災禍の経験を共有するために、文化ができること(後編)

毎回、アートプロジェクトにかかわるひとつのテーマを設定し、ゲストとの対話を通して思考と問いを深めてきた東京アートポイント計画のトークシリーズ「Artpoint Meeting」。その第13回が、2023年10月22日、東京都・江東区の東京都現代美術館で開催されました。

今回のテーマは、「災害の“間”をたがやす」。災害のあとの時間を「災後(さいご)」と呼びますが、各地でさまざまな自然災害が発生し、気候変動の危機が叫ばれる現在、わたしたちが生きているのは災害と災害の間、すなわち「災間(さいかん)」の時間なのではないか。そのとき、わたしたちは今後の災害に備え、あるいは過去のダメージから回復していくよすがとして、この災間の時間をどのように過ごしていけばいいのか。今回はそうした問いを、二人のゲストと考えました。

一人目は、京都大学防災研究所教授の牧紀男(まきのりお)さん。牧さんは、防災や復興を学問的に研究すると同時に、東日本大震災後、岩手県災害対策本部で情報処理の支援を行うなど、被災地の支援活動にも注力してきました。もう一人は、アーティストの瀬尾夏美(せおなつみ)さん。東日本大震災を機に東北に移り住み、およそ10年活動してきた瀬尾さんは、近年、各地の被災地に残る記録や記憶をつなぐことを目指すプロジェクト「カロクリサイクル」も展開しています。

異なる立場から、災害と、被災地に生きる人たちの姿を見つめてきた二人の言葉が交わされたイベント当日の模様を、ライターの杉原環樹がレポートします。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:池田宏*1-3、8、9、11-13枚目)

レポート前編はこちら>
災禍の経験を共有するために、文化ができること(前編)

プレゼンテーション②瀬尾夏美さん
当事者/非当事者の区別を超えて、語り続けるということ

牧さんよりバトンを受け取り、続けて登壇した瀬尾さんは、自身のこの10年ほどの活動を振り返りつつ、そのなかで考えてきた「被災者の声をきくこと」について語りました。

女性がマイクを持って話している、その後ろに女性の手話通訳が立っている。
土地の人々の言葉や風景の記憶に向き合うアーティストの瀬尾夏美さん。

東日本大震災があった2011年3月、瀬尾さんは東京藝術大学の学生でした。震災後、「地続きの場所で起きている災禍に対して何かできないか」と、同級生で映像作家の小森はるかさんとともにボランティアで岩手県の陸前高田を訪問。その土地が好きになり、翌年二人で移住し、3年を過ごします。その後、2015年には仙台に拠点を移し、「土地と協働しながら記録をつくる組織」である一般社団法人NOOK(のおく)を設立。東北を中心に、被災地の変化やそこに生きる人たちの声を追ってきました。そして2022年からは故郷の東京に戻り、江東区を拠点に、後述する「カロクリサイクル」などのプロジェクトを展開しています。

自身の活動は、絵や文の制作を行う個人としてのアーティスト活動、小森さんとのユニット活動、NOOKの活動の3つに分かれるといいますが、どれにも共通するのは「他者の言葉を書く(≒記録する)こと」だと話します。またその方法論として、「語りの発生する場所そのものをつくり、そこで生まれた言葉を記録し、描きなおす」点も共通します。

話をきく対象としては、被災者のような特別な体験をした人も多いのですが、それだけではありません。なかには「被災者」とはっきり括ることが難しい人や、震災から10年目の東京で震災の記憶が薄れることにモヤモヤしている人もいます。

大きなスクリーンの前にある1メートル高くらいの舞台で女性がマイクを持って発表している。横には手話通訳が立っており、その様子を観客が座って見ている
他者の言葉を記録することについて解説する瀬尾さん。

そうしたなか、特化してきたのが「災禍の語りをきくこと」です。きっかけとなったのは、東日本大震災から3週間後の4月3日、訪れた陸前高田で、大学時代の友人の親戚である女性の話をきいたことでした。その女性の家は海を望む高台にありましたが、庭まで津波が到達し、下にあった家々は被害に遭ってしまいます。そこで彼女はこう語りました。

「わたしもいっぱい友達亡くしてしまったの。でも津波のあとはね、涙も何も出なぐなってしまった。それでもこのごろやっと落ち着いたら、あーって悲しみが出てくんの。して、なんでわたしが生き残っちゃったのかなあって、思うの」
「でもみんなの世話をしてればね、いくらか気も紛れるから。うちはこうしてね、水も出るし電気も出るから、みなさんにかえって申し訳ないくらいなの」

女性の語りには、自身の感情の吐露とともに、周囲への思いも含まれていました。そして女性は瀬尾さんに、「いまの話を誰かに伝えてね」と言ったといいます。瀬尾さんは、被災経験の語り手の多くが言うこの言葉を「真に受けて」、活動を行ってきました。

さらに、彼女の話をきくなかで瀬尾さんが感じたのは、「東京にいた自分は震災と距離があると感じていたけれど、被災地にも、亡くなった人や津波に流された人もいれば、現地にいながら深刻な現場に立ち会わなかった人もいる」ということでした。言葉では当事者と非当事者と単純に分けられるけれど、現実には、その中間にグラデーションが広がっている。こうした気づきのなかで瀬尾さんは、「当事者/非当事者と分けていくと、自分よりも被害を受けた人がいると感じて、誰も語れなくなってしまう。だから、当事者だけが語るのではなく、このグラデーションをみんなでつないで、一番の当事者である亡くなった人のことを忘れないように語り続けることが大事」だと感じたと話しました。

語り継ぎの場、ともに語る場をつくる

当事者か非当事者かという区別を超え、ともに語る場をつくる上で、瀬尾さんはアーティストである自身のポジションを、「体験者(語り手)や災禍のあった現地と、非体験者をつなぐ旅人(聞き手)」だと表現します。そして、そうした自身の活動は、「体験者や現地と出会うこと」「そこできいたことや見たことを記録すること」「展覧会や制作を通じてそれを受け渡し、共有すること」のサイクルであると説明しました。

複数の写真を緩やかにつなぐように、矢印が円環を描いて3つ引かれている
瀬尾さんの「出会う」「記録する」「受け渡す/共有する」サイクルの図。

瀬尾さんが小森さんと制作した作品『波のした、土のうえ』(2014年)も、そうしたサイクルのなかでつくられたものです。嵩上(かさあ)げ工事がはじまり、かつて暮らした地面を埋め立ててしまうことに対して強い喪失感があった時期に、地域住民と一緒に制作した3編の映像からなる作品で、二人は同作を含めた展覧会をつくり、全国10か所を巡回、対話の場をひらいてきました。そのなかには阪神・淡路大震災の被災地である神戸もあり、見た人から神戸と陸前高田の共通点が挙がったり、当時を知らない若者が陸前高田を通して神戸の経験を知ったりと、新たなつながりが生まれる機会ともなりました。

映像作品のキービジュアルが描かれたスライド。左側にタイトル(小森はるか+瀬尾夏美、波の下、土の上)、右側上部には花の咲い丘のようなところを歩く女性の後ろ姿の写真、右側下部には様々な絵がかけられた壁の写真がある
映像作品『波のした、土のうえ』は、絵画や資料を含む同名の作品群の展示とともに秋田、岩手、宮城、福島、東京、新潟、兵庫、広島と、全国を巡回した。

一方、陸前高田の嵩上げ工事が終わり、風景が街らしさを取り戻したことで、津波が話題に挙がる機会が減っていました。また、展示の巡回中、震災時にこどもで、その後大人になった世代から、当時のことを知りたいと言われることも増えていました。映画『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019年、以下『二重のまち』)は、そうした声を受けて「語り継ぎ」の機会を設けたプロジェクトから生まれた作品です。

車道の横の歩道を奥に向かって歩く4人がいる。車道と歩道の間にある縁石の上を2人が歩いている
映画『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019年)(撮影:森田具海)

このプロジェクトでは、公募で集まった被災地ではない場所に住む四人の若者が、陸前高田に15日間滞在して街の人の話をきき、それを自分なりの言葉で再び被災者に伝えるという複雑なプロセスが取られました。いわば、他者の体験を自分で受け止め、継承していく体験であり、牧さんはその「ぐるぐるした」語りのサイクルに、非当事者が当事者の体験を引き受ける上で大切な「翻訳」を感じたのでした。

民話が盛んな地域での、豊かな対話のやりとり

こうした活動を行うなかで、瀬尾さんの認識を揺さぶる出来事が起きました。2019年10月に発生した台風19号による、宮城県丸森町(まるもりちょう)の土砂災害です。瀬尾さんはこの町に、民話の記録を50年間続けてきた「みやぎ民話の会」の活動を手伝うかたちで出会い、その後は個人的に訪れ、戦争の語りをきいたり、現地で絵を描いたりしてきました。そんな自分が描いていた町が土砂に埋まってしまったことに、瀬尾さんは大きな衝撃を受けます。そして、「自分は『災害』というと東日本大震災ばかりを頭に浮かべていたけれど、それ以外の災害や場所のことが見えていなかったと感じた」と話します。

古民家の屋根の高さまで土砂で埋まっている集落の写真
2019年、台風19号による宮城県丸森町の土砂災害の写真(撮影:瀬尾夏美)。

丸森町で土砂災害が起こった背景には、戦後の開発で山の管理ができなくなったことや、自然エネルギーへの転換で山にソーラーパネルが建てられたこと、沿岸部の埋め立てで土砂が採られたことなど複数の原因がありました。けれど、町内でも被害を受けたエリアが局所的だったため、災害から2年後の2021年には、当時のことを話題にする機会が少なくなっていました。そうしたなか丸森町で何かできないかと考えた瀬尾さんや小森さんは、こうした町の状況を町民たちと話す機会をつくれないかと考えます。そうした活動の結果生まれたのが、『台風に名前をつける』(2021年、以下『台風』)という映像作品です。

イベント会場のスクリーンに映像が上映されている。映像では机を囲んで7人ほどが話している
『台風に名前をつける』上映の様子。画面左上が瀬尾さん。

もともと民話が盛んな地域である丸森町には、明治3年に起きた台風災害に基づく「サトージ嵐」という話が残されていました。これは、サトージという大泥棒を処刑したあとに災害が起きたことを受け、その台風を「サトージ嵐」と名づけた物語です。この民話を参照しながら、瀬尾さんたちは六人の町民と2019年の台風に名前をつけようとします。

「Artpoint Meeting #13」の当日は、25分にわたる同作を全編上映しました。映像のなかでは、さまざまな背景をもつ六人の町民が車座になり、土砂崩れが起きた日やその後の体験、山が弱くなった原因をそれぞれの知見から語ります。映像の中盤、今回の災害で友人を亡くした女性が、この経験を忘れないように台風の名前をつけようと提案。昔の土砂崩れの呼び名「じゃく抜け」から、名前は「じゃく抜け台風」に決定します。そして、家を失った参加者が、集団移住先でこの体験を伝えていこうと語り合うシーンで映像は終了。映像からは、個人の経験が、語りを通して周囲に共有されていく、豊かな対話の姿が感じられました。

ディスカッション
報道では拾われない土地の個性を見出し、いかす

二人の発表のあとは、冒頭にマイクを握った佐藤李青も加えた三人で、会場からの質問も交えながらトークセッションを行いました。

机を囲んで3人がマイクを持って話している

瀬尾さんと小森さんの映像を見た牧さんは、「二人の映像のファン」と語り、その魅力を「説教臭くないところ」と言います。「我々はどうしても教訓を言いたくなるけど、二人の作品はそうではない。それが災禍を伝える上で大事なんだと思う」。そして、こうした対話の場をつくる上で心がけたことについて、瀬尾さんに尋ねました。

これに対して瀬尾さんは、陸前高田に移住した頃から、基本的に報道で拾われないことをいかに拾うかを意識しているとし、『台風』においてそれは丸森町の人々の知性的な面だった、と話します。「丸森では、避難所の時点で、みんなで知識を共有して話すことをしていました。被災者=困っている人というイメージになりがちだけど、自分たちで論理的に解決策を話すことができる人たちであることを映像に残したかったんです」。

また、自然な対話の場をつくるうえで、多様な知見をもつ人たちを集めたことや、みやぎ民話の会でも活動する住民の女性に進行を頼んだこと、「台風に名前をつけたうえで、何を伝えて残したいかまで話そう」とだけ決め、当日、瀬尾さん自身は板書役に徹したことなどの工夫を説明。そして、丸森が民話の盛んな地域であることも、この語りの豊かさにつながっていると話しました。

このような、語りを通じてイメージを共有することに慣れた丸森の特性は、現地を離れた東京都写真美術館(以下、「写美」)で活動の紹介をする展示(「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol. 18」、2021年)を行った際にもいかされたと瀬尾さん。ここから話題は、ある土地の災害をべつの場所で伝える上での工夫へと移りました。

木の床に白い壁が立っており、絵画が壁に並んでかけられている。ちゅおうには机のような什器があり、中には写真のようなものが入っている。奥の壁には映像が流れている
「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol. 18」で展示された、小森はるか+瀬尾夏美 《山つなみ、雨間の語らい》 2021年 インスタレーション作品 ©Komori Haruka+Seo Natsumi 

瀬尾さんは、写美での展示にあたり、「丸森の土砂災害が首都圏とつながっていると示すことを心がけた」と話します。丸森に被害をもたらした台風19号では、首都圏の被害も不安視されていました。「メディアでもすごく東京の被害を心配していたけど、実際に被災したのは地方の山間地や川沿いの地域でした。同じ規模の台風が通っても、都市では被害が出にくい。それは地方より、防災インフラが充実しているということですよね。一方で、都市部のために山間地にソーラーパネルが設置され、開発に伴う木々の伐採が進んで土砂災害を引き起こした。それらをあわせて見せることで、つながりを見せたいと思いました」。

一方の牧さんは、さまざまな被災地を見てきた立場から、それぞれの土地には独自の個性があることに触れ、瀬尾さんたちの作品の魅力はそうした土地の性質を上手くいかしている点にあると言います。瀬尾さんは発表のなかで、海に近い陸前高田と山間の丸森の住民を比較し、前者は個人的な語りが上手く、後者は知識の共有が上手いと感じたと話していました。この実感から、陸前高田での『二重のまち』では個人の語りが、丸森での『台風』ではコミュニティの語りに焦点が当てられています。牧さんは、こうした旅人の土地を見る目利き的な力も、外部の人に災害を伝える上で重要な働きをしていると語りました。

語りの輪に誰もが入れる「余白」をつくる

トークのなかでは、時間と語りの関係をめぐる話題も出ました。

瀬尾さんは震災から1年も経たない頃、地元コミュニティにはまだ話すべきことがあるのに、非当事者には既に震災の話に対する「お腹いっぱい」感があったと振り返ります。他方、当時こどもだった世代があとから震災の話をききたがるように、時間が経つことで非当事者の関心が高まることもある。このように、土地の内と外、当事者と非当事者の関心のタイムラインは常に変化しつつズレているものですが、「それらが触れ合ったときに、いい出会いが生まれることもある」と瀬尾さん。だからこそ、その変化の見定めが大切だ、と語りました。

さらに瀬尾さんが「地元の人も時間が経ったからこそ喋れる場合がある」と話すと、牧さんもこれに頷き、「災害の経験は物理的な経験だが、その後の語りは自分のなかで常に変わっていく。唯一の真実があるわけではなく、感じ方や考え方が変わっていく。逆に言うと、変わることで人は生きていける」と、人にとっての変化の重要性を指摘。「自分の経験を客観視して喋ることができたとき、ようやく“復興”になるが、機会をもらうことでようやく喋れる人もいる。だから、喋る機会や場があることが大事」と話しました。

1メートルほどの舞台の上で机を囲んで話している3人と、その横に手話通訳が立っており、手前側で参加者が椅子に座って話を聞いている
時間によって関心も変わり、語りも変化していくと瀬尾さん。

セッションの終盤は、今回のトークの背景でもある文化や表現の可能性に触れるような発言も飛び交いました。

絵や物語や映像などさまざまな手段で制作する瀬尾さんですが、「メディア」についての問題意識を問われると、自身のなかで考え方が変わった出来事に、2014年にみやぎ民話の会に出会ったことがあると答えました。このとき瀬尾さんにとって印象的だったのが、同会の代表の小野和子さんが、民話を語る人たちは、どんなに不思議なお話でも「あったること」(ほんとうにあったこと)として語り、きいているんだと教えてくれたことでした。

さらに民話の継承は、物語の基点となる出来事を体験したか否かにかかわらず行われます。例えばある人が、他人に語らざるを得ないような強烈な体験をする。そしてその話をきいた別の人も、これは誰かに伝えるべきだと感じてまた他者に話す。ここで重要なのは、それが完全に同一の物語として伝わることではなく、みんなが自分ごととして語る点です。

このような民話の伝承の姿を知ることから、瀬尾さんは、フィクションが媒介することによって、当事者と非当事者の区分を超え、みんなが語りのなかに入っていけると感じたと話します。そして、表現者としての自身の仕事とは「その余白をつくること」だと言い、2015年からはじめた物語づくりも、出来事を正確に伝えることを目的としているのではなく、「みんなが共有できる語りのための火種をつくっているようなイメージ」だと説明しました。

2冊の本が小さい円卓にのっている
左が瀬尾さんの近著『声の地層 災禍と痛みを語ること』(生きのびるブックス、2023年)。右が牧さんの近著『平成災害復興誌 新たなる再建スキームをめざして』(慶應義塾大学出版会、2023年)。

そんな瀬尾さんの話をきいた牧さんは、「瀬尾さんのナラティブ(物語)の捉え方は、防災の世界では新しく感じる」と話します。というのも、「防災の世界では当事者性、“わたしの語り”を重視してきたからです」と牧さん。「でも瀬尾さんは、誰かの物語をその本人だけではなく、誰もが話せるものにすることを大切にしている。それが出来事を昔話として伝えるということで、新鮮で素晴らしい」と、その実践の可能性を評価しました。

こうした感想を受け、瀬尾さんは陸前高田に初めて入った頃を再度振り返り、「震災体験は傷の話だが、そこには笑いがあったり、一緒に泣いて励ましあったりもする。語らずにはいられないことを中心に、人が集まって話し合う。そのことの切実さやうれしさがわたしのなかの基本にある」とコメント。そして最後に、災禍の語りに興味をもちつつ躊躇する人たちに向け、「何ができるのかと考えるより、話をきき、語る場に入った方が気持ちも楽になるし、楽しさもある。その語りの輪にみんなも入ってほしいと思う」と呼びかけました。

女性(ゲストの瀬尾さん)に参加者が話しかけている
イベント終了後も、来訪者からの質問が絶えなかった。

異なる立場から、災害をめぐる語りや被災地の人々の姿を見つめてきた二人が言葉を交わした今回のトーク。二人の発表や対話からは、「災害」や「防災」、あるいは「当事者/非当事者」のような、わたしたちが普段何気なく使う言葉の手前で立ち止まり、その内実や境界をあらためて考える大切さが感じられました。そして、それはまた、異なる人生を歩む人たちと経験を共有するための「翻訳」や「余白」の重要性、それらを生み出す上での文化や表現の可能性を浮かび上がらせる時間ともなりました。

レポート前編はこちら>

災禍の経験を共有するために、文化ができること(前編)

災禍の経験を共有するために、文化ができること(前編)

毎回、アートプロジェクトにかかわるひとつのテーマを設定し、ゲストとの対話を通して思考と問いを深めてきた東京アートポイント計画のトークシリーズ「Artpoint Meeting」。その第13回が、2023年10月22日、東京・江東区の東京都現代美術館で開催されました。

今回のテーマは、「災害の“間”をたがやす」。災害のあとの時間を「災後(さいご)」と呼びますが、各地でさまざまな自然災害が発生し、気候変動の危機が叫ばれる現在、わたしたちが生きているのは災害と災害の間、すなわち「災間(さいかん)」の時間なのではないか。そのとき、わたしたちは今後の災害に備え、あるいは過去のダメージから回復していくよすがとして、この災間の時間をどのように過ごしていけばいいのか。今回はそうした問いを、二人のゲストと考えました。

一人目は、京都大学防災研究所教授の牧紀男(まきのりお)さん。牧さんは、防災や復興を学問的に研究すると同時に、東日本大震災後、岩手県災害対策本部で情報処理の支援を行うなど、被災地の支援活動にも注力してきました。もう一人は、アーティストの瀬尾夏美(せおなつみ)さん。東日本大震災を機に東北に移り住み、およそ10年活動してきた瀬尾さんは、近年、各地の被災地に残る記録や記憶をつなぐことを目指すプロジェクト「カロクリサイクル」も展開しています。

異なる立場から、災害と、被災地に生きる人たちの姿を見つめてきた二人の言葉が交わされたイベント当日の模様を、ライターの杉原環樹がレポートします。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:池田宏*1-6、8、11枚目)

床から背の高さより上まである大きなガラス窓の前に、2人が立っている
ゲストの牧紀男さん(左)、瀬尾夏美さん(右)。

文化の営みを通して、災害の備えとなるコミュニティを育む

「災害」と、東京アートポイント計画がかかわる「文化」は、もしかすると遠い分野のように感じられるかもしれません。なぜ、災害の問題を考える上で、文化の視点が重要なのか。イベント当日は、はじめにプログラムオフィサーの佐藤李青が、そうしたテーマの背景にある問題意識について説明しました。

男性が「災害の間をたがやす」と書かれた赤いチラシとマイクを持って話している
オープニングでこれまでの取り組みを解説する佐藤李青。

2009年にスタートした東京アートポイント計画は、共催団体やアーティスト、地域に暮らす人たちと協働しながら、2023年4月までに45件のプロジェクトを展開してきました。

椅子に座った参加者が、配布物をめくりながら確認している
東京アートポイント計画について解説するリーフレットを配布。

こうした活動で目指してきたのは、「地域のなかに小さな文化的な営みをつくること。それによって個々人の生きやすさの回路をひらいたり、その場をともにする人たちに顔の見える関係ができたりすること」。そして、このように個人の生きる術や、何かをともに実践するコミュニティを育む文化のあり方こそ、災害の備えや助けとなるのではないかと佐藤は話します。

実際、東京都とアーツカウンシル東京が東日本大震災後の2011年から2021年まで、岩手県、宮城県、福島県の3県で文化を通じた活力の創出や心のケア、被災地の経験を未来につなげることを目指して実施したプロジェクト「Art Support Tohoku-Tokyo」は、地域に根差した活動を支援する東京アートポイント計画の手法を用いて展開されました。さらに東京アートポイント計画では、2022年、プロジェクトパートナーの公募にあたり、活動テーマのひとつを「災間・減災・レジリエンス」に設定。災害が多発する時代の社会における、文化の役割や目指す方向をあらためて明確にしました(ちなみにレジリエンスとは、「回復力」や「弾力」を指す単語で、困難やストレスといった逆境をしなやかに乗り越える力を意味します)。

机の上に冊子が複数札積み重ねられている
「Art Support Tohoku-Tokyo」から生まれた冊子も展示配布。ジャーナル『東北の風景をきくFIELD RECORDING』1〜5号(2018〜2020年/左)。佐藤李青がこの10年の経験を振り返る『震災後、地図を片手に歩きはじめる』(2020年/右)。

瀬尾さんもメンバーとして参加している一般社団法人NOOKが、東京アートポイント計画の一環として2022年よりはじめた「カロクリサイクル」は、東京アートポイント計画が現在打ち出す上記のような文化の方向性を代表する取り組みです。プロジェクト名になっている「カロク(禍録)」とは、自然災害や戦争といった災禍の記録のこと。瀬尾さんたちは、それぞれの土地に残されながらも、あまりほかの地域の人とは共有されない被災地の記録や記憶を横につなぎ、経験や人のネットワークをつくろうとしています。それは有事ではない平時の時間を、災間の時間として豊かにいかす取り組みともいえます。

例えば、活動の一環として2023年9月に開催した「とある窓」展では、公募で集まった10名のリサーチャーと、活動の拠点である江東区の団地内で「窓」にまつわる経験のリサーチを実施。それを、2018年に東北沿岸部で行った、同じく窓にまつわるリサーチの記録と合わせて、文章や写真で展示しました。ここで重要なのは、展覧会をつくるまでの過程が地域内外の人たちのかかわりづくりにつながっていたこと。このように、異なる土地や時間を生きる人たちの間に文化的な営みを設けることで、議論やつながりを生むことができるのではないか。そうした問題意識が、今回のイベントのテーマの背景にはあると、佐藤は語りました。

コンクリートむき出しの床の室内。ガラス扉にはカロクリサイクル、Studio04と書かれ、部屋の右側には絵のようなものが額縁に入って飾られている本棚、左側には1メートルくらいのポスターサイズの写真が吊られ、床のあちこちに木製の什器もおかれている。
「とある窓」展、江東区大島「Studio04」での展示風景(撮影:森田具海)。

プレゼンテーション①牧紀男さん
「防災」とは何か? 地域の姿が、災害のあり方を変える

続いて登壇した牧さんは、「防災を研究している立場から、日々感じている課題を共有し、災害の間をたがやすことの意味を語りたい」と話します。

マイクを持って話す男性と、手話通訳の男性が並んでいる
京都大学防災研究所教授、牧紀男さん。

まず牧さんが紹介したのは、「防災」の全体像です。ひとくちに防災といっても、その方法は災害を引き起こす原因などによって大きくふたつに分かれます。ひとつ目が、「災害予知予測」です。これは、大きな地震がいつ発生するか、気温が2度上がると雨の降り方はどのように変化するかなど、災害を自然現象として捉えて予測を行うものです。こうした災害の種となる自然現象のことを、専門用語では「ハザード(災)」と呼びます。

「ハザード」と、それに対応する「災害予知予測」が自然の側のセットだとすれば、もう片方にあるのが、人間の側の原因と対応策です。人間側の原因とは、「地域の防災力(脆弱性)」のことです。例えば、同じ規模の災害が起きた際、ある地域ではエレベーターも止まらずインターネットも通じるのに対し、別の地域では両方とも使えなくなる可能性があるように、同じ災があっても害は異なります。対応策は「被害抑止・被害軽減」と呼ばれ、例えば防波堤設置などのハード対策は被害抑止対策に該当します。地域の普段のあり方が結果を変えることをふまえ、牧さんは「害の姿は地域の姿により決まる」と話します。

防災・減災の全体像と見出しのついたフローチャート
牧さんが解説に使った「『防災』の全体像」(林春男「地殻災害軽減のための防災研究の枠組み」『学術の動向』19巻9号、2014年より作成)。

防災対策を進める上で重要になるのが「リスクコミュニケーション」です。災や被害がどのように起こるのかを人々に伝え、知ってもらうためのコミュニケーションのことで、これは災害の研究者だけでは考えられません。そのため牧さんが所属する研究所には、災害や防災の研究者のほか、気象、建築、土木、工学、社会心理学、さらに最近では情報やコンピュータの専門家も加わり、多角的な観点で課題に向き合っているといいます。

また、近年では「防災」の対象範囲、つまり、何に対する害を防ぐのかという範囲自体が広がってきた、と牧さん。以前まで防災の対象は「人命」や「財産」の被害を減らすことだとされていましたが、現代では「生活・地域・業務」を守ること、すなわち災後の「復興」までを見据えたものへと拡大しているといいます。

災害を伝えるリスクコミュニケーションの課題とは?

では、「災」(ハザード)や、それにより引き起こされる「害」(インパクト)をどのように人に伝えることができるのでしょうか? 牧さんは続けてそれを説明しました。

「災」の伝え方として挙げられたのは、地図上に潜在的なリスク(災の元)を視覚的に示す「ハザードマップ」です。例えば、大雨などによってある地域のどこにどのくらいの浸水被害が発生するのか、その可能性をわかりやすく色分けで示したものなどがあります。

一方、難しいのは実際に起きた「害」の伝え方です。牧さんがここで見せたのは、2019年10月の台風19号(令和元年東日本台風)の際の、長野市の千曲川流域の写真です。この台風では千曲川の堤防が決壊したことにより、長野市で最大約4.3メートルの浸水被害がありました。ただ、数字からその光景を想像することは難しい。そこで牧さんは積極的に被災地の様子を写真で見せるようにしているといいます。また、浸水した家財を外に出してゴミを分別する様子や、下水の逆流による匂いの被害があることなど、被害のディティールを伝えることも大切にしています。

一面地面が泥や水たまりでおおわれているような風景。右側には体育館の壁のようなものが写り、中央には10本程度の木、その奥には民家が見える
2019年、台風19号による長野県千曲川流域の浸水被害の写真(撮影:牧紀男)。

さらに、先述のように「防災」の範囲が変化するなか、復興期の長期的な街の変化をいかに伝えるかという問題もあります。例えば、岩手県釜石市の呑兵衛(のんべえ)横丁は地元の人に愛される名所でしたが、東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けます。その後、駅の反対側にある仮設飲食店街に合流して営業を続けたのですが、退去期限を迎え、店は各所へ移転し、また廃業した店も多くあります。「それぞれにドラマがあるが、これを伝えるのが難しい」と牧さん。本来はメディアにこうした変化を丁寧に伝えることが求められますが、震災直後に比べて被災地をめぐる報道は激減しています。また、発生から10年以上が経つなかで、震災の記憶がない、震災を知らない世代は確実に増えています。

このような難しさに触れ、牧さんは「数字や地図のような無味乾燥なものだけでなく、害を具体的なイメージとともに伝えたいが、それが難しい。被災地には、臭かった、失った、辛かった、うれしかった、暑いや寒い、涙や出会い、いろんな害や物語がある。それをいかに伝えるのかが、いまの防災のひとつの課題になっている」と話しました。

非体験者に伝える上での、「翻訳」の必要性

次に牧さんは、災害と災害の間の時間をたがやすことについて、自身の経験もふまえながら話を広げていきました。

大きなスクリーンの前でマイクを持って話す男性と、手話通訳の男性

先ほどの東日本大震災を知らない世代のように、「災間には“災害を知らないわたしたち”がいる」と牧さんは話します。また世代だけでなく、同時代を生きる人たちの間でも、震災からの距離感によって、その記憶や経験を伝えることに対する熱量は大きく異なります。だからこそ、「災間の時間をどのようにうまく使っていくのか、そして、経験者からきいたことをどのように定着させていくのかが重要になる」と牧さんは言います。

牧さんの研究者としての最初の対象である「阪神・淡路大震災」が起きた1995年、牧さんは京都の大学院生で、震災を直接的には経験しませんでした。被災地からの距離感は、牧さん自身の体験でもあるのです。そして、阪神・淡路大震災から3年後、神戸の研究所でこの震災の研究を開始。以後、「間をたがやす仕事」を続けてきました。

その代表的な活動のひとつが、人と防災未来センターで毎年行われている「災害メモリアルアクションKOBE」です。これは防災のためのゲーム開発やイベント、被災地の情報を伝える新聞発行などを行っている高校生や大学生のグループが交流することで、災害の教訓をいかす人材を育て、その経験を広げていくことを目指した事業です。阪神・淡路大震災からまもなく30年を迎えますが、メモリアルという名前をつけたイベントは形態を変えながら1996年から継続的に実施されています。

災害メモリアルアクションKOBE ACTIONと見出しのついたスライド。1995年の阪神淡路大震災から、南海トラフ巨大地震が起こるとされている2035年前後10年までのフローチャートが書かれている
「災害メモリアルアクションKOBE 2023」取り組みの解説図(出典: https://www.dri.ne.jp/pickup/memorial-action/memorial2023/)。

一方、こうした活動をするなかで「『教える』と『伝える』は違うと感じてきた」と牧さんは話します。「災害の教訓を伝える活動では、一般に大人がこどもに話してきかせる取り組みが多い。でも、こどもに感想文を書かせると“きちんとしたこと”を書きますが、リアルに伝わっているとは思えない場面も多いんです。大人は、災害時にこうすべきという言い方をしがちですが、『伝える』というのは、そのときの匂いや体温などを伝えること。それをもとに理解をし、それぞれが準備をしていくことだと思います」。

そうしたなか反響が大きかったのが、1995年当時小学生だった小学校の教員が、自分の恩師に話をきいて聞き手である小学生に伝えるプログラムだったといいます。ここには、時代を超えて二世代の小学生が仮想的に経験を重ねるような、一種の「翻訳」があります。牧さんは、このような翻訳こそが「伝える」営みにおいて大切になると指摘。そして最後に、瀬尾さんが映像作家の小森はるかさんと監督した映画『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019年)について触れ、そこにも独特の「翻訳」があり、それこそが重要だと感じたと話しました。

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災禍の経験を共有するために、文化ができること(後編)

ラッコルタ –創造素材ラボ–

府中市の地元企業に不要な部材を提供していただき、それらを表現のための創造素材として再活用する仕組み「ラッコルタ –創造素材ラボ–」。身近にあるモノを違う視点から捉える機会を創出し、アーティストの視点を通して、新たなものの見方を獲得するラーニングプロジェクトです。

このパンフレットでは、ラッコルタで実施しているプログラムの内容や企業から提供されている素材など、活動を知りたい、関わってみたいという方に向けて、取り組みを紹介しています。

Knock!! 拠点を訪ねて-芸術文化の場をひらくひと-

アートプロジェクトを地域にひらき、活動を豊かにするために重要な役割をもつ「拠点」。その役割は事務所としてだけではなく、新たな企画を実践したり、作品やアーカイブを並べたり、さまざまな人々の出会いをつないだりと、複合的で創造性のある場です。

この映像シリーズでは、都内各所の「拠点」運営に携わるメンバーによる対談を収録しています。それぞれが関わっている拠点の特性を紹介し合いながら、まちとの関係性や場所を維持するための仕組み、日々向き合っている課題、そして拠点を育む可能性について考えます。

目次

仲町の家×藝とスタジオ

収録日:2023年8月9日(水)

出演者:吉田武司(アートアクセスあだち 音まち千住の縁 ディレクター)、青木彬(ファンタジア!ファンタジア! ―生き方がかたちになったまち―  ディレクター)

 

国立本店×くると

収録日:2023年8月10日(木)

出演者:加藤健介(ACKT(アクト/アートセンタークニタチ)広報ディレクター)、飯島知代(HAPPY  TURN/神津島 事務局)

メディア/レターの届け方 2023→2024

多種多様なドキュメントブックの「届け方」をデザインする

アートプロジェクトの現場では、さまざまなかたちの報告書やドキュメントブックが発行されています。ただし、それらの発行物は、書店販売などの一般流通に乗らないものも多いため、制作だけでなく「届ける」ところまでを設計することが必要です。

多種多様な形態で、それぞれ異なる目的をもつドキュメントブックを、どのように届ければ手に取ってくれたり、効果的に活用したりしてもらえるのか? 資料の流通に適したデザインとは何か? 東京アートポイント計画では、川村格夫さん(デザイナー)とともに各年度に発行した成果物をまとめ、その届け方をデザインするプロジェクトを行っています。受け取る人のことを想像しながら、パッケージデザインや同封するレターを開発します。

2023年度は12冊の成果物を透明のシートで包み、テープを巻いてまとめました。

詳細

進め方

  • 同封する発行物の仕様を確認する
  • 発送する箱の仕様や梱包方法の検討
  • 発送までの作業行程の設計
  • パッケージと同封するレターのデザイン・制作

3つの航路

長きにわたりさまざまなアートプロジェクトを牽引し、独自の航路を切り開いてきたゲストを迎え、その活動について伺う映像シリーズです。

ナビゲーターは、人と環境の相互作用に焦点をあてながら、社会状況に応答して発生するアートプロジェクトをつぶさに見続けてきた芹沢高志(P3 art and environment 統括ディレクター)、ゲストに迎えるのは、北川フラムさん(アートフロントギャラリー主宰)、小池一子さん(クリエイティブ・ディレクター)、南條史生さん(キュレーター/美術評論家)の3名です。活動を始めたときの時代背景やモチベーション、活動の中で見えてきた変化や現在地など、それぞれの航路を紐解きながら、これからの社会とアートプロジェクトの形を考えます。

英国と静岡の例から考える、アートプロジェクトの「成果」と「社会的意義」(後編)

アートプロジェクトにかかわるゲストとともに、活動のためのアイデアや視点を深める東京アートポイント計画のトークシリーズ「Artpoint Meeting」。第12回は、「 “わたしたち”の文化をつくる─成果の見方、支える仕組み─」と題し、あらためて「アートプロジェクト」という営みそのものに着目。こうした活動が必要とされる土台や、判断が難しいその「成果」についての考え方を、国内外の事例と併せて考えました。

当日の模様を、ライターの杉原環樹が伝えます。

(執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:小野悠介*1-2、5、7-11枚目)

レポート前編はこちら>
英国と静岡の例から考える、アートプロジェクトの「成果」と「社会的意義」(前編)

プレゼンテーション②鈴木一郎太さん
魅力的なアートプロジェクトに見られる4つの特徴とは?

「英国アーツカウンシル(Arts Council of Great Britain、以下ACGB)とコミュニティ・アートに関する小林瑠音さんの発表に続き、鈴木一郎太さんが発表を行いました。

20代をアーティストとしてロンドンで過ごしたあと、出身地の静岡県浜松市で障害のある人たちの表現活動をサポートする「NPO法人クリエイティブサポートレッツ」(以下、レッツ)など、表現と社会をつなぐ活動に従事、3年前から「アーツカウンシルしずおか」に勤める鈴木さん。「生活者が立ち上げるアートプロジェクトがグッとくる理由」と題し、公的な機関で文化芸術にかかわる立場から、その活動の社会的役割について話したいと述べました。

男性が椅子に座ってマイクで話している。その様子を観客が椅子に座って聞いている
アーツカウンシルしずおか プログラム・ディレクター、鈴木一郎太さん。

まず鈴木さんが紹介したのが「プロジェクタビリティ」の活動です。「プロジェクト」とそれを「推進する力(アビリティ)」を組み合わせた造語を冠するこの取り組みは、静岡文化芸術大学が中心となって2013年にスタートし、3年間にわたり行った研究事業です。浜松市内で活動する生活者による14のプロジェクトにヒアリングを行い、うち5つを詳細に調査。関連展示も行いながら、プロジェクトがおもしろくなるための要素を分析しました。

2013年には、市内の書店跡地で14のプロジェクトを紹介する「Projectability~この街で起きていることはとどうしておもしろいのか~」展を開催。鈴木さんは、このときアルミホイルの葉で床を埋め尽くし、来場者が歩くと自然に道や順路ができる仕掛け(会場構成:403 architecture[dajiba])を施したことに触れ、「道ができる過程が視覚化されたことは、プロジェクトという営みを展示する上で印象的だった」と語りました。

コンクリートがむきだしのビルの一室のような室内に、様々な展示品が置かれている。床には手のひらサイズの銀色のものが無数に敷き詰められている
2014年、浜松市の元文泉堂書店の建物にて開催された「Projectability~この街で起きていることはどうしておもしろいのか~」展、会場風景。

活動の2〜3年目は、プロジェクトの調査活動に注力。プロジェクトのおもしろさを評価するための指標の抽出を試みました。そのなかで、取り組みが魅力的になるための要素を大きく「横断する力」「開く力」「問う力」「工夫する力」の4つに分類。さらに、そのそれぞれにより細かいポイントを設定していきました。

鈴木:例えば、『横断する力』は自身が動いて異なる領域をつなげる力なのに対し、『開く力』は自分たちのもとに来る異なる存在との出会い方に力点があります。また、『問う力』は社会や自身の活動を客観的に分析し、いい意味で悶々と自問自答する状態にあるかを指し、『工夫する力』は予算など限りある資源のなかで楽しみながらやりくりする力を指します。こうした要素をもつプロジェクトは魅力的であることが多い状況が見えてきました。

冊子の見開き1ページ。左側にはプロジェクタビリティと見出しがあり、右側には十字に4等分された円のイラスト。左上には「横断する力」右上には「聞く力」、左下には「問う力」、右下には「工夫する力」と書かれている
当日配布された資料より、プロジェクタビリティ指標の4つの力を表す図(『Projectability III』(静岡文化芸術大学 磯村研究室 谷川研究室、2016年)。PDFをウェブサイトよりダウンロードすることができる。

試行錯誤する「生活者」が、周囲の人々を刺激する

続けて鈴木さんは、プロジェクトと生活者の関係に注目しました。

鈴木さんは、静岡のような地方都市でまちおこしやプロジェクトに関心をもつ人は、「個人的な思いや生活に密着したところから取り組みを立ち上げ、仕事ではなく生活者として活動にかかわっている場合が多い」と指摘。そして、この「生活者」の意識こそがさまざまな意味で重要だと話します。なぜならそこでは、良くも悪くも個人の資質によって活動が左右される傾向があるからです。

鈴木:例えば先の『開く力』のような他者を受け入れる能力は、人によってはごく自然に備わっているものでしょう。ただ、それが職業的な能力であるという意識がないと、ときに何もかもを受け入れてしまい、何の活動かわからなくなってしまうこともある。また、『問う力』も、個人の思いが強すぎると暴走が起きてしまいがちです。そこで重要なのは、そうした生活者個人の資質や動機を土台にしつつも、そこに補足として客観的な視点を載せてあげること。そうすると活動が社会化され、プロジェクトで行う意義が出てくると思います。

さらに鈴木さんは、生活者が目の前の切実な状況から創造性を発揮した例を、そのままでは食べられない「こんにゃく芋」を、人々が工夫して食べられる「こんにゃく」に加工したという「こんにゃく創世の仮説」になぞらえて紹介。その生活者の試行錯誤に対し、周囲には批判する人や後押しする人、専門的な知識を与えた人もいたはずと述べ、プロジェクトで起きることを身近な例で説明しました。

偶然発見された食べ物とは違い、こんにゃくのような加工品には明らかに人々の試行錯誤の跡があります。鈴木さんは、「こうしたトライ&エラーを厭わない姿勢こそが、予定調和を崩し、周囲の人の創造性を刺激する」と述べ、自分自身がはじめた試みを社会化して他者と共有する上では、試行錯誤の態度が鍵になると指摘。そうしてある人の行動が他者を刺激するところに、鈴木さんの生活者への関心があると話しました。

二台のモニターの前で、座りながらプレゼンをする男性

いろんな人の創造性がいかされる道

鈴木さんによる生活者の創造性の話は、小林さんが話したコミュニティ・アートの話題と多くの点で共通していました。

鈴木さんは、一般に創造性がアーティストの特殊能力のように言われたりする状況に違和感があると語り、生活者がこんにゃくをつくったように、「創造性は誰にでもある」と話します。そして創造性の表れは必ずしも「作品」のかたちをとるとは限りません。例えば、時間のやりくりや事業のつくり方、会話の仕方がクリエイティブな人がいるように、それぞれの人が社会にアプローチするなかで、すべての市民の創造性は既に表現されています。これはまさに、英国のコミュニティ・アートが問い直した、芸術と「わたしたち」の距離感をめぐる視点でしょう。

鈴木:こうしたなかで、僕自身は限られた文化芸術というより、いろんな人の創造性がいかされる道を探っていきたいと思っています。ただ、誰がそれを後押しするのか? 美術や舞台や音楽などには業界がありますが、市民の創造性を育むためのお金は、公的な資金を投じるよりほかないのではないか。そこに、アートプロジェクトの公的な役割があるのだと思います。

最後に鈴木さんは、そうしたプロジェクトを動かす上で重要となる「つなぎ役」について話をしました。

個人の思いからはじまるがゆえに、ときに属人的になったり、客観性に欠けていたり、閉じたものになりがちな生活者によるプロジェクト。そこで重要なのは、地域にあるほかの企業や団体、個人と連携していくことであり、そのときに求められるのが、文化芸術と、地域や産業、まちづくりに関する知見をある程度幅広くもっており、両者をつなぎ合わせることのできる存在です。

ただし、個人がそれらに満遍なく精通することは現実的ではないかもしれません。そこで鈴木さんは、文化芸術側のことをよく知るアートディレクターやマネージャーと、市民や産業側のことをよく知る「住民プロデューサー」という、二種類のつなぎ役がいることがベストではないかと提案します。実際、静岡では「住民プロデューサー」という存在をプロジェクトのなかに位置づけており、支援を通じてその育成を進めていると言います。

古民家のようなところで、男女4人が、1人の男性の話を立って聞いている
2023年度、マイクロ・アート・ワーケーション(MAW)を通じて出会ったキュレーターの戸塚愛美さん(右奥)と、住民プロデューサーである株式会社シタテの山森達也さん(中央)が「三島満願芸術祭」(2023年11月11日~26日開催予定)を立ち上げた。左は参加作家の古川諒子さん(奥)と辻梨絵子さん。

「生活感覚とクリエイティビティの組み合わせは、その接続の仕方でさまざまな活用の可能性を広げられるはず」と鈴木さん。その発表には、多くのプロジェクトをそばで見てきたからこその、実感のある、じんわりと響いてくるような視点が盛り込まれていました。

ディスカッション
プロジェクトと社会の「間」を調整するつなぎ役の大切さ

イベントの後半では、小林さんと鈴木さん、最初に話した佐藤李青に加え、東京アートポイント計画プログラムオフィサーの大内伸輔が参加。東京アートポイント計画のこれまでの取り組みを解説したのち、会場の声も拾いながら、前半の内容も踏まえたディスカッションが行われました。

モニターの前で、ローテーブルを囲うように4人が座っている。そのうち2人が、テーブルの上に置かれたカードを手に取ったり、前のめりになって見たりしている
参加者から多くの質問が寄せられた。

その冒頭では、鈴木さんの発表の最後に言及された「住民プロデューサー」など、芸術文化と社会のつなぎ役となる存在への質問や発言が集まりました。

アーツカウンシルしずおかの住民プロデューサーは、主に「マイクロ・アート・ワーケーション」(以下、MAW)という事業のなかで与えられる役割です。MAWは全国から公募した「旅人」と呼ばれるクリエイティブ人材(アーティストやキュレーター、アートディレクターなど)と、地域住民や地域団体をマッチングし、その交流を支援する事業。このなかで、現地に滞在する旅人を迎え入れるホスト役が住民プロデューサーとしての役割を担います。

その担い手は半数以上がまちづくりにかかわる人たち。鈴木さんは、「かれらは芸術文化の専門家ではないけど、まちの事情に精通している。旅人との交流を通し、その可能性をまちでいかしてもらえたら」と、まちのプロがアーティストらと出会う重要性を話しました。

机の上に、会場から寄せられたコメントの書かれたカードがランダムに並んでいる
質問が記された葉書大の用紙。

これをきいた小林さんは、英国のコミュニティ・アーティストたちにも、さまざまな領域や関係者の間に立ってそれらを媒介する意識があったと話をつなげます。こうした存在を表す言葉が、「アニマトゥール animateur」です。これは、もともと1970年代のフランスで政策的に後押しされた、異なる領域をつなぐ「職業」のこと。それが文化芸術の分野にも応用され、英国にも伝播し、「カタリストcatalyst」(媒介者)という呼称でも広がりました。

小林:実際、わたしが話をきいたかつてのコミュニティ・アーティストたちには、自分はアーティストではなくてプロデュサーやディレクターのような立場だったと話す人が多いんです。もちろんプロの芸術家としてかかわる人たちも多かったのですが、いずれの場合にもコミュニティ・アーティストの役割を説明するときに『アニマトゥール』や『カタリスト』という言葉が頻繁に使用された。それも注目すべきことだなと思います。

さらに小林さんは、鈴木さんが発表で指摘したように、個人の領域として閉じたものになりがちな地域プロジェクトにおいて、こうしたつなぎ役が社会との接点を調整することの重要性を指摘します。それに対して鈴木さんも、「コミュティをひらくとよく言うけど、コミュニティは閉じているから居心地がいい。でも、閉じたままでもいけない。つなぎ役の人たちには、その開閉の塩梅をとるという感覚が必要」とコメント。プロジェクトのよいあり方と社会性を担保する上での、つなぎ役の大切さが共有されていました。

かつてのコミュニティ・アートが現在に残したもの

質問のなかには、小林さんが話したACGBに触れるものもありました。なかでも興味深かったのは、「数本のバラか、路傍のタンポポか」という二項対立的な問いに対し、その中間をとるようなものはなかったのか、というもの。

モニターの前で椅子に座った3人。中央の女性がマイクを持って話している
質問に答える小林瑠音さん。

これに対して小林さんは、バラとタンポポという比喩は、英国の文化政策において頻繁に使用されてきた重要な表現だが、大前提として、何がバラで何がタンポポなのかという定義の問題も含め、個人的には違和感があるとしつつも、ここで重要なのは、文化政策についての議論を促す基準として、このふたつのフラグ(旗)を立てたことだ、と返します。

小林:これらのフラグが立ったことで、例えば、いまはバラとタンポポが7:3になっているから少しタンポポの方に力を入れようといったかたちで、領域間のバランスを調整する意識が高まった。もちろん両者が共存する状態が理想だが、こうした、誰もがイメージしやすいモチーフを使いながら政策を議論し、自分たちの立ち位置を確認することができるようになった点が、まず大きかったと思います。

加えて小林さんは、近年の英国ではそうした中間的な取り組みも行われているとし、一例として2002年から開始された「クリエイティブ・パートナーシップ」という教育プログラムを挙げました。これは、学校がアーティストや建築家、科学者らと連携を結び、その人たちを学校に派遣するなどして、こどもたちの芸術性や創造性につなげようというものです。

このように、現代の英国で非常に重視されている「アウトリーチ」の概念が広く浸透した背景のひとつには、直接的ではないものの、かつてのコミュニティ・アートの影響があると小林さん。特筆すべき事例として、テート美術館の館長として英国におけるアウトリーチ活動の発展に大きく貢献し、現在はアーツカウンシル・イングランドの会長を務めているニコラス・セロータ氏が、実は駆け出しの時代に、ロンドンのイーストエンドで開催されたコミュニティ・アート・フェスティバルにかかわっていたという点を挙げました。半世紀近く前の活動の影響がじわじわと、さまざまに現在の文化政策につながっているのです。

ひとつの「理想」に縛られず、柔軟に変わる文化芸術の役割

最後に、今日の話を踏まえて、登壇者たちはどんなことを考えたのでしょうか? 

鈴木さんは小林さんのバラとタンポポのフラグの話が印象的で、「振り返るとアーツカウンシルしずおかではタンポポに振り切った活動をしてきた」と言います。その理由には、設置が検討されていた頃の第3期ふじのくに文化振興基本計画で、「みる」「つくる」 「ささえる」の3つの基本方針が掲げられていたことがあるそうです。

男性が椅子に座って、マイクを持って話している
経験を交えて語る鈴木一郎太さん。

鈴木:ワーキンググループに参加したとき、静岡ではこの3つに関して非常に多くの取り組みが行われていました。でも、バラ的な芸術を支えることも重要だけど、いまは文化が社会を支えるという視点が大事なんだと思ったんです。そこで、うちではタンポポ的な活動を重点的に行ってきたのですが、これも永続的なものではない。固定的な理想ではなく、状況を見ながら常に活動のかたちを変えていくのが自然なんだと思いました。

これに大内もうなずき、「活動がマンネリ化するより、変わっていくことが大事。プロジェクトで育んだ要素をもった人がいろんな場所に散らばって、それぞれの場所で変化しながら活動していくのがおもしろいと思う」と共感。それは東京アートポイント計画でも感じることだと言い、そうした種をもつ人が増えていけば、「文化をつくる人が増えていく」と話しました。

また佐藤は、鈴木さんのこんにゃくの例に触れ、「こんにゃくをつくる人だけでなく、それを売る人や活用する人もいる。プロジェクトでも、直接的な担い手だけでなく、そこにかかわる幅広い関係者を対象にした成果の見方が必要だと感じた」と感想を述べました。

最後に小林さんは、ACGBを研究する立場から、この日会場の廊下に並べられていた東京アートポイント計画の発行した数多くの冊子に触れ、「このように、よくわからなくてモヤモヤした気持ちを言語化して共有する取り組みは素晴らしい。世界一丁寧なアーツカウンシルだと思う」とコメント。その上でこの資料を海外のアーツカウンシル関係者にも紹介していきたいと感じたと話し、「多言語化によって海外からの評価を得る道もぜひ検討してほしい」と述べました。

壁際に並べられたテーブルに、様々な本が積み重ねられている。それを手に取ったり、中身を見たりしている参加者
これまで東京アートポイント計画が発行した冊子を手に取る参加者たち。

異なる時代や地域の取り組みを通して、東京アートポイント計画や市民によるアートプロジェクトの価値について考えた今回のイベント。そこには事情は異なれど、共通する文化政策的な論点や市井の人々の思い、求められる姿勢があったように感じます。そしてとりわけACGBの例が示しているのは、暫定的であっても自分たちの価値観を言語にし、残していくことの大切さであり、それが時を経てもつ意義があるということでした。

今回のイベントで紡がれた視点は、今後の東京アートポイント計画にどのように反映されていくのでしょうか? 今後も見続けたいと思います。

レポート前編はこちら>

英国と静岡の例から考える、アートプロジェクトの「成果」と「社会的意義」(前編)

英国と静岡の例から考える、アートプロジェクトの「成果」と「社会的意義」(前編)

アートプロジェクトにかかわるゲストとともに、活動のためのアイデアや視点を深める東京アートポイント計画のトークシリーズ「Artpoint Meeting」。7月8日、その第12回がアーツカウンシル東京を会場に開催されました。

一過性のイベントごとではなく、協働する市民やNPOと長い時間をかけて、地域で個人が豊かに暮らしていくための文化的な営みやコミュニティをつくること。こうした活動を目指し2009年にはじまった「東京アートポイント計画」は、今年で15年目を迎えます。

そこで今回は、あらためて「アートプロジェクト」の営みに着目。「 “わたしたち”の文化をつくる─成果の見方、支える仕組み─」と題し、こうした活動が必要とされる土台や、判断が難しいその「成果」についての考え方を、国内外の事例と併せて考えました。

ゲストには、英国のアーツカウンシル史や、1970年代に同国で隆盛した市民による芸術実践「コミュニティ・アート」を研究する芸術文化観光専門職大学講師の小林瑠音(こばやしるね)さんと、さまざまな立場で文化と障害福祉やまちづくりの交わる領域に従事し、現在はアーツカウンシルしずおかのプログラム・ディレクターを務める鈴木一郎太(すずきいちろうた)さんを迎えました。

当日の模様を、ライターの杉原環樹が伝えます。

(執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:小野悠介*1-6枚目)

木製の本棚の前に、2人が立っている
ゲストの鈴木一郎太さん(左)、小林瑠音さん(右)。

自分を知るために、「似た他人」から学ぶ

この日はまず、「東京アートポイント計画」プログラムオフィサーの佐藤李青より、イベントの趣旨説明がありました。

2009年にはじまった東京アートポイント計画では、2022年度までに56の団体と共催し、45のアートプロジェクトを展開してきました。また、その担い手のための学びの場「Tokyo Art Research Lab」(以下、TARL)には計1869名の受講生が参加。まちなかに小さな文化やコミュニティの種、そしてそれを担うプレイヤーを広げてきました。

いっぽう、こうした活動で難しいのが、「アートプロジェクトの成果をいかに計るか?」といった問題です。展覧会やコンサートのような、集客や利益によって成果が計りやすいイベントとは異なり、「アートプロジェクトの成果は現れるまでに時間がかかるし、日々の変化は微々たるもの」と佐藤。現場で起きたことの成果をどのように見ればよいのかは長年の課題であり、今回はそれをイベントのテーマにしたと話しました。

実はTARLでは、2010年度にその名も「アートプロジェクトを評価するために〜評価の<なぜ?>を徹底解明」という連続ゼミを開催しています。その報告書でセゾン文化財団の片山正夫さんは、プロジェクトの実績を捉えるにあたっては、〈過去の自分〉と〈似た他人〉というふたつの比較軸が必要ではないかと指摘していました。

佐藤:このうち、〈過去の自分〉として、東京アートポイント計画では多くのドキュメントを残してきました。他方で〈似た他人〉、つまり自分たちと同じような活動についても知りたい。そこで今回は、英国のコミュニティ・アートを研究する小林さんと、さまざまな現場に携わってきた鈴木さんをお呼びしました。我々の活動とも共通点のあるお二人のお話を通して、東京アートポイント計画のことも『ひとつの事例』としてあらためて考えていければと思っています。

プリントと冊子の上に、「わたしたちの文化をつくる」と書かれたチラシが置いてある。チラシは紫色の背景に、紙面幅いっぱいの緑色と白色のクローバーのイラストが描かれている
メインビジュアルのモチーフである12のクローバーは、Artpoint Meetingの開催数を表している。うち一輪は四つ葉。「成果をじっくり見る」という今回のテーマから発想された(デザイン:浦川彰太)。

プレゼンテーション①小林瑠音さん

公金にも、文化政策にも、根拠が問われる英国

最初に登壇した小林瑠音さんは、「プロダクト(成果物)かプロセス(過程)か:1970年代英国アーツカウンシルのコミュニティ・アート政策を中心に 」と題したプレゼンテーションを行いました。

お客に向いた大画面のモニターの横で、座って発表する女性
芸術文化観光専門職大学 講師、小林瑠音さん。

1946年に創立された英国アーツカウンシル(The Arts Council of Great Britain 以下、ACGB)は、芸術文化事業の助成や助言を行う専門機関で、アーツカウンシル東京にとっては重要なモデルであり、まさに「似た他人」です。けれど、そこで志向される「芸術」「文化」の像は時代ごとにさまざまで、小林さんは「プロダクトかプロセスか、ACGBは表看板を常に変えるようにして活動してきた」と指摘します。

その背景として小林さんは、英国の文化政策の特徴である「内因的弱さ」を挙げます。これは平たく言えば、文化芸術に公的なお金を出すことは、英国の全国民にとって必ずしも当然のこととして受け止められているわけではない、とする現実的な側面です。実際、1970年代後半のジェームス・キャラハン労働党政権によって発行された政策ペーパーのなかには、「アートは国民生活にとって必要なものである」という前提は普遍的に共有されるものではなく、芸術への公金利用には「正当な理由づけが必要」という文言が見られます。

小林:最初にこの文書を読んだときは、1970年代末の不況期とはいえ、政府がここまではっきり言い切るのかと驚きました。ACGBの予算はこの時期にも右肩上がりだったものの、英国において芸術文化領域は決してサンクチュアリ(聖域)ではなく、それらへの公金投入に対しても厳密なゲートキーパー(門番)が必要というお国柄を表している。その辺りは芸術文化への公的支援がある程度国民的なコンセンサスとして成立しているとされるフランスやドイツと異なるかと思います。

こうした背景のもと、英国では文化政策自体にも明確な根拠を求める傾向が強まります。その最たる例が1990年代後半にはじまる「エビデンス主義文化政策」です。「what counts is what works」(重要なのは何が効果的かということ)をスローガンにしたこの時代には、プロジェクトの段階に応じた評価を規格化した「ツールキット・アプローチ」や、より定性的に活動を測る「セオリー・ベースド・アプローチ 」など、さまざまな手法によって文化的な取り組みが評価されるようになりました。

ローテーブルの上に、3冊の本が立てかけてある。左から、これからの文化を「10年単位」で語るために、英国とコミュニティ・アートとアーツカウンシル、Projectability、と表紙に書かれている
登壇者の参考図書。中央が小林さんの著書『英国のコミュニティ・アートとアーツカウンシル—タンポポとバラの攻防』(水曜社、2023年)。

数本のバラか、路傍のタンポポか?

ここから小林さんは、ACGBの歴史を振り返りながら、この組織に関するいくつかの誤解や問題点について話を進めました。そのひとつが、著名な経済学者で、ACGBの初代会長であるジョン・メイナード・ケインズをめぐるものです。

戦時中からACGBの骨組みを構想していたケインズですが、実は、ACGB初代会長就任後わずか10か月で、組織の正式な設立(ロイヤル・チャーターの公布)を待たずに亡くなります。そのため、彼が生前に集中的に行ったロンドンの劇場復興政策が、「ロンドン中心、エクセレンス重視、ハイアート志向」という悪名高い「ケインズ・レガシー」として、後世に継承されていくこととなったのです。

ACGBの舞台芸術重視、特にハイアート志向は、その事業費の内訳にも明らかだと小林さん。例えば、1960年代末〜80年代初頭の内訳を見ると、「ビックフォー」と言われたロンドンを拠点とする国立・王立劇場に対する予算が全体の約4割を占め、かつピーク時には、バレエやオペラ、クラシック音楽などを中心とする舞台芸術全般の予算で8割を割くこともあり、その配分は確かに偏ったものでした。

椅子に座りモニターを指差しながらプレゼンする女性と、そのよこには手話通訳が立っている。その様子を観客が座りながら観ている
英国アーツカウンシルの事業費の内訳(1969〜82年度)を解説。

このように設立から長年、ACGBではエクセレンス志向が続いていました。これに対して噛みついたのが、「コミュニティ・アート」の文脈で活動する人々でした。1960年代後半〜80年代前半に隆盛したこの運動では、「数本のバラではなく、路傍のタンポポに目を向けよ!」をスローガンに、ACGB本部へのデモが行われるなど、エクセレンス志向の問い直しが浮上。最盛期には全英で約300団体が活動し、その後の文化政策のあり方を大きく揺さぶりました。

小林:コミュニティ・アートの特徴は、これまで芸術とかかわりの薄かった市民が表現活動の主体となった点です。コミュニティ・アーティストたちは地域に住み込み、労働者階級やエスニックマイノリティに属する人々を対象とするワークショップを通して、演劇、シルクスクリーン、壁画、映像、冊子制作などにかかわる、創造的な技術の共有と蓄積を推進。さらに、活動の担い手自らが全国組織『コミュニティ・アーティスト協会』を設立し、政策提言を行った結果、ACGB内に専門の『コミュニティ・アート委員会』が立ち上がり、コミュニティ・アーティスト自身がその委員として文化政策に対する発言権を獲得していきました。

地図のデータの上に、たくさんのピンと吹き出しが描かれている。
小林さんの著書にまとめられた「1960年代から1980年代のロンドンの主なコミュニティ・アート団体の拠点」の図表(出所:小林、前掲書、pp.100-101)。

こうしてACGBは、1969〜82年にかけて集中的にコミュニティ・アート政策を実施しました。この際、ACGB内には先の委員会のほか、少数の専門家によるワーキング・パーティや評価に特化したグループなど、3つの専門部会が設けられました。

その活動のなかでも、1974年にACGBが発行した通称「ボールドリー・レポート」は画期的でした。そこでは、コミュニティ・アートを特徴づけるものを「技術」ではなく、自分たちの活動を社会のなかに位置づけて考える「姿勢」だと指摘。また、その担い手にとって最大の関心事はコミュニティへの影響であり、それゆえ、コミュニティ・アートが他の芸術実践と異なる点は、それが「最終的な成果物より、むしろ個人の献身や貢献を含んだ過程を重視している」点だと述べたのです。

価値観をアーカイブすることの重要性

一方で、こうしたプロセス重視の姿勢には根強い批判もありました。なかでも小林さんが注目するのが、当時ACGBの事務局⻑であったロイ・ショウによる批判です。

そもそも、従来的な芸術(ハイアート)の「卓越性 excellence」に対して、コミュニティ・アーティストが推奨したもののひとつに「レリバンス relevance」という概念がありました。これは「関連性」「当事者性」などと訳せる言葉で、ここでは「わたしたちの our own」という意味合いをもちます。つまり、コミュニティ・アートは権威によって上から与えられるものではなく、わたしたち自身によるわたしたちの文化なのだということ。この価値観に対してショウは、やはり芸術にとって作品の「質」は重要であり、それが保持されなければ「なんでもあり」の状況が生まれてしまう、と牽制したのです。事実、一部のコミュニティ・アーティストがハイアートを仮想敵と見做すあまり、コミュニティ・アート自体に反知性主義的、排他的な印象がついてしまい、ショウはそれに辟易していた一面もあったようです。

こうしてコミュニティ・アートは、1980年代半ばに勢いを失っていきます。その後長らく英国においてコミュニティ・アートはあまり着目されない傾向にありましたが、2010年代になると画期的な研究成果がいくつも公刊され、再評価が進行。こうした動きが起こった背景には、1970年代にACGBやその運動の担い手によって残されたアーカイブの存在があると小林さんは指摘します。

例えば、先の「コミュニティ・アート委員会」では、現場の人々によるアイデアを下敷きにしたコミュニティ・アートの評価軸を文書化していました。そこには「地域の人々が、芸術が自分たちと何らかの関連があり、自分たちのニーズを満たし、自信をつけ、自己表現するために参加しているかどうか」など、当時の活動で大切にされた価値観が明文化されていました。こうした文書はロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館アーカイブスなどで閲覧でき、定例会議のアジェンダから出席者まで知ることができると言います。

さらに重要なのが、コミュニティ・アーティスト自身が作成した記録です。かれらは全国会議の報告書や同人誌など、多くの文書を残しました。「そうやって、数値化できない現場の出来事を言語にして価値化したり、それを共有するフィールドをつくったりといった活動を担い手自らが行なっていたことがとても重要だった」と小林さんは話します。

二枚の図表が掲載されたプレゼンスライド
小林さんが紹介した英国でのアーカイブの例より。「1979年に開催されたコミュニティ・アーティストの全国集会の報告書」(出所:Fisher, G. ed. (1979) Community Arts Conference Report 1979, Northern Arts and Gulbenkian Foundation, available at “A Restless Art”)(左)と、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジと英国映画協会(BFI)が中心となり、地域社会に関する映像を蒐集している「ロンドン・コミュニティ・ビデオ・アーカイブ」のウェブサイト(右)。

「バラか、タンポポか。プロダクト(成果物)か、プロセス(過程)か。ACGBは、時代の要請に応じて、常にその配分や力関係のバランスを調整しながら活動してきた」と小林さんは語ります。そうしたなか、半世紀近く前に市民と芸術の距離感を問い直したコミュニティ・アートの方法論や、その再評価にあたり当時のアーカイブが重要だったという指摘など、小林さんの発表からは東京アートポイント計画の活動を俯瞰的にまなざすための視点が多く含まれていました。

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英国と静岡の例から考える、アートプロジェクトの「成果」と「社会的意義」(後編)