メディア/レターの届け方 2018→2019

多種多様なドキュメントブックの「届け方」をデザインする

近年、各地で増加するアートプロジェクトでは、毎回さまざまなかたちの報告書やドキュメントブックが発行されています。ただし、それらの発行物は、書店販売などの一般流通に乗らないものも多いため、制作だけでなく「届ける」ところまでを設計することが必要です。東京アートポイント計画も、毎年度末にその年の事業の成果物をまとめて関係者に送付しています。

多種多様な形態で、それぞれ異なる目的をもつドキュメントブックを、どのように届ければ手に取ってくれたり、効果的に活用したりしてもらえるのか? 資料の流通に適したデザインとは何か?

そこで、2016年度から川村格夫さん(デザイナー)とともに、さまざまな発行物をまとめる「メディア/レターの届け方」をデザインするプロジェクトを行っています。東京アートポイント計画が取り組む4事業22冊の発行物を、どのように送るのが効果的か。受け取る人のことを想像しながら、パッケージデザインや同封するレターを開発します。

詳細

進め方

  • 同封する発行物の仕様を確認する
  • 発送する箱の仕様や梱包方法の検討
  • 発送までの作業行程の設計
  • パッケージと同封するレターのデザイン・制作

アートプロジェクトが立ち上がる土壌とは(立川エリア)

Tokyo Art Research Lab 10周年を目前に、10年という時間軸でほかの活動も参照するべく全3回のレクチャーシリーズが行われた。地域を軸に展開するアートプロジェクトの実践者をナビゲーターに迎え、まちの変遷や時代ごとのアートシーンに精通したアーティストや研究者をゲストに交えながら振り返る。

第1回 立川エリア 2019年2月6日(水)

90年代、アーティストの創造拠点の走りだった「スタジオ食堂」

「立川には、“タチビ”と呼ばれる立川美術学院という美術予備校があり、武蔵野美術大学や多摩美術大学の学生やアーティストが数多く住んでいます。僕が浜松から上京してタチビに通った1987年、駅前はウィル(現ルミネ)や伊勢丹、髙島屋のある開発エリアで、駅から離れた周辺は村上龍の小説さながら米軍基地の名残が色濃く残っていました」とアーティストの笠原出さんは語る。笠原さんは90年代、若手作家が集まり自分たちの手で制作活動の道を拓いていた共同スタジオ「スタジオ食堂」(1994-2000)のメンバーの一人だ。笠原さんは当時から「笑い」をテーマに立体や絵画作品を発表している。

「レクチャー3」の初回は、デザイナーの丸山晶崇さんをナビゲーターとし、立川エリアを紹介した。丸山さんは立川美術学院で講師をしていた笠原さんに学んでおり、学生時代にスタジオ食堂を訪ねたことがある。インターネットが普及する以前で、スタジオ食堂に関する記録があまり残っておらず、笠原さんに記憶を聞く貴重な機会となった。丸山さんは、立川からほど近い谷保の民家を改装した「やぼろじ」の立ち上げに関わり、国立で地域文化と本の店「museum shop T」を運営するなど、グラフィックデザインの仕事をしながら、多摩を中心に地域の住民とアーティストやクリエイターなどの文化が交差するスペースを創造している。
 
東京都のほぼ中央に位置する立川市は、現在は人口18万人のベッドタウンだ。1922年に立川陸軍飛行場が開設され、戦後は米軍に接収されて「基地の街」として復興の道を辿ってきた。1977年に日本に返還されてからは、国営昭和記念公園と広域防災基地、立川駅に近い新たな商業・業務市街地の3つの区画に分けられた。1994年、この市街地整備にパブリックアートを導入した「ファーレ立川」が誕生している。北川フラムさんがディレクターを務め、車止め、ベンチや換気口など街の機能を持ち、ビルの合間を縫うようにして36カ国92人109点のアートが設置された。「基地の街」のイメージを変える「街なか美術館」の様相を呈し、現在も市民団体により普及活動が続けられている。

もとより立川および多摩地区とアートの縁は深く、1986年から現在まで続く「石田倉庫アトリエ」(中村政人を中心に、石田産業の旧小麦粉倉庫を利用して開設された共同アトリエ)のように、都心より安い賃料で広いスペースをシェアする共同アトリエが多数存在してきた。「僕と中村哲也と藤原隆洋は東京藝術大学の大学院を出て、須田悦弘は多摩美術大学卒業後勤めていたデザイン会社を辞めて、作家活動に入ろうとしていました。須田は当時立川に住んでいて、大きい物件を見つけたことを中村に伝え、僕と藤原、そして中山ダイスケに声をかけます。中山は1学年上の先輩で、すでに作家として知られていました。藤原以外の4人は立川美術学院デザイン科からのつながりがありました」。

「スタジオ食堂」旧リッカーミシン工場時代外観。

倒産したリッカーミシンの工場跡を倉庫として貸しており、社員食堂があった3階を借りた。階段は錆び、雨漏りもするが天井高は6m、契約では全体(約300坪)の半分を借りていたが、スペースはまるまる空いていた。「5人で建物に入った初日は興奮して、とりあえずサッカーをしました(笑)。制作中に出る音や匂いも近隣を気にしなくていいし、門限もないので一晩中制作できる環境でした」。最初の設備投資のために、それぞれ貯金を貯めて一人頭20万ほど集めた。1人30坪くらいで区画を決めて壁を立て、真ん中に大きい廊下をつくって共有スペースに。食事をしたり、仮眠ができるソファを入れたり。入口にプレゼン用の展示スペースも設けた。
 
「当時は美術界のシステムを全然知らなかったので手探りでした。書類などマネジメントは須田くん。ロゴを中国系ドイツ人デザイナーにデザインしてもらい、全員名刺もつくりましたね。中山くんが施工計画や広報に長けていて、学芸員、ギャラリスト、新聞や雑誌記者、ライターなどが訪れ、いろいろな作家の現場が見られるとみな楽しんでくれました」。東京在住アーティストのピーター・ベラーズさんが撮影した当時の映像には、音楽を聴きながら爆音で作業していた様子も登場した。スタジオができる前の1993年、須田さんは植物の木彫をしつらえた茶室のような空間をつくり、コインパーキングで仮設展示するというゲリラ的デビューを果たしていた。中山さんをはじめ若手作家たちは、当時は貸画廊が主流だった美術制度から逃れて新たなチャンスをつくろうとしていたのだ。

「スタジオ食堂」旧リッカーミシン工場時代 笠原出さんのブース。

そうした活動が美術界やメディアから注目されるにつれ、作家も坂東慶一など数名が参加。ほかのスペースにも入居者が増えていった。しかし人気に乗じて家賃が値上げされる。さらに1996年末にはNTTドコモ立川ビルの新築によって退去を言い渡された。「最後に、明和電機や八谷和彦さんなどを呼んで『STARTS』という展示やパフォーマンスのイベントを開催しました。東京造形大学で芸術学を学ぶ学生などがボランティアをやってくれて。一日(10時間)限りのイベントでしたが800人も来場があり、入場料は引っ越し資金に充てました」。

アートを通じて、人と人とがコミュニケーションする場に

閉鎖後から準備に半年かけ、1997年、立飛栄地区に移転した。立飛(たちひ)の前身は戦闘機を製造していた石川島飛行機で、戦後は立飛企業となって倉庫賃貸業を営んでおり、その一角を借りることにした。「スタジオ食堂」第2期にはプロデューサーとして菊地敦己さんと沼田美樹さんが参加し、共同スタジオというだけでなく、「社会とのコミュニケーション」という機能を持たせようと、オープンスタジオや展覧会を始める。天井が高く100坪くらいの精肉工場跡をスタジオとしてシェアするほか、事務所とギャラリー、倉庫を併設。電機など初期設備を整えた。「パラソルを立てて、来てくれた人と話ができる場所もつくり、カップベンダーも設置したんですよ」。武蔵美から自転車で移動できる距離になり、訪れる学生も増えていく。作家はほかに佐藤勲、眞島竜男、小金沢健人、池田光宏、田代悦之、フロリアン・クラールが加わるなど閉鎖する2000年まで変動があった。

「スタジオ食堂」立飛時代外観。
「スタジオ食堂」立飛時代内観。

「プロジェクトスペースとして、天井高4メートル、6畳ほどのギャラリーをつくり、主に菊地ディレクションで企画展を行っていきました。その第一弾は須田悦弘展で約600人が来場しました」。メセナが盛んな時代で、菊地さん・沼田さんがプレゼンテーションに行き、展覧会やレクチャーに助成を得ることができた。例えばフェリックス・バルザー展はドイツ大使館、大岩オスカール展ではブラジル大使館が後援。マチュー・マンシュ展ではフランス大使館やミナ(現ミナ・ペルホネン)の協賛を受ける。また、マチュー・マンシュ展では市内の中高生とワークショップも行った。入場料は無料でスタートしたが、運営のため300円〜500円で設定した。最初は平日も開催していたが、金土日曜のみに変更した。

「写真家の安斎重男さんに、この年のミュンスター彫刻プロジェクトの写真展示と報告を依頼しました。また翌週、美術ジャーナリストの新川貴詩さんと、作家でインディペンデント・キュレーターのユミソンさんがヴェネツィア・ビエンナーレ、ドクメンタなどについて帰国報告をした。ネットがまだそれほど普及しておらず、海外情報をポスターや雑誌から得ていた時代に、生の声は貴重でした」

「Talk on Art vol.1 part1 ヨーロッパ国際美術展レポート1997 写真家・安齋重男が見たミュンスター彫刻プロジェクト」(スタジオ食堂ドキュメントブック『Studio Shokudo1997-1998』より)。

また、企業4社(のちに5社)と美術研究者による研究会『ドキュメント2000』から「町内会プロジェクト」への助成があった。立飛に入居している会社でイベント告知の回覧板を回してもらい、作家と話しながら作品を見てもらうビアパーティーなどを開き、普段接する機会のない職種の方々との交流の機会をつくった。教育普及活動に熱心な美術館はまだ一部で、ギャラリーではコレクター以外とはあまり会話のない時代。作品を介した人と人とのコミュニケーション活動を模索してきた菊地さんと沼田さんだったが、1997-98年の2年間参加して脱退する。その後もスタジオ外部の作家を招く姿勢やイベントを開く活動は維持され、藤原隆洋企画で謝琳展、眞島竜男企画「ダブルポジティブ」展などがあった。そして2000年3月、メンバーが30歳を迎え、各自の制作に集中すべく解散した。「僕らをバンドになぞらえた人もいましたが、やっぱり10年続けるのは大変。濃縮された6年間でした」。

再開発にまつわる活動よりも他地域のオルタナティヴとつながっていた

後半のディスカッションでは、丸山さんからこんな質問があった。
「共同スタジオは、もの派や関西の具体美術活動のように運動体として語られることはあっても、スタジオ自体が語られることはあまりない。スタジオ食堂に共通のイデオロギーはなく、経済的負担を減らすためにスペースをみなで借り、個々に自身の制作活動をしていたんですよね? アーティストが集まる場所になっていったのはなぜでしょう?」。それに対して「情報が欲しかったんだと思います。ファイルの作り方やプレゼンの仕方など、どうやったらアーティストになれるか解らなかったから、むしろいろいろなことがやれたのではないでしょうか」と笠原さん。丸山さんは「昨年で6年を超えた橋本エリアの『相模原オープンスタジオ (S.O.S)』も最初からスタジオビジットがあったのではなく、横につながったのは後からですね」と昨今の共同スタジオの一例も示した。

会場から解散理由について「プロデューサー2名が抜けたことが大きかったのでは。経済的負担が理由でしょうか?」という質問があった。「プロデューサーに給金の支払いはしたいという話もありましたが、家賃が高く、何年も実施できなかったのは事実です。ほぼ運営参加費で賄っていて、アーティストもプロデューサーも手弁当でした。お金のこともそうですが、自己主張の強い20代でしたので作家間に軋轢が生じたり、複合的な理由からだと思います」と笠原さん。非営利な任意団体の活動に対する支援を企業から引き出したことは画期的なことだったが、「それはとても嬉しかったのですが、やはり家賃は計上できないよねということで、代わりに展覧会をする感じになっていったんだと思います。はじめはよかったのですが、メンバーそれぞれ自らの作家活動で忙しくなると、ほかの作家の展覧会のために時間を奪われることがつらくなっていきました。最終的には自分の作品をつくるためにスタジオを借りるという原点に立ち戻っていったんです」。

また、丸山さんは、1998〜2002年に開催された立川国際芸術祭についても概略を紹介した。最初は地元からはじまり、2回目の1999年にアートディレクターの清水敏男さんがディレクターを務めている。2回目には「LOVE」をテーマに、アジア諸国を中心に11カ国48作家および団体が立川駅からモノレールの各駅、公園などに作品を設置した。笠原さんによれば、最初はスタジオ食堂という団体に声がかかったが、作家個々に判断することにしたという。「僕や中村哲也、田代悦之、池田光宏(当時はいけだみつひろ)が個々に参加して、新しくオープンした駅ビルのグランデュオ、モノレール駅などに作品を展示しました」。

スタジオ食堂は、再開発と絡んだ立川国際芸術祭やファーレ立川との結びつきはほとんどなかった。むしろ、三田にあったオープンスタジオNOPEや名古屋の.dot、昭和40年会など、地域を超えたオルタナティヴな団体との交流があった。また、海外のキュレーターなどが日本にリサーチに訪れるときに見学コースに入るようにもなっていく。「交通が多少不便でも、広い場所で質の高いものが見られるから行く価値がある」という口コミが広がっていた。笠原さんは「当時はヨーロッパから関西へ行くことが多かったんです。ダムタイプや須田くんなどが出品した『どないやねん』という日本の現代美術をパリで紹介した展覧会のリサーチもメインは京都だった。そういったインディペンデントな展覧会のリサーチはスタジオ食堂にも多く来るようになりましたね」と語っていた。

最後に、丸山さんから新しい立川でのプロジェクトとして、ファーレ立川に隣接する「グリーンスプリングス」にアート作品を設置する「立飛パブリックアートアワード2020」が紹介された。立川駅周辺では現在もアートが立ち上がるムーブメントが続いている。

(執筆:白坂由里

みんなで看取れば怖くない?―生活圏のフレンドリーな死を考える

2018年10月から毎月1回開催してきた対話シリーズ「ディスカッション」、その最終回となる第5回が2019年2月20日(水)に行われました。今回タイトルに掲げられたのは「みんなで看取れば怖くない?―生活圏のフレンドリーな死を考える」。モデレーターのアーツカウンシル東京プログラムオフィサー、大内伸輔は「少子高齢化が問題になり、2030年の日本では年間160万人が亡くなるという予測も出ています。自分にとって身近な人の死はインパクトが強く、人生のターニングポイントになるものだと言えます」と述べたうえで、そういった『死』に対してどう向き合えばいいか、アートプロジェクトとして何かつくることはできないかと考え、今回のゲストの一人である指輪ホテルの芸術監督、羊屋白玉さんがディレクターとなったとアートプロジェクト「東京スープとブランケット紀行」について解説しました。

「東京スープとブランケット紀行」『Rest In Peace, Tokyo くすぐる』(撮影:GO)。

このプロジェクトは、アーツカウンシル東京が展開する事業「東京アートポイント計画」の一つとして展開されました。羊屋さんが22年間ともに暮らした猫を2012年に亡くしたことをきっかけに、2014年から3年間にわたり猫の月命日に羊屋さんの住む江古田にさまざまな人が集まり、そこでスープをつくって一緒に食べ、語る時間を持つことが活動の中心。2017年には活動を「Rest In Peace, Tokyo」として外に開き、同年10月には斎場を借り、羊屋さんが猫への弔事を読みあげました。映像、戯曲、記録集として活動の成果がまとまっています。

「どうしてスープなのかと言うと、猫が倒れて私が看病しているときに、友人が鍋にスープを入れて持ってきてくれたんです。さらに亡くなるまでのあいだ、徐々に体温が下がっていくときに友人がブランケットで包んでくれたり。それがプロジェクト名の由来となっています」と羊屋さんは説明し、さらに「猫が亡くなったときに、どういうふうに弔いたいかを考え、剥製にしたいとかいろいろ思ったんですけど、結局大家さんの家の庭にある桜の木の下に埋めました。スープを囲みながら個人的な課題をみんなで集まってどうしたらいいか向き合う時間の中で、大内くんが『みんなで看取れば怖くない』と言ったことが印象的でした。毎月みんなで集まることが、喪失の予行練習だったんじゃないかなと思います」と言うと、大内は「都市生活では、今回のタイトルのような『生活圏のフレンドリーな死』が失われていると思っています。私の田舎では家の後ろに墓地があるので、墓参り、墓掃除が日常の中にあり、死へのある種の準備ができている。でも都市ではその親密さのようなものが失われているように感じます」と応答。

続けて羊屋さんが、「越後妻有アートトリエンナーレで作品をつくったときに(2015年制作『あんなに愛しあったのに~津南町大倉雪覆工篇』)、会場の津南町に縄文ムラがありました。そこは集落の真ん中に柱が建っていて、そのまわりにお墓があり、家々の入り口がお墓のほうを向いているんです。これはアパートの真ん中にお墓があって、玄関がそこに向いているようなものだけど、現代の人はこれに耐えられるだろうかと思いました」と述べ、古代と現代では死への距離、考え方が異なることについて触れました。

DeathLAB 《Constellation Park》2014 ©LATENT Productions and Columbia GSAPP DeathLAB

続いてもう一人のゲスト、金沢21世紀美術館キュレーターの髙橋洋介さんは、現代において生と死の意味が変化してきていることを実例を交えて紹介されました。

最初に、髙橋さんが企画で携わった展覧会である、東京・表参道のGYREで行われた「2018年のフランケンシュタイン」を通して、生の変化が語られました。ここでは、小説『フランケンシュタイン』が1818年の発表から200年を迎えたことにあわせ、『フランケンシュタイン』が提起した問題と通底する主題を立て、バイオアートの作品を展示しました。その中の一つ、ディムット・ストレーブという作家の作品「Sugababe」は、ゴッホの子孫の細胞、DNAをもとに、ゴッホが切り落とした左耳を生きた状態で復元したもの。これについて髙橋さんは「バイオアートの問題として、死者の蘇生を取り扱うことが挙げられます。神話にも死者の蘇生は表されていますが、あくまでもそれは比喩でしかありませんでした。しかし、それが現代においては意味が変わってきています」と述べ、「不死化細胞」と呼ばれる、細胞老化を回避して連続的な細胞分裂能力を持った細胞が存在することを挙げ、「細胞レベルで見ると『死なない』ものがある。そこに違和感を覚えました。誰もが逃れられないもの、避けられないものとして死を捉え、生と対立するものとして描いてきた従来の前提が覆るようなテクノロジーが出てきたと言えます」と説明。

また、死の変化に対応するものとして、髙橋さんが金沢21世紀美術館で企画した展示「DeathLAB:死を民主化せよ」について説明いただきました。コロンビア大学のDeathLABは都市における死をめぐるさまざまな問題について、宗教学や建築学、地球環境工学、生物学などを横断して探求をする研究所。そのDeathLABを主催するコロンビア大学准教授のカーラ・ロススタインとともに、現代の死のあり方について発表した展示が「DeathLAB:死を民主化せよ」です。

さらに都市の死にまつわる状況として、死者が増え、墓地や葬儀の空間的、時間的余裕がなくなっていることに触れました。たとえば現在の東京は、亡くなっても火葬まで2週間待ち、墓地が空くまで数年待ち、という問題も出てきました。国内の孤独死者数も推定3万人と言われるなど、身寄りのない人や子どものいない人の死も増えています。「墓地は都市の郊外に阻害され、死に触れる機会そのものが少なくなりました。さきほど羊屋さんが言っていたように、縄文時代はもっと死が身近なものとしてありましたし、大内さんがお話ししていたような家と墓地が密接な距離にあるというのも、18世紀くらいまでの日本では普通のことでした。お盆の時期に死者が一時帰ってきて、また彼岸に戻っていく、というような『死者が自分たちを見守っている』ような考えがこれまでの価値観だとすれば、いまでは『見てはいけないもの』へと死者のあり方が変わってしまいました」。

都市における「死」を考えるDeathLABが誕生したきっかけには、2001年のワールド・トレード・センター倒壊で亡くなった民族や宗教の異なる3000人もの犠牲者をどのように弔うのか、という問題意識がありました。その中で展開されたものとして、「コンスタレーション・パーク」というプロジェクトが紹介されました。これはニューヨークのマンハッタンとブルックリンを結ぶマンハッタン橋の下を、弔いのメモリアルパークにしようという考えのもと、遺体をバクテリアで生分解する中で発生するエネルギーによって橋を光らせるというもの。ニューヨークはそもそも死者を土葬で葬りますが、そのための土地もなくなりつつあり、自然葬にも限界があるそうです。しかし亡くなった人をすべて火葬にすると二酸化炭素の排気量が膨大なものになってしまい、自然環境への影響が考えられるとのジレンマが。このような前提を踏まえたうえで、たとえば「コンスタレーション・パーク」のようなオルタナティブでエコロジーな死のデザインを考える必要があります、と髙橋さん。「別の例を挙げれば、福原志保さんというアーティストがロンドンで設立したバイオプレゼンス社が、故人のDNAを木の細胞に保存して、それをお墓にするという試みを行いました。外見は木だけれど、DNAのレベルでは人間という、同一個体に異なる遺伝情報を持つ細胞がある『キメラ』だと言えます。日本では墓石の代わりに樹木を墓標とする樹木葬などがあり、そこまで批判的な意見は出ていないようですが、キリスト教圏ではこの試みはグロテスクだと批判されました」として、テクノロジーを応用した「オルタナティブでエコロジーな死のデザイン」と、それに対する既存の倫理観の折り合いをつけることには難しさがあると説明しました。

またここで、歴史的な「死」のあり方について考えを巡らせました。秋田県鹿角市にある大湯環状列石は、日時計になっているストーンサークルの下に死者を埋葬していました。死者が大地とつながり、時間、季節が循環する中で生者にさまざまな恵みを与えていることを表現する文化的システムとして解釈できます。このような死生観は近代になればなるほど失われてきました、と髙橋さんは言い、「歴史家のフィリップ・アリエスは西洋の2000年の歴史を振り返り、死の類型を整理しました。一つ目、『飼いならされた死』はどの時代にも共通してある、運命としての死です。その後、中世に現れたのは『己の死』。これは教育が進んだことによる、『私は他の誰でもない私』という考え方です。

次いで、18世紀に現れた『他者の死』は、産業革命が起こり、次第に死が非日常となっていく中、ロマン主義文学が他者の死を過剰な言葉で修飾したように、かけがえない友や家族の死を悲劇として悼むというものです。そして現代における死は『タブー視される死』。第二次世界大戦以降顕著になってきていることで、人は生きるためというより死ぬために病院か介護施設に隔離され、心電図などを測定されるなど、死は自分で悟るものではなく、専門家や技術によって測られるものになってしまいました。死と死者は、スムーズで幸せな日常を邪魔するものとして隔離されてしまいました」と解説。

そのうえで、DeathLABがやっていることは、古代の人たちが触れていたようなあたたかい死者との関係をどうやって取り戻すかということであり、「死を民主化せよ」と言うのも、お金や家族、宗教がなくても、あらゆる人が都市で平等に死ぬことができるようにするためだと言います。

「東京スープとブランケット紀行」『Rest In Peace, Tokyo くすぐる』(撮影:GO)。

ここで、これまでの話を受けて大内は「死を民主化するというのは、隔離された死を自分たちのもとに取り戻していくことだと思いました。『東京スープとブランケット紀行』がやっていたことも、そういった考える時間をつくることでした」と言い、羊屋さんの話をどのように聞いたかと髙橋さんに問うと、「羊屋さんがやってきたことは、つながりを取り戻すことだと感じました。死にも三人称の死と一人称の死があります。三人称の死というのは概念としての死。でもいざ自分が死ぬとなると、そこでの死とどう向き合っていいのかわからない。それが一人称の死であり、個別具体的なものなんです。一人称の死の孤独と向き合うときに大事なのが、つながることだと思います」と応え、羊屋さんは「私の場合、猫が倒れたときに、その猫の死という三人称と、自分がどうしていくかという一人称を行ったり来たりしていました」と応答、さらに髙橋さんは「アメリカの精神科医、エリザベス・キューブラー=ロスは、死と向き合う人間に重要なのは、ある種の親しみやつながりだと言っています。自分の死は誰しも未知だからどう向き合っていいかわからない、だからこそ自分の親しいものに囲まれ、安心感に包まれてこの世界を去ることが幸福な死だ、と」と話をまとめました。

最後に会場から、自殺についてDeathLABではどう扱っているのか、という質問も。髙橋さんは、「DeathLABは死んだ後のことを考えているので、自殺自体を扱ってはいません」と前置きをしたうえで、いまの社会が生きることを特権化しすぎており、死ぬことの権利、死を選択することの尊厳があると思うと発言。「生きることは死ぬことと切り離せない。エリザベス・キューブラー=ロスが言うには、『死は成長の最終段階』。どんな死も生きている人にとって、『あなたはいまをいかに生きるか』と問いかけるメッセージと思うことが大事だと思います」と応えました。

また戦国武将が戦に自分の生き様を示す鎧をまとって戦いに臨むことを話題に挙げ、その行為は生きることと死ぬことが表裏一体であり、ユーモアを持って戦場に赴いていると髙橋さんは指摘。それに対し羊屋さんが「信仰と遊びが一緒にある、その感覚を持っていなきゃいけないと思いました」と言い、この回は幕を閉じました。

資本主義の発達と並走してテクノロジーの進化が目まぐるしく起こり続けている現在において、近代以降失われた「生活圏のフレンドリーな死」=「死の身近さ」をいかに奪還するか。そこには、お互いに顔の見えるコミュニティで話をしながら、自分にとっての「親密な死」を考え続ける道と、テクノロジーを自分たちの手に簒奪するような形で見たことのない「親密な死」を創造していく道、その二つが重なりあいながら、ずれながら並行していく、そんな可能性があるのではないかと思ったディスカッションでした。

(執筆:髙橋創一)

座談会|東京アートポイント計画のこれまでとこれから

東京アートポイント計画の10年間の歩みを、どのように見ればいいのだろう。そして、2020年の東京オリンピックを超えた先、この事業は何に立脚し、どのように可能性をひらいていくことができるのか? 東京と地方の歪な関係や、移民問題など、ますます不透明になる時代のなかで、東京アートポイント計画の意義を改めてことばにする。

* この座談会は2019年3月29日発行『これからの文化を「10年単位」で語るために ― 東京アートポイント計画 2009-2018 ―』に収録されたものです(座談会実施日:2018年11月6日)

話し手

  • 芹沢高志(せりざわたかし)[アート・ディレクター/ P3art and environment 統括ディレクター]
  • 太下義之(おおしたよしゆき)[文化政策研究者/独立行政法人国立美術館理事]
  • 熊倉純子(くまくらすみこ)[東京藝術大学教授]
  • 森司(もりつかさ)[東京アートポイント計画 ディレクター]
    * 肩書きは座談会当時のもの

構成=杉原環樹/写真=川瀬一絵

文化政策を更新する10 年間

森: みなさんとは、東京アートポイント計画(以下、アートポイント)が生まれて5年目の2013 年にも座談会を開かせていただきました。そこからさらに5年。10年目を迎えた我々の活動は、立ち上げからかかわっていただいているみなさんにどう見えているのか。また、設立背景となった東京オリンピックが目の前に迫るなか、「その後」の10年をどのように描いていけばいいのか。今日はそれを話していきたいと思います。

熊倉: アートポイントは、2016年の東京オリンピック誘致に向けて動き出した「東京文化発信プロジェクト」の一環として構想されました。2007年の構想当初、太下さんやわたしを含む多くの専門家が東京都に集められ、世界有数の都市・東京でいかに今日的な文化政策を実現するのかが議論されましたが、そこで異口同音に述べられたのがアーツカウンシルの必要性です。ただ、アーツカウンシルのイメージには専門家の間でも幅がある。単なる助成機関や芸術家の支援機関にもなり得るわけですが、そうではなく、次世代の芸術と社会の関係を考えるためのモデルとなるような人や拠点を育てることが必要だと感じていました。アートポイントは、まさにそのコアとして考えられたものです。

このとき重要だったのは、NPOを担い手とすること。また、支援後にただ現場に任せるのではなく、専門家とそうではない人が一緒に考える場をつくることです。従来の芸術支援はイベント主義的な面が強くありましたが、アートポイントは活動体の育成に早くから焦点を当て、その新しいモデルの模索を一手に担ってきたと感じます。

太下: 10年間しっかり続いた要因としては、行政本体の外で、きちんとプログラムオフィサーという専門スタッフを位置づけて実施したことも重要だったと思います。アートポイントの大きな主眼は、中間支援機関として経済的支援だけではなく、それ以上にノウハウの伝達や事務的なサポートもすること。そのためには、チーム自体にも高度な専門性が求められますが、そうした要求に応える体制が組めたことも大きかったですよね。

芹沢: 僕は、外部評価委員としてアートポイントに関わってきましたが、社会の変化のなかで外部から投げかけられる問いを、プログラムオフィサーが柔軟に受け入れて実行に移す姿勢が印象的でした。例えば最近、地域密着型の事業以外にも、「看取り」や「移民」などテーマ型の試みが出てきましたよね。この10 年間の変化に地域芸術祭の増加がありますが、地域密着型でさらに行政も入ると、「公金を投入したからには万人にわかるものであるべし」という日本独特の論理が出てきて、表現行為は薄まらざるを得ない。だけど、アートの重要な性質にはノマディック(遊牧的)な部分もある。そこで「地域に固執せず、テーマ型もあり得るのでは?」と問うと、それがきちんとかたちになる。内部的なセンサーも働かせながら、時代の動きのなかでローカルと脱ローカルの綱渡りをしていたのはとても良かったと思いました。

熊倉: また、早くからTokyo Art Research Lab(TARL)を通じて、地道な人材育成も行ってきましたよね。実は以前、都庁の方から「この事業はいつまでやればいいのか?」と聞かれたことがあるんです。そこで、「いえ、この活動は期限で考えるものではなく一種の人材育成なんです」と答えて納得してもらえたことがあった。さらにTARLは、欧米とは異なる日本型アートプロジェクトの概念化を進めるという役割も担っていました。

その意味では、全国の芸術祭に、当初は少なかったプロセス重視の試みが増えてきたことも注目すべき変化だと思います。「各地に同じような事例があるのはどうか」という批判もありますが、それは近代芸術の発想でしょう。芸術家の特権性をベースにするのでなく、住民がアートを通じて何かを考える場と考えるなら、そうした試みが各地にあることのどこが問題なのか。もちろん、それをきちんと社会的なインフラにしていく意識が必要で、アートポイントはこの変化の立役者だったと思います。

「わかりにくさ」を超えた、海外展開と言語化の必要

森: 『小金井アートフル・アクション!』や『TERATOTERA』、熊倉さんが運営に関わる『アートアクセスあだち 音まち千住の縁』など、この間、10年目を迎える活動体が具体的にいくつか出てきました。多くの芸術祭は数年おきの開催ですが、毎年活動を続けてきたこれらの事例を通じて、より深い地域とのかかわりの問題も見えてきました。でも、まちを舞台にしたプロジェクトの数は増えたとは言え、本当に地域に滲み出し、磁場が働いているような現場は多くありません。まちなかに入れば入るほど、価値の伝え方も難しくなっています。

太下: 「わかりにくさ」は大事なキーワードですよね。イベント型で消費せず、ファンダメンタルな組織や人を育てようとするがゆえに、行政や市民からは捉え難くなる。いま東京はオリンピックに向けて思いきりイベント型にアクセルを踏んでいるので、余計見えにくいこともあると思います。ただ、その見えにくさは、同時にこの活動を稀有なものにしている。この知識や経験は、必ず世界で役立つと思います。

なので、一気に多言語化して外に出してしまう。例えば、アジアの他国の NPOにこうした方法論や課題の解決方法があると見せた方が、価値の伝達にはむしろ早いかもしれません。

芹沢: 日本は課題先進国と言われますが、近年成長するアジアの国も、近い将来同じ課題にぶつかるかもしれない。日本が示すことができるものもあるはずですよね。

熊倉: 先日、シンガポールのアーツカウンシルに呼ばれて現地に行ってきました。同国には日本よりだいぶ以前からアーツカウンシルがありますが、現在コミュニティアートにも力を入れていて、淡路島ほどの大きさの国にその拠点を28カ所もつくる予定だそうです。アーツカウンシル東京に出していただいたわたしの書籍『日本型アートプロジェクトの歴史と現在 1990年→2012 年』の英語版を見つけてくれたのがきっかけでした。そんな風にして、近年東南アジアとのネットワークは広がりつつありますね。

森: シンガポールの方々はわたしたちの元にも訪問してくださいました。そのときにも感じたことですが、アートプロジェクトにはまちづくりに力点を置くものと、そうではないものがある。その違いの言語化は、改めてまだ足りていないと感じました。評価の課題は国内向けにもあり、都市づくりでないものは本当に行政の理解を得るのが難しい。オリンピック後はそれこそが重要になるはずなのですが。

熊倉: 21世紀型の文化政策を考える上では、やはり「地域」と「社会課題」の2つが重要になると思います。しかし、ほかの道府県に比べると、東京には少子高齢化や人口減少などの危機感が低い。そのなかでは、2020年の宴のあとで具体的に危機に直面した際の準備をしておくことが、とても大事ですよね。

森: その意味では、この10年史づくり自体が大事な準備なんです。我々が何をしてきたのかを、洗いざらい解体して言語化してみようと。それが2020年の後、新しいスタートを切るときにきっと役に立つ。いまはその棚卸しをしているところです。

地方にアートプロジェクトの雛形を返す

太下: 東京以外の地方の話がありましたが、そうした地方との連携の強化も、今後の重要な課題かもしれません。こうした試みを必要としている現場は、全国各地にたくさんあるはず。実際に近年、地方版アーツカウンシルの試みは増加しています。例えば、アートポイントと地方版アーツカウンシルの人材交流があってもいいかもしれない。

熊倉: 基本的にどの地域でも、オリンピック後に何が残るのかということを考えているはずです。わたしも策定に携わり、2018年3月に文化庁が出した「文化芸術推進基本計画」では、今後の文化芸術政策の目標のひとつとして、「地域の文化芸術を推進するプラットフォーム」という文言が記されました。これはわたしとしては、明確にアーツカウンシルを意味しています。しかしいま地方ではイベント主義が加速し、その対応に精一杯で、計画を立てる人材すらいないのが実情。そんなとき、アートポイントはその規模感や必要な仕組みを示す雛形になれるのではないかと思います。

芹沢: 考える必要があるのは、文化だけでなく、あらゆる領域で東京が人材を吸収してしまっていることですよね。地域で仕事をすると、その土地の中核になっていく若者が、ちょうど脂が乗った30代くらいで東京に出てしまうのをよく見ます。本当になんとかしないと手遅れになる。特に2020年以降に関しては、東京で現場を積んだ人たちがまた戻っていくように、人の流れの相互化も後押ししていくべきでしょう。

熊倉: 前回の東京オリンピックでは、東京は地方から人材を吸い上げることによって潤いましたが、そのお返しをあまりしてこなかった。そう考えると、東京には人材や施策のヒント、プログラムの雛形をどんどん地方に返していく義務があると思います。

芹沢: とはいえ、地域で脱イベント主義的な思考の共有が難しいのも現実ですよね。もちろん共有できる人もいるけれど、イベントの方が予算がつきやすいという実情もある。

森: アートポイントをやっていると、イベント主義は一種の病のようにステレオタイプ化していると感じます。これは都内でも同じ。芸術文化の活動イメージがイベントしかないから、予算がつき「がんばろう」と思うほどイベントを打つ。逆に「何もしない時間が大事だ」と言うと、「サボっていい」という風に聞こえてしまう。そこを超えようとすると、ゼロベースより低い地点から始めないといけないという危機感があります。

熊倉: ただ、地方への意識という点では変化もあります。経済成長期には、二度と故郷に戻らないつもりで上京する人が多かったけれど、いまわたしの学生には、地元を元気にしたいという若者も多いんですね。だから今後は、そうした人たちが帰郷したとき、アートポイント的な現場がどんな地域にでもあるようにしないといけない。

太下: 新しい職業になってほしいですよね。アートプロジェクトの担い手は、いまはまだ名称もまちまちで、ましてや一般の人はほとんど知らないじゃないですか。

森: いまでもよく「森さんって何やっているの?」と聞かれます(笑)。

太下: 前回の東京オリンピック後の大きなレガシーとして「デザイナー」という職業が社会に定着したことがあります。亀倉雄策によるオリンピックのポスターは、誰が見てもインパクトがあるものだった。あれが全国に貼られたことで、日本人が自ずとデザイナーのすごさを理解したんです。もちろん、以前からデザイナーはいたけれど、当時は「図案屋」と呼ばれ、必ずしも尊敬の対象ではなかった。いまは「デザイナーになる」と言うとかっこいいですよね。

同じように、「プログラムオフィサーになる」と言ったら、親戚の人が「いいね!」と反応できるような状況をつくれるか。今度のオリンピックが、あとから振り返ったときにそうした契機であったらいいなと思います。

越境した人のために、アートができること

森: 冒頭に芹沢さんから「テーマ型」のお話がありましたが、アートポイントでは社会課題を軸にした取り組みも行ってきました。そのひとつが「移民問題」ですが、先日、昨今注目されている出入国管理法の改正について、都庁の方から「こうした課題に対して、アートポイントはできることがあるのではないか」という意見がありました。その対象を「移民」と呼ぶかはまだ議論がわかれていますが、この問題に応答する現場はすでにいくつかあります。また、こうした問題に直面した際、美術館ではなくアートプロジェクトがあると考えられる行政職員がいることは重要で、これは以前はない状況でした。

熊倉: 太下さんは以前から、オリンピックと移民の問題を指摘されていましたよね。

太下: 移民問題は欧州の方がずっと深刻です。例えば2005年にロンドンがオリンピックを決めた翌日に、バスの同時爆破事件がありましたが、犯人は移民でした。欧州では長年移民を受け入れてきて、多民族で構成される社会にも慣れているはずなのに、それでも社会統合が難しいという事実があります。だから、アートを含むあらゆる手段を使って関係を構築しようとしているわけですが、現在の日本では彼ら移民をただの「労働力」と捉えていますよね。そんな島国で果たしてきちんと彼らとコミュニケーションできるのか。問題はとても複雑です。

熊倉: 逆に言えば、取り組みを始めるならば、移民問題が顕在化しつつあるいまだ、とも思います。わたしも1980年代にパリに留学しましたが、移民にはフランス社会への帰属意識はありませんでした。そしてそのまま時が経ち、さまざまな問題が起きてしまった。だから、障壁もあるかもしれないけれど、まずは何かを始めた方がいい。日本には、海外の人に対して「日本文化を教えてやる」というような風潮がありますが、そこには「わからなさ」に一緒に向き合うことで目線を平等にする、アートのような存在が絶対に必要です。

森: 10年以上前、水戸芸術館に学芸員として務めていたとき、イギリスの教育普及の話を聞きました。これが完全に移民問題向けなんです。かつて教会が行なっていた移民のための言語教育を、美術館でアートを通じて行うと。そこで重要なのは、まず地域から「顔が見えない人」をなくすことで、日本で想起される教育普及とは違うんですよね。

太下: 以前ベルリンのクロイツベルクにあるトルコ・コミュニティを取材したことがあるのですが、三世代にわたり同地に住んでいても、全員がドイツ語を話せるわけではないことを知りました。ある程度の規模のコミュティだと、内部で暮らすぶんにはトルコ語で済むんですね。ただ、その子供たちはどうしたらいいのか。ドイツ語を学ぶことを義務化するか、国税を投入して多言語の教育システムを導入するか。

後者の方が移民に対してはるかにフレンドリーですが、その負担を嫌がる国民がいることも厳しい現実です。移民自身に対応するだけでなく、分断に意識が向かいがちな人も含めて対応しないと、アートは移民問題に本当に向き合ったことにはならないんじゃないか。もちろん、チャレンジする意味はあると思うのですが。

熊倉: 政府は外国人労働者に対して、「日本にいたいなら日本語を学んでね」という対応ですよね。これは、要は「自立して稼いでほしい」ということで、その意味では両者の思惑は一致している。ただ、親について来た子供は「稼いでね」という態度が透けて見えるから、日本語を学ぶのが嫌になる。そうしたとき、そこに芸術プログラムを入れることで彼らの自尊感情を高めたり、新たな学習意欲を引き出したりすることもできるかもしれない。いまからできることもあるはずです。

芹沢: 一方、話が広がりますが、現在はそもそも「国民国家」という幻想自体が機能しなくなっている、大きな変動期だとも思います。かつての移民は止むに止まれぬ事情で国を移りま

したが、近年では、より良い場所を求めてさまざまな国を移動していく人も多い。つまり、国際的な流動性が非常に高まっていて、おそらく今後、それに対抗する意味で一国主義的な動きもさらに出てくるだろうと。そうした時代のなかで、日本ではたまたまオリンピックという国家行事があるために、「日本の未来」に焦点が当てられるけれど、その背後にはより大きな地球規模の変化もあることを、同時に考えるべきなのではないかと思います。

震災以後のアートと思考をいかに耕すか

芹沢: 国民国家と資本主義。近代を動かしてきた2つの共同幻想が、制度疲労を起こしている気がしているんですよね。アートはそうした変化に敏感に反応する領域だからますます重要になると思うのですが、世界で流動性や不確実性が高まる時代に、我々は何に立脚すればいいのか。僕は、それはやはり東日本大震災の経験だと思うんです。

揺るがないと思われてきた大地が激しく揺れ、さらに、絶対安全と言われてきた原発も崩壊してしまった。「確固たるものはない。一人ひとりが自分の未来を考えないといけない時代が来た」と感じさせたあの震災を経験した国だからこそ、世界に示せるものがあるのではないか。最近、若いアーティストを見ていると、そうしたポスト3.11的な状況に覚悟を持って向き合おうとしている人たちが出てきていると感じます。アートポイントには、そうした新しい感性を応援していく拠点でもあってほしいなと。

太下: そうした拠点がより必要になった、という言い方もできますね。これまでの前提の不確かさがわかってしまった。そのなかでどうしたらいいかという答えは、我々が受けた近代教育のなかに解答はないけれど、アートを通じてそれを模索することができるかもしれない。

芹沢: ものをつくる方法論自体が、以前とは違ってきた気がしますよね。スローガンを変えるということではなくて、つくり方やつくる姿勢が根本から変わり始めている。

森: 震災から7年が経ち、新しいアーティスト像がかたちになりつつあることは、現場の実感としてもあります。例えば、被災地に深く入り込んできたアーティストは、多くの人たちと長時間議論することが自然体になっている。それは被災地で感じたリアリティから来るものだと思います。ただ逆に言うと、そのように現実や日常に入り込むほどに、アートの姿はわかりにくいものになってゆく。よりインビジブルな状態になっている気がして。このことをどうしたらいいのか考えているところです。とても地味だけど大切なその存在の必要性を、どう共有できるのか。

熊倉: 何よりも「魅力的な現場にする」という技術が、さらに必要なのかもしれません。東日本大震災が起きた直後、もうアートプロジェクトどころではないとも感じましたが、現実はむしろ逆になった。震災は、人間社会の原点にみんなが立ち返った出来事だったと思うんですね。つまり、お金やインフラがあればOKではなく、隣人と手を取り合わないと死活問題になることや、個としての思考を耕す「哲学」の必要性に多くの人が気づいた。震災が突きつけたこうした課題は、現在では棚上げにされてしまった感もあるけれど、どのみち2020 年の後、もう一度、向き合わないといけない問題です。特に少子高齢化や一極集中が問題となるなか、地方においては喫緊の課題ですね。

シアトルのワシントン州立大学で、戦後日本における美術と社会運動の関係について研究しているジャスティン・ジェスティが、「アートプロジェクトとは、資本主義から取り残された土地で、それでも諦めずに暮らしていくことを考える方法」と語っていましたが、その通りだと思うんです。ただ、それだと、コミュニティデザイナーとどう違うのかという話にもなる。そのなかで、なぜそれとは別のものが必要なのかを、第三者も実感できるような、小さくても魅力的な現場をつくる技術が大切なのだと思います。

森: 確かにいま、その必要性を引き取れる人と、引き取れない人の差は大きいです。

熊倉: アートプロジェクトの場合、一つひとつの現場を行政と一緒にやっていくことが実はすごく重要だなと思っているんです。そうでないと、いざ動こうと思ったとき、共有が難しくなる。プロジェクトの裏側にどんなプロセスがあるかを実感してもらうには、毎日のように丁寧にやりとりするしかない。プログラムオフィサーは、その関係性の維持を促してくれる存在でもあります。そうした積み重ねによって、小さな数字に意味を持たせられる評価の仕組みをつくっていくことも重要ですね。

創造的で、幸せな縮小社会のために

太下: 評価の考え方は、これから抜本的に変わるのでしょうね。かつてはより大きくより高く、とにかく成長を志向すれば良かったけど、そのモデルがもはや機能しないことは既に見えている。人口も減るなか、国力や経済力を基準にしている限り、ただ寂しい国になっていくしかありません。ですので、ただ寂しく生きるのを良しとしないのであれば、我々は、違う価値観を軸にしていかないといけない。

熊倉: 経済力で言えば、中国に勝てるわけもないですしね。東京一極集中なんてある種かわいいもので、儲けたい人はみんな海外に出ていくでしょう。そこで資産として残されるのは文化と、他者にいかにオープンマインドでいられるかという態度しかない。

芹沢: 人口が減ることは、必ずしもネガティブではないと思うんです。日本の人口の推移を見ると、明治維新の頃から急に増え始め、150年ほどで約4倍になっている。戦争の影響も統計上は微かです。そのなかで、近年の急降下を見るとゾッとしますが、むしろ近代という時代が異質だったのかもしれない。自分の実感としても、高度成長期はあまり創造性なんて必要なくて、つくれば売れるという感じでした。だけど、縮小していく時代には創造性がないと悲惨なことになる。それに、先にも言いましたが、いま日本で起きていることは、少なくとも東アジアでは近い未来に起こること。そこで日本がフロントランナーとして、どう創造的に、幸せに縮んで行けるのか。ここに力を入れて創意工夫していけば、アジアの状況を牽引する役目を果たせるかもしれません。

太下: 芹沢さんが国民国家と資本主義の限界というお話をされましたが、もうひとつ挙げるなら民主主義の危機ですよね。この3つはセットです。問題は、成長期には政府はプラスの分配をすればリソースをみんなに行き渡らせることができたけど、マイナスの分配はそうはいかないこと。マイナスの分配は民主主義とすごく相性が悪いんです。従来の政治や経済というチャンネルだけでは、僕らが向き合っていこうとするこれからの時代や問題には対処しきれない。そこで必要になるのは、アートのような別の基準を持つ領域です。

熊倉: 普通の状況では利害が対立する人々が、どちらにとっても正解がないアートのようなものに一度乗ってみることは、すごく重要な経験だと思います。その練習をしていかないと、内戦まではいかずとも、コミュニティ内が目に見えないギスギスした状態になってしまいます。そんなの生活者として嫌ですよね。

思考を耕してくれるアートは、そうした状況を乗り越えるプラットフォームをつくる上で、とても有効だと思う。「プラットフォーム」というのは、ずっとあることが保証されておらず、みんなで常に意識して保っていくものです。そこが、誰かがつくってくれたあとは、意識しないでも利用できる「基盤」とは異なる。あくまで仮設的に、従来の分断や対立をカッコに入れるプラットフォームをつくれるのは、文化しかない。これは、政治や経済でも乗り越えられておらず、近年、福祉の世界でも対応が難しい領域です。

森: 一方で、僕が一番恐れているのは、社会全体の進行がより早く進み、アートの対応の方が遅くなるかもしれないという事態です。実感としては、そうなる可能性の方が高いんです。今日語ってきたような可能性をアートが引き取るためには、人もお金も時間もかかる。その準備時間が残されていないことは、プログラムオフィサーたちにいつも言っています。しかし、このことがあまり自覚的に共有されない。現実から手を出されたときにはどうにもできない状態になっていることを、一番恐れています。

太下: 社会の方が早いというのはその通りかもしれません。もしアートが社会に対応しているなら、アートポイントのような組織体や仕組みがもっとあっておかしくないわけですよね。

森: 普通、マーケットがある業界は、その進行の速さに対応しないとビジネスができないから、追いつこうとしますよね。しかしアートの場合、古い OS (オペレーティング・システム)でも賄えてしまうから、感覚的には古い OS のまま動いている人も多い。でも、ここで話されてきた可能性はそうではなく、あるいはアートプロジェクトよりもさらに先のアートの姿ですよね。それに対応するにはいろんなものを統合させないといけないし、多くのネットワークや経験を持っていないといけない。その危機感がいま、強くあります。

太下: ただ、その活動の輪郭があとからわかることもありますよね。それこそ、先ほどお話した、前回の東京オリンピックにおけるデザイナーのように。

熊倉: いま少なくとも言えるのは、これまでのマーケットオリエンテッドなアートにパラダイムシフトが起きていることは、2000 年代から各国で明らかになり、学問的にも言語化が進んできたことです。ただその先にあるのは、いわゆる「何々派」の更新という従来の芸術の進歩ではないと思う。日本では、こうした西洋型の芸術モデルが全国民的に根付くことはなかった。そのなかで、それとは異なる、自分で考える小さなプラットフォームとしてのアートの試みが生まれている現在の状況は、わたしにはより可能性を感じさせます。こうしたアートのあり方を意識している欧米人はあまりおらず、アジア型のモデルとしてどんどん展開していくべきだと思います。まさに、幸せな縮小社会のためにも。

大巻伸嗣「Memorial Rebirth 千住 2018 西新井」 記録映像

アートプロジェクト『アートアクセスあだち 音まち千住の縁』の一環である「Memorial Rebirth 千住」(通称:メモリバ)は、無数のシャボン玉で見慣れたまちを光の風景に変貌させ、記憶を喚起するアートパフォーマンスです。

本映像は、2018年に足立区立西新井第二小学校で開催された「Memorial Rebirth 千住 2018 西新井」の記録映像です。

Words Binder 2019/Box+Letter

多種多様な形態で、それぞれ異なる目的をもつドキュメントブックを、どのように届ければ手に取ってくれたり、効果的に活用したりしてもらえるのか。アートプロジェクトから生まれた発行物の届け方を研究・開発して生まれた、「言葉」を届けるためのメディアです。