編み集める/本のつくりかた・つかいかた

「事務局による事務局のためのジムのような勉強会」こと「ジムジム会」では、東京アートポイント計画に参加する団体とともに「届けかた・つなぎかたの筋トレ」に取り組んできました。2020年1月8日、最終回となる第5回ジムジム会を開催。“ジムジム会の事務局”きてん企画室がレポートをお届けします!(前回のレポートはこちら

■ なぜアートプロジェクトは「本」をつくるの?

第5回のテーマは、「編み集める/本のつくりかた・つかいかた」。東京アートポイント計画では、2009年の事業開始から10年間かけ、200冊以上の本をつくってきました。その多くは各アートプロジェクトの事務局が制作したものです。

報告書、ドキュメントブック、コンセプトブック、調査レポート、教科書、講義録、図鑑など、種類はさまざまだが、毎年20冊前後の冊子を発行している。写真は、関係者に届けるために箱詰めにした2018年度の発行物。※Tokyo Art Research Labの資料一覧ページからすべての発行物をご覧いただけます。

それにしてもなぜ、アートプロジェクトでは本をつくることを大切にするのでしょうか?

今回のイントロダクションでは、アーツカウンシル東京のプログラムオフィサー・坂本有理が、アートプロジェクトと本の関係を解説しました。坂本いわく、発行物ごとに異なるものの、以下のいずれか(もしくは複数)の目的や役割を持つことが多いといいます。

1)プロジェクトを言語化・価値化するため

自分たちの活動を言葉にし、価値を確かめる。どんな表現の仕方で活動紹介をするかということも本づくりの過程で見つけられる。

2)プロジェクトを残すため

アートプロジェクトの多くは、物質的な形に残りがたいもの。何が起きて、誰が関わり、どんな発見があったのか、プロセスをみずから残す手段のひとつとして。

3)プロジェクトをひろげていくため

「こういうことやっています」と手渡せる本をつくることで、活動をひろめ、仲間やサポーターを増やすアクションにつなげる。

4)プロジェクトの「報告」「評価」「検証」のため

アートプロジェクトの運営サイクルは「準備/実施/報告/評価検証」。企画の実施だけでなく振り返りも大切な活動で、そのために調査レポートや報告書をつくる場合も。

5)本づくりのプロセスそのものをプロジェクトにするため

本をつくるためには多様な人と関わり、言葉を紡ぎ、構造をつくっていくことが必要。広報や記録のためだけでなく、本づくりそのものをアートプロジェクトだと位置づけるような試みもある。

アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー・坂本有理。Tokyo Art Research Lab「思考と技術と対話の学校」校長として、学びに関する本を制作したり、 東京アートポイント計画で各プロジェクト事務局の活動に伴走している。

もちろん、上記のような目的は、印刷物ではなくウェブサイトなどのデジタルメディアでも実現できます。

それでも東京アートポイント計画で本を選ぶことが多い理由を坂本は、「物質として長い時間残りやすいし、形態のバリエーションが多くて楽しみもある。実際に手にとって自分のものとして手渡せることもアートプロジェクト向きなのかも知れません」と紐解きました。

一方で、本には「不得意なこと」も沢山あります。例えば、つい情報量が多くなること、物理的に嵩張ってしまうこと、フィードバックやリアクションがとりにくいこと、コストがかかること。そして発行数が限られるということ。

「いずれにしろ、なぜ本で、何のために、誰に向けて、どうやって、誰と一緒につくり、どんな形で届けて配るのか。そういう“基本設計”がとても大切です」と坂本は締めました。

■ 本づくりの専門家・川村庸子さんに「編集の仕事」を訊く

本の制作意義を確認した後は、より具体的なトピックへ。今回は、アートプロジェクトをはじめ、さまざまな領域で書籍や広報誌などを手掛ける編集者・川村庸子さんにゲストとしてお越しいただきました。

今回、川村さんをお招きした理由は、参加団体に「編集」という仕事や働きについて、改めて思いを馳せてほしかったから。情報をデザインに落とし込んで印刷・製本すれば「本」になるわけではありません。坂本が言う「基本設計」でもあり、本づくりの核心である「編集」についてお話いただきました。

編集者・川村庸子さん。東京アートポイント計画では、『これからの文化を「10年単位」で語るために ― 東京アートポイント計画 2009-2018 ―』や、「Art Support Tohoku-Tokyo」のジャーナル『FIELD RECORDING』シリーズなどを手掛けている。オルタナティブスペースやプロジェクトの企画・運営をしていた経験も。詳しいプロフィールと関連制作物はこちらのページから。

「記録やアーカイブ、コミュニケーションは大事ですが、私はやっぱり組織やプロジェクトの活動そのものが最も大切だと考えています。本づくりによってメインの活動が妨げられたり、いい相互作用が生じたりしないのであれば、つくらなくていいんじゃないかと思うくらい」

そう話はじめた川村さんは、つくろうとする本とそのつくり方が、プロジェクトの内と外に対してどのような機能や作用をもつのか、人との関係性や物事の循環をまずしっかり考えるべきだと言います。

今回のプレゼンテーションでは、本づくりの手順を明かしつつ、「目的/対象/方法/構造」の4項目を軸に事例を解説。ひとつひとつの記事や並び順、取材方法に至るまでそれぞれ明確な意図があり、一冊のなかに隅々まで設計思想が織り込まれているということを確認しました。

川村さんが提示した「一冊の本ができるまで」。素材や進行管理の仕事だと誤解されがちな「編集」だが、川村さんは(1)の「からだをつくる」(リサーチ、フィールドワーク)にしっかり時間をかけるという。それは「プロジェクトに出合う」「お互いを知る」ための大切なプロセス。その後、(5)(6)(7)のプロセスは行き来しながら進めて「物としての強度を高めていく」とのこと。
事例のひとつとして取り上げられた本『これからの文化を「10年単位」で語るために ― 東京アートポイント計画 2009-2018 ―』の中ページ。1年かけてリサーチを重ね、1年かけて制作した。目的として設定したのは「プログラムオフィサーの〈知見〉を言語化し、〈中間支援〉を価値化する」こと。中間支援領域で奮闘している人や行政職員を対象に、事例とプロセスを重視し、当事者が最前線をレポートする方法をとった。10年間やったことを記念するのではなく、これから10年先の文化をつくるために必要な要素を濃密にまとめた。

■ 実践共有1:市民から集めたスナップ写真と記憶を収めたプロジェクトブック『はな子のいる風景』

さてここからは、参加団体による実践発表です。実際に発行した本を取り上げ、なぜ、どのように、誰とつくったものなのかを共有しました。

『はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』(2017年、企画:AHA! [Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]、取材・編集・執筆・構成:松本篤、発行:武蔵野市立吉祥寺美術館)

トップバッターは、今年度スタートしたアートプロジェクト「GAYA|移動する中心」(以下、「GAYA」)からNPO法人 記録と表現とメディアのための組織(remo)の松本篤さんにお話しいただきました。

GAYAは活動をはじめたばかりですが、団体としては記憶と記録を扱う活動「AHA! [Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]」を長年展開されています。そのなかでも、井の頭自然文化園で飼育され、2016年に亡くなった象のはな子の記録を扱ったプロジェクトブック『はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』を紹介いただきました。

制作背景やそのプロセスについては、松本さんが書かれた記事で詳しく解説されていますが、この本がユニークな点は69年生きたアジア象のはな子と一緒に写ったスナップ写真を一般から募り、収録していること。また、その写真にまつわるエピソードを別の小さな冊子に収め、2冊1セットのプロジェクトブックとして発行しているところです。

NPO法人 記録と表現とメディアのための組織(remo)松本篤さん。個人の記録と記憶に関わるプロジェクト「AHA! [Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]」を各地で展開している。「GAYA」では、世田谷区で収集した8mmフィルムをひとつの題材に、多様な人の記憶を編み集めるプログラムを実施中。

「写真集では、いろんな写真によって、はな子の歩みをたどれる。一方、小冊子では、はな子によって、いろんな人の歩みをたどれる。つまりダブルコンセプトになっていて、視点を行ったり来たりする構造なんです」

写真やエピソードを集めながら、プロジェクトで得た感覚をいかに本の形に実現するか考えたという松本さん。「こういうものをつくることによって、ささやかな人々の記録を価値化できるんじゃないかと思ったんです」と振り返りました。

プロジェクトをそのまま具現化したような本。巧みなページ構成や分冊という仕組みによって、イメージとエピソードの距離、時間の流れまで設計したという、とても緻密な実践を伺うことができました。

■ 実践共有2:企画者の手記で構成したドキュメントブック『10年を伝えるための101日』

10年を伝えるための101日 「東京アートポイント計画 ことばと本の展覧会」ドキュメントレポート』(2019年、執筆:大内伸輔、発行:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京)

続いての発表は、2019年3月に開催された 「東京アートポイント計画 ことばと本の展覧会」の記録冊子について。『10年を伝えるための101日 』と題したこの本には、展覧会の企画統括を務めたアーツカウンシル東京のプログラムオフィサー・大内伸輔の手記と、展覧会の記録写真が掲載されています。

企画・編集・構成を務めたのは、きてん企画室の中田一会。「企画の仕事はしていますが、実は本ってとても難しい制作物で苦手意識があった」と言います。ただ、展覧会そのものの制作に関わっていて、急遽つくることになったドキュメントブックは自分ぐらいしか担当できないから……と、消極的な理由で引き受けたそう。

悩みながらも「残すべき価値は何か?」という問いかけを繰り返し、たどり着いた答えは「10年分の事業を伝えるという展覧会づくりの試行錯誤そのもの」。そこで大内に依頼し、後追いで企画者日記的な手記文を書いてもらうことに。プレゼンテーションのなかでは、手記を執筆するための日程表、企画を通すためのサンプル原稿、悩みながら更新しつづけた台割、内輪ウケにならないための注釈テキストなど、具体的な資料が共有されました。

きてん企画室・中田一会(写真左)。ジムジム会の企画運営などレクチャー設計の業務も務めるが、広報コミュニケーションに関するメディアやコンテンツの企画制作も手掛けている。

「本来は文化事業の裏方であるプログラムオフィサーが、どんなことを考え、何につまずきながら展覧会をつくったのか。そのプロセスは残す価値があると考えました。それに大内さんは文章が上手なのは知っていたので、大変だろうけれどいい形になる予感はしていました」と中田。

一方、執筆した大内は、「完成した本を普段から持ち歩いていて、名刺代わりに会った人に配っています。執筆作業は、自分のやっていたことの価値化・見つめ直しになりました」とのこと。

手にした人からは「考え方の引き継ぎ方法のヒントになりました」「帰りの電車で手軽に読めて面白かった」などの反応が寄せられているそう。オーソドックスな型がある記録集も、工夫次第でコミュニケーションツールになる手応えが共有されました。

■ 実践共有3:ボランティアスタッフがつくるプロジェクト報告書『TERATOTERA DOCUMENT』

TERATOTERA DOCUMENT 2018』(2019年、発行:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京)

最後の発表は、JR中央線の高円寺・吉祥寺・国分寺という“3つの寺”をつなぐ周辺地域で展開しているアートプロジェクト「TERATOTERA(テラトテラ)」のドキュメントブックについて。当日出席できなかった事務局の高村瑞世さんからの報告を代読する形で共有しました。

TERATOTERAの特徴は、「TERATOTERA祭り」や「駅伝芸術祭」など、まちなかでのアートプログラムの企画運営やアーティストとのコミュニケーションを、「TERACCO(テラッコ)」と呼ばれるボランティアが直接的に担っていること。

毎年発行しているドキュメントブック『TERATOTERA DOCUMENT』の企画制作を務めるのももちろんテラッコです。元新聞記者のテラッコが編集長を務め、文字起こしやライティング、デザイナーとのコミュニケーションも他のテラッコが分業。事務局スタッフは、進行管理や最終確認のみを担当しています。発行後はテラッコ自身が積極的に配布しつつ、次年度の会場交渉などにも活用しているとのこと。

一方で「幅広い層のテラッコがそれぞれ文章を書くため、内容と品質にバラツキがある」ことがひとつの悩みだそう。その問題を解消すべく、編集長による執筆講座を年初に実施したという報告が寄せられました。「みんなでつくる本」は、アートプロジェクトの関係性を豊かにしてくれます。その方法ももっと開発していきたいですね。

勉強会の最後に「今後、プロジェクトで冊子をつくってみたい団体は?」と聞くと、全チームが手を挙げた。どんな本が生まれるのか、どんなつくりかたをしていくのか新たな挑戦がはじまりそう。

■ 全5回のジムジム会が終了! 何を学んだ?

ウェブサイト、定期レター、NPO広報、SNS、本……さまざまな「届けかた・つなぎかた」の実践を共有し、ともに悩んだ2019年度のジムジム会。

それぞれの活動も忙しいなかで、毎月1回、平日の朝から2時間みっちりの勉強会を重ねてきました。「ちょっとスパルタ設計だったかも」とジムジム会企画運営チームは心配していましたが、最終回にはとても熱い感想をいただきました。

最後に感想を共有して終わります。プロジェクトの現場を支える事務に終わりはありません。これからも筋トレを続けていきましょう!

*ジムジム会で学んだこと(参加団体のアンケートから一部抜粋)

プロジェクトごとにさまざまな伝えかた・届けかたの工夫があるのだなと見えたのがまず良かったです。

これから仲間や、応援してくれる人を増やすためにも、もう一度このプロジェクトは何か、地域はどんな場所なのか、自分の団体とは何か、自信のないことや、ゆらいでいることをチームできちんと話し合いたいと思いました。

どの団体もはじめからベストのものができていたり、完璧なのではなく、運営していくなかで実態に合ったものになったり、形式が変わったり、また、さまざまなもやもやのなかからモノを作り出していたり、悩みながら考えながらプロジェクトが進んでいることが分かりました。勉強になったり、参考になったのはもちろんですが、「悩みながら生み出しているのは自分たちだけではないのか!」ということが分かって安心しました。

日々の業務に追われ、その業務の意味というのを実際はあまり考えず遂行している面があるなと思いました。一度立ち止まり頭を柔らかくしてその業務の意味を見直すと新たな形や変化させた方がいい点が出てきそうと感じとても刺激を受けました。

事務局の存在する意義、立場を学ぶジムジム会でした。

「PR(Public Relations)=関係性の構築・維持のマネジメント」という基本に立ち返る機会をいただきました。例えば事務局や学生との連絡において自分が名前のつかない心がけ(?)のようなものとして不十分ながらも一所懸命していることも、事務局内(をつなぐ)広報(役としての仕事)でもあったのかもしれないと、捉えることができました。

自分たちのプロジェクトはなかなか人に伝えづらいという課題がある。でも、ジムジム会で発表の機会をもらったことで、実際にプロジェクトを運営する人たちからのフィードバックがあったことは自信につながった。

ステークホルダーとその関係性を可視化して、的確な順序で巻き込んでいくことは、資金集めだけでなく広報やブランディングを波及させる道筋を立てていくための道標になります。それを改めて整理し直す必要があると感じました。

最後に、これから「届けかた・つなぎかた」で頑張っていきたいことを宣言しました。“一層ムキムキ”を目指しましょう!

ゆるやかに混ざり合う社会はどう生まれる?―「違い」を「出会い」に変換する

開催日:2020年2月12日(水)
ゲスト:徳永智子(筑波大学人間系教育学域助教)横堀ふみ(NPO法人DANCE BOX プログラムディレクター)
モデレーター:上地里佳(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

「いまの社会で、これからの実践を立ち上げるための新たな視座を獲得する対話シリーズ」として全4回にわたってひらかれる対話の場「ディスカッション」。2019年度は、アーツカウンシル東京プログラムオフィサーの上地里佳が企画・モデレーターを務め、「これからの東京を考えるための回路をつくること」を試みます。
第3回(令和2年2月12日)のテーマは、「『違い』を『出会い』に変換する」。ゲストは、多文化の居場所づくりの研究・実践を重ねる教育社会学者の徳永智子さん、劇場Art Theater dB神戸を拠点に多文化をかけ合わせながらパフォーマンスや企画制作に取り組むNPO法人DANCE BOX プログラムディレクターの横堀ふみさんのお二人です。

「普段すれ違う人々のなかに、いろんなルーツを持つ人がいて、私たちがアートプロジェクトを行う際にも移民の方や海外ルーツの方と協働する機会が増えてきています。そして、私の地元であり、ゆくゆくは拠点を移す予定である沖縄県宮古島でも、近年のリゾート開発が進むにつれて海外からの労働者流入が起こっています。彼(彼女)らと、どのように出会い、よりよい暮らしや価値観を育んでいくことができるのかについて関心があります」(上地)

モデレーターの上地による、ディスカッションにあたってのきっかけが語られたあと、ゲストのお二人の活動をおさらいしながら、多様な文化が同居する社会における「違い」と「出会い」について考えました。

場所や領域を越境して考える:徳永智子

筑波大学人間系教育学域の助教である徳永智子さん。「教育社会学」を専門分野に置き、移民の若者たちにとっての居場所づくりを考え、実践を重ねてこられました。ご自身の育った場所も、日本、アメリカ、インドネシアにまたがり、研究分野においても学際的に学びを深め、「場所や領域を行き来しながら」活動されています。かねてから多文化共生を考える徳永さんは、いまの日本はひとつの転換期を迎えていると言います。

「最初に、日本はすでに多文化社会です。外国人を日本に受け入れるか、受け入れないかという議論を聞くことがありますが、80年代に多くのアジアの女性たちが来日したことからはじまり、日本には多文化社会の歴史がかたちづくられています。さらに、去年の4月には改正出入国管理法が施行され、正面から外国人労働者を受け入れる体制になりました。新たな法の施行に伴い、いままさに『多文化共生』が重要になってきていると思います」(徳永)

徳永さんが大学で受け持つ「越境と日本社会」に関する授業の受講者の多くは多様なルーツを持つ学生たち。一方的に語る講義ではなく、ともに考え議論する場づくりを行い、そのなかで徳永さんが培った「多文化・多言語」との向き合い方について語ってくれた。

海外からの労働者の受け入れを拡大する法案は施行されたものの、外国人児童の教育環境整備など、生活者としてサポートするという点において、現段階では多くの課題が残っています。どういうふうに外国人との暮らしをつくっていくのか、転換期のいまこそ考えていく必要があります。

「ただ、これらの問題を考えるのは、マジョリティである日本人だけではだめなんです。日本人が外国人をどう支援するかではなく、共生の難しさも含めて、一緒に考えて実践すること、対等な目線で議論して『多文化共生』を実現していく必要があります。今日のディスカッションで私がキーワードとして考えたのは、『越境』と『出会い』。これらが、多文化における『共生』につながるのではないかと思います」(徳永)

1999年より舞台芸術制作者として「NPO法人DANCE BOX」に務め、さまざまな舞台公演をプロデュースしてきた横堀ふみさん。拠点を置く神戸市長田区は、市内でも高齢化率、空き家率が高い、課題先進地域と言われています。そして長田区のもうひとつの特徴は、その国際性。人口のおよそ1割弱が、ベトナムや韓国、フィリピンなど海外の地域をルーツとする移住者なのです。

「『DANCE BOX』が長田区で活動をはじめたばかりの頃、地域のリサーチやヒアリングをベースにプログラムを組み立てていきました。そして徐々に若いアーティストを受け入れられるような土壌をつくりながら、同時に、国際プログラムとして、アジアやアメリカ、ドイツなどからのアーティストと協働してプログラムを制作しています。ただ、あるとき、ふと気づいたことがありました。それは『国際って、海外の地域のことだけを指すの?』ということでした」(横堀)

「新長田で踊っている人に会いに行く」(NPO法人DANCE BOX、2010年)フィールドワークにて、老人ホームでの一幕。
横堀さんは、イベントの最後に、アリランや民謡が流れるなか、在日コリアンのおじいちゃんおばあちゃんが踊る姿を見て、
「こんなに美しい踊りがこの世にあるのか」と、感動したそう。

長田区には、各国の料理店・食材店、そしてコミュニティが形成され、多文化が深く根付いています。それならば、海外でなくとも長田区でこそ国際的なプログラムができるのではないかと思い直した横堀さんは、2014年から移住者や在日の方々と一緒につくるプログラムを進めることにしました。地道なリサーチやフィールドワークを積み重ねて2017年にできた舞台作品が、その名も「滲むライフ」。

「この作品は、在日コリアンが行う『チェサ』という故人を弔う儀式を舞台上で再現することと、新長田の日常のひとつの風景である『カラオケと踊りのある場』をつくる、そんな2部構成の作品でした。実際には、長い時間をかけて、在日コリアンのおじいちゃん、おばあちゃんとエクササイズして、話して、学んで、一緒に過ごして、作品をつくりあげていきました。そのときに強く実感したのは、ダンスは文化や料理を含めた、人の生活のいろんな要素と絡まり合いながら生まれてきたものなんだってこと。公演に来てくれたお客さんの様子を聞くなかで、どこか感情にふれる部分があったのかもしれません」(横堀)

対等な関係のままに話すこと

お二人の活動紹介を経て、ディスカッションの時間が続きます。横堀さんが行った「滲むライフ」の紹介を受けて、徳永さんから熱い感想が語られました。

―徳永智子(以下、T):横堀さんの話を聞いて、私も「滲むライフ」の公演の場にいたかったなと思いました。在日コリアンのおじいちゃんやおばあちゃん、その孫や、友達に連れてこられた人、たまたまそこに居合わせた人、いろんな人が同じようにパフォーマンスを共有できる場だったのだろうなと想像します。もしかして、多文化共生には関心なかったけど、来てみたらすごく感動して涙が出てきた、というような人もいたのかもしれませんよね。

―上地(以下、U):私も横堀さんと同じようにアートプロジェクトに従事する者として、地域へ根気強くアプローチする姿勢に感銘を受けました。積み重ねてきた地道なアプローチが、ちゃんと舞台に表れていますよね。この2年後に行った「多国籍カラオケ大会」でも、涙した人が多かったと聞きました。

―横堀ふみ(以下、Y):「多国籍カラオケ大会」は、私の念願の企画なんです。2014年の事業で、最初は、ベトナム人の方々と演劇をつくりたいと思って走り出したのですが、気づけばカラオケ大会になっていたという企画がありました(笑)。でもこのかたちになって良かったなと思います。ベトナムコミュニティのレストランに行くと、みんなカラオケが好きで歌っているんです。だから、「多国籍カラオケ大会」のときにも「自分の大好きな歌を歌ってください、できれば故郷の歌が聞きたいです」というお願いをしていました。なかには、故郷の歌は歌いたくない人や「日本の歌が歌いたい」という人もいましたが、それはそれでOK。あと、これまでこの地域を引っ張ってきたおっちゃんたちにも出てもらいました。そして、司会は長田区の多文化の歴史を知り尽くしているプロフェッショナルの方にお願いして、歌っている方のそれぞれの背景や、どんな思いで生活しているのか、自然に引き出してもらいました。上手い下手は関係なく、しみじみ良かったですね。染み入るものがありました。

―T:これは、すごく学びの多い事例だと思います。よくNPO団体などの多文化共生の取り組みを聞くと、外国人が消費されてしまう現実があるんです。例えば、「『多国籍カラオケ大会』やるから、外国語で歌って!」みたいなお願いをしてしまって、結局外国人が歌わされて、それを日本人が聞くという妙な上下関係の構造が生まれる。対等な関係をつくり、優劣をつくらないように気をつけていても、そのようなことが起きてしまうのです。横堀さんの話からは、そういうものを微塵も感じさせませんよね。

―Y:どんなプロジェクトでもそうですが、主催する側は力関係におけるパワーを持つ立場にありますよね。対等な関係を決して崩さないために、その前提に自覚的であることは、常に心がけています。

―U:今回伺ったプロジェクトは、演者、観客、支援者、制作者といった役割があいまいになるようなプログラムをつくっていますが、舞台美術からもそのポリシーが伝わってきました。舞台と客席が地続きになっている会場の仕立てが、それぞれの境界をゆるやかにして、対等な関係をつくる意識にもつながっているようです。

想像して、異文化へと歩み寄る

ディスカッションの後半は、参加者からの質問に答えながら進行していきます。とりわけ対話が白熱したのは、多文化共生を考えるうえで「マジョリティ」にどう開くべきか、という問題です。多様なルーツを持つ、いわゆる「マイノリティ」と言われる人たちが日本社会のマジョリティから独立して自由になりたいという思いと、保守的なマジョリティにも理解を広げるためにはお互いが歩み寄る必要がある、というジレンマがあるのです。

―T:例えば、私が主催しているマイノリティの人たちが集まっている交流の場を、外に開いてしまっていいものかと頭を悩ませることがあります。同じ文化、言語、経験を共有している人が集まるからこそ安心していられる場所があるとすると、そこにいろんな人を招き入れてしまえば、その瞬間にそこは居心地のいい場所ではなくなってしまう可能性があります。けれど、いろんな人が交流できる居場所があったほうがいいってなったとき、その線引きはすごく難しい。

―Y:私も、その線引きはすごく大事だなと思います。長田区のおばあちゃんのもとへ話を聞きに行くときは、できる限り少人数のスタッフで行くようにしました。最終的には開いたかたちのプログラムにしますが、プロセスの段階では、どこまで開くか、閉じるか、というところにはすごく気を遣います。

―T:いまひとつ思っているのは、いろんな居場所を持っていたほうがいいなということです。あるときは、同じような人が集まるインフォーマルなサポートの場。あるときは、マジョリティと呼ばれる人がいて緊張感のある場。そこは一見ネガティブなようだけど、難しい議論もできるかもしれないし、次の居場所につながるきっかけが生まれるかもしれない。これまでつくってきた交流の場をいつ開いて、閉ざせばいいのかというのは、こういった実践を行ううえで、大事な問いだと思います。

多文化共生の下地をきちんとつくるために、マジョリティと多様なルーツを持つ人との出会い方についても、試行錯誤があるようです。ただ、そのうえで徳永さんは、すでに日常のなかで私たちは「混じり合っている」とも話します。

―T:授業やプログラムよりもっと日常的な場所、例えばスーパーやコンビニ、銭湯など、日常生活のなかには多様なルーツの人と混じり合っている場所はたくさんあります。けれど、そのときは何も考えず通り過ぎていくことが多いです。コンビニで働いている人の背景まではなかなか考えないものですが、そこで一歩先の想像力を膨らませてみる。共感はできないかもしれないけど、想像して、その人に歩み寄ることがとても大事だと思います。例えば今日、これから帰る途中に「そういえばこんな人と出会っていたな」と気づくかもしれません。日常世界にもっと目を凝らせば、ヒントはそこかしこにあります。

多文化共生をもたらすもの

日本における移民や外国人労働者にまつわる情報はメディアを通じて入手できますが、いまいち実感を持って理解できていないということが往々にしてあります。徳永さんの授業の受講生は、実習のなかで定時制高校へ赴き、交流した際に「すごく可哀想な生徒だと思っていたから、あんなにポジティブで元気だと思わなかった」と驚いたそうです。そういった機会を得てはじめて「出会う」ことができるように感じますが、かねてから多文化社会である日本で、私たちは多様なルーツの人とすでに出会っているはずです。必要なのは、日常生活ですれ違う異文化の人々に気づき、想像して、「出会い直す」こと。それが多文化社会を実現するために個人ができる最初のステップなのだと教わりました。

多様なルーツを持つ人に対して「受け入れる/受け入れられる」という二項対立から抜け出し、いかに一人の人間として出会うことができるか。自らの偏見を取り払い、常に想像力を働かせながら日々の生活を送ることができたのなら、個人としての成長にもつながるのではないか。ひいては、「多文化」に限らず、同じ文化の同じ世代・異なる世代とのより良い共生にも作用するのではないかと思いました。

執筆:浅見 旬
撮影:齋藤 彰英
運営:NPO法人Art Bridge Institute

誰と暮らす? どう住まう?―これからの「家族」のカタチを考える

開催日:2020年2月5日(水)
ゲスト:首藤義敬(株式会社Happy 代表取締役)いわさわたかし(岩沢兄弟/有限会社バッタネイション 取締役)
モデレーター:上地里佳(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

「いまの社会で、これからの実践を立ち上げるための新たな視座を獲得する対話シリーズ」として全4回にわたってひらかれる対話の場「ディスカッション」。各回にそれぞれテーマを設け、独自の切り口や表現でさまざまな実践に取り組むゲストを迎えながら「これからの東京を考えるための回路をつくること」を試みます。
第2回のテーマは、「これからの『家族』のカタチを考える」。多世代型介護サービス付きシェアハウス「はっぴーの家ろっけん」など、型にはまらないユニークな場所づくりを展開する・首藤義敬さんと、空間デザインユニット「岩沢兄弟」で空間づくりを通したコミュニケーションデザイン・プランニングを行ういわさわたかしさんのお二人をゲストに迎えます。

「今回のディスカッションでは、家族に関わる試行や実践を重ねているお二人のゲストをお招きし、さまざまな“家族のカタチ”について考えていきたいと思います。お二人の活動は「家族」を閉じたかたちではなく、地域にひらこうと試みながら、関係性や場所を築いているのも特徴です。そこから、アートプロジェクトにおけるコミュニティや拠点形成のあり方とも重ねながら、お話を伺っていきたいと思います」(上地)

モデレーターの上地から、今回のテーマにあたっての想いが語られた後、それぞれの活動を共有しながら、これからの「家族」のカタチと、コミュニティ形成のあり方について、考えました。

「共存」できる環境をつくる:首藤義敬

首藤さんが運営する兵庫県神戸市の介護付き高齢者シェアハウス「はっぴーの家ろっけん」(以下、はっぴーの家)は、従来の介護施設とは違う、一風変わった形態が特徴です。看板のない6階建ての建物には約30名の高齢者が入居し、施設の1階にあるリビングスペースは入居している・していないに関わらず誰もが出入り自由。集う人たちは、認知症の高齢者から外国人、地元の子供たちにノマドワーカーまで、年齢も職種も国籍もバラバラ。入居者の親戚というわけでもなく、さまざまな背景を持った人々が1週間に約200人以上も訪れるといいます。

彼らは一体何を求めて、この場所に集うのでしょうか。「『はっぴーの家』に特別なルールはなく、集まる人たちはみんな思い思いの時間を過ごしています。誰も否定されずゆるやかに関係し合う環境下で、いろんな化学反応が起きるので、自然とみんなの『居場所』になっていくんです」と首藤さんは説明します。

「“介護付き高齢者向けシェアハウス”としていますが、社会のためや高齢者のためにこの場所をつくったわけではないんです。もともとは自分たち夫婦が子育てに対する不安を抱えている最中、祖父母の介護も重なり、家族にとって一番良い教育や介護の環境はどんな世界なのか、改めて考えるようになったことがきっかけ。そこで生じた課題を解決するための場所として『はっぴーの家』をつくりました。自分たちにとって心地良い場所をつくれば、それに共感する人もきっといるはず。自分の『エゴを社会化』したんです」(首藤)

自社のWEBや広告を一切出さず、口コミやメディア取材のみで認知されていった「はっぴーの家」。
この環境の近くで子育てをしたいと、東京から移住してきた方もいるそう。

施設ではみんながバラバラな背景を抱えているがゆえに、衝突も頻繁に起こるそう。けれど、「無理に誰かを矯正しようとするのではなく、その人がその人のまま存在でき、共存できる環境をつくることが仕事」と首藤さん。

「ここで実践しているのは、『日常の登場人物を増やす』こと。みんながゆるくつながれば、もっと生きやすくなるのでは?という思いでやっています。『遠くのシンセキより近くのタニン』という概念のもとに、たとえ他人であっても近くの人たちのコミュニティが豊かであれば、いろんな世代が暮らしやすくなるのではないかなと。限定的な家族観だけでなく、こうした選択肢を増やすためにこの場所を運営しているんです」(首藤)

「役割」が固定されない関係:いわさわたかし

空間や家具・什器から映像、コミュニケーション設計まで、地域やコミュニティに根付いた幅広いクリエイティブ制作を手がける兄弟ユニット「岩沢兄弟」 で活動するいわさわたかしさん。アーツカウンシル東京主催の「HAPPY TURN/神津島」でも、プロジェクトの活動拠点となる空間づくりを担当(詳細はこちら)。「空き家となっていた場所だったので、そこに住んでいた方の“家への想い”を想像し、『丁寧に壊す』ということを意識しながら改装を進めていった」と神津島でのプロジェクトを振り返ります。

そんないわさわさんは近年、自身の空間デザインのスキルを生かして、祖母宅の改装を手がけたそう。そこで「家族」という関係性に改めて目を向け、さまざまな想いを巡らせたと話します。

「千葉にある実家の建て替えを機に、数年前から、祖母と両親、私と妻、子供の一家で変則的な同居生活を行っています。実家を離れて20年以上経っていたこともあり、そこで自分の知らない間に両親や祖母の老いが思いのほか進んでいることに気づいたんです。定年で退職した父は一日中テレビを見ている状況で、家族間のコミュニケーションの課題について向き合う必要が出てきました」(いわさわ)

そうした課題を抱えながら生活を続けるうちに、祖母が骨折。介護が必要となり、実家から斜め向いの祖母宅に母親が住むようになってからは、テレビ漬けだった父の孤立がますます加速したといいます。そこからいわさわさんは、これまで積み重ねてきた課題を解消するためにも、祖母宅をみんなが集える場所にしようと、改装を実施しました。

改装した祖母宅の間取り。父親が孤立せずにテレビを見ることができるスペースをつくったり、壁にデジタルサイネージを設置して家族写真を流したりと、コミュニケーションを促す工夫を各所に施したそう。

「部屋の間仕切り壁をとってリビングを広くし、いろんな人が集えるように可能な限りオープンな空間にしました。キッチン・食事スペースのそばに祖母の介護ベッドを置き、父のテレビ空間も同居させたことで、場所のあり方が多様になった。すると、祖母が自分の意思で積極的に動き、自由な振る舞いをするようになったんです。家族間でも『役割はあるけれど、固定されない』という柔軟な関係ができ、居心地良く過ごせるようになった気がします。そうした環境を保てるように、日々意識していますね」(いわさわ)

改装後の生活では、家にお客さんを呼んで一緒に食事をとることも多くあるそうで、家族以外の人とも交流が生まれる状況を、ゆるやかに展開しているといいます。

「けれど、父の孤立はまだ解消されず……その膜をゆっくりとはがしていくような日々ですね。次は家のなかに子供向けの美術教室などを設けて、父が子供たちとの関わりに自然に巻き込まれるような状況をつくろうと構想中です」(いわさわ)

「家族」のなかに、他者を介入させる

それぞれの活動紹介を経て、ディスカッションへと移ります。まず、上地が話題に挙げたのは、“さまざまな人が集える場”というお二人の空間設定における特徴から、「『家族』という構成に他者を介入させる」ことについて。そこには、どのような狙いがあったのでしょうか。

―いわさわさん(以下、I):そもそもは父親の孤立を防ぐため、というのが大前提にありますが、一方で自分への負荷を軽くしたい、という想いからそうした状況を生み出すようにしています。というのも、家族のこととなると、自分のなかで重く捉えないようにしても常にどこか引っかかるものがあり、語りづらくもなる。けれど、家のなかに家族以外の他者も関われるようなひらかれた環境があると、少しずつ視点を広げられるんです。そこから見えてくるものもあるんじゃないかなと。

―首藤さん(以下、S):僕たち家族も「はっぴーの家」でいろんな人との交流が増えたことは、とても良かったです。僕も奥さんも自営業なので、子供と接する時間を多くは捻出できない。けれど、この家に集まる人たちと一緒に食事をしたり、遊びに行ったりと、いつのまにか自分の知らないところで子供の交友関係が広がっていたんです。自分たちだけで子育てを背負わなくても良いんだと思えて、楽になりました。

個人的な「家族」だったものが、他者を介入させることでかたちを変え、ひらかれた関係性になっていく。外に小さな関係をいくつも編み出せる環境が心を軽くしたと、お二人は話します。そうした話を受け、モデレーターの上地からはこんな意見も語られました。

―上地(以下、U):「家族」という関係性のなかでは、お互いにとって大切なことをどこか共有しづらい状態があるような気がします。私自身も、普段の自分が抱えている価値観のまま家族と話をするのは、難しく感じてしまう。そういうときにも“他者を介在させる”ことによって、解決できることがあるように思いました。

首藤さんは、そういった家族間におけるコミュニケーションの不自由さを「お互い過ごした時間が一番濃密な記憶のなかで、そのまま時間や関係が止まっているから」だと説明し、こう続けます。

―S:たとえば認知症の母親を介護する子供は、いま現在の自分が母親の世話をしている感覚になるけれど、母親にとってはいつまでも自分の子供だという認識なんです。だから、コミュニケーションが噛み合わないことも出てくる。感情と背景がぶつかって、冷静になれないこともあります。その意味で、僕は「家族」が一番難しい関係性だといつも感じているんです。

「余白」がもたらすもの

ディスカッションの後半は、参加者からの質問をもとに進行。「『場所』や『空間』を立ち上げるときに、大切にしていることは?」という質問を受け、「コミュニティづくり」に対するお二人の認識について意見が交わされます。

―I:こうした話をする際、よく「コミュニティデザイン」という言葉で語られることが多くありますが、僕のなかでは「場」も「コミュニティ」も、それ自体を自分たちがデザインできるとは考えていなくて。もっと、その手前にある課題を表出させ、共有することにデザインの役割があると思っています。その先のことは私たちでなく、みんながつくっていけるように橋渡しができれば良い。その一歩手前の部分を整えることを大事にしています。

―S:すごく共感します。僕にとって「コミュニティ」は“現象”なので、最終的な結果でしかない。よく若者から「コミュニティをつくりたい!」と相談を受けることがありますが、最初から「コミュニティづくり」が目的にあってもダメなんです。そうではなく、その前段階にある、“価値”のデザインをすることが大切。訪れた人たちが、その場所に価値を感じて集うようになれば、「コミュニティ」は勝手にできていく。とてもシンプルな仕組みなんです。

場所そのものの価値を育てていくのは、あくまでもそこに集う人々。その前段のところでいかに丁寧に課題を探り、集いたくなる魅力を注げるかが重要だといいます。そしてその魅力は、役割を固定しない「余白」から生まれるものだと、お二人は続けます。

―I:場所に決まった役割や枠組みをつくってしまうと、「こうあるべき」という理想や正しさが押し付けられるような価値観が持ち込まれてしまうんです。そこに縛られすぎると不自由になる。だから、意味や役割を固定しない、ということは意識しています。

―U:岩沢兄弟が手がけられた「HAPPY TURN/神津島」のプロジェクトも、最初から何をする場所なのか定めないまま拠点づくりが進められていましたよね。けれど、そのように役割を定めなかったからこそ、多彩な場の使われ方が展開され、魅力ある場所が生まれています。

―S:「はっぴーの家」が看板を掲げていないのも、100人いたら100通りの使い方をしてもらえれば良いと思っているから。訪れる人たちも、肩書や役割を気にせず「お互いがお互いにどうでもいい」というゆるい関係が心地良いそう。いわさわさんの家族のエピソードでも語られた「役割はあるけど固定しない」という表現は、場所にも人にも通ずるキーワードで、まさに真理だなと思いました。

枠組みをとかしていく

「家族」について考えるとき、そこには老いや介護、育児や住まいなど、さまざまな課題がついてまわります。さらに社会の状況や生活環境も変化していくなかで、私たちはそれらの課題とどのように向き合い、どんな視点のもと、「家族」との関係を見つめることができるのでしょうか。
首藤さん、いわさわさんの実践を紐解いていくと、家族やコミュニティ、場所などに対するアプローチは、いずれも「他者を介入させる」「固定しない」といった、ある枠組みをゆるやかにほどき、溶かしていくような方法にたどりつきます。そうすることで、これまで抱えていた課題が自分だけの固有のものではなくなり、他者に共有され外にひらかれていく。縛られていた枠組みから解かれて、自由に振る舞うことができる。「こうあるべき」「こうでないといけない」と規定するのではなく、大切なのはそのとき、その状況に合わせて一番心地良い関係にかたちを変えていくこと。そうした視点を得ることで、「家族」という関係はいつでも更新しつづけることができるものなのかもしれません。今回のディスカッションで生まれた対話から、そんな可能性を感じることができる時間となりました。

執筆:花見堂直恵
撮影:齋藤 彰英
運営:NPO法人Art Bridge Institute

「患者」ではなく「仲間」。家庭医が対話から見つけたもの。(APM#09 後篇)

Artpoint Meeting #09 ―生きやすさの回路をひらく― レポート後篇

東京アートポイント計画のトークイベント「Artpoint Meeting」。その第9回が、2月9日、東京・原宿のTOT STUDIOで開催されました。

「生きやすさの回路をひらく」というテーマを掲げた今回のゲストは、谷中・根津・千駄木エリアで「谷根千まちばの健康プロジェクト(まちけん)」を展開する家庭医の孫大輔さんです。

「まちけん」の特徴は、対話から演劇、映画、落語まで、その活動に文化を積極的に取り込んでいるところ。メンバーの関心から立ち上がる多様な部活動は、立場や職業を超えた市民の等身大の交流を生み出し、また、孫さん自身も変えたと言います。

後篇は、来場者から寄せられた質疑応答を中心にお届けします。聞き手は、東京アートポイント計画のプログラムオフィサー、佐藤李青と嘉原妙です。

>>レポート前篇へ

自分が映画をつくるとは思っていなかった

佐藤:会場からもたくさんの質問が寄せられています。ここからはその質問にできるだけ答えていきましょう。まず、「まちけんを通して孫さんがまちから得たものは?」。

孫:いろいろあるんですけど、やっぱり一番大きいのは、まちというもの自体が人が生きるうえでとても重要な場所であると教えてくれたこと、ですかね。

佐藤:「まちけん」のメンバーはどんな方たちなのでしょうか?

孫:立場や職業はバラバラで、とても個性豊かですよ。「まちけん」には15人くらいのコアメンバーがいて、緩やかに関わる人まで含むと30人くらいのメンバーがいます。「まちけん」の前身は、2010年から始めた「みんくるカフェ」という医療職と市民の対話の場なのですが、その当時は主に医療従事者だけでやっていたんです。いまも看護師や薬剤師のメンバーもいますが、「まちけん」を始めてからはまちの人の割合が多くなりました。

たとえば、「みっちゃん」と呼ばれている50代の男性は、医療関係でも何でもなく、とある大手書店の会社員です。彼はいま僕よりも出席率が高く(笑)、一番活躍しています。

嘉原:「よく考えずに始めてしまって、笑うしかなかった経験はありますか?」という質問も来ています。

孫:ありますね。新しいことを始めるときは、継続性とか、先のことまで考えてしまいがちなんですけど、とりあえずやってみることも大事なのかなと思います。「まちけん」でも始めてみたはいいけれど、うまく回らず消えていった部活動があります。たとえば「まちけんダンス部」というのがあって、ブレイクダンスが得意な看護師が最近タップダンスを始めたというので部活にしたのですが、だんだん迷宮入りして終わってしまった(笑)。

でも、「まちけん」の部活動は、だいたいそんな感じで誰かが手を挙げ、月に一回などの頻度で試しにやってみるところから始まっています。僕自身、「まちけん」をやらなかったら経験しないようなことが多くありました。なかでも、先ほどの映画をつくるという破茶滅茶な経験はその代表ですね。もともと映画好きで、医者にならなければ何となく映画づくりに関わりたい思いはあったのですが、まさか自分が作品をつくるとは思いませんでした。

佐藤:「病院からまちに出たお医者さんというと、たとえば長野県の佐久病院の若月俊一先生(1910~2006年。農村に積極的に入り、住民と一体になった実践医療に取り組んだ)などがいますが、孫さんが影響を受けた人物は?」といった質問もありました。

孫:同じ分野のなかで影響を受けた方はあまりいません。むしろ、中学時代からの自分のヒーローであるジョン・レノンのように、ほかの領域の人からインスピレーションをもらうことが多いです。ジョンも、音楽家だけでなく社会活動も数多くした人ですよね。

あと、真面目なところではパウロ・フレイレ(1921~1997年)というブラジルの教育者がいるのですが、彼は地域に出ていき、文字の読み書きのできない人たちに教育を施したことで知られます。彼の活動は尊敬していて、自分の活動の遠い源流ではあると思います。

嘉原:「いま一番大事にしていることは?」。

孫:大事にしているのは、自分のスペースを確保すること。社会に触れる活動をするなかでは自分を安定させることが重要なので、自分を確保する時間は大事にしています。そして社会に出ていくときに大事なのは、一言で言えば仲間をつくることだと思います。

嘉原:いっぽう、仲間をつくるうえでは、お互いのことをよく知らない「はじめまして」の瞬間がありますよね。先ほどもあったのですが、孫さんは、それぞれの違いを認め合いながら共感の回路を見つける、「対話」という営みを重視している。そうしたなかで、初対面の人と関わる際に孫さんが注意していることとは何でしょうか?

孫:「相手のことをあなどらない」ということで、謙虚な姿勢は心がけています。それと同時に、相手の「その人らしさ」を引き出すうえでは、お互いに鎧を脱いでいくようなプロセスが大事だと思うんですね。「まちけん」のメンバーは、職場でどんな肩書きがある人でも、だんだん幼なじみのような関係性になってきました。そうした関係になるには、まず自分から鎧を脱がないといけない。そのオープンさはいつも意識しています。

「患者」ではなく「仲間」。家庭医が対話から見つけたもの

佐藤:孫さんは「家庭医」を名乗られていますが、その肩書きへのこだわりは?

孫:僕には「白衣を脱ぎたい」という意識があるんです。白衣にはもともと権威付けのために着られる側面があって、それが本当に必要なのかとずっと自問してきました。

「家庭医」は、英語では「general doctor」や「family doctor」と呼ばれます。この言葉の源流のひとつには、「family medicine(家庭医療)」という、人を家族のシステムのなかで捉える考え方があります。これは「まちけん」でやっているような、「人は社会的な関係のなかで健康になる」という考え方とも通じるので、その肩書きを使っているんです。

また、先ほども話しましたが、慢性疾患が中心の現在では、治療が病院だけでは完結しなくなったということもあります。今後、地域に継続的に入り込む家庭医のように、医療従事者が地域活動をすることはより自然なことになっていくと考えています。

佐藤:それとも関わると思うのですが、「医療の話にも関わらず、孫さんが『患者』という言葉を使わなかったのが印象的だった」という感想も届いています。

孫:普段は病院での診療もしているので、じつは自分のコミュニケーション活動の中心はいまも患者です。そこでもいろんな対話はするのですが、いっぽう、地域活動ではその言葉はあまり使わないようにしていて。というのも、メンバーには病気を持たれている方もいますが、「患者」と呼ぶことでそこにラベリングが生まれてしまうからです。コミュニティ活動においては、病気の有無に関わらず、みんなを「仲間」という視点で捉えたいんですね。親しい関係性が築けると、自然と患者と呼ばなくてもいいようになりました。

佐藤:そのとき、ご自身の活動を「文化的処方」と呼ぶのはなぜなのでしょうか? 先ほどの話だと、すでに言葉として広まっている「社会的処方」のなかにも文化活動という側面はありますよね。それと区別して、あらためて「文化的」と謳う理由は?

孫:じつは、「社会的処方」に対しては、従来から「ソーシャルワーカー」と呼ばれる方たちが担ってきたような役割を医療が取り込もうとしているという批判もあるんですね。なので、僕自身も、その潮流については全面的に賛同できない部分もあって……。

ただ、大きなムーブメントとしては、医療サイドが治療にあたり、社会的な資源に着目していこうという動きがある。そして、そうしたなかでは、まだまだ文化に対する関心は低いままなんです。とくに日本では、文化は部分的にしか取り入れられていない。僕自身は演劇をはじめ医療がもっと文化活動との関わりを持った方がいいと思っていて、そのつながりを強調したいために、あえて「文化的処方」という言葉を使っている面があります。

佐藤:その活動が広がるうえでは、ほかの地域との連携も重要になりますね。

孫:そうですね。情報や活動の方法はどんどん共有されるべきだと思います。

だけど、そのために僕が各地を飛び回るといったことは考えていなくて、「まちけん」のような活動をヒントに、各地域の活動がなされるのがいいと思うんです。ある活動に関わる人が多くなると、どうしても密度は薄まってしまうからです。僕は「こぢんまりとしたコミュニティ」ということを大事にしていて、顔が見える規模でやることが重要ではないかと思う。その各グループが緩やかにつながった状態が、理想だと思います。

佐藤:鳥取に移住されたあとの活動がますます楽しみになりますね。

孫:本当に自分でも未知の世界に飛び込む感じです。「未知100%」で、どうなるのかはわかりませんね。今回、鳥取大学の地域医療学の先生方とご縁があり、重要な活動ができそうなので移住を選んだのですが、ひとつやりたいと思っているのは、暮らしと活動を一体化していくことなんですね。自分の生き方の延長線で、地域活動をしていきたい。

「地域活動」を目的に住民と関わると、どこか「あざとさ」が出るじゃないですか。地域の人に話を聞いて、それを活動に活かす、というような。そんなことも考えず、生活の延長でまちの先輩や友人や仲間に関わりながら、活動を模索したい思いがあるんです。

佐藤:そこからまた、自然に新たな映画作品も生まれるかもしれませんね。

孫:そうですね。映画づくりの面白さは、作品として残ることもそうだし、一人では決してできないということもあるんですね。大変さとやりがいが共存している。

今日、会場の方の質問の意識の高さに驚いたのですが、僕がすべての答えを持っているかというとそうではなくて、「まちけん」も試行錯誤の連続だったんです。ただ、自分が何を大事にしてきたかとあらためて振り返ると、まずは仲間がいること、そして、仲間との自然な会話のなかで生まれたことを大切にしてきたことがあると思うんです。人と人との間に生まれる対話が、自分にとってはすごく重要であると、今日は感じましたね。

(撮影:加藤甫)

健康は「まち」で育まれる。家庭医と市民の文化プロジェクト。(APM#09 前篇)

Artpoint Meeting #09 ―生きやすさの回路をひらく― レポート前篇

「まち」に深く入り込んで活動するプレイヤーの声を取り上げて、今後のアートプロジェクトの可能性を照らす東京アートポイント計画のトークイベント「Artpoint Meeting」。その第9回が、2月9日、東京・原宿のTOT STUDIOで開催されました。

「生きやすさの回路をひらく」というテーマを掲げた今回のゲストは、谷中・根津・千駄木エリアで「谷根千まちばの健康プロジェクト(まちけん)」を展開する家庭医の孫大輔さんです。近年、イギリスを中心に、医師が病院外での社会活動の場を紹介する「社会的処方」という試みが広がっています。孫さんも、身体の病気に限らないより広い「健康」の達成にとって「まち」が重要な鍵を握ると考え、病院の外へと飛び出しました。

「まちけん」の特徴は、対話から演劇、映画、落語まで、その活動に文化を積極的に取り込んでいるところ。メンバーの関心から立ち上がる多様な部活動は、立場や職業を超えた市民の等身大の交流を生み出し、また、孫さん自身も変えたと言います。「まちけん」の取り組みから見えた、「健康」や「生きやすさ」と、文化やまちの関係とは? 東京アートポイント計画のプログラムオフィサー、佐藤李青と嘉原妙が訊きました。

(写真左から)聞き手のアーツカウンシル東京・嘉原妙、佐藤李青

健康にとって、「まち」や「文化」とは?

佐藤:東京アートポイント計画は、2019年に10周年を迎えました。その節目に自分たちの活動を振り返ると、東京アートポイント計画とは、関わる人たちの生きやすさをひらくような取り組みではなかったかと感じたんですね。たとえばそこでは、市民がアーティストと関わることによって、生き方を広げる創造的な「術(すべ)」に出会う可能性がある。また、活動で育まれる多様なコミュニティは、強弱を含んだネットワークとして普段の生活の豊かさにも活かされるものです。この「生きやすさ」というキーワードは、孫さんの「谷根千まちばの健康プロジェクト(まちけん)」にも通じると思い、お話を聞きたいと考えました。

孫:「まちけん」は、僕が医療従事者の仲間たちと一緒に、谷中・根津・千駄木エリア(谷根千)で2016年に始めたプロジェクトです。普段は病院に勤めている自分が、なぜまちに飛び出したのかと言うと、人の「健康」にとって、住んでいる地域における社会的なつながりが大切な意味を持つことがわかってきたんです。

たとえば、いまイギリスでは「社会的処方」という考え方が広がっています。これは医者が診断時に社会活動の場を紹介するもので、背景には、「孤独でいることはタバコよりも身体に悪い」といった認識があります。「ソーシャルキャピタル」と呼ばれる地域の緩やかなつながりが、健康に関わることがわかってきたんですね。「まちけん」には、谷根千で人がどんな場所に集まり、交流しているのか、そして、それが身体だけではなく心も含む健康=「ウェルビーイング」なあり方にどう関わるのかを調べる目的があります。

孫:ただ、これは表の理由で、裏側には単純に自分が谷根千好きなこともあります(笑)。実際に調べてみると、江戸のDNAが残る谷根千では、路地や銭湯、古民家や寺院といった場所において、人々の多様なコミュニケーションが生まれていることがわかりました。

まちへの入り方としては、最初、まちでコーヒーを配って回る「モバイル屋台 de 健康カフェ」という活動をしました。自然に住民と関わり、その方たちの健康に対する意識を観察したわけです。この活動は現在全国5カ所に広がっています。また、そこで縁のできた方たちと、「まちけんシネマ」と称して自主映画を制作したり、対話を通じて病や心配事を緩和する「オープンダイアローグ」、個人の物語を即興劇にする「プレイバックシアター」という活動をしたりしています。また「まちけん落語部」では、自分たちで落語も演じています。

佐藤:「まちけん」では文化活動がさかんですよね。なぜ、文化を重視するのでしょうか?

孫:医療従事者には、現在も文化に対して距離感があるんです。演劇などをしていると、関係者からは「時間があっていいね」と言われてしまう。従来、医療とアートの関わりというと精神科が中心で、それ以外の領域ではあまり馴染みがなかったんですね。でも、糖尿病や認知症のような慢性疾患が中心になった現在では、治療が病院では完結せず、地域に戻ったあとのケアも大事になる。また、ストレスが高い人ほど血糖値が上がり、糖尿病のリスクが高くなるという風に、身体と精神の問題はじつは切り離せないものです。

そのときに、文化の側面が重要になるのです。自分たちは、ウェルビーイングに働きかける取り組みをする際、演劇や落語やアートなど、地域文化を活用したアプローチをしたいと考えていて、それを社会的処方と比較して「文化的処方」と呼んでいます。

佐藤:「まちけん」は医療活動として認知されているのですか?

孫:「相当変わったことをやっている」とは、いつも言われますね。そもそも、モバイル屋台もとりあえずやってみたという感じで、明確な目的はあまりなかった。医療活動は明確な目的を求められることが多いので、その意味ではアウトローな活動でした。

古い言葉で言えば、「ヘルスプロモーション」という概念でその活動を捉えることもできます。これは専門家が知識のない人に知識を与え、健康の維持や促進を目指すものです。ただ、現在では多くの人のリテラシーが上がり、また、病気がない=健康というわけでもなくて、人間関係などトータルな意味での健康を上げていく傾向があります。その意味では「まちけん」は医療に入りますが、現状では実験的にやっているという段階ですね。

「生きづらさ」に対して、表現活動が与えるもの

佐藤:「生きづらさ」と「生きやすさ」というと、前者の方が見定めやすいのかなという印象もあります。「健康」とは、測ることができるものですか?

孫:一応、研究的にはいろんなツールがあります。ウェルビーイングを測定するツールも世界的には開発されていて、有名なのは「PERMA理論」(ポジティブ感情、エンゲージメント、関係性、意味・意義、達成の五つの指標による測定法)です。とは言え、これは多分に主観的なものでもあるんですね。そもそも、「生きづらさ」「生きやすさ」というのは日本語に特有の表現でもあって、なかなか英語には訳しにくい側面があるんです。

僕が「生きづらさ」で思うのは、日本社会の同調圧力の強さについてです。そこから解放されるという自由があると思う。そのなかで、表現活動には大きな可能性があります。

さきほど話した映画の制作にあたり、技術も知識もなかったので、一年間、映画学校に通いました。そこで、上司にパワハラを受けて、最後は上司にたて突く《踊れない男》という映画をつくった。これはほとんど自分のことで、作品を通して自分の考えを伝えられることは僕自身にとってのウェルビーイングにもつながっていると思います。

その後、具体的に谷根千で映画をつくるなかでは、飲み屋で知り合った映画プロデューサーや役者の方が参加してくれるなど、いろんな偶然の出会いがありました。そこから、ある鬱の青年が人との出会いを通じて回復していく映画作品《下街ろまん》が生まれました。

嘉原:アートプロジェクトをやっていて感じるのは、表現にとって不確定要素が入り込むことが大事だということです。アーティストは、その種を現場に持ち込んでくれる存在でもある。お話を聞くと、孫さん自身が地域でそうした役割を果たしている気がします。

佐藤:アーティストというと、以前はモノをつくる人のイメージが強かったですが、現在はコトを起こしていくアーティスト像というのも広く認められるようになってきました。

孫:僕は活動のなかで「対話」を重視してきました。「会話」は話し終わったあとにお互いが変わらなくても良いけれど、「対話」は変わる。そこには終着点が見えない面白さと怖さがあって、たしかにそれはアートとも近いのかもしれません。従来、医療従事者は準公務員的で、目的がない活動をしてはいけないと思われがちだった。でも、そのプロセスこそを大事にするのがアートであるなら、自分の活動と共通性を感じます。

嘉原:「まちけん」の活動を通して変わったのは自分だというお話がありましたが、孫さんは近く鳥取に移住されるそうですね。なぜでしょうか?

孫:僕は地域での実践活動に興味があるんです。論文にはしにくい、そうしたプロセスを含んだ活動をしていきたいという思いが年々高まってきたことがまずあります。

また、権威主義的な病院の世界から離れたいということもある。現在の勤務先でひたすらに出来上がったルートを歩むのか、暮らしと仕事を一体化するようなかたちで物事に取り組んでいくのか、ここ最近、ずっと考えてきました。そんななか、以前からご縁があって3カ月に一度ほど訪れていた鳥取や島根で働くという選択肢に至りました。

佐藤:「まちけん」の活動の今後は?

孫:まだわからないですが、いま、引き継ぎ作業をしていて、落語やオープンダイアローグなどは続けてくれる人が出てくれました。僕も、今後も出来る限り関わっていきたいです。

いっぽう、新しく移る鳥取では、「何かを始めることありき」で動くのではなくて、まずはじっくりと地域のことを知っていきたいと思っています。そのなかで、また自分が「まちけん」の経験を活かしてできることがあれば、ぜひやっていきたいですね。

>>レポート後篇へ

(撮影:加藤甫)

どこまでが「公」? どこまでが「私」?―まちを使い、楽しむ暮らしをつくる

開催日:2020年1月29日(水)
ゲスト:mi-ri meter(アーティスト/建築家)阿部航太(デザイナー/文化人類学専攻)
モデレーター:上地里佳(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

「いまの社会で、これからの実践を立ち上げるための新たな視座を獲得する対話シリーズ」として全4回にわたってひらかれる対話の場「ディスカッション」。2019年度は、アーツカウンシル東京プログラムオフィサーの上地里佳が企画・モデレーターを務め、「これからの東京を考えるための回路をつくること」を試みます。
第1回(令和2年1月29日)のテーマは、「まちを使い、楽しむ暮らしをつくる」。公共空間に関わるプロジェクトを多く手がけるユニット・mi-ri meterと、文化人類学的なアプローチを持ちながら多岐にわたるデザインワークを行う阿部航太さんの2組をゲストに迎えます。

「私たちTARLで扱っているアートプロジェクトはまちなかで実施することが多くあるのですが、なかには“公共性”の問題や課題について考えさせられる場面に出くわし、立ち止まることがあります。そういったときに物事をどう整理すればいいのかという問いが、このディスカッションを開催するきっかけになりました。
 もうひとつ、個人的なことなのですが、私は沖縄・宮古島の出身で将来的には故郷に帰ってアートプロジェクトを立ち上げたいと思っています。そのとき、どのように自分の暮らしをつくって、まちと関わっていけばいいのか迷っています。今日は、その2つについて、一緒に考えていきたいです」(上地)

モデレーターの上地による、このディスカッションにあたっての想いが語られた後、ゲストがお互いにこれまでの活動を紹介しながら、それぞれの知見から「公」と「私」の関係性、そして役割について考えました。

建築から都市をみる:mi-ri meter

mi-ri meterが活動をスタートしたのは、2000年。日本大学芸術学部で建築を専攻していた宮口明子さん(左)、笠置秀紀さん(右)は、在学中から行っていた公共空間に関わるプロジェクトを続けるため、卒業後に2人でmi-ri meterを立ち上げました。

「mi-ri meterは建築設計を基本業務にしながら、それだけにこだわらない活動をしてきました。都市にまつわるセルフプロジェクトを発足したり、地域アートに関わったり、ときにはアートユニットとして芸術祭に招致されることもあります」(笠置)

2000年から、40に及ぶプロジェクトを発足した。

ジベタリアン、屋外電源コンセント、グラフィティ、酒屋のコンテナ、渋谷の花壇……都市で過ごすなかで気付いた違和感や兆候に反応して、プロジェクトを立ち上げることが多いmi-ri meter。20年間の活動を振り返ると、「さまざまなタイプのプロジェクトが大量にあるので、一見何をやっているかわからない(笑)」と話しつつも、綿密なリサーチとフィールドワーク、そして『建築から都市をみる』という視点はすべての活動に共通しています。

「建築やアートのような小さい視点から都市を見て、公共空間を個人に取り戻す、ボトムアップでまちを取り戻すということは世界各国でも同時多発的に行われてきました。一方で数年前からは都市計画の分野でも『タクティカル・アーバニズム』や『プレイスメイキング』という言葉で、小さいことからまちを変えていく動きが活発化しています。私たちもそういった潮流の中で、これまでの知見を社会に実装するために2014年から『小さな都市計画』という法人をつくりました」(笠置)

空間に作用するビジュアル、サインとグラフィティ:阿部航太

2009年から2018年にわたってデザイン事務所で働き、サインデザインの設計・制作に従事していた阿部航太さん。デザイン事務所を退職後、1年間南米に赴き、そのうちの半年間はブラジルに滞在し、現地のグラフィティ・カルチャーを追いかけたそうです。

「僕は、昔から空間とビジュアルの関係に興味がありました。デザイン事務所で働いていたのも、ブラジルのグラフィティ・カルチャーに惹かれたのも、それがきっかけにあります。そもそも日本のグラフィティをあまり意識したことはなかったので、こんなにもまちに溶け込んでいるブラジルの路上を見て、『そもそもなんでグラフィティって悪いんだろう、「まち」は誰のものなんだろう』と考えるようになりました」(阿部)

ブラジルの4都市を巡り、5人のグラフィティライターに取材・撮影を行った映像作品「グラフィテイロス」

ブラジルの公用語であるポルトガル語では「グラフィテイロ」と呼ぶように、日本の「グラフィティ」とは社会のなかでの立ち位置も異なるといいます。阿部さんはブラジル滞在中に現地のグラフィティライターを取材・撮影し、およそ70分の映像作品を制作。この日は20分に再編集したものを上映しました。そのなかでグラフィティライターたちは、自らの活動について自分の言葉で語ります。

「映像のなかで『雨や風、自然のものと同じように、ストリートは人のものではない』という話がありました。『誰のものか?』というものへの模範解答としては『みんなのもの』という意見が出がちですが、その問答は何も答えていないに等しい。この人の場合は、『ストリートは、ストリートのものなんだ』と言い切り、僕はなぜか腑に落ちました。それは、今回のテーマの『公』や『私』という話につながるのではないかと思います」(阿部)

「商」と「公」の対立構造?

2組の活動紹介を経て、いよいよディスカッションへ。阿部さんによる、ブラジルのグラフィティライターたちのドキュメンタリー映像から、「グラフィティ」をキーワードに話が展開されていきます。

―mi-ri meter笠置さん(以下、K ):映像の途中、ひとりのグラフィティライターが街路樹の実をとって、阿部さんと分け合って食べるシーンが印象的でした。そこで思い出したのが「自然享受権」という権利です。北欧には、自然に生えているものは採って食べていいし、誰かの所有の森であっても泊まってもいいという、自然を享受する権利があるんです。そこから「都市享受権」というのを空想しながら見ていました。そうしたら、壁の見え方も変わるのかもしれないなと。

―阿部さん(以下、A):確かに、享受という意識は彼らにもあります。ブラジルのグラフィティライターへ取材するなかで「グラフィティはいちばん民主的なアートだ」という言葉を聞きました。市民間の格差が大きく、美術館に行くことが難しい人々も多くいるブラジルでは、グラフィティは無償で享受できるアートでもあります。

―上地(以下、U):mi-ri meterは活動のひとつに「JGRF Graffiti in Japan」という、都内を中心にグラフィティの写真を集めて公開するサイトの運営もしています。

―mi-ri meter宮口さん(以下、M):そうなんです。mi-ri meterを立ち上げて間もない頃、都市を家に見立てて居心地の良い場所を探していたとき、気になる場所の多くにグラフィティを見つけました。その頃からグラフィティに注目するようになり、立ち上げたプロジェクトです。印象深いのは、当時QPという家のようなマークを用いた作風のライターを行く先々で見つけたのですが、後から知るところによれば、彼も都市のなかでも居心地の良い場所にボミング(落書き)していたといいます。つまり、都市に対して私たちと同じように感じているのだなと。

「家」という個人的なスケールに置き換えて都市を見つめ直した結果、そこにはグラフィティライターたちの仕事が先にあった。この話を受けて、阿部さんは、グラフィティという行為はまちを自分たちのものに取り戻すアクションになっていると語ります。というのも、ブラジルでは廃墟が乱立する危険なエリアにグラフィティが描かれることで、おしゃれなスポットとして認識されるような現象が起きているそう。グラフィティという極めて「私」的な活動が、「公」に大きな影響を与えているといいます。

―A:このディスカッションには、「公」と「私」というキーワードがありますが、僕自身はその間に対立構造はないと思います。むしろ商業、「公」と「商」のかみ合わせの悪さを日々感じています。いま都心部で展開されている都市計画のなかには、必ず商業施設がありますが、それが公共性を阻害しているんじゃないかなと思うんです。

―M:確かに、商業がはびこっているとまちがあまりにも管理されて余地がないです。グラフィティをイリーガルに行うのは行き過ぎかもしれませんが、個人が「勝手に」何らかの活動を行うのは本来当然で、あるべき姿だと思います。

都市が綻びはじめるとき

まちに住む人々が、自分で考えて「勝手に」まちを組み替えて、居心地良く住むこと。阿部さんは、クリエイターすら介在せずに、「公」や行政などの機関が、その大本の環境づくりを担うことを期待しているといいます。

―A:ブラジルでグラフィティが盛んな要因のひとつに、条例規制で屋外広告がほぼなくなったという背景があります。広告がなくなった代わりに、依頼主のもとグラフィティライターが合法的に描く、大型の「プロジェクト」が出てきた。制度や「公」の土台づくりをきっかけに、まちに新しいアクションが起きて、それぞれを認め合っていくという流れがすごく重要な気がしています。

―K:最初から最後まで「公」の管理下ではなく、環境や土台のところに注力した、一歩引いた施策があるといいですよね。

―U:「公」が、何かアクションを起こすためにあってほしい、というのにはすごく共感します。私たちがアートプロジェクトで大事にしているのは、違う文化や価値観に出合う機会をいかにひらいて いけるかという点です。けれど公的な機関と関わる以上、「これは不快感を覚える人がいる可能性があるからNG」というようなジャッジが付きまといます。どうしたらもう少し間口を広げられるか、常に突きつけられている課題です。

ディスカッションも終盤、グラフィティを発端にした「公」と「私」の話を受け、参加者から質問とともに自身の素敵なエピソードが語られました。

―会場からの質問:場所は、本来の目的性を失うと「公」に寄るのでしょうか。かつて電話ボックスがあったところに公衆電話の台だけが残っている場所を知っているのですが、この前、その台を使って子供 のおむつを替えている人を見かけて、すごくいいなと思ったんです。

―K:場所の読み替えができていますよね。場所に対して、凝り固まった考えがない。住宅にも「リビング」「ダイニング」とありますけど、使い方はそれだけじゃない。時として、市民、ユーザーは、ワイルドに場所を読み替えて活用しています。

―U:「場所の読み替え」というのは、大事なキーワードですね。与えられたものをそのままに受け入れるのではなくて、自分で読み替えながら活用するスキルやリテラシーを養うことが、「公」に縛られずに暮らしやまちを心地よく過ごすためのキーワードなのかなと思いました。

―A:「公」に縛られるのではなく、「公」を自らつくっていかないといけないですよね。電話ボックスの跡地でおむつを替えるのも、「公」をつくっていく行動のひとつだと思います。

―K:都市が綻びはじめたときが、いちばん楽しいと思うんです。電話ボックスを取り除いて、昔だったら台まで撤去されるはずのところが、恐らく費用の問題で取り残された結果、おもしろい動きが生まれる。阿部さんの映像にあった、ブラジルのグラフィティが溢れている路地裏の空間は、決して金銭的には豊かではない地域のなかの綻びのような場所だけれど、本来の意味でとても豊かな気がします。

うねる、「公」と「私」

私たちが、まちのなかでより居心地よく過ごすためには、何を心がければいいのでしょうか。
mi-ri meter、阿部さんの両者は、社会実験やワークショップ、まちづくりを通じて、「私」に対してまちを読み解くたくましい視点と活動性を身につけることを促しています。一方で、「公」による「私」を活性化するような施策が公布されれば、新しい局面がひらかれる ことを期待できるかもしれません。
ブラジルで起こっている事例でいえば、「公」による施策がまちにグラフィティを増やすきっかけになり、その結果、グラフィティという「私」的な営みが、まちの綻びともいえるようなエリアをポジティブな場所へ転回することになりました。
このディスカッションを経て、「公」と「私」は相互関係にあり、うねり、日々影響し合っていることが浮かび上がってきました。 ときに「商」という強力な要素が影を落とすことがあっても、「私」という小さな波紋が積み重なり、大きな波になり、また都市を循環していくのでしょう。上地から冒頭で問いかけられた、「まちのなかで自分の暮らしをつくり、関わっていく方法」、そのひとつとして場所を読み替え、「公」をつくる、能動的な態度が必要なのだとあらためて気付かされました。

執筆:浅見 旬
撮影:齋藤 彰英
運営:NPO法人Art Bridge Institute

FIELD RECORDING vol.04 特集:出来事を重ねる

『東北の風景をきく FIELD RECORDING』は、変わりゆく震災後の東北のいまと、表現の生態系を定点観測するジャーナルです。

東日本大震災を経験し、だんだんとほかの土地の厄災の経験に気がつくようになりました。同じような課題を見出し、取り組む手法への共感をもつ。そうして双方が学び合うように導き出させる視点は、まだ厄災を経験していない人々にとっても意義があるかもしれない。そして、時間が経つことで遠くなってしまう震災の経験を、遠くの人々と共有するための糸口になる可能性もあるのではないでしょうか。

vol.04の特集「出来事を重ねる」では、東北のいまに、ほかの厄災を重ねてみました。

もくじ

はじめに

Prologue
八巻寿文さんにきく[後編] 言葉/自然

Dialogue
秘密の置き場所 高森順子×瀬尾夏美

Coversation
白地の持つ豊かさに気づく 気仙沼 リアス・アーク美術館に山内宏泰さんを訪ねる 山本唯人

途中の風景、その続き 松本 篤

厄災からの表現
チリのアルピジェラ/山川冬樹 ≪歩みきたりて≫
2010年代の『原爆の図』と記憶の伝播 岡村幸宣

わたしの東北の風景
編集後記 佐藤李青
参加者一覧

FIELD RECORDING vol.03 特集:経験を受け渡す

『東北の風景をきく FIELD RECORDING』は、変わりゆく震災後の東北のいまと、表現の生態系を定点観測するジャーナルです。

震災を体験していない人々と、どのように当時の経験を共有するか。そうした問題意識は、時間が経つほどに切実さを増しているように思います。次の世代やほかの土地の人々が同じ経験を繰り返さないために。あのときのことを忘れず、思い出せるようにするために。経験が語られるとき、それが受け渡されるきき手の存在が求められます。震災後の東北では、さまざまなきき手が、この地を訪れ、耳を傾け、ときに語り手となり、状況に伴走するようにこれまでの時間を過ごしてきました。いま、その関係性が変わっていくときなのかもしれません。

vol.03の特集「経験を受け渡す」では、現在と過去、異なる土地を行き来しながら、継承について考えてみました。

もくじ

はじめに

Prologue
八巻寿文さんにきく[前編] サークル/芸術/タプタプ論

Dialogue
『二重のまち/交代地のうたを編む』を見ながら 宮地尚子×宮下美穂

Production Note
旅人を撮る 小森はるか

Conversation
復興を待ちながら 川内村と飯舘村を訪ねる 萩原雄太

小さな声、たくさんの声 小川智紀
小川智紀 Twitter 2011→2017

東北からの表現
博物館として、震災遺産に向き合う 筑波匡介

わたしの東北の風景
編集後記 佐藤李青
参加者一覧