アートプロジェクトの現場から外国ルーツの若者の支援について考える
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アートプロジェクトは、あらゆる時間軸で、複数の人間がそれぞれに影響を与え合いながら、つくられていきます。そうしたさまざまな立場の人がかかわることも「作品」に内包されます。それを提示された鑑賞者はもちろん、ライターや編集者、批評家も純粋な観察者ではいられません。こうした場面では、文化人類学等で用いられる「参与観察」という手法が参照されますが、その際、観察者が自身の背景や身体性と向き合い、対象との距離を明らかにすることが大切とされています。つまり「プロジェクトを観察・記述する」と同時に「自分を観察・記述する」ことが必要になるのです。
このプロジェクトでは、2018年から続く「東京でつくる」と「東京で暮らす」の続編として、参加者それぞれの「いま東京でつくる理由」を考えます。事例は、ナビゲーターである石神夏希(劇作家)がかかわるアートプロジェクト。参加者それぞれが「記述する」ことを軸に、ゼミ形式で執筆したエッセイの共有やゲストを招いたディスカッションを行います。
アートプロジェクトは誰のもので、何を目指すのか。多くの人が現場で直面するこの問いについて、「記述する」ことを通して考えます。
ゲスト:韓亜由美(アーバニスト)
ゲスト:熊倉敬聡(芸術文化観光専門職大学教授)
長島確(ドラマトゥルク/翻訳家)
ROOM302(東京都千代田区外神田6-11-14-302 [3331 Arts Chiyoda 3F])
一般30,000円/学生20,000円
鹿、山、わたし
大学生の頃、私の在籍していた美学の専攻では「芸術作品を記述する」という必修科目がありました。絵画や彫刻などを分析して論文を書くために、まず作品を言葉で描写するのです。
課題として取り上げられたのは、たしか水墨画か何かだったと思います。「前景には鹿が描かれ、後景には山が……」というように、描かれているものを言語化していくのですが、私は一行も書けませんでした。なぜか? 私には、鹿と山のどちらを先に書けばいいのか、分からなかったからです。
より正確にいえば、その順番を私が決めてしまうのは、あまりに恣意的だと感じました。だって、てにをはひとつでも、与える印象はずいぶん違います。絵画を描写した私の言葉が、むしろ絵画そのものを決定的に損なってしまうように感じて、怖くて書き始められませんでした(手法そのものを批判しているわけではありません。私の幼さや拙さが、むしろ要因としては大きかったわけですが)。
だからでしょうか。数年後に文化人類学、特に「参与観察」というフィールドワークの技法を学んだとき、新鮮な驚きとともに「あ、そうだよね」とホッとしました。
観察する自分を「透明なまなざし」ではなく、肉体を持つ存在として視野に入れること。対象が(絵の鹿ならともかく)生きている人間であれば、対象と観察者である自分とが影響を及ぼし合わずにはいられない、と認めること。そして、自分は常に変化する「不確かな観察者」であるという前提から始めること。
昨年から続くこのスタディでは、「東京でつくる」と「東京で暮らす」との関わりを通して、参加者それぞれの「いま東京でつくる理由」を考えています。今年は特に、具体的なアートプロジェクトを事例として、参加者の皆さんそれぞれが観察し、記述することを一緒にやっていきます。
ただし、アートプロジェクトや作品の記録は最終目的ではありません。「書く」を通じて「見つめる」ために、さらには「見つめている自分(の肉体)」を発見するために、書いていきます。
初めて集まるメンバー同士、共通言語をつくるため、10月には私が取り組んでいるアートプロジェクトも体験していただきます。ですが実際に「書く」対象としては、自分で主宰していたり、興味を持っていたりするプロジェクトを選んでいただいて構いません。
いずれにせよ、手ぶらで来て大丈夫です(銭湯みたいですね)。第1回と第2回では、たくさん話をする場を持ちます。そして、それぞれが何を考えているのか、何を感じているのか、今回は何を「書く(見つめる)」のかを一緒に考えていきます。私も先生や講師ではなく、自分の思考や過程を皆さんに開いて、もやもや、うろうろしていくつもりです。そんな迷い道・回り道を、一緒に歩いてくれる仲間をお待ちしています。