アーティストは何をつくっているのか?
執筆者 : 関川歩
2020.02.27
2019.12.24
執筆者 : 佐藤恵美
開催日:2019年9月17日(火)
ゲスト:鬼木和浩(横浜市文化観光局文化振興課施設担当課長〈主任調査員〉)
ナビゲーター:佐藤李青(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)
東京アートポイント計画の10年を考えるレクチャーの第2回は、文化政策の意義や影響関係について考えます。横浜市文化観光局文化振興課施設担当課長で主任調査員の鬼木和浩さんをゲストに、他の自治体や国の歩みと比べることで、持続的な文化事業を実施するための文化政策について、ディスカッションします。
2009年から始まった東京アートポイント計画は、東京オリンピック・パラリンピックを見据えた東京都の文化政策においてスタートしました。今回のレクチャーはその「政策」としての側面に注目します。最初にナビゲーターの佐藤李青が、東京アートポイント計画と文化政策の関係について話しました。
「東京文化発信プロジェクト室」という組織のなかで生まれた東京アートポイント計画でしたが、現在は「アーツカウンシル東京」の一事業となっています。2020年の東京オリンピック・パラリンピックが2013年に決定したのち、東京都は「東京文化ビジョン」という文化戦略を打ち出し、そのもとに東京文化発信プロジェクト室はアーツカウンシル東京と組織統合しました。
そもそも「文化政策」とは、文化を対象とした「政策」のこと。その担い手は「政府ばかりでなく、市民や芸術家、企業などいろいろな主体がある、というのが近年の考え方」だと言います。「東京アートポイント計画」には、「公的な事業には裏付け(意図)として文化の『政策』があった」と佐藤は語ります。その視点で東京アートポイント計画の特徴を見ると、「創造活動や市民参加などを事業対象にしている」こと、また「オリンピックや災害などの社会事象をテーマに事業に取り組んでいる」こと、そして「23区や多摩・島しょ地域などの地域区分が織り込まれている」ことなどがあげられました。
もう一つ「10年が経つと、政策の対象も再定義が必要になるかもしれません」と続けました。それは、たとえば10年前に事業の対象として想定していた「市民」の意味と現在の「市民」の意味は変わっているのではないか。社会状況が変わるなかで、政策自体の再定義も必要ではないか、と話しました。
次に、今回の本題となる鬼木和浩さんによるレクチャーでは、国や自治体との比較から文化政策が語られました。横浜市の文化観光局文化振興課に16年間勤める鬼木さんは、書籍『これからの文化を「10年単位」で語るために』を読み、印象に残ったこととして5つのことをあげました。
1.「10年」という単位を提示している
「アートプロジェクトのドキュメントは、プロジェクトについての記述が大半ですが、それらを包括し、東京アートポイント計画全体の時間軸を提示したことは、これまであまり例がないでしょう」と鬼木さん。10年かけてつくってきたことが、きちんとこの本のなかで示されていた、と評価しました。
2. 手法をあますところなく見せている
「ここまで手の内を見せてくれるんだというくらい」、手法が詳細に書かれているのは「(この本の著者でもある)プログラムオフィサーが、それぞれの事業に深く関わっているから」だと言います。特に、公式な関係ではなく何かあれば手伝ってくれる人(本書では「折に触れて手伝う人」と記述)を発見したり、イベントの周りで盛り上げている人について描写されていたり「何が起こっているかをよく見ているなと思いました。その発見の過程も書いてあることに感心しました」と話しました。
3.「自治」という視点をもっている
本書のなかで「アートを媒介にしたコミュニティが、自治の基盤となるという記述があった」という指摘がありました。この「自治」という視点は、後半の鬼木さんのレクチャーでも重要なキーワードとなりました。
4.「千の見世」の「1000」はどうするのか
さらに鬼木さんは、東京アートポイント計画の構想時に打ち出された「千の見世」という事業名にある「1000」という数字に注目しました。ご自身の行政という立場からも「1000という数字の達成をどう考えるのか」と心配されました(この点に対して、後のディスカッションで佐藤から、細かいプログラムの数え方が話題にあがりました)。
5. 総合的な文化政策への視点はあるか
そして、最後に具体的な記述への言及がありました。「文化政策を4期に分けていた記述がありました。『第1世代 ハコをつくる』『第2世代 ハコにソフトを付加する』『第3世代 ハコ抜きのソフトをつくる』『第4世代 これまでの成果から東京アートポイント計画を再定義する』という議論がありました (*)が、第4ステージでのとらえ方はハコがいらないという話ではないので、文化政策を総合的に考えるとどういうことなのだろう、と今日聞いてみようと思いました」。この問いかけに、佐藤は「世代という言い方は前にあったものを『ない』と考えるのではなく、その時代の課題を踏まえたなかで、現在をどう捉えるか、という意図があった」と応答しました。
*146〜157頁に再録した「第4部 鼎談:結果を踏まえて」『東京アートポイント計画2009-2016 実績調査と報告』での議論。
次に、戦後70年の国と自治体の文化政策を10年単位でたどっていきました。10年続く「東京アートポイント計画」は日本の文化政策の歴史のなかで、どのような位置にあるのでしょうか。
1949年から1958年
戦後、復興と民主化が叫ばれた時代に「文化」は大きなキーワードでした。1947年、市民の文化活動を支える部署「民生局文化課」を立ち上げた横浜市。戦後、文化政策を着々と進めるこうした自治体に対し、国は戦時中の「文化統制」に対する反省から「文化政策」という言葉は使わないようになりました。
1959年から1968年
1966年には国立劇場ができ、1968年に文化庁が設置。自治体のほうでは東京文化会館(1961年)、公立としては初のギャラリーである横浜市民ギャラリー(1964)などさまざまな文化政策が進められました。東京オリンピック(1964)もこの間に行われています。
1969年から1978年
そして翌10年を見ると、国際交流基金が設置(1972)されましたが、国の全体で見ると文化政策はあまり進んではいません。一方で、県や市では文化の部署が次々と誕生します。1975年、全国初の文化振興条例が釧路市にて制定されました。
1979年から1988年
この時期、国民文化祭(1986)が始まりました。自治体の動きとしては1979年に横浜で第1回全国文化行政シンポジウムが開催されます。自治体が文化行政に乗り出した最盛期と言えるでしょう。
1989年から1998年
1989年からの10年は文化庁が巻き返しを図る時期。1989年に文化政策推進会議ができ、それまで封印していた「文化政策」という言葉を戦後初めて公式に使いました。その後、芸術文化振興基金(1990)、財団法人地域創造の設立(1994)、新国立劇場設立(1997)と、国は一気に文化政策を進めていきました。また自治体は水戸芸術館、東京芸術劇場、東京都写真美術館、東京都現代美術館(1995)と、専門的な文化施設をつくっていった時期でした。
1999年から2008年
2001年、文化芸術振興基本法が施行され、2003年には地方自治法が改正。2006年に公益法人改革関連3法が施行。国が大きく政策を変えていきました。自治体のほうは越後妻有アートトリエンナーレ(2000)、第1回横浜トリエンナーレ(2001年)、と芸術祭が各地で開かれるようになります。2006年に全国で指定管理者制度が導入。同じ年に東京都芸術文化評議会が設立され、横浜では2007年にアーツコミッションヨコハマが始まりました。
2009年から2018年
次の10年は、東京オリパラに向けて国が大きく動いていく時期であり、東京アートポイント計画の10年とまさに重なる時期です。国のほうは東アジア文化都市事業(2014)、日本版アーツカウンシルの本格実施(2016)、文化芸術振興基本法を文化芸術基本法に改正(2017)。自治体としては、あいちトリエンナーレや瀬戸内国際芸術祭、アーツ千代田3331がそれぞれ2010年にスタートし、2012年にアーツカウンシル東京が設立されました。
こうして振り返ると「戦後は、国が自治体の文化政策を追随してきたと言っていいかと思います」と鬼木さんは言います。国は文化政策という言葉を封印した一方で、自治体も戦後の復興に合わせて文化政策を推進しました。ですがバブル崩壊後の2000年代以降は、東京都を除く自治体の税収は低迷し、それに合わせて文化関係予算も減っていきました。
70年間の大きな転換点としては、NPM(New Public Management)の導入があげられます。これはイギリスで始まった評価制度のことです。特徴としては「民間が事業を担いそれを事後的に評価することで事業の質を担保する」「行政組織を効率的に執行する(=数値化する)」「市民を顧客と考え行政活動をサービス提供と考える」など。こうしたNPMの考え方により、指定管理者制度が導入されています。
現在は、地方創生、特区申請、補助金制度など、政策が充実することで国が自治体間の競争を促している状況です。2000年代以降、地方分権改革は進んだものの、結果として中央政府の影響力は分野によっては増していると言えます。文化芸術分野もその一端で、「支援の強化とは表裏一体と言えるでしょう」と鬼木さん。
この70年で変わったことは、行政自身が直接問題解決の手段を実行するのではなく、委託、委任、協働などの手法により、外部人材に実行を任せるようになりました。いわゆる垂直型ガバナンスからネットワーク型ガバナンスへ変化し、行政の役割はプラットフォーム的なものに変わっています。
次に鬼木さんは、横浜市の過去20年の文化政策の推移を紹介しました。前段の「戦後70年の国と自治体の文化政策」からもわかるように、横浜市は2000年代に全国初の創造都市政策をスタートし、国内でも特に文化に力を入れている都市。そもそも、なぜ横浜は創造都市政策を始めたのでしょうか。それは横浜都心部における都市計画が関係しているそうです。1970〜80年代にかけて横浜駅周辺と関内・山下周辺が分断され、街の回遊性がないという課題がありました。
そこであがったのが「みなとみらい21地区(以下、MM21地区)」の開発計画でした。90年代に入りMM21地区が開発されていくと、もともとオフィス街や観光地だった旧市街地の関内・山下地区の経済的沈下や歴史的建造物の保存が課題にあがりました。その改善策として、関内・山下地区をクリエイティブな地区として活性化する創造都市政策がスタート。一方で、MM21地区はビジネス中心の開発から文化・アミューズメントへの展開がめざされました。その後、15年以上が経過し、2003年から2019年までのオフィス空室率の推移を見ると、この15年ほどでオフィス空室率がかなり改善されています。
「では、横浜をはじめ全国の文化行政にこれから起こる課題とは一体何でしょうか」と鬼木さん。予測される課題は、全国の自治体にも関係していると言います。まず、一つ目にあげられたのは「過剰適応」です。現在オリンピック・パラリンピックなどの大型イベントにより、インバウンドや観光振興、アーツカウンシルなど、国からの政策課題に対し、敏感に対応しすぎているのではないか、という問題。次に「失語症的政策」です。羅針盤を喪失したように、文化政策の方向性が迷子になっていると感じるそうです。「わかりやすい説明が求められるため、専門家や専門性の軽視が進み、わかりやすい言葉だけが残るのではないでしょうか」と懸念します。そして3つ目は「政権の道具化」。政策が首長選挙の争点になるとともに、その権限が強化される傾向にあるのでは、と指摘しました。
そこで、鬼木さんは文化政策を「大文字」と「小文字」と分けてそれぞれの目的の明確化が必要だと話しました。「大文字の文化政策」とは、変化のなかでも揺るぎない政策システムや思想・哲学のこと。一方で、「小文字の文化政策」とは、刻々と変わっていく現象面(条例・計画・予算・体制)を指すそうです。
戦時中、国が期待する国民精神の醸成を目的として、文化によって国民を統合する「文化統制」が行われました。その歴史のもと、国による文化政策は消極的になり、現代は市民自らが生き方やまちのあり方を決めるべきだという考え方に変わっています。「やはり『大文字の文化政策』においては自治体が主体になるべきではないか」と鬼木さんは言います。
現在「VUCA(変動性・不安定さ/不確定/複雑/あいまい)の時代」といわれる社会だからこそ、自治体は「レジリエント(しなやかで強靭)な文化政策」「簡単には土俵を割らない『文化』をつくること」が重要、と続けます。「その継続性を担保するために、自治体の文化条例や文化計画は必要で、それをつくるだけではなくきちんと関係者に周知していき、根底にある思想は一貫すべきだと思います」。そして最後に「大文字の文化政策の本質」について語りました。
「文化政策によって、あらゆる人々が、自ら考え、自ら表現し、自分らしくあることで、自らの人生を生きつくすことだと思います。それが自治の主体たる『市民』となること。『市民』は、文化によって自らの人生を広げる多様な可能性を得るのではないでしょうか。こうした市民の存在は、地方政府が市民の意思と異なる政策を遂行しようとしたときに、それを修正することさえ可能にするかもしれません。市民の多様な視点によって、自治体自身が過ちに気づく。それほどに、文化によって主体的な市民層が形成されるでしょう。その結果自治体は、自身の破綻を防ぎ、持続可能性を担保できることにつながります。文化政策は自治の基盤となる。それが、文化政策の本質だと考えます」
なぜ、文化政策が大事なのか。鬼木さんの力強い言葉が印象的な、今回のテーマの本質に迫ったレクチャーとなりました。
執筆:佐藤恵美
撮影:齋藤彰英
運営:NPO法人Art Bridge Institute
*本レクチャーで使用した書籍『これからの文化を「10年単位」で語るために ー 東京アートポイント計画 2009-2018 ー』について、こちらのページでご紹介しています。PDF版は無償公開、印刷版はオンラインや各地の書店様等でのご購入が可能です。現在は、PDF版のみ公開しています。