「拠点」とは何か? 秋田、神津島、神戸の事例を通して考える(APM#14 後編)

アートプロジェクトにかかわる一つのテーマをめぐり、毎回、幅広いゲストと対話を重ねてきた東京アートポイント計画のトークシリーズ「Artpoint Meeting」。2023年12月17日、その第14回が、東京都・武蔵野市の「武蔵野プレイス」にて開催されました。

今回のテーマは、「わたしたちの“拠点” をつくる:ひらきかた と つづけかた」。東京アートポイント計画で実施されるアートプロジェクトにおいても、重要なものとして耳にする機会の多い「拠点」というキーワード。しかし、そのあり方や運営の方針は、プロジェクトの目指すものや活動地域などによってさまざまに異なります。

この日は、そんな、よくよく考えると捉えどころのない「拠点」というものについて、「秋田市文化創造館」に携わるNPO法人アーツセンターあきた事務局長の三富章恵(みとみゆきえ)さん、神津島で展開されているアートプロジェクト「HAPPY TURN/神津島」事務局の飯島知代(いいじまともよ)さん、そして、神戸の地で約30年にわたり活動を行っている「C.A.P.[芸術と計画会議]」ディレクターの下田展久(しもだのぶひさ)さんという3名のゲストに、それぞれの考え方を伺いました。

当日の模様を、ライターの杉原環樹がレポートします。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:仲田絵美*1、2、4、6、8、10、12-14、17、18、21枚目)

レポート前編はこちら>
「拠点」とは何か? 秋田、神津島、神戸の事例を通して考える(前編)

神戸で30年。「C.A.P.[芸術と計画会議]」の歩みを振り返る

「拠点」をテーマにした今回の「Artpoint Meeting」。後半ではまず、「C.A.P.は、どう続けてきたのか?—30年の歩みをきく」と題し、神戸で約30年、さまざまに形態を変えながら活動してきた組織「C.A.P.[芸術と計画会議]」の歩みについて、ディレクターの下田展久(しもだのぶひさ)さんに伺いました。聞き手はプログラムオフィサーの佐藤李青が務めました。

椅子に座った男性がマイクを持って話している
「C.A.P.[芸術と計画会議]」ディレクター、下田展久さん。

下田さんへのインタビュー冒頭では、2006年に制作された、C.A.P.の初期の活動をまとめた映像「コネクタテレビ Vol.037 CAP HOUSE〜芸術の実験〜」を上映。その内容もふまえながら、この組織がどのような背景から生まれてきたのかを振り返りました。

C.A.P.は1994年、当時神戸で進んでいた美術館構想の画一性に対し、疑問や危機感を抱いた関西のアーティスト11名が集い、話し合うことからはじまりました。C.A.P.代表を長年務めた杉山知子さんのアトリエを舞台とするこの議論の末、メンバーは同年11月、自分たちの意見をまとめた提案書「これからの美術館」を神戸市の文化振興課に提出しました。

イベント会場のスクリーンに映像が流れており、その様子をたくさんの参加者は見ている。映像には女性のバストアップが映っている
映像からC.A.P.の成り立ちを知る。中央に見えるのが杉山知子さん。

このときアーティストたちが抱えていた不満とは、美術館がどこも同じようなものになっていること、そして、行政の人たちが地元のつくり手をよく知らないことなどにあったと下田さん。こうした状況に対して、提案書では、地元でどのようなアートが立ちあがろうとしているのか、それを知り、支えることが新しい美術館の役割なのではないかと提起したといい、「最初はイベント目的ではなく、商店街の組合のような組織としてはじまった」と話します。

そうして組織が動き出した直後の1995年1月、阪神・淡路大震災が発生します。C.A.P.の面々はこの混乱のなか、「アーティストにも何かできることがあるのではないか」とふたたび話し合いを開始。神戸の旧居留地全体を美術館にする「旧居留地ミュージアム構想」を立ち上げ、同年5月に兵庫県と神戸市、旧居留地連絡協議会などに提出しました。

このとき大きかったのが、震災直後、フランス・マルセイユやスイス・ベルンのアーティスト150人が義援活動「Acte Kobe」を立ち上げたこと。C.A.P.は同活動で集まった義援金で構想のためのシンポジウムをひらくとともに、10月に1日限りのパーティ「CAPARTY(キャパティー)」を開催。その後、一連の実践を同じ名称で続けていくことになりました。1996年には活動を続けるための寄付制度「C.A.P. サポーティングメンバーシップ」を開始。旧居留地の企業を中心に熱意を伝え、初年から40社と個人2名の寄付を得ることに成功します。

1999年に開催された「CAPARTY Vol. 8『CAP HOUSE—190日間の芸術的実験』」(以下、「CAP HOUSE」)は、初期C.A.P.を代表する催しです。事のはじまりは、当時杉山さんのアトリエで月に1度ひらかれていた集まりに、あるゼネコン関係者が参加したこと。その人は、ブラジルへの移民が出国前に滞在する国立移民収容所として1928年に建てられ、1994年からは廃墟となっていた「旧神戸移住センター」の建物の存在をメンバーに伝えます。

当初、神戸市から相談を受けていたそのゼネコン関係者は、建物をアーティスト・イン・レジデンスの施設として使用するという構想をもっていました。しかしアーティストたちは、「もっと根本的に、何もないところにアーティストがいることで何が起きるか実験をする」というアイデアを提案します。こうして「CAP HOUSE」の初めに行われたのが、「100人大掃除」でした。これは、長年放置された建物を市民と掃除する催しで、有料にもかかわらずなぜか大勢の人が参加。さらにつくり手が多く集まることで、作品が生まれ、それを展示するギャラリーが生まれ、お茶を飲むためのカフェが生まれ……と、その場で自生的に物事が動いていったといいます。

白いビルの前に、白い上下のビニール製の作業着を着た集団がいて、みんなこちらを見ている。1階部分に人々が集まっていたり、入口の屋根部分に脚立を立てかけて乗っている人、入り口部分の屋根部分に乗っている人、2階と3階の窓からも同じ格好の人々が顔を出していて、全部で100人程度いる
1999年「100人の大掃除」の記念写真。建物に「CAP HOUSE」の旗を設置した。

その後、C.A.P. は2002年にNPO法人化。「CAP HOUSE」後も定まっていなかった建物の管理運営を正式に受託します。2007年には大規模改修工事のため、一度は建物をあとにするものの、2009年に「神戸市立海外移住と文化の交流センター」が新設されたことに伴い、指定管理者の一つとして建物に復帰。現在は、神戸市立海外移住と文化の交流センターの運営する移住ミュージアムが1〜2階を、C.A.P. が展開するアートプロジェクト「KOBE STUDIO Y3」が3〜4階を主に使用。後者は、アーティストが建物内にスタジオを構え、公開するもので、年間12組ほどの表現者が活動を行っているといいます。

マイクを持った男性が、座って話している
1994年のC.A.P.設立以来、重ねてきた30年の歳月の経験を語る下田さん。

組織の成熟と、モチベーションの維持という課題

C.A.P. の歩みを振り返ると見えてくるのは、誰かがトップダウンで決めた組織や場所のあり方ではなく、アーティストたちがそのつどの状況のなかで、偶然性を味方につけながら紡いだ軌跡がそこにある、ということです。下田さん自身、以前は神戸の別の施設で働いていましたが、そこに「Acte Kobe」から支援先の相談が届いたことで、アーティストの藤本由紀夫さん経由でC.A.P. を知り、活動に参加することになったと言います。

机に紙の資料や冊子が置かれ、その周りに人が座っている。奥にスクリーンがあり、便器の写真が写っている。一人の男性が立ち上がり、冊子を開いて他の人に説明している
2024年1月20日開催、芸術鑑賞を学ぶ連続講座「CAP STUDY!」、藤本由紀夫さん(中央)による美術講座2「感覚とアート—think with senses—」。

上述の通り、旧神戸移住センターの建物を使うようになったことも偶然でした。「C.A.P. はもともと月1回のアトリエでの集まりを主体とした会で、拠点をもったり、場所を探したりという意識はなかった」と下田さん。旧神戸移住センターが使えたのも、神戸市が震災後で経済的な余裕がなく、建物の活用法を見出せていなかったこと、対するC.A.P. には寄付による蓄えがあったことなどが重なった結果でした。「そもそも寄付が集まったこと自体も震災の影響が大きかった。寄付してくれた会社も、C.A.P.が震災後のこんな時期に前向きなことを話しているということで、ガンバレヨという気持ちで賛同してくれた」と下田さんは当時を振り返ります。

そんな貯蓄も「100人大掃除で全部吐き出しちゃった(笑)」というほど、当初は場当たり的な組織だったC.A.P. は、では、なぜ2002年にNPO法人化したのか? 佐藤からこの点を問われると、下田さんは「神戸市には旧神戸移住センターがまた空家になると困るという思惑があった。当時、日系ブラジル人の方たちから、ブラジル移民にかかわりが深いこの建物に移民センターをつくってほしいとの要望も出ていて、検討がはじまっていた。そうしたなか、C.A.P. がいなくなるとまた建物を管理する人がいなくなって、荒れた、とんでもない建物になってしまうと考えられ、管理を任されることになった」と話します。

男性が座ってマイクで話している。その奥には手話通訳が立っている
聞き手を務める、プログラムオフィサーの佐藤李青。

しかし、この組織としての成熟が、活動に歪みを生むこともあったようです。この日会場で流されたC.A.P.初期の軌跡をまとめた2006年の映像でも、当時代表だった杉山さんが、活動の創設メンバーとあとから合流したメンバーとの意識のギャップや、活動がシステマティックになってきたことへの危機感、マンネリ化しないことの重要性などを口にしています。

こうした歪みは、2009年の指定管理者への移行後に、最大に高まったと下田さんは話します。2000年代を通してかかわる人数が爆発的に増え、施設が充実したC.A.P.ですが、そもそもは市民サービスの組織ではありません。「でも、指定管理者になることで、かかわる人たちの間にサービスを提供する側と受ける側ができてしまった。そして、以前は自発的に行われていた話し合いにも、参加したくないという人たちが現れてしまいました」。

さらに2014年には、創設メンバー11名のなかでC.A.P.をもう辞めようという話し合いが1年間にわたって続きました。「当初の、神戸で活動する表現者の顔を見えるようにするという目的がある程度達成されたという理由もありましたが、簡単に言うと、アーティストたちが『飽きた』んですよね(笑)」と、下田さんはその背景を語ります。

しかし、会社も辞め、背水の陣で臨んできた活動を簡単に辞めるわけにはいきません。そうしたなか、下田さん個人は、最近、C.A.P.を以前のような姿に戻そうとしていると話します。「C.A.P.の原動力はあの場にいるアーティストたちですが、近年ではそれぞれ自分がどう売れるかという話になってしまう。そこで、みんなで共有できるものがあることが大事と思ってはじめたのが、『See Saw Seeds』というプロジェクトです」。2016年に開始されたこの活動では、ドバイ(アラブ首長連邦)、ハンブルク(ドイツ)、トゥルク(フィンランド)などにあるアートコミュニティとアーティストやリサーチャーを交換。地域を超えた交流のプロセスのなかで、「モチベーションを取り戻そうとしている」といいます。

海外ルーツの10人くらいの子供たちが紙袋でできた帽子をかぶったり、動物の形に切った紙袋を机の上に置いて笑ってこちらを見ている それを囲うように大人たちも立っている
2019年8月の「See Saw Seeds」ブレーメンの小学校でのワークショップ。マスダマキコによる紙袋を使って「私の中の動物」をつくる。

下田さんの話からは、自生的な組織に訪れがちな危機的な局面や、その逆境を超えて活動を持続する難しさ、かかわる当事者の思いが、リアリティをもって伝わってきました。

活動を維持するために求められる、自由な予算と価値の言語化

最後に、ゲストの3人が全員登壇し、会場からの質問も交えて意見を交わしました。

登壇者4名が、間の空いた2台の長机に2人ずつ座り話している。その横に手話通訳が立ち、参加者がその様子を聞いている
三富さん、飯島さん、下田さん、佐藤を交えてのディスカッション。

C.A.P.の活動についてきいた三富さんは、2014年にその創設メンバーが活動を辞めると言いはじめたエピソードを取り上げ、創造館にも同じことが起きるかもしれないと危機感を抱いたと言います。一方、ほかの拠点の実態を知るなかで、予算に困らず、行政からの介入も少なく、スタッフも20名ほどいる創造館は恵まれていると感じた、とも語りました。

これに対して、C.A.P.の有給職員は現在4名。この人数で、指定管理の仕事のほかに、先ほどの「See Saw Seeds」や、2010年にはじまった芸術祭「六甲ミーツ・アート 芸術散歩」にもここ数年、グループとして招待され参加しています。拠点には、ほとんどがつくり手という40〜50人ほどの正会員や、スタジオを使用するアーティストたち、近所や企業の人が出入りしているといいますが、下田さんはあらためて「C.A.P.は基本的に“つくる”場所と捉えている。行政の人は、たくさんの人に訪問してほしいと言うが、僕はボチボチでいいと思っている」と話しました。

アトリエのようなビルの一室で女性が作業している写真に、KOBE STUDIO Y3というテキストが青緑色で書かれたビジュアル
公開しながらアーティストが制作活動を続けるスタジオの様子を表紙にした「KOBE STUDIO Y3」2023年11月イベントカレンダー。

会場からは、拠点を続ける上で重要な財源や予算の質問も飛び出しました。

三富さんは、公開情報として、「創造館の年間予算は1億2000万円弱(令和5年度)。そのうち1億円は市からの予算で、1割は貸館の施設利用収入で賄うことになっている。貸館では年間1000万円弱が目標で、その超過分が出れば、自主財源的に使うことができる。また、秋田市の所管以外の部署からも、プロジェクト実施のために予算をいただいていて、それらで年間予算となっている」と話します。また、「運営するNPO法人の年間予算は2億円超。そのうち約1億円が指定管理費で、美術大学からの予算が5000万円、残りの5000万円は県内の他の自治体から、地域の課題解決につながるようなプロジェクトを実施してほしいということで予算がついている」と説明。そして、予算の多くが行政関係で占められている現状があるとし、そうなると3年で委託が終了したり、予算が徐々に減っていくことが多く、「自分たちで自由にできる予算を増やしていくことが課題」と述べました。

他方、「HAPPY TURN」では、予算のほとんどすべてが東京アートポイント計画の事業費として賄われていますが、その共催も2024年3月で終了予定。そのため、この1年は次の運営方法を模索する時期だったと、飯島さんは話します。また、ほかの宿泊施設の運営で予算を捻出(ねんしゅつ)したり、広場としての「くると」の価値を言語化し、行政関係者にきちんと伝えたりすることも、今後のチャレンジであり課題である、と話しました。

C.A.P.も、予算面では厳しい状況です。ある時期までは主要な財源だった寄付も、実は2014年の転換期に一度ストップしており、その後徐々に回復しているものの、規模は小さいといいます。また、指定管理費も多くはなく、ほかに大きな収入につながる事業も行っていません。そうしたなか、新たな収入源となっているのがふるさと納税の対象である寄付だといい、現在は別の土地に住む地元出身者から意外な寄付があると紹介しました。

男性がマイクを持って横向きで話している
C.A.P.の予算の現状について語る下田さん。

非出身者として、地域のなかで活動するということ

地域のなかで活動をする上では、その土地の慣習や住民たちとのつながり、または距離感も重要になります。議論では、会場から出た「地域の外から来たことのメリットや、地元の人とかかわる上での工夫は?」という質問を皮切りに、この点にも触れられました。

飯島さんは、神津島のコミュニティを「大きな学校みたい」と表現。「話したことがない人がいても、お互いの顔は知っている規模感」と説明します。そうしたなかでは、例えば学校の先生がイベントに参加する際も、先生の立場と個人の立場、どちらの立場から発言すべきかを問われるような場面があり、非常に複雑である一方、「個人の特性を活動内容に反映させやすいという面もある」と言います。加えて、島にはまだ屋号の文化が残っており、何か間違いや無礼があると関係が途絶えてしまうが、飯島さん自身やアーティストのような外部の人間だからこそ、慣習に縛られすぎずに行動できる面もあると語りました。

椅子に座りマイクを持って話している女性の横顔。となりには男性が座って腕を組んで話を聞いている
外部から神津島へ入った飯島さんならではの分析を伝える。

三富さんもこれに頷き、「その土地の出身者でないことには一長一短がある。地元の価値観に縛られないよさがある一方で、地域の慣習やネットワークを知らないと本音を聞き出せないことがある」とコメント。具体的には、方言の壁もあるため、地域の人の本音をリサーチするような場合には必ず地元出身者のスタッフを聞き手のなかに入れるといい、スタッフの構成も地元出身者と非出身者を半々くらいにするようにしていると明かしました。

また、地域の慣習については、三富さんから、地方における意思決定者にはいまだ圧倒的に高齢の男性が多く、女性というだけで扱いが悪くなることもがあるという指摘も。飯島さんもこれに共感し、神津島でも、事務局2人で話をしにいっても、男性である中村さんにだけ話をしていると感じることがあると話しました。

さらに、会場からは、枠組みや決まりを設け過ぎず、現場で起きることを待ったり、偶然性にオープンになったりといった、「余白」をつくるための工夫や、幅広い人を巻き込みながら持続的な関係性を築いていくための工夫に関する質問も出されました。

参加者が並んだ椅子に座っている様子を横から映している写真
「拠点」に興味を抱く多くの人々が集い、質問を投げかけた。

これに三富さんは、C.A.P.の紹介映像で「マンネリ化」や「システマティック」という言葉が危機感を伴うかたちで登場したことに言及。それは、創造館が「マニュアル化」を避けるのと一緒のことだと指摘します。そして、創造館では、かかわる人や状況に応じて常に対応を更新しているとし、「それが余白のようなものを生み出し、あるいは、変化することで常に誰かにはヒットする余地が生まれているのかもしれない」と分析しました。

一方の飯島さんは、出演した拠点に関する映像(「Knock!! 拠点を訪ねて—芸術文化の場をひらくひと— | 国立本店(加藤健介)× くると(飯島知代)」)に触れ、そこで「国立本店」を運営する加藤健介(かとうけんすけ)さんが話した、「0.2歩ぐらい前に行く」という表現を紹介。普段は拠点に集まった人たちやスタッフとフラットな関係を築きつつ、何かがあったときには意見を言えるぐらいの、上に居過ぎない立場を意識していると話しました。

「Knock!! 拠点を訪ねて—芸術文化の場をひらくひと— | 国立本店(加藤健介)× くると(飯島知代)

拠点の価値や方針を共有するための、言葉やアーカイブについて

ディスカッションの最後では、スタッフ間の日々のコミュニケーションや、未来のスタッフのためのアーカイブまで、広い意味での「共有」に関する話題が挙がりました。

日々、変化し続ける拠点のなかで、スタッフたちはどのように運営方針を共有しているのでしょうか? この問いに飯島さんは、「HAPPY TURN」では「デイリーミーティング」と称し、業務開始前に日々の「くると」の様子についてただ話す時間を設けていることや、日報をつけていることを紹介。三富さんも、創造館は2交代制のため、その交代の際に会話を交わすようにしていることや、マネジメントスタッフとは週に一度会議をひらくことなどを紹介しました。

一方で下田さんは、「初期のC.A.P.では、アーティストが建物にいただけだったのに、そこからさまざまなことが生まれていた」と振り返り、「ミーティングはなかったが、コミュニケーションはあった。だいたいポイントになるのは、ご飯」と話しました。建物内にいる時間が長ければ、食事をする機会も増え、そこに会話が生まれます。

しかし、こうした一時期の現場のノリや共通感覚は、C.A.P.がそうであったように、あとから加わったメンバーにはなかなか伝えづらいのも事実です。そうしたなかで、それぞれの拠点ではどのようなアーカイブがつくられているのでしょうか?

capsuleと書かれた冊子が3冊、おかれている。
サポーティングメンバーシップマガジン「capsule(キャプスル)」を年4回発行。まち、暮らし、アート、C.A.P.とかかわる国内外の人々を紹介し、アーカイブ化している。

三富さんは、創造館でもスタッフが何度か大きく入れ替わるなか、いままさに「かかわった時期によってバラバラな熱量を合わせることに多くの時間を割いている」とコメント。このイベントの前の週にも、スタッフ全員と個別に1時間ずつ面談し、施設の方向性について確認したと話しました。

また、アーカイブに関しては、ウェブに記事などは残しているものの、それだけでは人に何かを伝えるリソースとして「弱い」と指摘。「スタッフが30名ほどになるなか、自分たちが何を大事にするのかを確認する時期」とし、2023年11月に、「いま、ここをたがやす。つくるをつなぐ。」をミッションに、「人に、まちに『感動と発見を』。」を掲げる「ビジョン 2027」を策定し、施設の方針を言語化したことを紹介しました。

一方の飯島さんは、人への共有の方法について、「まずは拠点に来てもらうことしかないと思う。わたし自身、なぜ島に拠点が必要か、ひらきながら試行錯誤してきた。それと同じく、拠点に来た人を仲間にしていくことしかない」とコメント。同時に、自身は「島のなかだけで仲間を見つけないようにしている」とも話し、挫(くじ)けそうなときは東京アートポイント計画のプログラムオフィサーの励ましや、その対話で共有されたものが助けになってきたと語りました。

また、その過程を記したアーカイブについて、「HAPPY TURN」のこれまでの活動を年表のようにまとめた『HAPPY TURN CHRONICLE(ハッピーターンクロニクル)』を2022年度末に制作し、ここに試行錯誤の歴史を詰め込んだと語り、「新しく島に来た人とも共有していけるツールにもなるし、自分のアーカイブとしても、今日の資料をファイルに挟むなどして、記録し続けられたら」と話しました。

写真の貼られた青いファイルが机の上に立てかけてある
ファイルの中には写真や年表のようなものが折り重なって納められている
神津島での5年間の変遷を、チラシや図面などの印刷物や記録写真、“当事者”年表によってまとめたドキュメントファイル『HAPPY TURN CHRONICLE』。

最後に下田さんは、ちょうど「Artpoint Meeting」の時期にC.A.P.で開催中だった、CAP HOUSEに関する資料を並べた展示「ぐるちゃんと愉快な仲間たち~CAP HOUSE 本気の遊び場」に言及しました。1999年に開催された190日間の「CAP HOUSE」では、100人のアーティストが一か月ごとにその記録を「作品」として制作しました。今回の展示であらためてそれらを見た下田さんは、「ただ残すというだけではなく、その先に、どうやって記録を使うのかという視点があることが大事。そのとき、活動が作品のかたちで残っていることはいいなと感じた」と話し、アーカイブに表現がかかわることの可能性を指摘しました。

ビルの一室のような場所に、展示品が什器に飾られていたり、机の上に紙や資料が並べられていたり、Tシャツが掛けられていたり、モニターが置かれたりしている
机の上にファイルが立っていたり、素面が置かれていたりする
2023年12月開催「ぐるちゃんと愉快な仲間たち~CAP HOUSE 本気の遊び場」展示風景。

活動する地域の特性も、その規模や組織、はじまり方もバラバラな3つの拠点の関係者が言葉を交わした今回の「Artpoint Meeting」。その対話からは、人がある動機や目的をもって集まり、具体的に活動を展開するなかで共通して現れる課題が浮かび上がりました。

と同時に、冒頭の櫻井の表現を借りれば、物理的に存在する「場所」や、あくまで一時的な状態に過ぎない「場」とは異なり、ある程度の長期間に渡り、人がかかわっていくための仕掛けである「拠点」には、ときどきの状況に応じた変化や更新、そしてそれを不断に行い続ける動的な対応力が求められる——。そんなことも感じたイベントになりました。

ガラス扉の向こう側で行われているイベント風景。登壇者と手話通訳、それに向き合うように参加者が椅子に座って並んでいる

レポート前編はこちら>

「拠点」とは何か? 秋田、神津島、神戸の事例を通して考える(前編)

「拠点」とは何か? 秋田、神津島、神戸の事例を通して考える(APM#14 前編)

アートプロジェクトにかかわる一つのテーマをめぐり、毎回、幅広いゲストと対話を重ねてきた東京アートポイント計画のトークシリーズ「Artpoint Meeting」。2023年12月17日、その第14回が、東京都・武蔵野市の「武蔵野プレイス」にて開催されました。

今回のテーマは、「わたしたちの “拠点” をつくる:ひらきかた と つづけかた」。東京アートポイント計画で実施されるアートプロジェクトにおいても、重要なものとして耳にする機会の多い「拠点」というキーワード。しかし、そのあり方や運営の方針は、プロジェクトの目指すものや活動地域などによってさまざまに異なります。

この日は、そんな、よくよく考えると捉えどころのない「拠点」というものについて、「秋田市文化創造館」に携わるNPO法人アーツセンターあきた事務局長の三富章恵(みとみゆきえ)さん、神津島で展開されているアートプロジェクト「HAPPY TURN/神津島」事務局の飯島知代(いいじまともよ)さん、そして、神戸の地で約30年にわたり活動を行っている「C.A.P.[芸術と計画会議]」ディレクターの下田展久(しもだのぶひさ)さんという3名のゲストに、それぞれの考え方を伺いました。

当日の模様を、ライターの杉原環樹がレポートします。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:仲田絵美*1-5、9、13、14枚目)

ガラス窓の前に4人が並んで立っている
右からゲストの飯島知代さん、下田展久さん、三富章恵さん、プログラムオフィサーの櫻井駿介。

「拠点」とは、何かがはじまり集まるための「仕掛け」である

この日はまず、プログラムオフィサーの櫻井駿介が、東京アートポイント計画の簡単な説明とともに、「拠点」というテーマを設定した問題意識について話しました。

2009年にはじまった東京アートポイント計画では、2023年度までに56団体と共催し、45のアートプロジェクトを行ってきました。例えば、市民と協力してまちなかに活動のための場所をひらいたり、多文化をテーマにした映像ワークショップを行ったり、手話を通じて生まれてきた文化に目を向けたコミュニティ形成を目指したり。その活動は、派手で一時的なイベントではなく、わたしたちの暮らしのすぐ隣にあるようなささやかなものが多いことが特徴です。

アーツカウンシル東京の「文化創造拠点の形成」事業として位置づけられている東京アートポイント計画では、そのような「新たな価値観や創造的な活動を生み出す『拠点』をまちなかにつくること」で、「わたしたちの暮らしのなかに、個人が豊かに生きるためのよりよい関係や仕組み、コミュニティを育む」ことを目指してきた、と櫻井は整理します。

男性が机に座ってマイクを持って話している。その人の手前にそれを聞く登壇者が座り、奥側には手話通訳が立っている
オープニングにて今回のテーマ「拠点」について問題提起を行う、プログラムオフィサーの櫻井駿介。

また、実現に長い時間がかかるこうした取り組みを続ける上で、東京アートポイント計画では、プロジェクトのプロセスや、持続的な事務局(運営チーム)づくり、さらに周辺地域や地域住民との接点づくりにも力を注いできました。こうしたなかで、多くのプロジェクトに必要とされるのが、「拠点」と呼ばれるものになります。

しかし、あらためて「拠点」とは何でしょうか? そのイメージを掴むために、櫻井はこれと類似する「場所」や「場」という言葉とを比較しました。それによれば、「場所」とは具体的な大きさや広さ、位置をもつ空間の「条件」のことで、「場」とは、その上で何かが生まれたり、行き交ったりする「状態」のことです。これに対して「拠点」は、それを起点に何かがはじまったり、集まったりする一種の「仕掛け」ではないかと櫻井は言います。

参加者が「わたしたちの拠点をつくる、ひらきかたとつづけかた」と書かれた紙や参考資料を持っている手元の写真

東京アートポイント計画では近年、さまざまなプロジェクトにおいて、こうした拠点をめぐる動きが活発化しています。例えば、災禍の記録のネットワークづくりを行う「カロクリサイクル」というプロジェクトは、2023年9月に江東区・大島(おおじま)の団地の一角にコミュニティ交流拠点「Studio 04」をオープン。一方、ろう者を中心としたプロジェクト「めとてラボ」は、台東区・谷中(やなか)にろう者も安心して過ごせるワーキング・プレイスとして「5005」という拠点を立ち上げました。

ここで重要なのは、かれらの拠点が、その立地や仕組みにおいて、活動の目指す方向と相補的(そうほてき)であるという点です。だとすれば、「拠点」は必ずしも物理的な空間を伴う必要もないかもしれません。東京アートポイント計画では、こうした拠点の多面性を捉えようと、今年、プロジェクトの担い手が二組ずつ「拠点」をテーマに対話を重ねる映像シリーズを制作・公開しました(拠点運営を考える対談シリーズ「Knock!!拠点を訪ねて」)。今回の「Artpoint Meeting」は、こうした一連の流れを受け、「拠点づくりの周りにあることを考えたい」との思いから組まれたと、櫻井は説明しました。

秋田市文化創造館——市民が何かをつくり、新しい活動を育むための場所

つづく「地域のなかで、拠点をひらく」と題したクロストークには、ゲストの三富章恵さんと飯島知代さんが登場。それぞれのかかわる施設やプロジェクトを紹介しました。

三富さんが事務局長を務めるNPO法人アーツセンターあきたは、2021年3月に秋田市の市街地にオープンした「秋田市文化創造館」(以下、「創造館」)の運営を行っています。この建物はもともと1967年に開館した秋田県立美術館でしたが、2013年に閉館。その後、愛着をもつ地元の声を受け、市が土地を借り受け、活用を模索してきた施設でした。

机にすわる2人の女性、そのうち一人がマイクを持って話している
NPO法人アーツセンターあきた事務局長、三富章恵さん(左)。

2018年にまとめられたその利活用調査報告書では、施設の今後の方針として「まち全体の文化力を涵養(かんよう)」「未来の地域社会に向けた感性を創造」「新たなまちの魅力とにぎわいを創出」「市民のまちへの愛着と誇りを醸成」の4つが決定。さらに、JR秋田駅から徒歩圏内のほかの文化施設が基本的に「鑑賞」のための場所であるのに対し、創造館では、「市民が新しいことをつくっていく場所」にするという方向性がまとめられていきました。

大きな建物の前の広場に利用者が行き交っている
旧秋田県立美術館の建物を活用した秋田市文化創造館。写真は2023年3月に行われた「秋田市文化創造館 フリー・オープン・デイ」の風景。撮影:中島悠二

2018年からその計画づくりに参加した三富さんは、当時を振り返り、「当初は劣勢からのスタートだった」と話します。もとが県美の建物であること、NPO自体も秋田公立美術大学が母体であることなどもあり、どうしても「美術の施設」との印象が強かったのです。創造館ではその状況に対し、施設の機能を狭義の美術に絞るのではなく、「アーティストと実験する『創造実験』」「新しい知識や視点に出会う『機会の提供』」「アイデアを実践してみる『創造支援』」などとゆるやかに設定。さらに、積極的に建物の外に出ることを通して、「まちに“新しい活動”を育む」ことを目指してきたと、三富さんは言います。

2021年の開館後も、創造館では多様な人に関心をもってもらうための工夫をさまざまに施してきました。例えば、食や農業といった身近なテーマの企画をしたり、地域のイベントと連携したり、視覚的な情報発信に力を入れたり。また、主催事業だけでなく、共催や貸館事業にも取り組んでいますが、驚きなのが1平米を1時間=5円で借りられること。この破格の賃料から、施設には市民からの使用に関する幅広い相談が届きますが、スタッフ間には「できるだけ可能性を否定せず、どんな相談にも耳を傾けよう」という姿勢が共有されているといいます。その結果、創造館では、野菜づくりや料理、広場でのキャンプやヴァイオリンの演奏、こどもの遊び場としての利用、対話の機会の創出など、実に多様な活動が行われてきました。

原っぱに黒いテントが並んで建っており、その間を行き交う利用者や、テントの中にいる利用者がいる
2022年9月、秋田市文化創造館の屋外エリアで開催された「PARK—いきるとつくるのにわ」プロジェクト「親子でサバイバル(火・食・住)」。撮影:田島陽
屋内で、スケボーにのった人が1メートル弱の高さの仮設スロープからおりようとしている。近くにはもうひとりスケボーにのろうとしている人がいて、その様子をカメラマンやギターを持った人、ドラムに座った人、椅子に座った人々が見ている
2023年1月開催、おおしまたくろう「滑琴狂走曲 in 秋田!(カッキンラプソディー・イン・アキタ)」。撮影:伊藤靖史(Creative Peg Works)

そこに行けば、誰かが何かをつくっている姿に出会える場所として、着実に市民に親しまれているように見える創造館。一方、三富さんは今後の目標として、潜在的な利用者に施設を知ってもらうことや、運営を持続する人材の確保や育成が挙げられると話しました。

「HAPPY TURN」の「くると」——名づけないことで生まれた島の居場所

もう一人のゲストの飯島さんは、伊豆諸島に浮かぶ神津島で、2018年から東京アートポイント計画の共催事業として「HAPPY TURN/神津島」(以下、「HAPPY TURN」)というプロジェクトを展開しています。

女性がマイクを持って座って話している。隣にいる女性はメモを取っている
「HAPPY TURN/神津島」事務局の飯島知代さん。

東京都心から大型客船で約12時間を要する人口約1800人の神津島では、多くの出身者が大人になると島を出ていきます。そして、そうした人が島にUターンすることを、島の方言では慣習的に「しまってくる」とネガティブに表現していました。HAPPY TURNはそんな状況に対して、島に戻ることを「ハッピー」に捉え直したり、かかわる人たちがそれぞれの暮らしのなかで「幸せ」を再考したりする契機をつくる活動を目指してきました。

そんなHAPPY TURNが最初に取り組んだのが、地域の拠点づくりです。その土台は、10年近く空家だった元中華料理屋。メンバーはまず、空間デザインも行うクリエイターユニット「岩沢兄弟」の協力も得ながら、掃除大会を行いました。業者に頼むのではなく、張り紙で島民にも助けを求めながら、自分たちで拠点を整え、ひらいていったのです。

古民家くらいの大きさの屋根のある屋外空間に、たくさんの親子連れが集まっている
島の中心部にあった元中華料理店と大工小屋を清掃・改修した「くると」外観。その後、道路を挟んで向かいの元商店も活用している。

おもしろいのは、その拠点の用途を意図的に曖昧にしたこと。作業を手伝いに来たり、見に来たりした島民から「何をつくっているの?」ときかれても、明確な答えを避け、「わからないことをそのままにすることを頑張った」と飯島さん。この名づけの回避により、「何をしたいのかわからない」という理由で「くると」から離れる人もいましたが、他方でその用途のなさが、遊び場を探すこどもたちや、島に居場所をもたない移住者たちを惹きつけることに。こうしてHAPPY TURNの活動開始からのおよそ3年間は、ひたすら拠点づくりに注がれました。

現在は週に3日間、午後に拠点を開放。スタッフには子育て中の人も多く、「くると」は島で重要な親子のコミュニティになっているといいます。そうした活動のなかでは、運営の方針や場のあり方をめぐり、飯島さんと、代表の中村圭(なかむらけい)さんとの間で意見の相違が起きることも。何事もきちんと整えたい性格だという飯島さんは、以前、島で不要になった部材や道具を何でも「くると」に拾ってきてしまう中村さんの行動にやきもきしていましたが、その雑然さをこどもたちが楽しむ姿を見て、「この場所のルールを誰かが決めていいのだろうか、と疑問に思うようになりました。いまでは少し気になることがあっても、答えを保留してまずは話し合うようにしている」と心境の変化を語りました。

穴の掘った砂場に木の板を架けて、そこを子供たちがわたっている。穴の周りにも子供たちが立って、その様子を見ている
「くると」の庭で自由に遊ぶこどもたち。

「くると」では、2020年から本格的にアーティストプログラムも開始。アーティストの山本愛子さんや大西健太郎さん、音楽ユニットのテニスコーツ、アートコレクティブのオル太らを招聘して、島に現代アートや先鋭的な音楽のエッセンスを導入しはじめています。一方、こうした一種のハレの活動と並行して、「部活」と称した大人向けの活動も展開。ウクレレ部、おどり部、筋トレ部などの小さな活動を通じて、島の大人と拠点の日常的な接点も増やしています。飯島さんは「活動をはじめたころは『アート』というだけで驚かれていたが、こうした活動を通して最近は少しずつ島に馴染んできた」と振り返りました。

机を囲んで5人ほどの人がウクレレを弾いている
「くると」で行われるさまざまな部活。写真はウクレレ部。

ルールや相談の幅を決め過ぎず、話し合いのなかで運営方法を見つける

その後は、冒頭に話をした櫻井も交え、三富さんと飯島さんがお互いの話をきいた感想を述べ合いました。

スクリーンの前に座って話している3人の登壇者と、その横に手話通訳が立っている。手前には、椅子に座ってその様子を見ている参加者が並んでいる
三富さん、飯島さん、櫻井を交えてのクロストーク。

「くると」の活動を初めて詳しく知ったという三富さんは、「よくわからない場所であることを大切にする」姿勢が印象に残ったとし、「創造館も何の施設かわからないと言われることが多いが、わたしたちは説明しすぎていると反省した」とコメント。そして、飯島さんが最後に語った「馴染んできた」とは具体的にどういうことか、と問いを投げました。

これに飯島さんは、島民には当初、その場所へのかかわり方がわからず、近づき難い感情があったものの、こどもが集まったことを機に、大人の間でも「くると」が「あってもいい場所」という認識に変わっていったと返しました。櫻井もこれに続け、神津島には不動産屋がなく、島外からの人は島への入り方がわからないこと、そうしたなかで「くると」が移住希望者にとっての重要な情報収集の場や、移住者にとっての居場所の一つになっていることなどを補足しました。

マイクをもって女性が話している。その様子を隣の女性が聞いている
「拠点」が地元に馴染んでいく状況についてたずねる三富さん。

2人からは、拠点のスタッフに関する話題が多く挙がりました。飯島さんは、「くると」よりも規模の大きい創造館で、スタッフ間にどのような姿勢の共有があるのか興味があるとし、発表にあった「市民からの使用に関する相談の可能性を否定しない」という姿勢が印象的と話しました。

三富さんは、創造館のスタッフには美大の卒業生や県外でアートプロジェクトを経験してきた人も多いことから、「基本的に、禁止することへの抵抗感は共有していると思う」と語ります。そうしたなか、最近もバナナの栽培を広めたいという男性がもち込んできたバナナの苗木を育てることになったというエピソードや、館内のいたるところに作品を展示したいともち込まれた絵画作品を、そのまま施設利用として受けてしまうと利用料の負担が大きくなりすぎるため、一部はトンチのように「展覧会誘導のためのポスター」として掲出し、利用者にかかる負担を軽減したエピソードなどを披露。市民にひらくことで思いもよらないような相談やアイデアがもち込まれるが、「いまは何とかそれらを実現しようと考えることが楽しくて仕方ない」と語りました。

ただ、禁止事項やルールを決めないことにも限度はあるはずです。櫻井から拠点の運用にあたり何らかのマニュアルはあるのかと問われた三富さんは、「マニュアルがあったらどれだけ楽か。ただ、それをつくった時点で創造館のよさは終わる。初めてのケースに対しては毎回内部で話し合って決めている」と回答。これに飯島さんも、「『くると』も同じ。困ったときはその場で判断せず、スタッフ間で相談している」と続けます。そしてその一例として、最近「くると」のなかでこどもたちがYouTubeなどの動画サイトを見ることの是非についての議論があったと紹介。話し合いの結果、「サッカーや野球が禁止されたことで公園がつまらなくなったように、動画サイトも一方的に禁止すべきではない」と、判断を保留していると語りました。

このパートの最後には、櫻井から「拠点を運営する上で『アート』に委ねているものは何か?」という質問も挙がりました。もともとアート畑出身ではないという飯島さんは、「いろんな活動を経て、最近ようやくアートってこういうことかな?というニュアンスがわかってきた」とし、「アートの見方や考え方を使うことで優しくなれるというか、アートプロジェクトだからこそ触れられる領域があると感じている」と話します。そして、その一つの可能性は、「資本主義のなかでこぼれ落ちるものを拾うようなことができる点にあるのではないか」と指摘しました。

古民家のような場所の中で、奥のふすまに映像が映され、その手前に横たわった人と、それを膝立ちで見ている人がいる。手前にはその様子座って見ている人々がいる
2023年「アーティスト・プログラム in 神津島」オル太による「漂白と遍歴」。撮影:縣 健司

一方の三富さんは、たびたび語られるアートとデザインの比較論に言及。ゴールを設定する後者に対して、前者は未来にオープンである点が特徴だとし、「そうしたアートの性質が創造館と親和性が高い部分だと思う」と語ります。ただし、根強い「アートの施設」という印象を払拭するため、なるべく「アート」という言葉を使わないようにしてきたこれまでの経緯も振り返り、櫻井の問いには時間をかけて考えていきたいと話しました。

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「拠点」とは何か? 秋田、神津島、神戸の事例を通して考える(後編)

東京アートポイント計画|PR MOVIE

都内各地で様々なアートプロジェクトを実践する「東京アートポイント計画」のPRムービーです。

東京アートポイント計画は2009年にスタートし、東京都・アーツカウンシル東京・NPOが協働しながら、社会に新たな価値観や、人々が自ら創造的な活動を生み出すための「アートポイント(拠点/場)」をつくっています。Tokyo Art Research Lab (TARL)ウェブサイトも、東京アートポイント計画の一環として運営しています。

使用写真
  • 500年のcommonを考えるプロジェクト「YATO」, YATOの縁日(撮影:白井裕介), 町田市
  • 川俣正・東京インプログレス―隅田川からの眺め, 汐入タワープログラム(撮影:田口まき), 荒川区
  • リライトプロジェクト(撮影:丸尾隆一), 港区
  • カロクリサイクル, 展覧会「とある窓」(撮影:森田具海), 江東区
  • Artist Collective Fuchu [ACF], ラッコルタ-創造素材ラボ-「いしのこえとみかげ」(撮影:深澤明子), 府中市
  • TERATOTERA, 「TERATOTERA 祭り」淺井裕介・遠藤一郎(撮影:Hako Hosokawa), 三鷹市
  • Tokyo Art Research Lab, アートプロジェクトの担い手のための手話講座(撮影:齋藤彰英), 千代田区
  • HAPPY TURN/神津島, 活動拠点「くると」, 神津島村
  • アートアクセスあだち 音まち千住の縁, 大巻伸嗣「Memorial Rebirth 千住」(撮影:冨田了平), 足立区
  • アートアクセスあだち 音まち千住の縁, 大友良英「千住フライングオーケストラ」(撮影:高島圭史), 足立区

「解決のヒントはおとなりさんがもっている2023」ヒアリング報告会

東京アートポイント計画に参加する複数のアートプロジェクトの事務局が集い、アートプロジェクトにまつわる課題や疑問についてともに学び、知見を共有する勉強会「ジムジム会(事務局による事務局のためのジムのような勉強会)」。2023年11月に開催した第2回は、アーツカウンシル東京にて、9月から実施してきた他団体ヒアリングの報告会を実施しました。

「おとなりさん」を訪ねてみる

第2回目のジムジム会のテーマは、「解決のヒントはおとなりさんがもっている2023」。昨年度末に行われた「ジムジム会2022 歳末学び合い〜解決のヒントはおとなりさんがもっている〜」の第2弾を開催しました。

この企画は、各プロジェクトの事務局メンバーが、東京アートポイント計画の共催団体や、以前事業に関わっていた団体=「おとなりさん」を訪問。「拠点を訪問し、運営について尋ねてみたい」「企画や事務局の体制について相談したい」「なにか一緒にできることを探ってみたい」など、それぞれが事業に関わる興味関心や課題をもとにヒアリングを行い、協働するきっかけづくりや、ヒアリングで得た知見をこれからの事業運営に活かすことを目的として生まれました。

今回のジムジム会では、話を聞きに行った団体と、話を聞かれた団体、そして事業を担当するプログラムオフィサー(PO)がともに登壇し、各団体がヒアリングを通して得た学びや気づき、今後の取り組みについて発表しあいました。その様子をレポートでお伝えします。

ヒアリングの組み合わせ

  • ファンタジア!ファンタジア!―生き方がかたちになったまちー×めとてラボ(相互ヒアリング)

HAPPY TURN/神津島×アートアクセスあだち 音まち千住の縁、ファンタジア!ファンタジア!―生き方がかたちになったまちー

モニターの横に女性が二人座って発表している

神津島内で拠点「くると」を運営するHAPPY TURN/神津島(以下、HAPPY TURN)は、「活動拠点の運営」をテーマにヒアリングを実施。今後、拠点を持続的に運営していく方法や拠点を支える仲間づくりのヒントを得るべく、「くると」の運営スタッフである角村さんが、アートアクセスあだち 音まち千住の縁が運営する「仲町の家」と、ファンタジア!ファンタジア!―生き方がかたちになったまちー(以下、ファンファン)が運営する「藝とスタジオ」を訪問しました。

角村さんは、「仲町の家」では「草むしり交流会」、「藝とスタジオ」では「アートマネージャーPARTY」といった各拠点で開催されているプログラムに参加し、まちなかの拠点がどのようにひらかれていて、地域住民とかかわりを持っているのか、拠点を活用する人々の視点から2つの拠点の役割を確かめることからはじめました。プログラム参加後、事務局スタッフへのヒアリングでは、「運営面で難しく感じていること」「日々の活動の記録の仕方」「地域との関わり」「続けることの原動力になっていること」など多岐に渡って質問。話をして見えてきたことは、どちらのスッタフも「日々、拠点をひらき続ける」ことを一番大事にしているという点でした。

ファンファンのスタッフは、拠点を「保健室」にたとえ、「開けていたらフラッと訪ねてくる人がいて、相談しに来たりする。言葉にしてみてチャレンジできる場所になっている。そんな場所としてコツコツと続けてていくことが大事」と話したそうです。

角村さんはヒアリングを振り返り、「拠点をひらき続けることは些細なことで、なかなかその価値を説明しにくい。拠点を運営していると、地域にどのような影響があるのか、どれだけの人々にリーチしているのかなど、目に見えやすい成果を問われることも多いように感じる。だからこそ、拠点を『言語化』していくことを大事にしていきたい」と語りました。

ACKT (アクト/アートセンタークニタチ)×HAPPY TURN/神津島

モニターの横に3人が並んで発表している

国立市を舞台にプログラムを展開する「ACKT (アクト/アートセンタークニタチ)(以下、ACKT)」は、ともに事業を進める国立市の関係者も交えて、HAPPY TURNへヒアリングを行いました。

今年度で活動3年目となるACKTは、谷保駅前にある拠点「さえき洋品●(てん)」のオープンに向けて準備を進めていくなかで、地域の人々が拠点に訪れやすくなる仕組みを考えたいと、

拠点「くると」の事例を参考にしてみることにしました。

ACKTの安藤さんは特に印象に残ったこととして、HAPP TURNのメンバーが「くると」に「屋根のある公園」というキャッチコピーをつけていることについて話します。

「拠点について説明をするときに“アートプロジェクト”という言葉を使ってもなかなか伝わりにくい。『くると』のように、キャッチコピーがあるだけで拠点との距離感は近くなるので、地域の人へ説明するときの強みになると思った」と、拠点の意義や役割を地域の人へ届けるコツを学びました。

また、報告会では、拠点運営にまつわる話だけでなく、ACKTが行政と連携していく上での課題感についても共有。行政と団体の双方がもつミッションを摺り合わせていくこと、アートプロジェクトを運営する上での「共通言語」をつくることの難しさについて話しました。ACKTの丸山さんは、さまざまな課題を振り返りながら、「プロジェクトの成果だけをみてもらうのではなく、企画の段階から一緒に考える時間をつくる方向へ変化させたい」と言います。今回のヒアリングは、市の関係者に参加してもらうことで、意識共有を図る目的もあったようです。

今後、「さえき洋品●(てん)」だけでなく、拠点の付近にある公園を使ってなにか新しいことに取り組みたいというACKTメンバー。「行政との協働なしにはできなかったこともあるので、今後は市の職員とも考える時間をもちながら、その成果を事業に落とし込み、アートプロジェクトとして見せられるものつくっていきたい」と、展望を語りました。

ACKTの活動については、以下の記事からもご確認いただけます。

KINOミーティング×カロクリサイクル

モニターをつかって発表している人と、椅子に座って並んで発表を聞いている会場の人々

都内各所でルーツが異なる人々と映画制作のワークショップを行っている「KINOミーティング(以下、KINO)」は、江東区で災害の記録を活用したプロジェクトを展開している「カロクリサイクル」と相互ヒアリングを実施。それぞれ東京アートポイント計画で活動をはじめて2年目ということもあり、お互いにプロジェクトの内容を紹介しあいながら、主に企画・制作のプロセスや広報の仕方、仲間づくりについて共有しました。

参加者が主体となり、作品制作を行うプログラムに取り組むという共通点のあるKINOとカロク。話のポイントとなったのは「プロジェクトや作品の届け方」。

「プログラムを行っていくなかで、制作された作品やその過程を外部にどのように届けていったらいいのか掴めずにいた。届けたいと思って必死にウェブサイトやアーカイブブックを制作してきたが、果たしてこれは誰が見るんだろうと、受け手の顔が浮かびづらかった」と言うKINOメンバーの阿部さん。KINOではこれまでスタッフが中心となって広報を行っていましたが、今回のヒアリングでの一番の気づきとなったのは「作品を作った参加者自身が、作品を届ける」という参加者を巻き込んだカロクの取り組みでした。

カロクのプログラム「とある窓」では、参加者が展覧会のスタッフとして、来場者にプログラムの内容や制作に関わった作品について話す場がありました。カロクの中村さんは、プロジェクトや作品を参加者が主体的に紹介していくことについて、「参加者が活動を通してだんだんできるようになって行けばいいと思っているし、はじめから完璧にしなくていい。今回のプログラムは参加者のための場でもあったので、自力でやれることは任せるようにしている」と、緩やかに参加者を巻き込み、運営スタッフだけではない目線での広報にチャレンジしていくことの可能性について共有しました。

KINOとカロクの手法が異なるように、プロジェクトのかたちによって、広報の仕方はさまざま。今回のヒアリングを通して、両者ともに改めてプロジェクトの意義を見つめ直したり、そのプロセスや成果を伝える工夫について考える時間となりました。

多摩の未来の地勢図 cleaving art meeting×多摩エリアの図工の先生

ホワイトボードをつかって発表している女性

多摩地域を舞台にプログラムを展開する「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting(以下、多摩の未来の地勢図)」は、特定の団体へのヒアリングではなく、事業で取り組んでいるプログラム「ざいしらべ」での現場の課題について事務局長の宮下さんが報告しました。

「ざいしらべ」は、多摩地域の小学校の図工専科教員を主な対象として、個人では手に入れにくい自然素材や大型素材の提供、伝統的な技術や技法、素材、ICTに関するワークショップなどを通じて、授業での表現や造形の拡張を促すきっかけをつくっています。

ほかにも、技術が持つ広がりや役割、歴史的な背景について知見を深めたり、各機関と連携し、素材や技術の情報、ワークショップや授業の様子を整理・アーカイブし、教員や地域とのネットワークづくりを行っています。

活動をはじめて3年が経ち、活動が広域に展開しつつも、一方で現場にはさまざまな困難があることも見えてきました。特に宮下さんが感じているのは、教員とのネットワークをつくり活動しようとプロジェクトを進める際に、教員の集まりのなかでも、年齢や立場が異なる相手とのコミュニケーションや経験の引継ぎが難しいといった状況があること、またそうした状況が外側からでは見えてこないということでした。

現場で建設的なコミュニケーションを成り立たせるためにはどうしたら良いかを考えたとき、ひとつは、事業が地域に対してどう開かれていくか。もうひとつは、普段関わらない人、異物となる人、例えばアーティストが現場に入り込む状況をつくっていくことがこの課題を乗り越えるために必要だと宮下さんは話します。そして、実際に小学校にアーティストを滞在させるプログラムを検討するなど、変化に向けて動き出しています。

「新しいことを取り入れることで、新たな衝突が起きると思うが、その衝突自体がもしかしたら現場での閉塞感を揺すったり、違う角度から見つめることができるようになるのではないかと思っている。新しい取り組みを通して、ともに考えていく現場をつくりたい」と話しました。

Artist Collective Fuchu[ACF]×ファンタジア!ファンタジア!―生き方がかたちになったまちー

5人が並んで座っている。そのうちの二人がマイクを持って会話している

府中市で活動する「Artist Collective Fuchu[ACF](以下、ACF)」は、プログラムや拠点の運営を参考にしたいと、オンラインで「ファンファン」にヒアリング。

ACFは、府中市で「だれもが表現できるまち」を目指して、アートと府中をテーマにしたラジオ番組の放送やワークショップ、展覧会づくりなどに取り組んでいます。今年度は特に、府中市の企業が提供する廃材を創作の場に活用する仕組みづくりなど「ラッコルタ―創造素材ラボ―」(以下、ラッコルタ)に力を入れて事業を進めてきましたが、その活動のなかで企業や自治体、今までアートに関心がなかった人々とつながる機会が増えてきました。

ラッコルタ担当の宮山さんは、このつながりを深めていきたいと、以前から興味のあった福祉の分野で、多様な人が関わりあうきっかけがつくれないかと考えました。そこで、キュレーターとして活動する傍ら、社会福祉士を目指すファンファンのディレクターである青木さんへアプローチを試みました。

宮山さんは、ヒアリングを振り返り、「福祉側の制度を学び、その基礎のもとでアートを使ってできることを学んでいきたい」という青木さんの言葉がとても印象に残ったと言います。

府中市の高齢者施設でラッコルタでのワークショップの開催を検討しているタイミングでもあったため、「ACFでも現場の声を聞いたり、勉強会からはじめて自分たちから学んでいきたい」と、意欲をみせました。

ファンタジア!ファンタジア!―生き方がかたちになったまちー×めとてラボ

モニターの横に3人が並んで発表している

最後の発表は、視覚言語(日本手話)で話すろう者・難聴者・CODA(ろう者の親をもつ聴者)が主体となって活動する「めとてラボ(以下、めとて)」と「ファンファン」のグループです。こちらの2組は、6月に協働企画したワークショップ「藝とスタジオのひらきかたを考える『言語を超えて他者と出会う』」の成果について報告しました。

この協働企画は、昨年開催したジムジム会「たくさんの人と出会うための方法。サインネームを考えよう!」の実施や、手話通訳の導入など、めとてが東京アートポイント計画で事業をはじめ、ジムジム会全体のアクセシビリティに対する取り組みが広がったことがきっかけです。

ファンファンの磯野さんはワークショップの目的として「藝とスタジオの拠点を開いていくときに、誰に対してオープンにしているのか、そのオープンは誰しもが来られるようにできているのか。自分たちもアクセシビリティについて学んでいきたいという気持ちがあった」と言います。

ワークショップでは、音声言語を用いず指差しやジェスチャーで会話することからはじめ、「シェイプイット」というコミュニケーションキットを用いて身体をつかって表現することにチャレンジしたり、名前や出身、年齢を身振り手振りで伝えてみるワークを体験。ろう者・難聴者とかかわるなかでの知識や手話といった技術よりも、まずは互いにコミュニケーションのかたちの幅広さやおもしろさを知る機会をつくりました。

また、ファンファンの拠点にめとてのメンバーが訪れ、活用してもらうことで、拠点のアクセシビリティについても発見があったようです。めとてメンバーからは「互いが持っている強みや特徴を活かして、次回もなにかでできないか」という声も。この協働をきっかけに、双方の活動拠点で新たな取り組みが生まれる可能性が感じられる場となりました。

藝とスタジオで実施されたワークショップの様子は、以下のレポートから詳細ご覧いただけます。

報告会を経て

会場側の参加者のひとりがマイクを持ってしゃべっている

ジムジム会を終えて、参加者からは以下の感想が集まりました。

KINO+カロクメンバーの報告は、プロジェクトに何が必要で、どんな手があるのか分からない中で行っていた初期のジムジム会のことを思い出しました。運営や内容の話だけではなく、普段使うツールの話や、広報の仕方など、本当に日常に必要な事務的な小さなことの情報共有を振り返る時間も大切だと思いました。なかなか拠点を開いているとプログラムの話になりがちでできないことが多いです。

拠点を多く開けることの意義や、一言で表すような名前がついていることは参考になった。また、地方公共団体と共に活動するにあたってのプロジェクトへの巻き込み方など、もし自分たちが動くとなった時に向けて頭に入れておきたいと思った。他のプロジェクトの知らない取り組みを知ることで自分たちの活動のヒントになった。

それぞれの活動で、悩むことや、ぶつかる壁は共通している部分も多いことがわかりました。自分たちが問題の渦中にある時には、目的を見失いそうになったり、身動きが取りづらくなったりするけれど、横の繋がりがあると、自分たちの課題がどこにあるのか、問題の現在地把握が客観的にしやすいという事がわかり、今後も積極的に、周囲のアートプロジェクトの活動の情報をしっかりキャッチしていきたいと思いました。今回参加させていただいた事で、“おとなりさん”とよりしっかり繋がっていくきっかけを持つ事ができ、とても嬉しく思いました。

第1回目のジムジム会では、他の団体の顔ぶれや大まかな活動内容を共有する会を行いましたが、今回のヒアリングや報告の場からは、各団体の現場でのチャレンジや取り組むべき課題をより深く知ることができ、今後の運営の糧となるような新たな発見も多かったのではないでしょうか。

このヒアリングを通して出会った「おとなりさん」との関係が、各団体の現場をさらに豊かにし、新たな活動が育まれるきっかけにつながればと思います。

前列と後列に分かれて参加者が並んでいる、記念写真。背景のモニターには子供たちが映っている
撮影:小野悠介

お知らせ

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災禍の経験を共有するために、文化ができること(APM#13 後編)

毎回、アートプロジェクトにかかわるひとつのテーマを設定し、ゲストとの対話を通して思考と問いを深めてきた東京アートポイント計画のトークシリーズ「Artpoint Meeting」。その第13回が、2023年10月22日、東京都・江東区の東京都現代美術館で開催されました。

今回のテーマは、「災害の“間”をたがやす」。災害のあとの時間を「災後(さいご)」と呼びますが、各地でさまざまな自然災害が発生し、気候変動の危機が叫ばれる現在、わたしたちが生きているのは災害と災害の間、すなわち「災間(さいかん)」の時間なのではないか。そのとき、わたしたちは今後の災害に備え、あるいは過去のダメージから回復していくよすがとして、この災間の時間をどのように過ごしていけばいいのか。今回はそうした問いを、二人のゲストと考えました。

一人目は、京都大学防災研究所教授の牧紀男(まきのりお)さん。牧さんは、防災や復興を学問的に研究すると同時に、東日本大震災後、岩手県災害対策本部で情報処理の支援を行うなど、被災地の支援活動にも注力してきました。もう一人は、アーティストの瀬尾夏美(せおなつみ)さん。東日本大震災を機に東北に移り住み、およそ10年活動してきた瀬尾さんは、近年、各地の被災地に残る記録や記憶をつなぐことを目指すプロジェクト「カロクリサイクル」も展開しています。

異なる立場から、災害と、被災地に生きる人たちの姿を見つめてきた二人の言葉が交わされたイベント当日の模様を、ライターの杉原環樹がレポートします。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:池田宏*1-3、8、9、11-13枚目)

レポート前編はこちら>
災禍の経験を共有するために、文化ができること(前編)

プレゼンテーション②瀬尾夏美さん
当事者/非当事者の区別を超えて、語り続けるということ

牧さんよりバトンを受け取り、続けて登壇した瀬尾さんは、自身のこの10年ほどの活動を振り返りつつ、そのなかで考えてきた「被災者の声をきくこと」について語りました。

女性がマイクを持って話している、その後ろに女性の手話通訳が立っている。
土地の人々の言葉や風景の記憶に向き合うアーティストの瀬尾夏美さん。

東日本大震災があった2011年3月、瀬尾さんは東京藝術大学の学生でした。震災後、「地続きの場所で起きている災禍に対して何かできないか」と、同級生で映像作家の小森はるかさんとともにボランティアで岩手県の陸前高田を訪問。その土地が好きになり、翌年二人で移住し、3年を過ごします。その後、2015年には仙台に拠点を移し、「土地と協働しながら記録をつくる組織」である一般社団法人NOOK(のおく)を設立。東北を中心に、被災地の変化やそこに生きる人たちの声を追ってきました。そして2022年からは故郷の東京に戻り、江東区を拠点に、後述する「カロクリサイクル」などのプロジェクトを展開しています。

自身の活動は、絵や文の制作を行う個人としてのアーティスト活動、小森さんとのユニット活動、NOOKの活動の3つに分かれるといいますが、どれにも共通するのは「他者の言葉を書く(≒記録する)こと」だと話します。またその方法論として、「語りの発生する場所そのものをつくり、そこで生まれた言葉を記録し、描きなおす」点も共通します。

話をきく対象としては、被災者のような特別な体験をした人も多いのですが、それだけではありません。なかには「被災者」とはっきり括ることが難しい人や、震災から10年目の東京で震災の記憶が薄れることにモヤモヤしている人もいます。

大きなスクリーンの前にある1メートル高くらいの舞台で女性がマイクを持って発表している。横には手話通訳が立っており、その様子を観客が座って見ている
他者の言葉を記録することについて解説する瀬尾さん。

そうしたなか、特化してきたのが「災禍の語りをきくこと」です。きっかけとなったのは、東日本大震災から3週間後の4月3日、訪れた陸前高田で、大学時代の友人の親戚である女性の話をきいたことでした。その女性の家は海を望む高台にありましたが、庭まで津波が到達し、下にあった家々は被害に遭ってしまいます。そこで彼女はこう語りました。

「わたしもいっぱい友達亡くしてしまったの。でも津波のあとはね、涙も何も出なぐなってしまった。それでもこのごろやっと落ち着いたら、あーって悲しみが出てくんの。して、なんでわたしが生き残っちゃったのかなあって、思うの」
「でもみんなの世話をしてればね、いくらか気も紛れるから。うちはこうしてね、水も出るし電気も出るから、みなさんにかえって申し訳ないくらいなの」

女性の語りには、自身の感情の吐露とともに、周囲への思いも含まれていました。そして女性は瀬尾さんに、「いまの話を誰かに伝えてね」と言ったといいます。瀬尾さんは、被災経験の語り手の多くが言うこの言葉を「真に受けて」、活動を行ってきました。

さらに、彼女の話をきくなかで瀬尾さんが感じたのは、「東京にいた自分は震災と距離があると感じていたけれど、被災地にも、亡くなった人や津波に流された人もいれば、現地にいながら深刻な現場に立ち会わなかった人もいる」ということでした。言葉では当事者と非当事者と単純に分けられるけれど、現実には、その中間にグラデーションが広がっている。こうした気づきのなかで瀬尾さんは、「当事者/非当事者と分けていくと、自分よりも被害を受けた人がいると感じて、誰も語れなくなってしまう。だから、当事者だけが語るのではなく、このグラデーションをみんなでつないで、一番の当事者である亡くなった人のことを忘れないように語り続けることが大事」だと感じたと話しました。

語り継ぎの場、ともに語る場をつくる

当事者か非当事者かという区別を超え、ともに語る場をつくる上で、瀬尾さんはアーティストである自身のポジションを、「体験者(語り手)や災禍のあった現地と、非体験者をつなぐ旅人(聞き手)」だと表現します。そして、そうした自身の活動は、「体験者や現地と出会うこと」「そこできいたことや見たことを記録すること」「展覧会や制作を通じてそれを受け渡し、共有すること」のサイクルであると説明しました。

複数の写真を緩やかにつなぐように、矢印が円環を描いて3つ引かれている
瀬尾さんの「出会う」「記録する」「受け渡す/共有する」サイクルの図。

瀬尾さんが小森さんと制作した作品『波のした、土のうえ』(2014年)も、そうしたサイクルのなかでつくられたものです。嵩上(かさあ)げ工事がはじまり、かつて暮らした地面を埋め立ててしまうことに対して強い喪失感があった時期に、地域住民と一緒に制作した3編の映像からなる作品で、二人は同作を含めた展覧会をつくり、全国10か所を巡回、対話の場をひらいてきました。そのなかには阪神・淡路大震災の被災地である神戸もあり、見た人から神戸と陸前高田の共通点が挙がったり、当時を知らない若者が陸前高田を通して神戸の経験を知ったりと、新たなつながりが生まれる機会ともなりました。

映像作品のキービジュアルが描かれたスライド。左側にタイトル(小森はるか+瀬尾夏美、波の下、土の上)、右側上部には花の咲い丘のようなところを歩く女性の後ろ姿の写真、右側下部には様々な絵がかけられた壁の写真がある
映像作品『波のした、土のうえ』は、絵画や資料を含む同名の作品群の展示とともに秋田、岩手、宮城、福島、東京、新潟、兵庫、広島と、全国を巡回した。

一方、陸前高田の嵩上げ工事が終わり、風景が街らしさを取り戻したことで、津波が話題に挙がる機会が減っていました。また、展示の巡回中、震災時にこどもで、その後大人になった世代から、当時のことを知りたいと言われることも増えていました。映画『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019年、以下『二重のまち』)は、そうした声を受けて「語り継ぎ」の機会を設けたプロジェクトから生まれた作品です。

車道の横の歩道を奥に向かって歩く4人がいる。車道と歩道の間にある縁石の上を2人が歩いている
映画『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019年)(撮影:森田具海)

このプロジェクトでは、公募で集まった被災地ではない場所に住む四人の若者が、陸前高田に15日間滞在して街の人の話をきき、それを自分なりの言葉で再び被災者に伝えるという複雑なプロセスが取られました。いわば、他者の体験を自分で受け止め、継承していく体験であり、牧さんはその「ぐるぐるした」語りのサイクルに、非当事者が当事者の体験を引き受ける上で大切な「翻訳」を感じたのでした。

民話が盛んな地域での、豊かな対話のやりとり

こうした活動を行うなかで、瀬尾さんの認識を揺さぶる出来事が起きました。2019年10月に発生した台風19号による、宮城県丸森町(まるもりちょう)の土砂災害です。瀬尾さんはこの町に、民話の記録を50年間続けてきた「みやぎ民話の会」の活動を手伝うかたちで出会い、その後は個人的に訪れ、戦争の語りをきいたり、現地で絵を描いたりしてきました。そんな自分が描いていた町が土砂に埋まってしまったことに、瀬尾さんは大きな衝撃を受けます。そして、「自分は『災害』というと東日本大震災ばかりを頭に浮かべていたけれど、それ以外の災害や場所のことが見えていなかったと感じた」と話します。

古民家の屋根の高さまで土砂で埋まっている集落の写真
2019年、台風19号による宮城県丸森町の土砂災害の写真(撮影:瀬尾夏美)。

丸森町で土砂災害が起こった背景には、戦後の開発で山の管理ができなくなったことや、自然エネルギーへの転換で山にソーラーパネルが建てられたこと、沿岸部の埋め立てで土砂が採られたことなど複数の原因がありました。けれど、町内でも被害を受けたエリアが局所的だったため、災害から2年後の2021年には、当時のことを話題にする機会が少なくなっていました。そうしたなか丸森町で何かできないかと考えた瀬尾さんや小森さんは、こうした町の状況を町民たちと話す機会をつくれないかと考えます。そうした活動の結果生まれたのが、『台風に名前をつける』(2021年、以下『台風』)という映像作品です。

イベント会場のスクリーンに映像が上映されている。映像では机を囲んで7人ほどが話している
『台風に名前をつける』上映の様子。画面左上が瀬尾さん。

もともと民話が盛んな地域である丸森町には、明治3年に起きた台風災害に基づく「サトージ嵐」という話が残されていました。これは、サトージという大泥棒を処刑したあとに災害が起きたことを受け、その台風を「サトージ嵐」と名づけた物語です。この民話を参照しながら、瀬尾さんたちは六人の町民と2019年の台風に名前をつけようとします。

「Artpoint Meeting #13」の当日は、25分にわたる同作を全編上映しました。映像のなかでは、さまざまな背景をもつ六人の町民が車座になり、土砂崩れが起きた日やその後の体験、山が弱くなった原因をそれぞれの知見から語ります。映像の中盤、今回の災害で友人を亡くした女性が、この経験を忘れないように台風の名前をつけようと提案。昔の土砂崩れの呼び名「じゃく抜け」から、名前は「じゃく抜け台風」に決定します。そして、家を失った参加者が、集団移住先でこの体験を伝えていこうと語り合うシーンで映像は終了。映像からは、個人の経験が、語りを通して周囲に共有されていく、豊かな対話の姿が感じられました。

ディスカッション
報道では拾われない土地の個性を見出し、いかす

二人の発表のあとは、冒頭にマイクを握った佐藤李青も加えた三人で、会場からの質問も交えながらトークセッションを行いました。

机を囲んで3人がマイクを持って話している

瀬尾さんと小森さんの映像を見た牧さんは、「二人の映像のファン」と語り、その魅力を「説教臭くないところ」と言います。「我々はどうしても教訓を言いたくなるけど、二人の作品はそうではない。それが災禍を伝える上で大事なんだと思う」。そして、こうした対話の場をつくる上で心がけたことについて、瀬尾さんに尋ねました。

これに対して瀬尾さんは、陸前高田に移住した頃から、基本的に報道で拾われないことをいかに拾うかを意識しているとし、『台風』においてそれは丸森町の人々の知性的な面だった、と話します。「丸森では、避難所の時点で、みんなで知識を共有して話すことをしていました。被災者=困っている人というイメージになりがちだけど、自分たちで論理的に解決策を話すことができる人たちであることを映像に残したかったんです」。

また、自然な対話の場をつくるうえで、多様な知見をもつ人たちを集めたことや、みやぎ民話の会でも活動する住民の女性に進行を頼んだこと、「台風に名前をつけたうえで、何を伝えて残したいかまで話そう」とだけ決め、当日、瀬尾さん自身は板書役に徹したことなどの工夫を説明。そして、丸森が民話の盛んな地域であることも、この語りの豊かさにつながっていると話しました。

このような、語りを通じてイメージを共有することに慣れた丸森の特性は、現地を離れた東京都写真美術館(以下、「写美」)で活動の紹介をする展示(「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol. 18」、2021年)を行った際にもいかされたと瀬尾さん。ここから話題は、ある土地の災害をべつの場所で伝える上での工夫へと移りました。

木の床に白い壁が立っており、絵画が壁に並んでかけられている。ちゅおうには机のような什器があり、中には写真のようなものが入っている。奥の壁には映像が流れている
「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol. 18」で展示された、小森はるか+瀬尾夏美 《山つなみ、雨間の語らい》 2021年 インスタレーション作品 ©Komori Haruka+Seo Natsumi 

瀬尾さんは、写美での展示にあたり、「丸森の土砂災害が首都圏とつながっていると示すことを心がけた」と話します。丸森に被害をもたらした台風19号では、首都圏の被害も不安視されていました。「メディアでもすごく東京の被害を心配していたけど、実際に被災したのは地方の山間地や川沿いの地域でした。同じ規模の台風が通っても、都市では被害が出にくい。それは地方より、防災インフラが充実しているということですよね。一方で、都市部のために山間地にソーラーパネルが設置され、開発に伴う木々の伐採が進んで土砂災害を引き起こした。それらをあわせて見せることで、つながりを見せたいと思いました」。

一方の牧さんは、さまざまな被災地を見てきた立場から、それぞれの土地には独自の個性があることに触れ、瀬尾さんたちの作品の魅力はそうした土地の性質を上手くいかしている点にあると言います。瀬尾さんは発表のなかで、海に近い陸前高田と山間の丸森の住民を比較し、前者は個人的な語りが上手く、後者は知識の共有が上手いと感じたと話していました。この実感から、陸前高田での『二重のまち』では個人の語りが、丸森での『台風』ではコミュニティの語りに焦点が当てられています。牧さんは、こうした旅人の土地を見る目利き的な力も、外部の人に災害を伝える上で重要な働きをしていると語りました。

語りの輪に誰もが入れる「余白」をつくる

トークのなかでは、時間と語りの関係をめぐる話題も出ました。

瀬尾さんは震災から1年も経たない頃、地元コミュニティにはまだ話すべきことがあるのに、非当事者には既に震災の話に対する「お腹いっぱい」感があったと振り返ります。他方、当時こどもだった世代があとから震災の話をききたがるように、時間が経つことで非当事者の関心が高まることもある。このように、土地の内と外、当事者と非当事者の関心のタイムラインは常に変化しつつズレているものですが、「それらが触れ合ったときに、いい出会いが生まれることもある」と瀬尾さん。だからこそ、その変化の見定めが大切だ、と語りました。

さらに瀬尾さんが「地元の人も時間が経ったからこそ喋れる場合がある」と話すと、牧さんもこれに頷き、「災害の経験は物理的な経験だが、その後の語りは自分のなかで常に変わっていく。唯一の真実があるわけではなく、感じ方や考え方が変わっていく。逆に言うと、変わることで人は生きていける」と、人にとっての変化の重要性を指摘。「自分の経験を客観視して喋ることができたとき、ようやく“復興”になるが、機会をもらうことでようやく喋れる人もいる。だから、喋る機会や場があることが大事」と話しました。

1メートルほどの舞台の上で机を囲んで話している3人と、その横に手話通訳が立っており、手前側で参加者が椅子に座って話を聞いている
時間によって関心も変わり、語りも変化していくと瀬尾さん。

セッションの終盤は、今回のトークの背景でもある文化や表現の可能性に触れるような発言も飛び交いました。

絵や物語や映像などさまざまな手段で制作する瀬尾さんですが、「メディア」についての問題意識を問われると、自身のなかで考え方が変わった出来事に、2014年にみやぎ民話の会に出会ったことがあると答えました。このとき瀬尾さんにとって印象的だったのが、同会の代表の小野和子さんが、民話を語る人たちは、どんなに不思議なお話でも「あったること」(ほんとうにあったこと)として語り、きいているんだと教えてくれたことでした。

さらに民話の継承は、物語の基点となる出来事を体験したか否かにかかわらず行われます。例えばある人が、他人に語らざるを得ないような強烈な体験をする。そしてその話をきいた別の人も、これは誰かに伝えるべきだと感じてまた他者に話す。ここで重要なのは、それが完全に同一の物語として伝わることではなく、みんなが自分ごととして語る点です。

このような民話の伝承の姿を知ることから、瀬尾さんは、フィクションが媒介することによって、当事者と非当事者の区分を超え、みんなが語りのなかに入っていけると感じたと話します。そして、表現者としての自身の仕事とは「その余白をつくること」だと言い、2015年からはじめた物語づくりも、出来事を正確に伝えることを目的としているのではなく、「みんなが共有できる語りのための火種をつくっているようなイメージ」だと説明しました。

2冊の本が小さい円卓にのっている
左が瀬尾さんの近著『声の地層 災禍と痛みを語ること』(生きのびるブックス、2023年)。右が牧さんの近著『平成災害復興誌 新たなる再建スキームをめざして』(慶應義塾大学出版会、2023年)。

そんな瀬尾さんの話をきいた牧さんは、「瀬尾さんのナラティブ(物語)の捉え方は、防災の世界では新しく感じる」と話します。というのも、「防災の世界では当事者性、“わたしの語り”を重視してきたからです」と牧さん。「でも瀬尾さんは、誰かの物語をその本人だけではなく、誰もが話せるものにすることを大切にしている。それが出来事を昔話として伝えるということで、新鮮で素晴らしい」と、その実践の可能性を評価しました。

こうした感想を受け、瀬尾さんは陸前高田に初めて入った頃を再度振り返り、「震災体験は傷の話だが、そこには笑いがあったり、一緒に泣いて励ましあったりもする。語らずにはいられないことを中心に、人が集まって話し合う。そのことの切実さやうれしさがわたしのなかの基本にある」とコメント。そして最後に、災禍の語りに興味をもちつつ躊躇する人たちに向け、「何ができるのかと考えるより、話をきき、語る場に入った方が気持ちも楽になるし、楽しさもある。その語りの輪にみんなも入ってほしいと思う」と呼びかけました。

女性(ゲストの瀬尾さん)に参加者が話しかけている
イベント終了後も、来訪者からの質問が絶えなかった。

異なる立場から、災害をめぐる語りや被災地の人々の姿を見つめてきた二人が言葉を交わした今回のトーク。二人の発表や対話からは、「災害」や「防災」、あるいは「当事者/非当事者」のような、わたしたちが普段何気なく使う言葉の手前で立ち止まり、その内実や境界をあらためて考える大切さが感じられました。そして、それはまた、異なる人生を歩む人たちと経験を共有するための「翻訳」や「余白」の重要性、それらを生み出す上での文化や表現の可能性を浮かび上がらせる時間ともなりました。

レポート前編はこちら>

災禍の経験を共有するために、文化ができること(前編)

災禍の経験を共有するために、文化ができること(APM#13 前編)

毎回、アートプロジェクトにかかわるひとつのテーマを設定し、ゲストとの対話を通して思考と問いを深めてきた東京アートポイント計画のトークシリーズ「Artpoint Meeting」。その第13回が、2023年10月22日、東京・江東区の東京都現代美術館で開催されました。

今回のテーマは、「災害の“間”をたがやす」。災害のあとの時間を「災後(さいご)」と呼びますが、各地でさまざまな自然災害が発生し、気候変動の危機が叫ばれる現在、わたしたちが生きているのは災害と災害の間、すなわち「災間(さいかん)」の時間なのではないか。そのとき、わたしたちは今後の災害に備え、あるいは過去のダメージから回復していくよすがとして、この災間の時間をどのように過ごしていけばいいのか。今回はそうした問いを、二人のゲストと考えました。

一人目は、京都大学防災研究所教授の牧紀男(まきのりお)さん。牧さんは、防災や復興を学問的に研究すると同時に、東日本大震災後、岩手県災害対策本部で情報処理の支援を行うなど、被災地の支援活動にも注力してきました。もう一人は、アーティストの瀬尾夏美(せおなつみ)さん。東日本大震災を機に東北に移り住み、およそ10年活動してきた瀬尾さんは、近年、各地の被災地に残る記録や記憶をつなぐことを目指すプロジェクト「カロクリサイクル」も展開しています。

異なる立場から、災害と、被災地に生きる人たちの姿を見つめてきた二人の言葉が交わされたイベント当日の模様を、ライターの杉原環樹がレポートします。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:池田宏*1-6、8、11枚目)

床から背の高さより上まである大きなガラス窓の前に、2人が立っている
ゲストの牧紀男さん(左)、瀬尾夏美さん(右)。

文化の営みを通して、災害の備えとなるコミュニティを育む

「災害」と、東京アートポイント計画がかかわる「文化」は、もしかすると遠い分野のように感じられるかもしれません。なぜ、災害の問題を考える上で、文化の視点が重要なのか。イベント当日は、はじめにプログラムオフィサーの佐藤李青が、そうしたテーマの背景にある問題意識について説明しました。

男性が「災害の間をたがやす」と書かれた赤いチラシとマイクを持って話している
オープニングでこれまでの取り組みを解説する佐藤李青。

2009年にスタートした東京アートポイント計画は、共催団体やアーティスト、地域に暮らす人たちと協働しながら、2023年4月までに45件のプロジェクトを展開してきました。

椅子に座った参加者が、配布物をめくりながら確認している
東京アートポイント計画について解説するリーフレットを配布。

こうした活動で目指してきたのは、「地域のなかに小さな文化的な営みをつくること。それによって個々人の生きやすさの回路をひらいたり、その場をともにする人たちに顔の見える関係ができたりすること」。そして、このように個人の生きる術や、何かをともに実践するコミュニティを育む文化のあり方こそ、災害の備えや助けとなるのではないかと佐藤は話します。

実際、東京都とアーツカウンシル東京が東日本大震災後の2011年から2021年まで、岩手県、宮城県、福島県の3県で文化を通じた活力の創出や心のケア、被災地の経験を未来につなげることを目指して実施したプロジェクト「Art Support Tohoku-Tokyo」は、地域に根差した活動を支援する東京アートポイント計画の手法を用いて展開されました。さらに東京アートポイント計画では、2022年、プロジェクトパートナーの公募にあたり、活動テーマのひとつを「災間・減災・レジリエンス」に設定。災害が多発する時代の社会における、文化の役割や目指す方向をあらためて明確にしました(ちなみにレジリエンスとは、「回復力」や「弾力」を指す単語で、困難やストレスといった逆境をしなやかに乗り越える力を意味します)。

机の上に冊子が複数札積み重ねられている
「Art Support Tohoku-Tokyo」から生まれた冊子も展示配布。ジャーナル『東北の風景をきくFIELD RECORDING』1〜5号(2018〜2020年/左)。佐藤李青がこの10年の経験を振り返る『震災後、地図を片手に歩きはじめる』(2020年/右)。

瀬尾さんもメンバーとして参加している一般社団法人NOOKが、東京アートポイント計画の一環として2022年よりはじめた「カロクリサイクル」は、東京アートポイント計画が現在打ち出す上記のような文化の方向性を代表する取り組みです。プロジェクト名になっている「カロク(禍録)」とは、自然災害や戦争といった災禍の記録のこと。瀬尾さんたちは、それぞれの土地に残されながらも、あまりほかの地域の人とは共有されない被災地の記録や記憶を横につなぎ、経験や人のネットワークをつくろうとしています。それは有事ではない平時の時間を、災間の時間として豊かにいかす取り組みともいえます。

例えば、活動の一環として2023年9月に開催した「とある窓」展では、公募で集まった10名のリサーチャーと、活動の拠点である江東区の団地内で「窓」にまつわる経験のリサーチを実施。それを、2018年に東北沿岸部で行った、同じく窓にまつわるリサーチの記録と合わせて、文章や写真で展示しました。ここで重要なのは、展覧会をつくるまでの過程が地域内外の人たちのかかわりづくりにつながっていたこと。このように、異なる土地や時間を生きる人たちの間に文化的な営みを設けることで、議論やつながりを生むことができるのではないか。そうした問題意識が、今回のイベントのテーマの背景にはあると、佐藤は語りました。

コンクリートむき出しの床の室内。ガラス扉にはカロクリサイクル、Studio04と書かれ、部屋の右側には絵のようなものが額縁に入って飾られている本棚、左側には1メートルくらいのポスターサイズの写真が吊られ、床のあちこちに木製の什器もおかれている。
「とある窓」展、江東区大島「Studio04」での展示風景(撮影:森田具海)。

プレゼンテーション①牧紀男さん
「防災」とは何か? 地域の姿が、災害のあり方を変える

続いて登壇した牧さんは、「防災を研究している立場から、日々感じている課題を共有し、災害の間をたがやすことの意味を語りたい」と話します。

マイクを持って話す男性と、手話通訳の男性が並んでいる
京都大学防災研究所教授、牧紀男さん。

まず牧さんが紹介したのは、「防災」の全体像です。ひとくちに防災といっても、その方法は災害を引き起こす原因などによって大きくふたつに分かれます。ひとつ目が、「災害予知予測」です。これは、大きな地震がいつ発生するか、気温が2度上がると雨の降り方はどのように変化するかなど、災害を自然現象として捉えて予測を行うものです。こうした災害の種となる自然現象のことを、専門用語では「ハザード(災)」と呼びます。

「ハザード」と、それに対応する「災害予知予測」が自然の側のセットだとすれば、もう片方にあるのが、人間の側の原因と対応策です。人間側の原因とは、「地域の防災力(脆弱性)」のことです。例えば、同じ規模の災害が起きた際、ある地域ではエレベーターも止まらずインターネットも通じるのに対し、別の地域では両方とも使えなくなる可能性があるように、同じ災があっても害は異なります。対応策は「被害抑止・被害軽減」と呼ばれ、例えば防波堤設置などのハード対策は被害抑止対策に該当します。地域の普段のあり方が結果を変えることをふまえ、牧さんは「害の姿は地域の姿により決まる」と話します。

防災・減災の全体像と見出しのついたフローチャート
牧さんが解説に使った「『防災』の全体像」(林春男「地殻災害軽減のための防災研究の枠組み」『学術の動向』19巻9号、2014年より作成)。

防災対策を進める上で重要になるのが「リスクコミュニケーション」です。災や被害がどのように起こるのかを人々に伝え、知ってもらうためのコミュニケーションのことで、これは災害の研究者だけでは考えられません。そのため牧さんが所属する研究所には、災害や防災の研究者のほか、気象、建築、土木、工学、社会心理学、さらに最近では情報やコンピュータの専門家も加わり、多角的な観点で課題に向き合っているといいます。

また、近年では「防災」の対象範囲、つまり、何に対する害を防ぐのかという範囲自体が広がってきた、と牧さん。以前まで防災の対象は「人命」や「財産」の被害を減らすことだとされていましたが、現代では「生活・地域・業務」を守ること、すなわち災後の「復興」までを見据えたものへと拡大しているといいます。

災害を伝えるリスクコミュニケーションの課題とは?

では、「災」(ハザード)や、それにより引き起こされる「害」(インパクト)をどのように人に伝えることができるのでしょうか? 牧さんは続けてそれを説明しました。

「災」の伝え方として挙げられたのは、地図上に潜在的なリスク(災の元)を視覚的に示す「ハザードマップ」です。例えば、大雨などによってある地域のどこにどのくらいの浸水被害が発生するのか、その可能性をわかりやすく色分けで示したものなどがあります。

一方、難しいのは実際に起きた「害」の伝え方です。牧さんがここで見せたのは、2019年10月の台風19号(令和元年東日本台風)の際の、長野市の千曲川流域の写真です。この台風では千曲川の堤防が決壊したことにより、長野市で最大約4.3メートルの浸水被害がありました。ただ、数字からその光景を想像することは難しい。そこで牧さんは積極的に被災地の様子を写真で見せるようにしているといいます。また、浸水した家財を外に出してゴミを分別する様子や、下水の逆流による匂いの被害があることなど、被害のディティールを伝えることも大切にしています。

一面地面が泥や水たまりでおおわれているような風景。右側には体育館の壁のようなものが写り、中央には10本程度の木、その奥には民家が見える
2019年、台風19号による長野県千曲川流域の浸水被害の写真(撮影:牧紀男)。

さらに、先述のように「防災」の範囲が変化するなか、復興期の長期的な街の変化をいかに伝えるかという問題もあります。例えば、岩手県釜石市の呑兵衛(のんべえ)横丁は地元の人に愛される名所でしたが、東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けます。その後、駅の反対側にある仮設飲食店街に合流して営業を続けたのですが、退去期限を迎え、店は各所へ移転し、また廃業した店も多くあります。「それぞれにドラマがあるが、これを伝えるのが難しい」と牧さん。本来はメディアにこうした変化を丁寧に伝えることが求められますが、震災直後に比べて被災地をめぐる報道は激減しています。また、発生から10年以上が経つなかで、震災の記憶がない、震災を知らない世代は確実に増えています。

このような難しさに触れ、牧さんは「数字や地図のような無味乾燥なものだけでなく、害を具体的なイメージとともに伝えたいが、それが難しい。被災地には、臭かった、失った、辛かった、うれしかった、暑いや寒い、涙や出会い、いろんな害や物語がある。それをいかに伝えるのかが、いまの防災のひとつの課題になっている」と話しました。

非体験者に伝える上での、「翻訳」の必要性

次に牧さんは、災害と災害の間の時間をたがやすことについて、自身の経験もふまえながら話を広げていきました。

大きなスクリーンの前でマイクを持って話す男性と、手話通訳の男性

先ほどの東日本大震災を知らない世代のように、「災間には“災害を知らないわたしたち”がいる」と牧さんは話します。また世代だけでなく、同時代を生きる人たちの間でも、震災からの距離感によって、その記憶や経験を伝えることに対する熱量は大きく異なります。だからこそ、「災間の時間をどのようにうまく使っていくのか、そして、経験者からきいたことをどのように定着させていくのかが重要になる」と牧さんは言います。

牧さんの研究者としての最初の対象である「阪神・淡路大震災」が起きた1995年、牧さんは京都の大学院生で、震災を直接的には経験しませんでした。被災地からの距離感は、牧さん自身の体験でもあるのです。そして、阪神・淡路大震災から3年後、神戸の研究所でこの震災の研究を開始。以後、「間をたがやす仕事」を続けてきました。

その代表的な活動のひとつが、人と防災未来センターで毎年行われている「災害メモリアルアクションKOBE」です。これは防災のためのゲーム開発やイベント、被災地の情報を伝える新聞発行などを行っている高校生や大学生のグループが交流することで、災害の教訓をいかす人材を育て、その経験を広げていくことを目指した事業です。阪神・淡路大震災からまもなく30年を迎えますが、メモリアルという名前をつけたイベントは形態を変えながら1996年から継続的に実施されています。

災害メモリアルアクションKOBE ACTIONと見出しのついたスライド。1995年の阪神淡路大震災から、南海トラフ巨大地震が起こるとされている2035年前後10年までのフローチャートが書かれている
「災害メモリアルアクションKOBE 2023」取り組みの解説図(出典: https://www.dri.ne.jp/pickup/memorial-action/memorial2023/)。

一方、こうした活動をするなかで「『教える』と『伝える』は違うと感じてきた」と牧さんは話します。「災害の教訓を伝える活動では、一般に大人がこどもに話してきかせる取り組みが多い。でも、こどもに感想文を書かせると“きちんとしたこと”を書きますが、リアルに伝わっているとは思えない場面も多いんです。大人は、災害時にこうすべきという言い方をしがちですが、『伝える』というのは、そのときの匂いや体温などを伝えること。それをもとに理解をし、それぞれが準備をしていくことだと思います」。

そうしたなか反響が大きかったのが、1995年当時小学生だった小学校の教員が、自分の恩師に話をきいて聞き手である小学生に伝えるプログラムだったといいます。ここには、時代を超えて二世代の小学生が仮想的に経験を重ねるような、一種の「翻訳」があります。牧さんは、このような翻訳こそが「伝える」営みにおいて大切になると指摘。そして最後に、瀬尾さんが映像作家の小森はるかさんと監督した映画『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019年)について触れ、そこにも独特の「翻訳」があり、それこそが重要だと感じたと話しました。

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災禍の経験を共有するために、文化ができること(後編)

ラッコルタ –創造素材ラボ–

府中市の地元企業に不要な部材を提供していただき、それらを表現のための創造素材として再活用する仕組み「ラッコルタ –創造素材ラボ–」。身近にあるモノを違う視点から捉える機会を創出し、アーティストの視点を通して、新たなものの見方を獲得するラーニングプロジェクトです。

このパンフレットでは、ラッコルタで実施しているプログラムの内容や企業から提供されている素材など、活動を知りたい、関わってみたいという方に向けて、取り組みを紹介しています。