Betweens Passport Initiative

異なる文化をつなぐ「移民」の若者たちとともに

「移民」の若者たちを異なる文化をつなぐ人材と捉え、アートプロジェクトを通じた若者たちのエンパワメントを目指す。定時制高校と連携し、部活動として「移民」の若者たちの居場所づくりや、学外でのアーティストとのリサーチやワークショップの実施。その運営を若者「ユース(Youth)」メンバーがともに担うことを通して、人材育成とコミュニティづくりを行う。

実績

Betweens Passport Initiativeでは、「移民」の16歳から26歳の若者たちを対象としている。ここでの「移民」とは、多様な国籍・文化を内包し生活する外国人のことを指す。日本での社会生活において「できない」ことが指摘されることの多いかれらに、自らが「できる」ことを見つけるための機会をつくることを目指した。

2016年度から、都立の定時制高校と連携し、多言語交流部「One World」の活動を通して「移民」の若者たちの居場所づくりを行ってきた。高校中退率や、卒業後の進路の未決定率の高さに垣間見える、高校生の「孤立」という課題に対して、学外のメンバーがかかわり、学び合いの場をつくることで、学内でのコミュニティづくりを試みた。運営は高校とNPO、大学の3者が手を組み、アーティストなどの外部講師によるワークショップや大学の留学生との交流など多様なプログラムを展開した。その3年間の活動での気づきや、問題背景、具体的なプログラムの内容は『Stories Behind Building Community for Youth Empowerment 高校・大学・NPO の連携による多文化な若者たちの居場所づくり:都立定時制高校・多言語交流部の取り組みから』にまとめられた。

学外でのコミュニティづくりとして、港区にあるSHIBAURA HOUSEを拠点に「移民」の若者たちを軸としたインターンプログラムも実施している。Betweens Passport Initiativeのプログラム運営をともに行うだけでなく、インターンからの提案を受け、大学教員など外部協力者とともに、自分たちの進路や強みを考えるリサーチやワークショップなどを行った。

2018年度に開催した外部の専門家などを招いた議論の場である「Sharing Session」では「移民」の若者たちのリーダーシップを育む環境づくりがテーマ。国内での「移民」が抱える課題に向き合い、その当事者である若者たちをエンパワメントすることを目的にはじまった本事業は、「移民」の若者たちがリーダーシップを発揮できる未来の社会像を思い描くことで共催期間を終えることとなった。

東京アートポイント計画との共催終了後には、一般社団法人kuriyaの代表・海老原周子の10年にわたる活動や日本の「移民」を巡る状況をまとめた書籍『外国ルーツの若者と歩いた10年』を発行した。本書には、海老原が想像した2030年の多文化共生社会の姿も収録している。

関連記事

『移民』の若者のエンパワメントのために、アートプロジェクトができること—海老原周子「Betweens Passport Initiative」インタビュー〈前篇〉

定時制高校で「現場」をつくるところから。「社会包摂」と「アートプロジェクト」の関係を考える。—海老原周子「Betweens Passport Initiative」インタビュー〈後篇〉

「東日本大震災」後の実践(北澤潤×佐藤李青)

レクチャー1「徹底解体!アートプロジェクト」第3回のレポートをお届けします。今回も本レクチャーシリーズのレポート担当高木がお送りします。前回は2000年代を中心に国内の芸術祭や国際展、アートプロジェクトを含め運営体制の変化をナビゲーターの佐藤李青が紹介しました。後半は美術家である北澤潤の活動を中心に「北澤潤八雲事務所」という体制・運営に分析を交えながら、「サンセルフホテル」と取手アートプロジェクトの関係についてディスカッションを行いました。

>レクチャー1「徹底解体!アートプロジェクト」 第1回レポート
>レクチャー1「徹底解体!アートプロジェクト」 第2回レポート

今回のレクチャーシリーズも、いよいよ最終回となりました。今回は2010年代の話、特に2011年3月11日に起こった「東日本大震災」後の北澤の実践を軸に話題は展開しました。そのなかで、このレポートは次の3つのトピックに絞って構成しています。ひとつ目は北澤が出展した展覧会『3.11とアーティスト:進行形の記録』(以下、『3.11とアーティスト』)と東日本大震災後に展開した「マイタウンマーケット 」について。ふたつ目は北澤が近年活動のフィールドとしているインドネシアでの活動と「コレクティブ」について。最後に、このレクチャーを通して、私が考えた北澤の活動(アートプロジェクト)について、少し触れたいと思います。

2011年3月11日に起こった「東日本大震災」。被災地となった福島県相馬郡新地町・小川公園応急仮設住宅にて北澤が行なった「マイタウンマーケット 」と2012年に水戸芸術館で開催された『3.11とアーティスト:進行形の記録』の話題からレクチャーは始まりました。 

『3.11とアーティスト』の開催趣旨では、本展が「震災を受けて現れた約30に及ぶアーティストのアクションと表現を、2011年3月から現在へと時間軸をたどる形で」振り返ったものだと説明されています。キュレーションを行なった学芸員の竹久侑さんは今回の震災が起こった際に、過去の震災、特に阪神・淡路大震災の時を参照の対象とし、震災後にアーティストや文化施設などが実際にどのような対応をしたのか、どういうことが起こっていたのかを調査したが、記録があまり残っていなかったと図録で述べています(※)。震災から一年半経った時点で、3.11以降に起こったそういった動きをきちんと残していくためにこの展覧会は企画されました。

※ 竹久侑「本展の企画についての記録と考察」『3.11とアーティスト:進行形の記録』水戸芸術館現代美術ギャラリー、2012年。

佐藤と北澤の対話では、今回の震災は特にアーティストの動きが早かったと言われることがありますが、その理由として1995年の阪神・淡路大震災の時に動くことが出来なかったという経験、東日本大震災ではアートプロジェクトという形式がすでにあったことがアーティストの活動に繋がったのではないか、そして、災害でアートプロジェクトが機能したのではなく、災害というフレームによってアートプロジェクトの意義が見えやすくなったとのではないか、と議論が展開しました。

次に『3.11とアーティスト』に出展し、北澤がその展覧会の名の通り当時「進行形」で取り組んでいた「マイタウンマーケット」について当時の状況やプロジェクトの進展を現場の動きを追いながら、北澤が話しました。

「マイタウンマーケット」は東日本大震災で被災した地域である福島県相馬郡新地町小川公園応急仮設住宅の中で、北澤が地域の人たちと対等になりながら住民たちと一緒にマーケットを開くというプロジェクトでした。

北澤と佐藤の対話では、特に「プロジェクトの転用の可能性」が焦点となりました。2011年7月10日の第1回から新地町で始まった「マイタウンマーケット 」、その活動の延長として2012年1月28日にマイタウンマーケットを他の場所へ出張して行う「マイタウンマーケットキャラバン」を開催しました。会場となったのは同じ新地町にある「がんご屋応急仮設住宅」です。これはマイタウンマーケットで出来た仕組み、作り上げるプロセスを応用することが出来れば、他の違う場所でも実施が可能ではないかという、ひとつの試みでした。しかし、結果的に、がんご屋応急仮設住宅で開催した「マイタウンマーケット」は続くことはありませんでした。

「マイタウンマーケットキャラバン」の試みで分かったのは、「マイタウンマーケット」は単に仕掛けや仕組みで成り立っているものではなく、プロジェクトをつくりあげるプロセスを住民の人たちとの関係の上で機能するプロジェクトであったのではないか、と話は展開していきました。「マイタウンマーケット 」は実施主体をマイタウンマーケット実行委員会とし、あくまで北澤はその一員であり、「作家」としての署名性をあまり強調しない運営を行ってきました。作家がいなくとも続くプロジェクトを目指していた「マイタウンマーケット」でしたが、そのやり方を別の場所へ持っていこうとして分かったのは「マイタウンマーケット」がアーティストと地域の人々との固有の関係を前提とする、作家の帰属性が高いプロジェクトであったということでした。

■参考リンク
『3.11とアーティスト:進行形の記録』(2012年10月13日(土)〜12月9日(日)/水戸芸術館 現代美術ギャラリー)
『阪神・淡路大震災 芸術文化被害状況調査報告書』(阪神・淡路大震災 芸術文化被害状況調査研究プロジェクト委員会、1995年8月/リンク先は公益社団法人企業メセナ協議会のウェブサイト)
「阪神・淡路大震災+クリエイティブ タイムラインマッピングプロジェクト」(2011年10月~)
「マイタウンマーケット」(2011年6月~2014年8月/福島県相馬郡新地町・小川公園応急仮設住宅)※ 一番古い記事は2011年4月25日に書かれた7日目の滞在記録。当時、北澤が感じていた整理し切れていない生の言葉と体感が書かれています。

北澤が近年活動のフィールドとしているインドネシアについて、特にコレクティブというあり方について佐藤との対話が行われました。

国際交流基金アジアセンターが設立されてから東南アジアとの人同士の移動と交流の中で、コレクティブとアクティビズムの再確認と議論が行われました。「コレクティブ」とはアーティストに限らずリサーチャーなど、様々な立ち位置を持つ人が集まり、グループのようなものを作って活動していることです。日本ではコレクティブを集団という意味で捉えていますが、その核となるのはその紐づいている「スペース」となり、その拠点に集まっている人たちがコレクティブと呼ばれます。

日本で使用されている「コレクティブ」という言葉について、北澤のインドネシアでの実感とは異なる部分があると話しました。インドネシアの代表的なコレクティブである「ルアン・ルパ」には30人ぐらいのメンバーがおり、役割はあいまいで、その時々で関わっている人が違うといいます。それに比べて日本での「コレクティブ」という言葉はアーティストチームと変わらないのではないかと続けました。それに対して、佐藤は美術におけるコレクティヴィズム、つまり「共同制作により、いかに個の表現を超えていくか」という見方があるのかもしれないと指摘しました。

最後に、これからの日本のアートプロジェクトを考えるうえでの、美術館や博物館の変化についても話は及びました。一般財団法人地域創造が発表した『災後における地域の公立文化施設の役割に関する調査研究-文化的コモンズの形成に向けて-』では、震災を受けて地域の文化拠点として公立文化施設が他の文化活動との連携をとって「文化的コモンズ」をつくっていくことを大事だと指摘しています。また、青森県八戸市の「八戸新美術館」では、「人」を軸に空間をつくる新たな美術館づくりに取り組んでいます。文化施設に求められる役割が変化し、その「外」を舞台としてきたアートプロジェクトとの関係も変化してくるのではないかといった、この先に関する議論に広がったところで、レクチャーは終了となりました。

■ 参考リンク
国際交流基金アジアセンター(北澤は2015年度フェロー
『災後における地域の公立文化施設の役割に関する調査研究-文化的コモンズの形成に向けて-』(財団法人地域創造、2014年)
「八戸市新美術館整備事業について」(八戸市ウェブサイト)

このレクチャーでは全3回を通して、「アートプロジェクトの表現と、それを支える仕組みと環境」と共に「北澤潤のこれまでの作品」について振り返りました。私は最後に、北澤のプロジェクトにおける「仕事」というものについて考えてみたいと思いました。北澤のプロジェクトには役割として「職業」や「仕事」が組み込まれています。「サンセルフホテル」ではホテルマン、「マイタウンマーケット」では喫茶店やTシャツ屋さんなどの店員、「ネイバーズ・ランド」では横浜在住の外国の人々が飲料・料理販売、物品販売をする各国のブースの担当としてプロジェクトを担っていました。そうした参加者は本番までの準備も行います。

プロジェクトにおける「仕事」は、他者をプロジェクトに迎える仕組みとして機能しています。北澤が描くヴィジョンと共に各々の参加者がお客さんという他者を前提とした「自分のしたいこと・してみたいこと」を仕事というかたちで展開しているように感じます。このレクチャーシリーズの中では、ある種の「作業」というものが、コミュニケーションを引き出す媒介として機能するという話がありましたが、北澤のプロジェクトでは単純な「作業」ではなく、「仕事」がその媒介としての機能を担っているのではないかと思います。これは第2回目のレクチャーで、北澤が自身の「八雲事務所」という体制について話した「社会の役割、態度としての意思表示であり、社会の中で仕事をするのが当然である」という考え方に繋がります。それは北澤のアーティストとしてのあり方であり、活動の原理となるようなものだと思います。

全3回のレクチャーシリーズ「徹底解体!アートプロジェクト」は、今回で終了となりましたが、レポートでお届けしてきたレクチャーの議論を、ぜひみなさんの実践でもご活用いただけたらと思います。

(執筆:高木諒一/写真:CULTURE

めぐりめぐる記憶のかたち―イメージは、どこまで届くのか?

「いまの社会で、これからの実践を立ち上げるための新たな視座を獲得する対話シリーズ」として、2018年10月から2019年2月までの5か月間、月に一度ひらかれる対話の場「ディスカッション」。その第1回目、「ディスカッション1」は10月10日(水)に「めぐるめぐる記憶のかたち――イメージは、どこまで届くのか?」と題して行われました。

ゲストにお迎えしたのは、原爆の図丸木美術館学芸員の岡村幸宣さんと、NPO法人remoのメンバーで、AHA!世話人の松本篤さん。アーツカウンシル東京プログラムオフィサーの佐藤李青がモデレーターを務め、「ここではクロストークを行うというよりも、お二人がそれぞれの実践の中で感じている課題や問題意識を深め、最終的にはこの場に参加されている皆さんが各々問いを持ち帰る場にしたいと思います」と開始の挨拶とともに述べました。

そしてディスカッションの本編スタート。まずは岡村幸宣さんのお話からです。「めぐりめぐる記憶のかたち」と題した発表では、岡村さんの勤める原爆の図丸木美術館についてのお話を皮切りに、丸木位里・丸木俊夫妻が描いた《原爆の図》の全国巡回展が果たした役割について迫っていきました。

その前に、そもそも、《原爆の図》とはどのような作品なのか、改めて見ていきます。原爆投下後の広島の惨状を描いた15部から成る連作の絵画作品《原爆の図》は、しばしば「原爆の記憶」を描いたものだと言われますが、丸木夫妻は1945年8月6日、広島市への原爆投下の際、その場に居合わせた「直接体験者」ではありませんでした。しかし、作品に描かれているのは原爆投下の日の様相。つまり《原爆の図》とは、丸木夫妻が「他者の記憶」を描いた絵画作品なのです。

丸木位里・俊『原爆の図 第1部 《幽霊》』(1950年、屏風四曲一双、縦1.8m×横7.2m)。

岡村さんの著書、『《原爆の図》全国巡回――占領下、100万人が観た!』(新宿書房、2015)は、少なくとも108ヶ所以上で開催され、102万人あまりを集めたとされる、伝説的なスケールの《原爆の図》全国巡回展の実際の姿について調査を行い、書かれたものです。岡村さんは、調査にあたっては、「証言そのものを信用しない(一次資料で裏付けを取る)」「写真を証拠として活用」することを念頭に置きました。「写真もあくまで『見せたい』記録。写っていない現実をどのように捉えるかが大事なんです」。

その中で分かったこととしては、《原爆の図》の全国巡回展が行われた1950年代初頭は、敗戦後の連合国軍占領下で原爆報道が禁止されており、また1950年6月に勃発した朝鮮戦争の問題もあり、「検閲を受けずに惨禍を伝えるツール」「過去を現代につなげる想像力」という側面から、《原爆の図》がひとつのメディアとして役割を果たしていたということでした。

等身大の人物描写やパノラマ状の大画面といった、非常に大きな画面に描かれていること、そしてその作品の前で絵画作者や原爆体験者が説明し、同時に大学生たちが専門領域の知見に基づく解説を綴ったパネルを設置。さらに峠三吉などの詩の朗読や音楽の演奏、合唱といったパフォーマンスが行われ、最終的には感想文集や記録集が作成される――といった、巡回展での多角的な取り組みが功を奏したと言えます。

映画『原爆の図』(1953年、新星映画社、監督/今井 正、青山通春 撮影/浦島 進 解説/赤木蘭子)より巡回展のシーン。

また、《原爆の図》には時間の異なる光景がひとつの絵にコラージュされています。そこには、写真とは違い、再編集によって「芸術的真実」を伝えられる効果が生まれています。絵画は現場にいなくても「再現」できる面を持ちますが、時間、距離から自由であることのメリットとデメリットを共に抱えているとも言えます。その例として挙げられたのは、《原爆の図》第14部の≪からす≫。朝鮮人被爆者を描く際、石牟礼道子のルポルタージュ「菊とナガサキ―被爆朝鮮人の遺骨は黙したまま―」を参照し、それを視覚化した作品です。しかし、石牟礼によって綴られた遺骨の話には、原爆被爆者だけではなく、炭鉱労働者で亡くなった方もまぜこぜになっていることが近年の研究で指摘されています。それでは、この石牟礼の文章はどう読めばよいのでしょうか。その問いには、「菊とナガサキ」は単なるルポルタージュではない、という返答ができます。

客観的事実の検証だけではなく、自身の記憶や経験をもとに「語り直す」ことで可視化されるものもあります。岡村さんは「追体験の記憶」という言葉を用います。「山端庸介の報道写真が《原爆の図》の元となり、さらに岡崎の小学生が《原爆の図》の模写を行った際、元の絵にはなかったものが描かれていました。同じイメージも繰り返し描かれることで変容していきます。なぜ、どのように変容するのかを考えると時代状況も見えていきます。72年経っても新しい記憶がまだ生まれており、『リアルさ』は時代と共に変貌していきます」と言います。

さらに岡村さんは「今こそ1950年代のような巡回展を再び、というような声も出るのですが、私はそれは違うと思っています。全国巡回展は当時の社会状況下では極めて有効な手段でしたが、同じことを現在行っても有効とは限りません。今の時代に即した新しい手法を考えることこそが必要です」と述べました。

続く松本篤さんは、記録集『はな子のいる風景』(武蔵野市立吉祥寺美術館、2017)を企画、制作した際のお話を中心に、「『記憶』は誰のものか、『当事者』とは誰か」をテーマに発表を行いました。

1949年にタイから贈られ、2016年5月に69歳(推定年齢)でその生涯を閉じるまで、戦後日本に最も早く来日し、最も長く生きたゾウの「はな子」。松本さんたちが展開しているAHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]では、市井の人々の記録に着目し、そこに潜在する価値を探求する取り組みを行っています。その一環として『カンバセーション_ピース』という展覧会(武蔵野市立吉祥寺美術館、2016)のために 武蔵野市内における8ミリフィルムを収集しました。その際、異なる家庭でも「はな子」の映像記録を撮っていることに気づき、関係を持たないと思われた人同士をつなぐ結節点になると考え、2016年の6月頃から「はな子」の記念写真の収集を開始しました。

記録集『はな子のいる風景』(武蔵野市立吉祥寺美術館、2017年)の表紙

松本さんが編集した記録集は、以下の要素から成っています。

1 写真:550枚ほど集まった写真から、はな子と人 が写り込んでおり、撮影日時が分かるもの、被写体の人物が正面を向いてこちらと対峙しているような写真169枚をセレクト。
2 飼育日誌:写真が撮影された当日の飼育日誌を掲載することで、その日のはな子の様子を浮き彫りにする。
3 写真提供者の言葉:169枚の写真の持ち主にアンケートを取った。

写真は時系列順に並べ、飼育日誌を併録。アンケートは本体とは別の小冊子に、時系列を遡るかたちでまとめられました。はな子の69年の写真集という「あちら側」の世界と、それを生きているものが弔う「こちら側」の世界から成立している本だとも言えます。内容と形式を一致させた理由を、「写真を提供していないし、はな子のことも知らない人がこの記録集を手に取った時に、『私がこの中に写っている』と投影できるものにしたかった。自分がそこにいると思えるような強さをどうつくるのか考えて、デザイナーの尾中俊介さん(Calamari Inc.)との対話を重ねながら、 このような構成になりました」と松本さんは語ります。

言葉、写真、造本上の工夫によって、「イメージをくりかえす」「イメージをひっくりかえす」ことを徹底させることで、イメージの力を強めていく編集となった『はな子のいる風景』。同じ日に撮られた別々の写真があることで、同じ時間でもそれぞれの人がそれぞれに歩んでいることが浮き彫りになります。それを可能にさせたのははな子というメディアが結節点となっているからこそ。「人は何故かゾウの前で記念写真を撮る。それは海外でも同じです」という松本さん。550枚集まった写真のうち、一枚だけ溝を隔ててゾウと人が触れ合っているものがありました。情感を交えずに編集した本だけに、それを掲載することでウェットになるかもしれないと思いつつ、「一枚だけ」手元に届いたという事実もあり、本書の一番最後に掲載することになったというエピソードも。今後は、はな子がタイから日本にやってきた道のりを逆再生できないかと目論んでいるそうです。

記録集『はな子のいる風景』(武蔵野市立吉祥寺美術館、2017年)の裏表紙

ここまでの二人の発表を受けて、対話の時間へ。まずは佐藤が「『強さ』がキーワードなのかなと思いました。松本さんは複合的に仕掛けをつくって強さを生み出し、《原爆の図》はそれ自体イメージがとても強い」と言うと、岡村さんは「《原爆の図》は見る前から見たような気になってしまう部分があります。その固定化してしまう宿命をどうひらいていくべきか。松本さんのお話にあったような、形式としての自由さ、イメージの扱い方を原爆の図においては、どのように転用できるか考えたいです」と応答。《原爆の図》に限らず、圧倒的な惨禍をどのように伝達できるのか。たとえば1950年代の日本映画で描かれているような描写よりも、近年制作された戦時中の生活を描いたアニメーション映画のほうが「今の人」にとって伝わりやすいものがあるなどといった話題が上がりました。

また松本さんが、丸木夫妻はプロデューサー的な側面があったのではと尋ねると、人を許容する力があり、広がりを受け入れることができ、全国巡回展の後は場所づくりにシフトしていった。原爆の図丸木美術館はそうして出来たが、現在その転換期に来ているのかもしれないと岡村さんは応えます。

さらに、「どのように受け手につくったものが届くのかはコントロールできない領域。《原爆の図》を子どもが模写をして変容していくイメージの飛躍がおもしろいと思いました。“ 誤読” をうまく引き出すというのがポイントですかね」と松本さん。また岡村さんは、原爆の図丸木美術館が自身のイメージを解体、ひらいていくことを意識的に取り組んでいる実例として、2011年の東日本大震災をきっかけにChim↑Pomの特別展を開催するなど現代作家の展覧会を開催していることを挙げました。誤読とは言わないにせよ、《原爆の図》の見方が変わるような取り組みをしていきたい、全国巡回展とは違う、今の時代だからこそできるやり方を模索していきたいと述べました。

和やかな雰囲気の中、しかし慎重に言葉を選びながら行われた今回のディスカッション。お二人の対話から自然と「強さ」「誤読」などのキーワードが生まれ、イメージをどう扱うかや場をどうつくっていくかといった問題などに関して、真摯な言葉の応答が続きました。

過去の時代に行われたことをただ繰り返しても、その期限は切れている。今の時代だからこそできるやり方で、これまでの精神のコアは受け継ぎつつ、どのように変容させていくべきか――。今回のお二人の発表を受けて、私が持ち帰った問いのひとつは、たとえばこのようなものでした。参加者の皆さんもそれぞれ持ち帰った問いを、各々の生活の中で問い返しながら、また別の問いが生まれていくのでしょう。

(執筆:髙橋創一

「東京プロジェクトスタディ」の試みを共有する

Tokyo Art Research Lab「思考と技術と対話の学校」では、今年度の新設プログラムとして「東京プロジェクトスタディ」がスタートしました。

今回は、9月24日(月・祝)、アーツ千代田3331 アーツカウンシル東京ROOM302にて開催した合同会の様子をお届けします。

「東京プロジェクトスタディ」(以下、スタディ)は、ナビゲーターと参加者がチームを組み、“東京で何かを「つくる」としたら”という投げかけのもと、アートプロジェクトを巡る“スタディ”(勉強、調査、研究、試作)に取り組むプログラムです。
「東京プロジェクトスタディ」の特徴とは?

9月から5つのスタディが始動。参加者はおよそ50名。20代~60代まで、アートに限らずさまざまな専門性や経験を持った方が参加しています。スタディメンバーが集まる活動日には、それぞれが持つ興味関心を共有したり、フィールドワークを行ったりしています。今回はスタディのキックオフとして、また、それぞれの活動やメンバーについて全体で共有することを目的に開催しました。本スタディは、5つそれぞれに展開するのではなく、所属を超えて、ナビゲーターや参加者が出会ったり意識しあったりしながら、「つくる」コミュニティを育てることを目指しています。
合同会では、スタディの目指すところや、進め方、各スタディの活動の様子について共有しました。

(撮影:加藤甫)

「思考と技術と対話の学校」校長メッセージ(森司)

今年度の「思考と技術と対話の学校」では、活動の現場と学びの現場をより近づけていくことを目指しています。このスタディは、「東京アートポイント計画」との連動を意識して事業の設計を行いました。ナビゲーターは「東京アートポイント計画」事業にも携わっている方々で、アーツカウンシル東京のプログラムオフィサーがスタディマネージャーを務めます。

このスタディは、「東京でつくる」というテーマを掲げていますが、現在の東京について考えることだけでなく、オリンピック後やさらにその先の社会を見据えたうえで、どのように応答するのかを考えていきます。

今回は、仮に「100時間でプロジェクトをつくる」と設定し、参加者それぞれが主体的にテーマを持って学んでいきます。100時間あれば、何らかの発想の種だったり、思考のしかただったり、ヒントが手に入ると思っています。

このスタディをよりよい学びと経験の場にするため、決められたやり方を提示するのではなく、参加者のみなさんからフィードバックを受け、ともに考えながら進めていきます。

スタディ1 「東京でつくる」ということ―前提を問う、ことばにする、自分の芯に気づく

ナビゲーター:石神夏希(劇作家/左)、スタディマネージャー:嘉原妙(アーツカウンシル東京プログラムオフィサー/右)。

「東京でつくること」を入口に、参加者それぞれが抱えている課題や関心を軸に徹底的に対話し、議論を生み出す方法を身体化していくことを試みます。

このスタディでは、活動日の後に毎回エッセイを書いています。演劇やアートプロジェクトに限らず、さまざまなジャンルの方が参加しているので、「東京でつくる」を巡るエッセイが、それぞれの視点から毎回書き溜められていく仕組みです。最終的には、エッセイ集をつくる予定です。

初回活動日には、「東京」との距離感や「東京」についてどのように思っているかという現在地を、参加者のみなさんがインタビューし合いながら聞いていきました。
今後、ゲストを迎えてディスカッションを重ねるなかで、さまざまな問いが生まれる場になりそうです。

スタディ1の詳細はこちら

スタディ2 2027年ミュンスターへの旅

ナビゲーター:佐藤慎也(プロジェクト構造設計/右から2番目)、居間 theater[東彩織、稲継美保、宮武亜季、山崎朋](パフォーマンスプロジェクト/右から3番目が稲継)、スタディマネージャー:坂本有理(「思考と技術と対話の学校」教頭、アーツカウンシル東京プログラムオフィサー/一番右)。

このスタディでは、2027年に開催される第6回「ミュンスター彫刻プロジェクト」に、ナビゲーターの「居間 theater」が招聘されることを目指して準備を始めます。

初回から定例ミーティングを2回終えて、「ミュンスター彫刻プロジェクト」の作品をのべ200点見ていきました。時代順に追いながら、どんな作品があるのか、受験勉強的に傾向と対策を検討した結果、それだけでは目的を達成できないことを再確認しました。作品の質まで検証する必要があるのです。今後、オリンピックやその先まで通用する作品をつくるにはどのような方法があるのか、参加者のみなさんと考えていきます。

スタディ2の詳細はこちら
座談会:ミュンスター彫刻プロジェクト2017を振り返る→2027

スタディ3 Music For A Space—東京から聴こえてくる音楽

ナビゲーター:清宮陵一(NPO法人トッピングイースト理事長/左)、スタディマネージャー:大内伸輔(アーツカウンシル東京プログラムオフィサー/右)。

昨今、まちなかを舞台に音楽の可能性を拡張する試みが行われるなか、このスタディでは音楽の地平をさらに探ることを目的として、音楽産業と公共空間の音楽の両方の世界からゲストを招いて展開します。

初回活動日では参加者に、人生で最も影響を受けた曲と最近よく聴く曲を持ってきてもらいました。それぞれにエピソードがあり、普通の自己紹介であれば出てこないような、ぐっと踏み込んだ話を聞くことができました。

これからこのスタディでは、最前線の現場にどんどん行く予定です。2回目の活動日には、清宮さんとプロジェクトに取り組むアーティスト・和田永さんの制作現場を見るため、「鉄工島フェス2018」の会場を訪れました。現場ではどんなものづくりが行われているのかを見たり、アーティストのことばを聞いたりします。

スタディ3の詳細はこちら

スタディ4 部屋しかないところからラボを建てる—知らないだれかの話を聞きに行く、チームで思考する

ナビゲーター:一般社団法人NOOK瀬尾夏美(アーティスト/右から3番目)、小森はるか(映像作家/右から2番目)、礒﨑未菜(アーティスト)〕、スタディマネージャー:佐藤李青(アーツカウンシル東京プログラムオフィサー/一番右)。

このスタディでは、ROOM302を「ラボ」として活用し、参加者それぞれの関心に基づき、話を聞くという調査方法で情報を集め、共有します。そうしたプロセスを通して、今の「東京」や今の私たちが生きている場所について見えてくるものを模索します。

初回は2日間連続で活動し、ほとんどの時間を自己紹介に充てました。それぞれの関心はバラバラですが、全員で集まって話すと意外に問題が共通しているとわかりました。
今後は、それぞれの関心を深めること、その情報を共有する方法を参加者とともに考えていきます。『ラボ通信』といったメディアをつくることにも挑戦します。

スタディ4の詳細はこちら

スタディ5 自分の足で「あるく みる きく」ために―知ること、表現すること、伝えること、そしてまた知ること(=生きること)

チューター:村松真文(NPO法人アートフル・アクションスタッフ/中央)、スタディマネージャー:佐藤李青(一番右) ※合同会当日は、チューター役として関わっている村松真文さんが、ナビゲーターの宮下美穂さんの代わりに登壇しました。

生きることの支えとしての「表現」を参加者それぞれが探し出すことをテーマに取り組みます。3人のゲストアーティストが、参加者と並走して活動を進めていきます。

初回活動日は、ゲストアーティストと参加者の自己紹介を行いました。大西暢夫さん(写真家/映画監督)は、これまでどのように作品をつくってきたかについて話しました。花崎攝さん(シアター・プラクティショナー/野口体操講師)は、野口体操の考え方や手法を説明し、参加者は身体をほぐすワークを体験しました。ドイツ在住の揚妻博之さん(アーティスト)はスカイプでの参加。ご自身の作品の紹介やこれからつくろうと思っていることを参加者と共有しました。

参加者は、それぞれの表現の手法や考え方、制作プロセスに触れたり、一緒に作品をつくったり、自ら表現を模索したりします。それぞれのアーティストの活動情報などを適宜共有し、ナビゲーターと数名のチューターが活動日以外の学びもサポートしていきます。

スタディ5の詳細はこちら

今回の合同会は、それぞれのスタディの動きやテーマだけでなく、お互いの興味や現在の活動について共有する場となりました。これから活動を重ねるなかで、2月に開催予定の報告会に向けて、各々の関心をさらに深めていくとともに、「つくる」コミュニティとしての横断的な活動が生まれていきそうです。

芸術祭・トリエンナーレを捉え直す(北澤潤×佐藤李青)

レクチャー1「徹底解体!アートプロジェクト」第2回のレポートをお届けします。前回は1990年代を中心にアートプロジェクトには、どのような形式や考え方があるのかをナビゲーターの佐藤李青が紹介しながら、美術家である北澤潤が問題意識や関心に対して分析を交えながら、自らの作品について語りました。途中には質疑応答もあり、参加者とのやりとりも生まれました。

レクチャー1「徹底解体!アートプロジェクト」 第1回レポート

2回目となる今回は2000年代が話題となります。まずは芸術祭・トリエンナーレを以下の3つの視点から取り上げました。

・都市型/地域(地方)型、国際展/芸術祭=政策的な意図
・自治体+公的機関(文化施設など)=複数主体の実行委員会
・地域とボランティア

2000年代に入り、国際展や芸術祭の規模や数が増大していきました。現在では毎年どこかで行われ、大小含めると全貌は把握出来ないほどです。ここでは国際展(都市型:横浜トリエンナーレ、あいちトリエンナーレ)と芸術祭(地域型:大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭)という分け方から考えました。

そのような隆盛の背景として、行政の変化・政策的な意図があることを紹介しました。国際展や芸術祭は特定の地域で自治体が主導で動くことが多く、2001年に文化芸術振興基本法という文化に関する基本法が制定されたことを始め、平成の大合併と呼ばれる市町村合併も芸術祭の開催に踏み出すひとつのきっかけとして多いことなど2000年代の文化政策の流れを振り返り、国際展、芸術祭と国、地方自治体の政策の結びつきを見ることができました。

国際展、芸術祭が継続して開催される一方でディレクターや事務局が毎回変わることによる問題意識(プロジェクトの動かし方、経験が引き継がれない)が生まれ、アートプロジェクトの現場でも同様に持続的な体制をどのようにつくっていくかという課題があることが語られました。そこで、実行委員会のコアである事務局をNPO法人化するケースが増えてきました。ただし、法人化し、運営を「プロ化」していくことによって、ボランティアを交えた運営の良さを残していくために工夫が必要になるという話も出ました。

また、そのような体制が生まれた背景には、地域の文化振興、文化を利用したまちづくりなどを目的として公的な予算が投じられるようになったことが挙げられます。申請条件として、複数の主体と連携していること、地域と関わっていることなどが明記されているものもありました。

2009年に始まった「東京アートポイント計画」はアートNPOを軸に多様な主体と連携しながら、地域をベースとした持続的な体制づくりのサポートなどを行っています。こうした「中間支援」の動きが出てくるのも、数々の制度が整っていくことやアートNPOが増えてきたことが背景としてありました。

質疑応答では「運営のプロ化」が議論を呼んだ理由に対して質問がありました。アートプロジェクトにそもそも、多様な人が関わる可能性があるのだとすれば、ボランティアでかかわる人々の働きがあることは、単純に目的を達成するプロセスとは違う現場の良さが生まれているともいえます。プロジェクトを続けていこうとすると専門的で高い技術を持った運営スタッフが必要となっていくのですが、その一方で人の関わりの幅が狭くなってしまい、その現場の良さというものがなくなってしまうのではないかというジレンマがナビゲーターより語られました。

後半のディスカッションでは、アーティストである北澤がプロジェクトを実施、運営する上での「北澤潤八雲事務所」というチームの役割について話がありました。

北澤が「事務所」という体制を取っている理由について、3つの理由をあげました。

1つ目は、意思表明としての「事務所」。事務所と名乗ることは活動の初期から行っているとのことでした。アーティストが社会の中で仕事することが当然であるべきだという態度の表現として「事務所」という名前を使用しているとのことです。

2つ目は、活動を続けていくために必要な体制であったということです。「リビングルーム」や「サンセルフホテル」などはプロジェクトの活動期間に様々な動きがあり、そのような日常的な活動は現場にいなければ記録できない部分があります。初期は北澤が記録やマネジメントも行っていましたが、その後にマネジメントを担う人、写真を撮る人と共にプロジェクトをつくっていくようになりました。事務所という体制は活動を続け、日常化していくための選択でした。

そこからつながる3つ目として、記録等も含め、すべてを1人でやっていると北澤潤という存在が日々の活動に近すぎることで、プロジェクトの核となる「問いかけをする存在」でなくなってしまうという問題が起こってしまうということでした。役割分担として、アーティストでいるために「八雲事務所」が必要であったということが話されました。

また、一緒にプロジェクトを進める相手側の事務局やスタッフとの関係も話題に上がりました。「サンセルフホテル」での取手アートプロジェクトとの場合では、アーティストのプランに対して「どのように実現していくか」ということだけではなく、事務局が同じ仕掛ける側の立場に立ち、プロジェクトの最初から最後まで議論し続けたことが重要な経験であったと北澤は話しました。またプロジェクトの運営では、マネジメントや広報など機能ごとに役割を分担していく方法もあるが、例えば「チラシを地域にどのように配るか」といった議論を共にすることは、社会の中で新しい状況を作る時にアートプロジェクトにとって重要な時間ではないかということが話されました。

最後に今回のレクチャーで、私、レポーターの高木が疑問・関心を抱いた部分は海外における国際展、芸術祭、アートプロジェクトの状況です。日本の国際展、芸術祭、アートプロジェクトの体制や仕組みについて知る中で、おそらく起こるであろう同様の問題に対しての工夫や解決を海外の事例から見られるのではと思ったからです。レクチャーの後に、まず調べる足がかりとしたのは2013年に文化庁の委託により株式会社野村総合研究所が行った「諸外国の現代美術に関する状況等に係る調査研究」です。この調査では、国際美術展、アートフェア、アジアの諸地域の現代美術の支援制度や状況、現代美術の作家・キュレーターの状況などについて調査を行っており、国際展については15の事例を選出し、以下の8つの項目について調査をまとめています。

《世界の代表的な現代美術の国際美術展》
1)ヴェネチア・ビエンナーレ(Venice Biennial)、イタリア
2)ドクメンタ(documenta)、ドイツ
3)ミュンスター彫刻プロジェクト(Skulptur Projekte Münster)、ドイツ
4)リヨン・ビエンナーレ(Biennale de Lyon)、フランス
5)イスタンブール・ビエンナーレ(Istanbul Biennial)、トルコ
6)サンパウロ・ビエンナーレ(Bienal Internacional de Artes de São Paulo)、ブラジル
7)シャルジャ・ビエンナーレ(Sharjah Biennial)、UAE

《アジアの代表的な現代美術の国際美術展》
8)シドニー・ビエンナーレ(Biennale of Sydney)、オーストラリア
9)アジア・パシフィック・トリエンナーレ(APT)、オーストラリア
10)上海ビエンナーレ(Shanghai Biennale)、中国
11)台北ビエンナーレ(Taipei Biennial)、台湾
12)アジアン・アート・ビエンナーレ(Asian Art Biennial)、台湾
13)光州ビエンナーレ(Gwangju Biennale)、韓国
14)釜山ビエンナーレ(Busan Biennale)、韓国
15)シンガポール・ビエンナーレ(Singapore Biennale)、シンガポール

調査項目
・基本情報(開始時期、開催回数、実施頻度、開催都市、主な会場、会期、等)
・沿革
・主な会場の詳細
・運営方法
・入場料
・来場者数
・キュレーター
・参加作家

このようなデータを参照し、例えば、ヨコハマトリエンナーレを同じアジア圏で2000年にはじまった「上海ビエンナーレ」と比較しながら、それぞれの課題や問題点、回を重ねることの変化などを見ることができます。また、予算の割合、参加アーティスト・ボランティアの規模、運営スタッフの数などの運営体制、開始された背景など、第2回のレクチャーを通して得た項目について、この調査も使いながら、自分なりに情報を更新していきたいと思いました。

(執筆:高木諒一/写真:CULTURE

遠さと近さのあいだで アジアで移動、接続、越境すること

アジア圏のアーティストと協働する実践者から、近年の動向や新たな潮流を学ぶ

近年、日本各地でアジアのアーティストの展覧会やレジデンスなどが盛んに行われ、アーティストや作品と出会う機会が増えてきました。また、インターネットを通じて、各地の情報にアクセスすることも容易になっています。

物理的にも、心理的にも、「近く」なったアジア。しかし、日本もアジアの一部であると捉えると、この近くなったという感覚で「アジア」をひとくくりにしてしまうことは、かえって「遠ざけて」しまうこともあるのではないかと思います。現在、アジア諸国や日本のアーティストやキュレーターの協働が盛んに行われるなかで、どのような気づきや表現、あるいは一過性ではない文化交流が生まれているのでしょうか。

ときに「アジア」という大きな概念や対象は、身体のレベルを超え、漠然としたイメージとしてわたしたちのなかに入り込んでくるようにも思えます。そのなかで必要になってくるのは、自らの立ち位置を見定め、固有の「一対一の関係性を結ぼう」という姿勢なのかもしれません。

そうした関係性を構築する姿勢を学ぶべく、実際にアジアの現場でプロジェクトを行ってきた居原田遥さん(インディペンデントキュレーター/コーディネーター)と、アジアのアーティストやキュレーターを日本に招聘してきた堀内奈穂子さん(NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]キュレーター)という、内と外、視点の異なる二人の実践者をお迎えします。お二人がどのようにアジアを捉え、アーティストやアートと対峙し、関係性を結んできたのか。移動、越境することで可能になってくる表現、見えてくる境界線について話を伺います。

詳細

会場

ROOM302(東京都千代田区外神田6-11-14-302 [3331 Arts Chiyoda 3F])

参加費

無料

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