誰もが「災禍の記録」を語り、きくことで、記憶は生き続ける——瀬尾夏美「カロクリサイクル」インタビュー

2022年の春から活動をはじめたアートプロジェクト、「カロクリサイクル」。カロク=禍録とは「災禍(さいか)の記録」のことで、自然災害や戦争のような災厄(さいやく)を体験した人、目撃した人が、語りや文章、映像など、さまざまなかたちで残した記録のことを指します。

2011年の東日本大震災後、東北に移住し、10年にわたり被災者の経験に耳を傾けてきたアーティスト・瀬尾夏美さんらが中心にはじめたこのプロジェクトでは、こうした禍録との新しい向き合い方や、語り部のネットワークの形成などが目指されています。

例えば、禍録という「記録」からみんなで「表現」をしてみたり、別々の土地で災禍に見舞われた人たちが、禍録を通してお互いの経験のなかに共通性を見出したり。このように、各地で独自に生まれ、引き継がれている複数の禍録をつなぎ合わせ、それを新しい表現やコミュニティの起点として機能させる狙いが、「リサイクル」という言葉に込められています。

震災から10年を超え、22年には東京に戻った瀬尾さん。生まれ故郷である東京での活動には、自身の足元を見つめ直し、そこにいる「語りを必要とする人」を意識したいという思いもあるようです。カロクリサイクルの活動について、瀬尾さんにお話をききました。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:池田宏 *1、2、4、10枚目)

一人の「災禍の記録」を、一人ぼっちにさせない

——「カロクリサイクル」のはじまりや、そこにある問題意識をきかせてください。

瀬尾:「禍録(カロク)」とは「災禍の記録」という意味で、災害や戦争を経験した人が残した記録のことです。禍録はさまざまな土地に存在しますが、そのような過酷な体験から人が再び立ち上がる過程には、時代や場所、出来事の違いにかかわらず、共通するものがあります。ならば、他者の経験や感情を想像し、共感する一助として、禍録が使えるのではないか。これが、プロジェクトの出発点にある問いです。

こうした取り組みは、「防災」という具体的な問題に対しても有効ですが、同時代にも災禍を経験した人たちがたくさん各地にいるなかで、その人たちを一人ぼっちにせず、互いの状況を想像したり、一緒にできることを見つけたりするうえでも意味がある。それが、私自身が東北でこの10年ほどやってきたことの延長にある視点だと思っています。

つまり、同時代的なネットワークをつくること。他者の状況を想像する力を身につけるうえで、記録という一種の「表現」が介在し得ること。わたしたちのミッションは、そうした視点から禍録のリサイクルを考えることだと思っています。その先に、同じ被害を出さない未来があり得ると信じて。

東京の水害と治水のリサーチで訪れた「荒川知水資料館 アモア」にて、「荒川の水害と放水路の誕生」の展示を見る。

——瀬尾さんは東日本大震災の翌年、2012年に東京から東北へ拠点を移され、震災を体験した多くの人の話をきかれてきました。まさに東北で禍録を収集してきたわけですが、そうした活動を経て、東北以外の禍録の存在も意識するようになったのでしょうか?

瀬尾:東北で人からきいた話を、違う土地の災禍を体験した人に話すという場を多くつくってきたのですが、誰かが話しはじめると、きいている人は自分の体験と重ね合わせたうえで語りだすことが多くて、いろいろつながるんですね。例えば、神戸の人たちは東北の話をきいたあとに阪神・淡路大震災の話をしはじめるし、広島の人は、東北の復興工事が原爆投下後の戦後復興と重なると話されていました。人が語る体験が、別の体験者の語りのスイッチになるという発見は、自分のなかで大きかったと思います。

東北で活動を続けていると、どうしても「東日本大震災」というイシューが自分にとって特別なものになってくるんです。一方で、最近は各地で深刻な自然災害も増えてきました。例えば、2021年からは宮城県の丸森町(まるもりまち)も取材しているのですが、この土地は2019年の台風19号で大きな被害を受けました。その被害規模は東日本大震災には及びませんが、現地には家族や家を失い、ほかの土地に移る人たちがいて、個人レベルでは同等といっていいような被災体験があります。

にもかかわらず、その被害は数としては「小さい」ので、どうしても忘れられてしまうし、「東日本大震災よりは大変じゃない」といった現地の方の声も聞かれます。そこで、「いや、ここにも被災をして、困難を抱えている人がいる」と目を向けることは、私のような被災当事者ではない「よそ者」にこそできることかもしれないと思っています。

——メディアや報道はどうしても、災害の直後に集中的に被災地を取り上げ、次の災害が起こるとそちらへ、という消費的な態度になりがちですよね。しかし当然、それぞれの被災者の方の時間はそのまま続いている。

瀬尾:東北での活動の記録をまとめた『あわいゆくころ──陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019)という本を出したとき、神戸の人が手紙をくれました。彼は阪神・淡路大震災でお子さんを二人亡くした方でしたが、東北の震災が起きたとき、これで神戸に向けられていた注目は東北に行っちゃうんだと感じたそうです。でも、数年経ち、岩手県の沿岸部を訪れた際、そのまちの人々が自分の講演をきいて泣いてくれて、人の視線を奪い合うのではなく、同じ痛みを経験した者同士で出会った方がいいと思えるようになったと話されていました。

こうした経験が、ほかの土地や出来事でもきっと多くありえると思います。私のような、ある土地に根ざしたものを、できるだけ丁寧にすくい取ろうとする「アート」という営みを仕事にする人間が、そこでできることがあるのではないか。震災10年目の頃から、そうしたことを意識的にやりはじめました。コロナ禍でオンライン化が進み、ネットワークが構築しやすくなったことも背景の一つですね。

瀬尾夏美さんが著した東日本大震災に関する本。

各地の語り部同士、個々の語り部の記憶をつなぐネットワークを

——東北で活動されるなかで、各地の取り組みや語り部を「横」につなぐネットワークの不足を感じられたのでしょうか?

瀬尾:「不足」もありますし、甚大な災禍があり、「当事者」と呼ばれる人の規模がどれだけ大きかったとしても、出来事から10年、20年が経つと、それを引き継ごうとする人の数は意外なほど減っていくということもあります。

東日本大震災も、当初はみんなが語り部のような状態でしたが、10年が経ち、まちで一人、二人しか語りを担う人がいない土地もあります。もちろん生活こそが絶対的に大事なわけで、これはこれである種ポジティブというか、パワフルな変化なんですよね。

——「平時」が戻ってきた、と。

瀬尾:そうですね。それに、災禍を忘れたい、話したくないという方もいます。それも当然、尊重されるべき感情です。一方、経験を伝えようとする人が孤独に陥っていることも感じていて、単純にそれまでの活動の蓄積が消えてしまうことを惜(お)しむ気持ちもあります。であれば、各地の被災地で少なくなった語り部や伝承にかかわる活動をする方同士が知り合えたら、支えになるのではないかと。

災禍の継承にはいろんな社会課題が絡みます。ときには、裁判に発展することもあるため、その災害の特殊性を主張しなければいけない場面もあり、それも大事なことです。しかし、そうしたなかでも、一つの正解を求めたり、ある種の闘いに参加するのではなく、もう少し緩やかに心情的な共感を探すような時間や場をアートはつくり出すことができるように思っています。何より、そうした現場をつくる過程のなかでどんなことが起きるのか、私自身が知りたいという思いがあります。

——さきほどの神戸と岩手の方々のつながりもそうですが、瀬尾さんがこれまで、異なる土地や時代の人々の経験に感じたつながりで、特に印象的だったものは何ですか?

瀬尾:以前、広島の平和記念公園を訪れた際、あるおじいさんに話しかけられました。その方が一番見せたいものだと案内してくれたのが、国立広島原爆死没者追悼平和記念館の地下1階にある地層標本だったんです。広島の地層を切り取ったオブジェですが、彼が指差す部分を見ると、現在の地面の1メートルほど下に被曝前のまちの地層がありました。おじいさんは、その「自分がかつていたまちの地層」が見せたかったんですね。

旅行者には「平和記念公園はきれいでいいですね」と褒められるけど、ここは、自分たちが以前暮らしていたまちを1メートルくらい埋めた上にある公園なんだ、と。そこにもともと公園があったのではなく、暮らしがあったことを忘れてほしくないと話されていたんです。

——それはまさに、瀬尾さんが東北の埋め立てられた土地を「二重のまち」と表現されていることと重なりますね。

瀬尾:そうなんです。似たことがほかにもあって、第五福竜丸事件の資料が並ぶ東京都立第五福竜丸展示館に行った際、マーシャル諸島で活動する詩人が話す映像がありました。マーシャル諸島は核実験の被害と同時に、温暖化による海面上昇の影響で島が沈むというので、陸地を嵩上げする計画があるそうです。それに対して映像のなかの詩人が、嵩上げはせざるを得ないけれど、丘や草原の一つひとつに記憶があり、民話や歌があり、それを埋めることは私たちが物語を失うことだと話していて、私が陸前高田できいた話と重なると思ったんですね。

災禍そのものだけではなく、その後の復興工事によって失う集団的記憶があること。そして、マーシャル諸島が核実験の舞台になったり、大国の放出した二酸化炭素の影響で海面上昇の煽(あお)りを受けたりすることには、東京の電気をつくるために福島が被災することや、ソーラーパネルの設置で地滑りが起きることと同じで、構造的な格差がある点も共通しています。

——災禍の跡を辿ると、その背景にあった構造の共通性も見えてくる。

瀬尾:例えば、東京の人がソーラーパネルと地滑りをめぐる報道をきいてもなかなか自分ごとには感じないけれど、せめてそれが構造的につながっていることは知っていてほしいと思います。だけど、それを「知らなきゃ駄目」と直接語りかけても、みんな生活が大変で余裕がない。そうしたなか、さまざまな土地に似た話が共通してある状況を見せることで、自然とほかの土地に想像が向くようになるといいなと思います。

足元に広がる荒川流域の地図。川下の人たちの暮らしを守るために川上に複数の調整池があることを、ボランティア解説員から学んだ。

より逞しく、遠くに届く「語り」とは

——被災地以外に住む「当事者」ではない人のなかには、戸惑いや後ろめたさのため、禍録へのかかわり方に悩む方もいるように思います。そうしたなか、瀬尾さんは以前、そのような戸惑いをもつ人も、禍録を巡るサイクルのどこか「一部」にはかかわることができると話されていた。これは多くの人のハードルを下げる考え方だと感じました。

瀬尾:震災後の東北で、「みやぎ民話の会」という、宮城をはじめとした東北の民話の採訪を行うサークルの方々と知り合いました。そこで知ったのは、民話というのは、「あったること」(ほんとうにあったこと)であるという前提で語られること。これは、ヘビとかキツネとかの話のような、かなりフィクショナルな話でも同じで、そこでは語り手と聞き手が手をつなぎながら、その「あったること」の世界に入っていくんだそうです。

そのとき、「あったること」とは一体何なのか。例えば大昔に、何か絶対に語らねばならない体験をした人がいる。それは洪水や飢饉、継子話(ままこばなし)だったりするかもしれない。それを目撃した人が誰かに伝えなきゃと思って、直接体験していない人に話すとき、相手がショックを受けないように、例え話や笑い話を入れたり、あるいは別の地域のエピソードを入れたりすることもある。そうして、いろんな方法で次の人に渡していくんだと思うんですね。

これはつまり、例えば震災体験を「この震災の話」としてだけ受け継ぐのではなく、間に入る無数の人が「自分の話」として語れる余白がある方が、結果的に逞(たくま)しく、遠くまで届く語りになるということではないか。当事者か否かに関係なく、これは大事と思ったら、自分に引きつけながら次の人に渡す。自分の体験や身体性も入ってよくて、そうして伝わる話の方が、当事者かどうかで精査された話よりも豊かだと思っているんです。

——確かに、一言一句を正確に伝えなければいけないと思うと、そこで語りが止まってしまう可能性もあります。

瀬尾:ハードルが高くて、かかわりたくなくなると思うんですね。もう一つ、これはアートにかかわる話ですが、強烈な体験をしたからそれを表現する資格があるということではなく、誰もが体験したことや感じたこと、考えたことを表現して誰かに渡していいと、シンプルに思います。アーティストだけがそれをやれるわけでも、アーティストが一番できるわけでもない。アーティストは表現を促す人になるのがわりと得意なのかなと思いますが、担い手は誰もがなれるはずだと思っています。

禍録の視点から東京を歩く。「記録」を「表現」に変える

——瀬尾さんと、瀬尾さんが代表を務める「一般社団法人NOOK」は、今春に東京へと拠点を移され、4月からカロクリサイクルの活動をはじめました。これまで東京ではどのような活動を行ってきたのでしょうか?

瀬尾:基本的には、禍録が残された場所を訪れ、災禍がどのように記述されてきたかということをリサーチしています。訪れる場所はさまざまで、5月の初リサーチでは、東京大空襲・戦災資料センターが発行する『戦災資料センターから東京大空襲を歩く』(2005)というガイドブックを頼りに、江東区の妙久寺にある戦災殉難者供養碑や、焼け野原を描く作品を残した俳人・石田波郷の記念館などを回りました。散策後は議論を行い、文章をブログに残しています。おもしろい手法で禍録を残している人と出会ったり、その人と情報交換することもまち歩きの目的です。

2022年5月、東京空襲と関東大震災の記憶を巡るまち歩き(公益財団法人東京慰霊協会主催)に参加。

——東京水道歴史館や、戦後の版画教育についての展示など、訪問先がユニークですね。夏には、「記録から表現をつくる」というワークショップも行われたそうですね。

瀬尾:これは、残された記録を見たり、記録を元に表現をしている作家の話をきいたりすることを通して、参加者も記録から自分の「表現」を考えるというもので、全国から十数人が参加してくれました。さきのアーティストの話にもつながりますが、日本では教育の影響もあって表現することのハードルが高い。それを、少し変えたいという思いもあります。

具体的には、参加者同士がペアになってお互いにインタビューをしあい、相手の語りを文章にして朗読してみることからはじめます。そこで、話をきかれることの楽しさや、書いて表現してみることから生まれるコミュニケーションを体験します。その後、自分の記録したい対象を調べ、中間発表とフィードバックを重ねます。最後には、リサーチの過程で出てきた記録物や資料を構成したり、朗読などのパフォーマンスを組み合わせながら、展示空間をつくります。実際アウトプットしてみると、みんな結構自信がつくというか、表現ってこんなハードルが低いんだ、と感じられるし、お互いの表現を見て感想を言い合うのって楽しいんですよね。そのうちの数人は今後も発表を続けようとしていて、コミュニティも生まれていますね。

「カロク・リーディング・クラブ」という企画では、東京と岡山をZoomでつないで同じ記録を見ながら「てつがくカフェ」のやり方で話し合う場をつくりました。岡山県では真備町(まびちょう)の豪雨被害などもあり、異なる災禍を経験した土地の人たちとネットワークづくりをはじめています。

2022年7〜8月に全4回開催した「記録から表現をつくる」ワークショップの様子。

さまざまな背景をもつ人たちのために、自分のために、いろんなことを知っていく

——江東区内に、カロクリサイクルの活動拠点もつくろうとされているとか。

瀬尾:拠点はいま準備中で、そこで何ができるかを考えている段階です。江東区を選んだのは、水害の歴史やリスクがあるからでもあります。そこでどんなことが起きたのか、地域の人とかかわるうえで、まずは共通言語として知っていきたい。ただ、日常生活のなかで地元の災禍のリスクを考えるハードルは高いと思うので、直接、地域の災禍について触れるのではないやり方で、災害に関して考え、過去をひもときながら、これからを想像するような拠点ができないかと最近は考えています。

また、拠点の近くには外国籍の方も多く住んでいます。私たちがこれまで調べてきた各地の災禍のなかには、そうした人たちの故郷で起きた出来事もありますが、それを伝える際、宗教的な背景や生活習慣の違いで考えなければいけないこともある。そうしたことも学びたいと思っています。

——ほかに、これからしたいと考えている活動についてもきかせてください。

瀬尾:私たちができること、得意だと思うことは、やっぱり東北とつなげることだと思います。

先日、「プラス・アーツ」というNPOの東京事務所に話をききに行きました。こちらは、阪神・淡路大震災の経験を出発点に、防災にまつわるノウハウをゲームのように楽しめる教材にして、こどもたちに向けてワークショップを行っている団体です。そこで印象的だったのは、その方たちはずっと東北でも活動をしたいと思っているけれど、知見があるからこそ、いまはまだ行くべきではないと考え、なかなか訪れることができていないということでした。

2022年7月、NPO法人プラス・アーツの東京事務局を訪問。

それに対して、私たちはずっと東北にいたので、東日本大震災から10年が経ち、すでに小学校に通うほとんどの子が震災を体験していないことや、一方で、大人のなかにはまだ傷が癒えていなくて、自分たちで教育をすることがしんどいけど、何かやらなきゃと思っている人がいることも知っている。プラス・アーツの方たちに、「いま東北での活動が求められていると思います」と伝えることができる。そうした、東北とほかの地域のつなぎ役もしていけるのかなと感じています。

——多岐にわたる活動ですね。

瀬尾:そうですね。ただ、それらを自分がコントロールしようという気はなくて。むしろ、先ほどのワークショップの参加者が独自にコミュニティをつくったり、岡山のチームが勝手に動き出したりすることがおもしろいし、楽しい。その方が、私自身の知見も増えるじゃないですか。そうやっていろんなことを知れば、自分もいい物語が書けるかもしれない。

——自分の創作にも跳ね返ってくる。

瀬尾:もちろん。私は慈善事業をやろうとしてるわけではないので、個人的な動機がなければこうした活動はできないです。プロジェクトには、個人の欲望や身体の感覚がちゃんとあるべきだと思うし、それは参加してくれるいろんな人にとってもそうであってほしい。研究をする人もいれば、まちづくりにいかす人も、演劇をつくりたい人もいる。そういう信頼関係のなかで情報を共有しながら励まし合っていけたらいいんじゃないか、と思っています。

日常のなかにある「語り」をきき逃さないためのコミュニティ

——東京は災禍の記憶やリスクをもつまちであると同時に、瀬尾さんにとっては生まれ故郷でもあります。東北での経験を通して自分の足元への意識が変化した部分はありますか?

瀬尾:東京という土地に対してよりも、災禍を経験して、そのことについて考えたり、傷を負ったままの人たちが同時代にも暮らしていることをちゃんと意識しないといけないという気持ちの方が強いかもしれません。

私の祖父は、戦争で南方に行って帰ってきた人でした。私の世代の「あるある」かもしれないですが、二世帯住宅でじいちゃんが家にいて、認知症でもあったので、戦争の話をしはじめると止まらないということがよくありました。それに対して私や家族は、「じいちゃん、もういいよ」という感じで、自分の日常生活から、ある体験や記憶を語らなければいけない人のことを排除してきた感覚があって。確かにみんな忙しいから、なかなか日常的にきくことは難しいですけど、もっときいてあげた方がよかったな、と。これは私にとって原体験的なものなんです。

そんな風に、同時代を生きている人のなかには、語らずにはおれない、語ることを必要としている人たちが実はたくさんいる。それを抑圧している状態が嫌なんです。きいた方がコミュニケーションも楽しいし、継承の機会にもなる。東京って、いろんなパターンで、いたるところにそうした人がいる場所でもあると思います。その人たちが、語れないままになっているのはよくない気がして。

——いまのお話をきいて、確かに禍録のサイクルが生まれていくためには、語る人だけではなくて、それをきく側の姿勢が伴っていなければいけない、と感じました。

瀬尾:被災地域にいて、語ること、あるいは記録するところまで、ただでさえ大変な状況にある当事者にやらせていていいのだろうかと感じてきました。当事者じゃない人は、それをやる役回りなんだよって、思うというか。

——せめてきこうよ、と。

瀬尾:そう。せめてきいたり、相づちを打ったり、横にいたりしようと。私はそれを家族というコミュニティのなかではやれなかった。だけど、それぞれ事情があるなかで、聞き手は必ずしも当事者に近い人だけではなくていいのかもしれない。聞き手を増やしていくことで、いろんな人が他者の話を持ち回りできいてもいい。私は祖父に話をきけなかった分、それに近い体験をもつ人の話をききたいと思うし、そうしたサイクルが生まれたらいいなという思いもあります。

カロクリサイクルの活動について伝える配信番組「テレビノーク」。月1回程度、YouTubeで配信。

——災禍の経験をもつ人は、常に既に日常のなかにいる。そうした人とどのように生き、そこから何を学ぶのか。そうした「災間の想像力」や、日常的なきく力をみんなで共有するプロジェクトでもあるのですね

瀬尾:災禍の体験者には、さまざまな事情や感情から語ることを躊躇する人もいます。辛くて話すことができないとか、もっと大変な思いをした人がいるから語る資格がないといった心理的な側面のほかに、聞き手が不在であることもよくある。そうしたとき、家族や村の人には話せないけど、外から来た人にならば話せる場合もあると思うんですね。あるいは、「なんか寂しい」といった自分でも整理がついていない抽象的な感情も、きく側の姿勢次第では話すことができるはず。

先ほど話したワークショップの参加者とは、そうした姿勢を共有できた気がしていて。例えば自分の住む郊外の歴史や、通学路にある戦争の痕跡のような、それこそ日常的には周囲の人に耳を傾けてもらえない話を、みんなで調べて、話し合っている。すると、このコミュニティではきいてもらえると感じて、それがまた、記録や表現をはじめる動機になる。同じ感性をもつ聞き手が集まることには、そうした価値もあると感じています。

2023年1月から2月に開催した、「展覧会 語らいの記録 2011-2022」の様子。NOOKが実践してきた記録と表現の手法および、東日本大震災にかかわるアート活動のドキュメント等を展示した。(撮影:加藤甫)

Profile

瀬尾夏美(せお・なつみ)

アーティスト/一般社団法人NOOK
1988年生まれ、東京都出身。東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくる。2012年より、映像作家の小森はるかとともに岩手県陸前高田市に拠点を移す。2015年、仙台市で一般社団法人NOOKを立ち上げる。主な展覧会に「ヨコハマトリエンナーレ2017」、「第12回恵比寿映像祭」など。最新の映画作品に「二重のまち/交代地のうたを編む」(小森はるか+瀬尾夏美)。著書に、『あわいゆくころ――陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019年)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房、2021年)。

「カロクリサイクル」

被災を経験した土地に蓄積されてきた記録物(禍録)や、防災やレジリエンスにかかわる知識や表現の技術、課題等を広く共有するプロジェクト。災間期をともに生き、次なる災禍に備え、災後も活用できるネットワークの形成を目指す。
https://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/what-we-do/creation/hubs/karoku-recycle/52796/

アートプロジェクトのためのウェブサイト制作 コ・クリエイションの手引き

本書ではアートプロジェクトのウェブサイト制作について、その一連のプロセスや、それぞれの段階で押さえておくべき課題、チームで制作に取り組むためのポイントをまとめました。以下のワークシートと合わせてご活用ください。

*本書は「ウェブサイトは必要か?」という問いを、ディレクター、デザイナー、エンジニアなど、多様なフィールドで活躍する10名のメンバーと議論した「東京プロジェクトスタディ これからのウェブサイトについて考える」をきっかけに制作されました。

▶刊行記念オンライン座談会の動画はこちら
「誰かと一緒にウェブサイトをつくるために必要なことはなんだろう?」YouTube再生リスト

プロジェクトオーナーが一方的にアイデアを押し付けるのではなく、エンジニアがすべてを突っぱねるのでもなく、不可侵に感じている互いの境界線をすこし曖昧にして、みんなで学びながら・前向きにチームでつくることが、成功のポイントとなるのです。

(p.3)
もくじ

Stage 1 俯瞰して確かめる

アートプロジェクト系のウェブサイトの分類を捉えよう
ウェブサイト制作での役割分担を共有しよう
ウェブサイト制作の流れを確認しよう
MAP

Stage 2 状況を整理する

ウェブサイトをつくる前にチームでKPTを確認しよう
ユーザー視点で情報発信するために「ペルソナ」をつくろう
届けたい人へ届けるために「カスタマージャーニー」をつくろう
予算・スケジュール・制作体制等を確認しよう
ウェブサイト制作のツール選びはみんなが挫折しないものを選ぼう

Stage 3 伝え方を考える

表現・伝え方のアイデアを考える。プロジェクトの個性をどう表現する?
導線・構成を検討する。ウェブサイトの構成を伝えよう
デザインを検討する。見栄えと使いやすさの優先順位を考えよう
アクセシビリティを検討する。いろんな立場や視点から考えよう
システムを構築する。技術に関する共通言語を手に入れよう

Stage 4 ウェブサイトを運用する

運営方法を検討する。リアルな運用のイメージをつかもう
継続する方法を考える。ユーザーとの「接点」を連続的に捉えよう

ワークシート(付録)のダウンロード

ダウンロードはこちらから。

このPDFデータは、冊子本体のQRコードからダウンロードできるワークシートです。それぞれのトピックに応じて項目を書き出し、ウェブサイト制作に役立てていただけたら幸いです。

東京アートポイント計画 + NPO法人音まち計画(千住)|Tokyo Art Navigation

本記事は、2025年6月30日に終了したウェブサイト「Tokyo Art Navigation」の連載「Next Tokyo 発見隊! No.11」として公開された記事を転載したものです。

東京各所の歴史や文化をクリエイティブに掘り起こす人たちを取材するシリーズ「Next Tokyo 発見隊!」。今回からは、東京にたくさんの「アートポイント」をつくることを目指したプロジェクト「東京アートポイント計画」をご紹介します。

東京都と公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、そしてNPOが共催し、2009年にスタートした「東京アートポイント計画」は、これまで50以上の団体と45のプロジェクトを行ってきました。ここでは、このプロジェクトに参加してきた非営利団体のなかから3つの団体を取材し、連載でお伝えしていきます。

アーツカウンシル東京の「東京アートポイント計画」プログラムオフィサーとディレクター。プログラムオフィサーは、それぞれがアートプロジェクトの現場経験や独自の専門性をもち、プロジェクトの現場に伴走する。 
*撮影:加藤甫

「東京アートポイント計画」とは、文化が生まれる拠点をつくるプロジェクト

東京にさまざまな「アートポイント」(=文化が生まれる場所)をつくりたい、という思いのもとスタートした「東京アートポイント計画」。東京へのオリンピック・パラリンピック競技大会招致を機に、地域社会を担うNPOとアートプロジェクトを展開することで、まちにアートの担い手を増やそうと、2009年に東京都とアーツカウンシル東京(当時・東京文化発信プロジェクト室)が立ち上げたプロジェクトです。

「まち・人・活動をつなぐために、公共文化事業の新しい中間支援システムをつくる」という設計思想がもとになり、東京都・アーツカウンシル東京・NPOの3者による「共催」事業として実施していることが最大の特徴です。共催のメリットは、事業と組織の進捗に合わせ、じっくりと推進していけること。持続可能なプロジェクトのために、チームの育成に力を入れています。

アートプロジェクトの専門スタッフである、アーツカウンシル東京のプログラムオフィサーがプロジェクトの立ち上げから関わり、複数年かけてそのプロセスに伴走する仕組みは、国内外でも珍しい事例です。プログラムオフィサーは、まちに生まれたばかりのアートプロジェクトを運営する団体やスタッフを、ネットワークや情報、ノウハウなどの面で支援し、プロジェクトを持続的に活動できるようサポートしています。
この仕組みによって、各地域で市民とかかわり合いながら、文化芸術活動を担う団体や拠点を育んできました。

「無縁社会」からスタートした「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」

今回最初にご紹介するNPO法人音まち計画は、2011年から「アートポイント計画」に参加し、千住で約10年以上にわたって続くアートプロジェクト「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」(以下、「音まち」)を運営する団体です。2022年春に「アートポイント計画」を卒業するまで、どのような歩みを経て持続可能なアートプロジェクトに発展させてきたのでしょうか?

このNPOで「音まち」のディレクターを務める吉田武司さんとアーツカウンシル東京プログラムオフィサーの大内伸輔さんに、NPOが運営する文化拠点「仲町の家」で話を聞きました。

仲町の家にて。「音まち」ディレクターの吉田武司さん(右)とプログラムオフィサーの大内伸輔さん(左)

「音まち」は現在、足立区、東京藝術大学、NPOの3者で実施しています。大きな特徴は「音」がテーマであることと、まちに住む人が主体となって活動していることです。2022年は、音楽家・野村誠によるだじゃれから音楽を生み出すプロジェクト「千住だじゃれ音楽祭」(2011年〜)や、多様な表現者が関わることのできる「千住・人情芸術祭1DAYパフォーマンス表現街」(2021年〜)など4つのプロジェクトを行っています。

この「音まち」がスタートしたのは2010年代初頭。「無縁社会」という言葉が流行語大賞になり、孤立や孤独が社会問題として大きく取り上げられた頃でした。「江戸時代に宿場町として栄え、人情あふれるまちという印象が強い足立区でも、『無縁社会』は大きな課題として受け止められていました」と音まちのディレクター、吉田武司さん。

吉田さんは2015〜2017年は「音まち」事務局長を務め、2018年より現職。前職では東京アートポイント計画のプログラムオフィサーとして「音まち」を担当していたことも

そこで足立区のシティプロモーション課が、区制80年を迎える2012年を前に、文化芸術の力で千住に「縁」を取り戻すプロジェクトをできないか、と検討し、「東京アートポイント計画」を行うアーツカウンシル東京(当時・東京文化発信プロジェクト室)に相談したことが、いまの「音まち」につながっていきます。
「音まち」を担当したアーツカウンシル東京のプログラムオフィサーの大内さんは「普段の生活で出会わない人たち同士が出会う機会をつくりたい。80年の記念事業といっても1回で終わるイベントではなく、そこでできた縁を広げたり深めたりする事業としていきたい、という思いがあったそうです」と語ります。

大内さんは東京アートポイント計画の立ち上げよりプログラムオフィサーとして従事。「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」も立ち上げ当初から担当していた。「東京アートポイント計画は、ごく端的に言うと、アートプロジェクトを運営する『事務局』をつくる事業なんです」と大内さんは話す
2011年より続く、アーティスト・大巻伸嗣氏によるプロジェクト「Memorial Rebirth 千住 2018 西新井」
*撮影:冨田了平

その後、東京藝術大学の千住キャンパスに研究室を構える熊倉純子教授(音楽環境創造科・大学院国際芸術創造研究科)にも相談し、熊倉教授のもとで文化支援やアートマネジメントを専門に学ぶ藝大生らとも一緒に事業を行うことになります。

「熊倉先生の研究室は理論と実践の両輪を大事にしていますが、『音まち』はその実践の場になっています。学生はまちに出て、NPO職員と一緒にプロジェクトの企画・運営に携わっており、アーティストや市民の方に叱咤激励されながら、さまざまな経験を重ねます。そして、その蓄積した体験を論文という形で理論に落とし込む。毎年、学部1年生から博士課程まで20人ほどの学生がプロジェクトに関わってくれています」と吉田さんは言います。

東京藝術大学の大学広報誌『藝える』で音まちのメンバーが表紙になった号(第3号、2018年)

まちに活動を残すための「事務局」の基盤づくり

ただ藝大の学生たちや、足立区の担当者の皆さんは、当然ながら卒業や異動などで入れ替わっていきます。そして、活動がまちに残っていくには、自主的にアートの企画を担い、運営を継続して担当する「組織(事務局)」が必要です。そこで、まちに根付いたプロジェクトをはじめるにあたって、「音まち」は、新しく発足したNPO(NPO法人音まち計画の前身)、足立区、藝大、東京都、アーツカウンシル東京の5者が共催して進めるプロジェクトとしてスタートしました。

5者共催といっても、各共催団体の役割はそれぞれです。たとえば事務局が企画をし、その内容について共催団体が定期ミーティングのなかで意見を交わし合い、プロジェクトの方向性や運営方法を検討し企画を詰めていきます。そのなかで、アーツカウンシル東京は特に、活動や組織が持続的なものになったり、共催団体にとって新しいチャレンジになったりすることを重視しています。「アートマネジメントの専門的な立場から、我々がやりたいところを理解したうえでアドバイスをくれていました」と吉田さんは振り返ります。

大内さんは、そのアドバイスの例として、リスクマネジメントをあげます。「『こういうことをやりたい』という提案に対し『リスクがあるからダメ』ではなく、なぜやりたいのかという企画の必然性を問いながら『これならできそうでは?』という落としどころに至るまで、対話を重ねるようにしています」と、中間支援として事務局に寄り添いながら伴走してきました。

2022年に開催した「千住・人情芸術祭 1DAYパフォーマンス表現街」の様子。第二回となる2022年11月6日(日)には、総勢68組のパフォーマーが、江戸時代から交流の場所だった「千住ほんちょう商店街」に集まり、各所で表現を繰り広げた
*撮影:冨田了平

スキルや手法はシェアされ、次のステップへ

2022年の春、NPO法人音まち計画は、東京アートポイント計画事業から卒業しましたが、そこで培われたスキルや手法は、東京アートポイント計画のほかのプロジェクトにもシェアされています。

「一つのイベントをつくっていくときに、まずは体制表や進行表をつくって計画を立ててブラッシュアップしていきます。この表なども『こういうものをつくって準備しましょう』とほかの団体のお手本にもなる。企画や運営という仕事のうえで、ある程度フォーマット化できる手法は積極的に他団体にもシェアしています。『音まち』でつくられた会計システムは、いまはどの団体でも使っていて役立っていますね」と大内さん。

小さなNPOの事務局では、専任の会計担当がいないことは珍しくありません。兼任や複数人で担当することでどうしても煩雑になってしまいます。そのなかで、チェックする側もされる側も負担を減らすために、「音まち」では台紙のフォーマットをつくりシステム化しました。

また、プロジェクトを継続するために必要な「事業評価」にも積極的に取り組んでいます。「音まち」が地道に積み上げた、アンケート分析やロジックモデル(活動の結果と成果を図示した評価手法)の作成などは、他団体との勉強会で好例としてシェアされました。2022年に出版した本『アートプロジェクトがつむぐ縁のはなし 大巻伸嗣「Memorial Rebirth 千住」の11年』は、成果の見えづらいアートプロジェクトの価値をどのように伝えていくのかが記録され、多くの反響を呼んでいます。

「音まち」が10年続いたことを機に、「Memorial Rebirth 千住」の歩みとそこから生まれた「縁」をまとめた本。『アートプロジェクトがつむぐ縁のはなし 大巻伸嗣「Memorial Rebirth 千住」の11年』(公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、2022年)

東京アートポイント計画では、こうして実践的に積み上げられたスキルや手法が蓄積され、ほかの団体に還元されているだけではなく、参加した団体にとっても次のステップに進むための研鑽の場となっています。
「助成金を申請するときも、やはりアートポイント時代に磨いたスキルは役立っていると実感します。助成先には事業計画や予算書などを通して運営のスキルも見られますが、最近採択される割合が増えてきました。公的な文化事業を行っていたことが団体に対する信用度につながっているのかもしれません」と吉田さんは話します。

(photo:多国籍美術展「Cultural BYO…ね!」2022年の様子) 地域に居住する外国人との交流を通したプロジェクト「イミグレーション・ミュージアム・東京(IMM)」(2013年〜)による多国籍美術展「Cultural BYO…ね!」(2022年)。12月3日(土)〜25日(日)に「仲町の家」にて開催した
*撮影:冨田了平

「私たちもその活動がまちに根付き、続いていくための『基盤づくり』の期間としてご一緒しています」という大内さん。
「東京アートポイント計画から離れたいまもプロジェクトが続く『音まち』は、千住地域にとってないと困る存在になっているのではないでしょうか」

「音まち」では、東京アートポイント計画の卒業後も、音まち計画が担い手となり、足立区や藝大とのプロジェクトが続いています。プロジェクトに関わる人たちが自主的な企画を行ったり、定期的に集まって交流したりと積極的な活動が生まれ、また足立区内外の機関と連携することも増えているそうです。多様なコミュニティや人々のハブのような役割を担い始めた「音まち」。地域で活動を続けることで、さらに豊かな「縁」を生んでいくのかもしれません。

次回は、現在も東京アートポイント計画に参加する神津島(こうづしま)のプロジェクトを取材します。

仲町の家(東京都足立区千住仲町29-1)は音まちに欠かせない存在。展示会場、映画上映、企画のミーティングなどに使用している。開室は土日月・祝日の10:00〜17:00。入場無料。最新情報は仲町の家Facebookページにて(https://www.facebook.com/NakachoHouse

Text:佐藤恵美
Photo:畠中彩(*以外)

NPO法人音まち計画(「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」事務局)
https://aaa-senju.com/
TEL:03-6806-1740 (13:00-18:00、火曜・木曜除く)
MAIL:info@aaa-senju.com

Tokyo Artpoint Project + Otomachi Project (Senju)|Tokyo Art Navigation

*This is a translation of an interview originally published in the Tokyo Art Navigation Website ended in June 30, 2025.

Next Tokyo Discovery Squad! is a series of interviews with people who creatively uncover the history and culture of various parts of Tokyo. We introduce the Tokyo Artpoint Project, a project that aims to create many “art points” in Tokyo.

Tokyo Artpoint Project is Arts Council Tokyo’s wide-ranging program of art projects organized with Tokyo Metropolitan Government as well as nonprofits and other partners. Since launching in 2009, Tokyo Artpoint Project has worked with 56 organizations and carried out 45 projects in the city. Here we will cover three of the nonprofit organizations that have participated in this project and report on them in a series of articles.

Program officers and directors of Tokyo Artpoint Project, Arts Council Tokyo. Each program officer has on-site experience and unique expertise in art projects and accompanies the project site.
*Photo: Hajime Kato

Tokyo Artpoint Project is a project to create a base for culture to be born

Tokyo Artpoint Project was initiated with the aim of creating various “art points” (places where culture is born) in Tokyo. Launched in 2009 by the Tokyo Metropolitan Government and the Arts Council Tokyo (then known as the Tokyo Culture Creation Project Office), the project’s purpose was to bolster the city’s art leadership by collaborating with NPOs involved in local communities, in light of Tokyo’s bid to host the Olympic and Paralympic Games.

Based on the design concept of “creating a new intermediary support system for public cultural projects to connect communities, people, and activities,” the most distinctive feature of this project is that it is executed as a “jointly organized” initiative involving the Tokyo Metropolitan Government, Arts Council Tokyo, and NPOs. The advantage of this jointly conducting activities lie in the ability to proceed deliberately in line with the progress of both the project and the organization. Their focus is on fostering a team for sustainable projects.

Arts Council Tokyo’s program officers, who are specialized staff in art projects, have been involved with project from their inception and a mechanism that accompanies the process over multiple years, which is a rare case both domestically and internationally. Program officers support organizations and staff running newly born art projects in the city in various aspects such as networking, information, and expertise, helping these projects to sustain their activities.
Through this mechanism, they have nurtured organizations and hubs responsible for cultural and artistic activities in various regions while engaging with citizens.

Art Access Adachi: Downtown Senju—Connecting through Sound Art, which started as an unconnected society

The nonprofit organization, Otomachi Project, which we are introducing this time, has been part of the Tokyo Artpoint Project since 2011, operating the art project “Art Access Adachi: Downtown Senju—Connecting through Sound Art” (“Otomachi”) in Senju for over a decade. What progress has it made and what journey it taken to develop a sustainable art project until its graduation from the Tokyo Artpoint Project in the spring of 2022?

We spoke with Takeshi Yoshida, who serves as the director of “Otomachi” at this nonprofit organization, and Shinsuke Ouchi, the program officer of Arts Council Tokyo, at the cultural hub Nakacho House operated by the NPO.

At the Nakacho House. Takeshi Yoshida, director of “Otomachi” (right), and Shinsuke Ouchi, program officer.

“Otomachi” is currently being conducted by a collaboration of three parties: Adachi City, Tokyo University of the Arts, and an NPO. Its notable features include having “sound” as the central theme and involving the residents of the town in its activities. In 2022, four projects were conducted such as the Senju Pun-filled Music Festival (2011-), a project that creates music from puns by musician Makoto Nomura, and Senju Ninjou Art Festival 1DAY Performance Expression Town (2021-), which allows a variety of artists to participate.

The “Otomachi” project started in the early 2010s. It was around the time when the term “muen shakai” (a society disconnected individuals) became a buzzword, and issues of isolation and loneliness were widely discussed as social problems.

Mr. Yoshida served as the “Otomachi” secretariat director from 2015-2017 and has been in his current position since 2018. In his previous role, he was also responsible for “Otomachi” as the program officer of the Tokyo Artpoint Project.

In preparation for Adachi City’s 80th anniversary in 2012, the City Promotion Division of the city began exploring the possibility of a project that would use the power of culture and the arts to reconnect Senju with “en”(bonds). Consulting with the Arts Council Tokyo (then the Tokyo Culture Creation Project Office), which implements the Tokyo Artpoint Project, has led to the current “Otomachi.”
Mr. Ouchi, the Arts Council Tokyo program officer responsible for “Otomachi,” says, “They wanted to create opportunities for people who wouldn’t typically encounter each other in their daily lives to meet. They wanted to make this an event not just a one-time event for the 80th- anniversary celebration but a long-term initiative aimed at expanding and deepening the connections that would form there.”

Mr. Ouchi has been involved as a program officer with the Tokyo Artpoint Project since its inception. He has also been in charge of “Art Access Adachi: Downtown Senju—Connecting through Sound Art” from the project’s early days. “To put it simply, the Tokyo Artpoint Project is an initiative to create a ‘secretariat’ for operating art projects,” says Mr. Ouchi.
Memorial Rebirth Senju 2018 Nishiarai, a project by artist Shinji Ohmaki that has been ongoing since 2011.
*Photo: Ryohei Tomita

Then, they consulted with Professor Sumiko Kumakura (Department of Music Creativity and Environment, Faculty of Music, Graduate School of Global Arts), who has a laboratory at the Senju Campus of Tokyo University of the Arts, and together with students who specialize in cultural support and arts management under Professor Kumakura, these students also carried out the project.

“Professor Kumakura’s laboratory values both theory and practice, and ‘Otomachi’ serves as a practical platform. Students go out into the town and are involved in the planning and management of the project together with NPO staff members, and gain diverse experiences while receiving encouragement from artists and citizens. They then translate these accumulated experiences into theoretical research in the form of papers. Every year, about 20 students, from first-year undergraduates to doctoral students, contribute to the projects,” says Mr. Yoshida.

An issue of Tokyo University of the Arts’ university public relations magazine “藝える” (ueru) with members of Otomachi on the cover (No. 3, 2018).

Establishing the groundwork for a secretariat to preserve activities in the town

However, students from Tokyo University of the Arts (Geidai) and Adachi City officials naturally undergo changes due to graduations, transfers, and other reasons. To ensure that the activities persist in the town, there is a need for an organization (secretariat) to autonomously take on the planning and continue the operation of art initiatives. In this regard, “Otomachi” began as a project jointly initiated by five parties: the newly established NPO (predecessor of NPO Otomachi Project), Adachi City, Geidai, the Tokyo Metropolitan Government, and Arts Council Tokyo.

Each though it’s a joint effort by five parties, each co- organizer has its distinct roles. For example, the secretariat handles the planning, and co- organizers exchange ideas within regular meetings to discuss and refine the project’s direction and operation based on the proposed content. In this process, Arts Council Tokyo, in particular, places emphasis on ensuring that the activities and organizations became sustainable and present new challenges for co- organizers. “From the standpoint of art management expertise, they provided advice after understanding what we wanted to achieve,” Mr. Yoshida reflects.

Mr. Ouchi cites risk management as an example of their advice. “Instead of just saying ‘no, there’s a risk’ to proposals like ‘I want to do this,’ we engage in a dialogue, questioning the necessity of the plan, why they want to do this. We work together with the secretariat, offering support throughout the process, until we find common ground, asking, ‘Could it be possible this way?’” As an intermediary support, they have been accompanying the secretariat.

A scene from “Senju, Ninjou Art Festival 1-Day Performance Expression Town” held in 2022. On November 6, 2022 (Sun.), the second edition of the program, a total of 68 groups of performers gathered at the Senju Honcho shopping street, a place of exchange since the Edo Period, and performed their expressions at various locations.
*Photo: Ryohei Tomita

Skills and methods are shared and taken to the next level

In the spring of 2022, NPO Otomachi Project graduated from the Tokyo Artpoint Project, but the skills and methods developed there are being shared with other projects within the Tokyo Artpoint Project.

“When creating an event, we start by preparing organizational charts and schedules, making plans, and refining them. These charts and documents also serve as examples for other organizations, suggesting, ‘Let’s prepare something like this.’ In the field of event planning and management, we actively share methods that can be somewhat standardized with other organizations. The accounting system developed in ‘Otomachi’ is now being use by all of our organizations, providing to be quite useful,” says Mr. Ouchi.

It is not uncommon for small NPO offices to lack a dedicated accountant. Handling it as a part-time task or dividing it among multiple people can become quite cumbersome. To alleviate the burden for both those doing the checking and those being checked, “Otomachi” has created a standardized format for documents and systematized the process.

Additionally, they actively engaged in “business evaluation,” which is necessary for the continuity of projects. The efforts made by “Otomachi,” including survey analysis and the creation of a logic model (an evaluation method illustrating the results and outcomes of activities), have been shared as good examples in study sessions with other organizations. The book published in 2022, “Serendipity in Japanese Art Projects: 11 Years of Memorial Rebirth Senju by Shinji Ohmaki Our project story, participant voices, and project evaluations”, records how to convey the value of art projects with less visible outcomes, and has garnered a significant response.

This book summarizes the progress of “Memorial Rebirth Senju” and the “bonds” that emerged from it to commemorate “Otomachi”‘s 10-year journey. “Serendipity in Japanese Art Projects: 11 Years of Memorial Rebirth Senju by Shinji Ohmaki Our project story, participant voices, and project evaluations ” (Tokyo Metropolitan Foundation for History and Culture, Arts Council Tokyo, 2022).

In the Tokyo Artpoint Project, the skills and methods that have been accumulated through practical experience are not only being shared with other organizations, but they also serve as a training ground for participating organizations to take the next step.
“When applying for grants, I realize that the skills honed during the Artpoint era are still valuable. Grantors pay attention not only to the project plan and budget but also to the operational skills. It may be that our history of conducting public cultural projects has contributed to the credibility of our organization,” says Mr. Yoshida.

(Photo: Installation view of Multinational Art Exhibition “Cultural BYO…ne! 2022)
The multinational art exhibition “Cultural BYO…ne(ね)! (2022) by the project “Immigration Museum Tokyo (IMM Tokyo)(2013-), which promotes interaction with foreign residents in the local community. The exhibition was held at Nakacho House from December 3 (Sat.) to 25 (Sun.)
*Photo: Ryohei Tomita

“We are here together to create a ‘foundation’ for the sake of this activity to take root and continue in the community,” says Mr. Ouchi.
“Otomachi, which continues even after moving away from the Tokyo Artpoint Project, has become an indispensable presence for the Senju area.”

In “Otomachi,” even after graduating from the Tokyo Artpoint Project, the Otomachi Project has taken the lead, and projects with Adachi City and the Geidai continue. Those involved in the project autonomously plan activities, gather regularly for interaction, and foster proactive engagement. Collaboration with institutions within and outside Adachi City has also increased. “Otomachi” has begun to take on the role of a hub for diverse communities and people. By continuing its activities in the community, it may further creative enriching “bonds.”

In the next issue, we will cover a project in Kouzushima, which is still participating in the Tokyo Artpoint Project.

Nakacho- House (29-1 Senju-Nakacho, Adachi-ku, Tokyo) is an indispensable part of Otomachi. It serves as an exhibition space, a venue for film screenings, and planning meetings, among other uses. It is open on Saturdays, Sundays, Mondays, and holidays from 10:00 a.m. to 5:00 p.m. Admission is free. For the latest information, please visit the Nakacho House Facebook page.(https://www.facebook.com/NakachoHouse

Japanese original text: Emi Sato
Photo: Aya Hatakenaka (excluding *)

NPO Otomachi Project (Secretariat for Art Access Adachi: Downtown Senju—Connecting through Sound Art)
TEL:03-6806-1740 (1 p.m.-6 p.m., excluding Tuesdays, Thursdays)
MAIL:info@aaa-senju.com

「手話を使い会話する。」講座レポート 後編

手話でのコミュニケーションの基礎とろう文化を学ぶ「アートプロジェクトの担い手のための手話講座」。3ステップで通年開催される講座のひとつ「手話を使い会話する。」が2022年10月〜12月、3331 Arts Chiyoda 3F ROOM302にて開かれた。

講師は、俳優/手話・身体表現ワークショップ講師の河合祐三子さん、手話通訳は、瀬戸口裕子さん。全6回の講座内の後半3回の様子を、実際に講座を体験したライターの視点からお届けする。

前半レポートはこちら

11月24日 劇場と美術館を想定したロールプレイ

11月24日、アートプロジェクトにまつわる場面を想定して、メンバーと河合さんとでロールプレイを実施する回となった。実際に行ったのは2つの場面だ。

場面1:劇場。上演される演目のタイトルや開場・開演時間、チケット料金、お手洗いや自販機の場所、緊急時の対応などが記載された資料が当日共有される。前回同様、受付スタッフ役をメンバーが、お客さん役を河合さんが担当。受付でのチケット販売のやりとりや座席の誘導を筆談なども取り入れながら実施した。

場面2:美術館。美術展の内容や開館時間、入場料金、お手洗いや自販機の場所、鑑賞の際の注意事項などが記載された資料が当日共有される。受付や会場内のスタッフをメンバーが、お客さん役を河合さんが担当した。

ロールプレイ前には、配布資料を読みながらコミュニケーションにおけるポイントを河合さんとメンバー同士で話す時間が設けられた。「時間を伝えるときは、『19時』ではなく『午後7時』と伝える」「説明するときは館内マップも活用する、目印を認識しておく」「開演前アナウンスは『手話』でも伝える」などさまざまなアイデアが語られた。

ロールプレイの実施後には、河合さんから、それぞれの対応に関してフィードバックの時間があった。筆談時の文章を簡潔にすること、手のひら(五指を揃えて)ではなく指差しで方向を示すこと、時間を明確に伝えること。これまでの講座で学んだことではあるが、実践するとなると慣れていないこともあり、なかなか難しい。メンバーの様子を見ると、実際にやってみることで感じられたことが多くあったように思えた。

12月1日 ゲストを迎えて舞台公演における案内対応を想定したロールプレイ

12月1日、ゲストに高田和香子さんを迎え、劇場で舞台公演が開催される場面を想定して、受付や会場でのご案内対応のロールプレイを実施。河合さんはロールプレイの前に次のように語る。

河合さん「通じ合わないことがあって当然です。そのときどう工夫するのか。正解はありません。もしかしたらそこから新しい伝え方の発見ができるかもしれない。これまでと違うコミュニケーションが生まれるかもしれません」

筆者はこの日、実際に受付スタッフの役割を担当した。正直、目の前のお客さんとどうやりとりするかよりも、チケットの種別や開場時間・開演時間はいつなのかなど、スタッフとして頭に入れておく情報を把握することでいっぱいいっぱいだった。当たり前だが、自分自身に余裕がないと、他者とのコミュニケーションが雑になってしまうと痛感した。

ロールプレイ後には、高田さん、河合さんからフィードバックが行われた。手話を読み取れないときはわかったふりをせず筆談でやりとりすること、手話や身体の動きが読み取りづらくならないよう、ろう者とやりとりをするときは相手との距離を詰めすぎないこと、多様な特性をもつ人が来ても対応できるような事前準備をしておくことなど、さまざまな視点がメンバーに共有された。

高田さん「『手話ができます』と伝えてくれる人もいます。そう言われると、自分にとって自然なスピードで話していいんだと思ってしまうんですね。だから、名前や数字を伝えられるぐらいの手話の習熟度だったら、わざわざ『手話ができます』と伝える必要があるのか悩ましいところ。手話でのやりとりが難しいと感じたときは、筆談に切り替えてもらった方がいいですね」

河合さん「『手話ができる』と伝えること、そのものが悪いわけではないです。でも、それで誤解が生まれてコミュニケーションがずれてしまう場合があるということを覚えておいてもいいかもしれません」

後半には高田さんへの質疑応答の時間があり、さまざまな話が展開された。

高田さん「丁寧に対応してもらえるのはありがたいんですが、周りの視線がすごく刺さる感じもあるんです。聴者と一緒に、平等に誘導してもらえるのがうれしい。ろう者も一人の人間なので、同じようにみてほしいんです」

河合さん「そのためにも文化を知ることがまず大切です。ろう者がこんな文化を持っているんだと知る。そして人として尊重する。『聴こえないから』ではなくて、違う文化があることを理解することが大切なんです」

12月8日 カフェ併設の美術館での案内対応を想定したロールプレイ

12月8日、ゲストに越後節子さんを迎え、カフェ併設の美術館での案内対応を想定したロールプレイを実施。

筆者はこの日、美術館内での監視スタッフ役を担当した。積極的に鑑賞者とコミュニケーションをとるのではなく、作品保護のために必要なことや鑑賞者が困っている様子があったときのみ声がけすることを心掛けた。必須で伝えるべきことが明確になり、その分、伝える手段をどう準備しておくのがいいか考えやすくなった。目の前にいる人との臨機応変なやりとりもたしかに重要だ。ただその手前にある準備をしっかりしておくことが、現場にいるスタッフの個人スキルに任せすぎない形で、さまざまな特性をもつ人たちが安心できる環境づくりにつながるのではないかと感じた。

ロールプレイ後には、越後さん、河合さんからフィードバックが行われた。作品に近づきすぎているときは明確にNGラインを示してほしいこと、障害者手帳の確認の仕方、手話や筆談ですべてを確認するのではなく身振りなど別の方法でシンプルに伝えられないか考えてみてほしいなど、具体的なポイントが多く共有された。

後半には質疑応答の時間があった。受付対応のとき、筆談で長文を書かれてしまって時間がかかり自分の後ろに長蛇の列ができてしまったこと、緊急時の誘導で腕を急に掴まれて嫌だったこと、話しかけるときの肩の叩き方、越後さんが通っていた学校での学習環境などが語られた。

越後さん「ろう学校に通っていましたが、手話は禁止されていて、口話を教えられました。小学校2年生のときに転校して、そこは授業で口話を使うんですが、休憩とか給食のときは手話がOKな環境でした。同級生の手話をみて学んで習得していきました。

私にとって、口話はあまり役に立ちませんでした。私は聴こえないので、発語しても自分の声からフィードバックを得られない。聴こえるこどもたちは自分の声が聴こえます。だからフィードバックが得られてコントロール方法を学んでいける。私の場合は手話であれば、それを見ることでフィードバックが得られる。聴者とろう者で言語が違うだけなんです。だからそれぞれに合う学び方で成長できればいいのにと思います」

河合さん「いろんな人がいて、コミュニケーションがうまくいかない場合があると思います。ではどうするか、さまざまなコミュニケーション手段を持っていてほしい。そこがこの講座の目的です」

「コミュニケーション:手話を使い会話する。」と題された今回の講座。「手話を使い会話する」ことの実践というよりは、他者を尊重して関わるとはどういうことなのか、自身の身体を通して考える機会だったように思う。

また参加して、目の前にいる人を尊重するには2つのことが大事なのではないかと気づいた。社会においてその人の文化がどのような状況に置かれているのか知ること。唯一の正解があると思い込まず互いにコミュニケーション手段を考えること。知るだけでは頭でっかちになってしまう。でも、知ることをないがしろにすると、実践のなかで他者の文化を無意識に傷つけてしまったり、差別をしたりするかもしれない。

他者の文化を知ろうとすること、目の前にいる人と一緒に考えること、その両方を積み重ねる。それを個人に託すのではなく、そうした積み重ねが実践しやすい環境づくりをする。自分自身が携わるプロジェクトからすこしずつ実践していきたい。そう思わせてくれる講座だった。

(執筆:木村和博/編集:嘉原妙/撮影:齋藤彰英

関連情報

ステップ1「ろう者の感覚を知る、手話を体験する」レポート
ステップ2「手話と出会う。」レポート

たくさんの人と出会うための方法。サインネームを考えよう!

東京アートポイント計画の事業を行うチームが、一堂に会するジムジム会。2022年9月に実施した今年度4回目のジムジム会は、ホストに「めとてラボ」のメンバーを迎えて、活動を伝えるための情報保障や手話について考えながら、各事業の「サインネーム」をつくるワークショップを行いました。

アートプロジェクトの現場で明日から使えるアクセシビリティチップス

「めとてラボ」は、「目(め)」と「手(て)」で生まれる文化をテーマに、ろう者やCODA(コーダ)が中心となり、様々な身体性や感覚を持つ人が集い、活動していく創造拠点をつくることを目指すチーム。今年は国内外のろうコミュニティやデフスペースなど、さまざまな「場」のあり方をリサーチしています。ジムジム会の配信拠点STUDIO302からは、メンバーの和田夏実さんと岩泉穂さんが参加。「めとてラボ」の活動紹介のあと、和田さんからアートプロジェクトの現場で「明日から使える」アクセシビリティのチップス(ヒント)が紹介されました。

「たとえば展覧会では、作品を伝えるための音声ガイドやキャプション(解説文)があり、また鑑賞ツアーが組まれていたりします。そのうえで、さらに手話通訳キャプションの音声読み上げガイド内容の文字化筆談などが追加されていくことで、より開かれた出会いが生まれていくのではないか、と思っています」と和田さんは話します。

情報保障とはただの環境整備ではなく、「ひらかれた出会いの場」をつくることです。ですがそれを実行するには、「専門的な知識が必要だったり、お金がかかったりするのでは?」と思う方もいるかもしれません。そこで、和田さんからは、身近なツールや無料のアプリケーションを使って、気軽に取り組めるものが紹介されました。

まず音声や動画による情報発信ですが、現在実験的に取り組まれているものとして、音楽ストリーミングサービスの「Spotify」では、ポッドキャストを公開すると自動で文字が起こされます。また「TikTok」も自動字幕機能が充実しています。実は、こうした身近なアプリケーションも、飛躍的に技術改革が進んでいるのです。インタビューの文字起こしには「vrew」という動画の字幕編集アプリもおすすめ。自動字幕という点ではYouTubeの編集アプリ「YouTube Studio」も使いやすく、自動で文字に起こされた字幕を編集することができます。

また、チラシなど紙媒体の場合は、PDFデータがあると音声読み上げ機能を使用できるため、ウェブサイトにPDFデータをアップロードすることが推奨されました。チラシに書かれた内容を自分たちで読み上げ、ウェブでシェアするという、楽しみながらできるアイデアもあります。そのほか、オノマトペの視覚化や舞台手話通訳など、アクセシビリティの新しい取り組みも紹介されました。

「アクセシビリティは『伝えあうことの発明』だと思います」と和田さん。「伝え手が何を伝えたいか、受け手は何を感じ、理解したか。『伝わる』『わかる』というところまで一緒に開拓していく過程はクリエイティブでもあります」と話します。

自分たちのサインネームを考えよう!

後半は各事業がそれぞれの「サインネーム」をつくり、発表するワークショップに移ります。サインネームとは、その人の特徴を手や体の動き、形であらわし、視覚的に伝えるもの。手や指で表現するあだ名のようなものです。たとえば名前に含まれる漢字や、外見の特徴を使って表すこともあります。

2022年のジムジム会では、めとてラボチームの主な使用言語が手話ということもあり、手話通訳者が並走しています。事業について手話で話す機会が増えた中で、自分たちの事業をどう表すのか気になっている、という話があがり、改めてみんなで自分たちの事業を表す方法を考え、伝わりやすい表現について考えてみることにしました。

サインネームについて考えるプロセスとしては

  1. めとてラボよりサインネームに関する体験や「あるある」の例、よくある省略例について動画で伝える
  2. それぞれ事業のメンバーに事前に考えてもらう
  3. ジムジム会で考えてきた内容を提案しあい、お互いの「わかりやすい」を探してみる

という流れで進めました。

例えば、「Zoom」などの新しい固有名詞がうまれていく際、会話の中でさまざまな手話表現の工夫が現れ、その中からシンプルでわかりやすく、伝わりやすい表現が自然に残っていく流れがあるそうです。その自然淘汰の流れを簡易的に体験するために、A案とB案を用意し、みんなで選んでいくという方法を試してみることになりました。

今回参加した6チームは、自分たちの事業名をサインネームで表すとどうなるかを、各自が事前に考えてきました。そのアイデアを各チーム内で話しあい、A案とB案の2つにしぼり、全員の前で発表します。その発表を聞いて、分かりやすいと思った案、いいなと思った案に参加者が人気投票をした後、それぞれの案についてめとてラボのメンバーの南雲麻衣さん、牧原依里さんからコメントをもらいました。

たとえば府中市で活動する「Artist Collective Fuchu[ACF]」はA案では「アーティスト」「コレクティブ」「フチュウ」の3つの単語をそれぞれ表現。「フチュウ」の部分は「府中市」の手話を検索し、使用しました。B案では、「A」「C」「F」の文字を組み合わせた事業のロゴマークをもとに、ロゴの中心に書かれた「A」を示す2本の線と、「C」「F」の文字の形を組み合わせて両手で表しました。

両手で「A」「C」「F」のかたちを表してみる(最下段中央)。

獲得票が多かったのはB案。めとてラボの南雲さんもB案に票をいれたと言います。「B案はロゴマークと似ているのでわかりやすいと思いました。ただ片手側が親指と人差し指で『C』を表していますが、残りの3本の指が『W』に見える。これが手話だと『トイレ(WC)』という意味になってしまうんです。なので『W』と見えないように3本の指は閉じるのはどうでしょうか」とアドバイスします。

また牧原さんも「サインネームは短いほうがいいのでB案のほうがいいと思います」と前置きし、「たとえば、右手で『C』をつくり、そのなかに左手で『A』の動きをいれ、ロゴをそのまま表現するのはどうでしょう」とコメントしました。

アドバイスを受け、サインネームを更新。

手で伝える言葉と、音で伝える言葉

そのほか“ターン”の動きで迷った「HAPPY TURN/神津島」、片手での表現が好評だった「ファンタジア!ファンタジア!-生き方がかたちになったまち-」、ロゴにある線の動きを使った「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」、事業パンフレットのデザインのイメージも取り入れた「ACKT(アクト/アートセンタークニタチ)」、“災”のニュアンスに悩んだ「カロクリサイクル」など、各チームともロゴや音の響き、単語の意味そのものをサインネームで表し、さまざまな表現が生み出されました。どの事業も、自分たちの活動を端的に表したり、イメージを伝えたりするためにはどうしたらいいか、をまた違う視点で考えるきっかけになったようです。こうしてワークショップは終了。アフタートークでは、めとてラボのメンバーが振り返りをしました。

和田さんは「体で覚えやすく、身に付きやすいものが選ばれたのが良かったですね」とコメント。「手話には、体に馴染みやすいルールのようなものがあるのかもしれません。それがちょっとずれると、違和感を感じるのかなと思いました」と岩泉さん。

牧原さんは、「手話は、世界共通と思われることもありますが、『文化や地域性、食事、生活、いろいろなものが影響して生まれているもの』で、国はもちろん国内でも地域によって異なることもある」と話します。それだけに日本語に翻訳しきれない言葉もあるそうです。その一方で、「手話は視覚言語の一種なのですが、互いにその国の手話を知らなくても、その動きを見れば、概念が通じることが多い。そこが面白いんです。たとえば『歩く』の手話は、日本では片手の2本指で示します。アメリカ手話だと、両手の指を交互にパタパタさせる。フランスも少しアメリカ手話に似ています。いずれにしても、歩いている体の動きをとらえたものなのです。だから、手の動きは少し違うけれど、何を意味しているのかは想像がつくんですよね。手話は視覚の記憶に直接アクセスする言語なのだと思います」と話します。

参加者からは「手話を実際にやってみるのは初めてでしたが、プロジェクト名を表現することで楽しく触れることができました」「使っているうちに徐々に使いやすい形にサインが変わっていく、使いにくいものは淘汰されていくというのが面白いと思いました」「アクセシビリティは、受け手と伝え手とが一緒に考えていくことが大事で、それが面白さであるという視点を知れました。情報保障に限らず、日常のコミュニケーションにも通じる話で、普段のプロジェクト運営でも感じる『伝わらなさ』への解決に生かせる考えだなと思いました」などの感想があり、自身のプロジェクトの振り返りにもつながったようです。サインネームをはじめ、アクセシビリティから手話という言語の話題を取りあげつつ、自分たちの活動をより多くの人に伝えるための方法を幅広く学び、考える会となりました。

登壇者の記念撮影の様子
右から、「めとてラボ」の和田さんと岩泉さん、ジムジム会担当スタッフの岡野。
それぞれ「めとてラボ」と「ジムジム会」のサインネームで記念撮影。

*本来、新しい言葉の手話表現は、ろう者からうまれた言語である手話の中のルールや手話の言語的な規則からそれぞれつくられ、語らいの中で自然淘汰されていく過程があります。今回はジムジム会の運営上、各事業名が必要であったこと、自分たちの事業について考える機会として、めとてラボチームとともに規則やルールについて考えながら、表現を考えていくワークとして設計されました。新しい表現を自由につくってもいい、ということではなく、言語としての規則やルールの踏襲、手話話者とともに探る過程を大切にすることを前提にワークが行われました。

誰もが「わたし」から出発できる場をつくるために——めとてラボインタビュー

「めとてラボ」の名前の由来は、「目」と「手」。2022年度からはじまったこのプロジェクトでは、視覚言語である「手話」を通じて育まれてきた独自の「文化」を見つめ直し、それらを巡る言葉や視点を豊かに耕しながら、コミュニケーションの新しいあり方を開発していく場づくりが目指されています。

ろう者が自然体で自分を表現できる空間、コミュニティのあり方とはどのようなものか? ろう者と聴者が手話通訳を介して対話するとき、両者の間にはどのようなことが起きているのか?

手話を第一言語とするろう者や、ろう者の両親をもつCODA(コーダ)、聴者が協働して展開するめとてラボでは、国内外のろう文化にかかわる事例のリサーチや、異なる身体をもつ他者との交流などを通じて、こうした問いや視点を一つひとつ深め、蓄積しています。そこにあるのは、多くの人が普段は何気なく行う「コミュニケーション」というものへの問い直しであり、自身の言語観が揺らぐような創造的な体験です。

今回はそんなめとてラボのはじまりや取り組みについて、メンバーの岩泉穂さん、南雲麻衣さん、根本和徳さん、嘉原妙さん、和田夏実さん、相談役で映画作家の牧原依里さんにお話をききました。インタビューは岩田真有美さん、小松智美さんの手話通訳を介してZoomで行いました。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:池田宏 *7、8、9枚目以外/撮影時手話通訳:川口千佳、小松智美)

「コミュニケーション」について、手前の手前から考える

——めとてラボのはじまりについてきかせてください。

和田:2020年に、アーツカウンシル東京のTokyo Art Research Lab(以下、TARL)で「共在する身体と思考を巡って」というプログラムを行いました。これは、今日も参加されているパフォーマーの南雲さん、写真家の加藤甫(はじめ)さん、インタープリター(通訳者)のわたしの3人ではじめたもので、異なるコミュニケーション方法や身体性をもつ人たちの間で、「伝える」ということについてあらためて実験的に考えてみようとする場でした。

お互いの違いをふまえながら、いかに他者の考えや言いたいことに寄り添い、出会うことができるのか。「伝える」という当たり前にも思えることをふたたび「発明」してみようとする関心がそこにはありました。メンバーは以前からこうしたコミュニケーションへの興味を抱いていましたが、プログラムを経て、文化事業としてこのテーマに取り組むことへの可能性を感じるようになりました。

インタープリターの和田夏実さん。

南雲:TARLのプログラムはちょうどコロナ禍と重なり、対面での実施ができなくなってしまったんです。でも、これが結果的にはよかった。聴者とろう者というわかりやすい違いにとどまらず、ろう者のなかにも聴者のなかにも、さらに個別の身体による違いがあるのではないか。対面できない不自由な状況のなか、そうした視点を深めることができたんです。

一方、そこでは手話通訳の問題も起こりました。わたしの会話の手段は手話ですが、話題がアートなどの場合、手話の表現は抽象的になりがちです。現場には2人の手話通訳者の方もいましたが、ものの捉え方が異なるなか、お互いのなかのイメージを伝え合うことが難しかったんですよね。そうした点も、「伝える」ことについて考えてみたいと思っている動機です。

パフォーマーでアーティストの南雲麻衣さん。

和田:「通訳」という次元の問題もありつつ、手話や日本語といった同じ言語を使う人同士でも、例えば文字や音声だけでつながってみたり、紐でつながってみたり、普段は絶対にしない出会い方をすると、相手の「その人らしさ」がまた違うかたちで見えてきて魅力的に感じることもあります。2021年のプログラム「わたしの、あなたの、関わりをほぐす」では、そうしたブワッと現れるその人らしさをそのままかたちづくる方法について、ゲストも交えてみんなで考えました。

そうしたなか、コミュニケーションの手前で一人ひとりが満ち足りていくこと、自分自身のなかにある言葉の豊かさや文化を大切にできる場所がまずあることがすごく重要だという思いが強くなっていきました。こうした場づくりが、東京アートポイント計画のなかならばできるかもしれない。それで、以前からご一緒させていただいた方たちに声をかけたのが、めとてラボのはじまりでした。

——いまのお話にあった、人それぞれのなかにある「言葉の豊かさ」や「文化」ということについてもう少しおききできますか?

根本:福島県に住んでいる根本といいます。デフファミリー(全員がろう者の家族)で育ちました。わたしからいまのお話について、ろう者としてのイメージを伝えてみます。例えば聴者は音をききますよね。音声言語を通して、口で話す。その言葉は時間を伴って発話され、それが線のようにつながって次第に意味を成していく感じだと思います。

それに対して手話は、この手のかたちや動きにもう「結果」があるのです。そして、その後の対話を通して、会話の意味がつくり上げられていくイメージがあります。手話と音声言語では対話の流れがそもそも違うんですね。さらに、手話のような表現として表に見えている部分だけではなく、内にある感覚の違いもあります。そうしたことが個人の「文化」で、そのつながり方を考えてみることがめとてラボで探究していることなんです。

——手話に馴染みがない人のなかには、手話を音声言語の代わりの言語と捉えている人もいるかもしれません。しかし、日本語と英語の言語構造が違うように、手話も独自の構造をもった一つの言語であり、そこには特有の「文化」があるということですね。

和田:そうですね。ただ、そうした「文化」は社会であまり知られていません。 わたしたちは、さまざまな他者が出会うことをプロジェクトの大事なテーマにしていますが、だからこそまずは、手話のなかで積み重ねられてきたものを残したり、それをしっかり考えたりする場所の開発が大切なんじゃないか、と考えています。

ろう者と聴者が一緒に視点を深める場づくり

——メンバーのみなさんは、それぞれどのような思いでめとてラボに参加されたのでしょうか?

岩泉:めとてラボで事務局を担当している岩泉です。わたしは東京に住んでいて、根本さんと同じくデフファミリーです。まだ入りたてですが、このメンバーとだったらいろんなことができるんじゃないか、気づきがあるんじゃないかと思って参加しました。

あと、わたしは手話通訳者のことを「常にそこにいる人」で、それが自然だと感じていたんです。だけど、自分で初めて手話通訳を依頼してみたことで、そこにはいろいろな準備や背景があることを知りました。手話通訳者がいて当たり前ではなくて、手話通訳者がいる環境の整備について考えてみたいと思ったことも参加した動機です。

めとてラボの事務局を担当する岩泉穂さん。

根本:わたしは、ろう者と聴者が一緒に何かを蓄積していく場がもっとつくれたらいいなと思っています。いまの社会にはそうした場がないですよね。それぞれが別々の方向に行くのではなくて、お互いの違いを知りながら、何が通じて何が通じないのか、一緒に話すにはどうしたらいのか、そういう実験をめとてラボでできたらいいなと思っています。

これは個人的な感じ方ですが、自分には「身体=答え」という感覚があります。例えば音声が文字化されたものをあとから読むと、話者の気持ちがわからない。そうではなく、実際の身体を前にして対話すると、その人の気持ちや言いたいことを感じる、そうした蓄積が重要で、そこから共感や理解が広がる気がします。その辺りの感覚の共有がうまくできたらいいなと思います。

南雲:「場」という意味では、ろう者の団体そのものは、以前からこどもや高齢者向けのものまで含めてたくさんあるんですよね。それに対してめとてラボの特徴は、「既存の場を見つめ直すための場をつくる」という点にあると考えています。つまり、何らかの目的でつくられた場をリサーチするための場である、という点がユニークだと思っています。

——その「場」とは、空間的な意味も、コミュニティという意味も含みますか?

南雲:仰るとおりです。いろいろなものが入っています。

牧原:めとてラボの相談役の牧原です。わたしは、いつもは「異言語Lab.(ラボ)」という団体で活動しています。これは手話を使う人、音声を使う人が一緒に謎を解く、謎解きゲームを開発している団体です。いままで手話を知らなかった聴者が、謎解きを通して手話のおもしろさやろう者の身体性に気づく、そしてろう者自身がエンパワーメントを得ていくことに可能性があると考えています。

異言語Lab.とめとてラボには似ている部分もありますが、異言語Lab.はゲームを通して実践していくエンタメ寄りなんですね。それに対して、めとてラボは、「なぜ、これはこうなっているのだろう」ということをみんなで一緒に対話を重ねながら考えていく、そういう場だと思います。

こうした対話に、もしかしたらろう者は慣れていないかもしれません。聴者にはいろんな対話の場がありますが、ろう者の場合、手話が言語として認められず、口話を強要され、手話を主張できなかった時代が長く続きました。そして聴者の環世界が正しいという目線のもと育てられたろう者も数多くいらっしゃいます。そのため、手話の身体性や文化的な視点はまだまだ未開拓なところがあります。いまは言語の面にフォーカスされていますが、手話の身体性や文化的な視点に関してこれから注目されていくのではと思っています。そうした視点を、対話を重ね、「言語を超えた非言語」もどんどん取り入れながら、ろう者も聴者も一緒に考えていけるとおもしろいのかなと思います。

映画作家でめとてラボ相談役の牧原依里さん。

和田:従来はどうしても集まる人数や場所の問題から、ろう者が「マイノリティ」となる状況が起きていました。しかし、そのマイノリティのなかに、自然と蓄積されてきたものがあるわけですよね。それを今度は みんなで一緒に「これは何だろう」と考えてみる。

例えば、ろう者が過ごしやすく設計された空間を「デフスペース」と言うそうです。そこでは手話のために視線が合わせやすくなっていたり、照明を点けたり消したりして誰かを呼べるようになっていたりします。こうした空間はろう者にとって「ホーム」ですが、一方で、社会のなかでは、これまでろう者はずっと「アウェー」で戦ってきたところがありました。それに対して、めとてラボではあらためて社会のなかに「ホーム」をつくるような活動をしたいと考えています。

嘉原:わたしは2022年の春までアーツカウンシル東京に勤めていて、長年、アートプロジェクトの現場にアートマネージャーとして携わってきました。そうしたなか、めとてラボでわたしが学びたい、掴み取りたいと考えているのは、違う言葉を使う者同士がいかにイメージのズレを重ねていきながら、一緒に見たい風景を見ていけるのか、ということです。

使う言語や会話のテンポの違いによるイメージのズレは、同じ言語を使う話者同士であっても起こります。特にアートプロジェクトのような、抽象的なビジョンを共有する必要がある活動では、その擦り合わせが難しいことも多い。またコロナ禍以降は、自分が蓄積したマネジメントの知識や経験に限界を感じることも増えました。そうしたなか、ご一緒していた和田さんや南雲さんのプログラムでは、その限界をふっと超えられるような感覚があったんですね。

マネジメントも通訳と似て、「間」に立つ仕事です。そこには、想像力を働かせながら準備をすることで、その場の可能性を担保するというおもしろさがあります。その準備や「間」への入り方によって、現場の対話の濃度や物事の見え方は変わります。めとてラボでそういうマネジメントのスキルを更新したい、一緒に考えていきたいと思っています。

もう一つ、わたしは3年ほど前にろう者の方に出会ったのですが、そのときに、世界の見え方が違うことを知って「わ!」となったんですよね。それは、アーティストと一緒に街を歩いたとき、いつもの風景がまったく違って見えてくる経験と似ていました。そうした風景をもっと見たいという、より個人的な思いも参加の動機にあります。

アートマネージャーの嘉原妙さん(中央)。

ろう者の豊かなコミュニティをリサーチする

——6月には視察として福島県に行き、社会福祉法人の運営する「はじまりの美術館」や福島県立博物館などに加え、ろう学校の先生のご自宅にも行かれたそうですね。

和田:さきほどの「ホーム」のあり方を考える上で、わたしたちにもよくイメージが掴みきれていない部分がありました。そのとき、根本さんから福島に長谷川俊夫さんという先生が自宅でひらいているデフコミュニティがあるときいて、みんなで行きました。

嘉原:先生の教え子が集まっているのですが、なかには教員になっている方もいて、みなさんでいまの教育について議論していたり、手話にも方言のように地域ごとに表現の違いがあるんだよと教えていただいたり。すごく素敵な空間でしたね。

——根本さんは、なぜ長谷川先生のコミュニティを紹介したいと思ったんですか?

根本:リサーチのテーマに「創造文化」というものがあって、「文化」という言葉を考えたとき長谷川先生のご自宅が思い浮かびました。なぜかというと、そこには「自然に自分が出せる場所」という感覚があったからです。

長谷川先生のご自宅はろう者、聴者に関係なく、目を合わせる必要がある空間です。お互いの無理解なところも見る必要があります。でも、さきほど話した「身体=答え」という感覚で言えば、そうやって自然に自分の身体をさらけ出せる場所があるということは、文化の創造にとってすごく重要だと思います。そうした場所があること、その場の感覚をみんなと共有したかったんです。

福島でのリサーチ、長谷川俊夫先生の自宅にて。緑のTシャツが根本和徳さん。撮影:めとてラボ事務局

嘉原:先生ご夫妻から、「いつでもおいで」って空気が出てるんですよね。伺ったときは手話通訳の方とわたしだけが聴者で、わたしはまだ手話を勉強中なので会話は断片的にしかわからないのですが、聴者にとっては「静か」なはずの、音声言語を使わない手話による会話から、確かなワイワイ感や空気の揺れを感じたことに驚きました。 和田さんが見たいと言っていた「ホーム」の一端が見えた気がしました。

南雲:福島に行ったのは、めとてラボの活動がまだぼんやりしていた時期でしたが、文化の拠点をいろいろ訪問してお話をきくなかで、メンバー間に共通言語ができてくる、共通言語で語れるようになることがほんとうにいいなと思いました。根本さんが言うように、身体の感覚を共有する、対話を重ねるということが大切だなと思いました。

牧原:わたしもリサーチに参加しましたが、異なる言語を使う人たちをつなぐ通訳のあり方について、あらためて考えました。なぜかというと、視察の間は、昼間は聴者中心に会話が進んでいったのですが、夜になると長谷川先生の家でろう者が中心になっていました。そうなると誰が中心かによってその場のコンテクストが変わり、情報の伝え方もおのずと変わってくるので、手話通訳の方は苦労されたのでは、と思います。

ほんとうに自然なコミュニケーションや会話の通訳というのは難しい。聴者の会話のなかにも「見えないルール」みたいなものがありますよね。そういうものがろう者の会話にもあるのですが、それが次第に聴者に伝えきれなくなってしまうことがあるんです。あらためて通訳とは何ぞやっていうことを考えるきっかけになりましたね。

和田:今回のリサーチには、「場」のモデルを見つけに行くという意図もあったのですが、結果的に福島と東京にいるろう者同士が出会って、何を考えているかを話せたことも大切でしたね。

根本:いろんな文化拠点とつながりができることも重要ですね。福島県立博物館とは今度、ろう者のためのガイドや、ろう者も一緒に楽しめるワークショップなどをやろうと話していて、相談しながら計画を進めています。これもめとてラボのおかげです。いま初めて言ったので、メンバーのみんなは驚いていると思いますけど。

一同:すごい!

福島の西会津国際芸術村にて。撮影:齋藤陽道

南雲:そのお話をきいて思いましたが、文化拠点とのつながりと同様、各地のろう者とのつながりも広がるといいなと思います。別の土地で暮らすろう者のことは、わたしたちもよく知らなくて。めとてラボの支部のようなものが全国に広がるといいなと思いました。

和田:そうですね。それと、プロジェクト1年目である今年度は、南雲さんが仰った「既存の場を見る」ことを中心に行っていますが、来年度以降は「場をつくる」ことも考えていきたいな、と。その意味で、視察のなかでいろんな場を見ることを通して、みんなで「場をつくること」のイメージを高めたり、対話を積み重ねていけたらと考えています。

ろう者が暮らしやすい空間「デフスペース」のあり方を探る

——福島のほかに、さきほども触れられていた「デフスペース」のリサーチとして長野県にも行かれたそうですね。

和田:長野の訪問先は、実はわたしの実家なんです。そこに、みんなに来てもらいました。うちは両親がろう者の家庭ですが、母が空間をいろいろ工夫しているんです。例えば、2階にいる人と1階にいる人とが会話ができるような吹き抜けになっていたり、照明をチカチカさせることで相手を呼べるようになっていたり。

デフスペースの研究をされている福島愛未さんによると、「デフスペース」というアイデアは、ろう者の身体にふさわしい建物の空間があるのではないかという観点から、アメリカのギャローデッド大学内の場所をつくる際に、さまざまな人が考え、発見しながらつくり上げていったものだそうです。日本ではまだそこまでこの言葉や考え方は浸透していないようですが、母が10年前に工夫しながら自宅をつくったように、いろんな方のお宅にもデフスペースと呼べるものがあるのではないかと伺って、ぜひ集めていきたいねという話になりました。スタートとして、福島さんと牧原さんを長野に招き、岩泉さんの家族や、福島にいる根本さんともオンラインでつなげたりしながら、みんなで家のなかを見て話をしました。

和田さんの実家のデフスペースをメンバーで視察。撮影:めとてラボ事務局

——岩泉さんのご両親は、参加されてなんて仰ってましたか?

岩泉:なぜわたしの家族が参加したかというと、両親は建築関係の仕事をしているんです。そういう関係もあって、デフスペースを見たかったようです。正直、両親はデフスペースについてあまり詳しくはないのですが、実際の場所を見たことで構造や素材について多くを学ぶことができた、と話していました。

——そうやって、リサーチを通してみなさんのなかに、新しく出会ったものや、身近だったがゆえに気づいていなかった視点、課題がどんどん蓄積されてきているんですね。

メンバー:はい、そうですね。

牧原:さきほども「聴者にも見えないルールがある」と言いましたけれど、わたし自身はめとてラボに参加していて、みんなが当たり前に思っていることをあらためて発見することが多いんですよね。例えば、ろう者の家には廊下がない場合が多い。聴者の家には普通にありますが、ろう者の家には、視界を遮るものがなく、なるべく大きな一つのスペースになっていることが多いので、廊下自体がないんです。それを発見しました。 ほかにも、ろう者と聴者が一緒に会議をするなかで、音声できく言葉と文字で見る言葉は違うんだという発見もありましたね。

会話の「ズレ」、感覚の「揺れ」を体感する

——すこし話が逸れてしまいますが、牧原さんがさきほど、手話の身体性はまだ未開拓な部分があるという話のなかで、新しくつくる場では「言語を超えた非言語」をどんどん取り入れていくのがいいと話されていましたね。これについて、そのイメージをおききしたいです。

牧原:わたしのイメージのなかでは、「言語を超えた」というより、「言語の奥にある非言語」というようなイメージでした。例えば、ろう者の身につけているルールもあれば、聴者のルールもありますが……(しばらく説明するが、取材陣にはうまく伝わらない)。

根本:いまの会話を見ていて、牧原さんの言いたいことを日本語に言い換えるのはすごく難しいと思います。このようなとき、「言語」の限界を感じます。牧原さんが手話で表現している内容を見てわたしはよく理解できるのですが、日本語にするとどうしても違和感が発生するんだと思います。これを通訳するのは大変だと思います。

牧原:手話をわかっている人が見れば、ある手話を見たときに、表現されていない部分も含めて「何となくこんなイメージ」というのがわかることがあるんですね。そういったことは、聴者同士の会話のなかにもあると思います。ただ、それらの暗黙のルールが同じ対話のなかで交わったときにズレが生まれてしまう感覚があって、その「ズレ」って何なのだろうと考えるんです。

和田:牧原さんは『LISTEN リッスン』(2016年)という映画を監督しています。ろう者の音楽=「オンガク」を探求した映画で、身体的なものを視覚的なものに変えていくには何が必要かを考えさせる作品です。わたしが「言語の奥にある非言語」という話からイメージするものは、この変換において何が必要なのかと考える、その感覚と似ている気がします。

その映画に映される「オンガク」は、ろう者が身体のなかにもっているリズムや衝動のような感覚を表現したものです。 同じように根本さんはよく哲学の話をするのですが、そこでも対話を重ねていくなかで言葉の「意味」が発見されていく感覚があるそうです。めとてラボのような場では、みんなでそうした「奥にあるもの」の共有の仕方についても考えることができると思います。

根本:いまのやりとりにも表れていましたが、ろう者が聴者と話す場において、どのようにバランスを取るのかはすごく難しいですよね。

和田:聴者は普段自分のなかに、日本語でも英語でも、音声言語という安定した立ち位置がありますよね。でも、その立ち位置が、手話に出会ったときに、揺れる感覚があると思うんです。それを体感するのは、すこし苦しい思いをするかもしれないですけど、出会ったあとの視野が広がる感覚もあると思います。

難しいですけれど、お互いに自分の立ち位置の揺れを体感できるというか、そのような揺れから、お互いの気づきにつながったりとか、自分たちの言語とは何かっていうのを発見することにもつながっていくのでは、と思っています。

——「揺れ」というのはとてもよいキーワードですね。和田さんが冒頭に話された、自明のものとされている「伝える/伝わる」を「発明する」、という話ともつながると思います。そして特に聴者にとっては、その自明性を点検することは、自分の言語の足場が揺らぐような体験になりますね。

牧原:わたしは自分の活動では、ろう者が聴者のルールに沿うのではなく、むしろ、聴者にろう者のやり方を共有していくことができたらと考えています。

もしかしたら聴者は、そこで知る新しい文化ややり方に戸惑いを感じるかもしれません。けれどもわたしは、みんなのなかの「当たり前」が壊れていくことは、お互いにとってよりよく生きることへの第一歩だと思います。ろう者っていうのがいままでイメージしていたのとはまた違うんだとか、聴者っていうのはこういうものなんだっていう理解を自分のなかで更新していくことが、大切だと思います。

和田:何かと出会ったとき、最初に感じる「揺れ」って苦しいですよね。でも、その奥に広い世界があるかもしれない。自分に合う、何かいいやり方があるかもしれない。

誰かの身体との出会いを通して感じるその広がりは、本の文字の奥に広がる空間とも近いのかもしれません。身体を通した出会いのなかで、思い込みを超えたその奥に新しい世界が広がっていく。 そういうことをお互いにできたらいいなと思っています。

海外や家庭内のろう文化を収集。未来の拠点にいかしていく

——最後に、今後の活動の予定をおききできますか?

和田:自分たちの拠点について考えるため、まずはデフスペースについてのリサーチや、国内外のろう文化に関する場づくりの事例にも触れていければと思っています。その拠点というのも、実際の空間なのかオンライン上なのか、はたまた、スタジオがいいのか、カフェがいいのか、宿泊できる施設がいいのかなど、いろんな選択肢があるので、どういうかたちが理想的なのかを考えていきたい。いずれにしても、福島で経験したように、みんなでご飯でも食べながら、何かが広がって膨らんでいく、そういう場所ができたらいいなと思っています。

また、実は手話は「消滅危機言語」と言われていて、特に、家庭や日常のなかでの対話、土地ごとの手話というものは記録に残りにくい状況にあるんです。こうした状況に対して、アーカイブの残し方やその活用も考えていけたらなと。いろいろな人に話を
きいたり、一緒に対話を深めていきながら、一歩ずつ着実に歩んでいけたらなと思っています。

Profile(五十音順)

岩泉穂(いわいずみ・みのり)

会社員
1998年生まれ。東京都江戸川区出身。インテグレーション。生まれつきろう者で家族や親戚含め、ろう者に囲まれ育つ。福祉施設の採用関係の仕事・聾学校の乳幼児相談室の相談員として勤めている。「めとてラボ」事務局を担う。

南雲麻衣(なぐも・まい)

パフォーマー/アーティスト
1989年生まれ。神奈川県逗子市出身。大学まで手話を知らずに音声言語のみで育ち、大学で日本手話に出会う。文化施設の運営とアートなどの企画の仕事の傍ら、アーティストとしても活動する。近年は、人工内耳による音声言語と手話の視覚言語を用いた、複数言語の「ゆらぎ」をテーマにし、当事者自身がもつ身体感覚を「媒体」に、各分野のアーティストとともに作品を生み出している。

撮影:齋藤陽道

根本和徳(ねもと・かずのり)

特別支援学校教員/ネギ書店店主
1993年福島県生まれ。特別支援学校の教員として働く傍ら、福島県二本松市にある「カメヤ書店」に書棚「ネギ書店」をもち、SNSでお薦めの本について発信している。手話を第一言語として獲得したネイティブ・サイナー。文章から心象風景を美しく再現する手話表現に定評がある。

牧原依里(まきはら・えり)

映画作家
1986年神奈川県生まれ。ろう者の「音楽」をテーマにしたアート・ドキュメンタリー映画『LISTEN リッスン』(2016)を雫境(DAKEI)と共同監督、最新作は『田中家』(2021)。東京国際ろう映画祭ディレクターや一般社団法人異言語Lab.理事と多岐にわたって活動中。「めとてラボ」相談役。

嘉原妙(よしはら・たえ)

アートマネージャー/アートディレクター
1985年兵庫県生まれ。京都芸術大学卒業。大阪市立大学大学院創造都市研究科(都市政策学)修士課程修了。在学中より企業メセナ協議会インターン、現代アートを中心に展覧会や美術鑑賞教育プログラム、アートプロジェクトの企画運営に携わる。「時の海 – 東北」プロジェクトディレクター、編集など活動は多岐にわたる。「めとてラボ」ではプロジェクトマネージャーとして活動。

和田夏実(わだ・なつみ)

インタープリター
1993年生まれ。ろう者の両親のもとで手話を第一言語として育ち、大学進学時にあらためて手で表現することの可能性に惹かれる。視覚身体言語の研究、さまざまな身体性の方々との協働から感覚がもつメディアの可能性について模索している。近年は、言葉と感覚の翻訳方法を探るゲーム制作やプロジェクトを展開。2016年手話通訳士資格取得。

「めとてラボ」

視覚言語(日本の手話)で話すろう者・難聴者・CODA(ろう者の親をもつ聴者)が主体となり、異なる身体性や感覚世界をもつ人々とともに、自らの感覚や言語を起点にしてコミュニケーションを創発する場をつくるプロジェクト。手話を通じて育まれてきた文化を見つめ直し、それらを巡る言葉や視点を辿りながら、多様な背景をもつ人々が、それぞれの文化の異なりを認めあった上でどのようにコミュニケーションを交わしていくのか、そのあり方を研究・開発している。

https://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/what-we-do/creation/hubs/metote-lab/52801/

ものが生み出す人とのつながり。学びの場をひらくには?(APM#10 後編)

約3年ぶりにひらかれた「Artpoint Meeting」第10回のテーマは「アートがひらく、“学び”の可能性」。日比野克彦さん(アーティスト、東京藝術大学学長)のビデオメッセージが披露された後、鞍田崇さん(哲学者)が「“つくること”で、感性をひらくこと」と題して基調講演をしました。それに続く「セッション1」では、多摩地域で行われている「ざいしらべ」という取り組みについての事例報告がありました。

>レポートの前半はこちらから。

会場の一角には、図工の授業で使われた様々な素材や道具が展示されました。木や竹、植物といった自然素材とともに、工業製品とおぼしい小さな部品も並びます。休憩時間には参加者が興味深そうに眺めたり、手にとったり。なかには人工の歯や馬用の蹄鉄といった見慣れないものもありました。アートとどうかかわるのだろうか、と不思議に思っているうちにイベント再開の時間になりました。

レポートの後編は、「セッション2」と全体を総括する「ディスカッション」の様子をお伝えします。

廃材からアートへ、新たな循環を生む「創造素材」

「新たな“学び”の循環をつくる」というテーマを掲げて登壇したのは、NPO法人アーティスト・コレクティヴ・フチュウ(ACF)の宮山香里さん(美術家)と西郷絵海さん(アトリエTutti主宰)。ACFは府中市を中心としたアートにかかわる人々やアートファンのネットワークで、「誰もが表現できるまち」をテーマに地域とアートをつなぐ活動をしています。そのひとつが、府中市の市民提案型協働事業として2021年に始めた「ラッコルタ-創造素材ラボ-」というプロジェクトです。

(写真左から)NPO法人アーティスト・コレクティヴ・フチュウ(ACF) 宮山香里さん、西郷絵海さん

「府中市には企業、それも製造業の中小企業が多く集まっています。そうした企業から不要になった部材を提供していただきます。アーティストが企画するワークショップで、おとなやこどもにその素材を使って作品をつくってもらい、展示する機会を設けます。そこで生まれた新たな視点や価値の変化を、提供企業にフィードバックすることで、引き続き素材を提供いただくという循環の仕組みを目指しています。素材の価値が変化し循環するプロセスを共有することによって、企業の方々にも『自分ごと』としてのアートとの関わりが継続的に続いていくことを期待しています」(宮山さん)

つまり、企業の製造過程で生まれる端材や不要な部材を、創造のための素材=「創造素材」と位置づけているのです。宮山さんは約20年間、イタリアでもアーティストとして活動を続けています。ラッコルタ(イタリア語で「収穫」)という愛称を添えたのは、そうした宮山さんの経験にも由来しています。

では、「創造素材」はどのようにして探すのでしょうか。「最初は、『(府中には)霊園があるから墓石はどう?』とか、『競馬場があるから蹄鉄かな』といった思いつきでした(笑)。企業にメールや手紙を送って、反応があった企業から少しずつ、いろいろな素材が提供されるようになりました」(西郷さん)

そうした企業のひとつが、医療機器製造・販売業の「株式会社TOKIO Lab」でした。製品梱包に使うダンボール製の小さな緩衝材(チップ)を提供してくれました。そのチップを使って、2021年に第1回ワークショップ「暮らしの彫刻」を実施しました。

「三木麻耶さんという、『日常を俯瞰する』というテーマで活動するアーティストを招きました。参加者がチップで自分の生活のなかに組み入れる彫刻をつくり写真作品にする、というオンラインワークショプです。参加者の作品とともに、三木さんの代表作をギャラリーに展示して、そこにTOKIO Labから提供されたチップに触れられるスペースも設けました。参加者はチップを持ち帰って、作品をつくり、暮らしのなかに組み込んだ写真を送ると、ギャラリーに展示される、というかたちで2週間、変わり続ける展示を実現しました」(宮山さん)

今年は府中市内の文化施設で開かれた対面のワークショップを実施しました。「素材の説明だけして自由につくってもらうと、おとなもこどももどんどんつくり始めました。創造素材を介して人ともの、人と人の交流が生まれ、毎回異なる出会いがあります」(西郷さん)。そこから、素材を持って各地に出かけるキャラバン的な活動や、素材を求める人に提供する活動も始めたそうです。

「ラッコルタ-創造素材ラボ-」で提供を受けたダンボール製の小さな緩衝材

創造素材がもたらす新たな“学び”。その一例として、宮山さんがこんなエピソードを紹介しました。ACFとは別に、個人の活動として愛媛県の小学生を対象にオンラインでワークショップを開いたときのことです。

「平和学習のなかで、『自分にとっての平和はなんだろう』と問いかけて、創造素材で造形するワークショプです。戸惑っていたこどもたちが、素材に手を触れることで思考が整理されていきました。『平和の花』という作品をつくったこどもがいました。説明してもらうと、『平和になるには、他の人に関心を持つことが必要。花は互いに関心を持つきっかけになる』。私もこのこどもたちの作品から学びました」

「つくる」を「学ぶ」につなぐ試み

事例報告の後は、客席からの質問も交えたディスカッションが行われました。登壇したのは、哲学者の鞍田崇さんとNPO法人アートフル・アクションの宮下美穂さん、ACFの宮山香里さんの3人。会場から寄せられた質問や感想を中心に話し合いました。

(写真右から)NPO法人アートフル・アクションの宮下美穂さん、ACFの宮山香里さん、哲学者の鞍田崇さん、アーツカウンシル東京の佐藤李青

この日の事例報告はどちらも、「つくる」を通した「学び」の仕組みを整える試み、といえそうです。それに対して、鞍田さんは「共感しました。学校や地域での可能性に従来とは異なるアプローチを試みています。アートならではの取り組みで、可能性を感じます」と語りました。

会場からは多くの質問や感想が寄せられました。そのなかで目立ったのは、「学校の枠組みのなかで、型にはまらない授業を行う困難さ」「図工教育の現場は学習指導要領をこなすだけで手一杯」という、学校現場からの切実な声でした。これらについて、現職の教員である河野路さんがフロアから発言しました。「たしかに授業や校務で忙殺されている人は多いです。私の場合は、自分の年間授業計画のなかにあらかじめ、発展的な内容の授業を予定として入れていました。学年やこどもたちの能力に応じて、様々な道具や素材を使う授業を考えています」

外部から学校の授業にかかわる立場の宮下さんは、学校現場の状況に柔軟に対応しているようです。「予算や備品の状況は学校ごとにまちまちなので、先生の要望や学校の都合、地域にあるもの、こどもたちの様子などをうかがったうえで、授業の内容を詰めていく。終了後は『ふりかえり』の機会を持つようにしています」。学習指導要領については、多摩図研は研究会で指導要領を読み込み、その目的にてらして可能な授業のあり方を考える取り組みをしているそうです。河野さんも「学習指導要領も『地域にひらく』ことに触れているので、考えるきっかけになる」と話しました。

セッション1に登壇した河野路さん(小金井市立第四小学校教諭)が質問に答える

海外と日本の教育の違いについての質問もありました。イタリアでも活動を続けている宮山さんは「イタリアやドイツでは自分の考えをどう培うか、が教育の中心にあります。ラッコルタのワークショップでは、アーティストがリサーチしたものを参加者が身体で体験し、そのことで気づきを得るようなプロセスを重視しています」と話しました。そうした気づきは、企業にも及んでいます。チップを提供している「TOKIO Lab」の人たちも、廃棄していた部材がアートに使えることを知って関心を寄せています。最近、インスタグラムを開設し、「#廃材アート」というハッシュタグを使っているそうです。

「学び」と「感性をひらく」ことについても、いくつか質問がありました。
鞍田さんは、それらの質問にやわらかく応答するように、友人がデンマークの森にある幼稚園で経験したことを紹介しました。「こどもたちが森で生き生きと遊んでいる時に、年少のこどもが一人で鬱蒼とした森に入り、大木の傍らに立っていました。心配になった友人が駆け寄ろうとしたら、幼稚園の先生に肩をつかんで止められました。『あの子はいま、木と対話をしているのだから』と」。私たちのあり方を考えさせられるエピソードです。

宮下さんも応答します。「こどもが持っている時空の全体が尊ばれるといい。こどもは身体のすべてを通して世界につながっている。外部から学校に入っていく私たちは、こどもたちのwhole(全体性)を分断してはいけない」。そのうえで、授業で小学3年生に織物を体験させた経験をふりかえります。「慣れない道具と素材で織物をするから、簡単ではない。それでもこどもたちは工夫して、その子なりのものを織ろうとする。それが出てくるまでは、ただただ待つことが大切です。創造性や個性などといったものをはるかに超えていく、そのこどもにしかできない経験が表れ出ます」

今回のArtpoint Meetingでは素材にかかわる2つの取り組みが報告されました。素材に手で触れることはつくることにつながり、同時に身体を起動します。そこから感性がひらかれ、気づきや学びを得ることが期待されています。けれども、そもそも地域からどのようにして素材を得るか、という問題があります。また、様々な素材や道具を授業に持ち込むこと自体が難しい、という声もあがりました。授業の延長としてこどもたちが学校の外に出ることも簡単ではなさそうです。

けれども、今回のイベントでは素材を前にしたこどもたちが自発的に手を動かして、思いがけないものをつくりだす姿が多々報告されました。他方、企業が素材を提供したことでアートとのつながりに気づいた事例もありました。こうした取り組みを息長く続けることが、鞍田さんがいう「パズルの歪み」を修復していくことにつながるのではないか。それによって社会が少しでもひらかれて、私たちも「生きがい」を感じられるようになるかもしれない。そんな希望を感じさせたArtpoint Meetingでした。

(撮影:阪中隆文)

つくることの根源を探る。身体をつかってやってみる。(APM#10 前編)

「Artpoint Meeting」は、アートプロジェクトに関心を寄せる人々が集い、社会とアートの関係を探るトークイベント。アーツカウンシル東京の企画で2016年に始まり、アートをめぐって新たな「ことば」を紡いできました。コロナ禍によって3年近く休止していましたが、第10回が2022年11月23日に東京・武蔵野市の「武蔵野プレイス」で開催されました。

今回のテーマは「アートがひらく、“学び”の可能性」。「民藝」の今日的な意義にまなざしを向ける哲学者・鞍田崇さん(哲学者)の基調講演に続いて、東京アートポイント計画の一環として多摩地域で行われている、アートの「素材」に注目した2つのプロジェクトのメンバーが登壇しました。

ひとつは、多摩地域の小学校の図工専科教員たちを対象に、図工の技術と素材について考える「ざいしらべ」。NPO法人アートフル・アクションの宮下美穂さんと森山晴香さん、小金井市立小金井第四小学校教諭の河野路さんが学校と連携した息の長い取り組みについて報告しました。もうひとつは、府中市を拠点とする創造素材ラボ「ラッコルタ」。地元企業から提供された不要な部材を表現のための素材として活かす仕組みづくりについて、NPO法人アーティスト・コレクティヴ・フチュウの宮山香里さんと西郷絵海さんが紹介しました。

手で素材に触れる=つくることの原初的な歓び

ミーティング当日は「勤労感謝の日」。あいにくの雨模様でしたが、それでも約60人が来場し、会場はほぼ満席になりました。来場者を迎えたのは、アーティスト・日比野克彦さんのビデオメッセージでした。

日比野克彦さんのビデオメッセージ上映中

「つくる時間は、未来をつくる」と題したメッセージは、まず人間の手に注目し、「人間はつくる前に手で触る。その手の感触が楽しい。土や粘土を握ると形が変わる。それが面白い」と、つくることの原初的な歓びを指摘します。「その先に、意識的にイメージを反映して、何かをつくるようになっていく」としながらも、「ことばを覚えるとつくることに理屈をつけたくなる」「人間は視覚的動物だから、ものをつくる以前の素材に触る楽しさ、素材を変形させる面白さを忘れがちになる」という懸念にも言及しました。そこには、2022年4月から東京藝術大学学長を務める日比野さんの思いが滲んでいるようでした。大学入試も変えようと考えていると明かし、「そうすれば高校や中学、小学校の美術・図工教育も変わっていく。地域と社会、学校との関係も変化するなかで、美術教育を地域のなかで展開することも考えられます」と、今回のミーティングで報告されるような地域の取り組みへの期待を語りました。

民藝に学ぶ、自ずと生まれくるものの「親しさ」

哲学者・鞍田崇さんの基調講演「“つくること”で、感性をひらくこと」も、つくることの根源にあるものを民藝の思想を手がかりに探りました。

民藝の発端は約100年前、哲学者・柳宗悦(1889〜1961年)が知人から朝鮮の焼き物を土産にもらったことです。民衆が日常的に使う実用的な器でしたが、柳はそこに新たな美を見出します。そうして出発した思想・文化運動としての民藝は後に日本民藝館(東京・目黒区)という美術館を創設するにいたります。

講演の冒頭で鞍田さんは、2012年に日本民藝館の第5代館長に就任したプロダクトデザイナー・深澤直人さんのことばを紹介しました。「デザインは、ジグソーパズルにたとえれば、最後のピースをつくるような仕事。デザインが実現する美しさは周囲の環境との調和のなかにある。でも、もとのパズル全体が歪んでいたら、デザインは歪みを助長することになるのではないか。そうだったら全体を見直すことを考えなければいけない。そのときに民藝は重要な参照軸になると思われる」。

哲学者・鞍田崇さん

深澤さんの問いかけを受けて、鞍田さんは柳の著作をひもとき、次のように語ります。

「柳は著書『民藝とは何か』(1941年刊)で、民藝の美しさを「用」に結びつけています。「用」には「物への用」(有用性)とともに「心への用」(美)があり、重なり合っていると指摘しています。では、「用」とは何か。柳はある文章で、「用」を「生活」という言葉に置き換えます。「用」は生活に密着していることが原点にあって、そこから抽出すると有用性や美しさに分かれてくる。柳はまた民藝を「肯定のみされる偉大な平凡」とも記しています。民藝を通して見えてくる「パズル全体」とは、あるべき生活とは何か、という問いにつながります。」

ここで鞍田さんは「つくること」に視点を転じて、重要な指摘をします。柳や民藝の仲間の陶芸家らは、「(物や美は)つくるのではなく生まれる」と考えていた、というのです。つまり意図的、作為的なものではなく自ずと生まれてくることに軸足を置いていたのです。そのときに重要なことは、生活とは美に先立つものではないか、という問いかけです。

次に鞍田さんが参照項として言及するのが、意外にも岡本太郎(1911〜96年)です。岡本は≪太陽の塔≫などで知られる前衛芸術家ですが、同時に民俗学のフィールドワーカーでもありました。著書『忘れられた日本 <沖縄文化論>』(1961年刊)で、岡本は沖縄のフィールドワーク体験を次のように生々しい言葉で書き付けています。

「生活そのものとして、その流れる場の瞬間瞬間にしかないもの。そして美的価値だとか、凝視される対象になったとたん、その実体を喪失してしまうような、そこに私がつきとめたい生命の感動を見てとるのだ。」

この言葉から、鞍田さんは「岡本が着目した世界は、半世紀前に柳が民藝と呼んだものでした。しかし、時代は大きく動き、戦後日本の国土全体が大きく変貌していくなかで、民藝程度ではだめだ、という思いが岡本にあった。それが激しい言葉になっている」と指摘します。それからさらに半世紀あまり。私たちは何を考えるべきか、と鞍田さんは問いかけます。そして、ここでも岡本の言葉に立ち戻ります。

「われわれが遠く捨て去り、忘れてしまったはずの本来の生活の肌理(きめ)が、意識下の奥底に生きている。……それが……たとえば芸術の表現によってむき出しにされたとき、われわれは不意に、言いようのない親近感を覚える。それは生甲斐だからだ。」

岡本の「親近感」という言葉に、鞍田さんは注目します。なぜなら、深澤さんが日本民藝館の所蔵品に対して「愛着」を語っていたからです。柳もまた、朝鮮の焼き物と出会った感動から「『親しさ』Intimacyそのものが、その美の本質だ」と記したのをはじめ、繰り返し民藝の「親しさ」に言及しています。

しかし、柳の「親しさ」はもっと切実なものです。晩年には「悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。悲しみは慈(かな)しみでありまた『愛(かな)しみ』でもある」とつづっています。柳は実生活では、父や妹、愛児を早くして失っています。それが彼の人生観であり、民藝に見出した生活の実相のなかにも潜んでいました。

哲学者らしく繊細な手つきで、柳を中心に民藝の世界を読み直してきた鞍田さんは、講演を次のような言葉で結びました。

「民藝を通して見えてくるものは親しさの世界で、同時に悲しさをはらんでいます。その生々しく、ひりひりするように痛々しいまでの世界が、実は僕たちにとって生き甲斐を見いださせてくれる。それが、ともするとリアリティの希薄な現代社会の中で、無意識的にも渇望している実感なのではないか、と思います。」

素材と地域を結び、子どもたちの「学び」を促す

次の「セッション1」に登壇したのは、「ざいしらべ」という取り組みを続けるNPO法人アートフル・アクションの事務局長・宮下美穂さんとスタッフの森山晴香さん、そして教育現場から協力している小金井市立小金井第四小学校教諭の河野路さんです。「先生たちとの“つくる”ための環境づくり〜『ざいしらべ』の取り組みから」と題して事例を紹介します。

NPO法人アートフル・アクションは小金井市の芸術文化振興計画推進事業として、12年間「小金井アートフル・アクション!」というプロジェクトを続けました。2011年度から2020年度までは東京アートポイント計画の一環として実施しましたが、そのなかで小学校と連携して、こどもたちと一緒に図工の時間を過ごしました。いわば「ざいしらべ」の前史にあたります。その内容を、宮下さんが、いくつかのキーワードに即して説明しました。

(写真右から)NPO法人アートフル・アクションの宮下美穂さん、森山晴香さん、小金井市立第四小学校教諭の河野路さん、アーツカウンシル東京の小山冴子

まず「素材」について次のように話します。

「硬い・大きい・柔らかい、ごくごく小さなものと、全身を使って抵抗を感じながら組み合ってみました。楽器をつくったときには、その楽器で演奏して、その音を絵に描いてみる、というように、ひとつひとつの経験を広げていきました。」

他教科とつながる「主題」の設定もキーワードのひとつ。国語の教科書に宮沢賢治が掲載されていることから、「なめとこ山のくま」を主題にし、「『生きものを撃つ』ということを考えました。この授業では、現役のマタギを招き、話を聞き、映し絵の芝居をつくることで、多くの気づきを得ることができました」と宮下さんは続けます。ハンセン病療養所を見学した体験を図工で深めるという試みも。「道具」や「技法」についても、教科書に出てこないノミやナタをあえて持ち込んだり、膠を使ったり。野焼きで器をつくったこともあるそうです。

「地域」との関係では、学校から外に出てみることを試みました。「小学6年生に大きな自画像を描いてもらい、それを持ってパレードし、公園で展示しました。自意識が強くなる時期のこどもたちに『厄介な自分』について考えるよう促す、という『主題』の授業でもありました。」

こうした実践を踏まえて、宮下さんは「学校の授業は教科ごとに分かれているけれども、ひとつの全体(whole)としての人間と出会うことが重要。そのきっかけとなるのが、自分が暮らしている地域であり、ものをつくろうとして稼働する身体であり、つくるなかで生まれる友達や世界との関係。多様であることに止まらずに、複雑さを丸ごと全体としてとらえる。図工という教科はそれができる」と語りました。

この日のテーマの「ざいしらべ」は、アートフル・アクションが2021年から始めたプロジェクト「多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting」の一環です。多摩地域全体を対象として、こどもたちだけでなく、学校の先生たちといっしょに取り組んでいます。

図工専科教員が集まる多摩地区図画工作研究会(多摩図研)と共催したワークショップでは、自分たちが暮らす地域がどのように成り立っているかをランドスケープデザイナーをゲストに迎えて学びました。地域の素材を活かす取り組みでは、先生方と東村山の竹林から竹を切り出したり、竹ひごをつくってみたり、地域の植物から抽出した色を使って、自然素材の筆で絵を描いてみたり。シンプルな機織りの道具をつくって、こどもたちと織物もやってみています。

「ざいしらべ」の展示ブース

「なにより重要なのは、身体全体を使ってつくってみることです。鞍田さんの言う『生まれ出る』に近いと思いますが、身体を通してやっていることを信頼できたら、あるいは委ねることができたら、作為やお仕着せのクリエイティビティを乗り越えて、ひとりの人として世界と出会い、そして心が安らかにいられると思います」(宮下さん)

「ざいしらべ」で取り組んだ絵の具や筆づくりワークショップの成果

「セッション1」の最後は、「ざいしらべ」に取り組む宮下さんと森山さん、河野さんによるトークです。小学校教諭の河野さんは、これまで10年間、アートフル・アクションといっしょに木の根や流木、竹などを使った授業を続けてきました。「既存の教材キットは、こどもたちにとっても答えが形になりやすい。でも、図工はこどもたち自身が答えを出す科目。自分の手や身体、頭を動かし、心を使っていくことが大切だと思うので、あえて自然素材を使っています」と、活動の意義を噛みしめるように話しました。

森山さんが、河野さんの前任地である東村山市の小学校に、自然素材を集めた「素材倉庫」をいっしょにつくったことを話すと、その意義を、河野さんは「図工の仲間の先生や他校の先生とともに活用することで、素材と同時にその扱い方や加工する道具、活用する人を広げていきたい」と語ります。それを受けて、宮下さんがトークを結びます。「学校と私たちだけでなく、他の学校や教育委員会、教育研究会との連携ができれば素材も活用される。そうしたシステムになればいいなと思っています」

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会場内には「ざいしらべ」の取り組み「樹の力(東村山市立南台小学校連携授業)」の写真が展示されていた

(撮影:阪中隆文)

「手話を使い会話する。」講座レポート 前編

手話でのコミュニケーションの基礎とろう文化を学ぶ「アートプロジェクトの担い手のための手話講座」。

3ステップで通年開催される講座のひとつ「手話を使い会話する。」が2022年10月、3331 Arts Chiyoda 3F ROOM302にて開かれた。

講師は、俳優/手話・身体表現ワークショップ講師の河合祐三子さん、手話通訳は、瀬戸口裕子さん。全6回の講座内の前半3回の様子を、実際に講座を体験したライターの視点からお届けする。

10月13日 4名のゲストを迎えての座談会

2022年10月13日、「手話を使い会話する。」に参加するメンバー9名がROOM302に集った。

河合さん「本日はろう者のゲストを呼んでいます。みなさん、ろう者がどんな人なのか、手話とはなんなのか、知らないことやわからないことがたくさんあると思います。この場のこの時間は無礼講で講座に参加していただければ。

タブーだと思っていることでも、気になることがあれば、とにかく聞いてみてください。遠慮はいりません」

ゲストは、澤田利江さん、平塚かず美さん、福島ケンゾーさん、袴田容代さんの4名。いきなりのゲストに戸惑いつつも、さまざまな質問が挙げられていた。ここでは、交わされたやり取りをいくつか紹介したい。

左上が通訳の瀬戸口さん、左下が澤田さん、中央下が袴田さん、右上が福島さん、右下が平塚さん。

Q. 聴こえないのは、生まれたときからなのか、途中からなのか?

澤田さん「私は2歳のときまで聴こえていました。そのあと高熱を出して、ろう者となりました」

平塚さん「私も澤田さんと同じです。1歳のときに高熱で、本当に死ぬかもしれない状況でした。薬を打った影響で聴こえなくなりました」

袴田さん「私は生まれつきです。両親はろう者です。でも妹は聴者です」

福島さん「私も生まれつきです。母が聴者、おじとおばがろう者。兄弟8人いるのですが、その中の半分がろう者、半分が聴者です」

Q . どんな仕事をしているのか?

澤田さん「鹿児島で、特定非営利活動法人NPOデフNetworkかごしまの理事長をしています。あとは日本手話の講師もしています」

福島さん「澤田さんと16年ほど一緒に仕事をしています。現在は就労継続支援B型の作業所の施設長です。以前は、放課後等デイサービス『デフキッズ』で10年ほど働いていました」

袴田さん「大学でテレワークをして3年目です。ホームページに載せるチラシをPowerPointでつくったり、Illustratorを使ってペットボトルのラベルづくりをしたり、イラストデザインの仕事をしています」

平塚さん「3つあります。1つが、日本ろう者劇団の裏方です。現代劇などさまざまなレパートリーはあるのですが、いまは手話狂言(注)がメインです。2つ目が、手話指導の仕事を月に1、2回。3つ目が浜松町にある『対話の森』で働いています」

※手話狂言
「狂言のセリフは室町時代から江戸時代までの古いことばです。日本ろう者劇団は和泉流狂言師三宅右近師の指導により、昔から継承された狂言特有の動き、運びをそのままに、手話表現の研究を重ね、古典芸能にふさわしい手話狂言を作ることにつとめました。手話のセリフと声のタイミングや間の取り方にも工夫を重ね、古典芸能の強靭さと手話の豊かな表現力をあわせもつ、手話狂言が誕生したのです。台詞を手話及び声で表情豊かに表現しますので、聞こえる人も聞こえない人も共に楽しむことができます」

社会福祉法人トット基金 演目紹介「手話狂言とは
この日は、通訳として、小松智美さんも参加。写真はZoomで参加しているゲストの手話を読み取り会場に通訳している様子。

Q . それぞれどのように手話を学んでいったのか?

福島さん「生まれてから6歳までは奄美にいましたが、ろう学校がないのでやむなく『普通校』に通っていました。昭和50年代頃の話なのですが、ろう者はすごく馬鹿にされていて、いじめもあり、苦労も多く、いいことがありませんでした。家に帰れば手話ができるので早く帰りたいと考えていました。

小学校1年生になって、鹿児島県立鹿児島聾学校に通いはじめました。鹿児島県のろう学校はひとつしかないので、地元や親元を離れて、福祉施設や寄宿舎に入ったりするろう者が多くいました。

いい面としては、施設や寄宿舎だと手話でコミュニケーションがとれるんです。それがすごいたのしい。手話が日常的にあるのが幸せだった。施設や寄宿舎で、ずーっとしゃべっていて。先輩の手話を見て覚えていました。わからないものは『その手話って何?』ってたずねて。思い返すと、先輩のおかげでいまの自分があるような感覚があります」

袴田さん「わたしは3歳のときに浜松聾学校に通いはじめました。でも、私の発声が上手だったらしく、『幼稚園にいったらどう』と先生に言われて。両親は『娘はろうだけど、「普通」の子と同じ学校にいけるんだうれしい』と思ったらしくて、当時は情報も知識もなかったので、幼稚園に行きつつ、週1日だけは、浜松聾学校に口話の訓練で通うようになったんです。

幼稚園は音楽が有名なところだったので、楽器を色々やらされて苦しかったです。コミュニケーションも通じないし、会話もできない、周りの人が何を言っているのかわからないまま過ごしていました。しばらくして、浜松聾学校に通う同級生と、幼稚園がメインの私では学習の差も出てきて。両親がその状況に気づいて、浜松聾学校に戻りました。それが小学校1年生の頃です。

まずはキュードサイン(指文字とは違う方法で、口形と手の動きで五十音をあらわす方法)を学ぶところからスタートしました。中学3年生までは、授業中もキュードサインで会話をしていて。

高校からは千葉にある大学付属のろう学校に入りました。先生は日本語対応手話を使っていて、『普通校』から進学した人も、ろう学校出身の人もいて、クラスで使われているコミュニケーション方法は半分口話、半分手話という感じでした。私は指文字もできたので、それが主なコミュニケーションの方法でした。

寄宿舎にいたので、夏休みとかに実家に帰って指文字をやると、両親に『手話をやってよ』って言われていましたね。手話をより使うようになったのは、学校を卒業して、社会に出てから。そこでやっぱり手話がいいなと思うようになって。手話が最初からあってほしかったなと今は思いますけどね」

平塚さん「私は2歳から4歳まで日本聾話学校に通いました。遊びを組み合わせつつ、アルファベットが書いてあるカードを書き文字で覚える場所でした。その後は、東京都立のろう学校に通いはじめて。そこでも同じように50音の絵かるたと単語をつなげて言葉を覚えていきました。

小学4年生ごろには、口話と同時に手話で話していました。でも、手話の語彙は口話の語彙より少なかったです。高校に入って、ろうの先生や周りの生徒たちが流ちょうな手話で会話していてカルチャーショックを受けました。高校を卒業してからも、日本語対応手話でした。劇団活動を始めてから、日本手話ができるようになっていきました。

学びの手助けとしては、マンガがすごいよかったです。セリフが、吹き出しになっているのとか。後は動きとか『ドカン』とか『ゴー』とか、さまざまなオノマトペも描かれている。聴こえないからどんな音があるかわかっていなかったんですけど、聴者にはこんなふうに聴こえているのかも、と。マンガで知らない世界を知ることができた。マンガに惹きつけられて、読みながら日本語も培っていけました」

澤田さん「両親もろう者だったので家でのコミュニケーション方法は手話でした。

幼稚部3年のときに『普通校』に通うことになって、ずっと聴者の世界で生きてきました。口話が上手いわけではないし、聴者のみなさんと声の出し方が違ったと思うんだけど、まわりのサポートも得つつ聴者の世界にいました。

コミュニケーションの壁はもちろんあって。学校は『口話で読み取らなきゃ』っていう気持ちで行くけど、家の中でも口話が求められていたら心は折れていたかもしれない。通じないと困るからがんばってはみるのだけれど、ずっとそれだと、なかなか安心して関われない。家に帰ったら手話で気楽に話ができる、声を出しなさいと言われることもない。精神的に安定できる場所があってよかった。

口話は、相手が話していることを100%理解できるわけではないんです。一部わかるところを自分でつなぎ合わせている。手話勉強中のみなさんはわかると思うんですけど、一部の手話だけわかって組み合わせて内容を想像している、それと同じような状況でした。私にとって、みてわかる言語も安心して関われる言語も手話なので、そこから知識も得やすい。今は手話で楽しく生きています」

Q . 映画や舞台、ドラマでろう者役を聴者が演じることをどう思うか?

福島さん「違和感しかない。影響力があるメディアで、ろう文化が大事にされていなくて、芸能人だから有名人が演じるからっていうことだけで『ろう者』が注目されるのは残念」

平塚さん「手話は小さいときから習得していく文法がある言語。短期間で手話を習った人の表現は生きた手話ではない感じがする。日本人がちょっと英語を学んで話をしてもネイティブにはなれないように、なかなか難しい」

袴田さん「ろう者役はろう者がやるべきだと思います。それだけじゃなくて他の障害も同じだと思う。当事者の方が演じるのが適任なのではないか。その人にあった表現ができると思う」

当日は、他にもさまざまな質問が挙がった。クローズドな場所だからこそ、自分自身が持っている偏見があらわになることや、誤解されることへのおそれが低減されている環境だったのかもしれない。また座談会の途中には、ゲストから、メンバーへの質問も挙がっていた。「ろう者が無意識に出している音、ドアをバタン!と閉める音などに対して何か伝えますか?」「もし自分がろう者になったらまず何をしますか?」。それぞれじっくり考えているうちに時間は過ぎていった。

10月27日 さまざまな手段を、そのときそのときに合わせて選んでいく

10月27日、今回は手話で自己紹介し、「ぽたぽた」「ぴかぴか」「ねばねば」などオノマトペが書かれたカードをそれぞれ1枚選び、身体で表現するワークをすることから講座がはじまった。

河合さん「前回、手話通訳者がゲストに通訳している間に、メンバー同士で会話をしている瞬間がありました。ろう者もその会話を知りたいけれど、通訳も途中なのでできない。アートプロジェクトの現場でそういったことが起こったとき、どうするのがいいのか、さまざまな立場で考えてみるのがいいかもしれません。『話をする際は、その前に挙手をする』『雑談するときに、それを通訳してほしいか/必要ないか伝える』など決まりを考えてみたり。そもそも、他の人がしているちょっとした雑談が気になる人もいれば、ならない人もいると思うので、そこに集まる人や状況に合わせて考えていく必要もあります」

前回の振り返りに続いて行ったのは、音声を使わずに呼びかけをする練習だ。音声なしで、どう相手に気づいてもらえるのか、身体を動かしながら試していく。

河合さん「相手の視界に入ることで気づいてもらえます。ただ、いきなり飛び出てくると驚いてしまうので、まずは手で合図をして近づいていくのがいいと思います。あるいは近づきすぎる前に、遠くから大きく手を振って合図を出すのもOKです」

またろう者と出会ったときに手話でコミュニケーションをとろうとするだけではなく、筆談など、その人その状況にあった関わり方を考えていくことも重要だ、と河合さんは話す。

河合さん「筆談ひとつとっても、文章だけで伝えるのではなく、絵や図を交えた方がわかりやすい場合もあります。また書いたものを消してしまうのではなく、残しておくことで、前提が確認しやすい場合もあるんです」

続いて教えてくれたのは「どうぞ、こちらです」と伝えたいときのジェスチャーについてだ。

河合さん「聴者が方向を手で示すとき、人差し指で指すのではなく、手のひら全体で示す人が多いように思います。でもそれだと、ろう者にはどこを指しているのかがわかりにくいので、明確に指差しで示してほしい場合があります。また指差しするときに、指だけではなく、表情や顎の方向、首や腕の傾きなどを工夫することで、距離感を伝えることもできます」

ひとつのやり方に縛られすぎず、その状況に合う伝え方を選んでいく姿勢の大切さを教えてもらった。そう感じながら過ごしていると、河合さんは最後に次のように語った。

河合さん「ろう者は、一方的に助けなきゃ・支援しなきゃいけない存在ではありません。一方的に寄り添ってほしい、合わせてほしいのではなく、ろう者の文脈をまず知ってほしい。その上で、一人ひとり関わり方は違うから話をして、一緒にいい方法を考えていってほしいです」

11月10日 実際の場面を想定してロールプレイをしてみる

11月10日、アートプロジェクトにまつわる場面を想定して、メンバーと河合さんとでロールプレイを実施する回となった。実際に行ったのは3つの場面だ。今回は発話と手話での会話は禁止して、前回練習した筆談と指差しを使ってロールプレイが行われた。

場面1:本屋。お客さんが探している本を店員として探す

店員役をメンバーが、お客さん役を河合さんが担当。探している本の特徴(形、大きさ、色など)を身振り手振りや筆談をしながらすり合わせていった。

場面2:美術館。アルバイトに、絵画の展示場所を指示する

展示場所を伝える役をメンバーが、実際に指示を受けて設置する役を河合さんが担当。これまでに学んだ指差しやNMM(非手指要素)などを意識しながら実践した。

場面3:劇場。受付でのチケット売買のやりとりや座席の誘導をする

受付スタッフ役をメンバーが、お客さん役を河合さんが担当。筆談なども取り入れながら、その場で最適なコミュニケーション方法を模索していった。

ロールプレイの後は、河合さんから、それぞれの対応に関してフィードバックの時間があった。どのような伝え方だと誤解が生まれやすいのか、どうするとシンプルに伝えられるのか、正解はない。ただロールプレイを自分がやってみたり、他の人が実践しているのを眺め、フィードバックをもらう。そんな機会を得られることがこれまで無かったので、実際に経験しながらコミュニケーションの選択肢を考えていける貴重な時間だった。前半3回の講座で学び、実践したことを、すでに自分が携わっている現場でどう取り入れていけるのか現場と後半の講座を往復しながら引き続き考えていきたい。

後半レポートはこちら

(執筆:木村和博/編集:嘉原妙/撮影:齋藤彰英

関連情報

ステップ1「ろう者の感覚を知る、手話を体験する」レポート
ステップ2「手話と出会う。」レポート