レクチャー1「徹底解体!アートプロジェクト」|ナビゲーターメッセージ(北澤潤)
BACK「思考と技術と対話の学校」のレクチャーシリーズ「徹底解体!アートプロジェクト」が7月25日より開講します。アートプロジェクトを表現と、それを支える仕組みや環境という2つの視点を軸に約30年の歩みを振り返ります。
シリーズのナビゲーターのひとり、北澤潤さんよりメッセージが届きました。今回のレクチャーシリーズでは、会場のROOM302に、一時的なスタディルーム(STUDY ROOM)の立ち上げも試みます。いま、なぜ、このレクチャーシリーズが必要なのか、という問題意識が、これまでの経験からの実感をもって語られています。ぜひ、ご一読のうえ、この問題意識に共鳴する、より多くのみなさんのご参加をお待ちしております!
「アートプロジェクト」という言葉を使うことに躊躇しはじめた。
というか、最近はあまり使わないようにしている。
実は、「企て」というほど意図的ではなく、
もう僕らの中では地域で仕掛けることが普通の感覚だった、ように思える。
ただその現場で相対した人びとから求められるのは、
「こちら」の希求とは時にずれた、「明快な意味」だったりした。
その要求に折れず、大切なわからなさを保ったまま、
何かを伝えられる可能性がある言葉として積極的に選択した言葉が
「アートプロジェクト」だったことは間違いがない。
その当時、僕らは「わからなさ」のなかを漂っていた。
それが単純に面白かった。
「アートプロジェクトがわかってしまった」ことが原因だと思う。
それは個々人だけでなく、「社会が」わかってしまっている。
もはや、この単語にこだわる必要はないと思う。
むしろ、言葉と現場、もしくは批評や評価の実践によって
逆に生成されてきた境界線、そのバウンダリーへ
意識を向けるときかもしれない。
越境しうるほどの意味がアートプロジェクトにあったのか、
と自問することからこの10年が別の意味に変わる気もする。
あらためて振り返ってみてもいい。
さまざまなアーティストたちの言葉や試み、
マネジメントの現場やプロデュースの手法、
アートの形式の変容と社会の移り気な要請。
そしてアートプロジェクトをつくってきた自分自身の実践。
そんな態度が、ときどき必要だ。
だから、思い立ったときに立ち上がる「ひらかれた自習室」
をつくってみることにした。
はじめてみるには悪くないタイミングだと思っている。
北澤潤
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