を聞いて「谷中に住み、まちを生み出す仕組みのなかに入っていきたいと思った動機が重なる」と語り始めた。「1986〜88年、藝大大学院でニュータウンなどの都市デザインを学んでいて、谷中を調査したときに、おじいちゃんとおばあちゃんが多く、デザイナーや建築家、プランナーなどはいないけれどもまちがきれいで、どうやってまちがつくられているのかを知りたいと思ったんですね。その一方で、不忍通りなどの開発が進み、放っておくと古いものはなくなってしまうと、谷中に住んで聞き取りを始めたのです」。

1993年から「谷中芸工展」を始めた。住民が工芸品を持ち寄り、翌年から店などまちじゅうを見て回り、話を聞き、買って、食べてと広がっていく。その頃、SCAI THE BATHHOUSE、アートフォーラム谷中など現代美術ギャラリーが自発的に生まれていた。美術館、ギャラリー、アーティストをつないで、新しい動きを生み出そうとしたのが「art Link 上野-谷中」だ。また、たいとう歴史都市研究会では、古い家を博物館のようにではなく、文化活動の拠点にしてさまざまな人が体験できる場所をつくり始めた。

「その時代時代の人がつながってきて今がある。岡倉天心もまた藝大を追い出されて日本美術院をつくり、みなで家を建てて住んでいたんです」と椎原さん。その日本美術院の彫刻部に所属していた彫刻家・平櫛田中の邸宅が空き家になったのは2001年。2004年以降、中村政人や保科豊巳研究室の学生が主体となった環境プロセスアート本部主催で「サスティナブル・アートプロジェクト」に活用された。そのうち、展覧会だけでなくなにかが生まれるかどうかわからないけれども、もう少し日常的な場所として使えないかと模索し始める。平櫛田中のお孫さんから「芸術文化の拠点にしてほしい、誰か一人のものにしてほしくない」とも言われていた。

平櫛田中邸を舞台に開催されたホームパーティー形式のパフォーマンス公演「どーぞじんのいえ」。

そして2013年には「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」で「どーぞじんの家」を開催。「どーぞ、どーぞ」と2階からクッションが投げられ、ホームパーティーという設定で、誰がパフォーマーでスタッフかお客かわからないなか、お茶をしたりアルバムを開いたりしておしゃべりをする。チラシや手紙、思い出のコンテンツをおみやげのような形でもらい、集合写真も動きながら撮る。これまでバラバラに集っていた人やものをひとつの家に集めた一日だった。

北窓からいい光が入ってくるアトリエ兼住居。いろいろなグループが修復して入れるようになった歴史のある家だ。「谷中のおかって」では最近、みんながホーム感を感じられる空気をつくろうと、第4日曜日は「平櫛田中邸を味わう日」として、ただ過ごせる場所として公開している。「マネジメントをしている人もアーティスティックだと思うこともあるし、メインとなるパフォーマンスしているときだけじゃない、お茶をしたり、話したり普段の時間がすごく贅沢だなと思ったので、みなが個人的な思いを持ち込んで、開かれた場所になるようにとつくっていました」と富塚さん。

面白いことをやっている人を育てる土壌がある

次いで、まちづくりにかかわる社会学者、筑波大学大学院人文社会科学研究科准教授の五十嵐泰正さんは「これをアートと呼ぶ必要があるのか?」と問いかけた。「映画『ジェイン・ジェイコブズ:ニューヨーク都市計画革命』でも、路地や井戸端空間など、人や用途が混じる余白をつくる「ニューアーバニズム」が提唱されていましたが、はっちはまさにまちづくりやコミュニティデザインだと思います。あるいは子育て支援や福祉、気仙沼でやれば復興支援、総務省でお金が出れば地方創生と呼ばれそう。つまり、小松理虔『新復興論』にも書かれているように“結果として”どうなっているかが大事。あるいは、福祉や復興などアートと関係ない分野にアーティストが参加し、結果としてアートになっているという方向性も大事だと思います」。

椎原さんは2000年、アートがまちなかに出る「ドキュメント2000 初音の道プロジェクト」を運営したとき、「谷中の住民たちは、それはアートじゃない、もっと思い切りやれなどと手厳しかった」と笑う。
富塚さんも「こっちが本物のアートだ、とまちに投げ込む人がいて、まわりが黙っていない(笑)」と共感。「平櫛田中邸にドイツ人アーティストがやってきて、飾りやベンチをつくったら、おばちゃんたちがお新香をもってどんどん集まってきた(笑)面白いことがあれば見に来る、アンテナ感度が高い人たちが住んでいる」。

椎原さんは「江戸時代には、職人たちが象牙や鼈甲細工などでものをつくりお寺に納めていた。明治には彫刻家が集まり、近代にはインスタレーションがまちに出て行く。そうした歴史があるから、学生や卒業生がまちに出た時に、まちの人たちが受け止めてくれる。下宿・銭湯、食堂、額縁、筆、運送、アーティストの生活を支える地場産業もある」と語った。「95%の人がアーティストとして成功しないとわかっていても慈しみ、育てる、温情のあるまち。下宿代やご飯代代わりにお店に作品が残っていたりして。長い目で見て楽しみにしてくれる」。「まちに育てられている」という富塚さんも、椎原さんに「まずはご近所の挨拶回りや掃除から」など、たくさんのことを伝授してもらった。

また、「谷中妄想ツァーは、ホスピタリティーのイベントだ」と五十嵐さん。社会学者や教育学者の中には、『アーティストの職業的レリバンス(どんな役に立つのか)を言語化したほうがいい』と言う人もいると思う。実はすごいことをしているので、お金や雇用を生み出したり、ある種の職業に適した人材育成にもつながってそうなんですが、そちらが目的化すると芸術家のポテンシャルを縛っていく可能性もある諸刃の剣でもある」。スタンスはそれぞれでいいとしつつも、プロジェクトを行う者にとって共通の課題でもあった。

ゲストのお話を聞きながら、富塚さんがキーワードを書き出していく。谷中界隈の歴史やアートプロジェクトの変遷、トークのなかで出てきたキーワードが重なり、地域の特色が徐々に浮かび上がる。

「エネルギーの大きさとマネジメントのしたたかな計算を感じた」という受講者から「方法論を書いたものがあればほしい」と要望されていた富塚さん。「オペラのような西洋的な空間より三味線の六畳間のような日本人スケールでやっていったほうが盛り上がるのでは? とか、エネルギーが消えすぎないうちに火をくべるタイミングとか。能書きだけでは人は来ないし、アートとしての力が抜きん出たものがやはり評価される、人間がアートの力への信頼を取り戻しやすいまちだともいえます」。 

谷中では、まちのなかで作品を散りばめてマップで回るという手法がよくある。集まっている人たちや空気感が違う、歩いて回れる空間。一方で、都市開発で風景が変わってもいる。「対抗手段があることに気づいていないので、まちの人が自分から手に取ってほしいと思っています。若手を見出す「Denchu Labo」など、文化振興、福祉など社会的効果がある実例を集めていきたい」と椎原さん。

最後は「社会的価値をつくりながら、言語化しすぎないようにする。“公共化”と“結果として意義を見出していく”ことのあいだで、工夫しながら希望をつないでいけたらと思っています」という富塚さんの言葉で締めくくられた。

「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」の成果物をはじめ、富塚さんがこれまで手掛けてきたプロジェクトの参考資料。

(執筆:白坂由里

500年のcommonを考えるプロジェクト「YATO」

次世代を担うこどもと500年後を考える

「谷戸(やと)」と呼ばれる、丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形をもつ町田市忠生地域。「すべて、こども中心」を理念とする『しぜんの国保育園』や寺院を取り巻く里山一帯を舞台に、地域について学びながら、500年後に続く人と場のあり方(=common )を考えるアートプロジェクト。アーティストや音楽家、自然環境や歴史などの専門家や地域の団体と連携し、次世代を担うこどもと大人が一緒に取り組む企画を行っている。

実績

「500年続く文化催事=お祭り」をつくる準備としてはじまった、2017年度採択事業。運営メンバーによる「定例会」の設定にはじまり、お寺にまつわる行事に合わせてイベントを行うなど運営リズムをつくった。

地域の小学生が年長者やアーティストと出会う「やとっ子同盟」では、春から夏にかけてワークショップを重ね、秋の「YATOの縁日」で発表会を開催。地域の年長者と「YATOの年の瀬」「初午(はつうま)」を協働するなど定期的な活動のなかで、地域との関係を育んだ。なかでも、影絵師・音楽家の川村亘平斎による影絵ワークショップは定番企画となり、地域のこどもたち(やとっ子)に好評を博した。地域の植生や神話を学び、それを影絵芝居にし、お寺の境内などでお披露目した。

地域のこどもたちに向けてかつての忠生地域の姿を伝える『YATOかわら版』の定期的に発行し、近隣の小学校などでも配布した。その土地で暮らす個人の視点を通して、地域の物語や風土に触れることができるアーカイブプロジェクトを実施。聞き書きをもとに、『YATOの郷土詩』としてまとめた。また、寺院の有休施設だった「こもれび堂」をこどもたちが集まれる拠点として改修し、椅子や棚にもなる箱形の家具づくりも行った。

東京アートポイント計画の共催終了後は、拠点がある保育園や寺院などを囲む里山一帯に手を入れて、定期的にメンテナンスする「ていれのかい」を月1回開催。自然のなかの活動に興味のある若い世代とともに人が歩ける道をつくり、木材を使い、宿坊を開くなど、谷戸ならではの生態系を育む。毎年、秋祭りとして「YATOの縁日」を行うなど、地域拠点としての里山へのさまざまな入り口を用意し、500年先への取り組みを続けている。

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