「Artpoint Meeting」は、東京アートポイント計画が各地で展開するアートプロジェクトから見えてきたトピックをとりあげ、事例を紹介するとともにゲストを迎えて新たな言葉を紡ぐ企画です。今回は「映像を映す、見る、話す」をテーマに、1月9日、東京・恵比寿の東京都写真美術館でひらかれました。
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レポート後編では、「セッション2:世田谷クロニクルをケアの現場でつかってみる」の後半について報告し、その後に上映した「ラジオ下神白 ドキュメント映像」とアフタートークの様子を紹介します。
[セッション2]世田谷クロニクルをケアの現場でつかってみる(後半)
[セッション2]の前半では、世田谷区内で収集した8ミリフィルムのデジタルデータ(世田谷クロニクル1936―1983 )を活用した「移動する中心|GAYA」(以下、GAYA)の活動を紹介しました。プロジェクトを担当する松本篤さん(NPO法人remoメンバー・AHA!世話人)は、このデジタルデータのアーカイブを「つかう」方法を「サンデー・インタビュアーズ(SI)」 というオンラインワークショップのなかで探るうちに、「福祉や医療との接合点になるのでは」と考えました。そこで出会ったのが、看護師・写真家の尾山直子さんとデザインリサーチャーの神野真実さんの活動です。
尾山さんは世田谷区にあるクリニックで訪問看護師を務めながら、大学で写真を学びました。卒業後はかつて暮らしのなかにあった看取りの文化を再構築する取り組みや、老いた人びととの対話や死生観、看取ることの意味を模索し、写真作品を制作しています。神野さんは、祖父の死をきっかけに、耳の不自由な祖母が引きこもる姿を目の当たりにし、社会包摂のあり方に興味をいだきました。現在は在宅医療の現場に身を置きながら、市民・専門家参加型のデザインアプローチで、在宅医療患者と家族・医療者が医療やケアについて対話しやすくするツールや環境づくりを行っています。
(写真左から)尾山直子さん(看護師・写真家)、神野真実さん(デザインリサーチャー)
2人は、老いやその先にある暮らしに自分ごととして向き合うことができ、家族や周囲の人との対話の道しるべとなる本(『LIFE これからのこと』 )を制作しました。また、ひとりの男性の人生最終盤にある暮らしの風景の写真と、その男性が書き綴った言葉による写真展「ぐるり。」 を各地で開催しています。そうした活動が松本さんの知るところとなりました。
「日常の記憶や記録を大切にするためにアーカイブというアプローチを取っている松本さんたちと、訪問医療の現場で患者さんの大切にしてきたことや物語を引き継いで暮らしを支えるケアには、共通するところがあるのではないか」(神野さん)ということから、「世田谷クロニクル」の映像を在宅医療の現場でつかうプロジェクトが始動。他の看護師にも協力してもらい、三十数人の在宅患者の家で、「世田谷クロニクル」の映像をケアに取り入れる試みを行いました。
ある女性の患者は、上野動物園の映像で着物で生活している人びとの姿を見て、自分も着物を着ていたと話しはじめました。着物の話から裁縫の話に移りかわり、共通の関心を持つ神野さんと糸の話で盛り上がる時間もみられました。
「映像を見ると、最初は映像から想起された地域の話をしているのですが、だんだん自分の記憶と関連するエピソードを語りはじめるんです。『世田谷クロニクル』から彼女自身のクロニクルになっていくのがとてもよかった。ケアをする私たちにとって、彼女の個人史とかどのような暮らしをしてきたかという情報は宝物だからです」。(尾山さん)
「世田谷クロニクル」の映像を見る(撮影:尾山直子)
裁縫箱を見せてもらう(撮影:尾山直子)
この現場では、看護師ではない神野さんにとっても気づきがありました。「チエコさん(患者さん)にとって、看護師は日常の登場人物の一人であり、彼女の人生に関連する映像を看護師が選び、勧められたからこそ抵抗なく見ることができる。日頃から信頼関係をつなぎ続けているから、さまざまな語りが引き出されたんだとあらためて思いました」。
訪問前には在宅医療に携わるスタッフで映像を見て、議論を重ねた(撮影:尾山直子)
2人の感想はさらに続きます。「『世田谷クロニクル』はウェブの映像をいつでも誰でも見ることができます。私たち看護師も本人の物語を引き出すためにアプローチをしていますが、その新たなひとつの手法として使用してみたら、いろいろな反応があった。映像をテレビにつなぐと家族も集まってきて世代間で会話がはじまったことがありました。その一方、思ったほどの反応じゃない方もいて、私たちにとってもトライアル&エラーでした」。(尾山さん)
神野さんは、他の看護師とともに「振り返り」をした内容も交えて、こう語ります。「映像を見ると、いまは記憶が混濁していたり不安定な方も、子供時代の鮮明な記憶を話されることが多かった。それが心の安定や自信の回復にもつながる。普段はケアする/されるという関係性だけど、その場面では、知識や経験の豊富な人として教える/教わるの関係性に変わっていく。過去の記憶を受け取る行為がケアにつながるということも看護師たちから教えてもらいました。映像はその人の人生に深く触れていく、ケアのツールとして豊かな可能性が開けるんじゃないかと話し合いました」。
総括的な感想を受けて、松本さんが語ります。「映像を見てもらうことで、(高齢の方々の)残り少ない時間を奪っていないか、善意の押し売りではなく、見ること・語ることにちゃんと魅力を感じてもらっているか、と悩ましい状況に直面している感覚が僕にはあります。文化事業として、他領域の現場でどうあることができるか、どうあるべきかという、われわれのスタンスや倫理観が問われていると感じていました。でも、(看護師の)プロフェッショナルの身体やそこで感じる感覚が、われわれの学びになるとも思います。自分たちなりに消化して、次の発展として文化と医療の間に新しい領域を開拓できないかと考えています」。
松本篤さん(NPOremoメンバー/AHA!世話人)
[セクション3]映像と音楽でプロジェクトを追体験する
ここまでに紹介した2つの事例の現場はいずれも東京でしたが、[セクション3]は、福島県いわき市で行われたプロジェクトの様子を収めた映像を上映しました。『ラジオ下神白(しもかじろ) ドキュメント映像』(70分、2022年)です。東北の各地で人びとの語りと風景の記録から作品制作を続ける小森はるかさん(映像作家)が、監督・撮影・編集を担当したドキュメンタリー映像です。
上映前には小森はるかさん(映像作家)とアサダワタルさん(文化活動家)が舞台挨拶を行った
映像の冒頭は雲が垂れ込める田園風景のショットで、そこに高齢の女性の歌声が重なります。数分後、スクリーンには突然、青空のもとにそびえる、真新しい団地が映し出されます。そこにナレーションが流れます。
下神白団地の皆さん、こんにちは。ラジオ下神白です。あのとき、あのまちの音楽から、いまここへ。司会のアサダワタルです。
下神白団地は2015年に完成した県営復興住宅です。東京電力福島第一原子力発電所の事故で被災した人たちが多く入居しています。ここを現場として2016年に始動したのが、「ラジオ下神白 あのときあのまちの音楽からいまここへ」というプロジェクトです。
プロジェクトディレクターのアサダワタルさんは音楽と文章表現を支点として、さまざまな生活現場に赴き「これまでにない他者とのつながり方」をプロジェクトとして実践してきました。下神白団地では、住民の部屋を訪ねて、お茶を飲みながら思い出と記憶に残る歌を聞き取り、その内容を収録したCDを架空のラジオ番組「ラジオ下神白」として団地内で配布する、という活動をはじめました。
下神白団地の風景
ラジオ下神白の活動の様子(『ラジオ下神白 ドキュメント映像』より)
小森さんが撮影した映像はアサダさんたちの活動に寄り添いつつ、下神白団地の日々と風景を丹念に収録しています。コロナ前の団地訪問の様子から、有志メンバーによるバンド活動、コロナ禍でのオンラインベースでの交流など、数年かけて積み重ねてきたプロジェクトの軌跡が感じられました。関東地区では初めての上映だったこともあって、終映後、会場はしばし拍手に包まれました。その余韻が醒めやらぬなかで、トークが始まりました。
トークに参加したのは、アサダさんと小森さん、ゲストは行動学者の細馬宏通さん(行動学者/早稲田大学文学学術院教授)です。まずアサダさんがこのプロジェクトの成り立ちと経過について説明します。「下神白団地では、演劇などで震災復興に関わる団体が以前から活動をしていました。その団体から、家から出ない人とも関われるプロジェクトができれば、と相談を受けました」。
(写真左から)細馬宏通さん(行動学者)、アサダさん、小森さん
その背景には、復興住宅の特殊な状況があります。原発事故で被災した4町の人びとが、1・2号棟が富岡町、3号棟が大熊町、4・5号棟が浪江町、6号棟が双葉町と分かれて入居しています。住民の大半は高齢者で、独り暮らしの人も少なくありません。集会場に来ない人とはほとんど交流する機会がありません。そうした状況に向き合って、アサダさんが編み出したのが「ラジオ下神白」という試みです。
「僕は一人ひとりに焦点をあてて、個の部分と地域性がグラデーションで浮かび上がる、ということを考えて、個をつなぐような音楽メディアとしてラジオ番組のCDを制作することにしました。テーマを決めて住民に取材して、その語りなどを収録したCDを、4か月に1回くらいのペースで制作して団地内に配布してきました」。
プロジェクトはさらに広がって、「ラジオ下神白」の活動を伝えるイベントを東京などでひらいたり、現場に通いたいという方々とバンド(伴奏型支援バンド(BSB))を組んで住民に思い出の曲を歌ってもらったりしました。コロナ禍のなかでもオンラインで住民との交流を続けました。2022年には、これまでの音源や新たに住民が自宅で録音した歌声をミックスして、音楽CD『福島ソングスケイプ』を制作しています。今回の映像上映は、プロジェクトにとって最新の活動です。
福島ソングスケイプの写真
細馬さんはすでに『福島ソングスケイプ』を聴いていて、「歌謡曲をお年寄りが斉唱しているだけやのに、ものすごくおもしろい。去年聴いたCDで一番感動した」そうです。そのうえで映像を見て「2度びっくりした。こんなに分厚い歴史があったんや」と語ります。映像については「小森さんが(アサダさんたちと)いっしょに住民のお家に入っていって、定点観測的に撮影しているのが印象的」と話し、小森さんの「立ち位置」について尋ねました。
小森さんがこのプロジェクトに参加したのは2018年。「文字で記録する役割の編集者の方が、文字では残せないことが起きていると思われて、声をかけてもらいました。現場では住民との関係ができあがっていて、お宅を訪問すること自体がプロジェクトの肝になっていました。いっしょにお茶を飲む輪のなかから撮ることがはじまりました」。
そうした小森さんの撮影を、細馬さんは「文化人類学的」と評します。「いつも『知った態度』で撮らないですよね。例えば映画のなかの一場面で、ラジオから『集会所の黄色いポストにリクエストを入れてください』というアナウンスが流れます。(観客は)『何っ?』と思う。その後、集会所のショットが映されて『あの黄色いのがさっきいっていたポストか』と発見する」。
映像の後半は、クリスマスに住民が多数集まった「歌謡喫茶」や、バンドの演奏など、音楽の要素が前面に出てきます。そのなかで、細馬さんは素朴な疑問を感じたようです。住民の人たちが思い出の曲として歌っているものに「福島固有の歌が入っているかと思ったら、『宗右衛門町ブルース』。どういうことです?」。
アサダさんが答えます。「震災以前の思い出を聞くところからはじまって、そのなかに出てきた曲の音源を聞いて、たまたま口ずさんだことをきっかけに歌ってもらうようになったからです。そこから、記憶に寄り添うためにアーカイブとして歌を引き出すようになる。団地のコミュニティのなかでは、例えば『宗右衛門町ブルース』といえばあの人ねという風に特定の住民と結びついて共有されるようになりました。音楽ってそういうふうにつかいこなせるんだなぁと思いました」。
小森さんも相槌を打つように「バンドメンバーはその人の話を聞いたり、その曲を好きな理由を想像しながら演奏しています。演奏する人にとってもただの曲じゃないものに仕上がっているんです」。
細馬さんは「むしろ聞き手がそのことを発見する必要がある」と応じます。「CDには、その人がイントロからはじまって山あり谷あり、危機も乗り越えてなんとか歌い終わった、というときの不思議な感じがある。そういうのは音楽にとってとても大切なことです」。
『ラジオ下神白 ドキュメント映像』の最後に、アサダさんたちのバンドが東京で『青い山脈』を演奏します。戦後まもない1949年のヒット曲です。そこに、下神白団地の自宅で歌声を録音する一人ひとりの姿が挿入され、東京と福島の距離を超えて渾然一体となったパフォーマンスが繰り広げられます。熱唱する下神白団地の人びとの胸に去来したもの。それは、アサダさんたちとの交流によって新たに想起された「山あり谷あり」の人生の記憶だったのではないでしょうか。「映像」を媒介としてコミュニケーションを開き、それぞれの人生の記憶に寄り添う試みを紹介した今回のArtpoint Meetingを象徴するエンディングでした。
VIDEO
「福島県営復興住宅 下神白団地の住民さんとつくった「青い山脈」ミュージックビデオ」(撮影:小森はるか、福原悠介、齊藤勇樹、編集:小森はるか、福原悠介、録音:大城真、福原悠介、ミックス:大城真)。「ラジオ下神白」の一環で制作された動画。ドキュメント映像に収録された風景を垣間見ることができる
(撮影:阪中隆文)