それ、もしかしたら、アートプロジェクトの出番かも?

さまざまなお悩みを“関係性”から見直す事例集

まちづくりやコミュニティづくりに取り組むうえでの困りごとを一つひとつ丁寧にひもとくと、“関係性が生まれる入り口がない”という共通の課題に行きつきます。

アートを「関係をつくるための行為」として捉えてみることで、従来とは異なる視点やアプローチがひらけるのではないか。本書は、そんな気づきから生まれた冊子です。
東京アートポイント計画の一環として取り組んだアートプロジェクトや、各地でのユニークな事例を取りあげ、ストーリー仕立てで解説しています。

さまざまなアートプロジェクトの実践例を通して、地域に”関係の種”をまくためのヒントをお届けできたら幸いです。

一度きりのイベントではなく、持続的な活動をどうつくるのか。
地域で活動を続けるために、運営するチームの関係をどう育むのか。
みんなが集う場をつくり、どう「自分ごと」にしていくのか。

(p.76)

目次

はじめに

1 ひとが集まる入り口をつくろう

  • TOPIC 1 「思い出、聞かせてください」からはじめてみよう!
  • TOPIC 2 “得意”と“興味”を持ち寄ってみよう!
  • TOPIC 3 “お祭り”で、非日常の力を生み出そう!

 2 関係の“地図”を描き直そう

  • TOPIC 4 “ともに歩くこと”から、はじめよう!
  • TOPIC 5 行政の部署の“あいだ”をのぞいてみよう!
  • TOPIC 6 “みんな”って誰のこと?

3 もっと仲間を増やそう

  • TOPIC 7 記録や発信も、ともに楽しく!
  • TOPIC 8 点在する活動をつないでみよう!
  • TOPIC 9 チームができると、活動が広がる!

おわりに

アートプロジェクトについてもっと知りたい人へ

つくることを考えてみよう 応答すること

多摩地域を舞台に、地域の文化的、歴史的特性をふまえつつさまざまな人々が協働、連携するネットワークの基盤づくりを進めている『多摩の未来の地勢図 Cleaving Art Meeting』において、2024年12月から2025年12月アーティストの弓指寛治さんが、昭島市立光華小学校4年2組、進級して5年2組に、生徒として滞在した記録です。

学校で過ごした弓指さんが見たこと、感じたこと、弓指さん自身について尋ねてみたことを中心に取りまとめました。また、最後の論考では、国家が教育を通して子どもをどのように取り扱っているか俯瞰しつつ、これからの子どもたち、私たちが生きる社会を考えます。

直接の当事者じゃない同級生達は「やばい」とか「最悪の日だ」とか「ほんとこのクラスやだ」とか口々に言っていたけど、どこか楽しそうでもある。彼ら彼女らがこれからも生きていって10年20年が経った時に思い出す小学校のことといえば今日なんじゃないかなと僕は考えていた。

(p.19)
目次
  • 2 輝く礫はみんなの疾走を照らした 6年生のみんなへ
  • 6 Ⅰ 応答すること 子どもたち+九鬼先生+かんちゃん
  • 21 Ⅱ 例えば寄生虫のように大きな宿主の体内に入り込んで
    勝手に自分のライフサイクルを作って生きてるみたいに-
    弓指寛治インタビュー
  • 25 Ⅲ 新自由主義の時代に生きる〜教育現場へ期待すること 戸舘正史

アートプロジェクトからなる火種|森司インタビュー 東京アートポイント計画のこれまで(後編)

 2026年3月、都内でNPOとアートプロジェクトを実践してきた「東京アートポイント計画」(以下、アートポイント)が終了します。これまで事業を統括し、組織の中枢から文化事業の現場を見てきたアーツカウンシル東京事業部事業調整課課長の森司が、17年の遍歴を振り返りながら、自身の経験と展望について語ります。

>レポート前編はこちら

 後編では、アートプロジェクトの現在地や、アートマネジメントの作用、文化事業の可能性について、自身の視点から振り返りました。


名詞化するアートプロジェクト

――「単位」や「ことば」が、装置産業ではないまちなかでは重要になる。一方で、最近はアートプロジェクトが疑似装置産業化している。そうすると、まちなか用の「アートプロジェクト」の構造が成り立たたないということでしょうか。

森: 比喩的な言い方になってしまいますが、アートプロジェクトやアートポイントは「動詞」で始めたと思っています。しかし、動詞だったものが、アートプロジェクトもアートポイントも「名詞」になってしまった感覚があります。その意味で「これまでのようなアートプロジェクトは終わる」と思っているんです。

 いい意味で捉えると、さきほど1000人に「それぞれのアートポイントのイメージ」があるかもしれないと話しましたが、これは「名詞化」できたからこそともいえます。

 一方で、名詞として見るというのは、常に動かず、ピタッとしていることが望ましい状態です。ですが、現場は常に動詞で、揺れているものです。考えながらつくる、つくりながら考えるということが動詞であるということ。そうすると、かすかにでも揺れているものを容認する必要がありますが、「管理」の目はそうした揺れを嫌うんですよね。揺れているものとしてアートプロジェクトやアートポイントを見ている人は、みんな動詞として見ている。今はいい感じ、今は悪い感じ、と思考することができます。ですが、名詞としてアートプロジェクトやアートポイントを見ると「これは違う」と許容しにくくなったり、既存のイメージと比べたり、いますぐ評価できるものだと思ってしまう。

 このように、同じ言葉を見ているはずなのに、名詞として捉えているか、動詞として捉えているかには大きな差があります。アートプロジェクトの現場を捉えるためには動詞化させないと無理なはずなのに、名詞にしようとする動きが加速している、あるいは1000人がイメージできるくらいに「名詞化できてしまった」ともいえるんです。

――事業の話だけではなく、たとえば組織としては随時管理できたり、検品できたりすることがアカウンタビリティの確保のためにも重要な面はあります。ですが、それだけが「正しいこと」になると、現場にある揺れは受け入れにくくなっていきますね。

森: たとえば、始めから決まった報告書をつくるのではなく、これを伝えるためにはどうすればいいかと考えて、編集して、デザインして、印刷の仕様を考えて……という「ワーク・イン・プログレス」のかたちがあります。こうしたプロセスそのものをつくる動的な状態、つまりは最終的な成果物ではなく、生成の過程を評価するという前提で、我々は始めたはずなんです。それがプロジェクトの生命線であり、僕もスタッフも抵抗してきた部分でもあるけれど、それでも「成果物とは予定されたものをつくること」という前提が大きくなっているということですね。

――今後、動詞化できる、あるいは動詞として捉えられる状況に戻ることはあるのでしょうか?

森: 今の社会的に求められていることは「成果として分かりやすいもの」であり、つまりは動的ではないから、これからもどんどん苦しく、難しくなるだろうと思います。アートポイントの立ち上げのとき、社会では「コンクリートから人へ」と掲げられていた。NPOという小さな組織と一緒に取り組むというのは、まさしく「人へ」という時代とも合っていたし、「人」だからこそ動的でも許されていたともいえます。ですが、今は「人」ではなく「制度」が前に出てきていて、文化事業が本来は動的であることを、事業を仕掛ける側もわからなくなっているかもしれません。

 アートポイントが事業として終わることは容認できます。容認はしていますが、初期の頃のパッションがシステムに代わり、それは一時的には機能していたけれど、その更新がうまくできなかった結果として名詞化して終わる、というある種の反省もあります。

――お話を聞いていると、名詞として一度固まってしまうと、あとはそれを焼き増しにすることが役割に変わるような印象を受けます。

森: 名詞になっても続けられるのが「老舗」という存在なんだと思います。老舗になるのはなかなかに難しいものです。100年ぐらいアートポイントができればかっこいいのですが、行政と組むと長くても3年1期で終わるのが世の常。そう考えると、それを5期、15年を超えて17年もアートポイントは続けられたので良いのではないかとも思います。

 振り返ると、当初から事業が潰れないように骨太にする意識を持っていました。それは、展覧会をつくるときにも持っていた感覚で、ひとつの企画展は10年はもたせたい、そういう設計を最初に考えていたものです。2019年に、3331 Arts Chiyoda内にあった拠点「ROOM302」で、アートポイントの10年を振り返る「東京アートポイント計画 ことばと本の展覧会」を開催したときにもその感覚を思い出していました。本当は、今後10年をつくる意識を持たないと3年でさえも続けられないはずです。

「東京アートポイント計画 ことばと本の展覧会」会場風景(撮影:高岡弘)

――文化事業のつくり方が短いスパンになったり、動的な言葉が名詞化して「管理」や「予定通り」であることが求められたりする。この状況の背景には何があるのでしょうか。

森: これは個々人の問題ではなく、新自由主義による弊害だとも思います。頑張った人は報酬をもらえて、頑張らない人には「ダメですよ」と言えるルールをつくってしまった。つまり、頑張れなかった人は自己責任を突きつけられることになり、それを軽減するにはリスクを取らないようにするしかなく、冒険しなくなってしまった。

 「危ういもの」もときには大事です。危うさを持っているものがあるときは、その危うさに追いつかれないように走り抜けていくことができる。そうした「危ういもの」を避けて、そうではないものにすがっていく危険性を、今後みんなで知るような気がしています。

プロジェクトに問われる「成功」と「正解」

――それでいうとアートポイントの初期のプロジェクトには、勢いで走り抜けるような賑やかさや危うさも、いい意味で現れていたように思います。

森: アートポイントの現場は、基本的にサイズは小さなままですが、さまざまな出来事を通して密度や濃度が上がっていきます。なかでも、「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」(以下、音まち)は、10年以上続いて事業も大きな規模になりました。POでいえば櫻井駿介さんは、花火のような「川俣正・東京インプログレス―隅田川からの眺め」から、音まちでの経験ももっているので、現場で体感しているものがたくさんありますよね。

 当時は、それくらい大きなこと、危うそうなことも普通にできていたんです。僕も「このまま行こう」と言えていた。でも、今の時代にはそうは言えません。3つの大きな塔を川辺に建てようだなんて、実現できるビジョンがなかなか浮かばない時代です。

水辺のそばの広場に大きなタワー型のアート作品が建っている
(C)Tadashi KAWAMATA(撮影:HASUNUMA Masahiro)

森: アートポイントは、地べたで続けているので生活との距離が近いです。だからこそ、経済や、人や、社会の空気にすごく敏感に反応します。館のなかであれば、壁があるからどうにかなることも、生活と地続きの地べたにいると「今日も野菜が高い」という声がダイレクトに来るから、なかなか厳しさもあるということです。

――今は、受け入れるというか、楽しむ余裕がつくりにくい感じがあるということでしょうか?

森: そうですね。当時はバグっていたとは言わないですが、宴を楽しむ余裕も、もう少し経済的な余裕もあった。ハンナ・アーレントが『人間の条件』のなかで、「労働」「仕事」「活動」の三分類で議論していますが、ここでいう「活動」に身を投じることができていた時代だともいえます。

 マネジメント側の話でいうと、2025年に音まちが開催した「キタ!千住の1010人」は、2014年に足立市場で開催した初回の「千住の1010人」とは違う印象を受けたんです。初回は、何をやるのかわからない、ヤバさやエネルギーのある活動だった。一方、今回は「千住の1010人」というジャンルを達成するという意識に近い感じがしたんです。

――一度目の「千住の1010人」が2014年、東京都中央卸売市場足立市場でのこと。当時のエピソードは聞いており、良くも悪くもはちゃめちゃな様子だったようですね。そして2025年、二度目の「千住の1010人」を千住スポーツ公園で開催しました。一度目の経験をいかしながら今だからできる演奏を模索し、リハーサルの設計や、参加者からの見え方など本番前から準備を続けてきました。この2つの1010人の違いについて、経験を通じて「プロジェクトが成熟した」とは別の力学も見えたということでしょうか?

森: それぞれの時代や状況のなかで、自然とそうなったのかな、と思っています。これはどちらが良い、悪いというものではなく、それぞれにそのときのベストなパフォーマンスを目指した結果です。

 あるいは、コモン、パブリック、プライベートというような、どの領域を狙っていたのかという違いもあるように思いました。初回は、足立市場という場所でコモンの場をつくっていた。今回は、パブリックスペースとしての公園での開催だった。その差もどこかにある気がします。

 市場をつかった1010人と、公園をつかった1010人、それぞれに成功の体験が生まれたのだけれど、きっとそのイメージも違うと思うんです。初回の1010人のときには本当に手探りで、さまざまな危うさも含めて進んでいた。そこには前例になるものがないので、むしろ、そのヤバさも許容できている状態です。今回の1010人が決して許容できなかったわけではなくて「前回はこうだった」と「なぞる」ことができたので、当たり前のようにこなせていたことが多かったのかもしれません。

2014年開催「野村誠 千住だじゃれ音楽祭『千住の1010人』」の様子(撮影:加藤健)

――今回はスタッフ向けのマニュアル整備にも力を入れ、スタッフ向け説明会もおこなうなど計画的にプロジェクトをつくっていました。ここには一つのマネジメントの成功も感じます。一方で、予想できない出来事に都度対応するマネジメントとは満足度や達成感の質が違う印象もありました。

森: 今回は、振る舞いを習った人たちが、そのとおりに振る舞うことができたという喜びも大きいのだと思います。学びを活かせたという点においても、とても評価は高いものです。

 今は、良くも悪くもリスクをすごく考えざるをえない時代にあります。リスクというと、マイナスの表現に聞こえますよね。ですが、そのリスクによる冒険があって、それは当事者たちにとってはプラスの考えでもある。だから、多少のリスクを背負っていても、成功だと言えることがあるんです。

2025年開催「野村誠 千住だじゃれ音楽祭『キタ!千住の1010人』」の様子(撮影:冨田了平)

森: これは、成功のサイズが変わってきているということでもあります。以前は、ビジョンがあってかたちにする、そのために小さな成功を自分の中に重ねていた。そのパッションともいえるベクトルは自分自身から外に向いていて、誰かと比較するものではなかったはずです。

 一方で今の時代は、成功とは「正解」に合わせることになりました。つまりは正解に沿うために、当事者であっても自分自身ではない、正解に近づくための振る舞いがあるということです。初回の1010人では誰にも正解がわからなかったので、誰一人としてそうした振る舞いに振り付けられておらず、それぞれが自らの行動や指針で動くしかなかったように思います。そこには危うさと同時に、独特のエネルギーがありました。

――現場のスタッフだけではなく、POも、そうした時代を体感しながら現場と調整していますよね。

森: アートポイントも初期の頃は、誰にも「正解」がわからない、手探りなときが多かったです。POの大内伸輔さんも、大変なくらい働いた帰りには「社会を変える」と自分に言い聞かせてポツポツ歩いていた、という話を聞きました。

 何をやったらいいのか、何をやっているのかわからないというのは、苦しいことです。ですが、その苦しさは許されないことだろうか。すべて分かる状態が正しいことなのだろうか、とは思うわけです。

――あえて「わからなさ」のなかに身を投じる経験が必要ということでしょうか?

森: ここでいう「わからなさ」というのは、本当にわからないことをやっているわけではなくて、追いつかれないように一生懸命頑張っていた結果ともいえます。たとえば、東京インプログレスで川俣さんが「タワーを建てます」といっても、誰にもどういうことかわかりません。それよりは、まだ「千住の市場で1010人の演奏をします」というほうがわかりやすいですが、それぞれに「わからなさ」を含みながらつくっていました。ですが、その意味では今回の1010人には「大団円を迎えた」という印象があって、もともとの1010人のつくりからは別の風景が生まれた気がします。

何割まで見越しておくのか

――その印象の違いについて、もう少し詳しく聞いてもいいでしょうか?

森: 最初、1010人は「遊び」でやりたかったんです。遊びなので、また明日があって、終わりはない。やっている人たちが思わずやってしまって、面白くなって、楽しくなって「どうしようもなくなっちゃった」という感じです。一方で、今回の1010人は計画されていたからこそ、区切りとして一度「終わる」ことが前提にあり、その上で、今後の続け方を考えているようですね。

 アートプロジェクトという本来は完成のないものも、続けていくといつしか振り付けのあるものに変わります。そうすると、アートプロジェクトというよりは「祭りの継承」に近い状態ですよね。むしろ、アートポイントにおいては「なぞり」が入ってきたからこそ、事業としては一度終わっていいんじゃないか、と思っているくらいです。パイロットとしての役割が終わった現在、次は「東京都・区市町村連携事業」として自治体との連携にシフトするのは自然な流れとして見ています。

――継承できる状態にあるとはいえ、アートプロジェクトだからこそ手放せば消えてしまうものがある感覚も大きいです。

森: パイロットではなくなったときに、さまざまなものが消えていくのは、もう諦めるしかありません。パッケージされて「商品」になった時点で、そこからまずパッションは消えています。それは、商品の「開発チーム」と「量産チーム」でロジックが違うということです。

 我々は開発チームであり、量産チームではないんです。ですが、量産が楽しい人も世の中には大勢いて、そこでは効率が求められて独自のサイクルが生まれています。ですが、その基準で「開発」のことを判断するのはやめてほしいと思います。その意味では、抗う態勢を取らざるをえません。これはアンチではなくて、アゲインスト、カウンターという姿勢で向き合っているんです。1010人でもここは、手放さないように抗っている部分だと思います。

――型(かた)をつくるのか、それをガイドにするのかという視点の違いですね。プロジェクトを続ける、あるいはキャリア形成を考えるという意味でも、後続をつくるための見本が必要な場合はあるとは思うので、そのバランスが難しいと思いました。

森: 本当は、プロジェクトの8割までは型でつくって、2割は常に冒険をするのですが、その2割には、8割と同じだけの時間とお金を使うべきだと考えています。100万円で8割をつくって、残りの2割を100万でつくる。むしろ、その2割のためにさっさと8割までつくれば「今から2割のところで遊べるじゃん」ぐらいに思えるはずです。

 残りの2割に、最初の8割と同じだけの時間とお金を突っ込むとどうなるかというと、オーバークオリティをつくれるんです。つまり、その技量があれば100%を超えて、120%、130%、もっといけば150%ぐらいまでいって、化けたものになります。かつて、みんなはその2割を活動の場にしていたんです。しかし、今ではそうしたお金の使い方は難しいですし、そうした経験を知らない人はもったいない、残念だという気持ちも強いです。

 徹底的につくり込む、めちゃくちゃなことをやる無駄さ。そうした「ずっとやっている無駄」という贅沢を、今の若い方々も、周囲の人も、社会も許さなくなったような気がします。ノイズがなくて、シュッとしていて、サッとやる。これでうまくやれているよね、というようにものをつくる。僕が思うのは、文化にはノイズがないと無理なんだということです。ノイズはいらないとなると、今の完全勝利は100%になることでしかありません。

――難しさはありながら、今でも遊ぶため、飛躍するための2割を残す感覚はアートポイントでも大事にしている印象はあります。

森: その感覚は、そもそものアートポイントのつくりにもいえるんです。東京都やアーツカウンシル東京の事業として10割を目指すとどうしても苦しい。それでも中間支援をするために「NPOはまだプロではない、育成対象だから、3割は失敗してもいい」と言いたかった。7割は成功させるけれど、3割は仕方がないとしなければ、中間支援の仕組みも事業の現場も現実的に回らなかったと思います。

 もし、この7割が6割になってしまうと、あと少しでひっくり返ってしまう。ヒリヒリするけど耐えられるのが7割まで。そういうものだからとせめぎ合って、何を言っているんだと言われ、でもこの塩梅はずっと考えてきました。今の時代には、それがなおさら難しいことになりました。

――管理、あるいは量産する目線に立つと、その7割が許せなかったり、その感覚に抵抗が生まれたりする気がします。

森: この感覚は伝わりにくかったり、簡単に「できていないですね」と見られてしまう場合もあります。普通は8割まで取らないと合格しない、でも7割を取っていれば落第もしません。9割も取ればSやAという評価になるけれど、よほどチームに恵まれていないとそれは難しいことです。9割までいくのかは、ある意味では賭けですよね。神様ですら最後にはサイコロを振るんです。

今こそ文化の意味を問う

――ここまでのインタビューを振り返りながら、あらためて今後の文化事業への眼差しを伺いたいと思います。今日、印象的だったことは、森課長が随所に比喩を通すことで実感を伴うような「ことば」を散りばめていたことです。この「ことば」を使う、つくることへの意識はいつ頃からあったのでしょうか。

森: 最近、教えられて思い出したのですが、2004年の10月にネットTAMで「(壮大な)アートの現場は、(夢を語る)『言葉』ではじまる」というリレーコラムを書いていたんです。

 水戸芸術館にいたときはもちろんですが、このあたりから言葉の存在は強く考えるようになっていました。アートの現場も、アートプロジェクトも、言葉ではじまるんだ、と。我々はアーティストではないので、戦うには言葉しかないという感覚は常にありました。お金をもらうのも言葉ですし、現場をつくるのも言葉、だからこそアートプロジェクトの現場を動かすために、さきほど話したように「ことば本」からつくろうと思ったのです。

『東京アートポイント計画が、 アートプロジェクトを運営する「事務局」と話すときのことば。の本 <増補版>』

――アートポイントもそうですが、同じ言葉でも、見る人によって違う意味に捉えられてしまう。「ことば」をお互いに共有することの難しさは常に付きまといます。

森: ときには消費されないように、あえてわからない状態にしておくことも必要です。昔はわからないように話しすぎてしまい、会議で「森さんは、何をやっているんですか」と言われたりもしました。それでも、心の中では、消費されないことを一番の基準にしていたんです。

――面白い話ですね。これまで森課長が書いてきた文章も振り返ると、言葉を紐解くような所作が多かったように思います。

森: むしろ、通じてしまうと困るときもありますよね。相手にとって都合のいいように理解されると、誤解されたまま、意味を失う。この「消費される」ということが最も危険なんだとも思います。これまで大事に守ってきたものが、一瞬にしてなくなってしまう可能性があります。

 性格や立場によって、判断基準というものはそれぞれに違いますよね。それは、いわゆる「時間」に対する感覚が違うということです。タイムリーであること、オンタイムであることの感覚が違うと、自分の意図とは全く異なる回収のされ方になってしまいます。ここにも時代というか、今はみんなで同じ「時間の波」に寄っているような感覚があります。

――時代の動きに対する文化事業の応答について、あらためてここ数十年を振り返っての印象はいかがでしょうか。

森: 僕の視点で見ていると、アーティストたちは、3.11以前に二度の絶望を目の当たりにしています。一度目が1995年の「阪神・淡路大震災」です。このときには、島袋道浩さんの「人間性回復のチャンス」が、もっとニュースになるべきでした。

 さらに、2001年には「アメリカ同時多発テロ事件」、9.11が二度目の絶望です。このときは、オノ・ヨーコが「Imagine all the people living life in peace」と新聞に広告を出して、2007年には「イマジン・ピース・タワー」を建設したことが大きな出来事です。

 そして2011年に3.11が起きたとき、芹沢高志さんがTokyo Art Research Labの企画「これからの航路に向けて」でも話していましたが、アーティストたちはそれぞれに今につながるアクションを起こします。あるいはアーティストに限らず、思想家たちが文章を書き記すように、それぞれの立場で応答してきた。アーツカウンシル東京でも「Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業/ASTT)」をはじめ、アクションを起こしています。

 そして今、我々をはじめ、アートに関わる人々は世の中に対してメッセージを出すタイミングなのではないか、と思うんです。アートマター、文化マターで生きている人々は、この世の中に何を叫ぶのかが問われている。

 叫ぶという言い方を変えれば、どういう態度で文化事業をつくるのかということです。何においても世の中に訴求することが難しい時代ですが、むしろ以前よりも必要性のある、本当の意味でやりがいのある仕事が文化の領域にはあるんじゃないかと思います。音楽でも贅沢な嗜好品でもなく、好きな人がやればいい受益者負担というかたちでもない、今こそ文化芸術が示さなければならない指針。その態度は、この災間のなかにいても可能なはずです。

――それは個人レベルだけではなく、文化芸術の領域にいるさまざまな組織においても、ということでしょうか。

森: そうですね。文化事業に携わる組織や団体であれば、その議論をするには早すぎるということはないと思っています。

 ですが、すでに決定されたものをこなすことだけが仕事だと思っている人が増えてきていること、それが非常にもったいないと思っているんです。学校の授業では「予測不可能な時代」と言っています。ですが、かたや「基本的には正解がある、その正解に合わせていけ」と言っている。それは僕の思う文化、あるいは評価のあり方とは違います。僕自身、これまでを振り返ると「まだできることがあったんじゃないか」という思いも生まれます。個別に見るといい仕事をしてきたつもりではいます。しかしながら、今の社会に訴求する「文化を語ることば」の用意が足らなかったとも思っています。

――今こそ「人」や「場」、「活動」の意味を再び考えたいのですが、そこで何かをやろうとすると身体も状況も追いつかない感覚もあります。

森: いったい何がそうできなくしているんだろうと考えると、やはり、ひとつは大きな「時代の流れ」でしょうか。僕の体感として、こんな時代になると思っていなかったんです。震災があり、コロナ禍があり、戦争や紛争の報道が流れている。天災と人災が重なって、より不確定な時代に今はいる。

 一方で、新自由主義のなかで個々人により強く責任が委ねられています。社会にはもっと可塑性があるはずですが、さまざまな事柄が決定事項として降ってくる。可塑性のない社会だと、組織の前に人がどんどん病んでしまい、どうにもならなくなって、いつかリセットがかかる気がしています。

 そういう意味では、気が早いようですが「文化」の出番の前夜が来ている予感があります。たとえば、20世紀における世界大戦や世界恐慌のような苦しいときに何かが起きてきた歴史がある。むしろ、こういうときにこそ文化は覚醒するんです。

 だからこそ、火種は絶やさないでいてほしい。それは、戦禍のときにキュレーターが作品を隠して守ったように。薪を焚べられない限りは燃えないですが、そもそも火種がないと無理なんです。祭りでさえ風化するように、物ではないプロジェクトもやり続けていないと風化していきます。今ここで、アートプロジェクトからなる火種を絶やしてはなりません。


>シリーズ「東京アートポイント計画 2009→2026」はこちら

収録日:2026年3月10日
話し手:森司
構成・編集:櫻井駿介

まちなかに必要な「単位」と「ことば」|森司インタビュー 東京アートポイント計画のこれまで(前編)

 2026年3月、都内でNPOとアートプロジェクトを実践してきた「東京アートポイント計画」(以下、アートポイント)が終了します。これまで事業を統括し、組織の中枢から文化事業の現場を見てきたアーツカウンシル東京事業部事業調整課課長の森司が、17年の遍歴を振り返りながら、自身の経験と展望について語ります。

 前編では、自身が東京アートポイント計画に携わるまでの経緯や、当時の時代背景、チームビルディングについて振り返りました。


水戸芸術館からまちに出るまで

――今日はアートポイントに併走し続けてきた一人として森課長にインタビューをさせていただきますが、今でも、森課長へのイメージとして「クリスト展」をはじめ水戸芸術館現代美術センター(以下、水戸芸)でのキュレーションを思い浮かべる人も多いのではないかと思います。

森: 水戸芸は1990年に開館しましたが、その開館準備から関わっていたので、そうしたイメージがあるのだと思います。水戸芸がはじまって以降のキュレーション以外の仕事でいえば、1994年頃には銀本と呼んでいる書籍『社会とアートのえんむすび1996-2000──つなぎ手たちの実践』づくりに取り掛かっていて、1995年には「artscape」の立ち上げに携わり、1996年に開始した「トヨタ・アートマネジメント講座」では美術部門のディレクターを務めていました。

――水戸芸の学芸員、あるいはさまざまな立場で文化事業に携わってきたなかで、アートポイントの立ち上げへのお声がけがあったのはいつ頃だったのでしょうか?

森: はじめて声がかかったのは、アートポイントがはじまる年、2009年のことなんです。当時、本当は僕より10歳ぐらい若い人を探していたみたいですね。そのとき僕は50歳ぐらいだったので、40歳ぐらいの若手枠で探そうとしていた。けれど、東京都と組んで事業を続けていくと考えると、もう少し経験がないと難しいのでは……と、事業の立ち上げに関わっていた東京藝術大学の熊倉純子さんが悩んでいるときに「あ、森さんがいる!」となったみたいです。
 東京アートポイント計画の基礎になる事業「千の見世」の構想は、熊倉先生の研究室が受託し、そこで集められたメンバーがつくっていました。その一人が、当時は芸大の助手で、アートポイントの立ち上げを一緒に担うことになる大内伸輔さんです。

 水戸芸の森として、当時の都の担当者の方々とは面識がありました。2008年の後半、都庁のみなさんが水戸芸へ来て、小さなプロジェクトを動かすイメージについてアーティストの藤浩志さんにヒアリングをしていて。そこに僕と、きむらとしろうじんじんさんも立ち会っていたんです。そういった経緯もあり、あらためて僕が呼び出されたのが2009年2月のこと。そこで「4月から来てください」と言われました。東京都と一緒に事業を進めることに関しては、いい意味で期待も不安もなくフラットな気持ちでいました。新しいことをやるんだ、くらいの心づもりですよね。

 そもそも、2008年に立ち上げられた「東京文化発信プロジェクト」は、あくまで事業ベースではじまっています。事務所がずっとあるかもわからない、時限のあるプロジェクトなので保証があるわけでもありませんでした。

 そうした背景のなか、僕が言われたのは「千の見世」という括りでまちなかで小さなことをやる、つまりは美術館以外がフィールドで、かつ東京の事業だから海外には行けない、ということ。要するに、東京のローカルな部分をやる仕事だと思ってください、と。それで「わかりました」という話になったんですよね。

――そう聞くと、すんなり決まっていったようにも聞こえますが、もともと水戸芸を離れるつもりがあったのでしょうか?

森: 水戸を離れる予定はなかったです。けれど、BankARTを立ち上げた池田修さんが水戸芸に来たとき「そろそろ水戸での活動は続けなくていいかなと思っているんですよ」と一言気持ちを伝えたら「なんか、森が離れてもいいような感じがあるよ」という噂が流れたんです。そこと、熊倉さんからの話がつながっているかはわからないです。とはいえ、気持ちとしては50歳を前に「水戸であと10年か」と思いながら、チャンスがあれば移籍するつもりでいた、というのは正直ありますね。

 当時、水戸芸にいてさえも「まちに出ていくのは美術館の仕事じゃない」と言われました。予算は基本的にホワイトキューブのために使うもので、まちに出るためには、まずは説得してからじゃなきゃ始められない。だからこそ、水戸以外の場所でやってみる、そんなこんなを妄想していた時期でもありました。

――まちに活動を広げる、その必要性を感じたのはいつからだったのでしょうか?

森: 水戸芸でいえば、「カフェ・イン・水戸」をはじめ、まちと美術館との関係をつくるために、本格的に「まちへコミットしなきゃいけないんじゃないか?」と考えていたんです。2010年が水戸芸の20周年で、その記念事業としてまちなかに出られたらと思っていました。その感覚は、取手アートプロジェクト(以下、TAP)に関わっていたから生まれたのかもしれません。特に、2004年から2006年には、熊倉さんと一緒にアートマネージャーを育成する事業「TAP塾」に携わっていた経験も大きいです。

 あとは、藤浩志さんが「森も、まちに出ればいいのに」と言ったのは大きかったのかもしれません。それこそ、僕は学芸員として「クリスト展」を担っていたこともあり、アンブレラ・プロジェクトのような地域に出るアクションも体感していた。そして、何より「プロジェクト」という言葉が僕のベースにはあるんです。ですが、どうしてもホワイトキューブは三次元的に収まってしまい、そこには流れる「時間」がないんですよ。それもあり、時間という概念を含んだプロジェクトや、まちなかに興味を持ち始めていたんです。

まちなかのキュレーターがいなかった時代

――当時の美術の現場では特に、ホワイトキューブによって外の環境からは切り離されることが第一にあり、そこには時間の流れが反映されにくいということですね。

森: そうですね。つまりは、キュレーションによってフレームをつくりそこに物を置くと、会期中にはそれ以上の変化が起きなかったということです。この「変化しない」ということが、美術館の装置としての特性です。ここに「時間」を差し込むとなると、ビデオや映像の尺物が入るくらいしかない時代でした。野村仁さんの企画を水戸芸でひらいたときには、アメリカを横断するソーラーカーのプロジェクトを扱ったことがあり、映像を並べてソーラーカーも置いて、どうにか時間を取り入れようとしましたが、ライブ感のある「時間」は生まれませんでした。

 それで「カフェ・イン・水戸」の様子も見ていると、まさに時間が流れていくまちなかに出るのがいいのでは、という感覚が強くなっていました。アーティストは先にまちに出ている、それならば、これからはキュレーターもまちに出ていいのではないか、と考え始めていたということです。

――たとえば、アートポイントの関係者でいうと、青木彬さんは箱のキュレーターというよりは、むしろまちなかのキュレーターとしてのイメージもありますよね。

森: かれの活動を見ていると、そうした印象を持ちますよね。僕の時代には「まちのキュレーター」とは言えなかった。もし言うのであれば、キュレーターをやめることしかできなかったくらいです。
 キュレーターは大学で養成されるけれど、まちなかのスタッフは養成されない。それもあり、まちなかに出る教科書とするために「Tokyo Art Research Lab」(以下、TARL)をつくって、コンセプトを変えながら続けてきた。書籍『アートプロジェクト:芸術と共創する社会』の原型となる『日本型アートプロジェクトの歴史と現在 1990年→2012年』も、この歩みをまとめて振り返られる資料がないと、本当にアートプロジェクトが何なのかがわからない状態だったからです。

 そうした状況のなか、実際に事業を始めるためにはスタッフを集めなくてはならないですよね。「誰かできる人はいないか」と探し回るのが一番大変だったかもしれません。アートポイントのスタッフもですが、実際にまちで動くメンバーのチームビルディングも難しいものです。TARLという学校にはそうした人を集めるという面もあったのですが、その仕方もTAPからの影響を受けていますね。

――TAP塾には、アートポイントの歴代のプログラムオフィサー(以下、PO)でいうと大内さんや、坂本有理さんもいました。

森: そうですね。現在は弘前で活動しているインストーラーの澤田諒さんもいて、多くの担い手が生まれたように思います。当時は連日合宿して、馬鹿みたいに騒いで、いろいろなことを話しました。今となってはいい思い出です。

「千の結び」からアートポイントまで

――『これからの文化を「10年単位」で語るために ―東京アートポイント計画 2009–2018―』を読むと、アートポイントがはじまったきっかけは、2006年に設立された「東京芸術文化評議会」の議論にさかのぼるとあります。

森: 東京芸術文化評議会は、2007年に第1回の会議が開催され、そこからオリンピックの文化プログラムについての議論が進んでいきます。2008年には議論が具体化し、2016年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた立候補ファイル(プロポーザル)にも、文化プログラムの主力事業として「Festival Tokyo」や「Tokyo Thousands Knots」(トーキョー・サウザンツ・ノッツ/千の結び)が取り上げられました。

 私たちは、東京のポテンシャルを、東京、日本のみならず、様々な価値観や文化の理解・共有による文化の多様性の尊重、さらには世界平和への貢献に役立てたいと考えている。それを推進する舞台として、世界中の人々が参加するオリンピック競技大会ほどふさわしいものはない。2016年東京大会において、私たちは、きわめて斬新かつ野心的な文化プログラムを展開する。
 プログラムの中核は、東京芸術文化評議会の答申に基づく、“Festival Tokyo”に代表される様々な芸術分野のフェスティバルと、“Tokyo Thousands Knots”と呼ばれる人々が文化で出会い、結びあうプロジェクトである。
 (中略)その分野はすべての芸術分野のみならず、まちづくりから福祉、教育をも含み、人々の力によって東京を芸術分野に加えて、生活文化の自由な活動の拠点とすることを目指すものである。

(Tokyo・2016 : candidate city : 立候補ファイル 日本語版/フランス語・英語版のデザインについては、こちらのウェブサイトに記載がある。立候補ファイルのテキスト英語版/フランス語版はこちらのウェブサイト。)

森: 立候補ファイルにも記載がありますが、この「千の結び」と書かれているプロジェクトが、いわゆる「千の見世」構想であり、アートポイントの原型となるものです。

――2009年6月10日の「第6回東京芸術文化評議会」では、立候補ファイルに出てくる「千の結び」についてあらためて紹介があり、そのパイロット事業として「東京アートポイント計画」が取り上げられました。この評議会では実際に森課長が事業説明をしていますね。

森: こうした動きのはじまりには「アーツカウンシル」をつくる、という議論もあったようです。そうした動きが見え隠れする中で、まずはアートポイントとして始めようとなり、僕がその立ち上げに召集され、評議会にも呼ばれることとなりました。

(資料5:東京文化発信プロジェクト「東京アートポイント計画」)

森: 加えて、初期の頃に大きな存在だった事業が「学生とアーティストによるアート交流プログラム(通称、SAP)」です。さまざまな教育機関と連携し、その後のアートポイントにつながる事業も数多く生まれました。SAPの予算も含めると、総額1億円ほどで事業を回せることになり、その後の財源の基準となっていきます。以降、事業再編によってTARLの予算が削られることもありましたが、それでもここまでよく続けられたとも思います。

 アートポイントはいわば、まちなかにオリンピックプログラムの担い手をつくるという役割からはじまった事業です。こうした経緯もあり、今日に至るまで「オリンピック」という言葉が紐づいてきたんです。しかし、それほどに東京都の主力事業としてはじまったはずが、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて「Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13(サーティーン)」が企画公募を始めたときに、良くも悪くもオリンピックプログラムの担い手をつくるというアートポイントのポジションがなくなったという経緯があります。

――そこにはどのような変化があったのでしょうか。

森: アートポイントの活動が見据えているのは、基本的には地道で小さな事業です。ですが、2020年の東京オリンピック・パラリンピックを前に、やはり大きな祝祭のイメージが求められたということもあるのでしょう。オリンピックのために、アートポイントで「結び」を担う必要がなくなったということです。

 実は、小さな事業と言いながら、アートポイントでは初期に「川俣正・東京インプログレス―隅田川からの眺め」という派手に見栄えするプロジェクトにも取り組んでいました。それは、東京都から見た「小さい」を考えると、これぐらいのサイズ感も欲しがるはずだという予見と「まちなかでも我々はこれぐらいのことができるんだ!」と見せておかないと、いつか社会状況のなかで潰れてしまう感覚からでした。屋台規模のこともやるけれど、「ここにいるぞ」とアドバルーンをあげるように、大きく社会に表明する。そうすれば、もし潰れたとしても誰かは見ているだろうという気持ちですよね。

 そうして川俣さんと3つの物見台をつくったあとに、もう一つぐらい「花火」が欲しいと考えていました。それが、六本木という都市を何年も使い続けることとなる「「光の蘇生」プロジェクト-counter void再生をめぐって」と、そこに続く「リライトプロジェクト」です。

――小さなことを意識しながら、事業全体の見え方を戦略的につくっていたのですね。

森: 「Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13」のタイミングで、我々は第一戦の舞台からは降りていました。しかし、そのことによって違う延命の仕方を考えられるようにもなったんです。

 2011年の「東日本大震災」、3.11を受けて「Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業/ASTT)」に取り組んだ影響もあったのでしょう。さまざまな方法で東北に向き合う、そのなかの一つとしてアートポイントのやり方や知見を活かした事業として、その見え方は大きかったのではないでしょうか。

 さらに言えば、僕は「TURN」や「東京キャラバン」という目立たなければならない事業をもう片方の手でまわしていたこともあり、むしろアートポイントはパフォーマティヴにせず、地味で目立たないけれども活動を根付かせるための方針を考えたりしていました。

――状況が揺れ動きながら、2025年度をもって「東京アートポイント計画」は事業を終えますが、さまざまな資料を辿ると、当初から軸になるコンセプトは変えずに続けてきたのだと振り返ることができます。

森: 一周して元祖帰りしている気もしますが、当初からは時代もニュアンスも変化はしつつ、マインドは変わっていません。常に、時代の先を読んできたつもりではいます。そういう意味では「なんか昔から同じことを言っているし、人はあんまり変わんないんだな」と、自分でも思いますね。

 今思えば「千の見世」や「千の結び」というのも、勢いをつけるキャッチフレーズにも見えます。本当に1000のプロジェクトをつくるのは難しいですが、1000人以上の人のなかには「それぞれのアートポイントのイメージ」がある気がする。そういう意味では非常にバーチャルで、レトリカルな言い方かもしれません。

 アートポイントでの共催が終わったあとにも続いている活動があったり、TARLの関係者がいたり、資料が参照されたり、これまでのプログラムオフィサーがそれぞれに活躍していたり。事実として、まちなかで事業を続けることの一つのありようやイメージは提示できたのではないでしょうか。

――これまでのアートポイントの共催事業を見ると、本当にさまざまなバリエーションで提示してきたように思います。

森: それで言うと、特に2022年度から始めた3つの共催事業「カロクリサイクル」「KINOミーティング」「めとてラボ」は、今の時代を象徴するプロジェクトだと思います。それぞれが秘めていたエネルギーや経験を固め、ひらく場をつくることでここまで来た印象です。そうしたエネルギーを流していくような作業が POの仕事としてもあるのですが、これは教えられるものではないという難しさも感じています。

第五福竜丸の展示を見る15人くらいの参加者のグループの様子
カロクリサイクルによるワークショップ「記録から表現をつくる」
KINOミーティングによるオムニバス映画『オフライン・アワーズ』制作風景
めとてラボのメンバーによるミーティング風景

まちなかで活動するためのオペレーティングシステム

――アートポイントを始める当初、POにはどのような人材を求めていましたか?

森: まずはアートの知見があること。そして、現場の知見があること。それは一人がすべてを持っている必要はなく、チームとして活動しているので、そこで有用な何かを持っていればいい。対して、いわゆるキュレーター思考の人は場違いになると思っていました。

 僕自身の経験もあり、キュレーターになりたい人が求めていることはここでは何一つできないとわかっていたんです。今で言えば、美術館側だとしても、アートに関する教育普及や、まちなかで何かをやりたいとか、そうした経験を求めている人であれば関われるのかなとは思います。

 美術館専門のキュレーターが、まちなかでできるかといえば、僕は基本的にはできない。むしろ、まちなか専門の立場があるべきだと思っています。その意味においても、POは専門性をもった集団でもあるわけです。それでも、身体が慣れるまでは数年はかかるでしょう。僕も立場を変えてから3年ほどは美術館の感じが抜けなかったんです。

――それは態度や、チームの雰囲気づくりのようなことでしょうか?

森: オペレーティングシステム(OS)、つまりはやり方みたいな話ですね。どうしても事業にベストを求めようとするけれど、ここにいる限りベストは求めようがないものです。要するに、大リーガーのようにトップクラスの人が集り、トップのプレーをするという場所ではなく、さまざまな人が集まってつくるからやり方そのものが違います。ここでは自分の知っているやり方ではできないとわかっているんだけど、いざジャッジをするときにはキュレーター的な目線というか、癖のようなものが当初は抜けなかった。

 「戦う」という言葉は良くないけれど、20年間キュレーターをやってきた経験からの僕の身体、向き合い方のデザインがすでにあるんです。そこから思考も振る舞いもまちなか用にしなくてはならない。たとえば、印刷のクオリティひとつとってもそうです。こうじゃないといけない、という判断基準や、美術館として求めるようなこだわりを、今までとは違うこだわりに置き換えていく。その作業に3年はかかったということですね。

 あと、一番大きいのは「自分で決めない」ことでした。あるいは決め方を託していくときに、多様性がある方が、ここではいいはずです。少しずつその感覚になってきたとは思いつつ、それでもまだ僕自身は何かを握っている感覚もあります。ですが、それは美術館という装置側の握りではなく、「芸術文化活動ってこういうもんだよね」というもの。そこの握りは相変わらず強いなとも自覚しています。

――森課長から以前、まちには学芸員もキュレーターもいなかったからアートマネージャーが必要だったんだ、という話を聞いたことがあります。実は、その体感をもったうえで活動を仕掛ける人は少ない気がしました。まちなか出身者には、美術館の動きをなかなか自分語りにできないし、美術館からまちにフィールドを変えるキャリアも珍しいですよね。

森: なかなか見かけないですよね。美術館という装置での振る舞いは「総合病院」のようなものだと思っています。総合病院には総合病院のやり方があって、一方で、町医者には町医者の治療の仕方がある。同じ医者という立場でも、専門性や気遣いの質は違うので、それぞれに得手不得手があるはずです。

――POの顔ぶれによる変化もあったのではないでしょうか?

森: もちろん、雰囲気の変化はとても大きかったです。2011年、2012年までが、とにかく突き進んだ第一ロケットという感じで、POたちも正解がわからないまま、たくましく突き進んだ印象です。そこから第二ロケットにつながり、2015年、2016年には、今や美術館ではないアートフィールドの担い手になるPOが増えた印象ですね。そこには、2015年に「東京文化発信プロジェクト室」と「アーツカウンシル東京」が組織統合している影響もあると思います。東北では嘉原妙さん、沖縄では上地里佳さん、広報のフィールドでは中田一会さん。この変化のなかで修行をして、旅立ってからも各地で自分の現場をつくる流れが生まれた気がします。

――初期のメンバーはもちろんですが、たとえば吉田武司さんや長尾聡子さんは「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」(以下、音まち)を実施するNPOに所属して現場を動かしています。フリーランスとして、岡野恵未子さんも音まちに関わっていますね。そのように一度POになった人が、いまでは各地の現場で活躍していることは多いですよね。

森: POという立場と、まちなかの現場は、どちらから行き来しててもいいと思っています。中間支援向きの人になるか、現場向きの人になるかという判断の違いは、その人の性格や、自分で何をいじりたいのかによって変わる気がしますね。

 そのうえで、POの顔ぶれによって雰囲気やできること、戦力のバランスが変わるというのは、高校球児の監督のような目線で都度引き取っていたので、そのこと自体に違和感はありませんでした。

「単位」と「ことば」で現場をつなぐ

――POの顔ぶれが変わるなかでも、今に至るまで一貫して求めてきたことはありますか?

森: たとえば美術史を知っていても、現場の言葉や視点を知らないことがあります。たとえば印刷の話で言えば、ノンブルであったり、色校正であったり、ひとつの冊子をつくるために必要な知識やフローがあるはずです。組織で、そうした現場の動きを身体化できる人を育てられるのか、という問いは、今も持ち続けています。

 振り返ると、POに対してキュレーター的な目線を少しいれていることもありました。「Art Support Tohoku-Tokyo」(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)では、佐藤李青さんを担当者として変えませんでした。僕の思いとしても、しっかり10年間、出来事を目撃してまとめる人が必要だと考えたからです。ほかのスタッフに対しても同様ですが、何か得意なことがあれば、そのスペシャリストになるという選択はあるはずです。

 一方で、ジェネラリストへの期待や必要性が大きくなっています。そのバランスを考えるなかで、POがスタディマネージャーとして現場に伴走する「東京プロジェクトスタディ」を2018年に開始しました。要するに、以前はもっと大騒ぎして現場をつくっていたけれど、そうした経験がアートポイントのなかでも格段に減っていた。そこでもう一度自分たちも学ぶ場をつくろうと、PO自身の演習も兼ねて始めた企画だったんです。その後、社会状況の変化も踏まえて、小山冴子さんがPOとして担当する「新たな航路を切り開く」をP3 art and environmentの芹沢高志さんと立ち上げた経緯があります。

――POの動き方や、アートポイント、TARLという事業のなかでの現場のつくりかたがその都度試みられてきたのですね。

森: 組織としても、スタッフどうしで悩みを話し合ったり、実際に動かせる裁量権があったりすると風通しが良いですよね。アートポイントは、小さいなりに裁量権をもつフレームのなかで動かせたんじゃないかという自負心はあります。

 現状を見直して、計画を変えることのできる自由度。それは可塑性が高いということです。決められたことを執行するのではない、推進するだけではなく、調整をする。それができていたことには大きな意味はあるはずです。

2025年度 プログラムオフィサー

森: 事業のつくりについても、その都度考えていました。ひとつの文化事業には、大小さまざまな組織や担当者が複雑に関わっています。これはさまざまなケースで言えることですが、事業を一緒に進めてきたパートナーが「静かな敵」になる経験をした人は多いのではないでしょうか。それはつまり、相手の思い描くものを超えた瞬間に「そこまでやる必要はないのでは」という抵抗勢力になり得るということです。

 それでも、敵は味方になることもあるので、調整を続けながら、社会にはなるべく存在を出しておくんです。どこかに反応して、思わぬ効果が生まれることもある。アドバルーンの例えをしましたが、はたから潰れたことがわかるようにしておけば、どのように転んだとしても何らかのメッセージを出せますよね。とはいえ、川俣さんのプロジェクトほど大きいものばかりではないので、まちなかの小さなプロジェクトがどのようにアドバルーンをあげておくのかは、個別に考えなければなりません。

――とはいえ、アドバルーンが潰れないように現場の人々をつなぐ必要もありますよね。そのために、特に重要な技術は何だと思いますか?

森: たとえば、美術史を学べば作品の解釈はできるかもしれませんが、僕は具体的な「単位」でお互いに話をしてほしいと思っています。作品の解釈ができたとしても、重さや実寸がわからなくて、仮設壁に掛けると荷重に耐えられず展示ができない事態になる。わかっていればインストーラーたちが事前に補強できます。そうでないとペラペラの壁の用意しかない状況が生まれてしまう。現場ではそういう掛け違いが、実際に起きたりするんです。

 『東京アートポイント計画が、 アートプロジェクトを運営する「事務局」と話すときのことば。の本』をつくったのも、そのように「ことば」が現場でズレていたからでした。アートプロジェクトの現場のように、特に日常に近い事業だと、日常の言語のままバトンのように思考を手渡せると思ってしまいそうですが、実際にはそうはいかない。やる気だけではできない、共有できる「ことば」がないと事故が起きてしまう感覚は、もともと美術館にいたり、TAPでの経験もあったからだと思います。

――「単位」や「ことば」をつかって、すぐさま考えたり判断することは、まちなかではことさら必要な技術だという実感がありますね。

森: そうです。それは、まちが「装置産業」ではないからですよね。でも、最近はアートプロジェクトも「疑似装置産業化」している弊害がでてきていることもあり、僕は「これまでのようなアートプロジェクトは終わる」と思っているんです。


>レポート後編はこちら
>シリーズ「東京アートポイント計画 2009→2026」はこちら

収録日:2026年3月10日
話し手:森司
構成・編集:櫻井駿介

東京アートポイント計画 2009→2026

東京アートポイント計画の17年

 東京アートポイント計画は、東京都の文化政策として提案された「千の見世」を事業化するかたちで2009年に始動しました。地域社会を担うNPOと、東京都、アーツカウンシル東京、都内の自治体などと共催し、社会に新たな価値観や創造的な活動を生み出すべく、約17年にわたり都内各所でアートプロジェクトを実施。2024年からは、これまでの経験をいかし、都内の自治体との連携を強化するため東京都・区市町村連携事業にも取り組みました。

 東京アートポイント計画は、事業再編に伴い2026年3月31日に事業を終了します。また、アートプロジェクトを実践する人々のためのリサーチプログラムとして2010年にはじまり、現場の課題や社会状況に応答しながら学びの場をひらいてきたTokyo Art Research Labも事業を終了します。
 
 このプロジェクトは、これまでの事業変遷を振り返る資料やオーラルヒストリーをまとめながら活動を綴じ、継承を試みるものです。

※文化事業の担い手のためのプラットフォーム「tarl.jp」は、2026年3月31日をもって更新を終了しますが、ウェブサイトへのアクセスは維持し、蓄積した資料、人々、レポート、年表などのコンテンツは引き続きご活用いただけます。

東京アートポイント計画の実績

東京アートポイント計画の概要

 アーツカウンシル東京が実施する「東京アートポイント計画」は、地域社会を担うNPO(※1)とともに、社会に対して新たな価値観や創造的な活動を生み出すためのさまざまな「アートポイント」(※2)をつくる事業です。 

 当たり前を問い直す、課題をみつける、異なる分野をつなぐ――そうしたアートの特性を活用し、実験的なアートプロジェクトをとおして、個人が豊かに生きていくための関係づくりや創造的な活動が生まれる仕組みづくりに取り組んできました。

 また、そうした活動が継続するための環境整備にも力を入れてきました。東京アートポイント計画の現場にある課題や視点に伴走し、時代に応答した担い手づくりを続けてきた事業「Tokyo Art Research Lab」では、さまざまなプログラムやウェブサイトを運営。また、東京アートポイント計画の参加団体が広報やネットワークづくりなどの実務的な課題について共有する「事務局による事務局のためのジムのような勉強会(通称:ジムジム会)」、アートプロジェクトに関心を寄せる人々が集うイベント「Artpoint Meeting」などを実施。2024年には、これまでの手法やネットワークを活かすかたちで「東京都・区市町村連携事業」の所管が移行・統合しました。

 そして2026年3月31日をもって、東京アートポイント計画は事業を終了します。また、アートプロジェクトを実践する人々のためのリサーチプログラムとして2010年にはじまり、現場の課題や社会状況に応答しながら学びの場をひらいてきたTokyo Art Research Labも事業を終了します。

※1:NPO法人のほか、一般社団法人、社会福祉法人など非営利型の組織を含みます。
※2:アートポイントとは、アートプロジェクトが継続的に動いている場であり、その活動をつくる人々が集まる創造的な拠点のこと。アーティスト、運営スタッフ、ボランティア、参加者などさまざまな担い手により「アートポイント」は形成されると考えています。

>東京アートポイント計画の特徴はこちら

東京アートポイント計画のことはじめ

 東京アートポイント計画は、東京都の文化政策として提案された「千の見世」を事業化するかたちで2009年に始動し、これまで約17年にわたり都内各所で63団体と50の事業を実施してきました

 2019年3月に発行した『これからの文化を「10年単位」で語るために ―東京アートポイント計画 2009–2018―』には、東京アートポイント計画のはじまりについて次のようにあります。

東京アートポイント計画が発足したきっかけは、2006年に設立された「東京芸術文化評議会(以下、芸文評)」での議論にさかのぼる。芸文評は、東京都における文化振興のための施策に対する政策提言を行う知事の附属機関であり、招致が決定したオリンピックにおける文化プログラムの検討がはじまっていた。そこで話されていたのは、いかに多様な「文化の結び目」をつくり、世界に発信していくかということだった。当時2012 年に開催が決定していたロンドンオリンピックでは、「文化プログラム」を重視。スポーツを文化・教育と融合させ、生き方の創造を探求するというオリンピック精神に則り、文化プログラムによって未来に「レガシー(遺産)」を残すために何ができるかが求められていた。そして、都が国際オリンピック委員会(IOC)に対して提案した「立候補ファイル」に盛り込まれていたのが〈千の見世〉プロジェクトである。

 このアイデアをまとめたのが、東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科熊倉純子研究室だった。都と東京都歴史文化財団からの受託研究を受け、都市をまるごと使った〈千の見世〉という事業案を提出。これは、「見世」や「屋台」のような交流拠点が東京のあちこちに出現し、「千の結び目」をつくるという、新しい文化事業の姿を描いたものだった。世界を意識したからこそ、日本的なありようを考案したのである。熊倉は「1964年の東京オリンピックが首都高などのインフラをまちに残したように、今度は文化のインフラを残したい」という想いがあったと語る。

 また、市民とアーティストをつなぐ専門スタッフの重要性、継続して文化事業を展開していくための恒常的な事務局設置の必要性、将来的に「アーツカウンシル」の雛形になることにも言及されていた。2008年8月の芸文評の部会資料では「単なる文化事業から、総合政策としての文化へ。文化政策及び文化事業に係る経費を、単なる経費としてではなく、“未来社会への投資”と位置づけ」と明確に書かれている。 そして、この構想を東京都と東京都歴史文化財団が「東京文化発信プロジェクト」の一環として事業化することになったのである。

出典:『これからの文化を「10年単位」で語るために ―東京アートポイント計画 2009–2018―』p.73「これまでの歩み 2008→2018 オリンピックと文化、世界の流れ」)

また、同書には「千の見世」の基本実施計画案の一部が掲載されています。

出典:『これからの文化を「10年単位」で語るために ―東京アートポイント計画 2009–2018―』(p.74-75「[参考資料]東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科熊倉純子研究室「はじめに」『受託研究 市民参加交流型アートポイント計画事業構築に向けた実施計画(平成20年度)〈千の見世〉基本実施計画案』2009年3月31 日」)

事業年表

2006年度

  • 「東京芸術文化評議会」が設立され、2007年3月13日に「第1回 東京芸術文化評議会」が開催。オリンピック文化プログラムの検討が開始。第1期東京芸術文化評議会には、専門委員として、太下義之、熊倉純子らが参加。

2008年度

  • 財団法人東京都歴史文化財団に、「東京文化発信プロジェクト室」が設立。

2009年度

  • 東京文化発信プロジェクト室にて、東京都の文化政策として提案された<千の見世>を事業化し、「東京アートポイント計画」として始動。
  • 2009年6月10日「第6回 東京芸術文化評議会」では、2016年東京オリンピック・パラリンピック招致のための立候補ファイルに掲載された「千の結び(Tokyo Thousands Knots)」について紹介があり、そのパイロット事業として「東京アートポイント計画」が取り上げられ、評議会の場で森司が事業説明をおこなう。
  • 学生とアーティストによるアート交流プログラム(通称、SAP)を開始、2010年度まで実施し、その後の東京アートポイント計画につながる事業が生まれる。

2010年度

  • アーツ千代田3331に、レクチャーやアーカイブなどの拠点「ROOM302」を開室。アートプロジェクトを実践する人々のためのリサーチプログラム「Tokyo Art Research Lab(TARL)」が始動し、「つくる」「支える」「評価する」「伝える」「記録する」の5つのカテゴリーで、10講座を開催。

2011年度

  • 東京アートポイント計画の手法を活用した東日本大震災の復興支援事業として「Art Support Tohoku-Tokyo(ASTT)」が始動。

2014年度

  • TARLの一環として「思考と技術と対話の学校」を開校。アートプロジェクトを動かすためのマネジメントの基礎を3年かけて学ぶ「基礎プログラム」を軸とした、通年のスクールプログラムを開始。

2015年度

  • 東京文化発信プロジェクト室が「アーツカウンシル東京  」と組織統合し、東京アートポイント計画は「芸術文化創造・発信事業」として、TARLは「人材育成事業」として位置づけられた。

2016年度

  • 東京アートポイント計画において、新規共催団体の公募を開始。
  • TARLではアートプロジェクトを担うすべての人のための「使えるラボ」を目指し、ウェブサイトをリニューアル。

2017年度

  • TARL「思考と技術と対話の学校」はコンセプトを新たに「“動かす人”から“紡ぐ人”の育成へ」とし、アートプロジェクトを他者に伝えるためのことばや体験づくりの技術を養うプログラムを開催。

2018年度

  • TARL「思考と技術と対話の学校」にてアートプロジェクトをつくる技術に力点を起き、「レクチャー」「ディスカッション」「スタディ」シリーズを始動。その中心的なプログラムとなる「東京プロジェクトスタディ  」では、“東京で何かを「つくる」としたら”という投げかけのもと、ナビゲーターと、公募で集まったメンバーがチームとなりスタディ(勉強、調査、研究、試作)を重ねる。

2019年度

  • これまで活動してきた知見をまとめた書籍『これからの文化を「10年単位」で語るために−東京アートポイント計画 2009-2018−』を発行。

2020年度

  • 2021年3月、被災地支援事業「Art Support Tohoku-Tokyo(ASTT)  」が終了。
  • ROOM302に映像の収録・配信ができるスタジオ「STUDIO302」を開設。

2021年度

  • 2022年2月、東京アートポイント計画にて、社会情勢への応答や来るべき社会への準備として「多文化・共生・コミュニケーション」「災間・減災・レジリエンス」という2つのテーマを設けて新規共催団体の公募を実施。

2022年度

  • TARL「思考と技術と対話の学校」の後継として、ウィズコロナ時代以降のアートプロジェクトに応答した学びの場づくりや、これから必要な技術について考える研究・開発、資料やプロジェクトの公開を軸としたウェブサイトの改修などに取り組む。
  • 2023年3月、約10年にわたり東京アートポイント計画の活動拠点として運営してきたアーツ千代田3331「ROOM302」が閉室。

2023年度

  • TARLをアーツカウンシル東京の人材育成事業から、東京アートポイント計画のインキュベーション機能として位置づける。それに伴い、東京アートポイント計画とTARLのウェブサイトを統合。

2024年度

  • 2024年4月、東京アートポイント計画のこれまでの手法やネットワークを活かすかたちで、2023年度からはじまっていた「東京都・区市町村連携事業」の所管が移行・統合。
  • 2025年1月、「年表を作る 2011年以降のアートプロジェクトを振り返る」の一環として、2022年度より制作を進めてきた年表をTARLウェブサイトにベータ版として公開。

2025年度

  • 2025年11月、ユーザビリティの向上や、プラットフォームとしての機能を拡充すべくTokyo Art Research Labウェブサイトを「tarl.jp」としてアップデート。
  • 2026年3月、「東京アートポイント計画」および「Tokyo Art Research Lab」が事業を終了。

共催事業一覧/変遷

東京アートポイント計画は2009年度から2025年度までの約17年間に、63団体と50件のプロジェクトを連携・実施してきました。

* 年間約100件のプログラムを実施
* 東京都・区市町村連携事業を含む

>共催事業の変遷はこちら(PDF)

共催団体数(2009~2025年度)|63団体

  • NPO :46
  • 基礎自治体 :12(豊島区、荒川区、練馬区、足立区、小金井市、三宅村、国立市、西東京市、中野区、府中市、国分寺市、港区)
  • 大学 :1(東京藝術大学音楽学部・大学院国際芸術創造研究科)
  • 財団 :4(公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、公益財団法人くにたち文化・スポーツ振興財団、公益財団法人港区スポーツふれあい文化健康財団、公益財団法人仙台市市民文化事業団)

共催事業数(2009~2025年度)|50事業

Tokyo Art Research Lab受講生数|約2000名

企画アドバイザリー委員会(2009~2014年度)

  • 太下義之(2009~2014)
  • 青木淳(2009~2014)
  • 港千尋(2009~2014)
  • 熊倉純子(2009~2010)
  • 藤浩志(2009~2010)
  • 小山田徹(2011~2014)
  • 帆足亜紀(2011~2014)

外部評価委員(2011~2023年度)

  • 芹沢高志(2011~2023)
  • 帆足亜紀(2015~2016)

共催団体評価・選定会議委員(2015~2025年度)

  • 太下義之(文化政策研究者)
  • 小山田徹(アーティスト/京都市立芸術大学 教授)
  • 西村佳哲(プランニング・ディレクター/リビングワールド 代表)
  • 荻原康子(「隅田川 森羅万象 墨に夢」 統括ディレクター)
  • 竹久侑(水戸芸術館 現代美術センター 芸術監督)

負担金(予算)の推移

>事業費の変遷はこちら(PDF)

東京アートポイント計画ディレクター/歴代プログラムオフィサー

ディレクター

  • 森司[もり・つかさ/2009~2025]

歴代プログラムオフィサー(所属年度) 総勢27名

  • 大内伸輔[おおうち・しんすけ/2009~2023]
  • 渡辺真也[わたなべ・しんや/2009]
  • 石田喜美[いしだ・きみ/2009~2010]
  • 橋本誠[はしもと・まこと/2009~2011]
  • 坂本有理[さかもと・ゆり/2010~2021] ※2022年度から社会共生担当
  • 佐藤李青[さとう・りせい/2011~2025]
  • 芦部玲奈[あしべ・れいな/2011~2016]
  • 井尻貴子[いじり・たかこ/2012]
  • 長尾聡子[ながお・さとこ/2012~2013]
  • 熊谷薫[くまがい・かおる/2012~2013]
  • 三田真由美[みた・まゆみ/2013~2015]
  • 吉田武司[よしだ・たけし/2014]
  • 古屋梨奈[ふるや・りな/2015]
  • 中田一会[なかた・かずえ/2015~2017]
  • 嘉原妙[よしはら・たえ/2015~2021]
  • 上地里佳[うえち・りか/ 2016~2020]
  • 村岡宏太[むらおか・こうた/2017~2018]
  • 岡野恵未子[おかの・えみこ/2018~2022]
  • 村上愛佳[むらかみ・まなか/2019~2021]
  • 雨貝未来[あまがい・みき/2020~2021]
  • 櫻井駿介[さくらい・しゅんすけ/2021~2025] ※2024年度から財団固有正規職員
  • 小山冴子[おやま・さえこ/2022~]
  • 川満ニキアン[かわみつ・にきあん/2022~2025] ※2026年度から社会共生担当
  • 入江彩美[いりえ・あやみ/2021~2023]
  • 大川直志[おおかわ・ただし/2024~]
  • 岡本絢子[おかもと・あやこ/2024]
  • 若山萌恵[わかやま・もえ/2025~]

>シリーズ「東京アートポイント計画 2009→2026」はこちら

シネマポートレイト やりかたハンドブック

“海外に(も)ルーツをもつ人” との映像制作プロジェクトを展開するKINOミーティングが開発したワークショップ「シネマポートレイト」を紹介するハンドブックです。[やりかた編]ではワークショップのやりかたを解説し、[ポイント編]ではKINOミーティングがこのワークショップを開発するなかで見つけた重要なポイントをまとめています。
多様なルーツの人が集う場で、クリエイティブな活動を取り入れたいと考えている人は、それぞれの状況に応じて、このハンドブックを自由に活用してください。
※アコーディオン折り20面のパンフレットです。資料室では、2面ずつに分割したデータをダウンロードいただけます。

同じ場所を眺めていても、自分と異なるルーツをもつ人とでは、見えている風景が異なることがあります。KINOミーティングでは、その差異を、多様なルーツをもつ人たちと関わることの豊かさと捉えています。それを「協働」のなかから発見し、「表現」することで共有することを目指しています。

(ポイント編 P.1)
目次

はじめに

 

やりかた編
シネマポートレイトとは
準備するもの
①ミーティング
②撮影+録音
③編集
④上映

 

ポイント編
異なるルーツをもつ他者との協働と表現
①作品をつくる
②役割を交換する
③みんなで現場をつくる

「信頼」の先に広がる、自走的な活動とネットワーク。3地域の事例から「つなぎ手」とパートナーの関係を考える(APM#17 後編)

アートプロジェクトを運営するなかで生まれる悩みや気づき、言葉にしにくい問題意識を言語化し、参加者と共有するトークシリーズ「Artpoint Meeting」。第17回が、2026年1月18日、東京都墨田区の「YKK60ビル」を会場に開催されました。

墨田区のアートプロジェクト「隅田川 森羅万象 墨に夢」(通称、「すみゆめ」)と連携してひらかれた今回のテーマは、「コミュニティに伴走する、“つなぎ手”のはたらき」。地域で活動するさまざまな立場の人々との協働には、かれらとの関係を柔軟かつ創造的に結ぶ「つなぎ手」の存在が不可欠です。今回は、いずれも地域に広く深く入り込み、関係性の網の目を紡いできた実践者たちの言葉を頼りに、この役割のあり方を考えます。

ゲストは「信州アーツカウンシル」ゼネラルコーディネーターの野村政之(のむらまさし)さん、「アーツカウンシルしずおか」プログラムコーディネーターの立石沙織(たていしさおり)さんと同アシスタントコーディネーターの若菜ひとみ(わかなひとみ)さん。また、「すみゆめ」統括ディレクターの荻原康子(おぎわらやすこ)さん、東京アートポイント計画ディレクターの森司も登壇し、プロジェクトのなかで感じる実感や課題を共有しました。イベント当日の模様を、ライターの杉原環樹がレポートします。

(取材・執筆:杉原環樹/編集:永峰美佳/撮影:池田宏*1-4、10-22枚目)

レポート前編はこちら>
「信頼」の先に広がる、自走的な活動とネットワーク。3地域の事例から「つなぎ手」とパートナーの関係を考える(APM#17 前編)

トークセッション2のゲスト、左から野村政之さん、立石沙織さん、若菜ひとみさん。

トークセッション2(続き)
余白と一任が生む、自発的な活動。アーツカウンシルしずおかの「マイクロ・アート・ワーケーション」

続いて、アーツカウンシルしずおか(以下、ACしずおか)の若菜ひとみさんが登壇し、2021年にスタートした「マイクロ・アート・ワーケーション(MAW)」という取り組みについて紹介しました。

トークセッション2の後半がスタート。

ACしずおかは、静岡県文化プログラムのレガシーとして2021年に設立。「視点を変える、発想をひらく」をキャッチコピーに、住民主体のアートプロジェクト支援や、士業や5人の専門スタッフによる無料相談、高齢者の表現活動支援、空き家活用をはじめとする多分野連携事業など、多岐にわたる取り組みを展開しています。そのなかでMAWは、「アーティストと地域住民の出会いを創出する」事業として位置づけられています。

これは、アーティストが「旅人」となり、地域の「ホスト」のもとへ6泊7日滞在するプログラムです。これまでに延べ209名の旅人が66のホストのもとを訪問。参加する表現者のジャンルは問わず、キュレーターなど裏方の人材も対象とする点も特徴的です。旅人には滞在中の様子を毎日プラットフォーム「note」に綴ってもらいますが、字数制限はなく、写真1枚でも可とするなどハードルを下げています。費用面では、旅人には活動費・宿泊費を1泊あたり1万7600円、ホストには協力費として1団体あたり5万円を支給しています。

プレゼンテーションを行う「アーツカウンシルしずおか」アシスタントコーディネーターの若菜ひとみさん(左)。「マイクロ・アート・ワーケーション」は、先行事例として2020年スタートの伊勢市「クリエイターズ・ワーケーション」などを参考にして始められた。

若菜さんはこの事業の特質として、「成果物を求めない」ことを強調しました。滞在が短期間であることも理由の一つですが、それ以上に「出会い・滞在のプロセス」そのものに価値を見出しているためです。また、マッチング以降のやりとりは基本的に「ホスト主導」で進められ、地域側に委ねられます。興味深いのは、その結果、ホストと旅人が意気投合し、これまでに20以上ものプロジェクトが自発的に誕生していることです。

ここで若菜さんは、「MAWでは誰がつなぎ手なのか?」と問いかけ、事業プロセスからその構造を紐解きました。

まず事務局が、ホストと旅人を募集します。後者については、2025年には全国から170名の応募がありました。重要なのはここからで、事務局はマッチングまでは主導しますが、それ以降の滞在調整や事前打ち合わせ、実際の滞在の主導権はホストに委ねます。何かあった際のサポート体制は整えつつも、基本的に「見守る」スタンスを貫くのです。

焼津市の「みんなの図書館 さんかく」でのマイクロ・アート・ワーケーション(2022年)の様子。

あえて事務局が一歩引く理由について若菜さんは、「『あの人がいないと回らない』という場は脆(もろ)いから」だと語ります。事務局が抜けても関係が続く設計にし、かかわる人々が受け身にならない仕組みをつくる。その結果、特殊な職能をもつ人ではなく、主体的に動きはじめた人たち自身が次なる「つなぎ手」になるケースが生まれているのです。

ホスト、事務局、旅人それぞれがつなぎ手となった事例も紹介されました。例えばホストがつなぎ手になった事例では、御殿場市の「富士山文化ハウス」が挙げられます。ここでは新たな旅人が来るたびに過去の参加者(OB・OG)に声をかける「MAW同窓会」が定例化。参加者が友人を連れてくるなど、ホストを起点としてコミュニティが自然に芽吹いており、地元住民もMAWを認識し馴染んでいるというホストの声も紹介されました。

「MAW同窓会」が行われている御殿場市の「富士山文化ハウス」。

次に事務局がつなぎ手になった例ですが、若菜さんの見せた写真には、あるエリアの旅人とホスト、そして同時期に他エリアに滞在する旅人が写っています。このように、事務局の提案で、ある滞在エリアに別のエリアの旅人をいざなうケースがあります。ただ、その際には強制にならないことを注意していると若菜さん。それは、お金を支給する側とされる側という、縦のつながりでつくられた関係は事業が終われば消えてしまうのに対し、対等な横のつながりをめざしているからです。

あるエリアの旅人とホストとともに、他エリアに滞在する旅人が一緒に活動している例。

最後に旅人がつなぎ手になった例として、浜松市・龍山での話が紹介されました。旅人のアーティストが描いた地蔵堂の絵のポストカードを地域住民に渡したところ、住民は「あなたに見せたいところがある」と2時間も案内してくれたと言います。旅人の介在によって、地元の人も気づいていなかった地域の魅力や一面が引き出されたのです。

龍山地域の多くは森林に覆われた中山間地。想定外のつながりが生まれた「龍山未来創造プロジェクト」。

目的は、地域の人々のアートコンプレックスを溶かすこと

若菜さんはこうした具体例を踏まえ、事業の本質と成果の関係をあらためて「つなぎ手」という視点から分析しました。第一に、「成果物を求めない」という方針は、単にハードルを下げるだけでなく、旅人の活動に余白を生み出し、それがつなぎ手としての活動を活発化させる要因になっています。また、プロセスの重視や「ホスト主導」の方針は、事務局主導のイベントで終わらせず、関係性が自走し続ける仕組みとして機能しています。

先述の通り、MAWでは滞在後に20以上のプロジェクトが生まれていますが、特筆すべきは、その内10件が、ACしずおかの「文化芸術による地域振興プログラム」という、より規模の大きな助成事業へと申請・採択されている点です。

例えば、湖西市の「NPO法人新居まちネット」は、もとはアーティストとは距離のあった団体でしたが、MAWを経て自主企画でのアーティスト・イン・レジデンスを実施するまでに発展。また、アーティスト側にも、以前まで苦手だった他者との連携が、楽しいものに変わったという、心境の変化があったと言います。若菜さんは最後に、こうした心や関係性の変容こそがMAWの成果だと語りました。

湖西市で自主企画によりアーティスト・イン・レジデンスを実施している「NPO法人新居まちネット」。

発表後のやりとりでは、佐藤が「成果物を求めないならば、もともとの目的はなんだったのですか?」と問うと、MAWの立ち上げからかかわるACしずおかの立石沙織さんが、「地域の人々のアートへのコンプレックスを溶かすことが最大の狙いだった」と説明。アートと聞くと敬遠される現状に対し、いきなり共創をめざすのではなく、まずは食事や会話を通じて「アーティストも同じ人間」と肌で感じてもらうことが目的だったと語りました。

「アーツカウンシルしずおか」プログラムコーディネーターの立石沙織さん(右)。

また、「地域側のホストは自然に手が挙がるものなのか」という問いに対しては、「待っていても手が挙がらない地域もある」と若菜さん。そうした地域には、事務局が自ら出向いて行政に紹介を仰いだり、小さな活動の兆しを見つけて直接声をかけたりする「すくい上げ」が不可欠だとし、事務局による能動的なアプローチの重要性を共有しました。

他分野のニーズへのアプローチと、行政の悩みを聞くことの重要性

それぞれの発表が終わったあとは、佐藤進行のもと、若菜さん、立石さん、そして野村さんが加わったトークセッションが行われました。

トークセッション2の登壇者3名による議論がスタート。

まず議論になったのは、「資金を提供する側」としてのふるまいと、成果の求め方についてです。この点について野村さんは、「成果を先に定めてしまうと、事務局側がそこへ誘導しすぎてしまい、担い手の自発性を待てなくなる」と指摘。あえて「あなたの主体性でやってください」と伝え続けることが、結果として活動の継続性につながると語ります。

これに若菜さんも同意し、静岡では「最初の3年間は事務局が介入せず、あえて見守りに徹した」経験を共有。ある程度の活動期間を経て、ホストや旅人からもっと人と出会いたいというニーズが芽生えた段階で初めて、事務局が両者を引き合わせた経緯を話しました。

対話のなかでは、互いの取り組みへの印象も交わされました。野村さんは当初、MAWの試みに対して「成果が出ないと続けられないのでは」と懐疑的だったことを告白。しかし実際には多くの派生事業が生まれ、県外の作家からも注目を集めている現状を前に、その成果を率直に称賛しました。

一方、立石さんは、野村さんの発表の言葉に対し、「わたしたちも似たことを考えているが、なかなか言語化できていなかった。そこを丁寧に言葉にされている」とコメント。野村さんは自身が「言葉に対してフェティッシュなこだわりがある」と応答するとともに、言葉を磨くことは行政への説明のためだけでなく、これから現れるであろう次の担い手たちを刺激し、まだ見ぬ人々に届けるための「祈り」のようなものだと語りました。

言葉にすることの重要性を指摘する立石さん(右)。

議論はさらに、地域や行政とどう協働するかという具体的な戦略へ。立石さんは、市町村の文化担当者との温度差を感じることもあるとした上で、あえて企画、観光、移住といった他部署へアプローチする戦略を取っていることを紹介しました。「マイクロ・アート・ワーケーション」という名称も、コロナ禍のなか、関係人口の創出や移住促進に関心のある層に刺さるよう意図されたものだと言い、自身も移住関連の協議会などに登録して地道に顔を出し、思いを伝えるコミュニケーションを重ねているとしました。

これに野村さんも、行政内では「文化芸術=プロフェッショナルや愛好者のもの」という固定観念があり、詳しくない行政職員にとってコミュニケーションが難しいという実情を指摘。こうした現状に対しては、真正面から文化を説くのではなく、「地域づくり」や「リソースの開拓」という文脈で対話することで、移住施策などを入り口に関係を築くことができると語ります。

多様な入り口を意識しているという野村さん。

さらに野村さんは、人口減少に伴う施設の老朽化や専門人材不足といった課題に対し、信州ACが市町村職員の「聞き役」になりつつあるという変化も紹介しました。文化部署の職員が抱える「どこに吐き出せばいいかわからない悩み」をただ聞く。そうして心理的なハードルを下げ、課題を共有し合う伴走の関係をつくることが、事業での協働に向けた遠回りのようで確実なステップになっていると、現場のリアルな知見を共有しました。

休憩を挟み、事前に配布した質問用紙が会場から集められた。

ラウンドテーブル
現場のリアルな言葉のなかに、想定外の成果や説得力がある

イベントの最後に、「すみゆめ」の荻原さんも加え、全員でのラウンドテーブル・ディスカッションが行われました。

ラウンドテーブルの登壇者、左から荻原康子さん、ゲストの野村政之さん、若菜ひとみさん、立石沙織さん、進行役の佐藤李青。

各地の実践を聞いた荻原さんは、若菜さんの「自分がいなければ回らない場は脆い」という言葉に共感したと語り、属人的な活動の弱さと、地域の人々が主体性を獲得するプロセスの重要性をあらためて強調しました。また、墨田区が掲げる「地域力」というキャッチフレーズに触れ、その定義は「地域の人たちが地域の課題を自分たちで解決できる力」であり、これはまさにこの日議論された「自走」につながる視点だと指摘しました。

一方、荻原さんが「墨田とみなさんの抱えるエリアでは規模が違う」と活動エリアの広さの違いにも言及すると、野村さんも、基礎自治体は市民の要望に直接答えなければならない距離感の近さがあり、県レベルの中間支援とは求められる機能が異なると述べました。

ラウンドテーブルによるセッションがスタート。

会場からは、「中間支援は文化芸術に関心がある人だけのものと誤解されないか?」「成果をどう多方面に伝えているのか?」という質問が届きました。その議論の端緒として佐藤は、MAWで旅人やホストが書くnoteに着目。「図などで説明するより、『あの人とあの人が出会って何かをやった』という具体的なエピソードの方が伝わる」と指摘します。

会場から寄せられた質問を読み上げる、東京アートポイント計画プログラムオフィサーの佐藤李青。

それを受けて立石さんは、膨大なnote記事から担当の若菜さんが言葉を丁寧に拾い上げている現状を紹介。開始当初は「アーティストと地域住民の出会いを創出すること」を目的に、具体的な事業のゴールは設定せずはじめましたが、「事業のゴールを設定しなかったからこそ、さまざまな成果が生まれたとも言える」と振り返ります。若菜さんも、上司からの「noteの言葉は宝物だから要約せずに原文のまま載せた方がよい」という助言を紹介し、旅人の言葉に含まれる変化の萌芽こそを成果として捉えていると語りました。

note記事の言葉の大切さを実感していると、若菜さん(左)、立石さん(右)。

一方、野村さんは成果指標に「関係団体数」を挙げ、移住者などの流入により担い手層が厚くなっている現状を共有。また、議員や行政が感じる課題(伝統文化の継承など)に対して先手を打って事業を行うことで、「アーツカウンシルがあってよかった」という信頼を獲得し、細かい説明が不要になる関係を築いていると明かしました。

プロセス重視のアートプロジェクトでは、ものごとが流れ、気づけば魅力的な写真や言葉を残しておらず、報告において困ることもあります。そこで、報告の工夫に話題が移ると、若菜さんは、MAWでは「地域向け」と「関係者向け」の2段階の報告会を設定していると紹介。前者では、ホストに地域案内や住民との意見交換会だけを依頼して、形式は指定せず、飲み会に展開することもある一方、後者ではホスト全員が集まるオンライン座談会を実施し、運営の悩みや方法論の共有を図り、気づきが生まれやすい場にしていると言います。

荻原さんは、「すみゆめ」では毎月開催する「寄合」がその機能を果たしていると説明。そこでは進捗報告だけでなく、悩みの共有や相互の手伝いが自然に発生することも。最終的な報告会でも、成果だけでなく課題を掘り下げ、「想定外のエピソード」を丁寧に拾い上げることを重視しており、それが想定を超えた成果の発見につながっていると語りました。

「想定外のエピソード」に注目している、と荻原さん。

与えられた関係ではなく、地域の自発性から、未来の土壌を育てる

続いて佐藤は、「伴走支援の具体的なコツ」に関する質問を取り上げました。「資金はほしいが口出しはされたくない団体との距離感」「主体性の芽を摘まないかかわり方」「『待つ』際の確信のもち方」など、現場の切実な悩みに、登壇者が実践知を共有しました。

野村さんは、「地域で活動する人は意外と孤立している」という実感を語りました。だからこそ、採択後のヒアリングでは、かれらが何をおもしろがり、何を達成したいのかにあらゆる角度から耳を傾け、「理解しようとする姿勢」を示すことに尽きると言います。「見てほしいときに現場に立ち会っている」という経験の共有こそが信頼関係のベースであり、常に誰かが見ている状態をつくる、「応援の網の目」を広げる必要があると述べます。

現場に立ち会う経験の共有こそが信頼関係のベースだと野村さん(左)。

他方の立石さんは、これまでは「アセスメントシート」を作成し、AC側が設定した6つの評価軸で目標をすり合わせていたものの、内部から「枠にはめるのはやめよう」という声が上がり、次年度から廃止する経緯を明かしました。現在は、各団体が事業計画書のなかで自ら設定した「地域社会における課題」を起点に、対話を通じてその解像度を高めるプロセスを重視していくと言います。

関与の度合いについては、各組織とも適度な距離感が重要という認識で一致しました。荻原さんは、「すみゆめ」は企画実現が前提のプロジェクトゆえ性格が異なるとしつつも、担当者のスキル等に合わせて「おせっかい」の度合いを調整。継続参加している団体に対しては、徐々に自走フェーズへ移行するよう促していると言います。

また、佐藤から「事務局が団体とコミュニケーションをとる際、面と向かった対話だけが本音を聞き出すかたちなのか」という問いかけがあると、若菜さんはユニークな「背後霊方式」を紹介。団体に対して正面から問うのではなく、周囲で交わされる何気ない会話から、公式な場では出てこない本音や迷いを拾い上げることができると話します。加えて、事業の成功が地域のどんな姿につながるかを団体自身に言語化してもらう重要性についても触れました。

最後に、会場から寄せられた「つなぎ手の人材育成やノウハウの共有」に関する質問を皮切りに、議論は組織のあり方や「伴走」という言葉の問い直しへと展開しました。

若菜さんは、チーム内で知見を共有する場の重要性を強調。ディレクターからの「この課題ならあの人につなげられる」といった具体的な助言が、マネジメントの助けになっていると言います。一方、野村さんは「人材育成は基本的にOJT(現場実践)」とし、現場のプレイヤーから学び取るプロセスこそが育成だと指摘。内部育成の限界を見据え、地域で人材を増やす「文化共創パートナー」の仕組みに舵(かじ)を切っていると話します。

現場で得たユニークなノウハウを披露する若菜さん(左)、立石さん(右)。

また、佐藤が「伴走者・支援者という言葉は関係性を固定化する。『パートナー』の方が対等な響きがある」と投げかけると、野村さんは「伴走」の語がもつ「ともに走り続けなければならない」という罠(わな)に言及。重要なのはプロジェクトの存続ではなく、その機能や役割の持続だと強調しました。立石さんも、団体はACが実現したいことの一端を担ってくれている共創相手であるという、リスペクトの意識が不可欠であると話しました。

内部リソースの限界と、地域につなぎ手を増やす必要性は登壇者共通の認識です。荻原さんは、そのために地域のネットワークを把握し、頼れる先をもっておくこと、つまり「自分たちの限界を知り、地域に委ねる」ことの重要性を説きました。

他方、最後に野村さんは、公的機関の役割を再定義しました。「現場の活動を言語化・価値化し、アーカイブに残すことは、公的資金を使う我々の責務」と述べ、伴走者として現場に立ち会うからこそ可能な記録と継承の重要性を訴え、トークを締めくくりました。

未来の共創相手とつながり、成果を急がず、自走するネットワークを育むこと。3地域の事例からは、他者の自発性を信じて委ねることこそが、つなぎ手に求められる大切な態度であることが感じられました。芸術文化を媒介に、誰もが誰かの伴走者になり得る豊かな土壌をどう耕すか。そのための具体的な知恵と覚悟が共有された一日となりました。

レポート前編はこちら>
「信頼」の先に広がる、自走的な活動とネットワーク。3地域の事例から「つなぎ手」とパートナーの関係を考える(APM#17 前編)