ドキュメンタリーの部 B期 DAY1「3枚の写真で自己紹介」

2021/9/17 19:00-21:00 オンライン

「ドキュメンタリーの部」A期のプログラムが終了して2週間後、新たなメンバーを迎えてのB期が始まる。3日間のプログラムはレポート#1〜3で記したA期の内容と全く同じ。しかしながら、そこに参加するメンバーが異なれば、自ずと工程も結果も変わってくる。特にB期では“言語”の扱いについて、A期のときとは異なる状況になった。A期では偶然にも日本語でのコミュニケーションに難しさを感じるメンバーはおらず、運営チームからのメンバーへの説明や、メンバー同士のやりとりは全て日本語で行われた。しかしB期には日本語でのコミュニケーションに難しさを感じるメンバーが複数人参加しており、どの言語を軸にプログラムを進行していくかを考える必要があった。

結果として、私たち運営チームはオンラインで実施する「DAY1」では日本語と英語を併用して進行することにし、対面で行う「DAY2」「DAY3」は日本語のみで進行することにした。その意図を整理すると下記3つの点が挙げられる。

1. 通訳するとしても、メンバー全員の母語に対応できない
2. 通訳をすることで、メンバー同士のコミュニケーションにブレーキをかけてしまうおそれがある
3. 言語の障壁がある状態でのコミュニケーションのあり方を改めて考えることもプロジェクトのテーマのひとつである

特に「3」の部分は、ルーツの異なるメンバーたちが協働していく際には重要なポイントになるはずである。メンバーたちはどのように言葉を、また言葉とは異なる方法を用いてコミュニケーションを交わすのか?その工夫はメンバー自身に任せることにした。

「ドキュメンタリーの部」では、ドキュメンタリー作品を制作しながら、それぞれの視点で“まち”をリサーチしていく。その過程で生まれたコミュニケーション、表現、エピソードを拾い上げて、後に制作していくフィクションの映画のヒントにしていこうという狙いだ。3日間という短い期間ではあるが、そのなかでメンバーたちの視点から見えてくるまちの姿とは、いったいどういうものなのか?そんな期待のなか、DAY1が始まる。

3枚の写真で自己紹介

A期と同様に「3枚の写真で自己紹介」からスタート。メンバーには当日までにそれぞれの「過去」「現在」「未来」を表す写真をそれぞれ1点ずつ提出してもらい、それを軸に自己紹介をしてもらった。ここでB期のメンバーの紹介も兼ねて、それぞれの3枚の写真を紹介する。

[過去]実家が海の近くにあり、家族でよく海産物をとって食べていた。当時は自分のアイデンティティについて意識することはなかった。/[現在]同じ海でも色調が過去のものより柔らかい。それが今の落ち着いている気持ちを表現している。/[未来]海のそばに家を建てて家族と住みたい。3枚とも海なのは、このまま変わらず過ごしていきたいという意味。

セイブン

中国の海辺のまち街で生まれ育ち、北京の美大を経て、3年前に日本の大学院で美術を学ぶために来日。大学内外での様々な展示やプロジェクトに参加するなかで、多様なルーツの人々との対話に興味を持ち参加。

[過去]コロナ禍で韓国に帰っていたとき、ただ食べて寝てを繰り返す生活を送った。/[現在]日本に戻ってからの自分の部屋。汚い部屋は、管理できずに爆発した自分の頭の中のよう。/[未来]自分なりに頑張って生きていけば、この猫のように暖かい場所で過ごしていけるんじゃないか。

ジウン

韓国で生まれ育ち、2018年に大学院で美術を学ぶために来日。大学院修了後は都内で働きながらアーティストとして活動している。日本での様々な出会いを経て、改めて在日コリアンの存在について考えるようになった。

[過去]よく旅行にでかけていた。自分で計画を立てて実行することが好きだった。/[現在]コロナ禍で全ての計画が中断された。だからこそ自分で動いていかなければ。/[未来]自分で納得して、満足していたい。

JP

フィリピンで生まれ育ち、大学卒業後はエンジニアとして働く。大学時代に日本人の友人がいたこともあり、かねてより日本には来たいと思っていた。2021年のはじめに来日し、現在は日本語学校に通いながら、都内の学童で働いている。

[過去]幼稚園の卒業写真。昼寝している間に母親に勝手にパーマをあてられた。将来はお金持ちになりたいと思っていた。/[現在]お金持ちにはなれなかったけれど、日本への留学を自身で決めた。/[未来]台湾に戻るかもしれないけど、その後も日本と台湾をつなぐ存在でいたい。

ケイ

台湾の高雄出身。2017年デザインを勉強するため日本へ。美術学校に2年間通った後に制作会社へ就職。現在はデザイナーとして都内で働いている。ディープな日本について興味があり、民藝、喫茶、銭湯、商店街などをよく訪ねている。今住んでいる東京の様々な面を知りたいと思い参加。

[過去]友達のゲーム機に映った自分。民族学校から日本の学校に転校して間もない頃。/[現在]怒りというエナジーに突き動かされている自分と、レンジも使えない不器用な自分。/[未来]鯉が小さな滝を登ろうとしているのを見て、見習いたいと思った。

キン

在日韓国人であり、北海道で生まれ、埼玉、東京で育つ。小学4年生のときに民族学校から日本の公立小学校に転入したことがターニングポイントになり、以降自身のルーツについて向き合うこととなる。現在は都内の大学で社会学を学ぶ。

[過去]子供のころ、地元ではカントリーウェスタンのスタイルが流行っていた。/[現在]パートナーと飼っている2匹の犬。名前は“ねぎま”と“だんご”。/[未来]変な夫と変な妻に加えて、子供か、または他の動物たちと一緒に暮らしていたい。

カイル

アメリカのインディアナ州出身。現地の大学で、日本人である現在のパートナーと出会い、後に日本へ移住。芸術分野での映像制作にもとから興味を持っており、様々な人と協働して映画をつくることに魅力を感じ参加。

[過去]アジアの歴史上の人物、張学良にハワイで会った時の写真。自身のルーツに関わる歴史や文化に触れる機会はあったが、当時はよく分かっていなかった。/[現在]批判的人種理論、フェミニズム、クィアスタディ、社会学を大学院で学ぶ。「インターセクショナリティ」(交差性)を提唱したキンバリー・クレンショーに米国で会ったときの写真。/[未来]「どこ出身?」と聞かれたら、“I’m from Wonderland!”と答えたい。

エイスケ

英国領香港で生まれ、台湾人の母、日本人の父を持つ。休暇に台日を往復しつつ、関東で幼少期を過ごしたのち、米国、台湾で学び、現在は国際交流に関する仕事をしながら、子供向けの多言語演劇を行う。自身の重層的なルーツに対する意識と本プロジェクトの趣旨がフィットすると考え参加。

[過去]実家では水餃子は皮から手作りで、よく姉と手伝っていた。/[現在]親友たちと直島に行った時の写真。ずっと一緒にいる。/[未来]東京で姉とふたり暮らしをしている。姉は自分にとってとても大事な存在で、これからも一緒にいたいと思っている。

チハル

父方の祖父が在日韓国人、母方の祖母が台湾のアミ族出身でありつつも、自身は日本人として兵庫県で育つ。インターナショナルスクールに通い、大学入学を機に上京。大学卒業後も都内に留まり様々な活動を行っている。

[過去]アンゴラの祖父母の家の近くにある山で。当時は世界は小さく、自分はどんなことでもできる気がしていた。/[現在]自分のやりたいことを探している。ひとつの考え方ではなく、様々な可能性に興味を持っている。/[未来]どうなるかわからない。でも必ずいいことが起こると信じている。

パイヴァ

アンゴラで生まれ育つ。18歳のときに南アフリカに移住し、そこで大学と英語学校に通う。その後来日し、都内の大学で建築を学ぶ。2021年の秋に大学を卒業。自身の経験をふまえ、他の人の経験も知りたいと思い本プロジェクトに参加。

ディスカッション

自己紹介の後は、グループに分かれてのディスカッション。ここで初めて、運営チームがいない状態でメンバー同士で言葉を交わすことになる。少し緊張した面持ちでメンバーたちが話はじめる。

Q1. 初めて東京に来る友達を、どこに連れて行きますか?

この質問にたいして、A期では出なかった「その友達が“どこから”来るのか?」という問いがあがっていた。

エイスケ「どこの人が来るかで違うかな。アメリカの友達を連れていく場所と、台湾の友達を連れていく場所は違うかな。」

ケイ「わかります。」

エイスケ「台湾の親戚とかだったらアメ横の薬局とか。他の国の人はそんなとこ行きたいとは言わないから。」

チハル「私は兵庫出身なんですけど、そこの友達を思い浮かべたんですよ。」

ケイ「私は明治神宮かも。今、明治神宮にお米を捧げるプロジェクトに参加していて。みんな行きたがる原宿とか新宿とかも近いから、その場所は明治神宮の森を作るための宿の場所だったってことも教えたい。」

チハル「えー!知らなかった。」

Q2. もし来週、東京を離れることになったとしたら、 最後に行きたい思い出の場所はどこですか?

この質問では、メンバー自身のごくごく私的な意味合いのある場所、そして空間的な場所というよりもそこで出会った“人”についての話も聞こえてくる。

カイル「町田。妻の実家があって、日本に来て初めて住んだところだから。」
テイ「私も初めて住んだのが、友達が住んでいた中野のマンションで。だから中野に行くかも。」

セイブン「行きたいところというより、会いたい人と最後に話をしたい。」
ジウン「確かに。私もとても大事な友達が谷中に住んでるから、その人を誘ってちょっとその辺を歩いて、別れを言いたい。」

一方で、その場所が必ずしも良い記憶と結びついているとも限らない。逆に足が遠ざかってしまった場所をあげたメンバーもいる。

キン「中野ブロードウェイですね。好きな場所で、そこでバイトしてたんですけど、いやな辞め方したから行きづらくなったんです。なんかその職場ですごく外国人扱いされて。名札に名前と話せる言語のマークが書いてあって、よく〈日本語が上手だね〉って言われてたんですけど、そういうのがストレスで。」

Q3. 自分が“〇〇人”だなと思う瞬間はありますか? それはどんなときですか? また、日本に住んでその意識が変化することはありますか?

3つ目のテーマは、それぞれのルーツについて考えるもの。日本に来る以前と来た後とで変化はあったのか。そして日本で生まれ育ったメンバーはどのようにその瞬間と向き合っているのか。

パイヴァ「南アフリカでは色々なルーツがあるけれど、それがとても厳密なカテゴリーに入れられる。だから〈Where you from?〉ではなく〈What are you?〉と聞かれる。だから私は最終的に〈I’m human-being.〉と答えてた。日本ではそこまででもない気がする。ただ、何か不快なことが起こったとき、“それは私が外国人だから?”というふうに考えちゃう。」

ジウン「親日家の家族のもとで育って、自分も何か損したこともない。だから植民地時代のことについて憎しみも持ってないし。でも日本に来て在日の人に出会って、彼は自分を〈no-one〉だと言っていた。そういう出会いもあって、日本のレイシズムのことを考えるようになった。」

カイル「アメリカ人は、うるさくて自己中心的っていうイメージがあるから、自分がそうならないように気を付けてる。あとアメリカではみんな声が大きい。どこでも皆話してる。東京は混んでるけど皆静か。」
チハル「関西はもっとうるさいですよ。電車でも皆喋ってるし。ちょっと恋しいですね。」

キン「そもそも“何人”というのが曖昧。韓国についての記事をソーシャルメディアとかで目にすると、どちらかと言えば自分は日本人の感覚の方が近いんだな、と思う。韓国人として意識するのは、名前とか。あとはスポーツ。国際試合があるときとか。」
JP「どっちを応援するの?」
キン「あー、そのせいでスポーツに興味なくなってしまいました。家では韓国を応援していますね。私はどっちでもいいやーって。」
テイ「台湾はプロサッカーのチームがないけど、みんなワールドカップ観ますね。」
ケイ「逆にどっちでも応援できますね。」
キン「たしかに!まあ、それがいいですね。」

執筆:阿部航太

今回もオンラインでありがながら、初めて出会う相手とのパーソナルなやりとりが交わされた。運営チームが心配していた言語の壁をものともせず、メンバーたちは楽しく真剣に話をしていた。最初は「自分はこの言語しか話せない。」と他のメンバーに伝えたり、「私が通訳するね。」と間を取り持ったりと、やや確認しあいながらだったが、セッションを重ねるごとに、“勝手”に英語で喋り出したり、日本語の間にわかる範囲で英語を混ぜてみたり、そのときグループになったメンバー間でできることを即興的に実践するようになっていく。そこで意思疎通に多少の遅れがあっても、むしろその遅れが新たなコミュニケーションを生んで、その間の関係をつくっていく。異なるルーツ、言語のハードル、といって不安要素を並べていたこちらの視野がいかに狭いか。要素だけを取り出してそれぞれの間に線引きをしがちな自分を顧みざる得ない。メンバーのひとりがこう言っていた。

セイブン「自分はたまたま中国人。たまたま中国で生まれただけ。」

様々な歴史的背景を軽視するつもりはないが、私たちは“たまたま”それぞれの場所で生まれ育ち、その日も“たまたま”PCの画面越しに初めて出会った。出自や境遇をできる限り認識しながらも、一方で“たまたま”であるという軽さで言葉を交わすことはできないか。プロジェクトはドキュメンタリーの部B期、DAY2に進む。雨の予報ではあるが、「雨天決行で。」とメンバーに伝える。

執筆:阿部航太

日々のなかの「微弱なもの」を、自分の体で感じるために――宮下美穂「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」インタビュー〈後篇〉

いま、まちのなかでアートを営むときに大切な視点、姿勢とは何か。そんな問いを、アートプロジェクトの担い手と一緒に考えてきた東京アートポイント計画の「プロジェクトインタビュー」シリーズ。今回は、2021年度より東京都多摩地域(*)を舞台にアートプロジェクト「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」を実施する、NPO法人アートフル・アクション事務局長の宮下美穂さんを訪ねました。

*多摩地域:東京都の人口の3分の1にあたる400万人超を擁し、面積もその半分を占める、都道府県レベルの規模を持つ30市町村。

多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」は、小金井で2011年から10年間活動したプロジェクト「小金井アートフル・アクション!」を踏まえ、そこで得た経験や技術を、より広域のエリアで活かしていこうと始まった取り組みです。その大きな特徴は、多摩ですでに活動している誰かと一緒にプロジェクトを行うこと。

例えば、学校の図工の先生たちとネットワークづくりをしたり、社会的養護を必要とするこどもたちの施設の職員さんとワークショップを行ったり、さまざまな社会的・環境的な背景を持つ多摩という場所についてみんなでフィールドワークをしたり。こうした活動を通して、宮下さんは、「自分たちの足元の揺らぎを感じ、佇み、見えてくるものを捉えたい」と語ります。

今回、ともに話を聞いた東京アートポイント計画ディレクターの森司は、こうした宮下さんの活動内容、そしてプロジェクトの運営手法には、一見わかりやすくはないものの、現在の文化事業や社会とアートの関係を考えるうえでの大きなヒントがあるのではないか、と言います。キーワードは「微弱なもの」。そのヒントを、二人の対話から探っていきます。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:川村庸子/撮影:加藤甫)

日々のなかの「微弱なもの」を、自分の体で感じるために――宮下美穂「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」インタビュー〈前篇〉

足元の揺らぎと、不定形なナメクジ

――前篇ではプロジェクトに通底する宮下さんの考え方や、現代におけるその重要性を中心にお聞きしましたが、後篇は活動の中身についてもお聞きできればと思います。まず気になるのは、事業名の「地勢図」です。ここには宮下さんが造園家をされていることも関係するでしょうが、辞書を引くと「地勢」には、「土地のありさま」のほかに「人の地位・立場」「よって立つ所」の意味もある。なぜ、この言葉を付けたのですか?

宮下:おっしゃるように、人の足元にかかわることだと言えるかもしれません。そこには、揺らぎや変化がつねにある。固定されたものなんかなくて、揺らぎのなかに自分たちが生きているということ。そして揺らぎ自体も変化していく。それをそのまま引き受けようという思いを込めていますね。

それから、サブタイトルに「cleaving」という言葉を使いました。これは、荒川修作とマドリン・ギンズから教わりました。「cleave」という動詞には、「切り裂く」と「くっつく」という意味があります。切り離すことは接合することではありませんが、切り離すべき何かがなければ、こうした行為は存在しませんよね。切り離すことは、何が結ばれていたのかを炙り出します。

これは、ものの見方を変えることとは異なります。荒川さんは「切り結ぶ」と言っていましたが、外から「私」を見て相対化し、視点を変えることで、これからの私たちの暮らしについて、新しいまなざしを得ることができないか、という仮説でもあります。立脚点をずらしていくことで、その回転運動が血流を良くし、あるいは呼吸をしやすくするのではないかと考えています。

――僕は地元が小金井の隣の国分寺なのですが、今回、宮下さんたちが「ゆずりはをたずねてみる」(以下「たずねてみる」)でかかわるアフターケア施設「ゆずりは」が地元にあることに驚きました。恥ずかしながら、こうした施設があることをこれまで意識しなかったからです。宮下さんたちはこの活動で小平市の児童養護施設「二葉むさしが丘学園」(以下「二葉」)にも行かれていますが、こうした施設は多摩に多いのでしょうか?

宮下:多いと思います。そこには、土地が安くて広いという背景もありますね。ほかにも、国立精神・神経医療研究センターやハンセン病の施設があるのは、サナトリウム(結核等の療養所)の跡だったりする。都心から離れた場所に忌諱されるものを置こうという力はずっと働いてきた。

自分たちの暮らす地域についてリサーチする「たましらべ」では、多摩の過去の軍事施設の分布や、ハンセン病療養所や児童自立支援施設などの設置経緯、多摩センターの開発、水道や鉄道のインフラの歴史も調べました。『都市のイメージ』で知られる都市計画家のケヴィン・リンチではないけど、都市の「エッジ」にそういうものが集まってくる。だから「地勢図」は、「地政図」でもあります。ある種のパワーを人はどう扱ってきたか。そこから、同じく周縁化された福島から眺めてみると、我々東京はどのように見えるのか、という問題意識も生まれます。

――前篇に出てきた「ゆずりはのジャム」を認識することではないですが、たしかにそうした視点を得ると、自分のよく知ったエリアの見え方が揺さぶられる感覚があります。

宮下:そういう足元の揺らぎを感じていたいのです。それで言うと、このプロジェクトのあり方をうまく表しているのは、札幌市立大学の須之内元洋さんというデジタルアーカイブ設計者につくってもらった、プロジェクトのウェブサイトにあるビジュアルかもしれません。ページを開くとトップ画面にナメクジみたいなやつが4匹いるんですが、実はこれ、アーツカウンシル東京の紫色の三角形のロゴと真反対になっています(笑)。

――そうなんですか(笑)。

宮下:アーツカウンシル東京のロゴはとても強くて、ロゴとしては機能的で正解なんだけど、私たちはできるだけ強くないものでズラしたい、と。須之内さんは面白がってそういう意図を汲んでくれたと思います。

森:こういうことをこっそり仕込んでいるから、面白いですよね。ラッピングが絶妙すぎてめくじらを立てられないけど、感づく人は何か気づく。微弱なマネジメントですね。

宮下:カーソルで触ると不定形かつ微細に動く仕様で、捉えどころがありません。無数の線で構成されたロゴも、別のデザイナーには「ロゴとして機能していない!」と言われましたが、とても気に入っています。

多摩の未来の地勢図」のウェブサイトのトップ画面にある、ナメクジのようなビジュアル。

「勝手な盛り上がり」と、密かなズラし

――さきほど「事業の拡大が早い」というお話がありましたが、その背景にはこれまで小金井を拠点に活動してきた10年間もあるんでしょうか?

宮下:それはあると思います。私たちの活動では「わからなさ」を撒き散らかしてきたから、みんな耐性ができていたのかもしれませんね。小金井のときに学校連携プログラムを一緒にやっていた先生たちも協力してくれました。

拡大が早いのは、今日の「微弱さ」云々みたいな話を、例えば「ざいしらべ」を一緒にやっている学校の先生たちが共有しているからというより、やっぱり単純な楽しさもあると思います。今日、先生たちと竹林から材料をつくるワークショップの会議をしたのですが、勝手に盛り上がっているんですよ。夏には竹ひごをつくるワークショップをしました。ホームセンターなどで数十円で売っているものだけれど、これがとても奥が深い。大人が集まってただ竹ひごをいじらないでしょう? それにみんなハマっている。

――「ざいしらべ」では、図工の先生たちと素材の実験や研究、素材を集めてみんなが使えるようにした拠点づくりなどをしているんですよね。宮下さんが強く問題意識を共有するようなディレクションをしているわけではなく、むしろ自然に現場が温まっている。

宮下:道を定めないでよその船にしれっと乗らせてもらい、ときどき「うーん、何か違うんじゃないですか?」と言ってみたり、明るく「こんなことできます!」と言って、結局やらなかったり。そんな風に相手の文法に乗らせてもらいつつ、ときどきそれをズラすようなことをしていたら、今度は、先生たちが自分で竹を切りに行くということになったんです。

最近は大抵、教材は業者から買うじゃないですか。竹ひごづくりは案外危ないし、綺麗に仕上げるのは難しい。でも、シンプルな繰り返しに、たぶん竹の面白さを感じたんじゃないかな。竹林だけこちらで探したら、近くの小学校に集まって、自分たちで竹を切って加工する、と。事業でリアカーを買ったんです。素材は業者が車で運んでくるのが当たり前な人たちに、リアカーどうぞ、と。そうやって徐々に働きかけていって、「自分でできる感」を拡張してほしいんですね。

いま、自分の授業に自信がないと話す先生に、直径40cm、長さ4mの丸太を渡して大きなノコギリでただ切る、というワークショプを小学6年生と一緒にやってみないかと提案しています。これは、「無茶で無駄なことを教育の現場でやってもいいかもしれないね。それはそれぞれの限界を拡張するかもしれないね」というメッセージでもあります。もちろん、私たちも決して何かを教えるのではなく、必死に伴走しています。

――ワークショップや活動を一緒にやっていくなかで、いつのまにか、自分の見るもの、できることが広がっている、と。

宮下:素材は軽トラで運んでもらえるものだと思っているから、「自分でリアカーで運んで」と言われてみなさん最初は驚きますけどね。

森:それはひとつのコミュニティ形成でもあるんですよね。いままで「軽トラで運んでもらうコミュニティ」だったものが、知らぬ間に「竹を切ってリアカーで運ぶコミュニティ」になっている。コミュニティって、共通の体験がないと形成されないから、そうしたものができることで参加者のなかの「大切なもの」が微妙に変わっていくはずなんです。それを強制しないで促せるとしたら、これはアートの得意技だと思います。

図工の先生たちと素材や技術の共有をする「ざいしらべ」にて、東村山市の山に入って竹を刈ったときの様子。

宮下:一方、「たずねてみる」の方は、いまはまだアクセルをあえて全開にせず、ほどよい状態にしている部分があります。このプログラムでは、さきほど名前の挙がった「二葉むさしが丘学園」に、演劇ワークショップを専門とする花崎攝(せつ)さんに入ってもらっているのですが、彼女が100%の力を出すとすごく面白いと思うんです。ただ、まだアクセルとブレーキを交互に踏んで何かが湧き上がってくるのを待っています。というのも、そこにいる人たちの「船」に乗せてもらおうというとき、そんなに急ぐともったいないと思っているから。焦らなくてもできることがあるし、むしろその「あわい」のような時間のなかで、ゆっくりと、見えてくるものを大切に感じたい。

森:アートプロジェクトをマネジメントするとき、多くの人は既定のやりやすいレールや正義に乗ってしまう。でも、児童養護施設にいるこどもたちというのは、複雑な事情や背景や現状を抱えています。その子たちの持っている複雑さが、プロジェクトの進め方を「これでいいのだろうか」と問い直すきっかけになるかもしれませんね。

だから「たずねてみる」は、やりながらこちらが鍛えられていく活動だと思うんですよ。初めから目指す完成形があるんじゃなくて、更新していくものだろう、と。むしろ現場が発している微弱なものを、こちらが受信機として引き取れていれば、事業という航海における海図の読み違いもなく、行き着くところに行くんじゃないか。そう感じています。

宮下:それは唯一確信しています。その海図の深さと豊かさが生きる糧にもなると思いますね。

児童養護施設の職員を対象とした「ゆずりはをたずねてみる」。楽器の奏でるささやかな音に促されて、和紙に思い思いに絵を描いたときの様子。

役割を超えて、こどもの複雑性に出会う

――「たずねてみる」では、施設のこどもたちではなく、むしろそのケアをする職員さんを対象に演劇的なワークショップを行なっているそうですが、なぜでしょうか?

宮下:施設のこどもたちの複雑性という話があったけど、職員さんは社会正義に燃えた真面目な方が多いと思います。私は、かれらがこどもたちが持っている複雑さに感応することがとても大事だと思っています。

職員さんはこどもたちに社会で生きていくうえでの「正しさ」を示します。もちろん、それはとても大切な仕事なのですが、一方で、人間の本質はどちらかというとこどもたちの複雑性の方にあって、職員さんたちに、この複雑さのなかに没入してほしい。職員さんはすごく真面目で、「何かをしてあげたい」「助けたい」とつねに思っている。でも、その真面目さゆえに折れてしまう部分もあるのかなと。むしろ、この子たちが抱える辛さとか傷つきやすさに、職員さんが自分自身のなかにある同じようなやわらかさを持って出会うと変わっていくのではないでしょうか。

――「二葉」にはどのくらいのこどもがいるのですか?

宮下:定員は78人です。0歳から高校生までいますからね。いろんなプロセスを経て入所していると思います。来年から施設を出ないといけない子は一人暮らしの練習もしています。本当にいろんなことを教えてくれますね。私たちがいま主に関わっているのは、小学生から高校生までが何人かのグループになり、そこに職員さん4~5人が交代で入って一軒家に住む、グループホームです。こうしたグループホームが「二葉」の周りに点在していて、そこから学校に通うこどももいます。

そうしたなかで、ワークショップは職員さんが対象だけど、ときどきこどもが来てくれたんです。そうすると職員さんは自分の時間から、こどもが主役の時間にスイッチが変わる。それまではその辺でリラックスしてストレッチをしていた人が、こどもの前では「ザ・職員」になってしまう。そういう関係ではないところで、何かできたらいいなと。

――社会的な役割で接してしまう部分がどうしてもあるのですね。

宮下:そう、役割に生きてしまうんです。例えば、こどもをお風呂に入れることを「入浴介助」と言うんですよ。「お風呂に入れる」でいいじゃんね、と思うんだけど。

――そういう関係に疑問を持っている職員さんもいるんですか?

宮下:そう感じる人は自然に変わっていくんでしょうね。ときどき覗きにくる私と同年代の方は、お父さんでもお兄さんでもスタッフでもない、「その人」としてこどもと接しています。だけどあくまでも職員として、距離を変えない人もいると思います。それはそれで大切なスタンスであることは間違いありませんが。

こどもとの距離を相手の状況に合わせて柔軟に変えるのは、すごく難しいことだと思います。それは、こちらが成熟していないとできない。ここまでは大丈夫とか、ここから先はダメとか、そういう境目を自分で判断して状況と相手に合わせてコントロールできるのは人間として、職員として高度な技能です。いつも同じ顔をしている方がある意味では楽でしょう。でも、そこを超えないと本当の人と人との関係はつくれないと思います。

正直、壁はありますが、職員さんに「職員」の顔を外すことをしてほしい。いつかそれを攝さんにやってもらえたら。ただ、それはもう少し機が熟してからだと考えています。

東京アートポイント計画のディレクター・森司とともに話を伺った。

重なる日常と時間が支えるもの、変えるもの

森:冒頭で宮下さんは、「初めてアートが役に立つと感じた」とお話しされましたよね。そのように言うようになったことが、重要だと思うんです。おそらく、小金井の事業をやっていた頃から同じことは感じていたはずですよね。でも、いまは「アートが役立つ」とあえて口にしないといけない感じがあるということなんじゃないか。そしてそれは、美術館のなかにあるアートや戦争的なアートではなく、微弱なアートが役に立つという意味だと思います。

宮下:役に立たないものが、一番役に立っていることがありますよね。もっとも役に立たないものが、それでも居ていいと言われる、その承認が大事だと思います。

あと、アートって、曖昧さの幅がほかのジャンルに比べて広いですよね。そのあやふやな広さがあるからこそ通り抜けられる道がある気がしています。例えば、あるものとあるものが対立しているとき、その間の細い道をアカデミックな四角い箱では通れないけど、このウェブサイトにあるようなナメクジみたいな存在は通り抜けられるんじゃないかな、と。

森:アートは、役に立たない存在です。逆に何かが役に立たなかったら、それをアートだと認定してあげれば良い。大抵、多くのアーティストは、アートと言いながら妙に役に立つものをつくってしまう。役に立たないものをつくるのは意外と難しくって、これだけ意図に溢れた人工的な世界に生きていると、そのあり方がなかなかイメージできない。だから本当に名付けようのないものには、翻って貴重な価値が生まれることもあるんですよね。

今日の会話で、宮下さんが大切にするそうした「微弱さ」のニュアンスがどのくらい言葉にできたかというと、またうまく煙に巻かれた気もするけれど(笑)、ひとつだけ、ある人にとって一見わからないことをやっている人たちが、その人自身もわかってないわけではない、ということは言っておきたいですね。実はそこには確信があって、無闇にやっているわけではない。早急に説明する言葉を用意することもできなくはないけど、そうすることで失われるものがあるから、それならそっとしておいてほしい気持ちもある。言葉から逃れる密やかな時間が長ければ長いほど、ゆっくりと大切なことが育つんじゃないでしょうか。

宮下:今日は家族の話をしましたが、家具をつくったり、建物のリノベーションをしている弟は早くに連れ合いを亡くして、男手ひとつでこども3人を育てています。朝、こどもたちのお弁当をつくって、掃除や洗濯をして、学校に送り出して、仕事に行く。そういう日々を送っています。

私はそれを見ていて、大きな喪失のなかで弟が破綻せずになんとかやってこられたのは、まさにそうした日常の生活があったからではないか、と思うんです。生活には、依存とは違う寄りかかりがある。それに弟がいかに支えられたか。お弁当をつくることから始まる日常を通して、弟の方がよほどこどもたちに育てられた感覚があると思う。末の娘は出生後1年以上、病床の義妹を家族が看護するために児童養護施設で育てていただきました。こどもたちはこどもたちで深いところで、人として何かを感得した感じがします。

時間というものは面白いですよね。施設の職員さんたちも何かのきっかけでこどもたちと新しく出会うかもしれない。何かの時間や経験がその人を変えていくかもしれない。そのときに一発で変わるのではなくて、日々のなかでささやかな何かが重なりながらが変わっていくんだと思う。そういうものだと思っています。

Profile

宮下美穂(みやした・みほ)

NPO法人アートフル・アクション事務局長
2011年から小金井アートフル・アクション!の事業運営に携わる。事業の多くは、スタッフとして市民、インターン、行政担当者、近隣大学の学生や教員などの多様なかたちの参加によって成り立っている。多くの人の経験やノウハウが自在に活かし合われ、事業が運営されていることが強み。日々、気づくとさまざまなエンジンがいろいろな場所で回っているという状況に感動と感謝の気持ちを抱きつつ、毎日を過ごしている。編み物に例えると、ある種の粗い編み目同士が重なり合うことで目が詰んだしなやかで強い布になるように、多様な表現活動が折り重なり、洗練されて行く可能性を日々感じている。

多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting

文化や歴史などの「地勢」を探ることを通して、一人ひとりが自分の暮らす足元を見つめ直すプロジェクト。2011~2020年度に東京アートポイント計画と共催した小金井アートフル・アクション!が、これまでの経験を活かして中間支援的な働きをしながら、小学校や児童養護施設など多様な団体と協働して事業を行っている。
https://cleavingartmeeting.com
*東京アートポイント計画として2021年度から実施

日々のなかの「微弱なもの」を、自分の体で感じるために――宮下美穂「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」インタビュー〈前篇〉

いま、まちのなかでアートを営むときに大切な視点、姿勢とは何か。そんな問いを、アートプロジェクトの担い手と一緒に考えてきた東京アートポイント計画の「プロジェクトインタビュー」シリーズ。今回は、2021年度より東京都多摩地域(*)を舞台にアートプロジェクト「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」を実施する、NPO法人アートフル・アクション事務局長の宮下美穂さんを訪ねました。

*多摩地域:東京都の人口の3分の1にあたる400万人超を擁し、面積もその半分を占める、都道府県レベルの規模を持つ30市町村。

多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」は、小金井で2011年から10年間活動したプロジェクト「小金井アートフル・アクション!」を踏まえ、そこで得た経験や技術を、より広域のエリアで活かしていこうと始まった取り組みです。その大きな特徴は、多摩ですでに活動している誰かと一緒にプロジェクトを行うこと。

例えば、学校の図工の先生たちとネットワークづくりをしたり、社会的養護を必要とするこどもたちの施設の職員さんとワークショップを行ったり、さまざまな社会的・環境的な背景を持つ多摩という場所についてみんなでフィールドワークをしたり。こうした活動を通して、宮下さんは、「自分たちの足元の揺らぎを感じ、佇み、見えてくるものを捉えたい」と語ります。

今回、ともに話を聞いた東京アートポイント計画ディレクターの森司は、こうした宮下さんの活動内容、そしてプロジェクトの運営手法には、一見わかりやすくはないものの、現在の文化事業や社会とアートの関係を考えるうえでの大きなヒントがあるのではないか、と言います。キーワードは「微弱なもの」。そのヒントを、二人の対話から探っていきます。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:川村庸子/撮影:加藤甫)

日々のなかの「微弱なもの」を、自分の体で感じるために――宮下美穂「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」インタビュー〈後篇〉

「戦争的」ではない、日常のなかの「微弱さ」

森:今日、僕は宮下さんに「弱さ」についてお聞きしたいと思ってここに来ました。

――「弱さ」ですか。

森:はい、「弱いということ」について話したいんです。

今年度に始まった「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」(以下「地勢図」)では、宮下さんたちが小金井で蓄積してきたものを多摩に広げ、主に三つの活動をしています。一つ目は、小学校の図工の先生たちと素材や技術の共有をする「ざいしらべ」。二つ目は、児童養護施設の職員さんとかかわる「ゆずりはをたずねてみる」(以下「たずねてみる」)。三つ目は、作家や市民が多摩についてリサーチする「多摩の未来の地勢図をともに描く」(以下「ともに描く」) です。

その個別の話もしたいのですが、僕は、これらは宮下さんのいまという時代への応答という気がしているんです。そして、それらを根っこの部分でつないでいるのが「弱さ」を大切にする感覚ではないかと思うんです。

宮下:弱さ、というより「微弱さ」でしょうか? おっしゃる通りですが、大切にしているというより、そこにすがらざるを得ない。

――「微弱さ」が現代への応答であるとはどういうことでしょうか?

森:この数年感じているのは、文化事業は戦争の比喩で語られやすいということです。大規模イベントが代表的ですが、文化の営みの価値を計るうえでいまでも大抵の場合重視されるのは、「パワフルで、効果までの速度が速く、インパクトがある」ことなんですね。ある人はこれを「ミサイル」に例えていました。そして、我々がかかわるアートプロジェクトも、この戦争的な価値で計られがちなんです。

一方、僕は文化を戦争用語を使わずに語れないかとずっと考えてきました。でも、そうした価値のあり方は、「地味」「わからない」と言われてしまう。それは、文化を捉える認識のコードが古いステレオタイプのように見えるのです。そうしたなか、宮下さんの仕掛ける活動は旧来の型では拾えない価値を扱っている。そこに時代への応答性を感じるんです。

宮下:私がアートの持つ微弱さが大切だと思うのは、それが近代的な強い主体と客体の二項対立や、正解不正解ではない視座を提示することができるのではないか、と感じているからです。平たく言えば、「私」と「世界」の関係をズラすことができる。この10年ほどで、こんなにアートが役立つと感じるのは初めてかもしれないですね。明確な「私」や「世界」を定置したり、無条件に盲信したりすることで、実はものすごく苦しくなる。「世界」なんてありえるのかな? とさえ思います。

例えば、リサーチプログラム「ともに描く」では、参加者と「フィールドワーク試論」というものを始めています。従来のアカデミックなフィールドワークは、観察者の都合で、観察者としてのまなざしでフィールドに入るものでしたよね。観察者、そして観察はある意味で権力。それをズラしたいんです。明確な目的意識やディレクションがあると、観察者と世界の関係は恣意的で合目的的かつ固定的になるけれど、そこにアートを挟むと構え方が揺らぎ、微弱さに出会わざるを得なくなる。既存の手法では見えなかった細やかなものが見えるようになる。

どのくらいの微弱さかというと、私たちが「たずねてみる」でかかわっている、児童養護施設を巣立ったこどもの支援を行う相談所の「ゆずりは」では、そこに通う子たちがジャムをつくって販売しています。例えば、それをフィールドワークの参加者にお裾分けすると、その人の世界のなかに「ゆずりはのジャム」というものが存在しているという認識がぼんやりと立ち現れる。そして、この「ジャム経験」は、その人の日常のなかで次の回路につながっていく。そのくらいの微弱さでいいんじゃないかと思うんです。

――個人のなかの微かな変化だけど、それが日々の視線を少し広げていくと。

宮下:このプログラムのフィールドワークでは参加者に対して、大仰なものではなく、ただ、あなたの引っかかりを持ってきてくださいと伝えています。例えば電車の窓から見えた崩れている崖の話をしてくれる人がいる。でもその背景を探ると、実は平安時代まで遡れたりして、毛細血管のようなネットワークを形成している。それは揺らいでいて弱いんだけれど、この真空のような日常のなかの「何か」ではある。そんな認識のあり方を自明化したらどうかなと。

東京アートポイント計画のディレクター・森司とともに話を伺った。

生きる術とかかわりの隙間をつくる、「微弱な」マネジメント

森:編集者の松岡正剛さんが1995年に『フラジャイル 弱さからの出発』という本を出されています。95年は阪神淡路大震災等もあり、「弱さ」という思想が注目された時期でした。でも、現在も、世間では「弱さ」へのネガティブな印象がまだ上書きされきれていない。そうすると宮下さんのような人は、世間の価値の外側にあることを「好きだからやっている」ことになってしまう。そういうプロジェクトのマネジメントってしんどいでしょう?

宮下:しんどい!

森:それをどのようにうまくやられているのか、をお聞きしたいです。

宮下:難しいですが、ひとつは「放逐」かな。あらゆることを放っておく。いろんなものが立ち上がるまで、とことん待つ。そして、自分が一番弱くあること。いろんな人にすがりまくっている。例えば、あえてプロジェクトのマネジメント経験がない人に仕切ってもらい、それを周りが助けるかたちにしたり。私がプロジェクトを運営する場合も、最初から「どう?」と周りに聞いてしまい、何かが出てくるのをただ待って、こちらで決めない。できるだけ提案を生かす、あるいはそのアイデアに助けてもらう。その方がとても面白くなります。系統立てて目的に至る、という方法は取りません。

森:そもそも宮下さんは、「微弱なもの」にどこで出会ったんですか?

宮下:トップダウンのヒエラルキーのなかで自分が縛られるのは嫌だという感覚は、幼いときからありました。うちの父は1932(昭和7)年生まれで、価値が変動した時代の人。私には兄と弟がいますが、父から言われたのは「サラリーマンになるな。生きるうえで必要なことは自分で習得しろ、国を信じるな」ということだけでした。きょうだいは結局会社員にはなりませんでした。というか、なれなかった。

あと、田舎で育ったことは大きいかもしれない。故郷は山梨の富士吉田です。その自然のなかで、お兄ちゃんは小学校3年頃になると夜9時にも帰ってこないことがあって、母が心配していると意気揚々とマムシを獲ってくるような感じでした(笑)。でも、父は怒らなかった。そのマムシは焼酎漬けになって戸棚の下にありました。そういうことが普通だったんですね。

森:じゃあ、社会的な強さを求める家庭ではなかった?

宮下:むしろ逆でしたね。既存の価値体系のなかで成功しろ、みたいなことは一度も言われなかった。私は学校が嫌いでした。高校時代は学校に「行けない」のではなくて、家を出たあと、自分からあえて行ってなかった。必要な出席数を「正」の字で数えて学校の机の上に貼っていましたよ(笑)。それを当時から、「私が決めたんだからいいでしょ?」と思っていた。父はそれも一度も叱りませんでした。

森:そう聞くと、宮下さんはいわゆる「アンチ」の構えの人でもないんですよね。

宮下:反発はとくにないです。アンチは権力と相補的だから。

森:だからこそ、余計にわかりにくいですよね。とくに、行政やビジネスのコードがきちんと身体に染み込んでいると、宮下さんの扱う価値はなかなか伝わりにくい。だけどそうした微弱な価値を丁寧に扱うマネジメントは、ひとつのスキルだと思っています。

――宮下さん個人の性質ではなくて、みんなが使いうるはずの技術だと。

宮下:二項対立のような「強い」世界の捉え方はわかりやすいのですが、それだとこぼれ落ちてしまうものがあるし、やりたいことに届かないと考えてきました。むしろそこに余白をつくって、誰もが手を出せる状況にしておくことで、「誰もが何かをできる状態」にするというか。

でも、こうした私のやり方をプロジェクトのメンバーが理解しているかというと、そうではありません。私よりもっときちんとしたメンバーは、「話がわかりにくい」というよりもわからなくて当たり前で、フラストレーションすらも感じてないようです(笑)。

森:なるほど。身近なスタッフもわからないのだから、世間からわかりづらいのは無理もない。でも実は、世間はそれを必要としているはずなんですよね。

小学校の図工の先生と一緒に、大木の根などの手に入れにくい自然素材や、染色など伝統的な技術を学んでいる「ざいしらべ」の活動風景。

つらく、しんどくても、自分の体で感じる

森:近年、さまざまな現場で行政側が求めるものと、文化事業者として大切にしたいことのギャップに戸惑うことが増えました。僕たちにとっては既存の価値であり、あえて扱わなくても良いように思えることが、行政的には「安心ポイント」だったりする。事業にまつわる数字が良いことや、通りの良いキーワードがあるだけで安心してしまう場面もよくあります。

例えば、この「地勢図」は2021年度から始まりましたが、実感として広がり方が早い気がしています。参加者や関係者が思ったより集まっている。その「数字の良さ」は仕掛けた側としては嬉しいことなんですが、僕はこの拡大感は「社会のマズさ」のリトマス試験紙だと思っています。学校や児童養護施設など、社会課題が背景にあるこどもにかかわる現場からのニーズが多いことには、ハッピーではない側面もありますよね。

宮下:人の集まり方には驚きましたよね。

――それだけ現場が切迫していることの現れでもありますね。

児童養護施設の職員を対象とした「ゆずりはをたずねてみる」では、隣り合う人と肩の力を抜いて出会えるように、ダンスや楽器演奏、心と体をほぐすエクササイズなどを行っている。

森:最近は「SDGs」を冠する活動が注目を集めていますが、宮下さんはどう見ていますか?

宮下:みんな名前を付けることがすごく好きですよね。さっきの、行政の人が既存の価値で安心するという話を聞いて思うのは、人は微弱さに耐えられないのだな、ということ。みんなすごく不安で、大きなフレームから外れることを避けてるのかなと思います。

そういうなかで、人は問題の「解決」を謳う大きな言葉や枠組みに頼りたくなる。本来、人間の目や手や体というものは、もっと多くのもの、細やかなもの、微細な変化を察知できるでしょう? でも大きなものに乗ることで、私には察知することを放棄しているようにしか思えない。

だから、それに乗らないで、自分の手が感じること、目が見るもの、それを小さくてもやり続けることしかない。もちろん、そこには何の保証もないんですが、そうして自分の体で感知した何かは生活の「よすが」にもなりえます。そのよすがをつなぐ線を、たまにはドボンと裏切られたりしながらも見つけていくこと。それは大きなものに委ねるよりもしんどくて痛いことかもしれないけれど、自分の体で感じることは、生きる実感につながっていくように思います。

「多摩の未来の地勢図をともに描く」では、フィールドワークやレクチャーを通して、自分たちの暮らす地域への理解を深めている(全14回)。写真家の豊田有希をゲストに迎えた回の様子。

森:「SDGs」はどれだけ細やかそうでも、やはり強いロジックから出てきたものに思えますね。今日話してきたような価値観さえも、「SDGs的だね」と受け止められてしまうこともあると感じています。

宮下:誰かに習ったことをトレースしたら安心、ではなくて、自分で悪戦苦闘すると見方も変わるのにね。でも、これはとても根深い問題だと思います。

森:こういうことは広義の教育の問題ですよね。「地勢図」ではこどもにかかわる方たちと協働していますが、「こども」の領域をいじろうとしているのはなぜですか?

宮下:もっとも原初的な衝動みたいなものを、こどもの残酷さも含めて肯定したいと思うからでしょうか。いまの世の中、こどもたちは上にも下にもハミ出すことが許されず平均化されてしまう。大人は二項対立的なわかりやすい世界観を押し付けるけど、微弱さの尺度を持つとグレーの領域が広がっていきますよね。例えばジェンダーも、二項対立では二つの性しか見えないけど、微弱な集合体だとむしろ差がわからなくなっていくと思うんです。

そうした細やかな目線からは、ときに驚く視点が生まれます。前回のインタビューでも話しましたが、以前、東村山の多磨全生園にある国立ハンセン病資料館を訪れたとき、あるメンバーが「ここには私たちが失った自治がある」と言って、私はそんな風に思えたことにポジティブな意味で驚いたんです。

それをただ「かわいそう」ってまなざしだけで捉えていると、何も変わらない。一方、無闇に視点の目盛を180度回転させても、それは暴力になってしまう。その間でより細かく目盛を調整して、そこにできる隙間から向こうを見ることが重要だと思うんです。

日々のなかの「微弱なもの」を、自分の体で感じるために――宮下美穂「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」インタビュー〈後篇〉

Profile

宮下美穂(みやした・みほ)

NPO法人アートフル・アクション事務局長
2011年から小金井アートフル・アクション!の事業運営に携わる。事業の多くは、スタッフとして市民、インターン、行政担当者、近隣大学の学生や教員などの多様なかたちの参加によって成り立っている。多くの人の経験やノウハウが自在に活かし合われ、事業が運営されていることが強み。日々、気づくとさまざまなエンジンがいろいろな場所で回っているという状況に感動と感謝の気持ちを抱きつつ、毎日を過ごしている。編み物に例えると、ある種の粗い編み目同士が重なり合うことで目が詰んだしなやかで強い布になるように、多様な表現活動が折り重なり、洗練されて行く可能性を日々感じている。

多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting

文化や歴史などの「地勢」を探ることを通して、一人ひとりが自分の暮らす足元を見つめ直すプロジェクト。2011~2020年度に東京アートポイント計画と共催した小金井アートフル・アクション!が、これまでの経験を活かして中間支援的な働きをしながら、小学校や児童養護施設など多様な団体と協働して事業を行っている。
https://cleavingartmeeting.com
*東京アートポイント計画として2021年度から実施

ドキュメンタリーの部 A期 DAY3「他者のルーツをまちのなかに見出す」

2021/9/5 10:00-17:00

DAY2において、上野近辺のフィールドワークを通してそれぞれの「シネマポートレイト」をつくることで、各々のルーツに触れ、互いに理解を深めたメンバーたち。しかし、実際のまちにはここに集まったメンバーだけではなく、より多様なルーツを持つ多くの人々が生活している。

DAY3「他者のルーツをまちの中に見出す」

DAY3では、3つのグループに分かれたメンバーたちが、上野エリアの外へ出て、「まちの中の他者」に会いに行き、そこでその人のルーツを見出すことを試みる。DAY2のフィールドワークと似ているが、異なるのはその日初めて会う人と、一緒にフィールドワークを行うこと。そして後日、その過程を音声と写真で記録し、最終的に10分以内のドキュメンタリー作品を制作することを目的としていることだ。DAY1、2の経験を生かしながら、メンバーたちはどのようにその人のルーツとその人がいるまちと向きあっていくのだろうか。

今回は「まちの中の他者」が「探す人」である。その人の探す旅を記録するために、DAY2と同じように3つの役割を設けるが、DAY3ではローテーションはなく、それぞれの役割に専念する。括弧書きで映画制作の現場で使用される役割を与え、その日限りのワークショップではなく、あくまでも実践の一環として意識してもらう。

①インタビューする人 (インタビュアー)
・取材対象者の旅に伴走する

②録音する人(サウンドオペレーター)
・音声で記録する

③写真を撮る人(カメラオペレーター)
・写真で記録する

「まちの中の他者」として、プロジェクトに興味を持っていただいた3名の方に出演をお願いした。事前に運営スタッフがヒアリングを行い、それぞれの人の「馴染みのまち」を教えてもらう。そこが今回のフィールドとなる。

グループA1
①インタビューする人 (インタビュアー):ヒョンジン
②録音する人(サウンドオペレーター):トシキ
③写真を撮る人(カメラオペレーター):パイ
出演者:キャサリンさん
フィールド:高井戸

高井戸駅の改札前でキャサリンさんと待ち合わせる。あいさつもそこそこに、近くの公園に皆で移動してベンチに腰掛け、ゆっくりと話を伺った。まずは、メンバーそれぞれの自己紹介から。ヒョンジンのアイディアで、DAY2で撮影した写真を見せながら、自分のルーツや、これから一緒に探していきたいことを伝える。キャサリンさんは「自分のルーツ…そんな立派なものは探せるかわからないけど…」と少し不安な表情ではあるが、公園を出てまちを歩き出すとすぐに自身の生い立ちを語り始めた。

キャサリンさんは、パラグアイで生まれ、日系人の母と台湾にルーツを持つ父の元で育った。現地で「パラグアイ人」として見られないことが多かった彼女は、「自分は何人なんだ? 自分は何なんだ?」という葛藤の中、自身のルーツを辿る旅に出る。最初に訪れたのは父方のルーツである台湾だった。台湾に住んだ3年間はとても実りのある時間だったと語ってくれた。「自分が満足したんです。改めて台湾ということを知って。自分の中にある台湾を知ることもできて。いろんな発見もあって。」その一例として、カレーライスのエピソードがある。彼女は子供のころから、カレーとご飯をぐちゃぐちゃに混ぜてから食べることを好んだ。両親からは「はしたない」とよく叱られていたが、いざ台湾に来て肉汁とご飯を混ぜ合わせた魯肉飯(ルーローハン)を見て、 「覚えてる?ぐちゃぐちゃにして食べてたの。私、ここ台湾人だったよ」と母親に電話で話したそうだ。

キャサリンさんとメンバーは、線路沿いに流れる小さな川を横切り、住宅街のほうに進む。彼女が日本に来て初めて住んだシェアハウス付近へと向かっていく。

台湾の経験を経て「これは日本に行ったら日本の部分も絶対出てくるんだろうな」と思ったキャサリンさんは、台湾を発ち来日。高井戸のシェアハウスで暮らし始める。しかし、南米で聞いていた「日本人はみんないい人」というイメージは現実とは異なり、シェアハウスでのトラブルや、最初に勤めた会社の労働環境が劣悪だったりと、苦労が絶えなかったらしい。

シェアハウスの前に到着すると、親子が道端でサッカーをしていた。キャサリンさんが父親の方に声をかけ、懐かしそうにあいさつを交わしている。シェアハウス在住時によく遊んだ近所の家族だったらしい。今は別のまちに引っ越して生活していることを2人に伝え、その場を後にした。

そこから少し遠回りしながら駅に戻る。駅も近づいてきたころ、ヒョンジンがDAY1のディスカッションで議論になった「日本に“帰る”という感覚より、”戻る”いう感覚」について、キャサリンさんはどう考えるか? と問いかけた。キャサリンさんは「今自分のいるところが自分の帰る場所と決めてる。だから今は日本が帰る場所。」と答えると、「パラグアイや台湾はどうですか?」とヒョンジンが重ねて尋ねる。彼女ははっきりとした口調で「“行く”ですね」と返した。

グループA2
①インタビューする人 (インタビュアー):ショウ
②録音する人(サウンドオペレーター):チョウ
③写真を撮る人(カメラオペレーター):コンスタンチャア
出演者:キマさん
フィールド:代々木上原

メンバーたちは、キマさんと代々木上原駅で落ち合い、それから周辺を少し歩いた。代々木上原は、キマさんにとってよく遊びに来るまちで、ひとりで、または友達とご飯を食べたり、お茶をしたりしていたらしい。コロナ禍となってから、遊びに出ることも少なくなり、このまちに来るのも久しぶりだという。

キマさんの母方の祖先は日本からハワイに渡った移民で、祖父母はそこからアメリカの東海岸へ移住した。キマさんはアメリカで生まれ育ち、母のルーツであることや友人の影響から日本に興味を持つようになる。そして高校生のときに沖縄県名護市に6週間の留学を経験する。それから大学院での1年間の沖縄留学を経て、卒業後に沖縄へ移住し暮らし始める。そして今から3年前に東京に引っ越してきたという。

学生時代から社会人生活に至るまで、日本での暮らしを楽しんでいるものの、まわりの日本人とのズレはずっと感じ続けているという。彼女の考えでは教育の違いが要因ではないかということだが、「日本人と深い話ができない。こういうことを話して、こういう風に意見を変えられる、といったことができない。もちろん日本人全員というわけではないけど。ストレートの話しかできない。」と打ち明けた。このコメントを受け、ショウは苦笑いを浮かべながら「ぐさっと刺さりました」と答え、その横で何度も頷いていたコンスタンチャアが「いっしょ」とこぼす。

キマさんとメンバーは、日曜の朝でどこも閉まっている商店街を抜けて、近くにある代々木公園のベンチに腰掛けていた。近くで大学生のサークルと思われる人たちが、演劇の練習をしている。ところどころに英語が聞こえる。「アメリカ人にとって、日本人として育つのが想像できない。制服着て、電車乗って、学校に行って。ある意味憧れなんですね。楽しそう。青春はすごい楽しそう。……逆にアメリカは早く大人になりたいってなるから。」

また、キマさんはアメリカ人に対するステレオタイプなイメージにも悩まされているという。「今まで会ったアメリカ人の中で一番シャイだなって言われたんです。その日初めて会ったのに。」それに対してコンスタンチャアも「今部屋探ししていて。不動産屋さんにもよく言われます。アメリカ国籍の人がよくうるさい人であるって。私もショックで。その人知らないのに、最初からボックスに入れるのがめっちゃ残念。」そして、そのようなステレオタイプなイメージにまつわる先入観を持たれてしまったときに、トラブルを避けるためにそのイメージを内面化してしまうこともあるという。キマさんとコンスタンチャアは互いに「そうそう」と言いながら公園を歩いた。

フィールドワークの最後に、この旅の記録に基づくドキュメンタリー作品のタイトルをキマさんと共に皆で考えた。ここでチョウがひとつアイディアを出す。「今の場所っていうようなテーマもいいと思います。場所っていうのは……ここも場所で、沖縄も場所で、アメリカも場所で。」ルーツを探る旅に出たキマさんとメンバーたちが辿り着いたのは、過去ではなく、今現在のキマさんが立つ場所だった。

グループA3
①インタビューする人 (インタビュアー)+②録音する人(サウンドオペレーター)録音:テイ
③写真を撮る人(カメラオペレーター):アントン
出演者:ももさん
フィールド:南砂町

江東区の南砂町駅でももさんと待ち合わせる。アントンが手にするコーヒーを見て、テイも「わたしも買ってくればよかった」とつぶやく。それをももさんに聞かれ、「買っていきますか?」と尋ねられるも「まだ早いです…」と言い、3人は歩き始める。

ももさんの両親は中国人だが、30年前に来日し、ももさん自身は日本で生まれ、4歳からこの南砂町で育った。今は南砂町を離れてひとりでひとり暮らしをしながら金融の会社に勤めているため、このまちに来るのは“里帰り”の気分だという。自身が中国にルーツを持つことについて、幼少期は「中国帰れよ」などといった悪口を言われたこともあったが、中学以降はそれが自分の個性として強みとなり、今はポジティブにそのことを捉えているという。

ももさんは自分の地元を紹介するようにまちを案内しながら、そこでの思い出を聞かせてくれる。メンバーの2人はそれについて歩きながら、まちを観察している。遊具のある小さな公園で、テイが「台湾だと、公園にはおばちゃんとかがいて」と話すと、上海の留学経験のあるももさんも「ああ、中国でもそうでしたね。」と答える。アントンは「岐阜の公園にはそういうことあった」と岐阜在住時のことを思い出している。また、立体駐車場を見てテイが「これ動いてるの見たことない」と言うと、ももさんが「今住んでいるところこれなんですよ。」と答える。

ももさんの思い出話を聞いていると、彼女がこのまちで過ごした姿がなんとなくだがイメージできるような気がしてくる。通っていた水泳教室の前に、必ず友達と公園で遊んでいたこと。商店街で10円まんじゅうを買ったこと。小学校の行事で、近所にある大きな桜の木を写生したこと。コミュニティ農園で、小学校の先生と野菜を収穫したこと。親に「本は買うものではなく借りるものだ」と言われて、通った図書館のこと。

グループA1、A2で聞いたエピソードは、どれも私にとっては珍しく、新鮮なものであったが、このグループの中でのエピソードは、埼玉で生まれた私にも、どこか重なる思い出があり郷愁を覚えた。ただ、それを聞いていたメンバーの2人はどうだったのだろうか? 私とは全く違う感想を持ったのかもしれない。

ももさんは地元から遠い中学を受験し通い始めると、その学校の友人たちとは渋谷などの都心で遊ぶようになったが、地元の友人たちとは変わらずこのまちで遊んでいたという。その話を聞いたテイの「じゃあ、渋谷とここを使い分けてますか?」という質問に対して、ももさんは「渋谷はおしゃれしていくところだけど、このまちは裏庭。自分のテリトリーみたいなところ。すっぴんでも行ける場所。」と笑いながら語った。

編集準備/ディスカッション

午前中のフィールドワークを終え、午後はROOM302でドキュメンタリー作品をつくるための準備に入る。メンバーたちは、グループごとに録音してきた音声を確認し、作品化する際の構成を検討する。その作品は次のタームであるフィクションの部の初日に上映されるため、メンバーはグループごとに連携しながらそれまでに作品を完成させなければならない。そのうちに、今日撮影した写真の紙焼きが到着し、それをテーブルに並べて最後のディスカッションが行われた。

コンスタンチャア「最後に何があるか相手も私たちもわからないのに、その何かに向かっている、というのがめっちゃ面白い経験だった」
チョウ「普段は初めて出会った人と、こんな深い会話をしたことがなかった」
アントン「自分のことについて面白さがわからない。だから相手もインタビュアーもわからないから、どうやってそれを聞いていくのか、それはもっと考えないとと思った。」

このドキュメンタリーの部の3日間で、自分のこと、他のメンバーのこと、まちの中の他者のこと、そしてそれぞれのまちのことを、様々な視点を交換しながら考えてきた。その経験は、これからの映画制作はもちろん、それぞれの普段の生活でもなにかしらの形で影響を及ぼすだろう。テイ自身、「自分はずっと日本語が下手だと思っていました。でもこの3日間は忙しくて、それも忘れた。気にしないでみんなと話せるようになった。これも自分の成長だと思う。」と自分の変化を語った。

これで「ドキュメンタリーの部A期」は終了。次は、別の9人のメンバーを迎えて「ドキュメンタリーの部B期」にプロジェクトは進む。

執筆:阿部航太(プロデューサー、記録)

ドキュメンタリーの部 A期 DAY2「シネマポートレイトをつくる」

2021/9/4 13:00-19:00

メンバーたちが、プロジェクトの拠点であるROOM302に集まった。昨夜、画面越しに出会ったメンバーたちとの初めての対面となるが、まだお互いに緊張して言葉を交わせないでいるようすも見られた。7人のメンバーは2つのグループに分かれて、DAY2のプログラムの説明が始まった。

DAY2「シネマポートレイトをつくる」

DAY2では、各メンバーのシネマポートレイト(映像表現によるポートレイト)をつくるために、まちに出てフィールドワークを行う。これはただのアクティビティではなく、映画をつくるにあたって重要なリサーチの一環であり、その目的を達成するために下記のルールを設定した。

【まちに出て自身のルーツを探す旅】
チーム内で3つの役割をローテーションしながら、メンバーそれぞれのルーツをまちで探して記録する。

①探す人
・自身のルーツに関係のある、または想起させる「場所・もの・瞬間」を探す

②インタビューと録音をする人
・「探す人」がまちで見つけたものにまつわるエピソードを聞いて録音する

③写真を撮る人
・探す人の旅と、その舞台となるまちを写真で記録する

フィールドはROOM302がある3331 Arts Chiyodaから徒歩圏内である、文京区、江東区、千代田区に分けて、各グループには紙の地図を手渡した。この旅ではGoogle Mapなどのオンラインの地図の使用は禁止。馴染みのないまちを、紙の地図を頼りにそれぞれの判断で歩いていく。その中でメンバーたちは自身のルーツを見つけるのだろうか。 そして、その過程において、メンバーたちの間ではどのようなコミュニケーションが生まれるのだろうか。

●グループA1
〈メンバー:アントン、トシキ、パイ、ヒョンジン/フィールド:文京区〉

グループA1の4人は、はじめの「探す人」であるヒョンジンを先頭にあてもなく歩き始める。「改めて探すと、見つからないなあ……」とあせるように探す彼女だったが、そのうちにいくつか気になる風景に出会っていく。まず写真におさめたのは、何の変哲もない坂道。しかしヒョンジンはそこにもうひとつの風景を見ていた。

「私が生まれてから9歳までいた釜山っていうまちは、山がたくさんあって、すごい急な坂道がたくさんあるまちで。……坂道を登ったところに家があったので、そのときは。小学校の低学年だったので、毎日大変だなって思いながら歩いた思い出があります。」

また、その近くで「駐輪禁止」の張り紙を見つけ、路上における駐輪・駐車のシステムが整っておらず、違法駐車やいさかいが絶えなかったという釜山のエピソードを語る。9歳まで過ごした釜山について、細かなことまで記憶に残っているようだ。メンバー選考の面談の際に、ヒョンジンは釜山について「日本に慣れていくにつれて、現実の釜山ではなく私の心の中にある釜山というものができて。帰りたいなと思うけど、そこには帰れないんですよね。現実とぶつかっちゃうから。」と話していた。
そして、それから少し歩いた先に見つけたのが、住宅前に所狭しと並べられた鉢植えだった。ここにも釜山の思い出が蘇る何かがあるのかと聞いていると、彼女は“日本”の話を始めた。

「このブロックの上に乗っている植物。この細々としたのを見ると、日本らしさを感じるんですよね。かわいらしいじゃないですか。絶対に自分の敷地、自分の所有地をはみ出さずに、だけど個性を出して、こう植物を育てているのを見ると、すごい日本らしいなって感じるっていうか、なんかそこにキュンとするんですよね。」

自身のルーツを探す旅で、ヒョンジンは「釜山」と「日本」という2つのまちを探していた。9歳というと、自我も芽ばえ、自分の住む世界についても少なからず理解している年齢だと思う。そのタイミングでの大きな変化が、彼女にとってどんな影響を与えたのか、私には想像することは難しい。この鉢植えについての語りは、“日本”という言葉の中に彼女自身を含めているという印象を受ける一方で、どこかそれを客観視しているようにも響く。

写真を撮影しようと、マスクをはずしたとき、懐かしい匂いがしたとパイが話す。そのまま話を続けそうになった彼を止めて、アントンが録音の準備をする。

「このあたりは緑の香りがする。コロナになってから周りの匂いがしたことはなかなかないので、懐かしいなと思った。台湾ではよく週末、夜にお散歩してて。大学の、こんな感じの緑があって、人がいなそうな……(ここでカラスの鳴き声)……カラスはいないです。……日本なら公園とか。近所だと新宿中央公園とかよく通っています。夜はちょっと危ないですが、人がいないから……ひとりで外国にいるときは、それはちょっと注意してるかな。台湾にいたときは危ないっていう感じは思ったことないけど。」

私自身、台湾に何度も行っているけれど、身の危険を感じたことはない。ただし、滞在中は当たり前に外国にいるという緊張感がずっとあり、それは数年たったとしても簡単に無くなるものでもないのだろう。と、自分の出張や旅行のことを思い出しながら聞いていると、パイが「パスポート持たないと、在留カード持たないと。」と続けた。私がイメージしていた“危険”とは異なる角度の話に変わっていく。アントンはすぐに理解して「お巡りさんとかがよく聞いてくるんですか?」と返す。

パイ「そう。最近もあったんですね。多分テロとかがあって。」
アントン「3年くらいここに住んでるけど、1回もない。」
パイ「えー! ああ、多分あれじゃない?アジアの顔なので・」
アントン「そう……よくないなあ……。」
パイ「ああ! 文句大会になっちゃった!」

異国に住んでいるという境遇を共有しつつも、このまちにある偏見によって経験にずれが生じる。苦々しい返答をするアントンと、それを笑って「文句大会」と自身の発言を茶化すパイ。私自身はその背景にある差別意識への苛立ちとともに、そこに居合わせた際の居心地の悪さをも同時に感じていた。

●グループA2
〈メンバー:コンスタンチャア、ショウ、チョウ/フィールド:千代田区〉

グループA2の3人は、外に出てすぐに地図を広げて道を確認していた。ショウの希望で神田の古書店街に向かうつもりだったようだが、後で聞くと、結局たどり着けなかったらしい。道ゆく人に訪ねたりしてもわからず、最終的にはそれぞれの直感にまかせて歩き始めた。

「自分のルーツとか言われると、ほんとに困っちゃう。いやー、困っちゃう。」

そう独り言のようにつぶやくショウを、チョウが写真で撮影する。その背景には、2つのマンションらしき建物にはさまれた狭く伸びた道がある。

「住宅街とかを見るのが好きで。どこに向かうでもなくひたすら歩いて、建物と建物の間を写真に撮ったりするのが好きで。いつも友達にも優柔不断って言われてて。ラーメンか、チャーハンかって言われたら、とりあえず半ラーメン、半チャーハンセットを頼む。どっちかに決めるのが苦手で。日本と中国どっちが故郷ですか?と聞かれても、どっちも故郷じゃないかなって答えちゃう。」

撮影されたその場所は、DAY1でヒョンジンが自身の「現在」として披露した写真を思い起こさせた。ヒョンジンは「家と家が寄り添ったかたちで豊かに共存している様」に魅力を感じていると語っていた。同じく建物の間に魅力を感じ、普段もそういった写真を撮ることがあるというショウは、そこに「どっちつかず」な自分を重ねていた。
ヒョンジンが9歳という物心ついてからのタイミングで日本へ移ったのに対し、ショウは2歳のときに家族と香港から日本にやってきた。香港の記憶はかすかで、日本においても自分が「外国人」であることをそこまで意識せずに育ったという。「逆につらい思い出とかがないのが戸惑いというか……。」とも語っている。ただ、自身のルーツについて、それまで自覚的ではなかったというだけで、根底には香港と今まで過ごしてきた横浜との揺らぎがあった。その様子が、ここで撮影された写真、そして彼女の言葉から見えてくる。

ショウ「どっちかに決めなくてもいいのかなっていうのが今の自分のスタンスで。」
コンスタンチャア「その両方っていうの、めっちゃわかります。私もそうで。」

幼少期から世界の様々な場所で住んできた経験のあるコンスタンチャアが答える。ポーランド人として生まれながら、自身はポーランド人としての意識が薄いという。そのことを「前は、私が完全にポーランド人じゃないことを良くないと思ってたんですけど。今は大人になってから、まあ別にそれはそれでいい、自分らしいと思います。」と語っている。

「色々な場所に住んでいたせいで、なんかひとつの場所にすごく強い関係がないので、友達とかもいつもバイバイしなきゃいけなかったから。私のルーツに一番強い関係があるのは私の家族。いつも場所とか人が変わっても、家族がいつも私と一緒に引っ越したので、すごく強い関係があります。」

編集/上映会

「自身のルーツを探す旅」を終えてROOM302に戻ってきたメンバーたち。今日のプログラムはこれで終了ではなく、それぞれの旅の記録を編集して「シネマポートレイト」をつくり、その上映会までを行う。メンバーたちはグループの中で意見を出し合いながら、撮影してきた写真の並び順を決め、録音した音声を聞き直し、使いたいエピソードを選ぶ。細かな編集や加工はできないが、この“選び、並べ替える”作業を通して、映像制作の基礎的なプロセスに触れることになる。

上映会では、計7本のシネマポートレイトが披露された。部屋の電気を消し、大きなスクリーンにプロジェクターで映像を投影する。メンバーそれぞれのモノローグとともに、彼ら彼女らが見つけてきた風景が映し出された。個人の声とともに眺めるその風景は、自分ひとりが眺めていた風景とは全く異なるものとして見えてくる。撮影された場所は、ここから徒歩で行けるほど近くの「東京」である。私にとっては10年以上も住んでいるまちで、なにかしら見覚えのある風景ばかりなのに。それでも“異なる”ように見えるのは、私がその風景を通して、メンバーそれぞれのルーツである他の場所、時間、人を見ることができたからだと思う。7本で合計15分程度の映像ではあるものの、地理的にも、時間的にも重層的な映像に新鮮な感動を覚えた。

長い1日だったDAY2はこれで終了。明日は、ドキュメンタリーA期の最終日であるDAY3だ。メンバー同士のフィールドワークを経て、リサーチの手法や機材の扱いかたを学んだメンバーたち。明日は、新たな「他者」に会いに行く。

執筆:阿部航太(プロデューサー、記録)

ドキュメンタリーの部 A期 DAY1「3枚の写真で自己紹介」

2021/9/3 19:00-21:00 オンライン

「ドキュメンタリーの部」には9/3-5に開催するA期と、9/17-19に開催するB期、ふたつの期間を設けた。計17名のメンバーはふたつに分かれ、それぞれ同じ3日間のプログラムに参加する。
今回のレポートでは、まずA期の様子をお伝えする。

プロジェクト全体のながれ

「ドキュメンタリーの部」では、ドキュメンタリー作品を制作しながら、それぞれの視点で“まち”をリサーチしていく。その過程で生まれたコミュニケーション、表現、エピソードを拾い上げて、後に制作していくフィクションの映画のヒントにしていこうという狙いだ。3日間という短い期間ではあるが、そのなかでメンバーたちの視点から見えてくるまちの姿とは、いったいどういうものなのか?そんな期待のなか、DAY1が始まる。

3枚の写真で自己紹介

DAY1はオンラインによる2時間のプログラムで、メインとなるのは「3枚の写真で自己紹介」だ。
メンバーには当日までに、「過去」「現在」「未来」を表す写真をそれぞれ1点ずつ提出してもらい、それを軸に自己紹介をしてもらった。“映画をつくる”という全体のゴールに向け、視覚的な表現の練習でもある。ここでメンバーの紹介も兼ねて、それぞれの3枚の写真を紹介する。(下記写真は左から「過去」「現在」「未来」の順)

[過去]台北松山空港へ着陸する飛行機。日本に来る前、ANAの飛行機を目にするたびに日本に行くことを想像していた。/[現在]COVID-19の感染拡大で色々なことが止まったが、自分の周りに目を向けると面白いものは見つかる。/[未来]欲しいものを見つめること。

テイ(監督)

台湾の台北市で生まれ育ち、大学で映画製作を専攻。2016年に来日し、都内の大学院での研究生(映画専攻)を経て、現在は訪日・在日外国人向けメディアの編集者として活動している。今回のプロジェクトでは初めて監督をつとめる。

[過去]ベルギーの地元にある古い風車。友達たちとの集合場所になっていた。/[現在]小さいまちを出て大きいまちに来たが、そうするとまた小さいまちに行きたくなる。/[未来]犬が欲しい。

アントン

ベルギーで22歳まですごした後、ニューヨークを経て2018年に日本へ移住。東京でエンジニアとして働くなかで、クリエイティブな活動を求めて今回の参加を決めた。

[過去]日本の保育園で同じく中国人の友人と。/[現在]横浜本牧の工場地帯。海がみえる場所だったが、今は塀が建てられ見えなくなった。/[未来]Google Earthの香港エリアで見つけた画像。香港のほとんどの場所でGoogle Earthは使用できない。

ショウ

香港で生まれ、2歳のときに家族で日本に移住。現在は横浜で家族とともに暮らしている。大学では映像学科に所属しており、このプロジェクトを通して自身の住んでいるまち、生まれた香港について考えたいと思っている。

[過去]日本に来る前の自分。雨が降っても気にしない。/[現在]日本に来てからの自分。本当は傘が嫌いだけど、まちの一部になりたくて持つようになった。/[未来]自分らしさをキープしながら、まちと関わる方向を考えたい。

コンスタンチャア

ポーランドで生まれた後、幼少期からスペイン、オーストラリア、スウェーデン、メキシコなど様々な国で過ごした。その中で2年ほど名古屋で過ごしたこともある。現在は大学院で建築を専攻し、主にパブリックスペースについて関心を持っている。

[過去]中国の歴史上の政治家。/[現在]手前の人が持つテイクアウトのコーヒーカップ。現代の資本主義社会。/[未来]レインボー柄の洋服を着た親子。

チョウ

出身は中国の北京で、そこでデジタルアートを学んだ。2020年12月に東京の大学院でデジタルメディアアートを学ぶために来日。旅行、そして受験のため過去に2回ほど日本には来ているが、長期的な滞在は今回が初めてとなる。

[過去]音響を勉強していた頃。/[現在]最近はまっているデザートづくり。代表作で失敗作。/[未来]大学時代のような、なんでもできるという気持ちを忘れたくない。

パイ

台湾の台中市で生まれ育ち、大学で映像制作を学ぶ。2019年に来日し、都内の専門学校にて音響を学び、現在は自動車などの音響に関わるサウンドエンジニアとして働いている。

[過去]他人の真似をしながら生きてきたが、その意識がなかった。/[現在]真似をしてしまうことは自覚したが、そこから抜け出せない。マトリョーシカ人形みたい。/[未来]世界をできるだけ客観的に見たいけれど、結局はそのマトリョーシカ状態から抜け出せないだろう。

トシキ

中国の四川出身で、大学卒業後に上海、北京などでのインターンシップを経験。しかし、当時自身が志していたものに疑問を抱き、日本の大学で映像を学びたいと考え2020年12月に来日。

[過去]中学時代に自分が外国人であることを意識するようになった。/[現在]家と家の間をみると、皆それぞれに工夫して、豊かに共存しているように見える。/[未来]海を渡ってここへ来たから、次も海を渡ってどこかへ行きたい。

ヒョンジン

韓国の釜山で生まれ、9歳のときに家族とともに日本に移住。現在は都内の大学で油絵を学んでいるが、制作の際に自身の経験だけで描くことに難しさを感じ、より多様な人々との関わりを求めて参加。

メンバーの写真をもとにした自己紹介を聞いていると、多様さはメンバーのナショナリティとして現れているわけではなく、それぞれの今まで生きてきた経路にこそ現れていると感じる。また本プロジェクトに関することでいえば、メンバーと東京(日本)との関係性も本当に様々だ。過ごしてきた期間が20年以上の人もいれば、たった半年ほどの人もいる。東京が住む場所となった理由も、自分で選択した人もいれば、家族の都合で決まった人もいる。プロジェクトを企画するひとりとして、様々な境遇の人々がいることは頭では理解していたつもりだったが、このような具体的なエピソードに触れると、今までのイメージがいかに曖昧なものであったかを認識できるようになる。

ディスカッション

自己紹介のあとは、3人1組のグループに別れてディスカッションを行い、もう少し踏み込んで互いのことを知っていくことを試みた。

Q1. 初めて東京に来る友達を、どこに連れて行きますか?
Q2. もし来週、東京を離れることになったとしたら、 最後に行きたい思い出の場所はどこですか?

この2つのテーマをきっかけに、メンバーそれぞれにとっての東京のイメージや、東京との関係性についても語られた。

コンスタンチャア「東京はパズルみたい。違うまちが色々あってそれでできている。夜に六本木、渋谷、新宿、文京区と自転車で走っていると、“ここから違うまちだ”と思う瞬間がある。離れることになったら、私はそれをもう一度やりたいかな。」

ヒョンジン「隅田川かな。なにかあったら隅田川に行く。」

ショウ「日本は帰るところでも、行くところでもなくて、戻るところという感じ。故郷というより“拠点”。香港は“ルーツという情報が入っている場所”。」

テイ「山手線が東京のイメージ。例えば飛行機で羽田について、京成線に乗ってもまだ感じない。山手線に乗り換えた時に、東京に来たなって感じる。逆に台湾だと原付バイク。あれに乗ると台湾に来たと感じる。」

Q3. 自分が“〇〇人”だなと思う瞬間(しゅんかん)はありますか? それはどんなときですか? また、日本に住んでその意識が変化することはありますか?

3つ目のテーマは、それぞれのルーツについて考えるもの。自身がどう感じているか、また日本においてそれらはどのように扱われていると感じるのか。

パイ「就職活動したとき、スーツ着なきゃいけないのを知らなくて普通のシャツで行って。そのときは恥ずかしかったです。」

アントン
「ベルギーでは色々な言語、地域があるから、はっきりしたベルギーのイメージがない。」

トシキ「来たばかりのときは緊張して日本語が出なくて。だからノートに絵を描いて説明したり、ボディランゲージに頼ってたけど、今では結局それが一番だと思ってる。」

ヒョンジン「言葉が伝わらないからこそ、より人と人という感じになりますよね。」

チョウ「作品の講評で先生に中国人っぽいと言われた。でもそれはポジティブに捉えている。」

ショウ「選挙権がもらえないと知った時、自分が中国人だと感じた。だから中国人というのがネガティヴなイメージになっちゃってる。」

コンスタンチャア「ポーランド人というより外国人だとよく思う。」

オンラインではありながら、濃厚な2時間を過ごしたメンバーたち。アートプロジェクトという特殊な環境下だからこそではあるが、初めて出会った相手といきなり互いのアイデンティティについて言葉を交わす時間となった。全体を通して興味深かったのは、「それわかる!」という共感の言葉よりも、「そうなんだ!」という驚きの言葉の方が圧倒的に多かったことだ。「海外にルーツを持つ」という共通点より、それぞれに「異なるルーツを持つ」という差異の方がディスカッションを進めるうえでの軸になっていたように思える。これは各メンバーの今までの経験が多様であることの結果と言えるのか……いや、もしかしたら、まだ互いを探っている段階で、共感に至っていないだけかもしれない。それでも私にとって、それぞれの言葉には、私の捉える東京、日本とは異なる姿があった。私がこのディスカッションのテーマを与えられたとしたら、どんなことを何を話すのだろう。特にQ3について、私が話せることがあるだろうか。意識もせず、考える機会もなく東京で暮らしている自分のことを、メンバーたちの会話を通して考えてみる。

DAY1を終えて、プロジェクトはDAY2に進む。次はいよいよ対面で出会い、そしてまちへ出て行く。

執筆:阿部航太(プロデューサー、記録)

イミグレーション・ミュージアム・東京 多国籍美術展「わたしたちはみえている –日本に暮らす海外ルーツの人びと–」 記録映像

アートプロジェクト『アートアクセスあだち 音まち千住の縁』の一環である「イミグレーション・ミュージアム・東京」(通称:IMM東京)は、2021年に多文化社会をテーマにした現代美術展を開催しました。

本映像は、展覧会の主軸となった3つのアプローチ「文化の多様性や複雑さ、個々人のルーツといったテーマに向き合ってきた3名の現代アーティストによる作品展」「公募で集まった海外にルーツを持つ市民の表現を紹介する公募展」「アートの手法を用いて多文化社会で実践する全国の活動団体のリサーチやアーカイブ」を中心にした空間や、関連イベントをまとめた記録映像です。

“災間文化研究”のはじまりに寄せて(佐藤李青)

2021年7月から12月にかけて全6回で開催したディスカッション「災間の社会を生きる術(すべ/アート)を探る」。本プログラムのナビゲーター・佐藤李青(アーツカウンシル東京プログラムオフィサー)がディスカッションを振り返りました。あらためて「災間」に行き着いた経緯は、どういうものだったのか? ナビゲーター、ゲストや参加者と意見を交わして見えてきた、これからの議論の可能性とは? 

災間文化研究の“はじまり”に寄せて(佐藤李青)

関係の網目のなかから

いかに弱者を起点として社会のなかに無駄やタメを用意することができるか

赤坂憲雄(2012)「災間の思想とは何か」『ARTLET』(38)、慶應義塾大学アート・センター

災間という言葉に初めて出会ったのは、民俗学者の赤坂憲雄さんの発言からだった。「3.11以降の芸術 3.11以降の学問」というシンポジウムの記録のなかで、赤坂さんは社会学者の仁平典宏さんの言葉として紹介していた。その後も、赤坂さんはさまざまな場所で災間を語っているが、仁平さんが「<災間>の思考」を綴った文章は、赤坂さんの編著書『「辺境」からはじまる 東京/東北論』に収録されていた。災間は東日本大震災の経験から、現在の社会のありかたに再考を促す言葉として生まれていた。

震災は、社会が内包していたさまざまな課題を露わにした。多くの人たちが困難のなかから、社会への変化の兆しを見出した。そこには熱をまとった議論があった。しかし、1年も経てば「あの日から何かが大きく変わったわけでもない。激甚的な被害があった被災地以外、変わらぬ日常が連綿と続いている。どこか間延びした、袋小路に入り込んだような平凡な日常」(仁平,2012,p124)が現れてくる。日常の回帰は思うよりも早い。熱は“変わらなかった”という諦念とともに冷めていく。そのなかで「災間の思考」とは「一度きりのショック」によって「荒療治を断行する」のではなく、回帰しうる厄災を前提に「持続可能でしなやかな社会を構想することを求める」(同書、p125)ことを指摘するものだった(註1)。

いまを“間”と置き換えることで、あのときあったことを非常時のこととして特別視せずに、平時のなかに位置づけ直すことが出来るのではないだろうか。それが「災間」という言葉に出会ったときに感じた可能性だった。2011年からArt Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用する被災地支援事業)に携わるなかで、“震災後”の時間が長く、遠くなるほどに、その言葉の重要性は増していくようにも思えた。

赤坂さんの言葉にたどり着いた、そもそものきっかけは、水戸芸術館現代美術センターのキュレーター・竹久侑さんの文章だった。そのなかで竹久さんは、冒頭の赤坂さんの言葉を引くことから「社会のなかに「タメ」や「隙間」を作るということを、私は、社会のリアリティのなかで市民を対象に表現するアーティストの仕事のなかに幾度となく見てきました」と語り、次のように続けていた。

アーティストやアートNPOが行う社会的な芸術活動が、この度の非常時において顕在化しました。東日本大震災を受けた混乱のなか、行政という大文字の公共の手が届かない領域で行われた草の根の活動のなかに、芸術従事者によるものも数多く含まれ一つの潮流として立ち現れました

竹久侑(2012)「土が耕され、種まきが終わり、さて花は咲くかーー芸術祭の公共性を求めて」『開港都市にいがた 水と土の芸術祭2012 作品記録集』水と土の芸術祭実行委員会

この文章には、竹久さんが2012年に企画した『3.11とアーティスト:進行形の記録』のカタログへの注が付いていたが、同展で紹介された実践や、それを踏まえた指摘は、わたしが震災後に見てきた風景と重なるものだった。
アートは他者とのかかわりをつくる“術(すべ)”になる。そこには震災の後に生まれた、さまざまな境界線を越える技があった。その実践は目の前のひとりひとりと向き合いながら、人の一生を越えた過去と未来を行き来するような長い時間軸を見据えたまなざしをもっていた。アートより、文化という言葉が馴染むような営みだった。

震災から10年を迎えた2021年で、Art Support Tohoku-Tokyoはひと区切りを迎えた。自分自身の東北へのかかわりが変化するなかで、この経験を、次にどうつなげていけばいいか。そう思っていたところ、高森順子さんの声がけから、防災や減災を専門とする渥美公秀さんと宮本匠さんと話す機会をもつことが出来た。互いに歩みは異なっていたけれど、目指すものは同じように思えた。「ままならなさ」「ただ傍にいる」「<めざす>と<すごす>」「被災地のリレー」……渥美さんや宮本さん、高森さんの言葉に触れることは、これまで自分が歩んできた道のりの見通しが良くなるようだった(「アートによる被災地支援の役割と可能性—Art Support Tohoku-Tokyoの10年をふりかえる」)。このとき、渥美さんと宮本さんとは面識はなかったけれど、その言葉には、さまざまな人を介し、巡り巡って、すでにどこかで出会っていたのかもしれないと思えた。それは「言葉にする」ことが、自ら出会ったことのない誰かに届く可能性を感じさせるものでもあった。

ひとつの経験を、ほかの経験と重ね合わせ、言葉で捉え直し、語り直していく–-その実感から立ち上げた、このディスカッションシリーズのタイトルには「災間」と「術(アート)」を掲げた。震災後に獲得した、ふたつの言葉。ほんのりと見える接点から、一緒にナビゲーターを務める高森順子さんと宮本匠さんとならば踏み込んだ議論が出来そうな予感がした。

「将来の歴史家によって、今が「二つの災害に挟まれたつかの間の平時」=<災間期>と記述されうる不安」(仁平,2012,p122)とともに生まれた「災間」という言葉は、コロナ禍の渦中にあり、豪雨など連日災害の報道がある2021年において、新たなリアリティを帯びていた。ふたたび熱をまといつつある災間という言葉をシリーズタイトルに掲げるにあたって、“災”とは人間の活動がもたらした負の経験を含む災禍と考えることにした。ディスカッション初回では、宮本さんから「もう自然現象と社会現象は区別できない」という言葉もあったが、結果的に時宜にかなった意味の拡張になったのだと思う。

以前に一度、災間を掲げた議論の場をつくったことがあった(註2)。そのときのメンバーだったSTスポット横浜の小川智紀さんと田中真実さんにはディスカッションの運営事務局をお願いした。オンラインで実施したこともあり、参加者は全国各地から集まった。各地の災禍へのかかわりをもつ、もっていた、もちかたを模索する人たちなど災間への熱をもつ人たちだった。

偶然なのか、必然なのか。「関係性の網目」(山住勝利さんがゲストの回にあったアレントの言葉から)が絡み合うようにディスカッションはスタートした。ただでさえも言葉が多めのナビゲーター陣に加えて、示唆に富んだゲストの話と参加者の応答に触発され、議論は大いに盛り上がった。その様子は、たっぷりの文字数でまとめた各回レポートで確認してほしい。そして、議論の先に手にしたのは、災間という言葉を使いこなす術だったのではないだろうか。

災間だもの

災間は、人間という言葉に似ている。生物学的なヒトを示すとき、“人”という一文字があれば事足りる。しかし、わたしたちは、“わたしたち”のことを語るときに人間という言葉を使う。あたかも人と人の“間”で生きることが、当然のことのように……。同様に、災間とは、“わたしたちは災禍の間で生きている”ことを自明なものとする。

当初、災間とは“災禍と災禍の間に生きる”という、自らが生きる社会の漠然とした現状認識を表す言葉として使っていた。だが、ディスカッションを通して、災間とは“持続する災禍のなか(渦中)で生きる個々人が集まった社会”を想起する言葉へと変化した(社会を、そうまなざす視点となったもいえる)。災禍とは、起点となる出来事からはじまるものだ。それゆえに起点となる出来事を社会が、他者が忘れたとしても、個々人のなかにはあり続けるもの−−それは忘れられず、思い出してしまうものであり、大抵は語りえないもの−−である。その存在をイメージし、どこまで“あったこと”を知ろうとし、“いまも続いている”個々人の経験に触れようとするか。そして、そのとき想像力の幅を広げ、他者の経験に手を伸ばす術としてアートがありうるのではないだろうか。ここでいうアートとは他者の経験に身を委ね、耳を傾けるという姿勢をもつものを指す。その応答関係から生まれるものは、本来は共有不可能な個々人の体験を分かちもつような“現れ”となる。それは体験を他者と分かちもつ術となり、語り手にとっても自らが語り得ないことに「しっくりくる」かたちを与えるものともなる(「しっくりくる」は第4回からの言葉)。そして、ひとりひとりの語りに織り込まれた土地の記憶は、災間を生きるわたしたちが生き抜く知恵になる。

(メモ)漠然とした「社会」から「個人の集まりとしての社会」のイメージへ。

間を生きることは、コントロール出来ないものとの付き合いのなかにある。災禍は、いつ起こるかわからない。“被るもの”である。それは物事への考えかたや生きる作法の違う人たちと“ともに”生きることでもある。間を生きることを自覚し、他者の経験に触れることは多くの「ままならなさ」を抱えることであり、自分一人ではどうしようもない「無力感」を得てしまうことでもある。そこでは身動きがとれなくならないように“ままならなさへの耐性”が求められる。では、どうそれを養うのか? わたしたちは、間を、どう生きていけばいいのか?

ふと、文化とは、人が“間”を生き抜くために発明してきた営みなのではないだろうかと思う。長い時間をかけて養われた文化は人々の暮らしを支えるものとなる。その知恵は、目の前の困難を分かちもつ術(アート)をつくる土壌となる。そうして生まれた新たな営みは、互いの弱さを持ちあい、ときに「無力感」を笑い飛ばすような強さを育むものになる。「ままならなさ」は無くならない。それでも、その“なか”で生きていくことができる。

災間という言葉を手がかりに重ねた議論は、詰まるところ、文化を考えることだったのではないだろうか。ならば、そのふたつをくっつけた“災間文化”という言葉から、次の議論をはじめてみるのはどうだろうか? それを(最終回のディスカッションで見出した)研究という営みからアプローチできないだろうか? 

災間文化研究の走り書き(2022年1月18日)
・ 災間文化研究とは、社会を構成する人々が、さまざまな災禍の“なか”にあるという認識を立脚点にもつ。“なか”とは、現在進行形の災禍の渦中であり、過去と未来の災禍の間であり、社会的に可視化・不可視化された個人と個人の間に生きるということを指す。
・ 災禍への“かかわり”を研究し、研究によって災禍への“かかわり”をつくるものである。災間の社会を生き抜く“術”となる人間の営みや、さまざまな社会的な現象を主な研究対象とする。災禍という出来事の記録や記憶のありかた(想起や忘却、装置やメディアなど)に関心が強め。
・ 災間の社会を生きる選択肢(手法や視点)を増やすことを狙う。多くの人に有効ではなくとも、ひとりの人にとって必要な“かかわり”や有効な事柄、その意義を広く共有することをも射程に入れる。人が抱える困難との向き合いかた(立ち上がりかた)も論点。
・ 後だけでなく、前との“連続性”に目を向ける。災禍という出来事を“点”として捉えるのではなく、前後の生活や、災禍を起点とした事柄を地続きで捉える。一見、災禍とかかわるように見えないものにも可能性を見出し、非常時と平時などの“区分”を自明のものとしない。
・ 構造化された語りだけでなく、“つぶやき”のような言葉も拾う。ただし、“当事者”(話し手)だけでは語りえないものがある。聞き手の“応答”や“協働”という関係から生まれる実践や手法を重視する。
・ 人を“メディア”(間の存在)として捉える。災禍へのかかわりの主体性や当事者性、個人の資質や技術を特権化せずに、“ままならなさ”のなかにある人の“ふるまい”や相互関係にも目を向ける。
・ 災禍の後に“しつこく”かかわることから見えてくるものに気を配る(時間軸を長く捉える)。災禍に関心や動機のない人たちとの議論の接点づくりを心がける。体験者と非―体験者といった時間的なかかわりの断絶をつなぐ術(メモリアル、継承等)や、長期にわたって出来事にかかわり続けたときの“かかわりの転換”が検証課題としてある。
・ 複数人で取り組む場合は、何かあっても誰かが代わることの出来る共同関係で事を進める。ただし、それは“誰でも代われる”という意味ではなく、不在の不安や寂しさを抱えるほどの個人の“かけがえのなさ”から成立する関係を意味する。
・ 災禍への体験的・実践的なかかわりの有無は問わず、関心をもつこと・面白がること(interesting)を起点とした議論を大事にする。
・ しっくりくる英訳は、まだない。当面は“Saikan”を使うことにする。

まずは、ここから、はじめてみたい。とりあえず、ボールを投げてみる。きれいなフォームでなくとも構わない。それは返ってくることがあれば、どこかに消えてしまうこともある。もしかしたら、途中で誰かが拾って、投げ継いでくれるかもしれない。そんな“間”の態度が、災間を生きる術としては必要なのだろうと思う。

註釈

(1)「災間の思考」には、もうひとつ「個人に強さを求めない」という指摘があった。「『無駄』を省く」ことで、「『痛み』を個々人に強いる」ような「社会変革」は「社会的に弱い立場におかれた人たち」に「痛みを集中」させる。その「ネオリベラリズムの果て」が東日本大震災によって明らかになったという(126-127頁)。ディスカッションでは「災間」という字面のニュアンスを強く引き継いでいたが、結果的に、ここでの指摘に近い議論が展開されることになった。
(2)企画フォーラムⅢ-A「阪神・淡路大震災後に文化政策は変わったのか?ー「災間」の文化政策を目指して」日本文化政策学会 第13回研究大会、2019年12月22日。

参考文献

仁平典宏(2012)「<災間>の思考ーー繰り返す3.11の日付のために」『「辺境」からはじまる 東京/東北論』(赤坂憲雄、小熊英二編著)明石書店.

地の底から見いだす災間の社会を生きる術(すべ/アート)(宮本匠)

2021年7月から12月にかけて全6回で開催したディスカッション「災間の社会を生きる術(すべ/アート)を探る」。本プログラムのナビゲーター・宮本匠(兵庫県立大学大学院減災復興政策研究科准教授)がディスカッションを振り返りました。ゲストや参加者との議論を通して見えてきた、災間とは、どんな社会なのか? そのなかで生きる術(すべ/アート)とは? 

地の底から見いだす災間の社会を生きる術(すべ/アート)(宮本匠)

筑豊の炭鉱労働者の中に「スカブラ」と呼ばれる人たちがいた。彼らは、ろくに仕事もせずに、「スカッとブラブラしている」から、スカブラなのだという。雪のように真っ白な手ぬぐいを目印に(もちろん多くの坑夫の手ぬぐいは炭塵と汗で真っ黒だ)、スカブラは地の底で遊んでばかりいた。ある大スカブラは仕事にはやってくるけど全く働こうとしない。代わりに、彼がしているのは係員の詰め所に時間を聞きに行くこと。他の坑夫が仕事にとりかかると、「もう何時になるやろうかな。いっちょ時間を見にいってやろう」と、すたすた詰所までのぼっていく。行ったらしばらくは帰ってこない。詰所で係員を相手にほら話を吹きまくっているからである。しばらくして現場に帰ってくると、「おい、もう八時を過ぎちょるぞ。なんぼぐずぐずしよるな。憩うて一服せんな」と、今度は坑夫を相手にほら話を吹く。みんなが仕事を始めると「もう何時になりよるやろかな。いっちょ、見にいってやろう」とふたたび詰所に。この繰り返しだ。

10人足らずの組でこんな怠け者が一人でもいると、彼の分まで働いてやらないといけないのだから大迷惑だ。ところが、スカブラは不思議と嫌われていなかった。彼がいる日はどんどん仕事がはかどったが、彼がいない日にはさっぱり能率が上がらなかった。彼がいない日には、時間が倍にも3倍にも感じられた。だからスカブラは大変な人気者だった。一度だけ、このスカブラが大変働いたことがあった。彼が詰め所でほら話を吹いている間に、大きな落盤事故があったのだ。彼は仲間を助け出すために休まず岩を払いのけた。やっと仲間が助け出された時の決めセリフは「このアホタン! きさまどんのおかげで俺は時間を見にいくひまもなかったぞ!」

この話は、上野英信さんがまとめた『地の底の笑い話』におさめられたものである。死と隣り合わせの過酷な労働の現場である炭鉱で人々がしていたのは、嘆き悲しむのでも、沈黙して耐え忍ぶのでもなく、ほら話や笑い話だった。『地の底の笑い話』からは、炭鉱の過酷な現実とともに、そこで人々が尊厳を失わずに生き生きと生きていたことを知らされる。そこには、戦後日本の経済成長の裏側で犠牲となった炭鉱労働者という顔だけではなく、それでも人間として生き抜いたひとりひとりの顔がある。最も過酷な生の中に、笑い話があったということは、私たちが災間の社会を生きていくときに、ひとつの視点を与えてくれるように思う。

災間という言葉を、このシリーズでは、提唱者である仁平典宏さんの用いている意味よりも強いニュアンスで扱ってきた。先の大災害と来る大災害の間にある社会、というよりも、常に災害が起きている社会、恒常的な災害の中を生きる社会として考えてきた。私たちはいつ自分が被災してもおかしくない時代にいる。かつて、災害は忘れたころにやってくると言われた。しかし、災間においては、災害は先の災害の傷がまだ癒えないうちにやってくる。

災間について、あらためて5つの点を確認しておこう。ひとつは、すでに述べたように、災間とは、(1)「災いと災いの間というよりも災いの中を生きるということ」。次に、その災いの解決は、(2)「『人類』の単位での連帯を必要としていること」。災害の恒常化の背景にある気候変動しかり、感染症然り。一部の国の人々だけがワクチン接種を済ませても、ワクチンの行き届かない国でウイルスは新たな変異を繰り返してしまう。自分たちだけ生き延びようとすることが、自分たちを含めた人類全体の破局を近づける。そして、(3)「災いへの対処には時間の制約がある」こと。2030年までに、産業革命期から比べた気温の上昇を1.5度におさえたとしても、地球上のサンゴの大部分が死滅するとされている。このような危機を、日本社会は人口減少と高齢化、低成長の帰結として、(4)「社会資源が縮小する中で対応しなければならない」。このような、解決が大変に難しい問題について、手持ちのカードがほとんどない状態で立ち向かわなければならないことが、災間について最も重要な次の特徴をつくりだす。それは、(5)「災間という不都合な事実を『見なかったことにする』否認が事態を悪化させること」。ここで災間は、私たちのふるまいゆえに、社会を加速度的な破綻へと導くものとなる。

だから、災間の社会を生きるというときに、私たちはまずもって災間の問題に向き合おうとする主体を社会の中で回復させることから始めなければならない。けれど、この主体は、災間という問題の深刻さを訴えれば訴えるほど弱体化するという厄介な逆接の中にある。このことの理解が災間の社会を生きる術にとって最も重要だと思う。気候変動のリスクをどれだけ正確に把握し、必要な対処を明確にしても、それだけでは人々を説得、連帯させることはできない。この困難を克服するには、正攻法ではない、何かしらの迂回路、跳躍(リープ)が必要だ。一見、災間の解決とはむしろ無縁に見えるようなもの。災間の問題に向き合う主体の回復につながるもの。それはどのようなものか。

ナビゲーターの佐藤李青さんが、震災後に女川町を訪れたときのこと、まだ津波の痕跡が生々しい被災地で、女川の人々は「夏祭りをしたい」、「祭りをやらないと復興できない」と話していたことを紹介された(第2回)。李青さんは、「社会が考える順序と、被災地の人々の順序が違った」という。社会が考える順序が正攻法なら、被災地の人々の順序が迂回路だ。これは、ゲストの瀬尾夏美さんがこれこそがアートだと紹介された、陸前高田市でかさ上げが決まっている土地で人々が世話をしていた花畑にも重なるところがある(第3回)。あるいは、吉椿雅道さんが紹介された、新潟県中越地震の被災者にとっての牛の角突き、「俺たちは文化を守ってきたと思っていたけど、本当は俺たちが文化に守られてきたんだ」という言葉の中にも、この迂回路は存在する(第2回)。さらに、山住勝利さんが被災体験を伝えるというときに、その手前に被災体験を伝えることなんてできないこと、共感不可能なものがあることを置いていたこと、ここにも迂回路が存在する(第4回)。

復興をするのに祭りが必要だということ、花畑が必要だということ、住宅再建がまだ途上にあっても牛の角突きをしたいということ、簡単に人と共有できないようなかけがえのない体験があるということ、これらは何を意味しているのだろうか。かさ上げが始まった陸前高田の被災地では、元の住民らはまちを歩いていても、自分が被災前のまちのどの場所にいるのかわからなくなり、何とも言えない喪失感があるのだと聞いた。このとき、花畑にいると、そこで土をいじったり、友人と何気ない話を交わすことで、気持ちを落ち着かせることができる、ほっと一息つくことができるんだと、花の世話をしている女性が話してくれた。思いきって抽象化してみると、この花畑とは、自然と他者との交流を通して、自分が世界の中でどこにいるのか、何ものなのかを教えてくれ、力を与えてくれる場所だ。

熊本地震の直後、「美術館は開いていないのか」という声が寄せられ驚いたと、坂本顕子さんはいう(第5回)。人間が生きていくときに、生きるために必要なものを先の正攻法、生きる必要からはみ出すものを迂回路とあらためて整理してみると、この迂回路というのはふだんの生活ではあまり意識されずに、場合によっては生きる必要に埋没しているのかもしれない。けれど、災害のような危機の中にあるとき、それは浮上し、人を美術館へと、祭りへと駆り立てる。そう考えると、この迂回路こそが、実は人間が人間らしく存在するための「正攻法」だったのではないかと気づかされる。

災間の社会とははっきり言って苦しい社会だ。生きていくのがしんどい時代である。災間において進行する増大する危機は不可逆的なものだ。残念ながら、私たちはこの先、ますます頻繁に、そして激甚化する災害によって被災することを避けることはできない。すでに、今世紀に入って3例目の新型コロナウイルスによる感染症も、covid-2x、covid-3xとして私たちを襲うだろう。そして、少なくともこのシリーズに参加した私たちは、人生のどこかで必ず南海トラフの巨大地震と巨大津波を目撃することになる。また、人生のどこかで必ず首都直下地震がもたらす人類史上例を見ないような巨大都市の地震災害にも出会うことになる。自らもその犠牲になるのかもしれない。私たちの目の前には、このような恒常化する災害とカタストロフィが、何度も繰り返すが、残念ながら約束されたものとして存在する。

このような苦しい時代をどのように生きることができるのか。冒頭のスカブラを思い出してみたい。彼らは地の底の地獄で笑い話をしていたのだった。彼らはなぜ笑うのだろう? 死と隣り合わせの炭鉱で働く自らの境遇を自嘲していたのか?そうではない。上野英信は、炭鉱労働者の過酷な生活を描いた本のタイトルを「笑い話」とした理由について、「今日も依然として、働く民衆が自ら名づけて『笑い話』と呼ぶ生活に生きており、生活と労働のもっとも重い真実をそこに託しているから」だという。「生活と労働のもっとも重い真実」とはなんだろうか。これは、多かれ少なかれ、人間として生きていく以上避けることができない苦難や悲劇が存在することを認めたうえで、それでも人間の尊厳を失わずに生きていく道があるということではないか。不慮の災難を避けることができないことを認めるのは「重い真実」だ。それは人間の限界、弱さを認めるということである。けれど、それでも人間は、ただ苦境を嘆いて生きるのだけではない術(すべ/アート)をもっている。

災間の社会は、その問題に向き合う主体が消失してしまうことで、危機が加速度的に増大してしまうことは先に述べた。だから、災間においてはまず主体の回復が大切なのだと。けれど、ここでの主体とは、災間の問題を根本的に解決するに至るような主体ではないのかもしれない。負け戦であり、撤退戦である災間を、人間にとって好都合なものにつくりかえることはできないのだから。すると、ここで回復されるべき主体というのは、問題を解決する「強い主体」ではなく、自らの限界を認めた「弱い主体」だ。けれど、この「弱い主体」は、限界を認めつつも、最後の最後の一点で人間らしく生きていくことをあきらめない、その意味での主体性が残されている。

だから、災間の社会を生きる術(すべ/アート)とは、この「弱い主体」を回復させる術(すべ/アート)ではないだろうか。それは、問題解決をめざす正攻法のわきに迂回路として、祭りや花畑として、笑い話として存在している。

さらに、この祭りや花畑によって「弱い主体」が回復させられるというのは、祭りに参加したり花の世話をしたりするように、実際にその迂回路を歩むだけではなくて、そのような道があるのだということを何かしらの記録によって知ることでも可能だ。ここで、記録は媒体となって「弱い主体」を時空間を超えてつなぐことができる。上野英信さんの本には絵筆で豊かに表現された炭鉱労働者たちのくらしの絵が挿入されている。これは、山本作兵衛さんというひとりの坑夫が地の底の世界を伝えるために描いたものだ。作兵衛さんは多くの炭鉱、ヤマを渡り歩いた。そしてそこで見聞きしたことを92歳で亡くなるまでに1000点以上の記録画としてこの世に残した。晩年のインタビューで作兵衛さんは、「片言交じりで恥ずかしいのもかえりみず、絵や文にしたのは数百年後の子孫のため、明治、大正、昭和のヤマはこうだったといっておきたかったからです」と述べている。迂回路がふだんの生活ではあまり意識されずに埋没しがちであるなら、まずは虚心坦懐に、日常をただ記録するということが、迂回路を記録する「正攻法」なのかもしれない。思い返せば、本シリーズで紹介された数々の記録にもその共通のモチーフが存在したし、ナビゲーターの高森順子さんが長く取り組まれてきた手記(阪神大震災を記録しつづける会)もこの「正攻法」そのものだ。

当事者研究で有名となった浦河べてるの家のキャッチフレーズは「苦労を取り戻す」だ。そこでは専門家によって治療されるべき病として精神疾患を退けるのではなくて、病を自分とは切っても切り離せない私の一部として扱い、苦労を抱えて生きていくことを肯定する。スカブラが地の底で笑うのも、現状を肯定しているのではなく、生を肯定しているからだ。迂回路に「正攻法」を見いだし、客観的な苦難の中でそれでも尊厳を失わずに生きてきた人たちがこれまでも多く存在したし、これからも存在するだろう。その結節点を見出し、つくり、記し、かなで、語り、えがき、演じることが災間の社会を生きる術(すべ/アート)だと思う。

参考文献

仁平典宏(2012)「災間の思考 繰り返す3.11の日付のために」赤坂憲雄・小熊英二編『辺境から始める 東京/東北論』明石書店.
西日本新聞社(2011)『ヤマの記憶―山本作兵衛 聞き書き―』.
上野英信(1967)『地の底の笑い話』岩波新書.

災間を「共話」的に生きる(高森順子)

2021年7月から12月にかけて全6回で開催したディスカッション「災間の社会を生きる術(すべ/アート)を探る」。本プログラムのナビゲーター・高森順子(愛知淑徳大学助教/阪神大震災を記録しつづける会事務局長)がディスカッションを振り返りました。ゲストや参加者との議論を通して見えてきた、災間を生きるための態度やふるまいとは? 

災間を「共話」的に生きる(高森順子)

約半年間のディスカッションシリーズで取り上げられた実践(ないしは、表現と名指された実践)は、「実践」という言葉があらわすように、静的な状態ではなく、動的で変化に富んだ「出来事」だった、といえるだろう。ゲストに迎えた吉椿雅道さんの、被災地の土着知を生かすための「いるだけ」支援(第2回)、瀬尾夏美さんが「最も美しい表現」であると見出した「おばちゃんたちの花畑」(第3回)、山住勝利さんの、伝わらなくても伝える、という姿勢からつくられた「被災の語り歌」(第4回)、坂本顕子さんが、先入観なしに「美しい」と感じることから知ってほしいとキュレーションした《願いの貝》(第5回)。たとえば《願いの貝》のように、いまも肉眼でモノとして見ることができるものもあれば、「おばちゃんたちの花畑」のように、かつては見ることができたけれども、いまは見られないものもある。「被災の語り歌」は、YouTubeで何度も同じ収録を視聴することができるが、一回きりの生演奏というかたちもありうる。「いるだけ」支援に至っては、これまでもこれからも生生流転していくものであるから、固定して見ることはできない。

《願いの貝》は、ある女性が浜辺で拾い集めた大量の貝殻を、作品として美術館に展示したものだ。しかし、《願いの貝》はモノではなく、出来事である。このシリーズに参加した方々、そして、レポートを見届けてくださった方々には、この言葉は腑に落ちるのではないか。それでも、いやいや、貝殻はモノでしょう、と思う方は、この二つの言い回しを見てほしい。

「貝殻、美術館にありましたよ」
「貝殻、美術館でありましたよ」

どちらも不自然な言い回しには響かないのではないか。二つの言い回しの違いは、格助詞の「に」と「で」である。格助詞「に」は、モノの場所を示す。一方、格助詞「で」は、出来事の場所を示す。坂本さんの語りを聞いた、ないしは読んだ私たちが、モノであるはずの貝殻に出来事の格助詞がついても違和感を感じないのは、坂本さんの語りをとおして、私たちは貝殻を《願いの貝》という「出来事」として、その一端を知ることができたからではないか。この、本来ならば文法的に間違っているはずの言葉が受け入れられることについて、言語学者の定延利之(2008)は、状態を体験する、言い換えれば、状態を「生きる」ことで、状態は「出来事」になるため、それが文法をも揺るがすという。

情報を知識として語るのではなく、出来事を体験として語る。このシリーズで登場した実践は、「彼の」「彼女の」話ではなく、「わたしたちの」話として共有された。一方で、これらの実践をめぐる語りを知らない人びとは、それらがモノではなく出来事であるがゆえに、見えにくく、捉えがたい。《願いの貝》を再び引くならば、文字通り、それは貝殻である。陳列された貝殻のうちのひとつを手にとり、もともとあった浜辺に置いたならば、それは風景と同化し、見失われるだろう。貝殻は、「これはなんですか」と問われなければ、静的なモノとして捉えられるものである。

それらの貝殻は、坂本さんがキュレーションという技術をもちいて《願いの貝》として美術館に展示すると、モノから出来事へと変貌する。貝殻は、ハンセン病療養所沖縄愛楽園で暮らしている上原ヨシ子さんが、日々、浜辺へ行き、貝殻を拾い続けているという出来事であり、この出来事の積み重ねに至る以前の、ハンセン病の罹患、療養所への入所、パートナーとの出会い、妊娠への憧れ、避けられぬものとしての堕胎、胎児の浜への埋葬という出来事の連なりであり、さらには、彼女の部屋いっぱいの貝殻に美しさが見出され、《願いの貝》という作品として公に差し出されるという出来事の連なりである。貝殻は、《願いの貝》と名付けられ、展示されることで、静的に押し留められた情報から、動的な出来事となる。

このシリーズに参加してくださったみなさんは、意識の濃淡はあれ、歴史化した、ないしは歴史化しつつある情報を、瑞々しい出来事として分かち合うにはどうすればよいのか、関心を持ってこられた。シリーズ最終回の宮本匠さんの言葉を借りれば、「わがこと」ないしは「ひとごと」に切り縮められた出来事を、「われわれごと」としてひらくにはどうすればよいか、思索と実践を重ねてこられたのではないか。以下では、問題を個に帰結せずに、「われわれごと」にするためのヒントとなる、「共話」という概念について述べることで、論を進める。

情報学研究者のドミニク・チェン(2020)は、著書『未来をつくる言葉』において、言語教育学者の水谷信子によって定義された「共話」というコミュニケーションのあり方が、他者と共在できるようなかかわりをつくる鍵になるという。同書には、共話の例として、以下の短いやりとりが挙げらている。

A「今日の天気さぁ」
B「うん、本当に気持ちいいねぇ」

Aの言葉は、文章として完成していない。「今日の天気さぁ」に続く言葉は、「良いねぇ」、「寒いねぇ」、「急に雨になったりしないかな」、はたまた「一日中家にいるからどうでもよくない?」、さらにはもっと違う言葉なのか、Bにはわからない。ただ、このやりとりにおいて大事なのは、「あくまでBがAの意を受け取ろうとしている点」(チェン, 2020, p158)だという。また、その「受け取ろう」という意の表明を、「うん」という相槌からスタートしていることも特徴的だという。共話は、「途中のフレーズを未完成のまま相手に委ねたり、相槌を打たせる隙を与えたりする話法」(同書, p158)であり、「隙」があるからこそ、相槌も頻繁に差し挟まれる。「うん」「へえ」と声に出したり、声は発さずに首肯するといった動作としての相槌は、意志によって抑制するのは困難である。ただ、経験に基づいて意識的に使用することも可能である。そして、いつも通り、やりとりの「隙」に相槌が差し挟まれれば、これが相槌によって支えられていることには気がつかないが、相槌がなくなった途端にやりとりは不自然になり、話し手や聞き手に違和感を生じさせもする (Ekman,1969)。

シリーズ最終回も終わりにさしかかったとき、宮本さんがアメリカ人の友人に逐次通訳をしながら東北の被災地を巡った際に、「匠、訳してないやつがあるぞ、君がさっきから言っている『へえ』はどういう意味だ」と聞かれたことを話してくださった。このやりとりは、「共話」的態度で人びととかかわる宮本さんと、「対話」的態度でそれを聞こうとする海外の友人との、言語行為をめぐる違いがある種の「おかしみ」として現れたエピソードだと思う。「対話」(dialogue)は、定まった主題にたいして、お互いの考えを積み上げて論じるときに適している。一方「共話」(Synlogue)は、フレーズの主語が共有されたり、「隙」に相槌が打たれることで、お互いの差異がやりとりのなかに融け込んでいく(チェン, 2020, p164)。人びとは普段、「共話」か「対話」かは意識せずに、「対話」のなかに「共話」が瞬間的に顕現したり、「共話」から「対話」に発展したりしながら、やりとりをしている。英語圏においては、文の途中で相手にその先を委ねたり、その「隙」に相槌を打ったりする「共話」は、稚拙なコミュニケーションであるとみなす傾向がある一方、日本においてそれは、やりとりを手助けし、関係を円滑にする技術の一つとして根付き、磨かれてきたという(水谷, 1993)。

自己で完結させず、未完成のまま相手に手渡し、そこからともに、その道行きを楽しむ。水谷はそのような「共話」的な態度を「ぬくぬくとこたつでくつろぐよう」なあり方だと表現している。そして、その「共話」的な話し方が、私たちの生活をどんなに支えているか、と指摘する。チェンは、「共話」的態度の力能について、自他の境界を解かし、「わかりあえなさ」を静かに共有するためのコモン(共有地)となると、期待を込める(チェン, 2020, p198)。

私は、このシリーズの途中、死にゆく私の父を画面越しに見つめる日々を過ごした。新型コロナウイルス感染症に罹り、病と対峙する父とともにある方法はないかと模索した。その間、約2ヶ月に亘り、私はこのシリーズのナビゲーターの役割を降りた。理由はどうであれ、社会人としての役割を果たすべきとの考え方もあるだろう。ただ、私は、あの日々を、ままならなさに押し流されるのでもなく、否認に転じて無かったことにもせずに、父と私自身の尊厳を失わずにいられたことに、少し胸を張っている。

声を投げかけること、そして、それを確かに受け取ったと表すこと。このような応答は、災禍によって突然に断ち切られることがある。災間に生きる私たちは、やりとりがいつ断ち切られるかわからない不安や恐怖を抱きつつ、それでもなお、やりとりのなかを生きている。災禍の渦中にあるとき、人は、自らが再び声を出せる日がくるまで、待つしかない。ただ、「待つ」というのはそう簡単ではない。渦中に巻き込まれていることを隠したい、私は渦中にはいない、そもそもここは渦中ではないと思い込みたい。これらの誘惑から、かえってあまりに多くを披瀝してしまったり、思ってもいないことを口にしたり、身を硬くして沈黙を貫いたりしてしまう。焦るほどに、その誘惑は加速する。それは結果として、さらに深い悲嘆の日々を過ごすことを招くかもしれない。そのような引き裂かれのなかにいる私を、佐藤李青さん、宮本匠さん、スタッフや参加者のみなさんは、再び声を出せる時がくるまで待っていてくださった。私は、みなさんが待ってくれているはずだと、信じることができた。そのことは私にとって光だった。

自ら主体的に実践を完結させずに、未完のままに、手渡し、手渡される関係のなかで生きる。「共話」的態度として生きるとは、「私」という主体がゆらぎ、個と個の境界がにじんでいくということだ。そのような主体の「ゆらぎ」と境界の「にじみ」は、これまで抑圧されてきた出来事と、それをめぐる物語を見ることへの回路をつくり、それらを社会の最前へと連れ出す可能性をもつ。美術史家のクレア・ビショップ(2020)は、現代美術館の先進的な事例をもとにして、創造的なキュレーションとは、出来事と出来事を新しい仕方で結びつけ、既に確立している分類法、専門分野、媒介、作法を撹乱し、ダイナミックな再読解へと開いていくものであると述べている。そしてそれは、星座的布置(constellation)と称され、「オルタナティブなものを可視化するための第一の手段」(ビショップ, 2020, p81)となるという。

表現という名の実践が誰かのもとに届き、相槌が打たれ、そこから応答がはじまることに賭けること。賭けに出る手前で、自らの目の前の世界がその「賭け」に出るにふさわしいものだと信じること。実践者にそなわるべき態度とは、そういうものであるし、それは独力でつくるものではなく、ともにつくっていくものだ。私は、このシリーズにかかわることで、災間の社会に生きる態度を知ることができた。

参考文献

クレア・ビショップ(2020)『ラディカル・ミュゼオロジーーつまり、現代美術館の 「現代」 ってなに?』月曜社.
ドミニク・チェン(2020)『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』新潮社.
Paul Ekman and Wallace V. Friesen(1968)”The Repertoire of Nonverbal Behavior; Categories, Origins, and Coding”, Semiotica 1(1), 54-58頁.
水谷信子(1993)「「共話」 から 「対話」 へ」『日本語学』12(4), 4-10頁.
定延利之(2008)『煩悩の文法 体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』ちくま新書.