災間の社会を生きる術とは何か?

災禍の現場に立つには、いったい、どんな態度や技術、方法がありうるのか?災害復興の現場に多様なかかわりかたをしてきたゲストに話を伺うディスカッションシリーズはいよいよ最終回。最終回となる第6回目は、これまでの議論を3人のナビゲーター(佐藤李青宮本匠高森順子)の視点で振り返りつつ、参加者のみなさんが事前に提出していただいたレポートをもとに、全員で「災間の社会を生きる術(すべ/アート)とは何か」を議論しました。

3人のナビゲーターの振り返り−「災間を生きる術」をめぐって
(1)生活と芸術の「限界=あいだ」にある営みをみる(宮本匠)

このシリーズを通して、災間についての議論の前提として、(1)災間とは、災いと災いの間というよりも、災いの中を生きるということ、(2)その災いの解決は、「人類」の単位での連帯を必要としていること(気候変動、感染症、貧困、難民)、(3)その災いへの対処には、時間の制約があること、(4)日本社会は社会資源が縮小するなかで、災間を迎えるということ、(5)災間という不都合な真実を、「見なかったことにする」否認が事態を悪化させること、という5つを確認したと思う。この5つの確認で見えたことは、災間は超難問だということ。あらゆる分野にまたがって、高度な問題解決が必要だ。一方で、問題解決モードには限界があることも事実である。資源が限られているのに、目の前の課題があまりに大きいと、「諦め感」、「無力感」、「依存心」が高まり、問題を見なかったことにさえ陥ってしまう。それは、ゲストのみなさんの経験からも見えてきた。問題解決モードの挫折を避けるために、その「手前」の領域を探ろうとしてきたのがこのシリーズだったのではと思う。

このシリーズでは、問題解決モードの「手前」の領域が示された言葉が数々ある。吉椿雅道さん(第2回)との対話では、(佐藤)李青さんが2011年6月に宮城県女川町に入ったときの話として、まだ災害の爪痕が残る中で夏祭りの準備が進んでいて、復興してから祭りをやる、ではなく、祭りをして復興するのだというエピソードを共有し、「復興→祭り」ではなく、「祭り→復興」という、社会が考える順序と、被災地の人々の順序が違うことがあることが示された。瀬尾夏美さん(第3回)との対話では、陸前高田の嵩上げ予定地で、土が盛られる前に、おばちゃんたちが花畑をつくっていたことが話題に上った。これらの言葉は、どのように気候変動を抑えられるのか、感染症と向き合うか、といったものの「手前」の領域のものであり、その「手前」での仕草をどうやって見出すか、ということが議論されたように思う。女川の「祭り」や陸前高田の「花畑」は何か。それらは人間にとって「生きるために必要なこと」からはみ出る部分であり、にもかかわらず、それがないと生きていけない部分でもあると思う。人間が他の動物から分かたれるところについて、様々な言説がある。遊び(芸術)、共食、自死など、人間しかやらない営為がある。そのうち、特に自死のことを考えると、人間は、自らの存在意義を感じられないと生きられないということがわかる。生きるための必要なことからはみ出ていることとしての「祭り」「花畑」は、自分がどこにいるのか、自分が何者かを教えてくれるものなのだろう。これまでの話を聞くと、何か特別なことではないかと思うかもしれないが、そうではない。「大槌でひとつ家が建つことでここがどこか分かる」(第2回、佐藤李青さん談)、「展覧会という語りの場」(第3回、瀬尾夏美さん談)、「震災学習としての詩や歌」(第4回、山住勝利さん談)、ハンセン病元患者の遠藤邦江さんの『太郎君』や上原ヨシ子さんの『貝殻』」(第5回、坂本顕子さん談)など、あらゆる場所に見出すことができる。

「生きるために必要なこと」からはみ出る部分であり、それがないと生きていけないものであり、かつ、ありふれているもの。それを考えると、「限界芸術」(鶴見俊輔(1956)『限界芸術論』)は大切な議論だったのだと改めて思う。鶴見は芸術を考える際に、3つの言葉「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」を使い、「純粋」「大衆」よりもさらに広大な領域で芸術と生活の境界線にあたる作品を「限界芸術」(Marginal Art)と呼んだ。「限界芸術」という言葉の響きに着目しすぎると、なんだかとてつもないものであるように感じられるかもしれないが、ここでいう「限界」とは、芸術と生活の「あいだ」ということ。鶴見は「限界芸術」の事例を行為の種類に応じていくつも挙げていて、そのなかには、もう現代の私たちには馴染みのないものも多い(茶の湯、労働の合いの手、絵馬など)。いまの私たちにおいてのそれらは何かと考えていくことは、思考の出発点になるのではないか。

ここまでの議論から、私なりに考えた災間の社会を生きる術(すべ/アート)とは、誰もが動かし、つくり、かなで、語り、えがき、演じている、「生活と芸術」のはざまにあり、「生きる必要からはみ出る」領域を豊穣化することによって、災間のなかにあっても人間の尊厳を失わないでいること」だと思う。

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佐藤:問題解決モードの「手前」、生きるために必要なことから「はみ出る」という言葉から、普段の仕事で向き合っている現場のことを思い出していました。アートは、一見無駄と思えることとか、普通は手間をかけないことに時間をかけると言われることがあるが、その担い手の人たちがそう思っているかというと、そうではないことも多い。当人たちは意外と最短距離のつもりだったりする。到達したいところへ最短距離をとっているものが、一般的な視点では「迂回」に見えている。それは、「その方法が迂回に見えてしまう価値」そのものの転換が求められる活動をつくろうとしているからじゃないかと思うんです。

「活動が見えない」とよく言われますが、それは「価値転換をしないと見えない」ということでもあるんじゃないか。そのことを多くの人に理解してもらうためには、この価値転換を促すような説明を上手くしなければならない。ただ一方で、当人たちは必ずしも価値転換のためにやっているわけではないからややこしい。やっている人たちは当然のように抱いている価値観を、「ではない」ではなく、「である」という言いかたをしたい。いつも転換の先を指し示す言葉を探していて、悩ましいです。

宮本:本人からすると、はみ出ている意識は毛頭ないわけですよね。もうそこに価値があるわけですから。

佐藤:女川で、復興のまえに祭りをやる、という住人のみなさんの言葉も、そこに暮らしていない人が聞くと、「え、そうなんですね」と意外に感じている。

高森:本人にとっては「あえて」ではないんですよね。そう捉えているのは外から見た私たちなんだと。宮本さんが挙げてくれた限界芸術の議論から、生活と芸術のはざまの人間の営みって何だろうかと考えていました。そこで思い出したのは、「阪神大震災を記録しつづける会」の執筆者の中村専一さんのお話です。彼は神戸市長田区で震災に遭って、家も、家財道具も全焼してしまう。そのなかに、中学生から書き続けてきた40年分の日記もあった。彼は火災で全てを失った夜に、避難所で、消灯時間の前に「一月一七日夕方にパン半分で終わり」と書き留めるんです。私は専一さんからこのことを聞いたとき、40年書き留めてきた日記、ここでいう限界芸術の結晶のようなものを失って、なぜこんなにも早く、再び書きはじめたのかと、とてもショックを受けたんです。「えー!」と声をあげる私に、専一さんは「いや、驚くことないで、習慣やから」というんです。普段の私たちは、失ってしまったモノの方に意識が向いてしまうと思うんです。限界芸術たるモノ、が大切で、それが一瞬で失われてしまったんだと。けれど、専一さんにとっては、書かれた日記というモノではなく、日記を書くということが大切なんです。それは、食事をとるとか、排泄するとか、そういう、生存を支える営みに近いことだったんだと思うんです。彼の日記をめぐる言葉を聞いていると、限界芸術というのは行為なんだと思います。上原ヨシ子さんの「貝殻」は、「貝殻」そのものというより、彼女が浜辺に行き、貝殻を拾うという行為が、限界芸術のコアの部分じゃないかと思います。

佐藤:だからこそ見えにくいのかもしれない。吉椿さん(第2回ゲスト)が「土着知」を知ることの大切さを語っていましたが、その土地の習慣とは、モノが生まれるプロセスのなかにあるから、自覚的に知ろうとしないと見えてこないですね。

高森:習慣というのは、当人にとってはあまりに馴化されているから、言葉にすることは少ないですよね。それを、私たち外からやってきた人は、発見して、「あえて驚く」ことは必要かもしれないです。外からの視点だから見出せるというのが限界芸術なのかなと思います。

宮本:生きるための習慣、そこにある限界芸術というのは、おそらく無意識的に埋め込まれていて、さらに、現代社会は、そこに気づかない生活様式が支配的になってますよね。そういう意味では、当人は気づきづらいけれど、人から見たらはみ出ているものを見つめることは重要そうですよね。でもこれって、当人は無意識でやっているという次元と、外から「はみ出てるぞ、おもろいとこやぞ」って着目してもらう次元があって、そこにも違いがありますよね。

高森:はみ出ている部分であるけれど、本人にとっては生きるために必要だということを、本人自身は知らないわけですよね。だから、本人自身が、社会からの視線を取り込んで、「なくてもいい」「いらない」と、切り捨ててしまうかもしれない。専一さんの日記であれば、紙がない、ペンがない、だから書かなくていいよね、となってしまうかもしれない。そして、書かなくなってはじめて、生きるということが毀損されてしまったような事態になってしまうかもしれない。また、渦中に日記を書き始めることに対して、「なんて余裕のあることをしているんだ」「空気読めよ」という視線や声があったならば、どんどん苦しいことになる。災間という厳しい時代に私たちがいるということを考えると、専一さんならば「やっぱり日記は俺にとって必要だったんだ」と思い直す機会が必要で、その視点をみなが持つということもまた必要だと思いますね。

宮本:確かに。災間について、時間という視点から見ると、なぜこんなにしんどいのかが分かりますよね。僕たちは「結果よければ全てよし」と、未来に視点を置いた上でいまを見ようとする姿勢を強く持っている。だから、その視点である未来がネガティブだと想像した途端に、いまもまたネガティブであると感じてしまう。未来に視点を置く価値観を持っていると、たとえば僕が40年書き続けた日記が一瞬で焼けたのならば、もう書けなくなると思う。それは、僕がいま、「結果よければ全てよし」の価値観で生きているからだと思う。でも専一さんは違う。書くというプロセスそのものに、彼にとっての喜びがある。だから書かれた日記を失っても、そのプロセスに再び入っていけば、彼にとっての「生きるリズム」みたいなものが回復する。

佐藤:生活を失うとか、生活を復興すると言うときの、生活ってなんだろうと思うんです。英語だとcourse of life(一生)とかway of life(生きかた)というけれども、生活というのは、点ではなく「道のり」であって、翻って「生活を失う」というのは、その前後の経緯(いきさつ)と行く末のつながりを失うということなんだと思います。でも、災害のように、生活を失う出来事は点として断絶が語りやすい。だからこそ、小さくとも前後の生活をつなぐものに目を向けることが大事なんだと思いますね。

限界芸術論の「芸術の体系」(宮本のスライドより)。

(2)待ち構え、誤配を呼び込む(高森順子)

「災間の社会を生きる術(すべ/アート)を探る」というこのシリーズのタイトルに真正面から対峙しようと思った。そこで気づいたのは、この問いには前提があり、すんなりとは答えられない障壁があるということ。この障壁に気づけたのは、このシリーズで探索的にやってきたことが議論の表層だったというわけではない。むしろ、この問いに答えることのをめぐる困難に気づくという到達点があったと思っている。なぜこの問いにすんなり答えられないのか、という障壁をまずもっての出発点にして、「災間の社会を生きる術」の取り扱いかたを考えたい。

このシリーズを通して出会ったのは、災間における、何かへの応答、やりとりとしての実践(表現)だった。これらの実践(表現)と出会ったことで、「災間の社会を生きる術とは」という問いにすんなり答えられないのは、これらの実践(表現)に2つの特徴があるからなのではないかと考えた。それは、(1)応答としての実践(表現)を直接的なノウハウとして学ぶことはできない、(2)応答としての実践(表現)は未完性をそなえている、ということだ。

まず、(1)応答としての実践(表現)を直接的なノウハウとして学ぶことはできない、という特徴について。参考になるのは歴史家ミシェル・ド・セルトーのいう「機会(chance)」の定義(ミシェル・ド・セルトー(1987,2021)『日常的実践のポイエティーク』)。セルトーは、「読むこと」や「歩くこと」など、普段何気なく繰り返されていく動作をめぐって、社会の秩序に従いつつ「なんとかやっていく」人間の営みとして着目し、それらを「技芸」として捉えた。そのなかで、「機会(chance)」とは何かを論じ、「記憶−知がその場を自由に決定できるわけではない。機会は『とらえる』ものであって、創造されるものではない」、「記憶[−知]は、そこに余分なディテールひとつをあしらうことによってその[機会の]全体をつくりだす」(同書, p232)と述べている。これは一体どういうことか。chanceはフランス語で、英語のchance(好機)とはニュアンスが異なり、どちらかというとlack(運)に近い。記憶[−知]は自分や他者が積み上げてきた経験知と捉えてもらえればわかりやすい。記憶[−知]は自ら学び、掴んでいくことができる。その上で、セルトーは、機会は主体的な「記憶」だけではつくることができない、もっといえば、主体的な「記憶」が果たす役割は、「余分なディテール」だという。機会をつくろうとする際に、私たちが主体的にやれることはごくわずかだと強調しているのだ。このシリーズで共有された実践(表現)は、何かへの応答として創造されたものであり、実践(表現)者が自らすべてコントロールできないことが前提としてあった。実践(表現)者は、コントロールできない「流れ」に乗ったり、逆らったりしながら実践を生み出していた。実践するということは、ある特定の場(いつ、どこでという「機会」)と切り離せず、自らコントロールできるものではない。では、私たちは状況に飲み込まれるしかないのか、というと、そうではないと考える。私は、セルトーのいう「記憶」は、機会を生み出す際の「余分なディテール」でしかない、のではなく「余分なディテール」という一刷毛(ひとはけ)がなければ機会は生まれない、ということとして捉える。

では、私たちはどうやって、記憶を一刷毛(ひとはけ)して、機会を創造することができるのか。これについては、哲学者のジル・ドゥルーズの「待ち構え」という概念が参考になる。國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』(2015)では、「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか?」と問われたドゥルーズが「私は待ち構えているのだ」と答えたエピソードが引用されている。フランス語の「待ち構える」(être aux aguets)とは、動物が獲物を待ち構えることを表す。國分は、この「待ち構える」という態度について、動物は待ち構えの技を、本能で、経験で知っているが、人間は本能をあてにすることはできず、〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる、と述べている。つまり、美術館や映画館に行くという〈人間であること〉を徹底することで、それは「待ち構え」という動物的な態度へと変貌するというのだ。「災間の社会を生きる術とはなにか」という問いにすんなり答えられない特徴としての、実践(表現)は直接的なノウハウとして学ぶことはできないということに答えるならば、確かに、私たちは自ら主体的に実践(表現)を生み出すことができず、そのため、前もってハウツーを知っておいて、それに照らし合わせて動けば良い、ということではないが、実践を生み出すに至るまでの待ち構えかたは学びとることができるのではないか、ということだと考える。

次に、(2)応答としての実践(表現)は未完性をそなえている、ということを考える。実践(表現)が完遂しない、未完であるということへの意識は、4人のゲストそれぞれの言葉に垣間見える。「自然のサイクルでものを考えると、自分たちの世代では変えたくても変えようのないことがある、というような諦念はあります」(第2回、吉椿雅道さん)、「日記は自分のことを書いているけれど自分のためだけでもない」(第3回、瀬尾夏美さん)、「伝達と共感の不可能性のなかで、それでも伝える」(第4回、山住勝利さん)、「私が水俣の話をする番が来たんだなと思います」(第5回、坂本顕子さん)。実践(表現)は終われないし、終わらない。ただ、彼ら彼女らは、だからあとは知りませんと投げ出すような、ネガティブな態度をとっているかというと、決してそうではない。実践(表現)の未完性は、さらなる応答を生むような「誤配」(東浩紀(2017)『ゲンロン0 観光客の哲学』)を呼び込むのではないかと考える。東は、誤配とは「配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態」であるとして、その上で、図らずもどこかに届いてしまうことのポジティブな側面に光を当てている。こういう、実践が図らずも誰かのもとに届き、そこから新たな実践が生まれることへの予期は、このシリーズのナビゲーターもゲストも、濃淡はあれ、みなが持っている感覚なのではないか。私がかかわる活動で言えば、「阪神大震災を記録しつづける会」で手記集をつくるという実践が、瀬尾夏美さんたちの「10年目の手記」というプロジェクトへと郵便的につながったことが、光となっている。ただ同時に、届いた先の実践を見ることができたのは、稀有なことだとも思う。しかし、郵便的に他者へバトンが渡っていくことは、特別なことではない。時間的、空間的にも知覚できないところ、そこここで誤配は起きている。そのことに思いを馳せることが大事だと思う。

以上をまとめると、(1)実践(表現)のノウハウは学べず、コントロールできないが、私たちは 「待ち構える」ことを学ぶことができる、(2)生み出された実践(表現)は未完であるがゆえ、「誤配」を呼び込む、と考えるならば、実践する私たちは「主体」というより、「メディア」(媒介、回路、培地)であると捉えるのが妥当ではないか。例えて言うなら、私たちは、糸電話の紙コップだったり、声だったりではなく、紙コップを繋ぐ糸なんじゃないか(ぴーんと張ったり、ゆるめたり、別の紙コップにつないだり)。そのように考えて導き出される災間の社会を生きる術とは、生み出される実践に誠実なメディアたる“ふるまい”をその都度獲得していくものではないか、と考える。

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佐藤:すごくしっくりきます。

高森:そうですか!よかった。

宮本:災間を生きる術は、ひとりで完結しないでいいんだ、という視点を持つことですよね。看護師で臨床哲学者である西川勝さんの『となりの認知症』(2013)のなかで、認知症である方が、自分が認知症であることに戸惑い、取り乱されることをケアすることの難しさについて触れていたことを思い出しました。西川さんが認知症を患った方と散歩しているときに、その方は急に自分が誰だがわからなくなり、取り乱された。そのとき偶然に、ぴょこぴょこ、と鳥が鳴いた。二人で鳥が鳴いたあたりを見上げると、立派な柿がなっていた。「見事な柿ですね」「そうですね」とやりとりをしているうちに、いつの間にか、その方は落ち着きを取り戻し、散歩を続けることができた。そういう偶然が重なってケアが成立するんだ、そんな話だったように記憶しています。西川さんは、現場ではケアする側がとにかく受け身になり、当事者を尊重しましょうという「パッシング・ケア」という考えかたをもじって(西川さんはパッシング・ケアには懐疑的なのです)、「パッチング・ケア」ということを言っている。ケアの現場というのは、ケアする人がすべてを担っているのではなくて、ケアされる人ももちろんいるし、「鳥」や「柿」のような、さまざまな偶然のパッチワークによって成り立っている。この考えかたは、高森さんが言ってくれた「機会は捉えるものではなく待ち構えるものだ」と通じるな、と。災間を生きるということは、一人で何かを受け止めるのではなくて、パッチワークで偶然的なものとして捉えることで、引き受けられるんじゃないか。

高森:シリーズ初回で宮本さん、李青さんと話したときに出てきたリスク社会という現代社会の捉えかたは、まさしくコントロールしようとする、けれどもそれができないことの苦しさがある社会ですよね。社会が縮減していくなかで、それはさらに加速していく。コントロールしたいという欲望があることは当然として、その欲望の達成ではないかたちで、別の快がある、という回路をつくる必要があるように思います。私たちは皆、その回路をつくる素地は持っていて、それは、人間であることを楽しむことだと思うんです。全部ねじ伏せようとしたり、それができないからと絶望したりでもない、別の捉えかたを見出したい。その出発点が、偶然的なパッチングとして今を見る、ということかもしれないです。でもこれは、リスク社会という考えかたとどうやってバランスを取るのか。宮本さんが災間は超難問、といったこととつながると思います。個人レベルではできるかもしれないことでも、コミュニティ単位とか、社会という単位になると、偶然を寿ぐことを重視するのはとても難しい。いわゆる“安心安全な社会”という強固な物語にたいして、別の豊かな社会のあり方もありますよ、とわかり合うにはどうしたらいいんでしょうか。

佐藤:私たちはメディアである、あいだの存在である、と考えると、誰かに投げかける言葉も完璧に準備した自分の言葉でなくていいと言えるかもしれない。「そうかもしれないですよ」というような言い回しでもいいし、「○○さんが言ってましたよ」と代わりに伝えてもいいし、「わかんないんですけど、どうですか?」みたいな、ただの振りでもいい。そういう態度であって良い、と捉えることが大事なんじゃないか。何かを投げかけることで、はじめて返ってくることがあるし、その返事がどんなものか、完全にはわからないからこそ、次を待ち構えることができるんじゃないか。待ち構えつつ、投げる。そのどちらもやっていくことで、待ち構えも、投げる動作も、変わっていくんじゃないか。「災間」という言葉に「間」という言葉が入っていますが、あくまでいまはあいだであって、私たちもまた、あいだの存在で、メディアなんだということは重要な視点だと思いますね。

もう一つ。実践の未完性って、言い換えると「ひらかれている」ということですよね。ひらかれたものとして提示することで、次の何か、次の誰かを呼び込める。そう考えると、ひらかれたものとして提示するために、一旦終わらせている、閉じている、とも言えるんじゃないか。参加者が少ない活動をしていると、「もっとひらけ」と言われることがあります。「ひらく」ってすごく強い言葉で、それが「良いこと」だと無前提になってしまうことが多い。でも、物事には適正規模があるし、例えば10人にひらいている場を、100人にひらくかたちにしようとするならば、その分、お金や労力がかかる。本来ならば、達成したい目的や手持ちの資源を考慮して、10人にしっかり響くかたちで企画をつくりこむことは悪いことではない。でも、そのために積極的に「閉じる」というのは言いづらい。「ちゃんとひらくために閉じる」ことをしないと場はつくれない。そのことを、未完性をきちんと織り込んだ場のつくりかたと言い換えてもいいかもしれませんね。それは投げ出しているようだけれども、非常に高度な技術が必要な場なのだと思いますね。

(3)地図を持ち、位置確認し、研究という顔を持つ(佐藤李青)

シリーズ全体で何が見通せたかを、いくつかのキーワードから振り返ってみたい。

まずは災間について。このシリーズは、社会学者の仁平典宏氏が提示した「災間」という言葉からスタートしたが、議論を進めるなかで、独自の概念になってきたと思う。私たちは「災間」を、「災禍と災禍の間に生きる」という現状認識(社会の捉えかた)として使っていた。ただ「間」ということに理解が深まるなかで、災禍の「間」の社会とは、過去と未来に挟まれた「現在」が、複数の「(持続する)渦中」で構成されている、ということなのだと思うようになった。言い換えると、「災間の社会」とは、それを構成する個々人が抱える「渦中」が無数に存在していることを「見えるようにする」ための言葉となったのではないだろうか。

災禍は起点となる出来事から「はじまる」ものでもある。また、私たちが忘れた、知らない渦中が「ある」。そう捉えることで、あったこと(出来事)を知り、いまも続いていること(個人の捉えかたで異なるもの)に触れる(きく)という姿勢(術)を持つことが求められる。その術のありかたとしては、ゲストの方々が話されていた未来に投げたときに「しっくりくる」表現をつくることであったり、他者の経験(土地の記憶)が、次の経験の知恵になると心得ることだったりするのだろう。それは強力な解決策にはならないかもしれない。そもそも、渦中では何も出来なくなるのは当然ともいえる。それでも、渦中において、目の前の出来事と「ちゃんと」向き合って、おろおろすることができる術になるのだと思う。

このシリーズで得られた「災間」のイメージは、一方は過去、一方は未来、という一つの直線上の時間軸においての真ん中にあるものではなく、人それぞれの感性的な時間軸が無数に走っているようなものだった。それは「社会」から、より解像度をあげた「人」でイメージを思い描けるようになったともいえる。そのなかで、誰の時間軸まで手を伸ばせるか、つまりはどこまで想像できるか、ということを、さまざまな術を使ってトライする。そうすることは、自分ではどうしようもないこと、うまくいかないことに気がついてしまうことでもある。高森さんのいう「ままならなさ」への耐性も身につけていく必要がある。宮本さんのいう「無力感」ゆえに「見なかったことにする」にも陥らないようにする。それが災間においては大事なのだと理解した。

次に、「ままならなさ」について。災禍というものの特性からして、そもそもそれに主体的にかかわることは困難だ。災禍に見舞われることはもちろん、災禍に見舞われた場所や当事者にかかわることも、完全にコントロールはできない。もちろん、主体的にかかわる人もいる。けれども、かかわったその先にも、知り得ないこと、語り得ないことが残り続ける。そういう「ままならなさ」が前提にあるなかで、私たちがどうふるまうことができるのか。そのふるまいは、どの場に身を置くのか、その場がどのような場であるのかという「地図」を持ち、立場や時間の「位置確認」ができるかどうかが鍵になるのではないだろうか。精神科医の宮地尚子さんは、災禍という出来事をめぐる関係者のポジショナリティと力動を理解するための「環状島」という絵を描いていた(宮地尚子(2007)『環状島=トラウマの地政学』)。ドーナツ状の島「環状島」というジオラマを想定し、島の真ん中にある内海に沈んでいる災禍の死者たち、内斜面にいる被災者たち、外斜面にいる支援者たちが、対人関係の摩擦という「重力」、トラウマ反応という「風」、社会の否認や無理解度という「水位」に影響されながら生きていると捉えた。このような「地図」をもつことがふるまいを変化させることに役立つのではないだろうか。

そして「しつこさ」について。災禍の「はじまり」と「渦中」は個々人で異なる。だからこそ、互いに理解し合うのが難しかったり、「見なかったことにする」ということにも陥りかねない。災禍の語りはじめもまた、人それぞれ。瀬尾夏美さんをはじめ、ゲストの方々も言っていたように、かたちにするには時間がかかる。そういうときに、どこまでしつこくかかわることができるのか、その「しつこさ」がアートという実践には必要であり、得意なところなのだろう。このディスカッションで出てきた「アート」とは、いずれも目の前のひとりひとりの人とかかわるものだったと思う。ディスカッションを通して「災間」が漠然とした社会のイメージから、個人の集合として見えてきたのも、それが影響しているのだと思う。アートというのは、私(わたくし)のことを、公(おおやけ)のことに変換する術でもある。それは作品であり、企画であり、場づくりであり、さらに多様なかたちがありうることもゲストの実践には現れていた。手をかえ、品をかえ、時間をかけてかかわっていけるのが、アート、ひいては文化的な営みのいいところだと思う。そのしつこさがあることで、遠くの人たちと出来事を分かちもつための表現も生まれてくる。例えば「記録」と呼ばれていたものが、「表現」というかたちに変化することがあったように。

ままならないけど、しつこくかかわる。そうなると、どうやって「かかわり」をつくるかが次の問いにもなってくる。参加者のみなさんのレポートでも、これまでの議論を踏まえて、「災間の社会」への自らのかかわりを巡っての思索がみられた。それは、自分自身もそう。主体的ではない「かかわり」も、時間が経つと変化する。活動や事業の終了というかたちで、役割としての「かかわり」の終わりは必ずくる。役割から降りて、別のかたちでのかかわりへの転換が必要になる。ならば、「仕事」という役割から、たとえば家族で旅行にいくといった「個人」のかかわりに振るということかというと、それはそれで腑に落ちないものがある。「役割」か「個人」か、ディスカッションでは、そんな議論もあった。

「個人」にも複数の顔がある。そう考えると、「別の顔」をつかうことで、かかわりの転換がうまくいくのではないかと思う。写真家の港千尋さんが、これからの社会を生きるうえでは「複数のメチエ(技法)」を持つことが必要だと語っていたことがあった。別の「顔」や「メチエ(技法)」をつかうこと、つくることが、時間が経った後のかかわりづくりのヒントになるのではないだろうか。

東日本大震災から10年の少し前に、東北で支援者としてかかわってきた方が、「これで支援者という役割に一区切りできる。ここから支援者の復興がはじまる」と言っていた。そして「支援者の復興は厳しい」と付け加えていた。いま思えば、ここでの「かかわりの転換」のことも言っていたのだと思う。自分自身もまた、仕事というかたちでの東北とのかかわりは終わった。だからといってかかわりを切りたいわけではない。別のありかたを模索している。いまは時間が経ったからこそ、しつこく振り返り、記述し、残し、位置づけ直すことが必要なのだと思っている。置き去りにされたことばを拾いたいということでもあるし、あの渦中が何だったのかを知りたい。そこが自分自身にとっての東北とのこれからのかかわりかたなのだと思う。

そのかかわりかたを考えると「研究」という顔がつかえるのではないか。これまで研究としてやってきたわけではなかったが、記述することや残すといった行為には、研究としての顔がしっくりくるのではないか。
というわけで、その手はじめに、研究者の経歴や論文リストなどのプロフィールの管理をするウェブサイトresearchmapに登録してみた。研究キーワードには「災間」を入れた。今後、かかわりかたとしての研究を更新していきたい。「災間文化研究会」の発足も視野に入れて。

researchmapの研究キーワードに入れた「災間」(佐藤のスライドより)。

宮本:積極的にreseachmapつくっている人珍しいですね(笑)。

佐藤:話す順番を決めるときに、最後がいい、と言ったのはこういうことでした。

高森:researchmapという「地図」で位置確認……やられましたね(笑)。李青さんがArt Support Tohoku-Tokyoの事業担当として、東北とのかかわりがはじまり、10年が経過し、仕事としてのかかわりは区切りを迎えた。ボランティアをめぐって、そういう区切りのあとの役割についての言葉として、「今度は観光客としてきます」とか「今度は遊びに行きます」とかっていうのがありますよね。なんかそれって、私も「しっくりこなさ」があるんです。観光客って、みんなが持っている別の顔ですよね。研究であったりとか、何かのマニアであるとか、この銘柄のお酒に目がない人とか、もうすこし自分で自分を見つめて、アイデンティティとして昇格させることが必要な気がするんです。そうやって昇格させることが、新しい立ち位置の獲得になるんじゃないか。自分の特徴や関心、取り巻く環境によってつくられるのが研究者だとすれば、それはアイデンティティだと思う。かかわってきた土地と自分を見つめ、アイデンティティに昇格させることは、「終わってからもずっと通い続けています」って言葉につきまとう、なぜか道徳的に響いてしまう薄気味悪さからも解放されるんじゃないかと思います。

佐藤:瀬尾さん(第3回ゲスト)は2019年の展覧会「東京スーダラ2019」で集まったメンバーで、「コロなかワークシート」を定期的にやって、コロナ禍の対話と記録をしているんだけれども、何度も対話しているのに、みなが全然仲良くならないと言ってましたね。でも、瀬尾さんは「それがいいんだ」と。それって、人と人のあいだに「何かやる」ということがあるからこその関係だと思うんです。あいだをつくっていく、そのかかわりの術としてアートがあるんでしょうね。出会う口実をつくっているというか。

宮本:李青さんの、アートというのは私(わたくし)のことを公(おおやけ)にするんだ、という言葉にはっとさせられました。確かに、なるほど、と。最近の議論にある「災間」とか「人新生」では、コモンという言葉がキーワードとして挙がってきます。みんなのもの、言い換えると、お金に換えられない、市場化されないコモンを増やしていくのが大事なんだと。今日の話では主体的、という言葉がたくさんでてきました。「問題をわがことにする」ってあるじゃないですか。僕もそれはこれまで使ってきたし、大事なことだと思ってきた。しかし、よくよく考えると、僕たちが大事だと思っている感覚って、「問題をわがことにする」んじゃなくて、「問題をわれわれごとにする」ということなんじゃないか。もともと、社会のなかで「われわれごと」として存在していたものが、行政、専門分化、市場などによってどんどん解体されて、「わがこと」に分解され、それが場合によっては「ひとごと」になり、矮小化されてきた。その変遷が、気候変動やパンデミックという災禍としても現れている。「ひとごと」「わがこと」になってしまったことを、「われわれごと」につなぎ直していく。それがとても大事で、その役目を果たしているものの一つがアートなんだと。坂本さん(第5回ゲスト)が紹介してくださった、ハンセン病療養所で暮らす上原ヨシ子さんが我が子のかわりに集めた貝殻は、それを目の前にすることで、上原さんの出来事が「われわれごと」になるということですよね。

佐藤:瀬尾さん(第3回ゲスト)は、具体的な「わたし」と「わたし」の関係から生まれた表現を固有名を外した「わたし」ではないものにしていたと思います。伝える内容は「わたし」のことなんだけれども、それを技術的に「わたしたち」のことにする。そういう変換が、東日本大震災後に触れてきたアートには多いように思います。大きな災害のあとには、大きな主語が増える。「東日本大震災は」、「被災者は」、「家が流された人は」と。具体的な誰かを主語にせずとも、大きな主語を使って出来事を語れたかのように思えてしまう。宮地さんの「環状島」でいう、犠牲者が沈んでいる内海に近いひとであればあるほど、大きな主語のなかにある微細な違いが見えているから、そこに重ねて「わたし」のことを語れずに口をつぐんでしまう。それから、ようやく「わたし」で語り始めようとしたときには、社会的な関心が薄まったことで「わたし」では相手に届かない時間になっている。アートは、そういう「ずれ」を超えて、記録としての「わたし」では届かないものを、表現としての「わたしたち」へ変換して、遠くに飛ばすことができる。アートにはそういう役割があると改めて思いました。

前半の議論で拾ったキーワード(板書:小川智紀)。

ディスカッション:災間の「負い目」を成仏させるために

佐藤:ここからは参加者に提出していただいたレポートに触れつつ、さらに考えを深めていければと思います。高森さんは、いかがでしたか。

高森:ご自身の経験が直接に書かれているもの、そうでないもの、どちらもありました。そのどちらも、身を切る言葉が書かれてあるな、と感じました。まずそのことに感謝の気持ちでいっぱいです。

私自身、阪神・淡路大震災を10歳のときに経験したということや、このコロナ禍で父親を失ったという経験をしたことをお伝えしてきました。そういう立ち位置であったことを振り返ると、私のような、当事者として外から捉えられるひとから「出来事とどうかかわるか」という問いかけがなされるとき、そこには「かかわってほしい」という期待や要望が透けていたかもしれない。ただ、災間の社会というのは、文字通り、かかわらざるを得ない。かかわりを希望するかどうかは、事実上、問われないものになっていると思うんです。かかわりを断ったり、回避することは非常に困難なわけです。そういうなかで、これまでの自分の経験や、そこから生まれる態度が試されるし、そのトライアルのなかで、新たな「待ち構え」の態度を知ることができる。これは、私の半年間の実感としてもあります。

みなさんのレポートを拝読して、気になる言葉に線を引いていました。なかでも一番気になった、というか、ああ、わかるなぁと思ったのが、青砥穂高さんのレポートでした。青砥さんはご自身の経験を書いてくださっていて、それをとおして、災間の社会における「待ち構え」のありかたを見せてくださったと思いました。青砥さんは、東日本大震災から4年後から2年に亘り、国の職員として仙台で復興事業に関わってこられました。その状況について、青砥さんはこのように述べています。

震災直後には、災害ユートピア的な個人が本来の役割を超える場面が多くみられたと思います。私が被災地に入ったタイミングは、その熱量がほのかに感じられるものの、5年という一つの節目を目前にして、予算や寄付などが萎んでいくことに伴い、熱量のある仕事を畳んでいく時期でもありました。
国というある意味で被災地の外側からきた存在で、特に遅れてやってきた私のような人間は現地の状況にあまり反応することなく、決まったことを粛々と実行していくことができてしまう立場でした。スピード感をもって事業を進めるためには必要な場面もあったのかもしれませんが。

私はこの言葉にはっとさせられました。「災間の社会を生きる術」というものを考えようとしたとき、少なくとも私のまとめかたは、できることがない、手詰まりである、ということが基本的な出発点だったと。どうにもままならないし、だから「こうしたい」が実行できない。そういうなかで身をよじって、結果として生み出されていくものとしての実践や表現の力について考える。それが私の基本姿勢でした。一方で、青砥さんは「決まったことを粛々と実行していくことができてしまう」といっている。実行できる、というのは、ポジティブに捉えられがちですが、青砥さんはそこに危うさを感じとっている。ままならなくないのは、やばいんだと。私の言い回しは、行為できないことの厳しさについて語っていて、青砥さんは、行為できることの厳しさについて語っている。それは一見すると逆のようだけれども、同じ問題意識があるんじゃないか。青砥さん、そのときの感覚を少し話していただけますか。

青砥:そのとき、私の周りにいた人たちは国の役人として働いてきた人たちでした。頭の切れる人たちがバリバリ物事を進めていく様子をみていて、私自身、宮城県出身ということもあって、引き裂かれるような感覚がありました。ある意味で、彼らのはたらきは、現地の政治的なことも乗り越えて、達成していくような状況でした。それを見ていると、これでいいのか、とも思うけれども、一個人ではどうすることもできない。この引き裂かれた感覚を書きました。

高森:「実行する」のなかにもいろんな状況があって、「実行しなければならない」となった途端に、それはもう自分ではどうにもならないし、結果としてそこでは自分の「知」なるものを導入する余地もなくなってしまいます。それは、外から俯瞰できたときに「復興災害」と呼ばれるものかもしれません。そのただなかにいる人の感覚は、こういう言葉で表すことができるのだと思いました。

もうひとり、お話したかったかたがいます。北野央さんはせんだいメディアテークの震災関連事業である「3がつ11にちをわすれないためにセンター(わすれン!)」の初期を支えた方で、私は、2015年ごろに、北野さんからのお声がけで、小森はるかさん、瀬尾夏美さんとのつながりを持つことができました。

北野さんのレポートのなかには、「参照点」という言葉がよく出てきます。私が最後の報告をまとめるなかで出てきた「応答としての実践(表現)を直接的なノウハウとして学ぶことはできない」という、災間を生きる術の問いに答えるうえでの前提の一つ目とつなげると、「けれどもわたしたちは、実践(表現)を参照することはできる」ということなんだな、と。あ、そうだ、と納得したんです。研究者はよく「参照」というし、「参照」という行為をするけれど、その言葉を忘れていました。それに気づかせてもらえたことが、まず、有り難かったです。

これは北野さんのレポートのなかには直接的には出てこない部分ですし、彼のキャリアを知っている私からみた話になりますが、とても大事だと思うのでお話してみたいのですが、たぶん北野さんは、いま、李青さんが置かれている立ち位置を、少し前に経験されていたと思います。「わすれン!」の立ち上げからかかわってきた北野さんは、ある意味で、「わすれン!」の本質の一部をつくってきたと思います。けれど、仕事として、職員としてという立場がある以上、異動というかたちでそこから離れることになった。このシリーズに参加してくださること自体、北野さんにとってそれは震災とのかかわりだし、つなぎなおしであると勝手ながら思っています。ある事業を立ち上げて、走り出しているなかで、職務の切り替えなどでそこから離れるというのは、決して悪いことではないです。むしろ、この人でないとできない、手放せない、ということのほうが問題になるかもしれません。いろんな個人のレイヤーでかかわる、というのが今日の話ではでてきましたが、北野さんはいま、どんなふうに震災とのかかわりを考えていらっしゃいますか。北野さんの「わすれン!」での日々と、今の日々には、どんな橋がかかっていますか。また、いまから橋をかける、かけ直すこともありますか。

これが個人的な問題である、というのはその一面であって、それは私も抱えている問題なんです。私は「阪神大震災を記録しつづける会」を、ある意味において、閉じる段階にきているなって思うんです。かつて伯父がやってきたことが再評価され、新たな実践につながっていくということは喜びであることは確かです。ただ、そこには、寂しさとしかいいようのない感覚もあるんです。記録しつづける会とかかわってきた濃密な時間が終わるんだな、そっかそっか、と言い聞かせているような。次につながっているということが確かに感じられているのに、どうにもその寂しさとうまく対峙することができていないです。熱量があった実践の時期をへて、それが応用される時期へ移ろうとするとき、そこにうまく橋をかける方法はないでしょうか。

北野:高森さんから投げかけていただいたことに一言でお答えするのは、とても難しいです。「わすれン!」の業務にいますぐに戻りたい、という気持ちがあるかというと、そうではないんです。いま自分が戻ったとしても、何か意義があることを新しいかたちでできるかというと、そんな簡単なことや状況ではないと感じています。震災から9年、10年目の3月の仙台は、コロナの感染拡大の影響で、個々人が静かに過ごすことや施設での震災関連の催事ができませんでした。

たとえば、私の場合、2017年くらいにはすでに私の心も身体もともに参っていたところがありました。震災から10年目の2021年3月まで「わすれン!」の担当を続けていたら、意気込みすぎてしまって狂っていたかもしれないと思うときがあります。

個人の活動として何かをはじめるという選択肢もあるんですが、いまの自分は何も行えていないです。「わすれン!」で出会って活動をともにしてきた人たちの現在をかげで見続けていたいなと思っています。あとは、自分のいまの仕事のなかで、震災に関する活動をアーカイブするような仕掛けを舞台芸術の事業のなかに組み込んでもらったり、職員同士の震災の体験談を聞き合いまとめるという職員研修ができないかと妄想したり、いろいろなかたちでいま探り続けているところです。個人的な願いになりますが、震災から15年目とか、20年目とかに、組織やチームとしてしっかりと震災に関するプロジェクトが動いていると良いなとは思っています。また、震災だけではなく、それぞれの土地で暮らすなかで起きる/起きたさまざまな出来事に市民がかかわり・まなび・表現するアプローチとして、「コミュニティアーカイブ」が実践できる仕組みや場づくりを考え続けていきたいと思っています。

高森:北野さんは「コミュニティアーカイブ」という言葉の大切さを仙台のなかに伝えていった人だと思います。当時、震災にかかわることをしていた人たち、そこで創造的なことをしようとトライしていた人たちが、いまどんな応用をしているか、枝葉が広がって、そこにはどんな葉や実がついているか、ということに焦点を当てて、みなでひらいていく場も欲しいな、と思いましたね。まだ震災を考えていますか、ではなく、それが何につながっているか、どんな気づきをもたらしているか、というような。それもひとつの術(わざ/アート)を考えることになると思います。

佐藤:うまく話せるかわからないんですが、北野さんの言う、戻りたくない、という感覚と、10年やったら意気込みすぎて狂うな、ということは、確かにそうだな、と思うんです。青砥さんが書かれていたことも「わかる」。

震災から10年経ったら話そうと思っていたことがあるんです。自分は出身が宮城県で、家族が「被災」にかかわる場所にいるときに、東京で震災を経験しました。実家は沿岸部のまちですが、高台で暮らしていたので津波の被害はなかった。それでも、地震が起きてから数ヶ月後に実家に帰ったとき、ある種の当事者性のようなものを遅れて獲得した感じがあったんです。それまでも家族と連絡をとって、うちは大丈夫だろう、と思っていたけれど、帰ってみたら、やっぱり何か、家族のふるまいが違う。被災によって変わったものであり、その影響の当事者であるんだ、と思いました。その後に、被災地支援という仕事の立場で東北とかかわるようになった。そのときは、支援はやるべき仕事だとは思っていたけれど、「地元が被災した」ということに外からかかわることが「いいこと」をするとも思えなかった。そこには、きっと功罪あるだろうと。だから、東京から仕事でいくモードを自覚的にもって、それ以前に獲得した視点を一度オフにしました。そうしないと、自分のなかに整理しがたいものもあったのだと思います。

それでも実際、現場にかかわってやりとりが積み重なっていくと、やっていることの意義が見えてきて、気がつくと「いいこと」をやっている実感も生まれてくる。そのモードを内面化してしまうと、逆に外からかかわることの良さがなくなってしまうような気もしてくる。そんなときに、事業の締めくくりの2年間がコロナ禍になったことで、被災地と物理的に距離をとらざるをえなくなった。こういうかたちで距離が生まれたことは、結果的に私自身のモードの転換の意味で、うまく作用したと思うんです。あのまま、近い距離でやりとりを重ねていたら、かかわりかたについて考えよう、というこのディスカッションシリーズが持つような態度はとれなかったのかもしれない。10年という節目で、仕事としてのかかわりが一旦切れるというのは、ほっとしているところがある。

ただ、かつてのことや、これからのことはすごく気になる。この地点から次のモードは、自分でつくらないと駄目なんだろうなと思うんです。安心しきって終わるのではなくて、あのとき生まれたものは何だったんだ、と見つめ直して、それを言葉にしないと、それこそ「被災地のリレー」は起きないですよね。

参加者は最終回を前に「災間の社会を生きる術」をテーマに2000字のレポートを執筆した。

佐藤:宮本さん、気になった言葉、気になった方いらっしゃいましたか。

宮本:江藤まちこさんのレポートが印象的でした。大阪にいらっしゃることもあって、僕の身近な場所や人がでてくるというのもありますが、すごく共感するところが大きかったです。レポートのタイトルは「苦しみを変容させたい」。これ、めっちゃ、わかるなと。たぶんね、李青さんと高森さんって、「苦しみ」にたいして抱えるとか、引き受けるとか、わりとストイックなモードだと思うんです。でも、僕は、やっぱり苦しいのって嫌だな、ままならない感覚ってしんどいな、っていうモードも一方ではあるなって思うんです。自分のコントロールにおけないものを、それとして、しっかり見つめるということももちろん大事なんだけれども、とはいえ、そのなかに楽しみを見つけたり、苦しみを何か別のものに変えたりしたい。そういう力がアートにはあると思うんです。その視点に立っている江藤さんにとても共感したんですよね。

そのうえで、ぜひ江藤さんにお伺いしたいのが、最後に書かれているこの部分なんです。

最後に、2年ほど前より神戸兵庫津に残る時宗の踊り念仏を広める活動に参加している。踊り念仏は元は自身の成仏のためのものであったが今では弔いのためにもおこなわれている。この活動のなかでも、1月17日について語り、苦しみを面白みに変容させることを踊り念仏を使ってやってみたいと考えている。

読ませていただいたとき、あ、これだな、と。こういう発想なんだと。この「踊り念仏」の活動はどういうものなのか、参加していたらどういう気持ちになるのか、教えていただきたいです。

江藤:踊り念仏に出会ったのは、まずは念仏踊りというのを滋賀県高島市にある朽木(くつき)という限界集落と言われているところです。そこで毎年行っているんです。

宮本:僕も好きで良く行きますよ!なんとも気持ちいい場所ですよね。

江藤:気持ちいいというか、霊性がすごいんです。集落までの道のりも険しくて、それもまたすごくて。そこで、念仏踊りの継承の取り組みをプロジェクトとしてやっているんです(「朽木の知恵と技発見・復活プロジェクト」)。そこに、アーティストが参加しているというので、見に行ったんです。念仏踊りというのは、お盆の時期に先祖の供養のためにされているものですが、太鼓、歌い手、笛吹きが身体をアクロバティックに動かして踊る様子にものすごくびっくりしたんです。その後、「New踊り念仏探究会」というのが、大阪市の應典院であったので、参加しました。踊り念仏を広めたとされている一遍上人が開祖の時宗という宗派がありますが、その前にあたる浄土宗、浄土真宗に遡って勉強しながら、新しい踊り念仏を作ろう、という会なんです。その会はいろいろな事情で途中でなくなってしまったんですが、2019年に神戸で「TRANS-」(トランス)というアートプロジェクトがあり、そこで、神戸市兵庫区出身のやなぎみわさんのプロジェクト(3日間の野外劇公演)に参加することになりました。これは、《日輪の翼》という2016年から横浜、新宮、京都などで上演された巡礼劇で、会場となった兵庫津の神戸市中央卸売市場からほど近い時宗真光寺は、一遍上人が亡くなった場でもあります。毎年9月16日には、開山忌法要が一遍上人の御命日をいとなむかたちで行われ、そこで踊り念仏が奉納されます。兵庫津でおこなわれる《日輪の翼》では、この踊り念仏を取り入れるということで、「New踊り念仏探究会」で時宗の僧侶の方とつながりのあったご縁でエキストラとして参加することになったんです。それを契機に、踊り念仏の探究がはじまって、いまに至っています。

滋賀県の朽木で続いている念仏踊りは、特に宗教がかかわっているわけではなく、地元のひとたちで踊り伝えてきたものです。一方で、時宗でやられている踊り念仏は、宗派のなかで、信者たちのなかで、宗教を支えるひとつの部分として組み上げてきたものです。そのため、一般に参加できないわけではないけれど、見にいく、参加するというのはハードルがやや高いです。今は、それをどうやって広めてひらいていくか、ということを考えています。

宮本:なるほど、面白いです。

高森:苦しみを面白みに変容させる、なんですよね。楽しみでも、喜びでもない、面白み。災間の社会では一番に忘れられてしまう感覚だし、もっというと、災害という出来事は、実際は面白みにあふれているとも思えます。それを伝えようとするとき、全部消えてしまったかのようになりますが。宮本さんが注目している、祭りというものも、面白みという言葉とつながりそうですよね。

宮本:「念仏」という言葉に引っ掛けていうと、苦しみをちゃんと成仏させてやらないと、その苦しみが否認に転じたりするんだと思うんです。苦しみを苦しみとして抱えていこうとする場合、何かしらのかたちで成仏させてやらないといけない。その成仏のひとつのあり方が、誰かに語ることだったりする。いま、東北で「ひとり言プロジェクト」というのをやっていて、そこでは、「被災者」っていうような、大きな主語で語られがちなことを、その10年間の瞬間瞬間にどういう気持ちであったのかを、川柳のような短い言葉にして、互いに紹介しあうということをやっています。そうすると、みんないろんな負い目があることがわかってくるんです。それぞれの立場で、それぞれの局面で、いろいろな負い目がある。その負い目は消えることはないけれど、ひとり言として共有する、というかたちをとると、すごく暖かい空気が生まれる。負い目をちゃんと成仏させている、と思うんです。

高森:負い目を成仏させる。ああ、そうだったんだって、私の父との最後の日を思い出してしまいました。父はコロナで亡くなったために、亡くなった父と再会したときには、父は納体袋に包まれていて、そのうえで棺に収められていました。この状態で会えるのも、最小単位の家族のみ。そのときの空気は、もう、居た堪れないものでした。そういう状況で、みなで静かに父のそばにいるときに、それぞれが、もし父だったらいまの状況にたいして何をするか、考えていたんです。私は、父は絶対写真を撮るだろうな、と思ったんです。とにかく何でも写真に撮る人だったので。要するに、記録魔ですよね。そう思いながら、母や妹と顔を見合わせるわけでもなく、みんな同じこと思っているな、ともわかったんです。「これ、パパだったら写真撮るよね」、「そうやね」、「撮ろうか……」という感じで、誰が先に言い始めたわけでもなく、自然と写真を撮ることになったんです。その様子に、病院の方々は、おい、何やりだしたんだ、っていう感じにはなっているんだけど、なんだか、そこにいた人たちみんなが感じていた、居た堪れなさみたいなものは和らいでいったんです。みんな、負い目を抱えていて、本当はないはずの負い目も、わざわざこしらえて、抱えていた。そういう、「なんで」と永遠に繰り返すような負い目の連鎖が、少しずつ成仏していった感じがあったんです。人から見たら、不謹慎な笑い、とも思うかもしれないけれど、そのぎりぎりのところも含めて、面白みというものがもつ力、負い目を成仏させる力があるなぁと思ったんです。その原点が、念仏を踊りながらやるという、独特な作法なのかもしれないですね。

佐藤:面白みがあると、本当のことを話しやすくなる感じがありますよね。本当のことを、いかにも本当のこととして語らなくてよい、というんでしょうか。ちゃんと伝えようと力んでしまうと、ますます語りづらくなることがある。そう考えると、語らなきゃいけないことが生まれる前に、いかにその技法を携えておくか、ということが大切になるかもしれない。ここまでは「面白み」として、さらりとしゃべってもわかってくれる、とか、ここからは力んで、本当のこととして伝えても受け止めてくれるとか、そういう塩梅を共有する感覚を、受け手となる人との間に培ってきたのかにも左右されますよね。

面白みって、弱さを共有することでもあると思うんです。宮本さんがたびたび言っていた「無力感」とは、私たちの弱さの引き受けかたをめぐる問題としても考えられます。ならば、みんな怖いよね、不安だよね、と大きな主語で「弱さ」を声にすれば、弱さと向き合ったことになるかというと、そうではないと思います。その人固有の弱さを、ひとりで抱えこんでしまうと、弱さは見えないものになって、成仏もできない。その人固有の弱さと、社会全体の弱さを、どう分かち持っていったらいいのでしょうか。

宮本:これまで僕は、無力感を良くないこととして語ってきたように思います。ただ、無力感がよくなくて、万能感があればいいのか、というと、そういうわけではないですよね。災間を生きるというときに、私たちはどうしても万能感というよりも無力感を抱くことのほうが多い。それを、事態の否認といったような、さらに良くないものにつながらないようにすることが大事で、無力感を無力感として抱えられるようにする。今日の言葉としての、無力感をシェアして、成仏させる。ひとりで抱えることと、それを誰かにひらくことのあいだには、大きな違いがある。そこに尽きるように思いますね。

高森:江藤さんからチャットにコメントがありますね。

面白みについて、必ずしも笑いを伴う必要はないと考えていまして、どちらかというとinterestingで、しかし直訳の興味深いでもなく、アートを鑑賞していいなと思うのは、interestingを感じることだなと。それがアーティストの転回によるものだと思っています

なるほど。「面白み」という響きからイメージされるものって、そのひとによって違いますよね。声に出して笑うことが全部「面白み」かというとそうではないし…。江藤さんのいうようなinterestingってどんな言葉で訳せばいいですかね。

佐藤:かかわりたい、という感覚ですよね。

高森:「辛いよ、悲しいよ」って伝えることと、「いやぁ、こんなことあってさ」って面白みを織り込んで伝えていくことの違いを考えると、前者は、本人は思っていなくとも、受け取った側は、それ以上踏み込めない、触れられないと怯んでしまう感じがあるように思います。その意味では、「辛い」「悲しい」を吐露することは、その人の言葉に権威を生じさせることになる、といえるかもしれない。当事者の語りは絶対的なものだ、という言い回しは、たぶんそういうところから来ているのもあると思います。

一方で、広い意味での「面白み」を含み込んだものとしての語りとして、「こんなことがあってさ」というかたちでさらりと伝えることができたならば、そこにはauthor(作者、著者、語り手)はあっても、authority(権威)はそこまで強いものとして出現しないように思うんです。絶望を予感させるような、悲しみや苦しみの言葉には、なぜ受け手は言葉を差し挟めず、そこに「面白み」を含ませると、そこに何かを挟めそうな気がするのかはなぜなのか、考えてしまいますね。関心を寄せてよいと思える、interestingな実践や表現をする、ということや、そういう実践や表現を迎えたいという態度が大切なように思いますね。

佐藤:実践の未完性の議論と近いように思いますね。

宮本:interestingって、「inter-」(〜の間)が入ってますもんね。

佐藤:うっかりはじまるとか、ちゃんとしないとか、ちょっと手を出したくなるとか、そういう感覚も含んでいるかもしれないですね。

高森:偶然の捉えかたですよね。偶然はリスク社会においては排除すべきものですが、このシリーズでの実践や表現は、偶然があるからこそ生まれていますよね。羽原康恵さんからのコメントがあります。

以前、シンガポールのアートNPOの方とお話しした時に、I’m curious of ~と話しかけていただいたことがあって、その尋ねられ方にすごく惹かれたことがありました。

佐藤:interestingもcuriousも災害について語ろうとするときに使わないですよね。

高森:海外の人たちは使うかもしれないけれど、われわれ日本人は使うのをためらう気がしますね。

宮本:東北の被災地をアメリカ人の友人を案内する機会があったんです。下手な英語でがんばって翻訳していたんですけど、そのときに「ちょっと匠さ、訳しない言葉あるやろ。匠がずっと『はあ』、『へえ』っていってるけど、あれどういう意味なん?」って聞かれたんです。これって、I’m curious of ~ってことを示す相槌だと思うんですけど。
李青さん、東北通い始めるころ、そういうことめっちゃしませんでした?

佐藤:そうそう。それに被災地支援にかかわって数年経ってから気づいたんですよ。仕事として通いはじめたときは、自分から東北出身ですって言わないようにしていたんです。なんかそれで相手に取り入っているように思うのが嫌だったんですかね(笑) でも、「東北出身である」ことで生まれた、言葉を投げかけるタイミングとか、リズムとかで、近づいていった部分ってあったんじゃないかと思うんです。訛って話をするわけではないけれど、相槌のようなふるまいかたであったり、すでに知っていることを共有していることで聞き返さなかったであるとか、そういう、身体の記憶みたいなものがコミュケーションに滲んでいたんだろうなと思います。

宮本:「聞く」でもなく「訊く」でもない、「聴く」ということは、そういうことかもしれないですね。

・・・

半年間、全6回のシリーズの最終回、いかがでしたでしょうか。
この対話は、シリーズとしては一旦閉じられますが、誰かが対話を引き継いだり、そこから何か実践を生み出したりと、その続きが生まれる可能性にひらかれているという意味では、未完のものです。

「災間の社会を生きる術(すべ/アート)」という言葉に向き合い、粘り強くついてきてくださった参加者のみなさまに、改めて感謝申し上げます。またどこかで、対話の続きをしましょう!

執筆:高森順子

日時:2021年12月4日(土)14:00~17:00
場所:オンライン(Zoom)での実施

アートは、災禍に、どうかかわるのか?

災禍の現場に立つには、いったい、どんな態度や技術、方法がありうるのか?災害復興の現場に多様なかかわりかたをしてきたゲストに話を伺うディスカッションシリーズの第5回目は、ハンセン病や水俣病、平成28年熊本地震、令和2年7月豪雨などの災禍にたいしてアプローチをしている熊本市現代美術館学芸員の坂本顕子さんをお迎えし、アートの表現とそれを支える仕組みが、その土地の災禍にどのようにかかわるのかを議論しました。
このレポートでは、前半に坂本さんのレクチャー(聞き手:佐藤李青)、後半はナビゲーター3人(宮本匠高森順子、佐藤)や参加者を交えた議論をまとめました。

ゲストの坂本顕子さん(右上)、ナビゲーター(聞き手)の佐藤(右下)。

ゲストレクチャー:
アートは、災禍に、どうかかわるのか? 
震災・水害・水俣・ハンセン病 (坂本顕子)

南嶌宏さんの姿勢から学ぶ

当館の学芸員は5人。少ないからこそ、全員なんでもやる、でやってきた。
初代館長は田中幸人さんだが、現在の根幹は二代目の南嶌宏さんがつくった、と私は思っている。立ち上げのときに南嶌さんは学芸課長をつとめており、私は彼に学芸員として拾ってもらった。彼の部下として奔走した日々が、私の財産になっている。課長から館長になられたあと、南嶌さんは女子美術大学へ移り、58歳で早逝。いま教えを乞うことはできないが、これまで教えていただいたことのインパクトは未だ強くある。

南嶌さんは私を含め、学芸員にたいして、養護学校(現在の特別支援学校)、盲学校、聾学校、リデル、ライト両女史記念館(ハンセン病患者の救済に尽力した女性宣教師を顕彰した施設)、ハンセン病療養所、水俣病資料館に行って勉強してこいと指示した。「私、一応美術の学芸員なんだけどなぁ」と思いながらも、いろいろなところに出向いていった。二言目には「聖書を読め」。他にも、「インドに行け、アウシュビッツに行け、作家に会え、足元を見ろ」など、よく言われていたことをいまでも思い出す。熊本という場所で現代美術館をつくるときに、現代美術だけやっていては駄目だと知った。たしかに現代美術は専門としてやるけれど、その土地で過去に何が起きて、いま何をしなければいけないのか、それを見ようとしなさいと南嶌さんは考えていた。

この姿勢を最初にはっきりと打ち出したのが開館記念展「ATTITUDE2002」。毎日床に倒れ込みながら、半泣きでつくった思い出深い展示。マリーナ・アブラモヴィッチ、ジェームズ・タレル、宮島達男、草間彌生さんなどの現代美術の作家たち、お笑いコンビの「いつもここから」、熊本県立熊本養護学校の伊藤隆哉、藤岡祐機、渡邊義紘さんなど、個性溢れる作家たちの作品を展示した。今回はそのなかでも、遠藤邦江さんと太郎君と、ジュン・グエン=ハツシバさんについて詳しく取り上げたい。

「ATTITUDE2002」での太郎君。

遠藤邦江さんは1939年、長崎県生まれ。1953年にハンセン病療養所菊池恵楓園に入所された。「ATTITUDE2002」展は、遠藤さんと息子の太郎君に参加してもらった。遠藤さんと太郎君との出会いは、美術館の根っことつながっていると思う。菊池恵楓園は熊本市の隣の合志市にあり、美術館からは車で25分ほどのところにある。総面積はおよそ18万坪、園の周囲は3.9㎞におよんでおり、日本最大の国立療養所として知られている。居住棟、病院、野球場、教会など、様々な施設が立ちならんでいる。誰でも入ることができるので、近所の方が散歩されている様子もみられる(現在はコロナのため制限中)。

はじめて私が恵楓園に行ったとき、人の一生のすべてが園内で完結することに驚いた。南嶌さんが遠藤さんに注目したのは、テレビのローカル番組で偶然目にしたことがきっかけだった。遠藤さんは、若くして恵楓園に入所され、園のなかでご主人と出会い結婚した。当時は入所者が妊娠することは事実上禁じられ、堕胎も行われていた。遠藤さんもそのことはわかっていたが、女性として一度は妊娠してみたいと思っていた。妊娠した遠藤さんは、堕胎をした。その経験のあと、デパートである人形と出会う。

もともとは女の子として売られていたそうだが、それを気に入った遠藤さんは「太郎君」という男の子として、夫婦で大事にしてきた。太郎君はかわいい顔をしているが、53歳になる(令和3年現在)。そんな太郎君と遠藤さんの日常はとても胸打つもので、南嶌さんはそれを人々に伝えたいと考えた。南嶌さんは「太郎君を美術館にお泊まりさせてください」とお願いして、遠藤さんは了承してくれた。「お泊まり」というのが、南嶌さんらしいな、といまも思う。「展示させてください」とは言わない。南嶌さんは私たち学芸員に、「太郎君が夜一人だと寂しいから、消灯のときには学芸員室に連れて行って、お布団かけて寝かせてやってくれ」と言っていた。私たち学芸員は朝出勤すると、展示室に太郎君を連れて行った。そういう日々を繰り返すなかで、モノとしての展示ではなく、こころを展示するということを学んだ。

ハンセン病療養所を巡るかかわり

菊池恵楓園には金陽会という絵画クラブがある。毎週金曜日にみなで集まり、絵を描くことが心の拠り所にされてきた。そこに訪問した南嶌さんは、それらの作品を「光の絵画」と名付け、以後、「光の絵画展」として展示を続けてきた。

木下今朝義さんは6歳でハンセン病を発症し、17歳のとき菊池恵楓園に移り、2014年に99歳で亡くなるまでそこで過ごした方。小学校に一年間しか通えず、その短い学校生活のなかでも病気のことでいじめられていたという。《遠足》(1996年)は、一度だけ行った遠足を思い出して描いたもの。金陽会で描かれる作品には、寂しさや怒り、疎外などを直接的に想起させるものもある。木下さんのこの絵は一見、牧歌的で穏やかだが、その内に秘められた悲しみを想像すると胸がしめつけられるようだ。

「光の絵画展」として続けてきた展示は、2007年に「ATTITUDE2007」で集大成として結実した。日本全国、そして海外では韓国と台湾のハンセン病療養所を踏破することを目標に調査し展示を行った。

同展のポスターには、青森にある国立療養所松丘保養所の成瀬テルさんの若き日の写真を使用した。テルさんが「ちょっと見て欲しいものがある」と言って、そっと手渡してくれたのがこの写真だった。当時20歳のテルさんが、療養所の出し物のために布団のはぎれなどを使って作られた衣装を纏い、満開の桜の下でポーズをとっている。その写真からは、彼女がハンセン病を患っていることは窺い知れない。写真を撮影したあと、症状が悪化し、重い後遺症が残った。この写真には、光輝く青春そのものが写されているし、それを誰かに見てもらいたいという気持ちがとても理解できた。テルさんに「この写真をポスターに使いましょう、私たちの伝えたいことが詰まっている」というと、照れながらOKしてくれたと言う。

「ATTITUDE2007」ポスター。

南嶌さんのサブとして、ハンセン病療養所に関わる展示を担当してきた蔵座江美学芸員は、その後2015年に当館を卒業し、現在は一般社団法人ヒューマンライツふくおかの理事として、菊池恵楓園絵画クラブ金陽会の作品調査や保存活動をはじめ、全国のハンセン病療養所で調査・記録活動を続けている。蔵座さんが当館を離れたことで、そのあとをどうやって引き継いでいくか。南嶌さんや蔵座さんの実践を踏まえて、2020年に私が担当した展覧会が「ライフ 生きることは表現すること」だ。

「ライフ 生きることは表現すること」ポスター。

本展は、「弱さとは何か」というテーマで、東京オリンピック・パラリンピックを念頭に置き、11組の現代アーティストからロボット研究者、それを支える人を含めて紹介した。

沖縄愛楽園の上原ヨシ子さんが我が子のかわりに集めた貝殻(熊本市現代美術館蔵)。

会場では、ハンセン病療養所沖縄愛楽園の上原ヨシ子さんが集めた《願いの貝》を久しぶりに展示した。この貝殻は、上原さんが堕胎した赤ちゃんを埋めた浜に、何度も訪れては拾い集めたものである。当時、訪問した際に、部屋に並べられた美しい貝殻を「熊本で紹介させてください」とお願いすると、快諾してくださった。熊本に持ってきた後にも、どんどん貝殻が送られてきた。貝殻はいわゆる美術品ではないが、時に作品以上に「語る力」を持っている。

水俣をめぐる作品

「水俣」というテーマも外すことはできない。開館記念展「ATTITUDE 2002」では、ジュン・グエン=ハツシバさんの映像作品《メモリアル・プロジェクト ナ・トラン、ベトナム—複雑さへ—勇気ある者、好奇心のある者、そして臆病者のために》(2001年)を展示した。ジュンさんは日本とベトナムの両方にルーツを持つ。この映像はベトナムで撮影したもので、海のなかで若者たちがシクロ(自転車タクシー)を漕ぎ進む。苦しくなると、水面に浮かんでは息継ぎをし、さらに潜って漕ぎ進むという動きに、日々の暮らしをなぞらえて表現したものだ。この作品からは、圧倒的な海の美しさと対比して、暮らしの苦しさが迫ってくる。ジュンさんが水俣に対して心を寄せていたのは、急激な経済発展により、ベトナムでも同じような公害問題が起きていたためである。

《Memorial Project Minamata: Neither Either nor Neither – A Love Story》(2002-2004)(熊本市現代美術館蔵)。

展示にあたり、熊本で滞在制作した映像作品が、《Memorial Project Minamata: Neither Either nor Neither – A Love Story》だ。水俣と牛深の海で撮影されたこの作品は、「それではないが、無いわけでもない。無いわけではないが、それでもない」という矛盾をはらんだタイトルがつけられている。当時、漁船を借りて、合宿状態で担当の冨澤治子学芸員は撮影を支えた。ジュンさんはその後、ベトナム、水俣、沖縄の三部作を完成させた。

2003年に開館記念展vol.3として行った「九州力 世界美術としての九州」展では、写真家の塩田武史さんを紹介した。塩田さんは法政大学在学中に水俣病に関心を持ち、1970年に水俣に移住し、15年間水俣に住みながら撮影を続けた。

「九州力 世界美術としての九州」展示風景。

久しぶりに当時の会場写真を見たが、この並べ方は南嶌さんらしいと思った。塩田さんの写真のあいだに、前衛芸術集団「九州派」の田部光子さんの絵画を置いている。本来なら両者は分けて展示した方が見やすい。しかし、鑑賞者が違和を感じるようなでこぼことした配置にすることで、南嶌さんは九州の根っこにマグマのようにたまっている、患者さんや女性たちの叫びを伝えたいと思ったのではないか。

その後、学芸各自のスタンスで、「水俣」に関わっている。学芸員の冨澤さんは、写真家の石内都さんが石牟礼道子さんを撮影した《不知火の指》シリーズを「誉のくまもと」展(2017年)で紹介した。本作は晩年の石牟礼さんの手足をクローズアップして、やわらかな自然光で撮ったもので、幸い、展示のあとに当館で作品を収蔵することができた。

最晩年の石牟礼さんと共鳴していたのが、熊本在住の坂口恭平さん。「建てない建築家」としてデビューし、現在は作家としてさまざまなメディアで表現を行っている。「ライフ」展(2020年)では、「海底の修羅」(作詞:石牟礼道子、作曲:坂口恭平)を、坂口さんが自作のギターを弾きながら歌うライブパフォーマンスを行った。

現在、一押しのアーティストは、写真家の豊田有希さん。当館のギャラリーⅢで開催した「あめつちのことづて」展(2021年)では、時代の波に翻弄されながらも、昔ながらの暮らしを営む芦北町黒岩地区の人々を撮影した約70点の写真を紹介した。豊田さんは、山間地で水俣病に苦しむ人々がいることを報道で知り、黒岩地区に通うようになった。そして現在は移住して写真を撮り続けている。水俣病に関する問題は、いまだ係争中のものもあり、決して過去のことではない。しかし、何かのきっかけがないと、学ぶ機会が訪れないのも事実だ。そんな多様なきっかけを作っていければと思う。

平成28年熊本地震

次に、美術館が直面した災害を中心に話をしていきたい。

平成28年(2016年)熊本地震では、当館は免震構造のビルのなかにあったため、一部作品が落ちたりしたが、額に傷がついた程度で甚大な被害はなかった。ただ、問題だったのは空調が止まったこと。別の美術館からお借りしている作品もあったため、それらは空調が効いている県外の倉庫に移すことになり、余震が続くなか、トラックに作品を載せて長崎に持って行った。私たちの館は財団運営のため、行政の決定を待たずに動かすことのできる自己資金が多少あった。それを使って、修繕する業者さんと早めに契約を結び、美術館再開にむけてすぐに動き出すことができた。

印象深かったのは、本震から10日後の2016年4月26日頃から、開館の問い合わせが急増したこと。「なぜいま問い合わせが?」「本当にみんな美術館にくるの?」と疑問があった。当時は、被災して間もないなかで美術館を開けていいのか逡巡した。しかし、桜井武館長は「まちなかがこういう状況だからこそ、早く美術館に光を灯しましょう」と言った。5月11日(本震から24日後)、無料スペースのみ開館した。初日は214人の方々が来られた。「ベビーカー押している方がこられてますよ」とスタッフに聞いた。「余震が怖くて、誰かがいる場所にいたい」と言っているという。そんなニーズがあるのだと思った。他の施設が閉まっており、ジブリなど人気の展覧会もあったため、この年は開館以来、一番の入場者数となった。地震という非日常のなかで、美術館というまた別の非日常の体験をするということが必要な方たちがいるのだということを実感した。

地震後のフリースペースの館内風景(坂本さんプレゼンテーションスライドより)。

2016年7月16日−9月11日に当館のギャラリーⅢで開催した「丸尾三兄弟 〇O(マルオ)の食卓」展は、天草の若手陶芸家・丸尾三兄弟(金澤佑哉・宏紀・尚宜)が、参加者に1人1枚器を差し上げるかわりに、その人の食卓の写真を撮って送ってもらい、ギャラリー内に展示するというプロジェクト型の展覧会だった。ちょうどまだ、私も車中泊をしているときに、長男の佑哉さんから電話がかかってきた。天草は幸い被害が少なかったが、家庭の器がたくさん割れたのを見て、何かできないかと提案してくれた。

「丸尾三兄弟 〇O(マルオ)の食卓」展ポスター。

同展では、約500枚の器を配布し、約300枚の「食卓の写真」を、撮影者のコメントも含めて展示した。器にあったどんな料理をつくろうか、どんな写真を撮ろうか、と前向きでクリエイティブな気持ちを生み出すことができたのではないか。また、「ぐっと飲み込んでしまう小さな心の傷」や、「地震の経験を共有していない後ろめたさ」にも目を向ける展示になったのではないか。

令和2年7月豪雨

豊田有希さんの「あめつちのことづて」展(2021年)では、関連企画として「令和2年7月豪雨REBORNプロジェクト」を実施した。同展の準備中に水害が起き、その水損ネガのレスキュー作業の様子を紹介するものである。

八代市坂本町のアマチュアカメラマン、故・東儀一郎さんらが町の暮らしや風景を写したネガフィルム約200本が水損し、それを知った豊田さんがSNSで協力を呼びかけると、県内の写真仲間や学芸員ら約20人が支援に駆け付け、つなぎ美術館と当館などでクリーニングや保存、デジタル化を進めた。熊本弁で「かせする(加勢する、手伝う)」と言うが、豊田さんを中心に自発的にレスキューの体制ができあがっていった。2020年7月にボランティアグループをつくり、助成金を取得、2021年に展示を開催し、ドネーションブック『REBORN』を作った。

現在、当館は4代目の館長として日比野克彦さんが就任されている。日比野さんが館長になって最初に行ったのが「災害時のアートインフラを考える」というオンラインイベントだった。ここでは、熊本の被災をめぐる知見を共有しようという企図があった。

シンポジウムでは、美術館ともゆかりが深い、地元の下通繁栄会のメンバーで、車椅子ユーザーの長江浩史さんに出演していただいた。熊本地震では、長江さんは小学校で避難所暮らしを余儀なくされ、そこに日比野さんが訪れた。日比野さんはそのとき、段ボールの間仕切りにマジックぺン一本で数字を描いて行ったという。長江さんは当時について、「あのとき、避難所がひとつのまちになった」と言った。そこから「郵便受けつくろう」とか「段ボールってデコってもいいんだ」とか、避難所の空気が変わったのだという。

今回の話を振り返ると、前半は「太郎君」を象徴とするように、作品やモノを通して語り、継承することとは何かと考え、後半は、災害で動き出している人がいるときに、「場としての美術館」にできることは何かという話だったように思う。

ディスカッション:
災禍のあとで、災禍のなかで、美術館をひらく

高森:印象に残った話がたくさんありました。なかでも、熊本市現代美術館の立ち上げ期をつくられた南嶌宏さんの話がとても印象的でした。南嶌さんと坂本さんとの信頼関係が、南嶌さんが館を離れた後も、亡くなられた後も続いていることがよくわかりました。彼の考えかたを坂本さんが継承されているんですよね。姿勢を学ぶとは何か、受け継ぐとはどういうことかを考えさせられました。

「展示する」という行為は、地域の方々とつながる方法として良いなと改めて感じました。「こういうものがあるんだよ」とか、「これまでこういうことしてきたんだけどどう思う?」と地域の方々に言われたときに、「素敵ですね」と返すような一対一のやりとりが考えられると思うのですが、このやりとりって意外とその先の広がりを考えるのが難しかったりするわけです。そのときに、「私が良いと思ったので、きっと○○さんも良いって言うと思うんです」と言って誰かに紹介するように、自分では収まりきらない良さを見つけてしまったから、もっとその価値を知ってもらいましょう、というかたちで社会にひらくのが「展示する」という行為だと思うんです。地域の人たちと信頼関係を結ぶために、話を聞くというのはとても大切で、もっとも基礎的なことではあるんだけれども、その先の回路として、地域の外の人たちとの回路をつくるために「見せる」というのが、応答の仕方として重要だなと実感しました。

でも、それは単に人やモノが有名になればいいとか、それらの社会的価値が高まればいいとか、そういう次元ではなくて、抱き人形の「太郎君」であれば、それを人形ではなく「太郎君」として扱うとはどういうことかということを、展示という行為を通して「太郎君」への触れかたをスタッフが学んでいくことで、表層的な意味を超えた尊厳を共有することが大切だったと思うんです。そういう人やモノの尊厳を理解することで、はじめてそれらを展示として社会にひらくことができるのだと思いました。また、地域にある「表現」未満のものを、「表現」として見せる、というのが、美術館の大きな役割なのだと感じました。

今日、坂本さんにこれはお伺いしておきたいと思ったことがあります。ナビゲーターの佐藤李青さんが所属するアーツカウンシル東京は「館」をもっていません。このシリーズの第1回で李青さんがお話してくださいましたが、アーツカウンシル東京は、モノではなくコトで見せるであるとか、アーティストの作品ではなくアーティストが地域の人々と結んでいる関係を見せるであるといった手法をとってきたといいます。坂本さんは熊本市現代美術館という「館」をもつところに所属されています。ただ、今日のお話の後半は、李青さんと同じように、モノではなくコトの話が多かったように感じました。前半は、モノを見せる、ないしは、モノから喚起されて生み出されたコトを見せる、というような、どちらであれモノが根っこにあったと思います。一方で後半は、モノの存在が見えにくいようにも感じました。語弊を恐れずに言うなら、そこに危うさのようなものも感じました。コトを起こし続けると、人との関係がどんどん増えてしまって、対応しきれない大変さもでてきます。そんななかで、あえて「館」があるからこそできること、「館」だから大変だけれどもここは大事にしているということがあれば教えていただきたいです。また、「館」のあるなしにかかわらず、共通して大事だと思っていることがあれば教えてもらいたいです。

坂本:うちの館に来ていただくとわかるのですが、当館は、フリーゾーンと企画展示室の2つに大きく分かれています。いわゆる常設展示室というのはなくて、「コト」にあたる部分はフリーゾーンで起こっているのですね。実は、私たちはいっとき、「アーツカウンシルとかアーツセンターみたいになりたい!」と言っていたんです(笑)。モノを守ることと、コトを起こすことの両立はかなりしんどいという感覚がありました。ただ、いま思うのは、両方あるからこその良さを考えたいです。正直なことを言うと、私たちが「館」を手放してしまったら、資金難に陥るでしょう。「館」の運営費というかたちで、物理的に大きなお金が動く。いまはそのなかから、コトの運営費を生み出しています。

そして、モノとコトのあいだに、「人」というのがあると思っています。人は財産ですよね。「現美の人っていいよね」って言われたいんですよ、八方美人かもしれないけれど(笑)。美術館は商店街の真ん中にあるのですが、あいつらがいないとまちが面白くないとか、そういうふうに言ってもらえるような活動をしていきたい。どうしても人数が足りないので、うちは総務のスタッフも事業を持っていたりして、学芸員と事務方という分けかたではない動きかたをしています。当館のプロジェクトにおいては、事務方も最前線で働いています。

スタッフは全員「美術館員」

高森:すごく現実的な話をさらに聞いてみたいのですが、学芸員さんと事務方さんとの関係がものすごく幸福な関係だったらいいのですが、両者には「学芸員として採用されている私」と、「事務として採用されている私」という思いがあったり、専門的教育を受けている者とそうでない者という違いがありますよね。市民みんながともにあれるような場をつくるということと、その場をつくることに関する専門性を持っているということを、どうやってバランスをとって動かしていらっしゃるのかなと思いました。専門知の扱いかたというんでしょうか。

坂本:私はもともと美術教育をやっていたということもあり、なんでもやるんですよね。教育って何にでもかかわっていますからね。自分も含めて当初は、専門を生かした展覧会をやることが仕事だと思っていた。でも、指定管理者制度が導入され、ここではそれだけじゃだめだ、市民とかかわって何かをなすということをしなきゃいけないよねと、自認するようになるんです。開館からいる学芸員は特に、それを自分たちで選択してきたというのがあります。うちは、学芸員と総務というより、皆「美術館員」という捉えかたなのかなと思います。美術館員全員が、市民とつながる最前線にいます。もちろん、人により強弱はあるけれど、そこは姿勢として大事にしているところで、もし「市民に近い美術館」というジャンルがあれば、割と上位なんじゃないかと自負しています。

歴代の4人の館長は、それぞれ個性が違う。南嶌さんは、「災間」という概念にも通じるような企画をキュレーターとして、展覧会というかたちで応えようしてきたといえます。その次の桜井館長は、見る人がいてこそのミュージアムだという考えかたです。学芸員の自己満足で終わっては駄目で、専門性を生かした仕事をするのは当然として、それをどれだけの人に見てもらうか、そのための工夫をすることが問われていました。桜井館長はアートを広く捉えていて、館長になられたときは60代でしたが、蜷川実花さんやジブリなどもどんどんやる。ブリティッシュ・カウンシル出身ということもあり、幅広い文化を大事にしていらしたように思います。熊本地震記録集として『地震のあとで』という冊子をつくったのですが、地震からまもなくして「美術館を美術館として開けよう」と最初に言ったのは桜井館長だったんです。私は、南嶌さんと桜井さんという2人の館長のもとで働かせてもらったことで、両方のいいところを取り入れていこう、学んでいこうという思いがあります。

高森:モノをもつ場所としての「館」と、人が集う場所としての「館」という両方をどうやって発展させていくか。そして、それを新たな館長とともにどう地域にひらいていくかということを常に考えていらっしゃるんだなと思いました。お話を聞いていて、館長の色合い、影響力がこんなに強いんだというのを初めて知りました。失礼ながら館長というのは「名誉職」なのかなと思っていました(笑)。全然そうじゃないというのは今回とてもよくわかりました。

坂本:歴代の館長は個性派揃いというか、クセが強い(笑)。ユニークですね。

佐藤:こういう話をするとき、どうしても「館」の内か外かとか、プロジェクト型かどうかとか比較してしまうんですけど、本当は役割の違いであって、連携できたらいいなと思うんですよね。坂本さんの話を伺うと、美術館は“いわゆる”美術館というもの以上のものを求められるようになってきたと実感します。市民側からみたら、それが美術館的かどうか、ということより、美術館とのかかわりをどうつくっていけるかが大事なんですよね。アーツカウンシルも美術館も、それぞれに特性があり、役割があるわけですが、「使う」側から見ればアートにアクセスする選択肢に過ぎないともいえる。たしかにアーツカウンシルは「館」をもたないから、地域の人たちとのかかわりづくりのような実践はやりやすいと思います。ただ一方で、常にその実践は見えにくくもあります。さっきの話だと、南嶌さんの姿勢と実践は作品や展示の力によって、遠くに届くわけです。一方でかかわりづくりは、近くの人たちに濃密に届くけれども、遠くには届きづらい。アーツカウンシルの活動がどれくらい遠くの人に届いているのかというのは、いつも問われています。

たとえば展示でかかわりの成果や過程をひらこうとなったときに、自分たちで場所をつくるのか、美術館と連携するかというのでは、届きかたは違うと思うんです。多くは、前者、つまり自分たちで場所をつくろうと、たとえば遊休スペースを使った展示をしたりするわけですが、すでにある美術館で連携してやってみる、というのもあるのではないかと思いました。

“「館」をもたないアーツカウンシル”という共通認識ができてしまうと、いざ「館」との連携になったときに、それならそもそも「館」をもっているところがやればいい話じゃない? となることもある。それが「館」との組みづらさになっているところがあるかもしれないです。もちろん、ただ連携できればいいというわけでもないし、美術館も展示だけが機能ではない。ただ、「館」のあるなしにかかわらず、それがどう機能するのかを見ることが大事なんだと改めて気づかされました。うーん、これまでのいろんなことがフラッシュバックしています(笑)。

高森:私たちは議論するときに、とかく対比しがちですよね。「館」のあるなしという二項対立で議論をたてて、「館」がある側を分析しようとするときは、「館」のなかの実践しか見ない傾向があります。たとえば、アウトリーチと展示を無自覚に対比させたりもするわけです。でも、「館」をもたない側のアーツカウンシル東京だと、「アーツ千代田3331」という建物のなかでやっている実践はなんなんだ、という話にもなります。よくよく考えれば、展示という「館」のなかの実践と捉えているものも、展示物を別の場所からもってくるとか、展示が終わったらそれらを返しに行くとか、そういう外とのつながりがあってはじめて成立するわけですよね。いわばそれは、展示という行為に紐づけられたアウトリーチでもある。議論するときに勝手に分けて捉えてしまうことで、結果として実践が切り縮められて、中身ではなくて型の話になってしまうところがあると思うんです。なにかを理解しようとする、言葉にしようとすると、むやみに対立軸を持ち出してしまうというのをどうやって回避したらいいのかなぁと思いますね。

ゲストの坂本さん(左上)、ナビゲーターの佐藤李青(右上)、高森順子(左下)、宮本匠(右下)。

書店で関心の外にあったはずの本を手にとるようなキュレーションがしたい

宮本:お話をきいて、まずは美術館に行きたくなりましたね。熊本地震のときに、「美術館開いてないのか」という声が出たということの意味を一番考えさせられました。坂本さんは、「みんな非日常を求めていたのかもしれない。でも地震も非日常なんだけど」っておっしゃられていましたが。非日常としての災害をどう生き抜くかというときに、非日常としてのアートというのがものすごく大事だったり、場合によっては欠かせないのかなと思いました。そういうときのアートってどういうものだろうかと考えたときに思い出したのが、東日本大震災のときに福島の避難所で見た光景です。僕が手伝いに入ったときには、自分で段ボールを持って行って、それぞれに工夫して間仕切りをしていたんです。表札をつくったり、郵便受けをつくったり、間仕切りの内側に家族の写真を貼ったり。段ボールなので高さはそこまでないので、プライバシーはあまり確保できません。ただ、その避難所は活気があって、ひとつの街のようだったんです。そこに、ある建築家の方が考えられた、紙と段ボールだけで仕切りをつくるユニットがやってきた。それは非常に合理的で、軽いから余震で倒れても大丈夫だし、プライバシーもしっかり確保できるし、おそらく費用もそこまでかからない。そういう意味では、災禍を生き抜くために優れたものだと思います。それが導入されるにあたり、これまでの段ボールを撤去して、ぜんぶそのユニットにしたわけです。そうしたら、途端に会話がなくなって、みんな出てこなくなった。そこで考えさせられたのは、避難された人たちが自分の居場所のために段ボールに工夫を施す、「デコる」っていうのが、すごく大事なことだったのでは、ということでした。長江浩史さんと日比野克彦さんの活動でも共通して出てきたことだと思います。

自分の子供を埋葬した浜辺から貝殻を拾い集めていくであるとか、「〇о(マルオ)の食卓」で器をもらって、それに盛り付けた自分の食事の写真を撮るであるとか、災間を生き抜くために必要なアートには共通する性格があるんじゃないかと思うんです。鶴見俊輔は著書『限界芸術論』で、純粋芸術と大衆芸術の手前にあるもの、芸術と生活の境界にあるものを「限界芸術」と名づけているわけですが、そういう「あいだ」にある限界芸術が豊かになることで、純粋芸術や大衆芸術も豊かになるんだと書いていますよね。災間を生き抜くというときに、エッシャーの絵も見たいし、ジブリ展もみたいし、でも同時に、木下今朝義さんの《遠足》や、石牟礼道子さんの手足を接写した作品《不知火(しらぬい)の指》であるとか、ハンセン病療養所にいらした上原ヨシ子さんが拾い集めたたくさんの貝殻が飾られていたりと、限界芸術がどっしりとあるというのが、李青さんのいう「かかわりをつくるアート」の役割なのかなと思いました。

限界芸術は生活との境界にあるがゆえに、モノとコトがごちゃまぜですよね。プロとアマチュアもごちゃまぜです。僕自身、アール・ブリュットが生理的に大好きなのですが、それがなぜ好きなのか見通せた感じがありました。そういうアートの存在が、災間を生きるときに大事なんだろうなと思いました。熊本市現代美術館は、鶴見俊輔のいうところの3つの芸術が揃っているなと思います。

佐藤:宮本さんのコメントと関連して、参加者の小田嶋さんのご質問で、「いわゆる美術品ではないモノを展示する際、どういった工夫をしているのか詳しく知りたいとあります。そうした展示で、鑑賞者がモノの背景について想像を巡らせる後押しになるような工夫はありますか」とのことですが、坂本さんいかがでしょう。

坂本:それがキュレーションという行為だと思います。南嶌さんのキュレーションってものすごく個性的で、好みが分かれる(笑)。「痺れる!」っていう人もいれば、「なんじゃこりゃ」と思う人もいると思うんです。私はそこまでの個性はないですが、キュレーションした展覧会「ライフ」では、アール・ブリュットとか、ハンセン病とかなるべく先入観なしに、まずは「きれいな貝殻だな」と見てもらいたいと思いました。福祉やあるいは現代美術に興味がある人だけが来るのではなく、たとえて言うなら、書店に行って、たまたま隣に置いてあった自分の関心の外にあったものを手にとるような、そういう場づくりができればいいなと思ったんです。キュレーションでは、観覧者が展覧会の全体を見ていくなかで、どういう心の動きをしていくかを考えていきました。そこで、どの程度の情報量が適切かを考えて、簡潔なキャプションをつけていきました。

監視員さんが、「静かに涙を流されている方がいました」とか、「年配の方が、僕は何も知らなかった、とぽつりと言われていました」とか報告してくださる。私は教育出身だからなのか、美術業界の外にいる人により知ってもらいたいという想いが強くあります。

佐藤:監視員さんたちのかかわりはどのようなものなのですか?

坂本:監視員さんたちはとても勉強熱心です。開館以来いらっしゃる方もいるので、目が肥えています。お客さんの反応がいいと、嬉々として自分のことのように伝えてくれます。

「絵の取材でほっとしました」

佐藤:事務局の小川さんからの質問ですが、「地域の人々の記憶と、公式記録が対立した場面はありますか。政治的に複雑な経緯をたどった出来事も多くあるように思います」とあります。坂本さんそのあたりいかがでしょうか?

坂本:人権に関わる博物館などでは、様々な視点があるため、常設展示などでも、日々慎重にアップデートされていると思います。当館の展覧会に関していえば、たとえば水俣のことを扱うと「なぜいまこのテーマをやるのか」とご意見をいただくこともあります。当事者の方々との関係が近い場合は特に、事前の調整や説明は欠かせないでしょう。

これは、元スタッフの蔵座さんから聞いて印象に残っているのですが、若い新聞記者が作品の取材にこられて、「絵の取材でほっとしました」と言われたそうなんです。記者だから当然、勉強しなくてはいけないけれど、「そんなことも知らないのか」とか「勉強不足だ」といわれるのでないかと、いつも少し緊張しながら現場に行くそうなのですね。しかし、絵であれば構えずにリラックスして向き合える。それを聞いて、美術って「あいだに入る」ことができるのだと感じました。白か黒かだけではない、グレーの幅が広いのが美術の良いところだと思いました。

佐藤:展示の機能というのは、それすべてで何かを理解するということではなくて、そこからスタートして考えられるところが重要なんだと思います。展覧会でメッセージを伝えるというのは確かにあるんだけれども、その若い新聞記者の方が言うように、別のやりかたでは触れづらかった出来事にたいして、このかたちであれば触れられることがあるんだと思います。それが展示の持つ可能性ですね。あ、小川さんから手が上がってますね。小川さんいかがですか?

小川(事務局):さきほどから坂本さんがキュレーションという行為の重要性についてお話いただいていたと思います。これは現代美術の特性とも関係すると思うのですが、「角を矯(た)める」っていうんでしょうか、何かをうまく収めるというところはあると思うんです。例えば、熊本地震に関する場合だと、九州電力の原発どうするんだということに触れる可能性があると思うんです。現美にかかわっておられる坂口恭平さんはそういうことも触れておられると思うんですけれども、この表現をそのまま出せない、いや出すべきなのかどうなのか、ということがあると思うんです。それをキュレーションを通して出す、ないしは切り取るということについて、制約があると感じていらっしゃるのか、そういう厳しい話が起こっているのかをお聞きしたいです。

坂本:原発を含め、地震災害に関してはそこまでないのですが、人権や、性的表現や、政治性のあるトピックに関しては、水面下で色々な調整があります。法律に反していなければ、基本的には出せるのですが、様々な立場によって受け止め方が違うことを念頭において、企画を進めています。

災禍のときに美術館がずっと閉まったままでは駄目なんです

佐藤:モノに言葉を付与しなくとも、モノそのものが語ってしまう力がありますよね。事前の打ち合わせで、宮本さんがメモリアル施設のモノ展示についてお話されていたことを思い出したのですが、いかがでしょうか?

宮本:先々週に宮城に行ってきたんです。東日本大震災の伝承施設というのがこの2、3年オープンしています。今年になって宮城県のメモリアル施設として「みやぎ東日本大震災津波伝承館」が石巻にできたんです。そこに行ってみたんですが、ここだけでなく、災害関係の施設はみな、モノの展示が少ないんですよね。災害関係の展示と、いわゆるミュージアムの展示を比べると、比べものにならないくらい充実していないと感じます。この最大の理由は、李青さんや坂本さんのような、キュレーション、ディレクションする人がいないからだと思うんです。学芸員がいなんです。行政がコンサルタントとつくって、つくったらそれで終わりなんです。そこからは、ソフト面というかたちで語り部さんたちに丸投げされるというのが現状なんです。展示替えもないし、大きなお金がかけられるわりに、中身が残念であることが多いように思います。「津波伝承館」ではメッセージとして「とにかく逃げてくれ」というのがある。これはもちろん大事だけれど、逃げたあとに何があったのかという展示はほとんどなくて、そこは語り部に聞いてくれ、という設計になっています。それを語り部さんに聞くことはもちろん大事だけれど、東北の場合は伝承施設にiPadがたくさん置いてあって、それを触るといろんな人の語りが見れるというかたちが多いんです。それってすごく良くないな、と思うんです。そこに行かなくても見れるじゃないですか。これってとても脆弱で、このままだとあっという間に語れなくなるときがくるんじゃないかという印象があります。

今回、水俣などの災厄に関わるお話を聞いて改めて思ったのは、社会的に辛い出来事というのは、考えかたの違いとか、プロセスのなかで起きる分断があり、当事者のなかで不幸なひび割れが起きると思うんです。そのときに、これは水俣に関して特に思うんですが、分断を隠したり、無かったことにせずに、分断は分断として認めながら、「それは違うんじゃないか」とお互いに言い合うようにしてやってきたということが大切だと思うんです。それが、運動なり、語り継ぎなりが続いてきたひとつの理由なんじゃないか。水俣という名称を出してくれるなという人、まだまだ裁判なりで主張していくことが必要だという人、それらとは別のかたちでかかわろうとする人、そういう人たちが、「難しいね」、「折り合いをつけようね」ではなくて、言い合ってきたというのがあるのではないかと思います。

佐藤:気仙沼のリアス・アーク美術館の山内(宏泰)さんが、災害を伝承する施設に、観光という目的がくっついたときに、伝承の機能が弱くなるということを展示デザインの視点で指摘されていたことを思い出しました(山内宏泰「博物館展示における震災資料展示の課題と可能性」『国立歴史民俗博物館研究報告 第214集』、2019年)。

現美で坂本さんがつくられた『地震のあとで』という記録集では、写真家の石川直樹さんが撮影された熊本地震後の写真がありますが、これは記録集をつくるという目的があって撮影されたものですか?

坂本:この記録集には3人の写真家が関わっています。石川直樹さんは、被災後の熊本を取材してもらったことがあり、それらの写真は展覧会のカタログにしか載らなかったので、この記録集にも再録しようということになりました。川内倫子さんには、地震前に別の企画で熊本の風景を撮ってもらっていて、それを再録させてもらいました。また、宮井正樹さんは、被害の大きかった西原村在住で、地元の様子を被災者の視点から撮ったものを掲載させていただきました。これまで行ってきた展覧会があったからこそ記録集ができたというのもあるし、展覧会を見ていない人たちにもこれらの写真を見ていただきたいという思いもあり、載せようということになりました。

佐藤:災害があったときに、モノそのものを残すということもあるんだけれど、アーティストのかかわりから作品として残すということもありますね。この写真は美術館に収蔵されていますか。

坂本:川内倫子さんの写真は収蔵されています。

佐藤:今日のお話では、美術館という場所があるから作業ができるとか、モノを扱えるとか、「館」があるからこそできたことがあったと思うんですが、これがもっとあればよかったなと思うことはありますか。

坂本:いっぱいありますけどねー!(笑)。マンパワーがもっとあれば良いなぁとつねづね思いますね。実感したのは、災禍のときに美術館がずっと閉まったままでは駄目なんですよ。私たちが何か次に進もうっていう気持ちになるために、きっと役に立つことができる。熊本地震の被災直後に美術館を開けたとき、塗り絵がすごく人気だったんです。塗り絵って、単純な作業で区切りがつくものじゃないですか。手を動かした分の成果が見えるというか。地震が起こると、はっきりとした区切りがないことが多いです。被災した人たちは、いつまで待たなきゃいけないのかとか、いつ元通りになるのとか、そういう状態に置かれるわけです。そんなときに、塗り絵って、時間をかければ必ず完成できる表現なんですよね。だからなのか、みなさん熱心に取り組んでいらしたんです。災害が起こる前は、そんな力を秘めているものだとは思っていなかったんですが、そういう手を動かす、小さな目標をつくっていく作業は大事なんだなと思いましたね。

佐藤:日比野克彦さんは、災害後に何かに没頭できることが必要だとおっしゃるんですよね。東日本大震災の後にも、すぐに動き出していましたが、さまざまなアクションを通してかかわった人たちが「つくる時間」をもつことを大切にしていた。その時間では、どんな色を塗ろうか、何を描こうかと「少し先」をイメージする。それは被災という現実ではない「現実」を生み出すことにも大事だったのだと思います。さらに、被災すると自分の選択肢を人から提示されるばかりになるから、自分で何かを選んだり、自分の手で何かをつくっていくというのが大事になるとも話されてました。その話を思い起こしましたね。

・・・

まだまだ話が尽きないところで、あっという間の3時間となりました。
このレクチャーのあと、坂本さんのおっしゃっていた「全員美術館員」がよくわかる記事を見つけました。Web美術手帖の記事「学芸員は名前が出せない?美術館の(奇妙な)現状を探る」によると、日本の美術館は、展覧会を担当した学芸員の名前を出さない慣習があり、それを問題視する意見も出ているといいます。記事の最後には、そのような慣習の変化の兆しのひとつとして「熊本市現代美術館では、館長以下、総務スタッフまで氏名を公開」していることが挙げられていました。このことも、熊本市現代美術館の「全員美術館員」という姿勢が現れていると感じました。

次回はいよいよ最終回。ナビゲーターの3人が、参加者のみなさんのレポートを共有しつつ「災間の社会を生きる術(すべ/アート)」について議論します。それでは次回もよろしくお願いいたします。

執筆:高森順子

日時:2021年10月31日(土)14:00~17:00
場所:オンライン(Zoom)での実施

出来事を伝えるためには、どうすればいいのだろうか?

災禍の現場に立つには、いったい、どんな態度や技術、方法がありうるのか? 災害復興の現場に多様なかかわりかたをしてきたゲストに話を伺うディスカッションシリーズの第4回目回は、阪神・淡路大震災の経験から学び、伝える活動をしているNPO法人ふたば/ふたば学舎・震災学習ラボ室長の山住勝利さんをお迎えし、災禍の経験を継承し、伝えることを議論しました。
このレポートでは、前半に山住さんのレクチャー(聞き手:宮本匠)、後半はナビゲーター2人(宮本、佐藤李青)や参加者を交えた議論をまとめました。

ゲストレクチャー:
活動と言論を通して網の目をつくる(山住勝利)

今回のテーマである「出来事を伝えるためにはどうすればいいのだろうか」ということに対する答えとして、ハンナ・アレントの『人間の条件』から、次のことばを、まとめとして使いたい。

まず見られ、聞かれ、記憶され、次いで変形され、いわば物化されて、詩の言葉、書かれたページや印刷された本、絵画や彫刻、あらゆる種類の記録、文書、記念碑など、要するに物にならなければ、そのリアリティを失う。
(ハンナ・アレント『人間の条件』(志水速雄訳)、ちくま学芸文庫、1994年)

自らの体験や考えを外に出すこと、すなわち「活動と言論」を通して「人間関係や人間事象の網の目を構成する」ことを話したいと思っている。

ふたば学舎について

ふたば学舎は、神戸市長田区二葉町にあり、すぐ南側には長田港という港がある。建物は元々、1929年に設立された神戸市立二葉小学校だった。それが少子化により他校と合併し、いまは駒ケ林小学校になっている。校舎は地元の方々からどうしても残しておいてほしいという希望があり、それを神戸市がうけて、2010年から神戸市立地域人材支援センター(2016年、ふたば学舎に名称変更)となっている。ふたば学舎はコミュニティ施設で、コスプレ撮影会や、ヨガ教室、料理教室、まちの文化祭や夏祭りなど、色々なイベントや貸室利用が行われている。

私はここの指定管理者である「NPO法人ふたば」に属しており、担当しているのが「震災体験学習」という事業である。

阪神・淡路大震災の記憶と教訓をベースとしているのだが、もし26年前の阪神・淡路大震災での色々な問題が現代において解消しているのなら、伝えることもないだろうと思う。寺田寅彦の「津浪と人間」にもこれまで何度も災害が起こったので、もう防ぐことができるだろうと思うが、そうなっていないということが書かれている。例えば、2日前に東京と埼玉で震度5強の地震があったが、ブロック塀が倒れるというニュースがあった。阪神・淡路大震災のときにはブロック塀が倒れて何人かが亡くなり、2016年の熊本地震でもブロック塀が倒れて20代の若い方が亡くなり、2018年の大阪北部地震でも小学生が亡くなった。そういうことから考えても阪神・淡路大震災から26年経っていても、未然に防ぐことができていないことがまだまだ残っている。阪神・淡路大震災での記憶と教訓はまだまだ伝えていかなければならない。

旧二葉小学校・ふたば学舎の外観。

未来の防災・減災につながるように伝える震災学習(伝達可能性)

ふたば学舎での震災学習は体験型の学習で、対象は全国の小学生、中学生、高校生、大学生で、学校へ出前講座に行くこともある。内容は語り部の体験談や避難所体験など、いろいろなメニューを組み合わせて行っている。

震災体験学習の流れとして次のようなものがある。

1、阪神・淡路大震災での二葉小学校周辺の被災状況の説明
震災学習の避難所体験で使われるふたば学舎の部屋は、実際に避難者が避難していた講堂である。その場所で阪神・淡路大震災のときの二葉小学校周辺の被災状況を説明し、それと同じような巨大地震に遭い、ここに避難したという想定で子供たちに参加してもらう。

そしてまず、

小学校のすぐ東隣には大正筋商店街という商店街があり、地震後に起きた火事で全焼し、上のアーケードだけが残っていた。小学校の北部もかなり広い範囲で火災が起きた。周辺はブルーシートがかけられている家が多く、全壊もしくは半壊だった。二葉小学校への避難者数は1月17日に1,170人であった。月日が経つと避難者数は減り8月に避難所が解消された。

というような説明を行う。

2、実際に避難者として考えてみる
被災状況を説明したうえで、参加する子供たちには4~5人のグループに分かれてもらい、そのグループを一つの家族に見立て、自分はどういう役割を担うのか決めてもらう。例えば、80歳の男性でいまは病気がある設定にしたり、犬や猫などのペットになったりする。そして阪神・淡路大震災と同等の巨大地震に遭った避難者になったと想像して、避難所で起こる具体的な問題を考えてもらう。

3、避難スペースづくり
グループに分かれて段ボールを使った避難スペースづくりをする。どういう寝心地であるのか、どういう問題が起きるのかを発表してもらう。

4、語り部さんの話
阪神・淡路大震災で被災経験がある人に話をしてもらう。例えば、震災当時は高校生で、今は長田港で漁師をしている方など、地元のたくさんの方に語り部として協力をしてもらっている。

5、炊き出し体験
お昼の時間には炊き出しボランティアが来たという想定で、ふたば学舎の炊き出しスタッフがつくったカレーを出す。子供たちは自分たちがつくった紙食器にポリ袋をかぶせて、そこにカレーを盛って食べるということをしている。

6、災害現場の知恵学習
神戸市の消防士をしていた方に、もし怪我した人がいたときに、どういう風に搬送したらいいのかといったことなどを災害現場の知恵の学習として学んでもらう。

7、まち歩き
グループごとにガイドを1人つけて、ふたば学舎周辺のまち歩きをする。周辺は再開発できれいなビル群になっているので、実際に阪神・淡路大震災のときの写真と見比べながら、どのくらい復興しているかということを考えてもらう。

このように震災体験学習では、「BASED ON TRUE STORIES(BOTS)」ということで被災の実話にもとづいて、参加者はその実話をなぞりながら被災者を模倣し、震災の記録と教訓を学ぶということを行っている。ストーリー仕立てにすると、共感力が高まるということが考えられる。

避難所体験の様子。
まち歩きの様子。

人、モノの関係の網

震災学習で伝えようとしていることを抽象化して言えば、「人、モノの関係の網」の様相ということになる。モノの関係とは、主に生産関係を示す。大きな災害に遭うと人やモノのいろいろな関係の網が切断されて、自分の生きている環境のなかの様々な関係性が崩れていく。そういうことを具体的に伝えたうえで、色々な関係が崩れるとどうなるかを子供たちに考えてもらう。

関係の網が切断されるということをコロナ禍でいうと、去年ジョルジョ・アガンベンという哲学者が書いたもの(『私たちはどこにいるのか?』高桑和巳訳、青土社、2021年)が話題になり、批判も浴びていた。アガンベンの文章のなかで、人間は精神的な生の経験と生物学的な生の経験が2つ合わさって分離できない状況であるが、コロナ禍においては生物学的な「剥き出しの生」に縮減され、生活のなかでつながりのあった様々な関係が切れ、孤立していくということが書かれている。

コロナで亡くなった人が葬儀されずに燃やされてしまうように、どんどん関係が切断されて「剝き出しの生」の状態になっていく。こういったことが阪神・淡路大震災の被災者にも大いにあった。被災者が「剝き出しの生」に向き合う状態になると、例えば仮設住宅で孤独死を迎えるということが起こる。あるいは逆に関係性を再構築して生活再建していく人がいる。

またその関係性の再構築という部分で見れば、「災害ユートピア」というのも一時的なつながりの発生という風に考えられる。二葉小学校が避難所になったときも、一時的なつながりができて、災害ユートピア的な場面があったようだ。二葉小学校の先生がまとめた記録集(神戸市立二葉小学校『震災3年の記録 やさしさわすれないで』、1998年)に次のような記録があった。

1月21日(5日目)23時。
トイレ用水、運搬順調に進む。何十人もの方で陽気なバケツリレー。避難者の団結を高めるきっかけとして、大きな役割を果たす。

トイレ用の水は、二葉小学校では長田港から海水を運んできていた。

こういう風に一時的にせよ、何らかのつながりが発生していたということが分かる。こういうことも震災学習のなかで紹介している。そして、震災学習では避難所生活で生じる関係の消失に焦点を当てて、そこから未来の防災、減災を考えるきっかけにしている。

過去の震災の記憶を学ぶ

また、26年前の避難所での生活はこんなものだったとか、災害弱者の人はこうなったということを伝えることによって、震災の記憶を継承し、最終的には疑似体験を通して自分事としての震災の記憶を参加者自身がつくるというかたちにしている。

ところで、震災学習には「学習」とついているように教育的な側面があるが、その点はレフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキーというロシアの心理学者の考え方を参考にしている。ヴィゴツキーによると、「生徒が自らを教育する」、「教師の役割は教育的な社会環境の組織者」であるという。ヴィゴツキーの有名な概念で、「最近接発達領域」がある。これは、子供たちの発達に段階があり、その伸びしろ分を「最近接発達領域」といい、そこを他者が支援して伸ばしていくという考え方である。

ふたば学舎での震災学習ではその考えをどのように取り入れているかというと、参加する子供たちにはどういう他者になるかを自分たちで決めてもらう。その時に子供は自分で考える「内なる他者」みたいなもの、つまり「他者性を欠いた他者」を設定することが多い。それは自分の理解範囲のなかの他者を自分の外にいる他者と捉えているためであり、教える側としては阪神・淡路大震災ではこんな人がいたと具体的な他者、自分の思い通りにならない他者の行動と心理をできるだけ教えるということをしている。こうした部分がヴィゴツキーのいう「最近接発達領域」ではないかと考えている。

ここで、参加した中学生の感想を紹介したい。

・ 震災が来たらその時に考えればいいと思っていたので、とても考えが変わる体験だったなと思いました。
・ 避難所体験では実際に体験して問題点などが分かり、語り部さんの話では体験したことを聞き、様子や食料の少なさがとても伝わってきました。
・ すごくこの体験は役立つし、全然興味がなかったけど、この体験学習で興味がわいてきて、これから気を付けないといけないと思った。
・ カレーがおいしかった。

また、思いがけない感想をもらったことがある。旅行会社の添乗員の方で熊本地震の3年くらいまえに震災体験学習に添乗して来られており、熊本地震の際にはボランティアに行かれた。そのときにここでの震災体験学習が役立ったとおっしゃっていた。

・避難所になった学校にボランティアに行くと指揮を執る人がおらず、マニュアルもなく、ガムテープなどの資材を渡されただけだった。何とかしようと思いホワイトボードを使って指示事項をまとめる中で、ふたば学舎でこういうことをしたなと思い出した。

思いがけずこういう方にも伝わっていることにとても驚いた。

伝達不可能性と共感の可能性

一方、個々の被災体験にかかわるもので、伝達できないのではないかと思うことがある。個々の被災者の体験というのは、まとめればこうなるみたいに簡単に言えるものではない。情緒が混ざっているので、なかなか難しい。それゆえに「伝達不可能性」みたいなものがあるのではないかと考えられる。

渥美公秀の文章(「阪神・淡路大震災の「記憶」を伝える」『災禍をめぐる記憶と語り』ナカニシヤ出版、2021年)のなかで、阪神・淡路大震災を体験した人の記憶を体験していない人に伝えることについて書かれていた。人はそれぞれ悲しみを経験している。それを経験していない人が、経験している人の悲しみに共感することは難しいが、自分が持っている悲しみをもとにして「共感の不可能性」に共感できるのではないか。そういうことを通して阪神・淡路大震災の「<かなしさ>を守る」という。

これは最近だと、ブレイディみかこの著作(『他者の靴を履く』、文藝春秋、2021年)に出てくる、「他者に対するエンパシー=共感」というものに絡んでくることかなと思う。単純にかわいそうだねということでない。相手の気持ちを熟慮し共感する。シンパシーでなく「エンパシー」であるということである。

例えば、記憶の伝達による共感が生まれたことによって、阪神・淡路大震災を経験していない人が、震災の記憶を伝えていくという活動がされている。「1.17希望の架け橋」という10代~20代の若いグループが、阪神・淡路大震災を体験した人の記憶を体験していない人に伝えることをやりはじめている。こういう風に若い人が阪神・淡路大震災の記憶を伝えようとしているのを見ると、今後も阪神・淡路大震災の記憶は忘れられず伝えられていくのかなと思う。

記憶をことばにする難しさ

私にとっては、自身の体験の伝達が難しいことがある。

私は阪神・淡路大震災のときに神戸市須磨区で地震に遭い、家が全壊し1階で寝ていた母が亡くなった。その後、色々なところを転々とした。もともと住んでいたところからかなり離れた仮設住宅に父と入ったが、地震から約1年後に父が母を追うように亡くなってしまった。ふたば学舎のある新長田に関する震災前の父との記憶は、幼少時に大正筋商店街にあった映画館でドリフの映画を見たり、帽子屋さんで野球帽を買ってもらったり、会話もしないで父の自転車の後ろに乗ってぶらぶらしたというものだ。父は無口な人だったため、震災前も後も会話などことばのやりとりがほぼないまま、亡くなってしまった。
このような自分自身の体験をどういう風にことばにできるのか考えたときに、何を言っても崩れてしまうということがあった。

震災後に読んだホフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」には「わたしの症状といえば、つまりこうなのです。なにかを別のものと関連づけて考えたり話したりする能力がまったくなくなってしまったのです」という「ゲシュタルト崩壊」のようなことが書かれていた。「ゲシュタルト崩壊」とは次の中島敦のことばのようなことだ。

一つの文字を長く見詰めている中に、いつしか文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。そういった形が崩れてくる。
(中島敦「文字禍」『山月記・李陵 他9篇』岩波文庫、2012年)

自分自身の震災の記憶に対することばの使いかたに関しても、同じような感じがある。いまでも生きている現実味がないところがあって、なんでこうなっているのかなということがよくある。そういったことから、震災の記憶を伝えるというのは難しいし、できないのではないかと思っている。

先の二作品に言及する古田徹也の本では

およそ何事かを経験し、またそれを振り返り、他者に伝える際に、人は言葉を用いないことができない。言語は自己とその外部をつなぐ不可欠の媒体(メディア)であり、ものを考え、それを伝えるために欠かせない手段(メディア)である。しかし、その肝心の言語が本質的に不完全なものでしかない。言葉は本来、線や音の集合に過ぎない。
(『言葉の塊の哲学』講談社選書メチエ、2018年)

と書かれている。ことばの不完全性についてなるほどと実感する。

他の哲学者で言うと、確か井上忠がことばには「繭化作用」、すなわち厳しい現実から守る繭の役目があると語っている。震災の記憶を表象するときに、ことばの繭化作用が働かずに、崩れていくということが個人的にある。きっと他にも被災した方で、家族が亡くなったり、家が全部なくなったり、あるいは大変な障がいを負ったりしたことによって、震災の記憶を上手く外に表すことが難しい方が多くいるのではないかと思っている。

さらに古田の著書には、ウィトゲンシュタインによる「ゲシュタルト構築」について触れられている。その構築において、「しっくりこないという感覚を介して、文字のアスペクト(相貌、表情)の変化へ」導かれる。しっくりとこないがゆえに、しっくりくる言葉を探すとか、違うもの、置き換えられるものを探していくということを通して、「ゲシュタルト崩壊」を逆に構築していくということだ。ただし、決まりきった常套句みたいなものを使っていくと、逆に記憶というものは忘れられる。そういうことから「言葉を選び取る責任」が生じるというのだ。

異化してみる

「ゲシュタルト崩壊」に対して私自身は、記憶を「異化」する、違うものにしてみるのはどうだろうかと考えたことがある。「異化」というのは、ことばのあり様を異なるものに化けさせるということである。

実際に2014年にふたば学舎で「被災の語り歌」を企画した。震災の記億を「異化」しようという試みで、阪神・淡路大震災の時に色々な歌をつくった人がいるのではないかと募集してみた。というのも私自身、震災の2年後に曲をつくったことがあったからだ。歌募集で集まった7つの曲をシンガーソングライターの石田裕之さんに演奏してもらい、2015年にCD『被災の語り歌』をつくった。うち5曲は石田さんに歌ってもらって、他の2曲は、英語でやると記憶の異なった側面が見えてくるのではないかと思い、被災者の短い言葉を英語に訳しての朗読になっている。それら2曲では、ふたば学舎で英会話教室をしていたアメリカ人の先生に朗読してもらい、バック演奏を石田さんにしてもらっている。

『被災の語り歌』はいくつかコンサートをして色んな人に聞いてもらい、CDを購入してもらった。売り上げは全額東日本大震災の寄付にした。

https://www.youtube.com/embed/t_kHVZewBzU?feature=oembed
震災アーカイブ=「被災の語り歌」 I Call Your Name -1995.1.17-

なぜ伝達し続けるのか

さらに、伝達ができなかったとしても、なぜ記憶を伝えるのかということを戦争体験の伝承を参考に考えたい。小松左京の「戦争はなかった」という短編(東浩紀編『小松左京セレクション1』角川文庫、2016年に収録)がある。太平洋戦争のときに中学生だった「彼」が、お酒を飲んでいるところで仲間に戦争のことを言っても通じず、どうなっているのだろうかという短編である。

「彼」は次のように言う。「現在の日常に変化がなければ過去の戦争の有無はどうでもいい」、ただそうだとしても「たとえ表面的にはまったく同じ「現在」が出現していたとしても、その世界はどこか根本的に、重要なものを欠落させているのではないか?」。

同じように、「阪神・淡路大震災の記憶がなかったらどうなるのか」とか、「記憶からなくなってもいいのか」と、私自身考えさせられるのだが、過去がないといまの重要な部分が抜けてしまうと思う。

安田武の『戦争体験―一九七〇年への遺書』(ちくま学芸文庫、2021年)には興味深いことが書かれている。安田は「戦争体験ということはほとんど絶望的である」とか「聞きたくなければ聞かなくてもいいのではないか」と考えはするが、それでも「戦争体験にこだわらなければいけない」と言うのだ。なぜかというと彼自身が、昭和20年8月15日から3日間続く戦闘のなかで、自分ではなく後ろにいたBがソ連軍に狙撃され戦死、あるいは神戸第三中学校時代の友人が消息不明という個人的な体験をしていて、戦争体験に固執せざるをえなくなっていたからである。

何故、伝達不可能かも知れぬ地点、まったく有効でないかも知れぬ方法を持って、はじめてはいけないのだろうか。そもそも、伝達が不能ではないかと断念せざるをえないような体験、存在自体が無効かも知れないと絶望せざるをえないような体験、−−〈挫折〉があった筈である。

伝達不可能にもかかわらず、その地点からはじめよということだろうか。それがなぜできるのか。やはり記憶の継承行為へのこだわりがあるからではないだろうか。

そうしたことを考えているなかで、昔読んだ大澤真幸の「もうひとつの〈自由〉―思考のヒント―」(有坂誠人編『MD現代文小論文』朝日出版社、1998年に収録)を再読した。そこでは、阪神・淡路大震災の「偶有性」、すなわち、あったかもしれないし、なかったかもしれないということについて述べられていえる。例えば阪神・淡路大震災のときは、すぐ隣にいた家族が亡くなるという体験をした人、タンスが真横ではなく真上に倒れていたら亡くなっていた人、それはすなわち、死ななかったけれど、自分が死んでいたかもしれないという経験をした人が多くいた。私自身もそうだった。そうした経験におけるどちらに転ぶかわからない様を「偶有性」ととらえて、震災の極限的な状態は「偶有性」を示すというのだ。そういった極限状態の経験が、表象不可能だとしてもその偶有性ゆえにか、震災についてなにか伝えないといけないと思うきっかけになっているのではないかとも考えられる。

震災の記憶、特に個々の被災の記憶を伝達することは難しい。不可能なことかもしれない。それでも伝達しようと思ったら、冒頭のアレントの引用にあるように、何らかのかたちで外に出さない限り消え去っていくだろう。言葉がなかなか見つからなくても、震災の記憶にこだわってしっくりくる言葉が出てくるのを待ち、なんとか記憶を伝えるということが被災者の責任というものになるのかもしれない。

ディスカッション:
ゲシュタルトの再構築とは

宮本:「ゲシュタルト」というのがひとつのキーワードなのかなと思います。「ゲシュタルト」というのは色んな分野で色んな意味で使われていますが、いくつかのものをひとつのまとまりとして全体として認識する力とか、あるいはその部分の集まりに大枠として意味を与えるみたいな意味で使うと思います。でもそういうイメージだけじゃなくて、実は「ゲシュタルト化」するということは「物語にする」ということとも言い換えることができる。いくつかの出来事をひとまとまりの物語にして語るということです。

例えばコロナ禍になって最初は人と会えずに寂しかったけれども、家族との時間が増えて家族と過ごす時間の意味を見直しました。これはひとつの出来事で、家族との時間を見直したという大枠の意味付けのなかで、それまでの出来事が意味づけられていくわけですよね。

もっと言うと実は私というのもひとつの「ゲシュタルト」として構成されている。それが山住さんのお話にあったように、災害みたいな突然の悲劇によっていままでの日常が断ち切られる。人とモノの関係の網が断ち切られると、自分自身のこれまでの人生や、私というものに意味づけを与える大きな枠組みの「ゲシュタルト」が失われて、非常に不安定になってしまう。そこからどうやって「ゲシュタルト」を再構築できるかというのが、山住さんの最後のお話だったのかなと思います。

また、「偶有性」ということばを山住さんが紹介してくださいました。「可能ではあるけど必然ではない」と説明したりもします。災害に遭ったときには、他でもない私がこんな目に合わないといけないのかという思いをみんなするわけですよね。そんなつらい経験をするというときに、そこにはなんの必然性もないわけです。

大澤真幸さんが「偶有性」ということばを神戸の経験から引き出されたときに、彼が何を言いたいかというと、「ゲシュタルトが失われる」とか、「偶有的な経験をする」というのは辛いことなのだが、しかしそこにも見出すべき点があるということです。

亡くなっていたのは自分だったかもしれないという偶有的な状況に置かれている人は、自分というモノの「アイデンティティ」や自分という「モノの範囲」があいまいになっている。これは見方を変えるとエンパシーのような、まさに自分以外の人の感覚に否応なく引き寄せられるようなところが人間にはあるのだということです。

普段は人間が色んな人の身になったり、共感したり、それを通じて連帯をしたり、協力しあったりということが難しいようにみられる。だけど実は、震災のような極限の状態に置かれた人たちがどのようになるかということを見れば、人間というのがそもそも、共感してしまったり、「サバイバーズギルト」のように罪の意識を感じたりと、引き受ける必要のないことにまで責任を感じられるくらい、非常に他者に共感する力があるのだと理解できる。これが大澤さんの「偶有性」という言葉で見出されていることです。

これを踏まえると、ゲシュタルトが失われた状態からゲシュタルトを再構築するというときに、その再構築されたゲシュタルトというのは場合によっては、少し違っている可能性があり、そこがすごく大事なんじゃないかというのが、大澤さんの言いたいことなのかなと思う。

実際に他者に共感してしまうようなことを震災学習として記録し、伝承するということのなかでどうやってできるだろうかというのが、今日山住さんから伺ったお話のなかで、すごく大事なところなのかなと思いました。山住さんいかがでしょうか?

山住:「ゲシュタルト崩壊」や「自己の同一性が崩れる」というときに、それでも被災者にとっては震災というものにこだわらざるをえないというところがあると思います。

アレントは『人間の条件』で、人間の生活を「労働」、「仕事」、「活動」で分けています。特にアレントが強調しているのは、「活動と言語による社会との関係」です。そのために、言語を使って外に出さないといけない。そうしない限り、自分が持っている記憶が消えていく。例えば自分自身しか持っていないような家族の記憶に関しても、何か言葉や映像として外に出さないと、ないものになってしまう。そこには亡くなった人への責任も生じてくるのではないかなと思います。

一方で記憶をうちに飲み込んでしまう、忘却してしまう人たちも沢山いると思うので、そこはどうしたものかなと思ったりします。そういった難しいことに人間の持つ他者に対する共感力が働きかけられるという可能性もあるのではないかと思ったりもします。

宮本:冒頭に結論ということで、ご紹介くださったアレントの言葉はすごく印象的で、一見あの文字だけ読むと僕たちの常識的な感覚とは逆のこと言っていますよね。

僕らの常識的な感覚だと、生のリアルな体験があって、それが印刷されたり、写真になったり映像になると生の体験が目減りして、リアリティが伝えられなくなるのではないかという感覚があると思います。

でもアレントが言っていることはむしろ逆で、「物化されないとリアリティを失う」ということです。彼女はユダヤ系の政治学者で、ホロコーストということを大きな問題としてあるから、なかったことにされるということへの抵抗があって、ああいう言葉を残しているのかなと思います。

伝える側と学ぶ側の変化

佐藤:山住さんは、26年経っても伝えることがまだ残っているということを仰っていましたが、時間が経つなかで伝えかたが変わることもあるのでしょうか?

山住:26年経つと、阪神・淡路大震災を経験した人の記憶も薄くなっていたりするので、その時の記憶を伝えることは年数がたつごとにどんどん難しくなっています。

ただ、新しい災害が起こったときに阪神・淡路大震災と比べて変わってないことが見つかり、それを伝えることができるということがある。具体的には避難所の状態、トイレが汚いとか、そういった「変わっていないこと」を、新しく起きた震災と比べて思い返して伝えたりしています。

語り部の方の語りが年を追うごとに変化している点は、東日本大震災のことや西日本豪雨など、ニュースで防災の知識みたいなものを身に着けて、そのことをお話されるようになってきているというところです。私としては、ご自身の経験されたことを伝えてほしいのですが、そういったことを付け加えたり、色々伝える内容が変わってきているということはあります。

佐藤:それが良いのか悪いのか、語り手の伝える技術が上がってしまうということですね。NPOの活動としては、ふたば学舎という建物全体を運営されていて、震災のことを伝える活動はその一部分ということなのですか?

山住:そうですね。指定管理者として「NPO法人ふたば」が神戸市から委託を受けていて、震災学習事業ともうひとつのメインとしては「人材育成事業」という将来の地域リーダーを育成するというのがあります。あとは、貸館事業ですね。

佐藤:この伝える活動は、山住さんとあと何名かでされているのでしょうか?

山住:私がメインで、実際に震災学習を行うときにはスタッフ何名かに協力してもらっています。スタッフは同じ年代の方々で、ずっと一緒に活動を続けています。また、語り部の方は、20数名登録して頂いています。

宮本:ふたば学舎での取り組みの特徴的なところは、実際に当時避難所になったというところに身を置いて震災体験学習ができるところだと思います。また、語り部の方で当時高校生だった方がふたば学舎でお話してくださるように、自分がいる学校で当時のことを知っている人が語り部としてお話してくれて、当時の写真も見る。そして体験をするという、「その場に身を置く」というところがふたば学舎の取り組みの重要なところだと思います。山住さんからご覧になって、そういう特徴があることで参加している学生の反応や変化はありますか?

山住:この学校自体が避難所になっていたということで、震災遺構みたいなオーラがあるのかもしれない。そのなかで震災学習を子供たちにしてもらうので、「過去にこのようなことがここであった」とか、「26年前はこんなところだった」と驚かれることはあります。かなりリアリティを持って体験してもらえていると思います。

宮本:参加者にとって、すぐには言葉にならない、でもそこに身を置いたことで生じる独特な経験が、「当時はこうだった」というお話にプラスして持ち帰ってらっしゃるのではないかという気がしますよね。

阪神・淡路大震災のときの二葉小学校の様子(提供:神戸市)。

山住:何年か前に岡山の中学生を対象にした震災学習をした後に、ある女子生徒から「自分は西日本豪雨で避難所に行き、実際はこうだった」と言われた。もう一度フラッシュバックさせることはなかったか心配にはなったが、やっぱり自分自身が経験したことと重ねて、リアリティを感じてもらえたというのはうれしかったです。

佐藤:ことばの伝えかただけでなく、伝える環境も大事であることを改めて考えさせられました。伝えかたとして、歌の活動もあったと思いますが、どうして音楽だったのでしょうか?

山住:震災の記憶を身体を通したことばみたいなもので伝えられないかな思っています。

伝達の理想形としては大滝詠一さんの「君は天然色」という曲があります。作詞をした松本隆さんの亡くなった妹さんを追悼するような内容の歌で、冒頭の歌詞に「唇つんととがらせて」とあります。歌ってみると、その通りに唇をつんと、とがらせてしまう。その瞬間に歌っている人は、亡くなった妹さんになる。身体から出されることばを通して亡くなった人になるということを、震災学習でも自分がことばや身体を動かして被災者になるとか模倣してみるということができたら、そして、それをことばでつくれたら理想だなと考えています。

宮本:ことばを通してしか僕たちは経験を記録したり、誰かと共有したりできない。でも、ことばは不完全だというお話もありました。ことばでできることと、ことばでできないことを別々のものとして扱いがちですが、実はそうじゃない。

身体性を介したことばは、ことばにならないものも、ことばにくっついていて、それを上手く生かしてあげれば、文字だけ抽出したときにはできないようなことができるのだろうなと思う。同じ語り部のことばでも、ふたば学舎で聞くのと、別の場所で聞くのと、冊子にして読むのとでは全然違うのでしょうし、そういう風に工夫すればいいのかと気づかされました。

つぶやきを残す

辻(参加者):最初に、人とモノ、関係の網のお話がありました。それと同じように、記憶というモノとか経験というモノも、あの日のあれが美味しかったとか、意外な人が助けてくれたみたいな断片的な記憶と繋がっていると思います。でも、そういった震災すべてを語ることはできない断片的な記憶を総称するものはなく「体験談」という言葉でくくられてしまう。「体験談」という一言だけでは語れないものがあると思います。

例えば、ブレイクアウトルームでのディスカッションで、こんなお話がありました。「身近な人を亡くした。その人がカレーをつくってくれるのが得意な人だったから、震災の後カレーを食べなくなった。自分にとって、震災はカレーだった。でもなぜかは言えない」という経験が、もしかしたら山住さんが紹介してくださった「カレーがおいしかった」という震災学習への参加者のコメントの背景にあったかもしれない、と。

震災の経験というものを、誰かの強烈な体験談によって知るものでなく、もう少し断片的で色んな記憶が集まっていくことで理解していくこと。たどり着かないといけないものというよりは、ことばや記憶が積み重なっていけるものとして受け止めることが出来ればいいのではないかなと思います。もう少し、「人に優しい不完全さ」みたいなものが記憶にも影響されてもいいのかなと感じました。

山住:体験談として、はじまりがあり、上手く終わるというかたちで話すことはなかなか難しいですよね。その一方で、震災のつぶやきみたいなものを集めることをされている団体もあるので、震災の記憶を記録するという方法のひとつとして、つぶやきを集める、Twitterで集めるといったこともあると思います。

宮本:どうしても震災のことを語るということは、色々つらい体験をしたから、それが繰り返されないように、どういう教訓を引き出せるかという面があります。それはそれで重要ですが、教訓みたいな視点で見ると、そこからこぼれるような出来事や断片も沢山ある。

これはゲシュタルトを必ずしも、もう一度構築しなければいけないという話ではない。「しっくりくる言葉がない」という状態のなかで、それでも言葉を探すということはゲシュタルトはやや崩壊したままだけど、それを無理にひとまとまりにしなくてもいいじゃないかという路線なのかと思ったのですが、それは誤解ないですか?

山住:そうですね。必ずしもゲシュタルトを再構築しないといけないわけではないと思います。

一緒に学ぶための工夫

宮本:山住さんからヴィゴツキーの「最近接発達領域」のお話がありました。教える人から学ぶ人へひとまとめのパッケージをどれくらい伝えられているかではなく、関係の網のなかで一緒に学び、伸びしろにアプローチしていくのが学習なのだというのが彼の学習観だと思います。

そういう考えかたを大切にして、参加者の方と一緒に学ぶために、経験者である山住さんがお手伝いして参加型の学習をされているということでしたが、学習のなかで子供たちと具体的にどういうやりとりをされているのでしょうか?

山住:はじめに子供たちに想定を考えてもらうのですが、そこで考えることは自分がこれまで接してきた人など、自分の理解の範囲のなかでの他者理解だと思います。そこに、こちらから阪神・淡路大震災の避難所では「こういう人がいた」とか、子供たちが想像していなかった人のことを伝えて、それを自分の考えの伸びしろに生かしてもらい、他者理解を発展させることをしています。

また「こういう人がいた」と言っても伝えるほうもその人のことを完全に理解しているわけではないので、お互いに想像力を働かして、こういう風に考えていたんじゃないかなとか、子供たちに発表してもらうときにやりとりをするかたちにしています。

佐藤:それはかかわる側も変わっていくということですよね。自分が持っているものを伝達するというよりも、そこからの反応によって自分自身も変わってしまうような。

山住:そうですね。新しい発見はあったりしますね。

佐藤:その発見が時間の経つごとに、変化していくこともありますか?

山住:それはありますね。役割を考えてもらうときに結構多いのは、家族構成が母親一人、子供一人のような母子家庭です。阪神・淡路大震災のときは4人家族がよくある家族構成だったが、違う構成の家族を提示してきたりするので、そこは変化を感じますし、こちらの対応も色々考えて、調整させてもらうということがあります。

あとは子供たちが使っているメディアが変わってきていて、阪神・淡路大震災のときはスマホがなかったので、どういう風に災害時の情報を入手するかというところは変わっていますね。

宮本:災害の経験を伝える活動は、色々な人が色々な場所でされていると思いますが、多くはできるだけ当時あったことを克明にそのままにいかに伝えるか、それが分かってもらえないときにいかに分かってもらうかというような、伝える側の枠組みはあんまり変わらないケースのほうが多いと思います。

ふたば学舎の取り組みは山住さんも一緒に学びながら、お互いの他者性を突き合わせながら変化していくという、本当に特徴的な震災学習館だと思いますね。

経験を思い起こす機会について

小川(事務局):例えば「阪神・淡路大震災追悼式典」のような、公的な物語にはどのような意義があるのでしょうか。大きな物語、モニュメンタルなものと山住さんはどういう風に向かい合っているのかを教えていただければと思います。

山住:追悼行事は、毎年行われることに大きな意義があると思っています。やっぱり阪神・淡路大震災も26年になるので、どんどん忘れられていくだろうし、神戸市内でも震災を経験している人が4割を切っているので、そういう意味でも、何らかの追悼行事は必要だと思います。公的なものなので、ある人は嫌だと思うことはあっても、大きな枠組みのなかで記憶を残すことは大きな意義があるかなと思っています。

宮本:どうしてもああいう公的なものは意味やメッセージを与えてしまいますよね。意味とかメッセージが力になるという人もいるかもしれないし、山住さんが仰った伝達不可能性のように、どうしても自分のなかでしっくりこないような経験がこういう大きな出来事には必ずあると思います。そうすると大きな物語からこぼれていくものがありますよね。

佐藤:公的なモニュメンタルなものによって、社会的に想起することは時間が経つほど必要になってくる。同時に、時間が経つことは、本当はそうじゃないこと、いままで語れなかったことが沢山出てくるタイミングになることでもある。それは大きな枠組みでは、語りづらいことかもしれない。そういう意味で、ひとりひとりの経験を語ることができる場が、時間を経ても、複数あるかも重要だと思います。

宮本:そう思います。災間で毎年のように水害起きる状況になると、例えば7月、8月、9月は無数の何とか水害から何年みたいな日があります。

例えば東日本大震災の時に起きた紀伊半島水害は、「水害から何年」のような報道はローカルメディア以外にはないです。神戸や東北のように非常に大きな災害で、全国ニュースのなかで1年に1回とはいえ社会全体として振り返る機会がある災害と、もはや何年経ったという振り返りさえされないような災害を比べると、1年に1回公的な物語が与えられることによって「いやいやそうじゃない」と言える災害と、そういう機会がないばかりに、そうじゃないということもなかなか思い出しにくくなる災害が、これから増えていくのだろうなと思います。ポジティブネガティブ両方ありますが、公的な物語やモニュメンタルな振り返りはあったほうがいいと思います。そしてこれから少なくなっていく可能性が高いので、そういうときにどういう工夫ができるかが大切ですね。

山住:色々な行事で過去の忘れ去られそうな災害の記憶を残すということも重要ですが、他にも色々なメディアがあると思います。

例えば、宮崎駿監督の「風立ちぬ」を見て関東大震災を思い起こすということがあります。映画、音楽といったアートは、災害の記憶を残していくについてはすごく強力なものかなと思っています。

佐藤:確かに、モニュメンタルなタイミングになると、忘れないとか忘れないためにどうすればいいかということが号令のようになるタイミングだと思います。ここで議論しているような作品とかメモリアルな施設のような、思い出すための装置みたいなものが社会に多様にあって、距離が遠くても何か思い出すべきタイミングが沢山生まれてくるというのがきっと望ましいのだろうなと思います。

執筆:氏家里菜

日時:2021年10月9日(土)14:00~17:00
場所:オンライン(Zoom)での実施

何からはじめるのか? どう続けるのか?

災禍の現場に立つには、いったい、どんな態度や技術、方法がありうるのか? 災害復興の現場に多様なかかわりかたをしてきたゲストに話を伺うディスカッションシリーズの第3回は、東日本大震災後に東北へかかわり、記録や表現活動、対話の場づくりをしてきたアーティストの瀬尾夏美さんをゲストにお迎えし、お話を伺いました。
このレポートでは、前半は瀬尾さんのレクチャー(聞き手:佐藤李青)、後半はナビゲーター2人(宮本匠、佐藤)を交えた議論をまとめました。

ゲストレクチャー:
語りを記録すること(瀬尾夏美)

震災後に東北へボランティアに行き、陸前高田という場所に出会い、まちの語りをなんとか記録したいと考えはじめ、いまは東北に移住し活動している。主には「聞き書き」という手法を使い、小説や短い物語を書いたり、絵画を描いたりしている。

映像作家の小森はるかさんとは、小森はるか+瀬尾夏美として、一緒に映像作品や映画をつくっている。展示や作品発表を通して、対話の場をつくる活動もしている。もうひとつが仙台を拠点に、土地やコミュニティと協働しながら記録をつくるというコンセプトを持った「一般社団法人NOOK」という組織でも活動している。

「他者のことばを書く」ということ

私の活動を端的にいうと、「他者のことばを書く」ということ。美大で表現活動を勉強してきたが、私はその表現の技術を使って、いま起きていることを記録しておきたいと思っている。そして記録は、いま起きていることをすぐに結論づけるというよりも、いまを保管し、別の機会や場で考え直したり、未来に災害が起きたときに振り返ったりすることに使う、ある種のマイルストーンとなるような石を置いていく作業だと思っている。

他者のことばを書くために必要なことは、「語ってもらうこと」。体験をした人、体験していないと感じている人、色々な立場の人の語りが表に出てくる。その場をつくることが最初に必要。そこで生まれた語りというものを、いろんな手法で記録をする。

例えば、録音したり、メモを取ったりする。そのメモや録音を使って象(かたど)る。すなわち、かたちをつくっていく。それらを誰かが見たり、読んだりすると、そこからまた語りが生まれる。それは語りの発生する場になる。すなわち記録が語りを生んでくれるということ。そしてその語りをまた記録する。その往復をつくりたいと思っている。「聞いて書く、記録する。記録が記録を呼び起こす」。このぐるぐるをつくっているイメージ。

まず話を聞く。その状況をメモに取ったり、録音したり、映像に撮る。そこから物語を書き起こす。あるいは小森さんと一緒に、映像作品としてかたちをつくる。あるいは映像、テキスト、それに付随した絵画などで構成した展覧会という場に展開する。その展覧会という場を使って、参加者に対話をしてもらう。その対話をまた記録する。という段階を踏むのが、基本的なパターンとなっている。

語りの場は「実際にこれってどういう状況だったんですか」と声をかけたり、あるいは「このテーマで話をしましょう」とまちづくりのワークショップを行ったり、あるいはひとつのテキストを一緒に読み込んで、読書会や朗読会を行ったり、あるいは答えのないような対話の場をつくる「てつがくカフェ」という手法をやったりもする。

そして語りの場で聞いた話をもとに作品をつくる。その作品を展開して場をつくる。そのあとにさらにその場を使って、みんなで顔を突き合わせて話したり、アンケートを取ったりと、何かしらの方法で声を置いていける場をつくっている。

はじめの語りの場

2011年3月11日の震災が私にとって大きな転機だった。当時東京にいたが、地震ですごく揺れた。私は大学院に進学するタイミングでわりと暇だったために、目の前で起きることに、強く反応できたんだと思う。テレビをつければ、リアルタイムで津波の映像が流れてくる。また、放射能の被害のこと、あるいは避難所で困っている人がいることや、死者数が積み重なっている情報が、ただそこにいるだけで流れ込んでくる。当時はみんながSNSをはじめる時期で「私はサラリーマンだから、ここでできることをします」と宣言して日常に戻ったり、「学生は学生なりにこうするんだ」とか、いろんな風に自分の立場を獲得し、表明していく時間があったと思う。

一方で私は、何をしたらいいかわからなくて、絵を描いてみるものの上手くいかない。というか、いつもと同じ絵を描いているのは何か違うな、と思った。そこで私は、まずは現場を見たいと思い、小森さんと一緒にボランティアに向かった。

私はボランティアしようとスコップを持ってもぜんぜん役に立たなかった。そうしたときに、所在なさげにしている人は、外から来た人間だけじゃないと気がついた。被災した人でも何をしたらいいんだろうと佇んでいる人が居たり、何かしたいんだけど、自分にはなかなかできることがないという感じのおじいさんやおばあさんがいて、よく目が合った。そういう人たちに、「あんた遠くから来たのに何してるんだ」と声をかけられて、「ここでこういうことが起きたんだよ、自分はこうだったんだよ」と話を聞かせてもらえた。

「語り」は「場」をつくってくれる。私はできることがないと思い、ただ立っているんだけど、人が2人いて話をはじめれば、どんな状況においても「場」が生まれて、笑いが生まれたり、安心感があったりする。そういう風に何かはじまるんだなというのが原体験だと思う。もちろん、震災後の現場にいるので大変な被災の話なども聞く。聞いてしまうと、「じゃあそれをどうにかしよう」と人は考えてしまうもので、そこから私の活動がはじまっている。

陸前高田での記録

この写真は、岩手県陸前高田で最初に見た風景。いわゆる一本松がある一番大きな市街地のエリアから少し北に行った米崎町という場所を、少し高台から撮った写真で、ここから海に向かって、田んぼと家がいくつもあったそうだ。それらがなくなり、田んぼのところにたくさんの被災物が転がっていて、行方不明の方もいるような場所だった。

そこで私が出会ったのが、Kさんというおばあさんだった。彼女は私の元バイト先の友達の、遠い親戚の人だった。安否確認をと思い、彼女の家を訪ねたら出てきてくれて、この風景を見ながら沢山の話をしてくれた。それを聞いているうちに、なんでこんな話してくれるんだろうと疑問に思った。旅の人が来たから、放っておくのも申し訳ないと気を遣って話してくれていたのかもしれない。一方で、誰かに話したくてしょうがなかったのかもしれない。

当時おばちゃんが話してくれたことを書き起こしたものがある。

【前半部分】
――私は友達をなぐしてしまったの。でも津波の後はね、涙も何にも出なぐなってしまった。それでもこのごろやっと落ち着いたら、あーって悲しみが出てくんの。して、なんで私が生き残っちゃったのかなぁって思うの。――

というように、前半は自分の悲しみと、そこでいなくなってしまった友人のことを語っている。

【後半部分】
――うちはこうしてね、水も出るし電気も出るから、みなさんにかえって申し訳ないくらいなの。して、私もほら、内陸に親戚があるから、食べ物でもなんでも送ってきてくれるでしょ。そのうえこの辺の物資ももらうから、本当にね、申し訳ないくらいなの。――

後半部分は自分のことを語りながらも、自分よりも大変な立場の人のことを伝えようとしている。「申し訳ない」という言葉を借りて、その先にもっともっと痛ましい立場にいる人のことをなんとか語ろうとしているようにもとれると思った。

「当事者」と「非当事者」のつながり

「当事者」「非当事者」という言葉が、この10年ですごく強調されるようになってきた。震災当時は「よそ者が行って何ができるんだ」という問いかけがあった。東京にいた東京の人間からすれば、陸前高田の人はみんな「当事者」に見えていたけれど、このおばちゃんからすれば、陸前高田に住んでいて津波を見たんだけど、自分は死んでもいないし、家族を亡くしてもいないし、お家も残っているという状況で、もっともっと大変な人がいるから、自分には語る資格はない、というような感覚も持っていたのかもしれない。でも、おばちゃんが語らなければ、私たちはもっと大変な立場の人にアクセスすることはできない。

「当事者性」はグラデーションでつながっている。おばあちゃんは「当事者性」の濃い人たちに配慮しながら、その存在をなんとか語ろうとしていたのだと思う。

つまり、「当事者性」の一番濃いところにいる死者は何も語れない。その次の段階にいる人が語ればよいのかもしれないけれど、たとえば死者を直接見た人はつらくて語れないということもあるだろう。だから、違うポジションにいたり、語れる人が、濃い色の場所にいる人たちのことを語っていくしかない。そういう連鎖がないと、「語れない人の存在」はなくなってしまう。

私はそのとき、断片的にでも聞いたのなら私も語ってみようと思った。「あんた帰るんだったら、みんなに教えてあげてね」という最後の一言で「あ、じゃあそうしよう」と素直に思った。

「旅の人」としてつなぐ

「現地」という場所があり、「体験をした人」がいて、それとは別に「体験してないと思い込んでいる人」、あるいは「遠い場所にいる人」がいて、私は、両者の話を聞き、その間をつないでいくような「旅の人」として動いていきたいと思った。

最初は「こういうことがあったみたいですよ。それを聞いてきました」という報告会のかたちだった。でも、震災から半年以上が経ってくると、「もうある程度知っています」、「悲嘆に暮れている被災者の姿は毎日見ています」という風に私や小森さんが伝えようとしていることが、ある意味で凡庸なもののようになってしまい、「伝わっていかないな」という感じになっていった。いま思えば、たった半年しか経っていないんだけど。そのくらいの早さで被災地域外の人は生活を取り戻していくのだと思う。

一方で陸前高田での震災から半年は、仮設住宅に入ったばかりで、被災の体験は日常的に思い出すような状況。私は何とかしてその現場の「本当の感じ」を伝えられないかと思っていた。例えば、Kさんのお話を何度も聞いていくと、5月には「津波が来ても花は咲くから偉いよね」と嬉しそうに報告してくれた。行方不明者もまだ集落にいるような状況だったが、同時に「花が咲いたことに喜びを感じたり、風景が変わっていくことに気付いていたりするその感じ」が、すごく大事だと思った。

その「本当の感じ」を何とかして伝えたいと思ったし、記録に残したいと思った。でも被災地域でこういう感覚があることを、離れた土地の人に伝えても、その人たちは、いまはそれを聞くタイミングではなかったりする。そういうズレは、必ずある。そうした人たちが災害にあって、「これを聞きたいな」とか、「あの人たちはどうやって生活を立ち直したんだろう」と思ったときに参照してもらえるように記録を残したいと思った。「時差」を感じたときに、記録という手法を考えた。タイムラグのない報告会だけじゃなくて、記録をしておいて、いつか誰かが聞いてくれればいいと時間が経つにつれて思うようになった。

まちの人々の暮らしを知る

2012年から私と小森さんは陸前高田に移住し、私は地元の写真館のスタッフになった。この写真館はプレハブの仮設で再開し、津波に遭いご家族を亡くされたために、新しいスタッフを探していた。小森さんはお蕎麦屋さんで働いていた。陸前高田で暮らしながら、そこで起きていることを記録する。いつかはそれを絵に描くんだという気持ちで、生活を移した。

岩手県陸前高田市の風景(2012年)。

当時の陸前高田の写真。草が生えているところはまちだった。家々がすべて流されてなくなってしまっていた。最初この風景を眺めたとき、とても怖い風景に見えた。こんなに広く流されて、行方不明の方もいて、思わず「すごく大変な場所だな」、「どうやってここに居たらいいんだろう」と思っていたが、通っているうちに「あ、ここってとてもきれいな土地だな」と思うようになった。震災に遭って、ある種の野生の風景がここにあるからこそ、美しいと思うのかもしれない。ずっと昔、ここに暮らそうと思っていた人たちが頼りにしていたのはこの自然の風景かもしれない。そう思ったときに、これをきれいだと思う感覚は覚えていたいなと思った。

もちろん、津波に遭ったばかりで、まちの人たちからすれば悲しい風景かもしれないから、無邪気にうつくしいと口にすることはできないけれど。いつかこのうつくしいものを絵にして、まちの人たちと一緒に、確かにここにうつくしいものがあった、あなたたちがつくった素晴らしいまちがあったのだということを共有できたらいいなと思っていた。

そのためにはまず、そこに暮らす人たちの生活感覚、風景との交わりかたをよく知ろうとした。そうじゃないと話は聞かせてもらえないなと思っていた。最初は道路跡を何度も歩いた。歩いていると、いつか聞いた話が体感的に理解できる瞬間がある。駅から小学校まで15分だったと、その15分の間にこの家とこの家の人たちがいたとしたら、ここのおばあちゃんはこうやって話しかけてくれたんじゃないかな、とかそういう想像をする。あるいは手向けの花が変わっていく頻度で、ここの人はこの場所に積極的に来て弔いをしているんだということが分かる。立ち止まってスケッチをすることで、その風景の細部を、じっと見る時間を持つ。あるいは、散歩で出会う人たちに聞いた話や自分自身が感じたことを、Twitterに書く。

当時、東京とか外の土地との乖離はあったと思う。いろいろな離れた場所で行われている、震災にかかわる活動や、そこから派生した問題にアクションする人たちの姿、例えば社会の歪みを是正しようとするさまざまな運動などについては、SNSや報道を通して知っていた。それもある一方で、現場で暮らしている人たちの語りも、タイムライン上に置いておきたい気持ちもあって、SNSをしていた気がする。運動は非常に重要だけれど、それだけだと置いていかれてしまうものがあると感じていたので「ここではやっと弔いがはじまったばかりです」とか、「ここで土盛りの工事がはじまるとこういう感覚があるみたいです」とか、そういうことを書いておきたいと思っていた。

SNSはまちの人たちも見るプラットフォームなので、どうやってことばを書いていくかはすごく気を遣っていた。抽象化をして、個人は特定されないように、でも会話で聞いた芯のところは残せる落としどころを考えてツイートしていた。

森の前の花畑から

表現というと「自己表現」みたいな言葉が美大ではすごく強くあった気がする。私はそれ自体にピンとは来ていなかった。でも、自分たちが教育のなかで培ってきた表現の技術を生かすようなことはできないかなと考えていた。

そんなとき、森の前という山際の集落で花畑に出会う。おばちゃんたちが集まり花を植えていて、それはまるで風景をつくり直していく作業のようだった。おばちゃんたちは「ここではたくさんの人が亡くなったから、最初はそれぞれ花を手向けていたんだけどね、亡くなった人みんなを弔うために、ここを花畑にしましょうとみんなで話し合ったの。やっていくうちにどんどん広がって、こうやって花を植えていると、あなたみたいな旅人も来るでしょう。津波によって立場がバラバラになってしまって、会いづらくなってしまった人も、花が咲いていれば集まりやすい。そして、こうしてみんなで集っているとね。亡くなった人たちも、いろんな理由でここに来られない人たちも、一緒にいるような気がするの」と話をしていた。

私はこの風景を見たときに「なんてすごい発明だろう」と思った。この花畑は、亡くなった人の存在を、ここにあった営みを、可視化するものでもある。それが弔いという行為から生まれている。これはアート、表現の技術としてすごいものだと思った、これをなんとかして描きたい、書き残したいと思った。

当時は、ものすごくたくさんのマスコミの人たちが来ていた。「聞いて書かれる」ということに、まちの人たちはすごく抵抗感を持っていた。自分の体験を話しても、書きたい記事の括弧に発言が入れられてしまう。あたかもそれが、その人の真意だという風に伝えられてしまうことで、ことばを奪われるという感覚が当時はあったと思う。どうやれば、それらと違う方法で書くことができるのかと悩んだ。2012年のこと。

会話で語られることばは、語り手がなんとかして伝えてみたいなとか、いろんなことを思って、聞き手に伝えていくのだと思う。聞き手は、聞きたいけど聞いたらまずいかなとか思いながら、質問や相槌をして、それでまた違う語りが出てくる。その往復でことばが生まれてくる。会話上のことばは語り手のものであり、聞き手である私が引き出したものでもある。

そう思ったとき、生まれたものを語り手だけに押し付けてしまうのではなく、一緒に紡いだものとして引き受けて書くことはできないかと考えはじめた。そこから、聞いた話を自分の身体で歩き直すように文章にしていくという手法が生まれた。具体的には、一人称で書く、固有名詞を外すことをしている。

花畑のおばちゃんに聞いた話を文章にしたものを例に見てみたい。

長く暮らしていた場所の変わってしまった姿を見ることは、とても辛いことだ。白く輝く家々の基礎は、まるで骨みたいだ。それが剝がれずに、ここに張り付いている

当事者の体験とは

基本的に、体験は共有できないと私は思っている。当事者の身体のなかにある体験は、他の人にはわからない。当人にだって言葉にできないこともあるだろう。だけれども、目の前に他者が現れたとき、身体のなかにあるものが大事だと思うからこそ、あるいはわからないからこそ、話そうとする。会話を通してことばにしていくことで、表現のようなものが生まれる。語り手と「聞き手」、両者がいることで生まれるものだと思う。

会話はその場だけのものだけど、抽象化し、かたちを与えることでその人の身体からゆっくり引きはがされる。ある種のフィクション性を帯びてくる。それ自体は他の場所へも持っていくことができる。

アーティストの仕事として体験の語りをかたちにしていくことは、その人から奪うのではなく、体験者とやりとりをしながら、どこまでをどうやって出していくかを調整していく作業だと思っている。

2014年〜2015年に陸前高田でとても大きな復興工事が行われたことで、また痛みが生まれた。かさ上げ工事によって、まちにかろうじて残っていた道筋が全部引きはがされ、土に埋まっていった。弔いの場所が奪われ、森の前の花畑も消えてしまった。そのときに、まちの人たちと一緒にいまここで抱えている感情をどうやってかたちにしていこうかとつくったのが、『波のした、土のうえ、置き忘れた声を聞きにいく』いう作品だ。

数名の方から私が話を聞き、一度整理してテキストをつくる。そのテキストを本人に渡して、今度は朗読の声を作っていく。ここはいいと思うとか、ここはちょっと違うとか、そういう調整をしたうえで、もう一度朗読をしてもらう。そして、その人の声と映像を重ねていくように作品をつくった。これは体験者と協働するかたち。

そして、巡回展「波のした、土のうえ」をつくり、2018年までに10か所で展覧会を行った。これは陸前高田で起きたことを外の場所へ持っていくというもの。例えば、神戸では阪神・淡路大震災の体験の語りが出てきたり、あるいは「そのときに何もできなかった」という話が出てきたりした。東日本大震災が起きた場所と、別の場所の文脈が重なることで、その土地の声が改めて引き出されるようなことがあったらいいなと思い、活動をしてきた。

巡回展「波のした、土のうえ」 Cyg art gallery(岩手県盛岡市、2014年)。

『二重のまち/交代地のうたを編む』

時間が経つことで、体験者との協働からフェーズが変わってきたと感じ、当事者ではないと強く思っている人たちとの協働を行う、『二重のまち/交代地のうたを編む』というプロジェクトを2018年に行った。陸前高田のかさ上げ地の上に新しいまちが出来て、生活がだいぶ落ち着き、日常的に震災の語りが出てこなくなったとき、逆に震災のときにその場所に居なかった、関西や東京の人、震災当時子供だった人たちが「あのとき何もできなかったから何かがしたい」と声をかけられることが増えた。そこで、旅人として彼らを招き、まちの人たちと協力関係を築いて、「旅人たち」にここで起きたことを伝えてもらった。話を聞いた旅人たちはそれを遠くに伝えようとする。どうやって話を聞けばよいのか、ということから悩んでいったのだけれど、その葛藤も含めて記録しながら、「継承のはじまり」のような場をつくった。それは展覧会・書籍・映画のかたちとなった。

映画『二重のまち/交代地のうたを編む』。

2017年〜2020年くらいまでは当事者と協力しながら、遠くから来た人に伝える活動を行っていた。しかし、去年はコロナで、そういうことができなくなった。10年目という時間はまちの人たちにとっても大事な年で、「まぁ10年だからねぇ」というのは聞かれる言葉だった。「10年って区切りではない」という人も多い。それは中距離くらいの人、特に支援者たちがよく使う言葉だと思うが、まちの人にとって10年は大きかったのではと思っている。いままではまちの人たちは描かれることが多かった。そうではなく、10年の感覚に本人たちが向き合い、手記を書くということを一緒にした。

同時進行でArt Support Tohoku-Tokyoのなかで、被災地域から遠かったり自分は当事者ではないと思っているが、あのとき感じたことがあるという「距離を感じている人たち」の声を集めるために「10年目の手記」を全国から集めることも行った。

震災のときに、小学5〜6年生だった人たちによく声をかけられることがある。「あのとき何もできなかったけど、お父さんお母さんがこうだったから僕はこれができなかった」とか、「あのときすごく気を遣っていたんだ」とかぽつぽつ話してくれる人が現れた。個人差はあるが、もっと小さいと「当時子供だったのでわかりません」という距離感になったり、もっと年を取っていると思春期に入るし、学校などの環境的にも忙しかったりする。小学5〜6年生くらいの体験者が、ずっと震災のことに取り組み続けるのは結構ある現象なのかなと見立てをしていて、その年代の人たちの語りを聞く活動を去年はずっとしていた(「こどもだったわたしは」)。

いま仙台で行っているのは、すべての年代の人に11歳当時の語りを聞いていくことだ。東日本大震災は大きな出来事だが、年代によって影響を受けるトピックが存在することも感じてきた。そこから、「11歳だったときに気になったことはなんですか?」という問いを、すべての年代の人に聞くことによって、庶民の生活史を編み直せないかとプロジェクトを行っている(せんだいメディアテーク開館20周年展「ナラティブの修復」にて発表)。

丸森町の山つなみ

並行して、宮城県の丸森町で家を借りて、そこで暮らしながら語りを聞いている。そこからつくった作品のタイトルは『山つなみ、雨間の語らい』とした(「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol. 18」展/東京都写真美術館にて発表)。丸森町は一昨年、巨大な台風による土砂災害によって集落が被災し、いくつかの集落がなくなった。私は2015年から丸森町に通っていて、お話をうかがっていたおじいさんの集落が全部土に埋まってしまった。「沿岸と同じことになってしまったべ」と電話かけてきてくれて会いに行った。彼が「すべて失ってしまった」と話をしながら、「実はこの丸森町では高度経済成長からずっと山の仕事が衰退していて、山の保水力が落ちていた。さらに、沿岸の護岸工事のために丸森町の岩を採掘していた。それの影響もあって自分の集落は土に埋まったんだと思うよ」という語りがあった。

私はずっと陸前高田で東日本大震災の被災をした人たちの話を聞いてきたが、その先に連動するように別の災害が起きていることを知った。地球規模で環境の変化もあり、それがどんどん起きやすくなっている。丸森町ではソーラーパネルの設置工事もしていて、つまり伊豆山で起きたようなことが、ここでも起きる可能性も感じる。

東日本大震災のときは巨大なかさ上げをしてでも、ふるさとに戻ることが美しい物語として語られてきた。一方で、こういう小さな集落ではお金がかかることが主な理由で、ある程度片づけをして終わりにし、集団移転をすることが、被災後2週間くらいで決まっていた。

いまも丸森町は土砂災害のリスクが高い。だけど、ここで暮らしている。大きな川があるから、もともと、そういう災害のリスクはあるまちなんだという話もある。丸森で起きていること、聞いた語りや資料を読み込みながら、あらためて東日本大震災を見つめている感覚がある。

コロナ禍での記録

東日本大震災から10年で震災のことを良くも悪くもみんながやるのかなと思っていたら、コロナで、それどころではなくなったというのが去年の感覚だった。コロナという大きな災害が世界中で同時に起きて、どうしようかと思ったとき、私は記録をするしか能が無いので記録をしはじめた。ものすごい情報が入り乱れていて、そこにいる私たちの気持ちもすごく揺れていた。だからその状況をSNSに書くのは難しいと感じていた。文字で表現することが、SNSというプラットフォームが変化し、安全にできないし、ちょっと違うかなと当時思っていた。

そこではじめたのがラジオという形態だ。小森さんと、毎週水曜と土曜に2時間、いまの感覚をシェアする場として、ラジオを配信した(小森瀬尾ラジオ)。リスナーのコメントを読みあげたり、いま必要な言葉として詩を読んだりしてきた。そうした取り組みは変容しつつも、続けている。

一方で『コロなか天使日記』というかたちで、「コロナ禍を一緒に生きているんだけど、人のことを考えたりするのが好きな天使」というキャラクターを介すことによって、SNS上でコロナ禍の考えを記録する試みもしていた。去年はずっとオンライン上で記録をしてきた。

コロナ以前に「東京スーダラ2019」という、東京在住のリサーチャーと一緒に「震災後オリンピック前」を記録するリサーチプロジェクトをしていた。そこで出会った3人のリサーチャーと組んでコロナ禍のいまの感じを記録していこうと、彼らの声を通して展覧会の場をつくり、観客の声を拾っていくことができないかと思った。

そこでつくったのが、金沢21世紀美術館での『みえる世界がちいさくなった』という展示だ(特別展「日常のあわい」)。それぞれのコロナ禍の暮らしを振り返るための「コロなかワークシート」を3人それぞれ書いてもらい、そこから「自分はこういうことがあったよ」と話をしている映像作品をつくった。展覧会場では、彼らの対話の様子を映像ブースで見ることができたり、『コロなか天使日記』や年表があったりする。それらを見たうえで、観客の皆さんはワークシートを書いたり、対話をしたり、考えごとをしたりすることができる場づくりをした。

コロなかワークシート。

コロなかワークシートを展覧会場に置いたら、ものすごい量が集まった。コロナ禍で自分のことを振り返ったり、それをシェアしたりする場を求めている人がいることを展示で実感した。コロナ禍のことは、人と気軽に話すことが難しい。世間話でも、どこまで踏み込んでいいかわからないことがある。でも、それは世間話でするから難しいとも思っている。体験が大きいほど話したいことはたくさん生まれるし、話したことによって癒しにもなるかもしれない。こういう場を通して、表現をし、記録にも残ることは、そんなに悪いことではないのではないかと思っている。だから、もちろん辛いことは話さなくていいし聞かなくてもいいと思うけれど、話す時間を持つことで、どの感覚にも気づきがあるというのがいま私の感じていることである。

コロなかワークシートの記録

金沢21世紀美術館の「コロなか対話の広場」ではワークシートをその場所で書いてもらった。ほとんどの人が書いてすっきりして記入したワークシートを置いていった。別の場所には図書資料室をつくってワークシートをみんなが閲覧できるようにした。閲覧ブースの横には『コロなか文庫』をつくって、本を読めるようにもした。他者のコロナ禍の感覚を知りながら、ゆっくり過ごす場を展覧会場に併設するかたちで設えた。

年表も展示した。コロナ禍が最初に報道がされた2019年12月31日から現在までの「毎日年表」というものだ。毎日の出来事をネット上の情報からつくった年表なのだが、そこに自分にとって大事だった出来事を付箋で追加していくようにした。付箋には、彼氏と付き合った日があれば、自分の家族が亡くなった日もある。公共の空間に付箋を貼ることで、忘れてほしくないことを表現する場所としても機能していた。匿名なので書きやすかったのかとも思う。

ワークシートは展覧会以外でも使っている。例えば、障がいのある人たちとのワークをエイブル・アート・ジャパンさんと一緒に行った。障がいの当事者やケアラーの人たちが10数名いた。ワークシートにふりがなをふったり、項目を書きやすく調整し、みんなに書いてもらって、お互いに話を聞くことをした。意外とケアラーの人たちのほうが、障がいのある人たちに話を聞いてもらえて安心したとか、お母さん同士で情報交換できたのがよかったという声があった。

ワークシートで話をしたうえで、コロなか天使のふきだしにセリフを書いてもらうことをした。対話の時間で話したことをそのまま共有するのは、クローズドでやらないと難しい。だから自分だけでなく他者の気持ちを知ったうえで、コロなか天使が何を言うのかという設定を使って、詩を書いたり、天使に色を塗ってもらったりした。障がいのある人もそうでない人も一緒に、この詩を朗読して共有した。この場もよかった。

また、せんだいメディアテークとギャラリーターンラウンドと一般社団法人NOOKの三者で、オンライン番組「インタビューズーズー」をはじめた。これは街頭インタビューで「コロなかワークシート」を書いてもらい、それをもとに話をうかがい、番組で解説をしながら内容を共有することを行っている。ワークシートは簡易版として、生活の変化のグラフと来年の願いを一言で書けるものにした。

ディスカッション:
コロなかワークシートの役割

佐藤:今日はディスカッション参加者のみなさんとコロなかワークシートをやってみましたが、その感想として「思い出すことが難しかった」というものがありました。展示のときには作品があったり、年表があったりと思い出すきっかけが用意されていますよね。

瀬尾:そうです。あとは人のワークシートを見ていると思い出すということもあると思います。自分のSNSを振り返りながら書く人も結構います。私も一回書いてみたけど、何にも覚えてなかったです(笑)

佐藤:ワークシートの使いかたは、その場によって違うと思うのですが、それぞれが書いたものを互いに共有した後に、コロなか天使のふきだしのように、何らかのかたちにする作業は毎回入れているんですか?

瀬尾:話して終わりのときもあります。ワークシートを使って互いに話したことは共有しないという前提をつくることが大事だと思っています。ワークシートは「知らない人が見る」という設定で使うのですが、グループワークではオンラインであっても、その場で顔が見える人同士の信頼関係を構築するため、話したことは外に出ませんということを担保するのは決めています。

佐藤:このワークシートは、どうつくったのですか?

瀬尾:最初に「東京スーダラ2019」のリサーチャー3人と、ある出来事から時間が経った後の話し合いをどのように設計するかということを考えました。やっぱり過ごしてきた時間と生活環境が違うと、それぞれに感覚は違ってくる。そのことを、ちょっとしんどくても共有しないと話せないのではないかとなった。それを引き出すための質問項目を考えてつくりました。

佐藤:宮本(匠)さんが論文に書いていた「復興曲線」も、災害後の感情の起伏を書くものだったと思いますが、それに似ていますよね(「災害復興における “めざす” かかわりと “すごす” かかわり─東日本大震災の復興曲線インタビューから」)。

宮本:復興曲線も、一度その語りを線に起こすことで、ただ話を聞くだけでは出てこない語りを引き出してみるという工夫がありました。

特に瀬尾さんは、置かれている状況が違う人が一緒に集まって話をするときを活用例として話されていた。例えば僕が読んだことがあるものだと、イスラエルの若者とパレスチナの若者が集まって自分の人生を線に書いてそれを交換し合うことがあります。政治的に大きな対立をしている人たちだけど、それぞれどういう日常を過ごしているかを見ると同じ若者として、同じように悩んだり、同じように楽しんでいることがわかる。それぞれの置かれている状況の違いや共通点を見出すことで繋がりを感じるツールとして使えるのかなと思いますね。

佐藤:集めたワークシートの活用は、これから考えていくんですか?

瀬尾:いまは、そのときそのときに必要な場をつくることができれば、それでいいかと思っています。スーダラのメンバーには半年に一回くらいで繰り返しワークシートを書いてもらっています。書くたびに総括的なコメントは更新されていったり、もやもや考えていることを書くことで忘れたりするんですね。忘れられたから次のこと考えているとか、話したときに他のメンバーが言ったことが自分にフィットしたら、それを指針にその後のことが進んだりする。

彼らとはもう2年半くらい一緒に活動をしているのですが、仲良くならないというのがすごくいいなと思っています。年齢も違うし、住んでいる場所も違う。1年目は月に15時間くらいワークショップで喋るくらい密だったのですが、それでもワークショップという場の設えで出会うとあまり友達っぽくならない。私はそれがカギだと思っています。

仮設的にでも普段のコミュニティとは違う温度感で会話できる相手をつくる。それをスーダラのように継続的に持っていられるのはいいなと思っています。また美術館のワークショップのような特異なコミュニティというのがいい。コロナ禍によってコミュニティが社会的なものかプライベートなものかで二極化してしまって、中間的な出会いのコミュニティがなくなってしまったように思う。変で曖昧なコミュニティが機能することで、生活環境がまったく異なる人と利害のないところで話せることが生まれる。それはすごく重要だと感じています。

宮本:面白いですね。「コロなかワークシート」って、ある種よそよそしい設えじゃないですか。別にそんなものなしに話せばいいと思う。でも、そのよそよそしいものを介することで独特のコミュニティやコミュニケーションが生まれる。僕が最初に復興曲線を新潟でやったときにも、よくありました。それまでさんざん話を聞いてきた人たちに、今更インタビューをするのは自分のなかでも抵抗がありました。でも、やってみると、普段お茶を飲みながら聞いていたときには全然出てこなかった話が見えてくることがあった。こういう、よそよそしいツールや場はすごく大事だなって思ったんですね。

語りの表現方法について

佐藤:瀬尾さんの話では、「旅人」がキーワードになっていました。この「旅人」ということばや、話し手と聞き手の関係のような語りかたを獲得してきたタイミングはあるんですか。

瀬尾:最初は本当にこんな風に整理されていなくて、「旅人」ということばを使いはじめたのも、5〜6年くらい経ってからだと思います。聞き手と語り手を整理して、おばちゃんの話を書くということも、その都度考えて図式化してきました。『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』は、2011年から震災の現地の語りや風景と、自分の感覚が混ざり合うように構成されています。これをビルディングロマンスだと書評してくださった人もいましたが、たしかに自分の成長過程でもあったと思います。

最初の頃はよく、「美大生が自己表現の道具にするのか」みたいなことを言われました。いまだに言われたりもしますが、現場ってそんなに単純なものではないと感じているんです。他者の言葉に感動して、それをかたちにするのは作家の欲望だけど、語り手もこれだけは伝えたい、遠くに届けたいといった欲望を持っている。そういうお互いの欲を確かめ合いながら形が出来ていくということは、作品を鑑賞してもらうときには、なかなか伝わらないんですよね。ここをきちんと伝えていかないと、災害やトラウマ的な記憶に触れて、他者の言葉をなんとか残そうと思う色々な人たちの歩みを止めてしまう。だから、こういう繊細な現場にいて表現をする者として、制作のプロセスをことばで精査しながら説明していくことがすごく大事だったので、こうしゃべるようになってきたのはありますね。

具体的に自分を「旅人」として自覚したのは「波のした、土のうえ」をつくっているときに、花畑のおばちゃんに話を聞いたときです。当時、物語的なものとして、「ついに復興」という感じでポジティブな感覚もあった。かさ上げ工事がはじまって、地元では賛成している人もいるけれど、その当人の中だって、引き裂かれているということは、なんとなくみんな分かっている。それでも多大なお金もかかるなかで「復興工事、嫌だよね」とか「ちょっと心配なんだよね」とか「花畑の花を抜いていくのは苦しいんだよね」という一言すら、言えない状況があったんですね。

そんなとき、たまたま花畑に寄ってお茶を飲みながら話を聞いていたら、おばちゃんが「復興工事、進んでよかったね」みたいな話をしていたのだけど、「でも私ね、ベルトコンベヤの工事の音止まるとすごくほっとするのよ」という一言が出てきた。彼女はこういうことが本当は言いたいのかな、こういう風に言葉にするんだなと感じたんです。それを話してもらうには、私は土着の人間になってはいけないし、コミュニティの利害関係のなかに入ってしまうと絶対聞けなくなってしまう。宙ぶらりんの私だからこそ、彼女と一緒にその言葉を残していく作業はできると思ったんです。

それからは高田の人の日常では話せないことを「この子が居ると話してみようかな」と思ってもらえるように、自覚的にちょっと勇気を出したり、ちょっとしんみりしないと聞けない話を聞く係みたいに自分を位置づけていました。そう認識してもらえるようになっていく過程には、作品を発表することで「じゃあ、こういうこと言っていいんだ」という反応が起きたり、今度は地元の方から「こんなこと思ってるんだけど話していいかな」みたいな声かけがあったり、そういう往復関係があって、自分のやれることが増えてきて、ポジションを理解していったというのがありますね。その前とその後では、自分自身の整理の具合は違うと思います。

語り手にとっての作品の役割

瀬尾:2012年に発行されたせんだいメディアテークの機関誌(『ミルフイユ』)で、何か書いてみないかと誘ってもらって、小説っぽく花畑のことを書いたのが最初に発表した文章でした。3人モデルがいて、その人たちに出来たものを渡しに行ったのですが、思ったより気楽なんですよね。「あんたこんなん書いたんか」と喜んでくれたり、いっぱい買って配ってくれたり、あるいは「これは私のことじゃなくて瀬尾ちゃんのことだね」とうまいことを言ってくれたり、「こういう風に書いてくれたから他の人に説明するのが楽だ」みたいに言ってくれたりしました。こうやって、書き手が想定していないような回路で、当人が受け入れてくれる可能性があるんだと気付くことが出来ました。むしろ、話しあいながらつくれるんだと思えたのがその時期で、それまでは絵を描いていいのかすら分からない状況でした。

佐藤:作品は、当事者ではない遠くの人や、時間を超えたところに届くものになるというイメージはありますが、本人に渡したときに、本人が「使うもの」になることがあるんですね。

瀬尾:『あわいゆくころ』を出したときに、高田の人たちが「読んだぞ」と見せてくれた本には、めちゃくちゃ付箋が貼ってあるんですね。彼らにとっては辞書みたいになっていて、年表や資料に近い。「こんな人ここにいたな」という感じで思い出す道具として使ってくれていました。そのなかで、かさ上げ地の上で生まれたばかりの孫に対して、おじいちゃんが『あわいゆくころ』を読み聞かせていたことを教えてもらいました。その読み聞かせていた部分が、ちょうど彼自身が語ったことを書いたページで、そのことを伝えたら「え、そうだったの。自分と同じこと考えている人いたんだなと思ってうれしかったから読んだ」と言ってました。そういう風に使ってもらえていたのは、すごくうれしかったです。

一方で出版したときは「まだつらいから読みたくない」とか「こんな本をいま出すのはどうなんだ」とSNS上では拒否の感覚があること、陸前高田より遠い場所、関西や東京の人が「触るのも怖い」みたいな風にこの本を見ていることを知りました。むしろ距離のある人たちのほうが、考える場や対話の場といった実践的な何かがないゆえにあの時点で止まったままなんだなと感じて、ある種トラウマみたいなものが固定化されて、より「膿んでいる」感じがしました。そのことから「外の人」と一緒にやっていくという方向になり、「二重のまち/交代地のうたを編む」のプロジェクトや「10年目の手記」になっていったということがありました。

『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(2019年)。

記録をする手法の工夫

宮本:記録を残していくときに、その人が語った語りのままに、記録をしていくという方法もあるじゃないですか。でも瀬尾さんの場合はそうじゃなくて小説にして、なんならそこに自分も混ざりあっていくかたちで記録をしていくわけですよね。そういう方法をとろうと思ったきっかけやお考えがありましたか。自然とでしょうか。

瀬尾:最初は陸前高田の状況的に、ことばを録音すると出てこないことがあったのと、それを聞き返すことにすごく罪悪感を感じていました。会話で出てきた話はその瞬間のものとしてあるからこそ出てくるものがある。録音をするのではなく「ただ覚えている」ことのほうが、お互い安全だと思う。私も聞き返されて、「こういうこと言ってましたよね」と言われるのが好きじゃないと思っていたのはあります。私が良いと、絶対残すべきだと感じたことしか残さないということがあるから、かなりフィクショナルになっていくことを引き受けたいと思い、そういう形式に最初はしていました。

時間が経って、いまの11歳の出来事を全年代に聞くというプロジェクトに関しては録音し、文字起こしをしながら、ことばをピックアップしてつくるように手法を変えています。陸前高田のときは私もずっと現地に居たので、背景を体感として理解していた。同時に海辺の人たちの感覚なのかもしれないですが、高田の人たちは感覚を語るのが上手だったと思うんですね。なので、それを書くには、当時の手法がよかったと思っています。いま山でリサーチしていると山の人たちは、すごくロジカルに語るのが上手なんです。歴史的にどういう経緯があったから山が崩れるんだとか、働き方が変わったから人が集ないんだといった語りを事例とともに聞くので、一次資料は整理するようにしていて、ここでも手法は変えています。

宮本:このシリーズの1回目の時に話題になった水俣の石牟礼道子さん。瀬尾さんも石牟礼さんとすごく似たような方法というか、ある種よそ者としてそこに移り住んで、そこの人たちと一緒に生活しながら、でも表現するときにはその人の身体になって。だからそれは語られるテーマによって手法の食い合わせがあったんですかね。

瀬尾:自分のなかでも、いろんなパターンを持つようにしています。あんまり自分が高田でやってきたスタイルと一緒にするのはやめたほうがいいなと思っていて、むしろ語りに応じたスタイルがそれぞれで出てきたほうがいい。それは、その表現を渡す相手とかプラットフォームによっても変えたほうがいいと思っています。例えば展覧会だと資料っぽいほうがいいし、時間が経つと小説っぽくなるのは自分のなかでの消化の具合にもよると思いますね。

振り返りの場の大切さについて

宮本:外の人のほうが時間が止まっていたという話、すごく面白いなと思いました。僕も今回コロなかシートを書いてみて、「時間が流れていないな」と感じました。出来事を覚えてないというより、物語になっていないという感じがしました。それがなぜかを考えたときに、ひょっとしたら瀬尾さんがおっしゃられていたような、震災の後、外の人が振り返る場や機会がないから、その出来事の意味づけができなくて時間が経つごとに膿んでいっているのではないかと……。

コロナ禍で一番失われたものは、振り返る機会だと思うんですよね。こういうワークショップでも本来みんなで会ってやっていたら、終わった後30分くらい会場に残って、あるいは夜お酒を飲みながら話すとか、移動の時間に一人でぼんやり考えるとか、いろんなレイヤーの振り返りの時間があったと思うんです。時間の使い方の円グラフを書いたときに僕はコロナ禍になって隙間なくずっと何かやっていることに気づいて、コロナ前は割とダラダラしている時間とか移動時間とかあったのに、それが全部なくなって、ごはん→仕事→ごはん→仕事みたいな、振り返りの場が失われているということをどう取り戻すかがすごく大事なんだなというのを感じました。

瀬尾:それはすごくありますよね。高田といった被災地域の人たちは、ある意味で実生活においても振り返りやある種の物語化をしていかないと、共同体を編みなおせないし、語り合えないのでしてきたということが、自然発生であったと思います。でも、距離がある人はそれができない。特にコロナ禍は物理的にも集えないことがある。

他の人のワークシートがあることで自分のことを思い出したり、その人と比較したうえで、自分のほうが楽観的だなとか、もっとしんどいんだよっていうことを他者と往復しながら理解していくことで語りを編める気がしています。記録が残っていると、事後的に編みなおせるチャンスも残せるかもしれないですね。

宮本:他の人の語りがないと、振り返りの視点が多様にならないと思うんです。世間のドミナントな語り––コロナ禍って苦しく語らないといけない、あるいは震災後の暮らしで自分は被災者だし、大変だったし、申し訳ないと思っているとか、そういうモードで語らないといけない雰囲気がある。こんな風に語ってもいいんだと思える場をどう持つかはすごく大事だなと思っていて、それがあの高田の花畑だったと思うんです。あの花畑だと、かさ上げの話だけじゃない話ができるじゃないですか。「この花なんていう名前ですか」とか、「この花、元気になってきたね」とか、そのなかで何気ない色んな馬鹿話も聞けるし、すなわち災間、これから災害のなかを生きていくというときにも、ああいう場を僕らがどうつくれるかがすごく大事だなと思っています。重苦しく語らないといけないムードはあると思うのですが、それだけでは生きていくのが辛いし、それだけだと見なかったことにして災間と向き合わないでなんとなくやり過ごそうってムードが生まれてしまう。苦しい、しんどいっていう視点だけじゃない振り返りの仕方や語り口をつくるという意味でもあの花畑は学ばされますよね。

瀬尾:みなさんに行ってみてほしかったですね。めちゃくちゃ記録が残っていますので、ご希望の方は、ぜひご覧ください(笑)

陸前高田の花畑(2012年5月) ※ 瀬尾さんが撮影した花畑の写真は「3がつ11にちをわすれないためにセンター」のウェブサイトでも閲覧可。

痛みを分かち合うということ

瀬尾:事前の打合せで、コロなかワークシートを書くのがしんどい方もいるんじゃないかという話題が出ました。実際いらっしゃると思うのですが、最初から書くのがしんどい内容だと設定してしまっているっていう問題もあると思うんですね。でも、実際に振り返ってみるとコロナのことだけじゃなくて別にふざけたこともあったなと思い出せたりと、定型的な語りから逸脱するものが自分から出てくる。その経験は重要だと思います。それが複数になると、よりその定型は崩れていく。さらに聞くと定型化されて、ある種のカテゴライズは出てくると思うのですが、そういうことも大事だと思う。

災害やトラウマになりえるような悲しい出来事を扱うときには、そのリスクとして、語ってもらうことも、それを見せる見られるということにも、必ずどこかに痛みが発生してしまうと思うんですね。私はむやみに傷つけるとか、傷つける可能性が高すぎる設定はしないですが、「誰も触れない」ということが一番危ない。もっとひどい立場にいる、置いていかれている人をより置いていくこと、あるいはまた犠牲が出るということが必ず起きてしまう。私はそれよりも「痛みを分け合うためにみんなが少しずつ痛い」ほうが、共に生きる社会にはいいんじゃないかなと思います。

自分がもし大きな災害に遭ったときには、痛みを放置されることが一番しんどいと思う。「痛くても分け合う」という動きが必ず発生してもらわないと困るぞと思っています。いまは当事者、非当事者という分けかたが強調されて、遠い人は触らないほうがいいと簡単に言われてしまうけれど、本当にそうだろうかと私は思う。痛いけど、でも同時にすごくうれしいことが現場には必ず起こる。それを無いかのようにして「やっちゃいけない」とか「やるのは悪だ」というのは、私はすごく危険な考え方だと思います。

宮本:僕も10年前くらいに復興曲線のインタビューを阪神・淡路大震災の遺族の方100人に聞くことをしました。そのときはこちらも痛みを分かち合うじゃないですけど、2時間くらいものすごく怒られた後に、やっと書いてくれるということがありました。

そのときにわかったことは、遺族の方は腫物扱いで周りからするとなかなか話しかけづらいということがある。自分自身もそんな風に振る舞わないといけなくなり、いろんな意味で孤立していくんですね。そのなかで、「うまく悲しむことができなくて、もっと悲しんでおけばよかった」とか、「もっと泣いておけばよかった」とか、「あのとき自分のなかで振り返ったり思い出したりできなくて、それがすごくつらかった」とおっしゃっていました。

曲線は、いろんなことがあって、上がったり下がったりするんですけど、急にぴょこんって上がっているところがある。それは共通していて被災地を一時的に離れたときなんです。友達と震災後初めてゴルフに行ったとか、お遍路に行ったとか、一度被災地を離れるとすごく気分が落ち着く。それはなぜだろうと考えたときに、やっぱり被災者として演じなくていいというのはひとつある。もうひとつは被災地を離れて自分が置かれている状況をちょっと客観的にみるということが、すごくいいんだろうなと思いました。最初すごく怒っていても曲線を書いた後に、「なんかよかった、なんかすっきりした」とおっしゃっている方が、もちろん全員じゃないですけど、少なくない人数でいらっしゃる。

遺族の人に話を聞くのは、「お前思い出させるのか」ということだと思うんです。僕もやるときは辛かったですが、やってよかったなって思うところもあって、それは瀬尾さんと一緒で、センシティブなことだからデリケートに扱わないといけないけど、かといってそれを僕らが腫物にしたり、避けてもいけないんだろうなと。振り返る機会を失うと、もっと精神的に不安定になってしまう。一番つらい人って書けないんですよね。

瀬尾:それは思いますね。やっぱり10年経っても何にも語れないというのは精神的にすごくつらい状況にあることだなと思います。もっと別のケアが必要なフェーズだなと感じます。それはまた他の人が介入しなきゃいけないような状況でもあるので、ちゃんと見極める必要がありますね。

佐藤:瀬尾さんは「語れなさ」や「秘密」ということばも、たまに語っていますが、そういう話は深刻に「実は……」と出てくるのではなく、日常会話のなかにあるんだけど、聞く側がそれに気づけるかも大きい気がしています。日常の何かのふるまいやことばに現れていたり、笑いの起こるような場で共有されていたりすることも多いのかなと。だからこそ、聞く側の聞きかたや聞くための身体づくりみたいなことも重要になってくるのかと思います。究極そのこと自体が聞けなくても「そういうことがあるんだ」と感知することはできるんだろうなと思います。

瀬尾:大事な秘密って、意外ととんでもない拍子に適当に話しちゃったりするんですよね。バス停で会った人に話してみたくなったり、ワークショップの場では「もう会わないかもしれない」とか「会ってもそんなかかわらないかも」とか思ったりする人たちに「日常の外」として話したりする。秘密を語られてしまうのは、そんなに大そうなことじゃないという現場は多いと思うんです。

「ああ、なんかいま聞いちゃったな」って思ったり、相手は「いま話しちゃったな」って思ったりする瞬間はあると思う。それはお互いの感度やタイミングによって、それが秘密として認識されるかはわからない。そんなに話が聞けたこと、話してしまったことを「ものすごいこと」としすぎなくていいと私は思っています。

でも、語り手にとってはすごく大事だったとか、聞き手にとってすごく何かになったという場合、あるいは後世の誰かにとって大事だなと思った場合は、それを伝えればいいと思います。

ソーシャルメディアの変化と自分自身の記録について

宮本:瀬尾さんがコロナ禍で聞いたお話を出すときに、Twitter上がすごく難しいなと思ったとおっしゃっていましたが、どの辺が難しいと思われたんですか。

瀬尾:いまのTwitterやSNSの状況は、「被災者は傷ついている」「コロナ禍では苦しい人がいる」といったことが前提になりすぎてしまっていると思います。実際には、それはある一面でしかないはずなのに、それがすべて正義のようにになっていて、それをみんなが乱用している感じがあるし、そうやって切っていくのが「バズる」ことと繋がっていると思うんです。

そういう場は、身体性というか現場みたいなものが抜け落ちている。そこで、こういう人がいて私は楽しいんですよみたいなことを言ったときに、「不謹慎だ」と切るのが一番楽という風になってしまうと難しいなと感じています。抽象的なことばを書くと揚げ足を取るみたいになっちゃうので、詩でさえあまり機能しないのかなと感じてます。これは10年で変わったことだと思います。行方不明者探すのにTwitterとかミクシィ使っていたと思うので、そのときとは変わったと思いますね。

佐藤:メディアの環境が変化してきたという感じですね。

瀬尾:いまどう使っても難しいなというのが正直なところですね。また状況が変化してきた感じがしますね。

佐藤:今日は瀬尾さんがいろんな手法を発明してきたことをうかがえましたが、常に中核にあったのは「記録」だったかなと思います。何かあったときに、とりあえず何になるかわからないけど、記録からはじめる。その態度があるのかなと。
震災後の動きのなかで、それも獲得してきたものだと思うのですが、震災の前に記録は得意だったんですか?

瀬尾:全然何も残っていないと思います。いまとなってはおじいちゃんおばあちゃんがつけている日記とかは、すごくいい装置だなと思うけど、自分の記録をして何の意味があるのかなと、震災の前は思っていたと思いますね。

他者の声に出会ったときに、自分の役割は他者の声を記録することだと思いました。その出会いかたで、欲が発動したのだと思います。あと、SNSを続けていくなかで「自分自身を記録の装置としてさらす」のは、感覚の機微を同時代的に共有していく手法としては役立つと思ったことがあります。

何か大きな物語に回収されてしまう前の、一人の人間として一番身近な記録装置として自分の日記はあると思う。その観点でツボなところを記録しておこうということが、いまはあります。30代の女性というライフステージにあることも含めて、コロナ禍でこういうことに困っているとか、こういう悩みがあるということ自体が、この時代のひとつの記録にもなると感じているので最低限はやろうかなと思っています。(佐藤)李青さんは日記をさらしていますよね。

佐藤:はい、noteでさらしてますね(笑)。それも瀬尾さんたちが「まずは記録から」と活動をはじめたのを見ていたのが大きいです。状況はわからないけど記録はしておこうと。

記録をするための技術やメディアは、そのときの状況や自分なりのやりかたでいいんだろうなと思います。かつ、それが網羅的というより、自分のなかの何かに触れるものを残すくらいからでもいいんだろうなと、あらためて感じました。

瀬尾:自分の記録をするのは、癒しの効果があるというか、それこそ語り直しだと思うんです。コロなかシートを使った対話の場のように、しつらえた場でもいいのですが、セルフケアとして日記を書くのは重要だと思います。自分のことを書いているけれど自分のためだけでもない。自分のケアなんだけど何かにつながっている。何か誰かに伝えるときに日記があると便利だし、そういう感覚をみんなも持ってもらえたらと思います。

執筆:氏家里菜

日時:2021年10月25日(土)14:00〜17:00
場所:オンライン(Zoom)での実施

「Multicultural Film Making—ルーツが異なる他者と映画をつくる」プロローグ

自分とは異なるルーツを持つ人たちと、どのように関わっていけるだろうか?

2020年8月から2021年3月にかけて、Tokyo Art Research Lab「東京プロジェクトスタディ:CROSS WAY TOKYO —自己変容を通して、背景の異なる他者と関わる」というスタディを行った。自分とは異なるルーツをもつ人たち(ここでは主に海外にルーツを持つ人たち)と関わろうとするときに、興味を持ちつつもどうしても尻込みしてしまう心理的ハードルに向かい合い、それを越える方法を模索する研究・実践である。スタディの成果として参加メンバーそれぞれの模索の様子を収録した”メディア”を制作し、それを取りまとめたウェブサイト「関わりの記録」を制作した。
今回の「Multicultural Film Making —ルーツが異なる他者と映画をつくる」は、そのときに取り組んだ実践から生まれたプロジェクトだ。

メンバー募集のチラシ:できる限りふりがなを使用している。

「様々なルーツを持つ人たちと協働して、”新しいまち”をテーマにしたフィクションの映画をつくる」こと。これが本プログラムの大きな枠組みである。プログラムは「ドキュメンタリーの部」と「フィクションの部」の2部構成になっている。まず「ドキュメンタリーの部」で、参加メンバー同士でのインタビューや取材、まちなかでのフィールドワークを通してリサーチをする。そしてそのリサーチをもとに脚本を編み、「フィクションの部」でメンバー自らがその脚本を演じ、撮影することで一本の映画が完成するという流れである。

では、なぜ「映画」なのか?
なぜ「様々なルーツ」なのか?
まずはプロローグとして、このプロジェクトを始動していくときに考えたことについて、下記に整理してみる。

線引き

今回、メンバーを募集する際、対象を「海外に(も)ルーツを持つ人(自己申告でOK)」と限定した。このように線引きすることはとても慎重にならざるを得ない。ある人を、そのバックグランドをもとに特定のグループにカテゴライズすることは、その人が意図しないかたちでラベリングすることにもなりかねないからだ。そして、グループ内に「日本にのみルーツを持つ人」を含めないことも、必ず説明が求められるだろう。今回は、あえて「特殊な状況」をつくるという自覚を持つようにした。その特殊な状況下で、普段は見過ごされてきた人たちの視点が明らかになるのではないか。このプロジェクトは、日本ルーツと海外ルーツとの交流促進でもなく、支援事業でもない。新しい「表現」、そしてその実現のために発生する「コミュニケーション」を探求するプログラムである。

メンバー募集のチラシ英語版/やさしい日本語版:日本語非母語話者へ伝える試み。

まちを見る視点

そもそも、私たちの暮らすまちでは、様々なルーツが混ざりあっている。今回のプログラムの拠点である東京について言っても、様々な国の価値観、文化が混ざり合ってかたちづくられてきた歴史を持っているまちだ。近年、多文化共生というフレーズが積極的にうたわれているが、それは以前より存在していたもので、それが現在は経済優先で画一化されていく“まちづくり”によって見えづらくなっているに過ぎない。「CROSS WAY TOKYO」で行った、ライターの金村詩恩さんを招いたフィールドワークでも、いかに自分たちがその事実を見落として生活しているかを学んできた。
画一化されていくまちは、あるひとつのグループにとって便利で快適な空間を生み出し、そのグループからはみ出たものを周縁化していく。しかし、その先にはいったい何があるのか? 似た者同士の決まり切ったコミュニケーションからいったい何が生まれるというのか? 新しく魅力的な文化や価値は、異なる背景を持つ「他者」の間に生じる「ずれ」や「混じりあい」からこそ生まれるのではないか? 今のまちはそのフィールドとなり得ているのだろうか?
その課題意識を念頭に、今回制作する映画のテーマを「新しいまち」と設定している。ルーツが異なるメンバーたちが、それぞれにとっての「他者」となり、互いに視点を交換する。多くの見落とされたまちの姿を互いの「ずれ」を生かしながら発見することを試みる。出自や境遇も異なるメンバーたちには、現在の東京がどのように見えているのか? 何が目につくのか? 何に気がつかないのか? 何を奇妙に感じ、何に抵抗感をおぼえるのか? 映画制作を目的に、メンバーたちがリサーチをし、演じ、撮影し、紡いでいく「まち」が、このプログラムでつくろうとしている「新しいまち」である。

コミュニティ外のコミュニケーション

東京には、海外ルーツの人たちのコミュニティが数多く存在する。そのコミュニティ内で生活する人々は、その中で自身のルーツと向き合いながらアイデンティティを確認することになる。ただし、特に現在の東京において、自身のコミュニティから出て、その外にいる他者と関わることを困難に感じる人も多いようだ。メンバー選考時の面談でも、「自身のルーツのコミュニティ以外の友人ができづらい。」という声を耳にすることが何度もあった。
今回はアートプログラムという特殊な状況下ではあるが、映画制作という共同作業の現場として、多様なルーツをもつ人々が集まる場をつくる。言語のハードルや、価値観のギャップを受け入れ、すり合わせながら、自身のコミュニティ外にいる他者とコミュニケーションを交わす。そう考えると、メンバーが集まったその状態すらも「新しいまち」と呼べるかもしれない。出自も、東京(その近郊)で過ごした時間もバラバラなメンバーたちは、どのような「まち」をつくっていくのだろうか。

映画制作の現場

映画をつくるためには様々な役が必要になる。それはいわゆる俳優の「役」だけではなく、撮影、録音、助監督、美術などといったことも「役」である。そこでは、監督が一番の決定権を握り、ある「役」からある「役」へ様々な指示が行き交う、一種の不均衡な環境がある。その不均衡さを引き受けながらも、ともにひとつの作品をつくっていくのが映画制作の現場であり、その構造は現実社会にもつながっている。

メンバー募集動画の撮影。

監督

ここで制作する映画の監督は、台湾をルーツに持ち、日本に来て7年の鄭禹晨(てい・うしん)さんが担当する。彼女は「CROSS WAY TOKYO」のメンバーの1人でもあり、大学で映像を学んだ後、現在はウェブメディアの編集者として東京で働いている。この企画を練る中で、監督を日本ルーツの人にしてしまうと、社会のヒエラルキーがそのまま製作現場にあるようで難しい、という考えに至った。それであれば、と思い声をかけたのが鄭さんだった。CROSS WAY TOKYOを通して制作した彼女の映像作品「你我」では、彼女と、彼女と同様に台湾から日本に来た2人の男女との会話を聞くことができる。そこで話されているのは、日本や日本人に対する考えや、自身の母国とアイデンティティに関する事柄で、そのある意味遠慮がなく生々しい会話からは日本ルーツの人々が普段持ち得ない視点があらわになる。

メンバー募集の動画:監督自らメッセージを発する。

メンバーの選考

1ヶ月間の募集期間を経て、定員の4倍近くの申し込みがあった。プログラム成立のために、心苦しくも選考をしたわけだが、決して当人のルーツやアイデンティティをジャッジするのではなく、全体のバランスと、各々の興味と本プログラムの趣旨がフィットするかという判断軸で選考する旨をそれぞれに伝えた。ここでは細かく述べないが、選考を通して企画側の想像におさまならない多様な背景を持つ人たちがおり、その人たちの間でこのようなクリエイションの現場参加の需要が高まっている(コロナ禍の影響も強い)と実感したことをここに記しておく。

記録

本プログラムは、映像制作の過程を映像とテキストで記録していく。これらは、日本で生まれ育ったマジョリティである者の視点からの記録である。また、私たちは多文化共生に関する専門家でもない。その中でできることは、ひとつのクリエイションの現場において、ただの傍観者として客観的にものごとを整理していくことではなく、あえて自分たちの細かな揺れ動きにも目を凝らしながら、映画の制作過程をメンバーたちと共に追うことなのかもしれない。

今回は、プロローグとして企画のベースを整理してみた。
ここを出発点に、「Multicultural Film Making —ルーツが異なる他者と映画をつくる」はどのように進むのか。
まずは、ドキュメンタリーの部A期がはじまる。

執筆:阿部航太(プロデューサー、記録)

相手から見たときの指文字/自分から見たときの指文字

視覚身体言語である手話の基礎を学び、体感するのみならず、ろう文化やろう者とのコミュニケーションについて考えるレクチャープログラム「アートプロジェクトの担い手のための手話講座」。

この指文字一覧表は、基礎編として公開している映像プログラムに続き、手話の学習や、ろう文化を身近に感じるための資料として制作されました。「相手から見たときの指文字(読み取り用)」と「自分から見たときの指文字」の2種類。好きな方をお使いいただけるほか、両面に印刷してその場その時に応じて使い分けることもできます(A4印刷推奨)。