まちなかに必要な「単位」と「ことば」|森司インタビュー 東京アートポイント計画のこれまで(前編)

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2026.03.30

執筆者 : 櫻井駿介

まちなかに必要な「単位」と「ことば」|森司インタビュー 東京アートポイント計画のこれまで(前編)の写真

 2026年3月、都内でNPOとアートプロジェクトを実践してきた「東京アートポイント計画」(以下、アートポイント)が終了します。これまで事業を統括し、組織の中枢から文化事業の現場を見てきたアーツカウンシル東京事業部事業調整課課長の森司が、17年の遍歴を振り返りながら、自身の経験と展望について語ります。

 前編では、自身が東京アートポイント計画に携わるまでの経緯や、当時の時代背景、チームビルディングについて振り返りました。


水戸芸術館からまちに出るまで

――今日はアートポイントに併走し続けてきた一人として森課長にインタビューをさせていただきますが、今でも、森課長へのイメージとして「クリスト展」をはじめ水戸芸術館現代美術センター(以下、水戸芸)でのキュレーションを思い浮かべる人も多いのではないかと思います。

森: 水戸芸は1990年に開館しましたが、その開館準備から関わっていたので、そうしたイメージがあるのだと思います。水戸芸がはじまって以降のキュレーション以外の仕事でいえば、1994年頃には銀本と呼んでいる書籍『社会とアートのえんむすび1996-2000──つなぎ手たちの実践』づくりに取り掛かっていて、1995年には「artscape」の立ち上げに携わり、1996年に開始した「トヨタ・アートマネジメント講座」では美術部門のディレクターを務めていました。

――水戸芸の学芸員、あるいはさまざまな立場で文化事業に携わってきたなかで、アートポイントの立ち上げへのお声がけがあったのはいつ頃だったんでしょうか?

森: はじめて声がかかったのは、アートポイントがはじまる年、2009年のことなんです。当時、本当は僕より10歳ぐらい若い人を探していたみたいですね。そのとき僕は50歳ぐらいだったので、40歳ぐらいの若手枠で探そうとしていた。けれど、東京都と組んで事業を続けていくと考えると、もう少し経験がないと難しいのでは……と、事業の立ち上げに関わっていた東京藝術大学の熊倉純子さんが悩んでいるときに「あ、森さんがいる!」となったみたいです。
 東京アートポイント計画の基礎になる事業「千の見世」の構想は、熊倉先生の研究室が受託し、そこで集められたメンバーがつくっていました。その一人が、当時は芸大の助手で、アートポイントの立ち上げを一緒に担うことになる大内伸輔さんです。

 水戸芸の森として、当時の都の担当者の方々とは面識がありました。それは2008年の後半、都庁のみなさんが水戸芸へ来て、小さなプロジェクトを動かすイメージについてアーティストの藤浩志さんにヒアリングをしていて。そこに僕と、きむらとしろうじんじんさんも立ち会っていたんです。そういった経緯もあり、あらためて僕が呼び出されたのが2009年2月のこと。そこで「4月から来てください」と言われました。東京都と一緒に事業を進めることに関しては、いい意味で期待も不安もなくフラットな気持ちでいました。新しいことをやるんだ、くらいの心づもりですよね。

 そもそも、2008年に立ち上げられた「東京文化発信プロジェクト」は、あくまで事業ベースではじまっています。事務所がずっとあるかもわからない、時限のあるプロジェクトなので保証があるわけでもありませんでした。

 そうした背景のなか、僕が言われたのは「千の見世」という括りでまちなかで小さなことをやる、つまりは美術館以外がフィールドで、かつ東京の事業だから海外には行けない、ということ。要するに、東京のローカルな部分をやる仕事だと思ってください、と。それで「わかりました」という話になったんですよね。

――そう聞くと、すんなり決まっていったようにも聞こえますが、もともと水戸芸を離れるつもりがあったのでしょうか?

森: 水戸を離れる予定はなかったです。けれど、BankARTを立ち上げた池田修さんが水戸芸に来たとき「そろそろ水戸での活動は続けなくていいかなと思っているんですよ」と一言気持ちを伝えたら「なんか、森が離れてもいいような感じがあるよ」という噂が流れたんですよ。そこと、熊倉さんからの話がつながっているかはわからないです。とはいえ、気持ちとしては50歳を前に「水戸であと10年か」と思いながら、チャンスがあれば移籍するつもりでいたというのは正直ありますね。

 当時、水戸芸にいてさえも「まちに出ていくのは美術館の仕事じゃない」と言われました。予算は基本的にホワイトキューブのために使うもので、まちに出るためには、まずは説得してからじゃなきゃ始められない。だからこそ、水戸以外の場所でやってみる、そんなこんなを妄想していた時期でもした。

――まちに活動を広げる、その必要性を感じたのはいつからだったのでしょうか?

森: 水戸芸でいえば、「カフェ・イン・水戸」をはじめ、美術館と、まちとの関係をつくるために、本格的に「まちへコミットしなきゃいけないんじゃないか?」と考えていたんです。2010年が水戸芸の20周年で、その記念事業としてまちなかに出られたらと思っていました。その感覚は、取手アートプロジェクト(以下、TAP)に関わっていたから生まれたのかもしれません。特に、2004年から2006年には、熊倉さんと一緒にアートマネージャーを育成する事業「TAP塾」に携わっていた経験も大きいです。

 あとは、藤浩志さんが「森も、まちに出ればいいのに」と言ったのは大きかったのかもしれません。それこそ、もともと僕は学芸員として「クリスト展」を担っていたこともあり、アンブレラ・プロジェクトのような地域に出るアクションも体感していた。そして、何より「プロジェクト」という言葉が僕のベースにはあるんです。ですが、どうしてもホワイトキューブは三次元的に収まってしまい、そこには流れる「時間」がないんですよ。それもあり、時間という概念を含んだプロジェクトや、まちなかに興味を持ち始めていたんです。

まちなかのキュレーターがいなかった時代

――当時の美術の現場では特に、ホワイトキューブによって外の環境からは切り離されることが第一にあり、そこには時代や時間の流れが反映されにくいということですね。

森: そうですね。逆に言えば、キュレーションによってフレームをつくり、そこに物を置くと、会期中にはそれ以上の変化が起きなかったということです。この「変化しない」ということが、美術館の装置としての特性ですね。ここに「時間」を差し込むとなると、ビデオや映像の尺物が入るくらいしかない時代でした。野村仁さんの企画を水戸芸でひらいたときには、アメリカを横断するソーラーカーのプロジェクトを扱ったことがあり、映像を並べてソーラーカーも置いて、どうにか時間を取り入れようとしましたが、ライブ感のある「時間」は生まれませんでした。

 それで「カフェ・イン・水戸」の様子も見ていると、まさに時間が流れていくまちなかに出るのがいいのでは、という感覚が強くなっていました。アーティストは先にまちに出ている、それならば、これからはキュレーターもまちに出ていいのではないか、と考え始めていたということです。

――たとえば、アートポイントの関係者でいうと、青木彬さんは箱のキュレーターというよりは、むしろまちなかのキュレーターとしてのイメージもありますよね。

森: かれの活動を見ていると、そうした印象を持ちますよね。僕の時代には「まちのキュレーター」とは言えなかった。もし言うのであれば、キュレーターをやめることしかできなかったくらいです。
 キュレーターは大学で養成されるけれど、まちなかのスタッフは養成されない。それもあり、まちなかに出る教科書とするために「Tokyo Art Research Lab」(以下、TARL)をつくって、コンセプトを変えながら続けてきた。書籍『アートプロジェクト:芸術と共創する社会』の原型となる『日本型アートプロジェクトの歴史と現在 1990年→2012年』も、そういった、歩みをまとめて振り返られる資料がないと、本当にアートプロジェクトが何なのかがわからない状態だったからです。

 そうした状況のなか、実際に事業を始めるためにはスタッフを集めなくてはならないですよね。「誰かできる人はいないか」と探し回るのが一番大変だったかもしれません。アートポイントのスタッフもですが、実際にまちで動くメンバーのチームビルディングも難しいものです。TARLという学校にはそうした人を集めるという面もあったのですが、その仕方もTAPからの影響を受けていますね。

――TAP塾には、アートポイントの歴代のプログラムオフィサー(以下、PO)でいうと大内さんや、坂本有理さんもいました。

森: そうですね。現在は弘前で活動しているインストーラーの澤田諒さんもいて、多くの担い手が生まれたように思います。当時は連日合宿して、馬鹿みたいに騒いで、いろいろなことを話しました。今となってはいい思い出です。

「千の結び」からアートポイントまで

――『これからの文化を「10年単位」で語るために ―東京アートポイント計画 2009–2018―』を読むと、アートポイントがはじまったきっかけは、2006年に設立された「東京芸術文化評議会」の議論にさかのぼるとあります。

森: そうですね。東京芸術文化評議会は、2007年に第1回の会議が開催され、そこからオリンピックの文化プログラムについての議論が進んでいきます。2008年には議論が具体化し、2016年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた立候補ファイル(プロポーザル)にも、文化プログラムの主力事業として「Festival Tokyo」や「Tokyo Thousands Knots」(トーキョー・サウザンツ・ノッツ/千の結び)が取り上げられました。

 私たちは、東京のポテンシャルを、東京、日本のみならず、様々な価値観や文化の理解・共有による文化の多様性の尊重、さらには世界平和への貢献に役立てたいと考えている。それを推進する舞台として、世界中の人々が参加するオリンピック競技大会ほどふさわしいものはない。2016年東京大会において、私たちは、きわめて斬新かつ野心的な文化プログラムを展開する。
 プログラムの中核は、東京芸術文化評議会の答申に基づく、“Festival Tokyo”に代表される様々な芸術分野のフェスティバルと、“Tokyo Thousands Knots”と呼ばれる人々が文化で出会い、結びあうプロジェクトである。
 (中略)その分野はすべての芸術分野のみならず、まちづくりから福祉、教育をも含み、人々の力によって東京を芸術分野に加えて、生活文化の自由な活動の拠点とすることを目指すものである。

(Tokyo・2016 : candidate city : 立候補ファイル 日本語版/フランス語・英語版のデザインについては、こちらのウェブサイトに記載がある。立候補ファイルのテキスト英語版/フランス語版はこちらのウェブサイト。)

森: 立候補ファイルにも記載がありますが、この「千の結び」と書かれているプロジェクトが、いわゆる「千の見世」構想であり、アートポイントの原型となるものです。

――2009年6月10日の「第6回東京芸術文化評議会」では、立候補ファイルに出てくる「千の結び」についてあらためて紹介があり、そのパイロット事業として「東京アートポイント計画」が取り上げられました。この評議会では実際に森課長が事業説明をしていますね。

森: こうした動きのはじまりには「アーツカウンシル」をつくる、という議論もあったようです。そうした動きが見え隠れする中で、まずはアートポイントとして始めようとなり、僕がその立ち上げに召集され、評議会にも呼ばれることとなりました。

(資料5:東京文化発信プロジェクト「東京アートポイント計画」)

森: 加えて、初期の頃に大きな存在だった事業が「学生とアーティストによるアート交流プログラム(通称、SAP)」です。さまざまな教育機関と連携し、その後のアートポイントにつながる事業も数多く生まれました。SAPの予算も含めると、総額1億円ほどで事業を回せることになり、その後の財源の基準となっていきます。以降、事業再編によってTARLの予算が削られることもありましたが、それでもここまでよく続けられたとも思います。

 アートポイントはいわば、まちなかにオリンピックプログラムの担い手をつくるという役割からはじまった事業です。こうした経緯もあり、今日に至るまで「オリンピック」という言葉が紐づいてきたんです。しかし、それほどに東京都の主力事業としてはじまったはずが、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて「Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13(サーティーン)」が企画公募を始めたときに、良くも悪くもオリンピックプログラムの担い手をつくるというアートポイントのポジションがなくなったという経緯があります。

――そこにはどのような変化があったのでしょうか。

森: アートポイントの活動が見据えているのは、基本的には地道で小さな事業です。ですが、2020年の東京オリンピック・パラリンピックを前に、やはり大きな祝祭のイメージが求められたということもあるのでしょう。オリンピックのために、アートポイントで「結び」を担う必要がなくなったということです。

 実は、小さな事業と言いながら、アートポイントでは初期に「川俣正・東京インプログレス―隅田川からの眺め」という派手に見栄えするプロジェクトにも取り組んでいました。それは、東京都から見た「小さい」を考えると、これぐらいのサイズ感も欲しがるはずだという予見と「まちなかでも我々はこれぐらいのことができるんだ!」と見せておかないと、いつか社会状況のなかで潰れてしまう感覚からでした。屋台規模のこともやるけれど、「ここにいるぞ」とアドバルーンをあげるように大きく社会に表明する。そうすれば、もし潰れたとしても誰かは見ているだろう、という気持ちですよね。

 そうして川俣さんと3つの物見台をつくったあとに、もう一つぐらい「花火」が欲しいと考えていました。それが、六本木という都市を何年も使い続けることとなる「「光の蘇生」プロジェクト-counter void再生をめぐって」と、そこに続く「リライトプロジェクト」です。

――小さなことを意識しながら、事業全体の見え方を戦略的につくっていたのですね。

森: 「Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13」のタイミングで、我々は第一戦の舞台からは降りていました。しかし、そのことによって違う延命の仕方を考えられるようにもなったんです。

 2011年の「東日本大震災」、3.11を受けて「Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業/ASTT)」に取り組んだ影響もあったのでしょう。さまざまな方法で東北に向き合う、そのなかの一つとしてアートポイントのやり方や知見を活かした事業として、その見え方は大きかったのではないでしょうか。

 さらに言えば、僕は「TURN」や「東京キャラバン」という目立たなければならない事業をもう片方の手でまわしていたこともあり、むしろアートポイントはパフォーマティヴにせず、地味で目立たないけれども活動を根付かせるための方針を考えたりしていました。

――状況が揺れ動きながら、2025年度をもって「東京アートポイント計画」は事業を終えますが、さまざまな資料を辿ると、当初から軸になるコンセプトは変えずに続けてきたことを振り返ることができます。

森: 一周して元祖帰りしている気もしますが、当初からは時代もニュアンスも変化はしつつ、マインドは変わっていません。常に、時代の先を読んできたつもりではいます。そういう意味では「なんか昔から同じことを言っているし、人はあんまり変わんないんだな」と、自分でも思いますね。

 今思えば「千の見世」や「千の結び」というのも、勢いをつけるキャッチフレーズにも見えます。本当に1000のプロジェクトをつくるのは難しいですが、1000人以上の人のなかには「それぞれのアートポイントのイメージ」がある気がする。そういう意味では非常にバーチャルで、レトリカルな言い方かもしれません。

 アートポイントでの共催が終わったあとにも続いている活動があったり、TARLの関係者がいたり、資料が参照されたり、これまでのプログラムオフィサーがそれぞれに活躍していたり。事実として、まちなかで事業を続けることの一つのありようやイメージは提示できたのではないでしょうか。

――これまでのアートポイントの共催事業を見ると、本当にさまざまなバリエーションで提示してきたように思います。

森: それで言うと、特に2022年度から始めた3つの共催事業「カロクリサイクル」「KINOミーティング」「めとてラボ」は、今の時代を象徴するプロジェクトだと思います。それぞれが秘めていたエネルギーや経験を固め、ひらく場をつくることでここまで来た印象です。そうしたエネルギーを流していくような作業が POの仕事としてもあるのですが、これは教えられるものではないという難しさも感じています。

第五福竜丸の展示を見る15人くらいの参加者のグループの様子
カロクリサイクルによるワークショップ「記録から表現をつくる」
KINOミーティングによるオムニバス映画『オフライン・アワーズ』制作風景
めとてラボのメンバーによるミーティング風景

まちなかで活動するためのオペレーティングシステム

――アートポイントを始める当初、POにはどのような人材を求めていましたか?

森: まずはアートの知見があること。そして、現場の知見があること。それは一人がすべてを持っている必要はなく、チームとして活動しているので、そこで有用な何かを持っていればいい。対して、いわゆるキュレーター思考の人は場違いになると思っていました。

 僕自身の経験もあり、キュレーターになりたい人が求めていることはここでは何一つできないとわかっていたんです。今で言えば、美術館側だとしても、アートに関する教育普及や、まちなかで何かをやりたいとか、そうした経験を求めている人であれば関われるのかなとは思います。

 美術館専門のキュレーターが、まちなかでできるかといえば、僕は基本的にはできない。むしろ、まちなか専門の立場があるべきだと思っています。その意味においても、POは専門性をもった集団でもあるわけです。それでも、身体が慣れるまでは数年はかかるでしょう。僕も立場を変えてから3年ほどは美術館の感じが抜けなかったんです。

――それは態度や、チームの雰囲気づくりのようなことでしょうか?

森: オペレーティングシステム(OS)、つまりはやり方みたいな話ですね。どうしても事業にベストを求めようとするけれど、ここにいる限りベストは求めようがないものです。要するに、大リーガーのようにトップクラスの人が集り、トップのプレーをするという場所ではなく、さまざまな人が集まってつくるからやり方そのものが違います。ここでは自分の知っているやり方ではできないとわかっているんだけど、いざジャッジをするときにはキュレーター的な目線というか、癖のようなものが当初は抜けなかった。

 「戦う」という言葉は良くないけれど、20年間キュレーターをやってきた経験からの僕の身体、向き合い方のデザインがすでにあるんです。そこから思考も振る舞いもまちなか用にしなくてはならない。たとえば、印刷のクオリティひとつとってもそうです。こうじゃないといけない、という判断基準や、美術館として求めるようなこだわりを、今までとは違うこだわりに置き換えていく。その作業に3年はかかったということですね。

 あと、一番大きいのは「自分で決めない」ことでした。あるいは決め方を託していくときに、多様性がある方が、ここではいいはずです。少しずつその感覚になってきたとは思いつつ、それでもまだ僕自身は何かを握っている感覚もあります。ですが、それは美術館という装置側の握りではなく、「芸術文化活動ってこういうもんだよね」というもの。そこの握りは相変わらず強いなとも自覚しています。

――森課長から以前、まちには学芸員もキュレーターもいなかったからアートマネージャーが必要だったんだ、という話を聞いたことがあります。実は、その体感をもったうえで、活動を仕掛ける人は少ない気がしました。まちなか出身者には、なかなか美術館の動きを自分語りにできないし、美術館からまちにフィールドを変えるキャリアも珍しいですよね。

森: なかなか見かけないですよね。美術館という装置での振る舞いは「総合病院」のようなものだと思っています。総合病院には総合病院のやり方があって、一方で、町医者には町医者の治療の仕方がある。同じ医者という立場でも、専門性や気遣いの質は違うので、それぞれに得手不得手があるはずです。

――POの顔ぶれによる変化もあったのではないでしょうか?

森: もちろん、雰囲気の変化はとても大きかったです。2011年、2012年までが、とにかく突き進んだ第一ロケットという感じで、POたちも正解がわからないまま、たくましく突き進んだ印象です。そこから第二ロケットにつながり、2015年、2016年には、今や美術館ではないアートフィールドの担い手になるPOが増えた印象ですね。そこには、2015年に「東京文化発信プロジェクト室」と「アーツカウンシル東京」が組織統合している影響もあると思います。東北では嘉原妙さん、沖縄では上地里佳さん、広報のフィールドでは中田一会さん。この変化のなかで修行をして、旅立ってからも各地で自分の現場をつくる流れが生まれた気がします。

――初期のメンバーはもちろんですが、たとえば吉田武司さんや長尾聡子さんは「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」(以下、音まち)を実施するNPOに所属して現場を動かしています。フリーランスとして、岡野恵未子さんも音まちに関わっていますね。そのように一度POになった人が、いまでは各地の現場で活躍していることは多い気がします。

森: POという立場と、まちなかの現場は、どちらから行き来しててもいいと思っています。中間支援向きの人になるか、現場向きの人になるかという判断の違いは、その人の性格や、自分で何をいじりたいのかによって変わる気がしますね。

 そのうえで、POの顔ぶれによって雰囲気やできること、戦力のバランスが変わるというのは、高校球児の監督のような目線で都度引き取っていたので、そのこと自体に違和感はありませんでした。

「単位」と「ことば」で現場をつなぐ

――POの顔ぶれが変わるなかでも、今に至るまで一貫して求めてきたことはありますか?

森: たとえば美術史を知っていても、現場の言葉や視点を知らないことがあります。たとえば印刷の話で言えば、ノンブルであったり、色校正であったり、ひとつの冊子をつくるために必要な知識やフローがあるはずです。組織で、そうした現場の動きを身体化できる人を育てられるのか、という問いは、今も持ち続けています。

 振り返ると、POに対してキュレーター的な目線を少しいれていることもありましたね。「Art Support Tohoku-Tokyo」(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)では、佐藤李青さんを担当者として変えませんでした。僕の思いとしても、しっかり10年間、出来事を目撃してまとめる人が必要だと考えたからです。ほかのスタッフに対しても同様ですが、何か得意なことがあれば、そのスペシャリストになるという選択はあるはずです。

 一方で、ジェネラリストへの期待や必要性が大きくなっています。そのバランスを考えるなかで、POがスタディマネージャーとして現場に伴走する「東京プロジェクトスタディ」を2018年に開始しました。要するに、以前はもっと大騒ぎして現場をつくっていたけれど、そうした経験がアートポイントのなかでも格段に減っていた。そこでもう一度自分たちも学ぶ場をつくろうと、PO自身の演習も兼ねて始めた企画だったんです。その後、社会状況の変化も踏まえて、小山冴子さんがPOとして担当する「新たな航路を切り開く」をP3 art and environmentの芹沢高志さんと立ち上げた経緯があります。

――POの動き方や、アートポイント、TARLという事業のなかでの現場のつくりかたがその都度試みられてきたのですね。

森: 組織としても、スタッフどうしで悩みを話し合ったり、実際に動かせる裁量権があったりすると風通しが良いですよね。アートポイントは、小さいなりに裁量権をもつフレームのなかで動かせたんじゃないかという自負心はあります。

 現状を見直して、計画を変えることのできる自由度。それは可塑性が高いということです。決められたことを執行するのではない、推進するだけではなく、調整をする。それができていたことには大きな意味はあるはずです。

2025年度 プログラムオフィサー

森: 事業のつくりについても、その都度考えていました。ひとつの文化事業には、大小さまざまな組織や担当者が複雑に関わっています。これはさまざまなケースで言えることですが、事業を一緒に進めてきたパートナーが「静かな敵」になる経験をした人は多いのではないでしょうか。それはつまり、相手の思い描くものを超えた瞬間に「そこまでやる必要はないのでは」という抵抗勢力になり得るということです。

 それでも、敵は味方になることもあるので、調整を続けながら、社会にはなるべく存在を出しておくんです。どこかに反応して、思わぬ効果が生まれることもある。アドバルーンの例えをしましたが、はたから潰れたことがわかるようにしておけば、どのように転んだとしても何らかのメッセージを出せますよね。とはいえ、川俣さんのプロジェクトほど大きいものばかりではないので、まちなかの小さなプロジェクトがどのようにアドバルーンをあげておくのかは、個別に考えなければなりません。

――とはいえ、アドバルーンが潰れないように現場の人々をつなぐ必要もありますよね。そのために、特に重要な技術は何だと思いますか?

森: たとえば、美術史を学べば作品の解釈はできるかもしれませんが、僕は具体的な「単位」でお互いに話をしてほしいと思っています。作品の解釈ができたとしても、重さや実寸がわからなくて、仮設壁に掛けると荷重に耐えられず展示ができない事態になる。わかっていればインストーラーたちが事前に補強できます。そうでないとペラペラの壁の用意しかない状況が生まれてしまう。現場ではそういう掛け違いが、実際に起きたりするんです。

 『東京アートポイント計画が、 アートプロジェクトを運営する「事務局」と話すときのことば。の本』をつくったのも、そのように「ことば」が現場でズレていたからでした。アートプロジェクトの現場のように、特に日常に近い事業だと、日常の言語のままバトンのように思考を手渡せると思ってしまいそうですが、実際にはそうはいかない。やる気だけではできない、共有できる「ことば」がないと事故が起きてしまう感覚は、もともと美術館にいたり、TAPでの経験もあったからだと思います。

――「単位」や「ことば」をつかって、すぐさま考えたり判断することは、まちなかではことさら必要な技術だという実感がありますね。

森: そうです。それは、まちが「装置産業」ではないからですよね。でも、最近はアートプロジェクトも「疑似装置産業化」している弊害がでてきていることもあり、僕は「これまでのようなアートプロジェクトは終わる」と思っているんです。


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>シリーズ「東京アートポイント計画 2009→2026」はこちら

収録日:2026年3月10日
話し手:森司
構成・編集:櫻井駿介

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